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2020年5月16日土曜日

同じ場所に、異なる時刻に提示された2つのイメージ間の競合における「注意の瞬き」という現象は、能動的な「注意」の同時処理の限定性とを示す。一時的に意識が飽和することで、イメージを不可視化したのである。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

注意の瞬き

【同じ場所に、異なる時刻に提示された2つのイメージ間の競合における「注意の瞬き」という現象は、能動的な「注意」の同時処理の限定性とを示す。一時的に意識が飽和することで、イメージを不可視化したのである。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

(2)追加。

(1)同時に提示された2つのイメージ間の競合
  両眼視野闘争と連続フラッシュ抑制は、十分に知覚できるほど長い時間与えられた視覚イメージであっても、注意によって選択されなければ、意識的経験から完全に排除され得ることを示している。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

 (1.1)両眼視野闘争
  (a)両目のそれぞれに知覚可能なイメージを同時に提示すると、実際には一方のイメージのみが知覚される。
  (b)能動的な注意の存在
   両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
 (1.2)連続フラッシュ抑制
  二つのイメージのうちの一方を恒久的に視野から消すことができる。これは、他方の目に鮮やかな色の長方形を連続してフラッシュ(一瞬表示させること)すると、そちらのイメージの流れのみが見えるようになる。

(2)同じ場所に、異なる時刻に提示された2つのイメージ間の競合
 (2.1)注意の瞬きという現象
  (a)実験方法
   コンピュータ画面の特定の場所に、一連のシンボルが表示される。シンボルのほとんどは数字だが、なかには文字もあり、被験者は文字を覚えておくように指示される。
  (b)実験結果
   最初の文字は容易に覚えられる。0.5秒後に2番目の文字が出現すると、それも正確に記憶される。しかし、2番目の文字がほとんど間を置かずに出現すると、それはしばしば完全に見落とされる。被験者は一文字しか見ていないと報告し、実際には二つ表示されたことを知らされると驚く。最初の文字に注意を向ける行為は、二番目の文字の知覚を阻害する一時的な「心の瞬き」を生む。
  (c)能動的な注意の存在
   ただ単に受動的に目を向けていると、すべての数字や文字を「見ている」気がする。
 (2.2)無意識的な入力の存在は脳画像法で確認できる
  脳画像法を用いれば、無意識的なものも含めてすべての文字情報が脳に伝達されていることを確認できる。それらはすべて、視覚の初期過程を司る領域に達しており、また奥深くまで到達してターゲットとして分類されていることすらある。
 (2.3)注意の容量の存在、意識の飽和
  (a)注意は、同時に対処できるイメージの数が限定されている。
  (b)ある一つの文字を記憶に登録する処理は、他の文字が不可視になる一時的な期間を作り出すのに十分なほど長時間、意識というリソースを独占するのである。すなわち、一時的に意識を飽和させることで、イメージが不可視化される短い期間を作り出せる。

 「このように、注意は同時に対処できるイメージの数を限定する。この制限はさらに、コンシャスアクセスの最小の対比を変える。いみじくも「注意の瞬き」と呼ばれる方法を用いると、一時的に意識を飽和させることで、イメージが不可視化される短い期間を作り出せる。図5は、この瞬きが生じる典型的な条件を示す。コンピュータ画面の特定の場所に、一連のシンボルが表示される。シンボルのほとんどは数字だが、なかには文字もあり、被験者は後者を覚えておくように指示される。最初の文字は容易に覚えられる。0.5秒後に2番目の文字が出現すると、それも正確に記憶される。しかし、2番目の文字がほとんど間を置かずに出現すると、それはしばしば完全に見落とされる。被験者は一文字しか見ていないと報告し、実際には二つ表示されたことを知らされると驚く。最初の文字に注意を向ける行為は、二番目の文字の知覚を阻害する一時的な「心の瞬き」を生むのだ。
 脳画像法を用いれば、無意識的なものも含めてすべての文字情報が脳に伝達されていることを確認できる。それらはすべて、視覚の初期過程を司る領域に達しており、また奥深くまで到達してターゲットとして分類されていることすらある。かくして脳の一部は、いつターゲットの文字が提示されたかを「知る」。しかし、この知識は何らかの理由で意識にのぼらない。意識的に知覚されるには、文字は、気づきへと登録する処理の段階まで達しなければならない。この登録処理は、極度に限定されるらしい。つまり、いかなる時点でも、一つの情報のみがその過程を通過でき、視野に存在するそれ以外のすべての情報は、知覚されずに取りこぼされる。
 両眼視野闘争は、同時に提示された二つのイメージ間の競合を明らかにする。それに対し注意の瞬きでは、類似の競合が、同じ場所に提示された二つのイメージ間で継時的に生じる。意識の働きはきわめて緩慢なので、ときに画面にイメージが表示される速度についていけなくなる。ただ単に受動的に目を向けていると、すべての数字や文字を「見ている」気がするが、ある一つの文字を記憶に登録する処理は、他の文字が不可視になる一時的な期間を作り出すのに十分なほど長時間、意識というリソースを独占するのである。意識を備えた心の要塞は、心的表象を互いに争わせるほど狭い跳ね橋を、その前面に備えているのだ。こうしてコンシャスアクセスは、入力に対して非常に狭い隘路を課す。」

図5(p.53の図5の説明を参考に、趣旨を変えずに書き換えてある。)

(a)Mは記憶できるが、Tは約30%しか見えない。
397M4T8162
┴┴┴┼┴┼┴┴┴┴ 
   │ │
   200ms

(b)Mは記憶できるが、Tは約30%しか見えない。
397M46T816
┴┴┴┼┴┴┼┴┴┴
   │  │
    300ms

(c)Mは記憶できるが、Tは40~50%しか見えない。
397M462T81
┴┴┴┼┴┴┴┼┴┴
   │400ms │

(d)Mは記憶できる。Tも約70%記憶できる。
397M4624T8
┴┴┴┼┴┴┴┴┼┴
   │500ms  │

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.51-52,高橋洋(訳))
(索引:注意の瞬き,意識の飽和,注意,能動的な注意,不可視化)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)
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2020年5月3日日曜日

両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

両眼視野闘争

【両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

 「両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それともどちらのイメージが戦いに勝利するかを意識的に決められるか? 争う二つのイメージを知覚する際、とめどないイメージの交替に、私たちはまったく受動的に従っているかのような印象を受ける。しかしこの印象は誤りであり、皮質における闘争の過程では注意が重要な役割を果たす。そもそも、どちらか一方のイメージ、たとえば建物より顔に注意を集中すると、そのイメージはいくぶん長い期間見え続ける。とはいえその効果は弱い。要するに、二つのイメージ間の闘争は、私たちのコントロールが及ばない段階からすでに始まっているのだ。
 しかしより重要なことに、勝者の存在自体は、私たちがそれに注意を向けることに依存する。つまり、戦いの舞台そのものは、意識を持つ心で成り立つ。その証拠に、二つのイメージが提示される場所から注意をそらすと、イメージの闘争は停止する。
 どうしてそれがわかるのか? 気を散らせている人にその状態で今何を見ているかを、もしくは二つのイメージが依然として交互しているかどうかを訪ねても意味はない。答えるためには、その場所に注意を向けねばならないからだ。注意を喚起せずに知覚の程度を見極めようとしても、無益な循環を引き起こすだろう。それは、鏡で自分の目の動きを確かめようとしたときと似ている。疑いなく目は始終動いているが、鏡でそれを確認しようとすれば、まさにその試みによって目は静止してしまう。これまで長いあいだ、注意を喚起せずに両眼視野闘争を調査する試みは、誰もいない森のなかで倒れる木の音や、眠りに落ちたまさにその瞬間の感覚について尋ねるのと同じように、自己矛盾を孕むと見なされてきた。
 しかし、ときに科学は不可能を可能とする。ミネソタ大学のパン・チャンらは、被験者に質問せずにイメージの交替を調査できることに気づいた。二つのイメージが競い合っているか否かを示す脳の徴候を見出しさえすればよいのだ。彼らはすでに、両眼視野闘争が続くあいだ、いずれかのイメージに反応してニューロンが交互に発火することを知っていた。被験者の注意を喚起せずに、それを測定できるだろうか? チャンは、特定のリズムで明滅させることで各イメージを標識づける、「周波数標識法」と呼ばれる技術を用いた。二つの異なる周波数標識は、頭部に装着した電極を通して記録される脳波図によって拾える。両眼視野闘争が続くあいだ、二つの周波数は排除し合う。一方の振動が強ければ、他方は弱い。これは、一時には一つのイメージしか見えない事実を反映する。しかし被験者が注意を欠いているときには、これらの競合は停止し、二つの標識は独立して同時に生じる。注意の欠如は闘争を妨げるのだ。
 純粋な内省を用いた他の実験でも、この結論は確認されている。競い合うイメージから注意を一定期間そらすと、注意を戻したときに知覚されるイメージは、その期間イメージが交替し続けてきた場合に知覚されるはずのものとは異なる。かくして、両眼視野闘争は注意に依存することがわかる。意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.49-51,高橋洋(訳))
(索引:両眼視野闘争)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

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2018年8月14日火曜日

両眼視野闘争と連続フラッシュ抑制は、十分に知覚できるほど長い時間与えられた視覚イメージであっても、注意によって選択されなければ、意識的経験から完全に排除され得ることを示している。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

両眼視野闘争と連続フラッシュ抑制

【両眼視野闘争と連続フラッシュ抑制は、十分に知覚できるほど長い時間与えられた視覚イメージであっても、注意によって選択されなければ、意識的経験から完全に排除され得ることを示している。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

十分に知覚できるほど長い時間与えられた視覚イメージであっても、注意によって選択されなければ、意識的経験から完全に排除され得る。次のような現象が存在する。
(a)両眼視野闘争
 両目のそれぞれに知覚可能なイメージを同時に提示すると、実際には一方のイメージのみが知覚される。
(b)連続フラッシュ抑制
 二つのイメージのうちの一方を恒久的に視野から消すことができる。これは、他方の目に鮮やかな色の長方形を連続してフラッシュ(一瞬表示させること)すると、そちらのイメージの流れのみが見えるようになる。

(再掲)
無数の潜在的な知覚情報と記憶から、まず気づきの外で情報選択がなされ、注意によってある項目が意識にのぼる。特定の一時点においては、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない。

意識的感覚
 ↑
どちらか一方のイメージのみが勝ち残る。
意識は同じ場所に位置する二つの対象を同時にとらえることができない。
 ↑
無数の潜在的な知覚情報が、意識による気づきを求めて絶え間なく争っている。
 ↑
両方の可能性が依然として認められる視覚処理の末梢的、初期的な段階

 「今日でも両眼視野闘争は、意識的経験の基盤をなす神経メカニズムを探究するための格好の素材になる。この現象を用いた何百もの実験が行われ、さらに多くのバリエーションが開発されている。たとえば、「連続フラッシュ抑制」と呼ばれる新たな方法によって、二つのイメージのうちの一方を恒久的に視野から消すことができる。これは、他方の目に鮮やかな色の長方形を連続してフラッシュ(一瞬表示させること)すると、そちらのイメージの流れのみが見えるようになる、というものである。
 両眼視野闘争を利用する意味はどこにあるのか? それは、次のような事実を教えてくれる。目に長期間視覚イメージを提示し、その情報が視覚処理を司る脳の領域に伝えられたとしても、そのイメージは意識的経験から完全に排除され得る。両目のそれぞれに知覚可能なイメージを同時に提示すると、実際には一方のイメージのみが知覚される両眼視野闘争によって、意識にとって重要なのは、両方の可能性が依然として認められる、視覚処理の末梢的、初期的な段階ではなく、どちらか一方のイメージのみが勝ち残る、もっとあとの段階であることがわかる。意識は同じ場所に位置する二つの対象を同時にとらえることができないために、脳は激しい競争の場になり、私たちのあずかり知らぬところで、二つのみならず無数の潜在的な知覚情報が、意識による気づきを求めて絶え間なく争っているのだ。そして、ある時点をとりあげると、それらのうちのどれか一つしか意識の舞台にのぼれない。闘争という表現は、コンシャスアクセスを求めているこの争いのメタファーとしてまったくふさわしい。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.48-49,高橋洋(訳))
(索引:両眼視野闘争,連続フラッシュ抑制)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

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2018年8月12日日曜日

無数の潜在的な知覚情報と記憶から、まず気づきの外で情報選択がなされ、注意によってある項目が意識にのぼる。特定の一時点においては、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

意識と、無数の潜在的な情報

【無数の潜在的な知覚情報と記憶から、まず気づきの外で情報選択がなされ、注意によってある項目が意識にのぼる。特定の一時点においては、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

(4)ある項目が意識にのぼり、心がそれを利用できるようになる。私たちは基本的に、特定の一時点をとりあげれば、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない。それらは、言語システムや、その他の記憶、注意、意図、計画に関するプロセスの対象として利用可能になる。そして、私たちの行動を導く。
 ↑
(3)意識は能力が限られているため、新たな項目にアクセスするには、それまでとらえていた項目から撤退しなければならない。新たな項目は、前意識(preconscious)の状態に置かれ、アクセスは可能であったが、実際にアクセスされていなかったものだ。また、どの対象にアクセスすべきかを選択するのに、注意が意識への門戸として機能する。
 ↑
(2)顕著さの度合い、あるいはそのときの目的に応じて、ほとんどは気づきの外で、必要な情報が選択される。
 ↑
(1)私たちの環境は無数の潜在的な知覚情報に満ちあふれている。同様に、私たちの記憶は、次の瞬間には意識に浮上する可能性がある知識で満たされている。

 「コンシャスアクセスは、はなはだオープンであるとともに、過度に選択的でもある。これは次のような意味だ。コンシャスアクセスの《潜在的な》上演目録は巨大で、人は誰でも、いかなる瞬間にも、注意の焦点を切り替えれば、色、匂い、音、記憶の欠落、感情、戦略、間違い、さらには「意識」という用語の複数の意味にも気づける。間違いを犯せば、《自意識的》にもなる。つまり自分の感情、戦略、間違い、後悔が意識にのぼる。しかし、いついかなる時点でも、意識の《実際の》上演内容は大幅に限定される。私たちは基本的に、特定の一時点をとりあげれば、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない(とはいえ、文章の意味を考えているときなど、一つの思考は複数の部分から構成される「かたまり」でもあり得る)。
 意識は能力が限られているため、新たな項目にアクセスするには、それまでとらえていた項目から撤退しなければならない。私たちは、読書を数秒間中断することで、足の位置に気づき、ここが痛い、あそこがかゆいなどと感じる。こうしてこれらの知覚は意識される。だが数秒前には、それらは《前意識》(preconscious)の状態に置かれ、アクセスは可能であったが、実際にアクセスされていなかった。つまり無意識の広大な保管庫で眠っていたのだ。これは必ずしも、それらがいかなる処理の対象にもなっていなかったことを意味するわけではない。たとえば、私たちは常時、身体から送られてくるシグナルに反応して無意識のうちに姿勢を変えている。しかしコンシャスアクセスは、心がそれを利用できるようにする。それらは突如として、言語システムや、その他の記憶、注意、意図、計画に関するプロセスの対象として利用可能になるのだ。」(中略)「ジェイムズの定義は、把握可能な多くの思考の断片のなかからただ一つを分離するという、それとは異なる概念を含む。これを「選択的注意」と呼ぼう。いついかなるときにも、私たちの環境は無数の潜在的な知覚情報に満ちあふれている。同様に、私たちの記憶は、次の瞬間には意識に浮上する可能性がある知識で満たされている。このような状況に起因する情報オーバーロード(情報過多のために必要な情報が埋もれてしまい、意思決定が困難になる状態)を回避するために、脳システムの多くは、ある種のフィルターを備える。無数の潜在的な思考のなかでも、私たちが注意と呼ぶ、きわめて複雑なふるいにかけられて選択された、ごく一部のみが意識に到達するにすぎない。脳は不要な情報を容赦なくふるい落とし、顕著さの度合い、あるいはそのときの目的に応じて、たった一つの意識の対象を分離するのだ。そしてこの刺激は増幅され、私たちの行動を導く。
 ならば明らかに、注意の選択的な機能の、すべてではないとしてもほとんどは、気づきの外で機能しているものと考えられる。そもそも、すべての潜在的な思考対象を、まず意識の力で選り分けなければならないとしたら、思考することなど不可能になるだろう。注意のふるいはおもに無意識のうちに作用し、コンシャスアクセスからは分かたれる。もちろん日常生活では、環境はたいがい刺激に満ちているので、どの対象にアクセスすべきかを選択するのに、私たちは十分に注意を払わねばならない。このゆえに、注意はときに、意識への門戸として機能する。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.36-38,高橋洋(訳))
(索引:意識,前意識,注意)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

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2018年8月9日木曜日

錯視を用いて意識的知覚を研究する利点:(a)コンシャスアクセスに焦点を絞る、(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作、(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

錯視を用いた意識的知覚の研究

【錯視を用いて意識的知覚を研究する利点:(a)コンシャスアクセスに焦点を絞る、(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作、(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

 錯視を用いて意識的知覚を研究する利点。
(a)コンシャスアクセスに焦点を絞ること。
(b)種々のトリックを用いた意識の自由な操作。
(c)主観的な報告を、純粋な科学データとして扱うこと。
 錯視は非常に主観的なもので、見ている本人しか経験できない。それにもかかわらず、結果は何度でも再現でき、誰にも同種の経験が得られる。

 「実のところ、クリックとコッホは新たな問題を提起したのだ。彼らに続いて、何十もの研究室が、先の例のような基本的な錯視を用いて意識を研究し始めた。これらの研究プログラムでは、次の三つの利点によって意識的知覚の実験が可能になった。第一に、錯視の説明は、意識に関する複雑な概念を必要としない。見ているのか見ていないのかという、私がコンシャスアクセスと呼ぶ経験に焦点を絞ればよい。第二に、よく知られた種々の錯視を研究に利用できる。これから見ていくように、認知科学者は、単語、画像、音、そしてゴリラすら思いのままに消滅させる何十ものテクニックを開発してきた。三点目は次のとおり。これらの錯視は非常に主観的なもので、たとえば先の例では、見ている本人しか、いつどの円が消えたかを言えない。それにもかかわらず、結果は何度でも再現でき、誰にも同種の経験が得られる。このように、私たちの気づきのなかで、現実に何か特異で魅力的な現象が生じることは否定しがたい。私たちにこの点を真剣に考慮すべきだ。
 「コンシャスアクセスに焦点を絞ること」「種々のトリックを用いた意識の自由な操作」「主観的な報告を純粋な科学データとして扱うこと」。これら三つの重要なアプローチによって、意識を科学の対象として扱えるようになった。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.34-34,高橋洋(訳))
(索引:錯視,コンシャスアクセス)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

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