2018年9月4日火曜日

14.初期誘発電位反応には、刺激の位置や感覚モダリティによって、5~40msの潜伏時間の違いがあるにもかかわらず、主観的には同時に意識される。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

感覚の意識的な同時性

【初期誘発電位反応には、刺激の位置や感覚モダリティによって、5~40msの潜伏時間の違いがあるにもかかわらず、主観的には同時に意識される。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

意識的な皮膚感覚
 ↑↑
 ││刺激の正確な位置と、
 ││発生タイミングを決める
 │└──────────────┐
事象関連電位(ERP)と呼ばれる  │
皮質の一連の電気変化       │
 ↑意識感覚を生み出すために、  │
 │500ms以上の持続が必要である。│
 │               │
皮膚領域が「投射する」感覚皮質の特定の小さな領域で、初期EP(誘発電位)が局所的に発生する。
 ↑短い経路で14~20ms、長い経路で40~50ms後。
 │
 │
単発の有効な皮膚への刺激パルス


初期EP(誘発電位)の発生タイミング
 (a)同じ体性感覚のモダリティの刺激でも、体の部位間の距離の違いによって、5~10ms(頭への刺激の場合)から、30~40ms(脚への刺激の場合)と差がある。
 (b)異なる感覚モダリティ間で、同期した刺激を与えた場合、たとえば、銃の発射音と閃光を知覚する場合。視覚は、時間がかかり初期誘発反応の遅延は、30~40msになる(網膜内の光受容体⇒次々と神経層を通る⇒神経節細胞⇒視覚神経線維⇒視床⇒視覚皮質)。
 (c)実験に当たっての注意事項1:身体の一つの部位へ非常に強い刺激が与えられた場合には、意識化に必要な脳の活動は極めて短い持続時間になる。この脳活動時間の差は、100~200msに及ぶ。これは、同時には感じられない(推測)。
 (d)実験に当たっての注意事項2:皮質の表面に設置した電極で記録ではなく頭皮の記録で見られる最も速い大きな電位は、初期誘発電位反応ではなく、より遅いコンポーネントの反応である。このコンポーネントは、初期誘発電位反応よりも50~100ms長い潜伏期間がある。

 「感覚の意識的な同時性 このことによって、実際に同調して与えられたさまざまな刺激が、どのように同調しているものとして意識的に感じられるかについて、重要で一般的な疑問が起こります。同じ体性感覚のモダリティの中で刺激を与えても、刺激を与える体の部位間の距離の違いによって、感覚経路の伝導時間が異なります。感覚メッセージの最も速い到達時間は、5~10ミリ秒間(頭への刺激の場合)から、30~40ミリ秒間(脚への刺激の場合)とばらつきがあります。(にもかかわらず)これら二つの部位への同調した刺激は、主観的には同調しているものとして感じられますから、30ミリ秒間程度の時間差は、主観的には重要ではないと考えるしかありません。その一方、身体の一つの部位へ非常に強い刺激が与えられた場合、(意識化に必要な)脳の活動は極めて短い持続時間ですみます。二つの異なる強さの刺激間での、この脳活動時間の差は、100~200ミリ秒間ぐらいです。このような(強度の違う)二つの刺激について、主観的な相対タイミングが研究されたことがあるかはわかりません。おそらく、同調したものとして感じられなかったのではないかと思います。いずれにしても、極めて短い脳の活性化時間で十分であるほどの強い刺激は、普通には起こりにくいと思われます。
 それでは、異なる感覚モダリティ間で同期した刺激を与えた場合は、どうでしょうか? たとえば、銃を発砲して、発射音と閃光の両方が同時に現われる場合を考えます。もちろん、光は音よりも早く直進します。しかし、もし銃がほんの数フィート(1メートル弱)の距離で発砲されていたら、その移動時間の差はあまり重要ではありません(秒速1100フィート(約330メートル)のスピードだと、音は2フィート(約0.6メートル)離れた聞き手のところに約2ミリ秒で届きます)。身体への体性感覚刺激と同様、視覚刺激と聴覚刺激もまた、視覚皮質と聴覚皮質にそれぞれ速い初期誘発電位反応を引き出します。速い信号が視覚皮質へ届くための潜伏時間、または遅延時間は、他の感覚モダリティと比べて明らかに長くなります。それはなぜかと言うと、網膜内で光受容体から次々と神経層を通るのに余分に時間がかかり、それからようやく神経節細胞が発火し、視覚神経線維を経由して視床を通って視覚皮質へと神経インパルスを送るからです。ゴフら(1977年)の計測によれば、ヒトの脳における視覚の初期誘発反応の遅延は、30~40ミリ秒間です。
 すべての感覚皮質部位において、初期誘発反応は、現在刺激を受けている末梢感覚地点または領域を表す小さな部位に限局されています。実際、皮質の表面に記録電極を設置してみると、感覚刺激に反応する末梢感覚要素からの速い入力を受ける皮質の「ホットスポット」でのみ、かなり強い初期誘発電位反応が記録されるのです。初期誘発電位反応は、頭皮につけた電極による記録では通常、はっきりと見出すことができません。なぜなら、電極がホットスポット上に設置されるとは限らないというだけではなく、局所的な皮質部位で生じる電位が皮質と頭皮の間にある組織の中で「ショートする」ことによって弱化し、大きく削減されるからです。その結果、頭皮の記録で見られる最も速い大きな電位は、(皮質の表面に設置した電極で記録した場合と違って)刺激への反応のうちでより遅いほうのコンポーネントとなります。このコンポーネントは、初期誘発電位反応よりも50~100ミリ秒間長い潜伏期間があり、さまざまな同時刺激における同期という問題を考える際には、これより後のタイミングで考えると間違える恐れがあります。
 どちらにしても、真の初期誘発電位反応には、刺激の位置や感覚モダリティによって、5~40ミリ秒間の潜伏時間があります。にもかかわらず、もしすべての同時に与えられた刺激が、主観的に同期していると感じられるならば、この範囲の潜時のばらつきが主観的に重要であるとは脳は「考え」ない、と推測しなければならないでしょう。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.80-82,下條信輔(訳))
(索引:感覚の意識的な同時性)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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14.世界2は、世界3と直接的に相互作用する。例として、(a)新しい問題の発見と解決、(b)例として数学の問題と証明、(c)例として数学における無限の概念、(d)例として言語の「意味」の理解。(カール・ポパー(1902-1994))

世界2と世界3の相互作用

【世界2は、世界3と直接的に相互作用する。例として、(a)新しい問題の発見と解決、(b)例として数学の問題と証明、(c)例として数学における無限の概念、(d)例として言語の「意味」の理解。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.4.4)追加記載

 (b2.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ具現化する。
 (b2.4.1)世界3の符号である世界1の対象は、いかに世界2により働きかけられるにしても、それ自体は世界1の対象であるから、世界1の諸法則に従って生成・変化する。また世界2は、いかにそれが自ら固有の法則に従って働きかけるかのように見えようが、世界1の諸法則に支えられている。世界2は、最初に直接的に、世界1の諸法則には服さない世界3との関係を持つことなしには、世界1の因果関係から逃れることはできない。

 (b2.4.2)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1へ具現化する。

 時間1 世界1・P1           (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │             │┌───┘
  ↓    ↓             ↓↓
 時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌──────────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3⊃世界1・S3⇔世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 (b2.4.3)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。

 時間1 世界1・P1     (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │         │┌───┘
  ↓    ↓         ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3 世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 (b2.4.4)(b2.4.2)が正しいことの理由。
 (b2.4.4.1)世界2が、未だ世界3のなかに表現されておらず、したがって当然、世界1には存在しない新しい問題を発見したり、問題への新しい解決を発見するときのような創造的行為を考えると、世界2が必ず世界1を経由するということは、誤りではないかと思われる。
 (b2.4.4.2)例として、数学の問題を発見し、証明する過程。
  (i)最初に問題を感じ、問題の存在に気づく。あるいは、証明の考案がなされる。
  (ii)次に、(i)が言語で表現される。
  (iii)明確化し、証明の妥当性を批判的に調べるため、世界1の表現に具現化される。
 (b2.4.4.3)例として、数学における無限の概念は、世界1、世界2に具現化されなくても、直接把握される。論証のための表現は世界1、世界2に具現化されるが、概念そのものは直接把握されるように思われる。
 (b2.4.4.4)例として、私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符号化、具現化されたものを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われる。

 「ここでの私の要点は、われわれは、問題となっている世界3の観念を把握するためには、世界3の観念を世界1で表現する(例えば、大脳の構成要素によるモデル)必要はない、ということです。

世界2による世界3の対象の直接把握の可能性についてのテーゼは(無限系列のような世界3の無限の対象のみではなく)一般に正しいと私はみなします。

でも、無限の対象の例は、私の考えでは、世界3の対象を世界1で表現する必要のないことを明白にしてくれます。

われわれは、もちろん永久に続く(任意の中間結果に1を加えるような)操作をプログラム化したコンピュータを作れるでしょう。でも、

(1)コンピュータは実際には永久に続くのではなく、有限時間内に尽きてしまいます(あるいは、すべての利用可能なエネルギーを消費してしまいます)。

(2)もしそのようにプログラムされていれば、途中結果の系列は伝えますが、最終結果は伝えないでしょう。(仮無限という世界3の観念の(有限の)物理モデルないし表現はありません。)

 世界3の対象を直接把握することの論証は、無限についての世界1の表現が存在しないことには依存しません。

決定的なことは私には次のように思えるのです。世界3の問題――例えば、数学の問題――を発見する過程で、われわれはそれが話し言葉、または書き言葉で表わされる前に、まず曖昧に問題を《感じ》ます。われわれはまずその存在に気づき、そして口頭の、または書かれた表示(いわば、随伴現象)を与えます。

そして、さらにそれを明確に、鋭くします。(この最後の段階でのみ、われわれは言語で問題を表現するのです。)これは作成し、照合し、また作成するという過程なのです。

 完成された世界3の証明はその妥当性について批判的に調べられねばならず、この目的のために、証明は世界1の表現――言語、望むべくは書き言葉――に移されなければなりません。

でも、証明の考案は世界2の世界3への直接操作――確かに、大脳の助けによるが、大脳に符号化された表現や世界3の対象の別の具体物からの問題または結果の読み取りを伴わない操作――でした。

 このことが示唆するのは、問題や新しい証明、またはその種のものいずれを問わず、新しい世界3の対象を作る世界2のすべてまたは大部分の創造的働きは、たとえ世界1の過程が伴うにしても、記憶や符号化された世界3の対象の読みとり以外のものでなければならない、ということです。

さて、これは非常に重要なことです。なぜなら、この種の直接接触はまた、世界2が符号化、具現化された世界3の対象を用いて、それらの符号化に対立したものとしての世界3の側面を直接みる仕方でもある、と考えられるからです。

これは、本を読む際、われわれがページの上の符号を飛び越して、直接意味を得る場合の方法なのです。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DXI章、(下)pp.781-782、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:世界2と世界3の相互作用)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年9月3日月曜日

28.身体と外界のすべてを反映している意識されない「原自己」、対象と原自己の変化を知り、自伝的記憶を意識化する「中核自己」、自伝的記憶の担い手である「自伝的自己」。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

原自己、中核自己、自伝的自己

【身体と外界のすべてを反映している意識されない「原自己」、対象と原自己の変化を知り、自伝的記憶を意識化する「中核自己」、自伝的記憶の担い手である「自伝的自己」。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

(1)原自己(proto-self)
 生命体の物理構造の最も安定した側面を、一瞬ごとにマッピングする別個の神経パターンを統合して集めたもの。原自己は、意識されない。
以下の構造からなる。
 (1.1)マスター内知覚マップ(器官、組織、内臓、その他内部環境の状態に由来する知覚)
 (1.2)マスター生命体マップ(身体の形、身体の動き)
 (1.3)外的に向けられた感覚ポータルのマップ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚の〈特殊感覚〉と、マスター生命体マップの一部である目、耳、鼻、舌を収めている身体領域とその動きの知覚)
  参照:原自己(アントニオ・ダマシオ(1944-))

(2)中核自己(core self)
 (2.1) 1次のマップに対応する内的経験
  (2.1.1)対象のマップの内的経験
   形成されたイメージである「対象」、例えば、顔、メロディ、歯痛、ある出来事の記憶など。
   対象は、実際に存在するものでも、過去の記憶から想起されたものでもよい。
   自伝的記憶も再活性化され、中核自己において意識化される。
   対象はあまりにも多く、しばしば、ほとんど同時に複数の対象が存在する。
  (2.1.2)原自己のマップの内的経験
 (2.2) 2次のマップに対応する内的経験(イメージ的、非言語的なもの)
  (2.2.1)何かしら対象が存在する。その対象を、知っている。
  (2.2.2)その対象が、影響を及ぼして、何かしら変化させている。その対象は注意を向けさせる。
  (2.2.3)何かしら変化するものが存在する。それは、ある特定の視点から、対象を見て、触れて、聞いている。
  参照:中核自己の誕生(アントニオ・ダマシオ(1944-))
(3)自伝的自己(autobiographical self)
 自伝的自己の基盤は自伝的記憶である。必要なときは、再活性化されてイメージとして、中核自己において意識される。
 (3.1)過去
 (3.2)予期される未来
 (3.3)アイデンティティや人格を記述している一連の記憶

「自伝的自己(autobiographical self)
 自伝的自己の基盤は自伝的記憶である。その自伝的記憶は、過去と予期される未来の個人的経験についての多数の内在的記憶からなる。

個人的伝記の不変的特徴が自伝的記憶の基盤を構成する。自伝的記憶は生活経験とともに連続的に増大するが、新しい経験を反映するために部分的に改編することができる。
 
アイデンティティや人格を記述している一連の記憶は、必要があるときはいつでもニューラル・パターンとして再活性化して、イメージとして明示的なものにすることができる。

再活性化された各記憶は「認識されるべきもの」として機能し、それ自身の中核意識のパルスを生み出す。その結果、われわれは自伝的自己を意識している。

中核自己(core self)
 中核自己は、ある対象が原自己を修正すると生じる、二次の非言語的説明の中にある。中核自己はいかなる対象によっても引き起こされる。中核自己を生み出す機構は一生涯ほとんど変化しない。われわれは中核自己を意識している。

原自己(proto-self)
 原自己は、脳の複数のレベルで有機体の状態を刻々と表象している、相互に関連しあった、そして一次的に一貫性のある、一連のニューラル・パターン。われわれは原自己を意識して「いない」。」

(アントニオ・ダマシオ(1944-),『起こっていることの感覚』,(日本語名『無意識の脳 自己意識の脳』),第3部 意識の神経学,第6章 中核意識の発見――無意識と意識の間,p.219,講談社(2003),田中三彦(訳))
(索引:自己の種類,自伝的自己,中核自己,原自己)

無意識の脳 自己意識の脳


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
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ブラックホールは非常に小さな温度を持つ。宇宙の指数関数的な膨張が続くと、やがて宇宙の温度があらゆるブラックホールの温度より低くなる。ブラックホールはエネルギーを放射するようになり、最後は消滅する。(ロジャー・ペンローズ(1931-))

ブラックホールの温度の宇宙の未来

【ブラックホールは非常に小さな温度を持つ。宇宙の指数関数的な膨張が続くと、やがて宇宙の温度があらゆるブラックホールの温度より低くなる。ブラックホールはエネルギーを放射するようになり、最後は消滅する。(ロジャー・ペンローズ(1931-))】

(1)一般相対論によれば、ブラックホールは完全に真っ黒でなければならない。
(2)一般相対論に場の量子論の効果を考慮すると、ブラックホールは非常に小さな温度Tをもたなければならない。(スティーヴン・ホーキング、1974年)
 太陽質量の10倍のブラックホールの温度は、6×10-9K
 銀河系の中心部にある太陽質量の400万倍だと、約1.5×10-14K程度
 これは、宇宙マイクロ波背景放射の約2.7Kと比べると、ブラックホールははるかに冷たい。
(3)ところが、宇宙の指数関数的な膨張が無限に続き、宇宙マイクロ波背景放射の温度がどこまでも下がっていくと、どうなるだろうか。
 (3.1)やがて、宇宙マイクロ波背景放射の温度が、宇宙に存在しうる最大のブラックホールの温度より低くなる。
 (3.2)ブラックホールは周囲の空間にエネルギーを放射するようになり、アインシュタインのE=mc2の式によれば、エネルギーを失うことで質量も失うことになる。
 (3.3)ブラックホールは質量を失いながら高温になり、信じられないほど長い時間をかけて少しずつ縮んでゆき、ついには「ポン」と爆発して消滅してしまう。(今日の最大級のブラックホールなら、おそらく10100年、つまり「1グーゴル年」程度)。

 「第16章では、ブラックホールのもう一つの特徴を論じるつもりだ。その特徴は、今日では非常に小さな効果しか及ぼさないが、究極的にはわれわれにとって非常に重要な意味をもつことになる。アインシュタインの一般相対論は古典物理学であり、この理論によれば、ブラックホールは完全に真っ黒でなければならない。けれどもスティーヴン・ホーキングは、1974年に行なった分析により、背景の曲がった時空における場の量子論の効果を考慮すると、ブラックホールは非常に小さな温度Tをもたなければならないことを明らかにした。この温度は質量に反比例する。たとえば、質量が10Mのブラックホールの温度は6×10-9K程度となるが、これは、2006年にマサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームが達成した最低温度の記録(約10-9K)に近い、非常に低い温度である。今日のブラックホールはだいたいこの程度の温度だろうと考えられていて、まだまだ温かいほうだ。より大きなブラックホールはもっと低温で、銀河系の中心部にある質量約400万Mのブラックホールの温度は約1.5×10-14K程度しかないと考えられている。われわれを取り巻く宇宙の温度、すなわち、現時点の宇宙マイクロ波背景放射は約2.7Kなので、ブラックホールに比べればはるかに高温だ。
 それでも、もっと長い目でものごとを見るようにして、宇宙の指数関数的な膨張が無限に続き、宇宙マイクロ波背景放射の温度がどこまでも下がっていくと考えるなら、その温度は宇宙に存在しうる最大のブラックホールの温度より低くなるかもしれない。その後、ブラックホールは周囲の空間にエネルギーを放射するようになり、アインシュタインのE=mc2の式によれば、エネルギーを失うことで質量も失うことになる。ブラックホールは質量を失いながら高温になり、信じられないほど長い時間をかけて(今日の最大級のブラックホールなら、おそらく10100年、つまり「1グーゴル年」程度の時間をかけて)少しずつ縮んでゆき、ついには「ポン」と爆発して消滅してしまう。この最後の爆発は大砲の砲弾が破裂する程度のエネルギーしかなく、「バン」と呼べるような激しいものではない。これだけ長く待ったあとに起こる現象としては、なんとも拍子抜けである!」
(ロジャー・ペンローズ(1931-),『時間のサイクル』(日本語名『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』),第2部 ビッグバンの奇妙な特殊性,第12章 ビッグバンの特殊性を理解する,新潮社(2014),pp.141-142,竹内薫(訳))
(索引:ブラックホールの温度)

宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか


(出典:wikipedia
ロジャー・ペンローズ(1931-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「さらには、こうしたことがらを人間が理解する可能性があるというそのこと自体が、意識がわれわれにもたらしてくれる能力について何らかのことを語っているのだ。」(中略)「「自然」の働きとの一体性は、潜在的にはわれわれすべての中に存在しており、いかなるレヴェルにおいてであれ、われわれが意識的に理解し感じるという能力を発動するとき、その姿を現すのである。意識を備えたわれわれの脳は、いずれも、精緻な物理的構成要素で織り上げられたものであり、数学に支えられたこの宇宙の深淵な組織をわれわれが利用するのを可能ならしめている――だからこそ、われわれは、プラトン的な「理解」という能力を介して、この宇宙がさまざまなレヴェルでどのように振る舞っているかを直接知ることができるのだ。
 これらは重大な問題であり、われわれはまだその説明からはほど遠いところにいる。これらの世界《すべて》を相互に結びつける性質の役割が明らかにならないかぎり明白な答えは現れてこないだろう、と私は主張する。これらの問題は互いに切り離し、個々に解決することはできないだろう。私は、三つの世界とそれらを互いに関連づけるミステリーを言ってきた。だが、三つの世界ではなく、《一つの》世界であることに疑いはない。その真の性質を現在のわれわれは垣間見ることさえできないのである。」

    プラトン的
    /世界\
   /    \
  3      1
 /        \
心的───2────物理的
世界         世界


(ロジャー・ペンローズ(1931-),『心の影』,第2部 心を理解するのにどんな新しい物理学が必要なのか,8 含意は?,8.7 三つの世界と三つのミステリー,みすず書房(2001),(2),pp.235-236,林一(訳))

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13.意識的な感覚は、刺激を受けた時刻より約0.5秒遅れて発生するが、意識の内容は、刺激の発生時刻を指し示す。この意識の発生が初期EPにより調整されていることは、片側の感覚上行路に損傷のある患者の例で実証されている。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

初期EP(誘発電位)の役割、意識の時間遡及

【意識的な感覚は、刺激を受けた時刻より約0.5秒遅れて発生するが、意識の内容は、刺激の発生時刻を指し示す。この意識の発生が初期EPにより調整されていることは、片側の感覚上行路に損傷のある患者の例で実証されている。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(1)初期EP(誘発電位)の役割
 (1.1)皮膚への刺激の正確な位置を識別するために重要な役割を果たす。
 (1.2)皮膚入力の主観的なタイミングを、過去のある時点に向って遡及するときに、遡及先となるタイミング信号を提供する。
(2)確認されている事実
 (2.1)脳卒中患者は、非常に大ざっぱな方法でしか、皮膚刺激の位置を示せない。例として、2点刺激の弁別では、刺激ポイントを何cmも離さないと識別できない。
 (2.2)脳の右半球に限局した脳卒中で、特定の感覚上行路に永久的な損傷のある患者の場合。
  (a)不自由な左手の皮膚への刺激パルス
  (b)健常な右手の皮膚への皮膚パルス
  (a)と(b)を同時に与えた場合、(b)の次に(a)を感覚する。
  (a)と(b)の意識感覚が、同時に発生したと患者が報告できるようにするには、(b)よりも0.5秒先に(a)を与えなければならない。

意識的な皮膚感覚
 ↑↑
 ││刺激の正確な位置と、
 ││発生タイミングを決める
 │└──────────────┐
事象関連電位(ERP)と呼ばれる  │
皮質の一連の電気変化       │
 ↑意識感覚を生み出すために、  │
 │500ms以上の持続が必要である。│
 │               │
皮膚領域が「投射する」感覚皮質の特定の小さな領域で、初期EP(誘発電位)が局所的に発生する。
 ↑短い経路で14~20ms、長い経路で40~50ms後。
 │
 │
単発の有効な皮膚への刺激パルス

(再掲)

意識的な皮膚感覚
 ↑
 │
事象関連電位(ERP)と呼ばれる皮質の一連の電気変化
 ↑意識感覚を生み出すために、500ms以上の間持続することが必要である。
 │全身麻酔状態にある場合、ERPは消失する。
 │皮膚パルスの強さを、意識できないレベルまで下げると、ERPは突然消失する。
 │
皮膚領域が「投射する」感覚皮質の特定の小さな領域で、初期EP(誘発電位)が局所的に発生する。
 ↑短い経路で14~20ms、長い経路で40~50ms後。
 │初期EPが無くとも、意識感覚は生み出せる。
 │初期EPがあっても、意識感覚は生み出せない。
 │
 │速い特定の投射経路を通っていく。
 │
単発の有効な皮膚への刺激パルス

参照:皮膚への単発の有効な刺激に対して、14~50ms後に初期EP(誘発電位)が生じ、その後ERP(事象関連電位)が生じる。初期EPは、意識感覚の必要条件でも十分条件でもない。ERPが意識感覚と関連している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

 「もし、(これまでに述べたように)記録された初期EP(誘発電位)が生じる皮質活動が、感覚的なアウェアネスを生み出すのに重要な役割を果たしていないというのならば、では一体、初期EPにはどのような役割があるのか、疑問に思う人も多いでしょう。一次神経反応は、皮膚への刺激の正確な位置を識別するために重要な役割を果たします。また、すでに私たちが発見したように、皮膚入力の正確で主観的なタイミングは過去のある時点に向って遡及するわけですが、その遡及先となるタイミング信号を提供しているように見えます。脳卒中のケースの中には、この迅速な、特定の感覚経路が感覚皮質に接近するあたりの部位に、大きな損傷がある場合もあります。こうした脳卒中患者は、非常に大ざっぱな方法でしか皮膚刺激の位置を示せません。(たとえば手の)皮膚への二点刺激で、その刺激ポイントが何センチメートルも離されない限り、そうして二点が実際に二つの離れた点でされていることを識別できません。
 私たちが接していたそういう患者においては、この空間的な障害に加え、健常な側への接触パルスと比較すると皮膚へのパルスはおよそ0.5秒間遅れて感じられることがわかりました(リベット他(1979年)参照)。この患者には数年前、脳の右半球に限局した脳卒中の発作がありました。この発作によって、この患者の身体感覚のための特定の感覚上行路に、永久的な損傷が残りました。この患者には、左手や左腕への刺激の位置を正確に示す能力が欠けており、非常におおまかな位置しか報告できないことがわかりました。この患者の健常な右手への刺激の主観的なタイミングを、損傷のある左手と比較するテストを私たちは行いました。両方の手の裏側に小さな刺激電極をつけ、ようやく感じられる強さの刺激をこの患者に与えました。
 刺激が両方の手に同時に与えられた場合、この被験者は、不自由な左手より以前に、右手への刺激を感じたと報告しました。両方への刺激が同時に与えられていることが意識的に感じられると患者が報告できるようにするには、健常である右側への刺激よりも0.5秒《先に》、損傷のある左側への刺激が与えられなければなりません。明らかに、左手への感覚を時間的に逆行するかたちで主観的に知覚する能力を、患者は喪失していました。その感覚はしたがって、アウェアネスが生じるための皮質の必要条件である、およそ500ミリ秒間の遅延を伴って主観的に知覚されます。このアウェアネスを(時間軸上で)前に戻す能力の喪失というのは、おそらく、患者の左手が初期誘発反応を喪失していることによるものでしょう。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.78-79,下條信輔(訳))
(索引:初期EP(誘発電位)の役割,意識の時間遡及)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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13.可能性の領域である新しい観念は、確率的な法則に従って、非決定論的に発生する。新しい観念は、世界3につなぎ止められ、検討され、テストされ、不適切なものは消去され、最適なものが生き残る。(カール・ポパー(1902-1994))

意識現象と量子力学

【可能性の領域である新しい観念は、確率的な法則に従って、非決定論的に発生する。新しい観念は、世界3につなぎ止められ、検討され、テストされ、不適切なものは消去され、最適なものが生き残る。(カール・ポパー(1902-1994))】

量子力学が、意識現象に関わると思われる理由

(1)古典物理学の決定論においては、自由意志が存在する余地がないように思われた。
(2)量子力学は、確率論的な時間発展と、一回の観測における不確定性、非決定性を与える。
(3)しかし、自由意志の問題は、偶然的で確率論的な事柄であるとは思えない。
(4)この偶然性と、自ら選択し決定するという自由意志は、どのように関係するのか。
 (4.1)可能性の領域である新しい観念は、遺伝における突然変異のように、確率的な法則に従って、非決定論的に発生する。
 (4.2)新しい観念は、世界3につなぎ止められ、検討され、テストされ、不適切なものは消去され、最適なものが生き残る。

(再掲)
 (b2.4.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。

 時間1 世界1・P1     (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │         │┌───┘
  ↓    ↓         ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3 世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 「P――もちろん、それはたいへん難解な問題です。それに関連して多くの考えをもっていますが、それらはまだまだ練り上げられていません。


 まず第一に、量子論的な不確定性が、ある意味で助けにはならないことにもちろん同意しますが、それは単に確率法則に導くだけだからであり、自由な決定のようなものが確率的事柄であるとは言いたくないのです。 

 量子力学的な不確定性の困難は二つの部分からなっています。第一に、それは確率的です。このことは、偶然的事柄ではない自由意志の問題にそれほど助けにはならないのです。第二に、それはわれわれに非決定論しか与えず、世界2への開放性を与えません。

しかし、遠回りの仕方で、自由意志の決定が確率的事柄であるという誤ったテーゼに身をゆだねることなしに、量子論的な不確定性を用いることができる、とは考えます。  

この文脈では一点についてだけ述べましょう。新しい観念は遺伝的な突然変異に著しく似ています。そこで、しばらく遺伝的な突然変異についてみてみましょう。突然変異は(放射線効果を含む)量子論的な不確定性によってもたらされるようです。したがって、それらもまた確率的で、それら自身元来選択されたものでもなく、または適切なものでもないが、不適切な突然変異を取り除く自然淘汰が次に働くのです。
 
さて、われわれは新しい観念、自由意志の決定、そして類似のことに関して同様の過程を考えることができます。すなわち、可能性の領域は、提案の――いわば大脳によってもたらされた可能性の――確率論的、量子力学的特徴をもつ集合によってもたらされるのです。

これらの上へ、一種の淘汰圧が働き、世界3につなぎ止められ、そこで検討し、そこの基準でテストするところの心に受け入れられないような提案と可能性を消去するのです。これが、それらのことの起こる仕方でしょう。
 
そして、彫刻家が像を作るために石を刻み、不要部分をすてるように働く抑制ニューロンの示唆を私がたいへん好むのは、この理由からでした。」 


(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DX章、(下)pp.767-768、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:意識現象,量子力学)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2018年9月2日日曜日

12.世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ具現化する。(カール・ポパー(1902-1994))

世界2と世界3との相互作用

【世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ具現化する。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.4)追加記載。

 (b2.3)世界2は、直接的に世界3への関係を持つのではなく、世界1を経由しているのではないか。世界2は、世界3の符号である世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。(ジョン・エックルス(1903-1997))
 (b2.3.1)世界3の対象は、世界1の物質的対象の上に符号化されている。
 (b2.3.2)世界2は、世界1の符号から意識経験を引き出している。

   (符号)⇔(符号の意識経験)⇔(世界3)
    世界1・S1⇔世界2・S1⇔世界3・C1
    世界1・S2⇔世界2・S2⇔世界3・C2

 (b2.3.3)世界2は、世界3の符号である世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 時間1 世界1・P1⊃世界1・S1⇔世界2・S1⊂世界2・M1
  │    │   │    ↓↑    │
  │    │   │   世界3・C1   │
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2⊂世界2・M2
                ↓↑
               世界3・C2

 (b2.3.4)世界2は、世界3の符号である世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 時間1 世界1・P1 世界2・S1⊂世界2・M1
  │    │   │↓↑   │
  │    │   │世界3・C1 │
  │    │   │┌────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2⊂世界2・M2
            ↓↑
            世界3・C2

 (b2.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ具現化する。
 (b2.4.1)世界3の符号である世界1の対象は、いかに世界2により働きかけられるにしても、それ自体は世界1の対象であるから、世界1の諸法則に従って生成・変化する。また世界2は、いかにそれが自ら固有の法則に従って働きかけるかのように見えようが、世界1の諸法則に支えられている。世界2は、最初に直接的に、世界1の諸法則には服さない世界3との関係を持つことなしには、世界1の因果関係から逃れることはできない。
 (b2.4.2)世界2が、未だ世界3のなかに表現されておらず、したがって当然、世界1には存在しない新しい問題を発見したり、問題への新しい解決を発見するときのような創造的行為を考えると、世界2が必ず世界1を経由するということは、誤りではないかと思われる。

 (b2.4.3)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1へ具現化する。

 時間1 世界1・P1           (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │             │┌───┘
  ↓    ↓             ↓↓
 時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌──────────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3⊃世界1・S3⇔世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 (b2.4.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。

 時間1 世界1・P1     (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │         │┌───┘
  ↓    ↓         ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3 世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 「P――あなたがその点を強調するのは非常に重要なことです。でも、私はあなたの批判に完全に同意するわけではありません。 

世界2と世界3の相互作用の多くにおいては、大脳が含まれ、それとともに世界1も含まれることは完全に正しい。  

 しかし、世界2と世界3を含む多くの創造的行為では特に、世界1が必然的に含まれるわけでは《なく》、含まれたとしても世界2の随伴現象として含まれる、と私は考えます。 
 
すなわち、何かが世界1の中で進行しているが、それは部分的に世界2に依存しているのです。(これが相互作用の考えです。)

創造的行為》によって、私が意味しているのは、新しい問題の発見や、われわれの問題への新しい解決の発見です。この発見の過程は、それと平行して進行する世界1の過程をもっているらしい、というのはまったく正しい。

でも、私が強調したいのは、それに平行していたのではない、ということです。なぜなら、何か新しいものの発見はユニークな過程であり、標準的な基本過程に分析できない二つのユニークな過程の間の平行関係については語ることができない、と考えるからです。(右で言及されたのは、世界1の過程が世界2で進行しているものに関して随伴的な現象である場合の一つです。)

 でも、これとはまったく別に、世界3の中でまだ十分には表現されていない、発見され、表現されるべき問題がある、と感じる時、そのような場合にはわれわれ、より正確にはわれわれの世界2は、すべての段階で世界1をひきずり込むことなしに、本来的に世界3を扱うということを認識するのは、非常に重要だと思われます。

世界1が一般的背景を与えるというのは疑いもなく真です。世界1の記憶がなくては、われわれは自分のしていることができなかったでしょう。

でも、われわれが取り出したい特別の新しい問題は、世界3の中で直接に世界2によって知られるのです。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DX章、(下)pp.764-765、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:世界2と世界3との相互作用)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年9月1日土曜日

世界2は、直接的に世界3への関係を持つのではなく、世界1を経由しているのではないか。世界2は、世界3の符号である世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。(ジョン・エックルス(1903-1997))

世界3の符号としての世界1、世界2の対象

【世界2は、直接的に世界3への関係を持つのではなく、世界1を経由しているのではないか。世界2は、世界3の符号である世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。(ジョン・エックルス(1903-1997))】

(b2.3)追加記載。

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(b2.3)世界2は、直接的に世界3への関係を持つのではなく、世界1を経由しているのではないか。世界2は、世界3の符号である世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 (b2.3.1)世界3の対象は、世界1の物質的対象の上に符号化されている。
 (b2.3.2)世界2は、世界1の符号から意識経験を引き出している。

   (符号)⇔(符号の意識経験)⇔(世界3)
    世界1・S1⇔世界2・S1⇔世界3・C1
    世界1・S2⇔世界2・S2⇔世界3・C2

 (b2.3.3)世界2は、世界3の符号である世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 時間1 世界1・P1⊃世界1・S1⇔世界2・S1⊂世界2・M1
  │    │   │    ↓↑    │
  │    │   │   世界3・C1   │
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2⊂世界2・M2
                ↓↑
               世界3・C2

 (b2.3.4)世界2は、世界3の符号である世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 時間1 世界1・P1 世界2・S1⊂世界2・M1
  │    │   │↓↑   │
  │    │   │世界3・C1 │
  │    │   │┌────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2⊂世界2・M2
            ↓↑
            世界3・C2

 「E――『エンカウンター』誌にカールが提出した論文「非決定論は十分でない」についての議論をしましょう。

私の言いたい第一のことは、世界1、2、3の関係についてです。世界1は世界2に対して因果的に開いていなければならない、という言明にはまったく賛成ですが、世界2の世界3への直接的な行動による因果的な開放性について語るならば、誤解が生じるのではないかと感じられます。

その間には常に世界1を通しての段階が挿入されていると言いたいのです。

これはもちろん、ある物質対象の上に符号化された世界3の表現から意識経験を導き出しているならば、十分明らかなことです。

すると明らかに、意識経験は、受容と伝達の世界1の段階のすべてを通して起こっている感覚を介して知覚されねばなりません。

他方、特別な領野での大脳のいくつかの記憶過程によってニューロン回路に世界3が符号化されるより十分な条件があります。

その場合でさえ、私が強調するのは、意識経験はニューロン結合の中に符号化される世界3を世界1から取り出さなければならない、ということです。
 P――世界3が大脳に符号化されると言う代わりに、世界3の対象は大脳に記録される、そしてそれゆえ、いわば具現化される、と言うべきではないでしょうか。

世界3の全体はどこにもありません。しばしば具現化され、それゆえ、局在化できるのは、いくつかの個々の世界3の対象だけなのです。

 E――それら対象は記憶として思い出され、表現できます。しかし、そこにおいてさえ、世界3の対象は、いわばニューロンの仕組みの上に符号化され、それから自己意識的な心の働きによって抽出されなければなりません。

ですから、ある意味で、この連関に入ってくる世界1があるのです。このことはまったくつまらないことだとは思いますが、それに触れたいのです。

というのは、自己意識的な心、つまり世界2と、外部世界、または大脳いずれかの中で対象上に符号化された情報(世界3)との間には、ある直接的な関係(透視(clairvoyance))があるらしいことがいくつかの批判によって指摘できるからです。

結局、「非決定論は十分ではない」の中で語られた話はもちろん受け入れることができます。私がしたいのはささいな批判にすぎないのです。」
(ジョン・エックルス(1903-1997)『自我と脳』第3部、DX章、(下)pp.763-764、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:世界3の符号)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
ジョン・エックルス(1903-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
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2018年8月30日木曜日

11.数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))

物理法則と論理学の法則

【数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.2)を追記。

(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

 (c1.1)もし、これが正しいならば、世界2での過程はすべて世界1の物理学、化学の法則に支配されているのか。しかし、たとえば数学の公理とか論理学の法則とは、いったい何なのか。これも、世界1の諸法則に従っているのか。
 (c1.2)コンピュータは、世界1の諸法則によって実現され、動作しているにもかかわらず、同時に論理的諸原理にも従っている。
 (c1.3)なぜ、(c1.2)のようなことが可能なのか。それは、コンピュータも論理学の法則も、世界3に属しているからである。参照:(b2)

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

 (b2.1)しかし、すべては物理的世界1における現象であることには、変わりないのではないか。
  (b2.1.1)進化と自然淘汰の産物として、人間の大脳が生まれた。
  (b2.1.2)環境に適応するこの過程のなかで言語活動が生まれた。
  (b2.1.3)適応的な行動を生むための思考と、適応的な推理のための性向的能力が習得された。
  (b2.1.4)やがて学校教育において、論理的思考が組織的に学習されることになった。
 (b2.2)(b2.1)が正しいとしても、ある論理法則が「正しい」とか「誤っている」という基準は、物理的世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する主観的経験の世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。
  (b2.2.1)たとえば、世界2における計算、または世界1に書き下した計算式、または、ある計算を行なっているコンピュータが「正しい」とか「誤っている」と言うことには、確かに意味がある。「正しい」論理法則とは、何なのか。
  (b2.2.2)「正しい」「誤っている」と言うためには、基準が必要であるが、この基準は、物理的世界1の中に具現化されているだろうか。たとえば、ある特定の論理学の書物が基準であるとか。
  (b2.2.3)あるいは、大多数の論理学者が正しいと判断するから「正しい」というような方法で、世界2の集合体が、その基準を具現化しているのだろうか。

 「I――コンピュータや大脳は誤りを犯さないのでしょうか。

 P――もちろん、コンピュータは完全ではありません、人間の大脳もまたそうです。言わずと知れたことですよ。

 I――でも、もしそうならば、あなたには世界1の中の対象に具現化または具体化されていない妥当性の基準のような、世界3の対象が必要になりますよ。《推論の妥当性》に訴えることができるためにはそれら基準が必要です。でもあなたはそのような対象の存在を否定しています。

 P――私は非物質的な世界3の対象の存在を断固否定します。しかし、私にはまだあなたの要点がよくわかったわけではないのです。

 I――私の要点はまったく簡単です。もしコンピュータや大脳が誤りを犯すことができるなら、それらは何に比べて劣っているのだろうか。

 P――他のコンピュータや大脳、あるいは論理と数学の書物の内容より劣っているのです。

 I――それらの書物は誤りを犯すことがないのでしょうか。

 P――もちろん、あります。でも間違いは稀です。

 I――それはあやしいが、そうだったとしましょう。でもまだ質問があります。もし間違いがあるなら――いいですか、それが論理的な間違いとしたら――どんな基準でそれは間違いなのですか。

 P――論理学の基準です。

 I――そのとおりです。でも、それら基準は非物質的世界3の基準ですね。

 P――それには賛成しかねます。それらは抽象的な基準ではなく、大多数の論理学者――事実、少数の過信派以外のすべて――がそのようなものとして受け入れる気になる基準や原理なのです。

 I――原理が妥当だから論理学者がその気になるのでしょうか。それとも彼らが受け入れる気になるから原理は妥当なのでしょうか。

 P――紛らわしい質問ですね。それへの明白な答え、そしてとにかくあなたの答えは、「論理的基準が妥当であるゆえに、論理学者はそれを受け入れる気になる」ということのようだ。だがこれは、私が否定する非物質的な、したがって抽象的な基準や原理の存在を認めることでしょう。

いや、私はあなたの質問に別の答えをしなければなりません。基準は、それらが存在する以上は、人々の大脳の状態や性向として存在するのです。状態や性向というのは人々に正しい基準を受け入れさせるものです。

するともちろん、あなたは次のように問うかもしれません。「《妥当な》基準以外の《正しい》基準は他にあるのだろうか、と。

私の答えは「言語行動のいくつかの仕方、あるいはいくつかの信念を他の信念と結び合わせるいくつかの仕方がその基準であり、それらの仕方は生存闘争で有用だとわかり、それゆえ自然淘汰によって淘汰されたか、またはたぶん学校教育その他で条件づけによって学ばれたものです」。

 これらの遺伝され、学習された性向は何人かの人々によって《われわれの論理的直感》と呼ばれるものです。私はそれらが(抽象的な世界3の対象と反対に)存在することを認めます。

私はまた、それらが常に信頼できるとは限らず、論理的な誤りが存在することも認めます。でもこれらの誤った推論は批判し、取り除くことができます。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、21――J・B・S・ホールディンの唯物論反駁の一修正形式(上)pp.121-122、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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