事実的言明の真偽値とは何か
真偽値は、言明と諸事実との間にどんな関係があるかについての評価であり、言明を効力あるものとしている慣習的な手続きにどの程度に適合しているかを表すものである。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
「言明を一つの独立した部類として分類することは多少なりとも、物事を黒か白かに分けて考える特殊技術である、と。しかし実際には――これについて話を続けるとあまりにも長くなるであろうが――真偽について考えれば考えるほど、われわれが発している言明で端的に真または端的に偽であるようなものはほとんどないことが分かる。ふつうよくある問いは次のようなものである。それらの言明は適正であるのかそれとも適正ではないのか。それらは十全であるかそれとも十全ではないのか。それらは大袈裟かそれとも大袈裟でないのか。それらは大ざっぱすぎるであろうか、それともそれらはまったく精確で精密であろうか、等々と。「真」と「偽」は、われわれが言っていることと諸事実との間の関係に何らかの仕方で関わっているさまざまな評価という全般的な次元に対する全般的なラベルにすぎないのである。したがって、もしわれわれが真および偽についてもっている考え方をゆるめるならば、言明とは、諸事実に関連して評価される場合、さまざまな勧告、警告、評決等々と結局そんなに変わらないものであることが分かるであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,10 行為遂行的発言,pp.406-408,勁草書房(1991),中才敏郎,坂本百大(監訳))
(索引:)
(出典:wikipedia)
「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)