2021年12月24日金曜日

ハーバート・ハート (1907-1992)の命題集


ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集

ハーバート・ハート
(1907-1992)








第1部 在る法と在るべき法
第2部 目的と手段による説明の予備考察
第3部 様々な法の概念&自然法とは何か
第4部 社会的ルールとは何か
第5部 在るべき法の源泉としての道徳
第6部 法の発展、第1次的ルールから国際法まで
第7部 半影の問題



第1部 在る法と在るべき法
《目次》
(1)在る法
(2)在るべき法
(3)在る法と在るべき法の区別
(3.1)在る法を遵守し、在るべき法の観点から批判する
(3.2)法秩序の権威の特徴
(3.2.1)在る法の遵守
(3.2.2)在る法の自由な批判
(3.3)道徳的悪法の問題
(3.3.1)道徳的二律背反
(3.3.2)事例
(3.4)悪法と抵抗の問題
(3.4.1)悪法
(3.4.2)抵抗と不服従の道徳的義務
(3.4.3)在る法の成立要件としての道徳性
(4)在るべき法の根拠
(4.1)人間が感知、選択したもの
(4.1.1)感情や態度などの主観的選好
(4.1.2)直感により感知される諸原則
(4.1.3)意志の命令、感情や態度などが与える目的
(4.1.4)議論と検討と反省が可能かどうか
(4.2)何らかの普遍的な根拠がある
(4.2.1)実証可能な功利に関する命題
(4.2.2)啓示によって与えられる命題
(4.2.3)公平の原理

(4.3)事実として存在している特定の社会的ルール
(4.3.1)社会的ルールの存在が感情を生じさせる
(4.3.2)少数の違反者の存在
(4.4)在る法と在るべき法の区別
(4.4.1)在る法
(4.4.2)道徳的な原則


第2部 目的と手段による説明の予備考察

(1)考察するための事例
(2)目的と手段による説明
(2.1)目的
(2.1.1)生存するという目的
(2.1.2)生存以外の諸目的
(2.2)目的を実現する手段
(2.2.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
(2.2.2)良い、悪い
(2.2.3)必要と機能


第3部 様々な法の概念&自然法とは何か

(1)定義による法の概念
(2)実証主義
(3)目的と手段による説明
(3.1)自然法の基礎づけ
(3.2)自然権批判(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(4)原因と結果による説明
(5)人間に関する自然的事実
(5.1)人間の傷つきやすさ
(5.2)人間の諸能力のおおよその平等性
(5.3)限られた利他主義
(5.4)限られた資源
(5.5)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.1)事実とルールの明白性
(5.5.2)多数者による自発的な服従
(5.5.3)ルールを守る諸動機
(5.5.4)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.5)制裁の必要性


第4部 社会的ルールとは何か
《目次》
(1)習慣
(2)社会的ルール
(2.1)ルールの存在は事実の問題
(2.2)外的視点
(2.3)内的視点
(2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
(2.5)感情
(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
(3.1)「せざるを得ない」
(3.2)「責務を負っている」
(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
(4)「すべきである」と「責務を負っている」の違い
(4.1)概要
(4.2)外的視点
(4.3)内的視点
(4.4)心理的経験


第5部 在るべき法の源泉としての道徳

(1)一般の行動規則
(1.1)ルールの諸属性
(2)道徳的な原則
(2.1)在るべき法の源泉としての道徳
(2.2)道徳的な原則の4つの特徴
(2.3)重要性
(2.3.1)基準が遵守されない場合の影響力が大きい
(2.3.2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求される
(2.3.3)遵守のための社会的圧力が大きい
(2.3.4)事例
(2.4)意図的な変更を受けないこと
(2.5)道徳的犯罪の自発的な性格
(2.5.1)身体的・精神的能力
(2.5.2)行為基準の自明性
(2.5.3)自己コントロール可能性
(2.5.4)故意または過失による基準からの逸脱
(2.5.5)考察するための事例
(2.6)道徳的圧力の形態
(2.6.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
(2.6.2)違反者自身による罰(良心の感情)
(2.6.3)敵対的な社会的反作用
(2.6.4)刑罰による不愉快な結果による威嚇
(2.6.5)個人的利益
(3)正義の原則
(4)法:実際に在る法
(5)道徳的な原則と在る法との相互作用 


第6部 法の発展、第1次的ルールから国際法まで


(1)世界についての最も自明な真理
(2)人間の性質に関する最も自明な真理
(2.1)犯しやすい誤り
(3)社会的統制の手段
(3.1) 責務の第1次的ルール
(3.2)2種類の人びと
(3.3)社会の存続条件
(4)第1次的ルールと第2次的ルール
(4.1)第1次的ルール(基本的ルール)
(4.2)第2次的ルール
(5) 第1次的ルールのみの欠陥
(5.1)ルールの不確定性
(5.2)補われる第2次的ルール:承認のルール
(5.3)ルールの静的な性質
(5.4)補われる第2次的ルール:変更のルール
(5.5)ルールの非効率性
(5.6)補われる第2次的ルール:裁判のルール

(6)主権的立法権
(6.1)主権的立法権は絶対なのか
(6.2)問題: 究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか

(7)国際法 
(7.1)国際法の意思主義、自己制限論
(7.2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
(7.3)第1次的ルールとしての国際法


第7部 半影の問題

《目次》

(0)半影の問題 
(1)何らかの「べき」観点の必要性
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
(1.2)批判の基準の存在
(1.3)基準は、どのようなものか
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
(3)難解な事例の解決は、在る法の自然な精密化、明確化である
(3.1)難解な事例の解決は、既に存在している法の発見である
(3.2)難解な事例の解決は、新たな法の創造ではない
(3.3)最高裁判所の決定の最終性は無謬性とは異なる
(3.4)日常言語における事例
(4)難解な事例における決定の本質
(4.1)法の不完全性
(4.2)法の中核の存在
(4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
(4.3.1)人間の不完全性と選択の必要性
(4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
(4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
(4.4)選択肢の非一意性
(4.4.1)選択肢の非一意性
(4.4.2)形式主義、概念主義の誤り
(4.5)決定は強制されず、一つの選択である

(5)先例から一般的原理を抽出すること
(5.1)記述的理論と指図的理論
(5.2)先例からルールを発見する方法




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第1部 在る法と在るべき法

《目次》
(1)在る法
(2)在るべき法
(3)在る法と在るべき法の区別
(3.1)在る法を遵守し、在るべき法の観点から批判する
(3.2)法秩序の権威の特徴
(3.2.1)在る法の遵守
(3.2.2)在る法の自由な批判
(3.3)道徳的悪法の問題
(3.3.1)道徳的二律背反
(3.3.2)事例
(3.4)悪法と抵抗の問題
(3.4.1)悪法
(3.4.2)抵抗と不服従の道徳的義務
(3.4.3)在る法の成立要件としての道徳性
(4)在るべき法の根拠
(4.1)人間が感知、選択したもの
(4.1.1)感情や態度などの主観的選好
(4.1.2)直感により感知される諸原則
(4.1.3)意志の命令、感情や態度などが与える目的
(4.1.4)議論と検討と反省が可能かどうか
(4.2)何らかの普遍的な根拠がある
(4.2.1)実証可能な功利に関する命題
(4.2.2)啓示によって与えられる命題
(4.2.3)公平の原理

(4.3)事実として存在している特定の社会的ルール
(4.3.1)社会的ルールの存在が感情を生じさせる
(4.3.2)少数の違反者の存在
(4.4)在る法と在るべき法の区別
(4.4.1)在る法
(4.4.2)道徳的な原則

(1)在る法
 法が存在しているか存在していないかが問題である。好きか嫌いか、是認するか否認するか にかかわらず、現実に存在していれば、それは法である。
(2)在るべき法
例えば、
(a)道徳の根本的な原則が要求する命令
(b)あるいは、その命令の「指標」である「功利」
(c)あるいは、社会集団によって現実に受け入れられている道徳
(3)在る法と在るべき法の区別
 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤り である。
参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要 である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批 判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))





参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りで ある。(ジョン・オースティン(1790-1859))













(3.1)在る法を遵守し、在るべき法の観点から批判する
 法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する こと」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしま う。
(3.2)法秩序の権威の特徴
 在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要であ る。
(3.2.1)在る法の遵守
 各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険があ る。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明する だけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
(3.2.2)在る法の自由な批判
 存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなく なる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法 に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。

(3.3)道徳的悪法の問題
 在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な批判的分析に必要で ある。
参照: 困難な、道徳の二律背反的な状況を、あるがままに認識し対処すること。明快に語る手段がた くさんあるとき、「道徳的批判」で表現しないこと。それは、分析を混濁させ議論を混乱させ てしまう。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(3.3.1)道徳的二律背反
 道徳の歴史から学ぶものがあるとすれば、それは、道徳的二律背反を処理するには、そ れを隠さないということである。困難と戦うときと同様に、二つの悪のうちましな方を選ばざ るを得ない状況に至った際には、状況をあるがままに自覚して対処しなければならない。
(a)困難な状況、道徳的二律背反的な状況を、議論の余地のある「道徳的批判」で表現 してはならない。それは、膨大な哲学的問題を呼び起こしてしまう。明快に語る手段がたくさ んあるときには、明快に語ること。
(b)「すべての不調和は、知られざる調和なり」「すべての部分悪は、普遍的善なり」 は、誤りであろう。私たちが賞賛する諸価値が、互いに衝突し合ったり、犠牲にされたりせず 統合され得るというのは、ロマンティックな楽観であろう。
(3.3.2)事例
 例として、言語道断なほど不道徳的な行為をした人がいたとする。しかし、当時それは 適法とされた行為に基づいていたとしよう。
(a)当時その行為を適法とした制定法が、醜悪な法であり「法たり得ない」ゆえに、そ の人の不道徳的な行為の故に、その人を罰する。これは、正しいだろうか。
(b)いかに言語道断だとは言え、当時違法ではなかったので、その人を罰しない。これ は、正しいだろうか。
(c)罰しないことは、悪だと思われる。一方、罰することは、事後的な法を導入して罰 することになり、別の非常に重要な道徳原則を犠牲にすることになる。それでも、その人を罰 するとしたら、どのような理由によって、正当化できるのか。当時の制定法が、醜悪な法であ り「法たり得ない」としてしまうことは、問題の本質を覆い隠してしまう。

(3.4)悪法と抵抗の問題
 法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得な い時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、在る法と在るべき法の区別が 必要である。
(3.4.1)悪法
「無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止さ れているとしよう。もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。 そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷 は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して 私を絞首することで実証してみせるだろう。」(ジョン・オースティン(1790-1859))
(3.4.2)抵抗と不服従の道徳的義務
 もし法が、一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをや める道徳的義務が生じる。(ジョン・オースティン(1790-1859)、ジェレミ・ベンサム (1748-1832))
(3.4.3)在る法の成立要件としての道徳性
 人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法 も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタ フ・ラートブルフ(1878-1949))















(4)在るべき法の根拠
 在るべき法の根拠:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則 か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示による か、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(4.1)人間が感知、選択したもの
 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らか の根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明) は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられ た。
(4.1.1)感情や態度などの主観的選好
 ある哲学は、価値言明が感覚や感情や態度などの主観的選好の表現であると考えた。
(4.1.2)直感により感知される諸原則
 ある哲学は、価値言明というものは、ある個別具体的なケースが、行為の一般的な原則 や方針の下に包摂されることを示すものであると考えた。そして、この一般的な原則や方針 は、人間に対して何かしら一種の普遍的な命令として直感されるようなものとして理解され た。
(4.1.3)意志の命令、感情や態度などが与える目的
 ある哲学は、価値言明というものが、ある特定の目的を促進するものであると理解す る。そして、私たちは、その目的のために何が適切な手段であるかを合理的に議論したり発見 したりできる。しかし、目指される目的自体は、意志の命令あるいは感情や選好や態度の表現 であるとされる。
(4.1.4)議論と検討と反省が可能かどうか
 存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の区別が、議論と検討と反省 が無駄だという根拠として使われるとき、この区別は有害なものとなる。個別具体的なものに ついての争いに関し、当事者が議論し詳細に検討し反省してみることによって、当初は曖昧な まま感知されていた諸原則が、当事者双方が合理的に受け容れられるような明確なものとし て、理解できるようになる。
(4.2)何らかの普遍的な根拠がある
 人間の感覚や感情、態度の主観的選好は何に由来するのか。何かしら命令的なものとして 与えられる一般的な原則や方針は、何に由来するのか。目指されるものとして感知される目的 は、何に由来するのか。
(4.2.1)実証可能な功利に関する命題
 道徳原則は、功利に関する実証可能な命題である。(ジェレミ・ベンサム(1748- 1832))













(a) 法に服従する責務に関する純粋に功利主義的な理論
 (i)この理論は、法に服従する義務を、幸福を促進する責務の特殊事 例にすぎないものと見なす。
 (ii)この理論は、悪法に対する不服従は、も しも不服従の結果が服従の結果よりも功利主義的に見て一層ましであるならばそれは正当化され る、という当然の帰結を伴っている。不服従の害悪には、法体系の権威を弱めることを通じて他の人びとに加えられるどのような害 悪をも含む。

(4.2.2)啓示によって与えられる命題
 究極的な道徳原則は、啓示によって、またその指標としての功利を通して知ることがで きる。(ジョン・オースティン(1790-1859))
(4.2.3)公平の原理


(b) 社会の成員として負う義務
 法に服従する責務とは、 市民が同じ社会の一員としての相互的関係によって自分自身の社会の成員に対し特別に負って いると考えられる責務であって、たんに、危害、損害、苦痛を与えてはならないという人びと一般に対する責務の一例として理解されるものではない、
(c)公平の原理
 多数の人び とが、他の方法では得られない諸利益を獲得するために一定のルールによって自分たちの自由 に制約を加える時、他の人びとによるそのルールへの服従から利益を得た人びとは、今度は自分 たちがそのルールに服従する責務を負う。



(4.3)事実として存在している特定の社会的ルール
 規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在する か否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断 される。
(4.3.1)社会的ルールの存在が感情を生じさせる
 注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではな く、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるという ことである。
(4.3.2)少数の違反者の存在
 また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在する ことは何ら矛盾したことではない。
参照:特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求 を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社 会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907- 1992))
参照:「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルー ルからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視 点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907- 1992))

(4.4)在る法と在るべき法の区別
 それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
 仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また、在るべき法が客観 的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、ま た区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4.4.1)在る法
 ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを 示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、 なお法であり続ける。
(4.4.2)道徳的な原則
 法であるべき全ての道徳的資格を備えていなが ら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批 判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート (1907-1992))





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第2部 目的と手段による説明の予備考察

(1)考察するための事例
(2)目的と手段による説明
(2.1)目的
(2.1.1)生存するという目的
(2.1.2)生存以外の諸目的
(2.2)目的を実現する手段
(2.2.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
(2.2.2)良い、悪い
(2.2.3)必要と機能


(1)考察するための事例
(a)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
(b)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
(c)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
(d)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
(e)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
(i)目的と機能
 時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。

(ii)目的は人間が導入した
(f)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
(g)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
 人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言 葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の 諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(i)目的と機能
 成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良 い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための 「機能」として説明することもできる。
(ii)目的は人間が導入した。
(iii)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
 人間が、説明したらのために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している 諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味に おいて、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
(h)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
(i)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。

(i)目的と機能
 人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身 体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
(ii)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
 人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則 に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間 であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。
(2)目的と手段による説明
(2.1)目的
 法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。こ の目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸 目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(2.1.1)生存するという目的
(a)事実
 たいていの人間は、通常生き続けることを望むという事実がある。しかし、これは単 なる偶然的な事実であると反論することができる。
(b)仮定としての目的
 人間の法や道徳、すなわち人間が共同していかに生きるべきかを解明するためには、 生存することを目的として仮定して理論を構築する。なぜなら、「ここでの問題は生き続ける ための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである」。
(2.1.2)生存以外の諸目的
 生存すること以外の目的、人間にとっての善、人間にとっての特定の良き生き方といっ たものには、様々な意見があり、意見の深い不一致も存在する。
(a)人間が作った、単なる慣習である規則や目的。
 個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなもの がたくさん見られる。
(b)人によって異なる特定の目的。

(2.2)目的を実現する手段
(2.2.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
 生存という目的を阻害するか、促進するか。生存することが、他の諸目的とは異なる特 別な地位にあることは、生存することが、世界や人間相互のことを記述するのに用いる、思考 や言語の構造全体に反映されていることから実証できる。
(2.2.2)良い、悪い
 生存以外の目的に対しても、目的に役立つかどうかで良い、悪いと語ることができる。
(2.2.3)必要と機能
 生存という目的のために「必要」なもの。例えば、食物や休息。目的を実現するための 「機能」による説明が可能である。例えば、血液を循環させるのが心臓の機能である。これ は、単なる因果的説明とは異なる。




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第3部 様々な法の概念&自然法とは何か

(1)定義による法の概念
(2)実証主義
(3)目的と手段による説明
(3.1)自然法の基礎づけ
(3.2)自然権批判(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(4)原因と結果による説明
(5)人間に関する自然的事実
(5.1)人間の傷つきやすさ
(5.2)人間の諸能力のおおよその平等性
(5.3)限られた利他主義
(5.4)限られた資源
(5.5)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.1)事実とルールの明白性
(5.5.2)多数者による自発的な服従
(5.5.3)ルールを守る諸動機
(5.5.4)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.5)制裁の必要性

(1)定義による法の概念
(a)例えば、法体系は制裁の規定を備えていなければならないとするもの。
(2)実証主義
 法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に 関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳 の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)法は、事実として存在するルールであり、いかなる内容でも持つことができる。
(b)たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは、単に一つの事実にすぎない。

(3)目的と手段による説明
(3.1)自然法の基礎づけ
 人間に関する単純で自明な諸事実から導出可能な法の諸特性(自然法の基礎づけ)
 人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。こ れは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因 果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)生存する目的を前提として仮定する。
(b)自然的事実:人間に関する、ある単純で自明な諸事実が幾つか存在する。
(c)法と道徳は、自然的事実に対応する、ある特定の内容を含まなければならない。
 その特定の内容を含まなければ、生存という目的を達成することができないため、その ルールに自発的に服従する人々が存在することになり、彼らは、自発的に服従しようとしない 他の人にも、強制して服従させようとする。
(3.2)自然権批判(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

 

(4)原因と結果による因果的説明
(a)心理学や社会学における説明のように、人間の成長過程において、身体的、心理的、経 済的な条件のもとにおいて、どのようなルール体系が獲得されていくかを、原因と結果の関係 として解明する。
(b)因果的な説明は、人々がなぜ、そのような諸目的やルール体系を持つのかも、解明しよ うとする。
(c)他の科学と同様、観察や実験と、一般化と理論という方式を用いて確立するものであ る。

(5)人間に関する自然的事実
(5.1)人間の傷つきやすさ
 人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいとい う事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要 請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきや すいという事実が存在する。
(b)法と道徳は、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するルールを含まなけ ればならない。

(5.2)人間の諸能力のおおよその平等性
 人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実 が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請され る。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人間の諸能力の差異
 人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互 いに異なる。
(b)人間の諸能力のおおよその平等性
 それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほ ど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的 にその優位性を失う。
(c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
 人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分 やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多く のものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであ ろう。
(d)相互の自制と妥協の体系
 法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明 らかになる。
(e)違反者の存在
 そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約 を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
(f)国際法の特異な性質
 強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間 のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強 制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。
(f.1)国家間に巨大な不均衡が存在する場合、制裁はうまく機能しない。
(f.2)このような場合、秩序の維持は、実質的に相互自制に基づいている。
(f.3)その結果、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られて いた。
(f.3)弱い国は強国に精一杯の条件を付けて服従し、その保護の下で安全を保障すると いうのが、唯一可能な体系であろう。
(f.4)その結果、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる、多くのあい争う 力の中心が出てくることになろう。

(5.3)限られた利他主義
 人間の利他主義が限定的で断続的なものだという事実が、相互自制の体系を要請する。また同 時に人間には、仲間の生存や幸福に関心を持つ傾向性があるという事実が、相互自制の体系を 可能なものとする。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人間は、天使ではない。
 人間の利他主義は、目下のところ限られたものであって、断続的なものであるから、攻 撃したいという傾向は、もし統制されなかった場合、ときには社会生活に致命的な打撃を与え るほどのものとなることもある。
(b)人間は、悪魔ではない。
 人間は非常に利己的で、仲間の生存や幸福に関心を持つのは、何か下心があるからだと いうのは、誤った見解である。
(c)相互自制の体系の必要性と可能性
 以上の事実から、相互自制の体系は、必要であるとともに、可能でもあることが示され る。相互自制の体系は、天使には不要で、悪魔には不可能である。

(5.4)限られた資源
 生存のための資源が限られているという事実が、何らかの財産制度を要請し、分業の必要性 が、譲渡、交換、売買のルールを要請し、協力に不可欠な他人の行動の予測可能性を得るため に、約束を守るルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)限られた資源
 人間が食物や衣服や住居を必要とするのに、それらが手近に無尽蔵にあるのではなく乏 しいので、人間労働によって栽培したり自然から獲得したり、あるいは建設しなければならな い。
(b)財産制度
 以上の事実から、何か最小限の形態の財産制度、およびそれを尊重するように求める特 別な種類のルールが不可欠となる。
(c)分業の必要性
 人間は、十分な供給を得るために、分業を発展させなくてはならなくなる。
(d)譲渡、交換、売買のルール
 以上の事実から、自分の生産物を譲渡、交換、売買することを可能にするルールが必要 となる。
(e)他人の行動の予測可能性の必要性
 分業が不可避であり、また協力がたえず必要となる。そのためには、他人の将来の行動 に対して最小限の形態の信頼を持つため、また協力に必要な予測可能性を確保する必要があ る。
(f)約束を守るというルール
 以上の事実から、約束することが責務の源であるというルールが作られる。この工夫に より、個人は、一定の定められた方法で行動しなかった場合に、口頭あるいは書面の約束に よって、自らを非難あるいは罰の下におくことが可能となるのである。

(5.5)限られた理解力と意思の強さ
 事実とルールの明白性により、多数者は自発的にルールに服従する。しかし、ルールを守る諸 動機の多様性と、人間の理解力と意思の強さの限界から、少数の違反者が存在しうる。この事 実が、制裁の制度を要請する。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(5.5.1)事実とルールの明白性
 以下の事実は単純であり、ルールを守ることによる利益も明白である。
(a)人間の傷つきやすさと、殺人や暴力の行使の制限
(b)人間の諸能力のおおよその平等性と、相互の自制の必要性
(c)限られた利他主義と、相互の自制の必要性と可能性
(d)限られた資源と、財産制度、譲渡、交換、売買、約束のルールの必要性

(5.5.2)多数者による自発的な服従
 大抵の人は、理解することができ、ルールに従うため、自分自身の目前の利益を犠牲に することもできる。

(5.5.3)ルールを守る諸動機
(a)他人の幸福を私心なく考慮して従う者。
(b)ルールをそれ自体尊重する価値があるとみなし、それに従うことにみずからの理想 を見い出す者。
(c)得るところが大きいという慎重な計算から従う者。

(5.5.4)限られた理解力と意思の強さ
 しかし、ルールに従う諸動機の様々であり、全ての人が、善良であり、ルールを守る強 い意思を持ち、守ることによる長期的な利益を理解しているとは限らない。
(a)ときには、自分自身の当面の利益を選びたい気になるだろう。
(b)調査し罰するような特別の組織がない場合には、多くの者は負けてしまうだろう。

(5.5.5)制裁の必要性
 体系の責務には従わないで、体系の利益を得ようとする者がいる場合、自発的に服従し ようとする者が、服従しようとしない者の犠牲にならない保障として、制裁が必要となる。な ぜなら、服従することが不利になる危険をおかすことになってしまうからである。

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第4部 社会的ルールとは何か
《目次》
(1)習慣
(2)社会的ルール
(2.1)ルールの存在は事実の問題
(2.2)外的視点
(2.3)内的視点
(2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
(2.5)感情
(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
(3.1)「せざるを得ない」
(3.2)「責務を負っている」
(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
(4)「すべきである」と「責務を負っている」の違い
(4.1)概要
(4.2)外的視点
(4.3)内的視点
(4.4)心理的経験




(1)習慣
 ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返され る。

(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。
 人が、あるルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更され えないものとしてこれを受けいれているとは、どのようなことか。
参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け 容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な 言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(2.1)ルールの存在は事実の問題
 ルールが存在するかどうかは、ある状況における行為の仕方、心理的な思考過程に関す る、ある事実が存在するかどうかの問題であり、証拠によって裏付けられるようなものであ る。

(2.2)外的視点
(a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況におい ては、特定の行動が繰り返される。
(b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
(c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。
 なぜ、その行為が正しいのかと理由が求められ たとき、そのルールが参照される。また、行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当 化される。
(c)批判的態度
 基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十 分な理由として受け容れられている。
(d)反省的態度
 批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
(e)一致への要求
 逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられてい る。
(f)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
(f.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
(f.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろ う。
(f.3)恥、自責の念、罪の意識という個人の感情の働きに、任されている場合もあるだ ろう。
(f.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もある だろう。
(g)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
 批判、是認、要求を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例え ば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っ ている」。

(2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
 社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能な ルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識的、直感的な、行為自体が示すルールもあり 得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)ルールについて、行為者が意識的に考慮すること、またルールの容認を表明すること とは、必ずしもルールの存在の要件ではない。
(b)状況に応じた無意識的、直感的な行為が、あるルールの存在を示している場合もあり 得るだろう。
(c)別のルールに動かされている人が、見せかけやごまかしで、あるルールの容認を表明 する場合もあり得るだろう。
(d)事実として存在し、また同時に明確な基準として意識されているルールに、一致しよ うとする真の努力によって、行為が導かれている場合もあり得るだろう。
(e)一般的でしかも仮定的な用語で記述され得るルールも存在するし、記述するのが難し いルールも存在し得るだろう。

(2.5)感情
(a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験す る。
(b)社会的ルールと感情との関係
 感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、 ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受 け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。


(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
 「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。そ れは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する 事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(3.1)「せざるを得ない」
(a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
(b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避 けるためそうしたということを意味する。
(c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合 や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないことも あろう。

(3.2)「責務を負っている」
(a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
(b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
(c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促す ことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。

(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
 社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語 る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持 つ。
(b)ルールが存在することを拒否する。
(c)この人々は、ルールに「服従」している。
(d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含ま れている必要がない。
(e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
(b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。

(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
 論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を 負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責 務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(a)人間の歴史の痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員のいくらかの 者に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要は ないということを十分に示している。
(b)公機関
 法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関 の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱 は義務からの違反として、批判される。
(c)一般の私人
 これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに 「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
 単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは 例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自 制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハー バート・ハート(1907-1992))
(a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社 会。
 (i)体系が公正であり、服従を要求される全ての人々の非常に重要な要求を満たして いるならば、このような社会が実現し、その社会は安定しているだろう。
 (ii)このような社会で、強制的な制裁が加えられるのは、ルールの保護を受けている のに、利己的にルールを破る例外的な人びとに対してだけであろう。
(b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠 殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
 (i)支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用 できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能 であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられ るかもしれない。
 (ii)このような社会で圧迫される人々にとっては、この体系には忠誠を命じるものは 何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。

(4)「すべきである」と「責務を負っている」の違い
 「すべきである」と「責務を負っている」は、共に社会的ルールの存在を前提とするが、ルー ルの重要さ、逸脱の重大さ、社会的圧力の強さの点で本質的に異なる。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(4.1)概要
 エチケットや正しい話し方のルールは、「すべきである」社会的ルールである。しかし、 「責務を負っている」社会的ルールには、さらに追加の特性が必要である。
社会的圧力の種類によって、「道徳的責務」や「法」の始原的形態を分類、区別したくなる かもしれない。しかし、同一の社会的ルールの背後には、異なるタイプの社会的圧力が並存す ることもあるだろう。より重要な分類は、「すべきである」と「責務を負っている」の区別な のである。

(4.2)外的視点
(a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況におい ては、特定の行動が繰り返される。
(b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
(c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。

(4.3)内的視点
(a)行動様式に関する共通の基準が存在する。
(a.1)「すべきである」に比べ、「責務を負っている」は、ルールに従うことが重要な ことであり、一般に強く求められている。
(b)批判的態度:基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十 分な理由として受け容れられている。
(b.1)「責務を負っている」社会的ルールは、社会生活そのものを維持し、その社会に おいて非常に重んじられているものを維持するのに、必要なルールであると思われている。例 えば、
(i)暴力の自由な行使を制限するルール
(ii)社会集団の中である一定の役割や役目を果たす人が、何をなすべきかを定めてい るルール
(iii)正直であること、誠実であること、約束を守ることを求めるルール
(b.2)「責務を負っている」社会的ルールは、人々の互いに衝突する利害に関わる。
(i)責務は、他人に利益を与える。
(ii)責務を負っている人は、自己が望んでいることを自制し、利益を犠牲にする側面 がある。
参照:「責務を負っている」ルールは、社会生活の維持や、 社会にとって非常に重要なものの維持に必要だと考えられており、また人々の互いに衝突する 利害に関わる点で、「すべきである」ルールは異なる。(ハーバート・ハート(1907- 1992))
(c)反省的態度:批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
(d)逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられてい る。
(e)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
「責務を負っている」ルールは、逸脱は重大なことであり、一般的に社会的圧力は大き い。
(e.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
(e.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろ う。
(e.3)個人の、恥、自責の念、罪の意識という感情の働きに、任されている場合もある だろう。
(e.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もある だろう。
(f)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
 批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例え ば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っ ている」。

(4.4)心理的経験
(a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験す る。
(b)社会的ルールと心理的経験の関係




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第5部 在るべき法の源泉としての道徳

(1)一般の行動規則
(1.1)ルールの諸属性
(2)道徳的な原則
(2.1)在るべき法の源泉としての道徳
(2.2)道徳的な原則の4つの特徴
(2.3)重要性
(2.3.1)基準が遵守されない場合の影響力が大きい
(2.3.2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求される
(2.3.3)遵守のための社会的圧力が大きい
(2.3.4)事例
(2.4)意図的な変更を受けないこと
(2.5)道徳的犯罪の自発的な性格
(2.5.1)身体的・精神的能力
(2.5.2)行為基準の自明性
(2.5.3)自己コントロール可能性
(2.5.4)故意または過失による基準からの逸脱
(2.5.5)考察するための事例
(2.6)道徳的圧力の形態
(2.6.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
(2.6.2)違反者自身による罰(良心の感情)
(2.6.3)敵対的な社会的反作用
(2.6.4)刑罰による不愉快な結果による威嚇
(2.6.5)個人的利益
(3)正義の原則
(4)法:実際に在る法
(5)道徳的な原則と在る法との相互作用 


(1)一般の行動規則
 個人の行動に関する一定のルールや原則

(1.1)ルールの諸属性
 一般のルールが持つ諸属性:(a)重要性、(b)意図的な変 更を受けるか否か、(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件、(d)社会的圧力の形態、(e) ルールが適用される集団の範囲。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(a)重要性
(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
(a.2)社会的圧力の大きさの程度
 (i)例えば、違反に対して当然なすべき「正しい」ことを主張し、それを思い出させ る。
 (ii)例えば、違反に対して厳しい非難や侮辱、関連団体からの除名を伴う。
(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
 (i)集団の安全や存続、集団の健康のために必要なルール。
 (ii)ときには、誤った迷信や無知から生じた信念が反映されたルール。
 (iii)ルールは、社会ごとに異なるであろうし、一つの社会においても時代とともに変 わるであろう。

(b)意図的な変更を受けるか否か
 (i)例えば、合意や意図的な選択に由来するものではなく、意図的には変更できない。 
 (ii)例えば、合意によって拘束力が生じ、自主的な脱退を許す。
 (iii)法的ルールは、承認、裁判、変更のルールを含む。

(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件
(c.1)自明なルールか、理解を要するルールか
 (i)例えば、判断する能力があれば、誰でも「正しい」行為が分かると見なされるよう な、社会において広範に容認されている慣習的なルール。正常な大人なら誰でも行ない得る、 単純な差し控えか、活動である。
 (ii)例えば、理解していなければ遵守できないような、多くの人々に共有されているわ けではない、理想的なルール。特別な熟練や知性を必要とする。
(c.2)故意または不注意が犯罪とされるか、結果責任か
 (i)自己をコントロールして正しい行為をすることが可能だったにもかかわらず、違反 したことによって犯罪とされるようなルール。すなわち、善良な意思、正しい意図または動機 があれば、違反とはされないようなルール。
 (ii)自己をコントロール可能だったか否かにかかわらず、違反した行為の結果から犯罪 だとされるようなルール。

(d)社会的圧力の形態
 (i)例えば、ルールに対する尊敬、罪の意識、自責の念によって維持されるルール。
 (ii)例えば、刑罰の威嚇によって主として維持されるルール。
 (iii)例えば、違反は厳しい非難を招く。しかしルールを守ることは、例外的な誠実さ、 忍耐、特別な誘惑への抵抗により特徴づけられるとき以外、称賛されることはない。

(e)ルールが適用される集団の範囲
 (i)例えば、社会集団一般に適用されるルール。
 (ii)例えば、社会階層のような一定の特質によって区分される、特別な下位集団に適用さ れるルール。
 (iii)例えば、特定の目的のため結成された集団に適用されるルール。

(f)ルールが適用される行為の範囲
 (i)例えば、集団生活の中で絶え間なく起こる状況において、行われるべきこと、行われ るべきでないことを定める、一般的なルール。
 (ii)例えば、特殊な種類の行為におけるルール。

(2)道徳的な原則
 個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
(2.1)在るべき法の源泉としての道徳
 在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則 も、在る法を批判する根拠の一つである。
(2.2)道徳的な原則の4つの特徴
参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴が ある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道 徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(2.3)重要性
 道徳的な原則は、(1)基準が遵守されない場合の影響が大 きいため、(2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求され、また(3)遵守のための 社会的圧力が大きい。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(2.3.1)基準が遵守されない場合の影響力が大きい
大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。
(2.3.2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求される
大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。 
小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
(2.3.3)遵守のための社会的圧力が大きい
大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え 込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
小さい:大きな圧力は加えられない。
(2.3.4)事例
 発展した法体系をもつ全ての社会において、法的ルールでないにもかかわらず、法的 ルールと多くの類似点をもつ、最高の重要性を与えられているルールが存在する。それが、道徳的責務 である。
道徳的責務の例。
(i)暴力の自由な使用の禁止
(ii)有体物の破壊、あるいはそれを他人から奪うことを禁止するルール
(iii)他人とかかわる際に、一定の形態の誠実さと正直さを要求するルール
(iv)他人と特別な関係に入ることによって受ける特別な責務。例えば、約束を守ると か、利益を受けたらそのお返しをする責務。ある役割を持った地位にあることによって生じる 義務。

(2.4)意図的な変更を受けないこと
 一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴が ある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。 しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート (1907-1992))
(a)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
(a.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、 道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異 なるという性質のものではない。
(b)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生 成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによって それを失う。
 道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な 変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消 滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート (1907-1992))
(b.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相 容れない法と道徳が併存する場合もある。
(b.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更し たり、高めたりすることもある。
(b.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅 することもある。
(b.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統 を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
(c)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様で ある。
(d)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。

(2.5)道徳的犯罪の自発的な性格
 できる限りの注意と自己コントロールによって、正し い行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異 なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(2.5.1)身体的・精神的能力
 道徳的な原則、法的ルールに従うことが可能な肉体的、精神的能力を持っている。
基礎的な能力を欠く人は、道徳的にも法的にも免責される。
(2.5.2)行為基準の自明性
 何が正しい行動なのかを知っている。
(a)道徳:仮に、何が正しいかを知らなったとき、道徳的責務はあるのか、ないのか? 
(b)法:個人が現に持っている心理的状態を客観的に究明することには困難があり、法 的責任においては、自制の能力、注意能力を持つ人は、正しいことを判断できるとみなす。 
(2.5.3)自己コントロール可能性
 できる限りの注意をすれば、自己をコントロールして、正しい行動を取ることができ る。
(a)道徳:道徳的責任が生じるための一つの必要条件である。できる限りの注意をして も、その行動が避けられないときには、免責される。すなわち、道徳的な原則においては、 「せざるを得なかった」は一つの弁解になる。
(b)法:法的責任は「せざるを得なかった」場合でも、除かれるとは限らない。すなわ ち、故意でなく、注意も怠らなったとしても、「厳格な責任」を負う場合もある。ただし、身 体的に正しい行動を取り得ないという最低要件は別である。
(2.5.4)故意または過失による基準からの逸脱
 判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能で あるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする。この場合、道徳的にも法的にも責任は逃れられない。
(2.5.5)考察するための事例
(a)正当防衛上必要な措置としてなされた殺人
(b)正当防衛以外の理由で、正しいと誤認された殺人
(c)あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤ってなされた殺人
(d)不注意や過失による殺人
(e)故意の殺人
(2.6)道徳的圧力の形態
 ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑 罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反 者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(2.6.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
 判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能で あるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする場合、それは「悪」で あり行為者が責任を負わなければならない。例えば、「それでは嘘になるだろう」とか、「そ れでは約束を破ることになるだろう」など。
参照:できる限りの注意と自己コントロールによって、正し い行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異 なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(2.6.2)違反者自身による罰(良心の感情)
 仮に、違反に対する敵対的な社会的反作用、刑罰による威嚇、遵守することによる個人 的利益がなかった場合であっても、違反することによって恥辱の感情、罪の意識、自責の念が 生じる。
(2.6.3)敵対的な社会的反作用
 軽蔑、社会関係の断絶、社会からの追放などの例。
(2.6.4)刑罰による不愉快な結果による威嚇
(2.6.5)個人的利益

(3)正義の原則
 個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部 である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法

(5)道徳的な原則と在る法との相互作用 



────────────────────

第6部 法の発展、第1次的ルールから国際法まで


(1)世界についての最も自明な真理
(2)人間の性質に関する最も自明な真理
(2.1)犯しやすい誤り
(3)社会的統制の手段
(3.1) 責務の第1次的ルール
(3.2)2種類の人びと
(3.3)社会の存続条件
(4)第1次的ルールと第2次的ルール
(4.1)第1次的ルール(基本的ルール)
(4.2)第2次的ルール
(5) 第1次的ルールのみの欠陥
(5.1)ルールの不確定性
(5.2)補われる第2次的ルール:承認のルール
(5.3)ルールの静的な性質
(5.4)補われる第2次的ルール:変更のルール
(5.5)ルールの非効率性
(5.6)補われる第2次的ルール:裁判のルール

(6)主権的立法権
(6.1)主権的立法権は絶対なのか
(6.2)問題: 究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか

(7)国際法 
(7.1)国際法の意思主義、自己制限論
(7.2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
(7.3)第1次的ルールとしての国際法



 人間が互いに接近して共存する場合に犯しやすい誤り
(a)暴力の勝手な行使
(b)盗み
(c)欺罔
(3)社会的統制の手段
 集団がとる一般的態度だけが、唯一の社会的統制の手段となっているような社会の特徴
(3.1) 責務の第1次的ルール
 責務の第1次的ルールは、人間が犯しやすい誤りを抑制する何らかのルールを含む。
(a)暴力の勝手な行使の制限
(b)盗みの制限
(c)欺罔の制限
(3.2)2種類の人びと
 ルールを受け入れ内的視点から見られたルールによって生活する人々と、社会的圧力 の恐れによって従う以外はルールを拒否する人々との間に緊張が見出される。
(3.3)社会の存続条件
 非常に緩やかに組織されている社会が存続し得るには、次の条件が必要である。
(a)社会が、おおよそ同じような肉体的強さをもつ人々から構成されていること。
(b)ルールを受け入れる人々が多数であり、ルールを拒否する人々が恐れる程度の社 会的圧力を維持できること。
(c)次のような、密接に結びつけられた小さな集団の場合。
 (i)血縁によるきずな
 (ii)共通の心情、信念のきずな


(4)第1次的ルールと第2次的ルール

 社会的ルールには、義務を要求する第1次的ルールと、ある行為や発話によって第1次的ルール を創設したり変動させたりする第2次的ルールがある。(ハーバート・ハート(1907- 1992))


(4.1)第1次的ルール(基本的ルール)
(a)ルールは、義務を課する。人々はある行為を為したり、差し控えることを要求され る。
(b)ルールは、物理的動きや変化を含む行動に関係する。
(4.2)第2次的ルール
(a)人々がある事を行なったり述べることによって、第1次的タイプの新しいルールを導 入し、古いルールを廃棄、あるいは修正したり、様々なやり方でその範囲を決定したり、それ らの作用を統制することができるように定める。
(b)ルールは、公的または私的な権能を付与する。
(c)物理的動きや変化だけでなく、義務や責務の創設や変動のきっかけとなる作用を用意 する。
(d)行為遂行的言語
 言葉は、世界の記述のために用いられるだけでなく、社会的な慣行の存在を背景として、責務を創造したり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させることもできる。法律行為の一般的性質は、言語の遂行的用法として理解できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))



(5) 第1次的ルールのみの欠陥
 それ以外では、第1次的ルールのみからなる単純な社会統制の形態では、次の欠陥が現れ る。

 第1次的ルールは次の欠陥を持つ:(a)不確定性:何がルールかが不確定、(b)静的である:意識 的にルールを変更できない、また権利や義務の変更を扱えない、(c)非効率性:ルール違反の判 定や、違反の処罰が非効率的である。(ハーバート・ハート(1907-1992))。

(5.1)ルールの不確定性
(a)特定の集団の人々がそのルールを受け入れているという事実の他には、何がルー ルなのかを確認する標識がない。
(b)その結果、何がルールであり、あるルールの正確な範囲が不確定である。
(5.2)補われる第2次的ルール:承認のルール
 第1次的ルールがある特徴を持つが故に、集団のルールであると確定する第2次的ルールが承認 のルールである。例として、特別な団体による制定、長い間の慣習、司法的決定の蓄積、権威 ある文書への記載等。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 第1次的ルールが持つある特徴を明確にし、そのルールが特定の特徴を持てば、集団の ルールであることが決定的、肯定的に確定されるようなルールを、人々が受け入れている。
(a)文書や記念碑(法体系の観念の萌芽)
(a.1)存在しているルールが、権威的な目録や原典に記載されたり、公の記念碑に刻 まれる。
(a.2)そして、ルールの存在に関する疑いを処理するのに、その文書や記念碑が、権 威のあるものとして、人々に受け入れられるようになる。
(b)ルールの持つ諸特徴(法的妥当性の観念の萌芽)
(b.1)特別な団体によって制定されたルール(制定法)
(b.2)長い間の慣習として行なわれてきたルール(慣習)
(b.3)過去、司法的決定よって蓄積されてきたルール(先例)
(b.4)ルールの間に起こりうる衝突に対して、どれが優越性を持つかというルール


(5.3)ルールの静的な性質
(a)ルールのゆるやかな成長の過程が存在する。
(i)ある一連の行為が、最初は任意的と考えられている。
(ii)その行為が、習慣的またはありふれたものとなる。
(iii)その行為が、義務的なものとなる。

(b)ルールの衰退の過程が存在する。
(i)ある行為が、最初は厳しく処理されている。
(ii)その行為への逸脱が、緩やかに扱われるようになる。
(iii)その行為が、顧みられなくなる。

(c)しかし、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、 変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しない。

(d)また個人は、責務や義務を負うだけで、この責務は、いかなる個人の意識的な選 択によっても変えられないし、修正されえない。責務の免除や、権利の移転というような作用 も、第1次的ルールの範囲には入っていない。

(5.4)補われる第2次的ルール:変更のルール
 新しい第1次的ルールを導入、廃止、変更するルール を定める第2次的ルールが、変更のルールである。遺言、契約、財産権の移転など、個人によ る制限的立法権能も、この変更のルールに基づく。(ハーバート・ハート(1907-1992)) 
 新しい第1次的ルールを導入したり、古いルールを排除する権能を、ある個人または団 体に与えるというルールを、人々が受け入れている。このルールは、権能の範囲と手続を含 む。
(a)変更のルールが存在するときは、変更を成立させる諸条件と手続は、変更された ルールを確定させる条件になっているので、承認のルールにもなっている。
(a.1)例えば、制定法のみがルールを制定・変更できるとするルール
(a.2)例えば、統治する君主のみがルールを制定・変更できるとするルール
(b)個人による制限的立法権能の行使も、変更のルールである。すなわち、第1次的ルー ルに基づいて持っていた最初の地位を、変更する権能を個人に与えるルールである。
(b.1)「約束」という道徳的な制度の基礎となっているのが、この権能付与のルール である。
(b.2)例として、遺言、契約、財産権の移転など。

(5.5)ルールの非効率性
(a)ルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こり、絶え間なく続く。法の歴史 によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如は、最も重大な欠陥であり、他 の欠陥より早く矯正される。
(b)ルール違反に対する処罰が、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されてい る。
(c)違反者を捕え罰する、集団の非組織的な作用に費やされる時間が浪費される。 
(d)自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐の連鎖が続く。

(5.6)補われる第2次的ルール:裁判のルール
 個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の 個人に与えるという第2次的ルールが、裁判のルールである。他の公機関による刑罰の適用を 命じる排他的権能も含まれる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、 特定の個人に与えるというルールを、人々が受け入れている。また、違反の事実を確認した場 合、他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含む。
(a)裁判官、裁判所、管轄権、判決といった概念を定めている。
(b)裁判のルールが存在するときは、裁判所の決定は何がルールであるかについての権 威的な決定であるので、承認のルールにもなっている。
(c)社会的圧力の集中化、すなわち、私人による物理的処罰や暴力による自力救済の行 為を部分的に禁じるとともに、刑罰の適用を命じる排他的権能を定める。





(6)主権的立法権
 主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違え てはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバー ト・ハート(1907-1992))


(6.1)主権的立法権は絶対なのか

(1)法的妥当性の基準、法源が「最高」であるとは、
(a)ある承認のルール:最高の承認のルール、究極のルール
(b)別の承認のルール
(a)の基準に照らして確認されたルールが、他の諸基準(b)に照らして確認されたルールと 衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認される。逆に、(a)以外の諸基準に照ら して確認されたルールは、(a)の基準に照らして確認されたルールと衝突すれば、承認されな い。
(2)「最高」と「無制限」は混同されやすいが、別の概念である。
(2.1)憲法の条項のなかに、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、その最高性が 直ちに無制限な立法権を意味するものではない。
(2.2)憲法が、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、特定の条項を改正権の範囲 外におくことによって、明示的に、立法権限を制限している場合もある。
(2.3)従って、「すべての法体系は、法的に無制限な主権的立法権の存在を前提としてい る」という理論は、誤りである。


(6.2)問題: 究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか

(1)法的妥当性についての内的陳述
「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
(2)事実についての外的陳述
「あるルールが表現されている法体系は、裁判所や公機関や私人によって用いられている究 極の承認のルールによって、承認されている。」

究極の承認のルール
 ↓
特定の法体系の妥当性

(3)では、究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか
(3.1)承認のルールの妥当性は証明不能であり、ひとつの仮説なのか?

 ?
 ↓
究極の承認のルール......仮説
 ↓
特定の法体系の妥当性

(3.2)価値についての陳述なのか?
「あるルールが表現されている法体系の承認のルールは優れたものであって、それに基づく 体系は支持するに値する。」

究極の承認のルール.....価値についての陳述
 ↓
特定の法体系の妥当性

(3.3)解答:法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示してい る。
 法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルール の存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基 礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であ るとして単に容認されている。

(i)究極の承認のルールの適用......事実
(ii)裁判所を含む一般的な諸活動での
  │容認・使用......事実として確証可能
  ↓
 特定の法体系の妥当性

(3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題であ る。
 ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習 慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そ のものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハー ト(1907-1992))

(a)承認のルールは、裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認する際、 複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。
(b)ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答 えができないような状況も存在し得る。

(3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
(a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
(b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
(c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
(d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。


(7)国際法 
(7.1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。 
(7.2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。 なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課し た責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバー ト・ハート(1907-1992))
(2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
(2.2)論理的に首尾一貫していない。
(a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
(b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣 言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫す る。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
(c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条 約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじ めから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したもの ではなく、矛盾している。

(2.3)国際法の事実にあっていない。
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。 体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明の みが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907- 1992))
(a)体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的 な究明のみが明らかにし得る。
(b)実際は、これは事実ではなく、理論上、合意が黙示的に存在すると推定されたりす る。
(c)また、新しい国家が成立した場合や、以前には適応対象とならなかった領域におい て、国家がその領域に該当することになった場合を考えると、合意のみによって成立するとい うのは、事実に反することが分かる。

(7.3)第1次的ルールとしての国際法


────────────────────
第7部 半影の問題

《目次》

(0)半影の問題 
(1)何らかの「べき」観点の必要性
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
(1.2)批判の基準の存在
(1.3)基準は、どのようなものか
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
(3)難解な事例の解決は、在る法の自然な精密化、明確化である
(3.1)難解な事例の解決は、既に存在している法の発見である
(3.2)難解な事例の解決は、新たな法の創造ではない
(3.3)最高裁判所の決定の最終性は無謬性とは異なる
(3.4)日常言語における事例
(4)難解な事例における決定の本質
(4.1)法の不完全性
(4.2)法の中核の存在
(4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
(4.3.1)人間の不完全性と選択の必要性
(4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
(4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
(4.4)選択肢の非一意性
(4.4.1)選択肢の非一意性
(4.4.2)形式主義、概念主義の誤り
(4.5)決定は強制されず、一つの選択である

(5)先例から一般的原理を抽出すること
(5.1)記述的理論と指図的理論
(5.2)先例からルールを発見する方法



(1)何らかの「べき」観点の存在
┌──┘
│┌法──────┐
││                          │(4.1)法の不完全性
││法の中核          │(4.2)法の中核の存在
││想定された範例│(4.3)事実認識の不完全性/予知不可能性
││ 事実、目的 │(4.3)上記に起因する目的の不確定性
│└─────┬─┘
└─────┐│
    ↓↓
新たな事件、問題の解決、目的の明確化
┌────┐   ┌────┐             ┌────┐
│目的1 │   │目的2 │              │目的n │
│解決策1││解決策2│・・│解決策n│
└────┘   └────┘              └────┘
(4.4)選択肢の非一意性
(4.5)決定は強制されず、一つの選択である




(0)半影の問題 
 問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定す る責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにする のは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))

(0.1)法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれている。
(0.1.1)特定の種類の行為が、ルールによって規制されるべきだという意志を表明するには、 ルールの中で使用する言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例 を持っていなければならない。
(0.1.2)それにもかかわらず、言葉が明らかに適用できるとも適用できないとも言えないよう な議論の余地を持ったケースという半影の部分が存在する。
(0.2)半影の部分は、論理的演繹の問題ではなく、誰かが決定しなければならない。言葉が当面 のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に 対する責任とともに、誰かが負わなければならない。
(0.3)このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものより は良いものになるのであろうか。

 半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)それに もかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必 要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))


(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきも の」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
 在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
(1.2)批判の基準の存在
「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
 たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核 は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分 確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような 限界があることを示している。
(b)司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルール は、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、 存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(i)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
(ii)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言え ない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破る ことができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違 いである。
(iii)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀であ る。
(iv)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象 として、しかも悪として扱われる。

(c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしてい る。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定 しているのである。

(1.3)基準は、どのようなものか
(a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、 ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われ る。
(b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
(c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないよ うなものである。理由は、以下の通りである。
 半影的問題における司法的決定を導く法以外の 「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾し ないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハー バート・ハート(1907-1992))
(i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、その ルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて 行なわれる。
(ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
(d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選 択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
(e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
 (i)選択肢を考慮するさいの不偏性中立性
 (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
 (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとす る関心
(f)司法的決定を導く道徳的基準は、それに 法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏 性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。 (ハーバート・ハート(1907-1992))

(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りで ある。(ジョン・オースティン(1790-1859))
参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要 である。さもなければ、(a)法秩序の権威の正しい理解を欠いて、悪法を無視するアナーキス トか、(b)在る法の批判的分析を許さない反動家になるだろう。(ジェレミ・ベンサム (1748-1832))

(3)難解な事例の解決は、在る法の自然な精密化、明確化である
(3.1)難解な事例の解決は、既に存在している法の発見である
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在 する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすれば その中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。

(3.2)難解な事例の解決は、新たな法の創造ではない
 難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在 るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然 な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))




(a)持続的同一的な目的の明確化とルールの自然な精密化
 ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すな わち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。 それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化する ようなものである。
(b)在る法を超えた新たな法を創造することではない
 このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在 るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」と見なすことは、少なくと も「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。

(3.3)最高裁判所の決定の最終性は無謬性とは異なる
 最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る 法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化から逸脱していると思われる場合がある。す なわち、決定の最終性は無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(3.4)日常言語における事例
(a)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言う のかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
(b)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いた かったことだ。」というようなケースがある。
(c)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現 するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を 「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであ ろう。

(4)難解な事例における決定の本質
 半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の 中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、 一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以 下の諸事実を考慮することが重要である。
(4.1)法の不完全性
 法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
(4.2)法の中核の存在
 法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不 完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
(4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
 法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性 に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とと もに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(4.3.1)人間の不完全性と選択の必要性
 むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神では なくて人間だから、このような「選択の必要性」を負わされているのである。
(4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
 この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生 じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
(4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
(a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定 めている。
(b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となってい る論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定した ものにされていく。
(4.4)選択肢の非一意性
 選択肢の非一意性と選択の必要性の認識は、以下の目的にとって重要である。(a)想定され得 なかった事実の構造の解明、(b)用語の新たな解釈、より正確な概念の解明、(c)新たな問題 の解決と目的の明確化。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(4.4.1)選択肢の非一意性
 在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得る のだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っている のではないだろうか。
(4.4.2)形式主義、概念主義の誤り
 ルールの意味を凍結して、選択の必要性を認識しないことは、形式主義、概念主義、法 律家の「概念の天国」の誤りに導かれる。
(a)事実に関する不完全な認識と、予知不可能性から不可避的に生じてくる全く想定し ていなかった事件、問題に関して、未知の構造を解明しようとする努力がなされず、既存の枠 組みへのあてはめが行われる。
(b)一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体 系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる。その結果、様々な事 件で問題となっている論点の違いに照らして、その用語を解釈しようとするような努力が行わ れない。
(c)新たな事実の構造の中で解明されるべき概念が固定され、新たな問題の解決の中で 明確にされるべき目的が固定されることで、概念の一部が不正確になり、もたらされる社会的 結果の評価が不十分なものになる。

(4.5)決定は強制されず、一つの選択である
 存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するもので はないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないの ではないか。



(5)先例から一般的原理を抽出すること
(5.1)記述的理論と指図的理論

 科学における仮説的推理に類似している司法過程の 解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技 術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ ハート(1907-1992))

(1)裁判官が実際にその決定に到達する際の、通常の思考過程とか思考習慣についてなされる主張
 これは、心理学の経験的一般命題ないし法則である。すなわち、裁判官が実際にその決定に到達している仕方である。
(2)従われるべき思考過程についての提言
 司法判断の技法ないし技巧に関わっており、この分野の一般命題は司法的技術の諸原理である。裁判官が決定を正当化する際に考慮する諸基準に関わっている。決定が熟慮によって到達されようと、直感的なひらめきによって到達されようと、その決定の評価において、どのような論理が用いられているかどうかという問題である。
(3)司法的決定が評価されるべき基準
 これは、決定の評価ないし正当化に関係している。



(5.2)先例からルールを発見する方法
 先例が関わるある事実の言明と、あるルールとから、先例の決定が導出可能であるような一般 的ルールを発見できたとしても、同様に導出可能なルールは一意には決まらない。あるルール の選択には、別の諸基準が必要となる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)関連のある先例から、一般的ルールを発見して定式化する。
(b)その一般的ルールが、その先例によって正当化されるための必要条件は、その事件の事 実の言明と、抽出された一般的ルールとから、先例における決定が導き出されることである。

《説明図》
先例が関わる         ある一般的
ある事実の言明       ルール
│                ┌──────┘
↓                 ↓
先例の決定a

(2)一般的ルールは、一意には決まらない
(a)一般的に、ある先例の決定を導く一般的ルールは、他にも無数に存在している。その一 般的ルールが唯一のものとして選択されるためには、その選択を制約する別の諸基準が存在す るはずである。
(b)一般的ルールを正当化する諸基準とは何だろうか。
 (i)ある理論は、その事件にとって重要なものとして扱われるべき諸事実の選択基準が、 そのような諸基準だと考える。
 (ii)他の理論によれば、その先例を検討する後の裁判所が、論理上可能な諸ルールのなか から通常の道徳的、社会的諸要因を比較考量した後で選択するであろうルールである。

《説明図》
どの事実が         通常の道徳的、社会的
重要か                 諸要因を比較考量
 ↓                           ↓
先例が関わる     ある一般的
ある事実の  言明 ルールn n=1,2,3...
 │      ┌──────┘
 │      │
 ↓        ↓
先例の決定a


なぜ法に服従する責務があるのか。(a)功利主義による基礎づけ、(b)社会の成員として負う義務、(c)公平の原理。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法に服従する責務の説明

なぜ法に服従する責務があるのか。(a)功利主義による基礎づけ、(b)社会の成員として負う義務、(c)公平の原理。(ハーバート・ハート(1907-1992))


(a) 法に服従する責務に関する純粋に功利主義的な理論
 (i)この理論は、法に服従する義務を、幸福を促進する責務の特殊事 例にすぎないものと見なす。
 (ii)この理論は、悪法に対する不服従は、も しも不服従の結果が服従の結果よりも功利主義的に見て一層ましであるならばそれは正当化され る、という当然の帰結を伴っている。不服従の害悪には、法体系の権威を弱めることを通じて他の人びとに加えられるどのような害 悪をも含む。
(b) 社会の成員として負う義務
 法に服従する責務とは、 市民が同じ社会の一員としての相互的関係によって自分自身の社会の成員に対し特別に負って いると考えられる責務であって、たんに、危害、損害、苦痛を与えてはならないという人びと一般に対する責務の一例として理解されるものではない、
(c)公平の原理
 多数の人び とが、他の方法では得られない諸利益を獲得するために一定のルールによって自分たちの自由 に制約を加える時、他の人びとによるそのルールへの服従から利益を得た人びとは、今度は自分 たちがそのルールに服従する責務を負う。

法に服従する責務
 法に服従する責務に関する哲学的探求にとっては、この主題 の功利主義的な側面と他の道徳的側面との間の区別――正義のところで説明した区別に類似した もの――が必要とされる。ある人が法律の要求することを道徳上行なうべきことであることを立 証するためには、どのような明解な道徳理論においても、ただたんに法体系が、その法律の性 質如何を問わず、存在しているというだけでは不十分であることは明白なように思われる。し かしながら、法に服従する責務に関する純粋に功利主義的な理論に対してもまた、強力な反論 が存在している。その功利主義的な理論とは、この責務をたんに幸福を促進する責務の特殊事 例にすぎないものと見なす理論であり、したがって、この理論は、悪法に対する不服従は、も しも不服従の結果(法体系の権威を弱めることを通じて他の人びとに加えられるどのような害 悪をも含む)が服従の結果よりも功利主義的に見て一層ましであるならばそれは正当化され る、という当然の帰結を伴っている。この功利主義的な理論が説明することのできない道徳的 状況の特徴には、特に重要な二つのものがある。その最初のものは、法に服従する責務とは、 市民が同じ社会の一員としての相互的関係によって自分自身の社会の成員に対し特別に負って いると考えられる責務であって、たんに、危害、損害、苦痛を与えてはならないという人びと一般に対する責務の一例として理解されるものではない、というものである。二番目のもの は、法に服従しない人びとが自ら進んで処罰に服する場合(たとえば、良心的徴兵忌避者の場 合)のように、たとえそれらの人びとの不服従によって法体系の権威がほとんど、あるいは まったく傷つけられないことが明白であっても、人びとは法に服する責務の下にあるとしばし ば考えられている、というものである。
 社会契約の理論は、法に服従する責務のこれら二つの側面に焦点を合わせたものである。そ して、法への服従の責務は、他の人びとに対して公正であること――功利とは別のものであり、 功利と衝突する可能性のあるもの――の責務であると見なされうることを示す一定の考慮を、契 約論における神秘的なもの、あるいは他の是認し難いものから切り離すことは可能である。そ こに含まれている原理は、最も単純な形にして述べれば次のようになる。つまり、多数の人び とが、他の方法では得られない諸利益を獲得するために一定のルールによって自分たちの自由 に制約を加える時、他の人びとによるそのルールへの服従から利益を得た人びとは今度は自分 たちがそのルールに服従する責務を負う、ということである。この原理と功利の原理とが衝突 することはありうることである。なぜなら、たとえかなりの数の人びとが自分の番になっても 協力をせずルールに従わなくても、そのような制約によって獲得される諸利益はしばしば生じ てくるからである。功利主義者にとっては、もしも彼の協力がその体系の諸利益を獲得するた めに必要でないならば、彼がルールに従うべき理由は存在しえないであろう。実際に、その場 合、もしもある個人が協力したとすれば、彼は幸福の総量を最大化しそこなうという過ちを犯 したことになるだろう。というのは、もしも彼がその体系の制約に従うことなく体系の諸利益 を得るとすれば、幸福の総量は最大となるであろうからである。もしもすべての人びとがその 協力を拒否するとすればその体系は期待されている諸利益を生み出さないであろう、あるいは 崩壊してしまうであろうという憂慮は、そのようなすべての人びとによる協力拒否は起こらな いだろうということが知られている場合には――たいていの場合そうなのだが――、功利主義計算 においては重要性を持たないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問 題,pp.135-136,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb



ハーバート・ハート
(1907-1992)




言葉は、世界の記述のために用いられるだけでなく、社会的な慣行の存在を背景として、責務を創造したり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させることもできる。法律行為の一般的性質は、言語の遂行的用法として理解できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

行為遂行的言語

言葉は、世界の記述のために用いられるだけでなく、社会的な慣行の存在を背景として、責務を創造したり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させることもできる。法律行為の一般的性質は、言語の遂行的用法として理解できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))



「新しい分析法学の第二の特徴は、まったく異なった仕方で現代分析哲学に結び付いてい る。ウィトゲンシュタインは、どこかで言葉はまた行為でもあると述べていた。オースティン 教授の最も独創的な業績は、彼の死後出版された『言葉によって、いかに行為するか』の中に 見ることができる。その中で彼は、言葉が果たす多様な機能のうちには哲学者によって非常に 頻繁に見落とされているにもかかわらず、社会生活とりわけ法における一定の行為を理解しよ うとするときに最も重要なものとなる機能があると論じている。洗礼式を例にあげよう。式の 重要な時点において、ある文が語られる(「私はここにこの子をXと命名する」)。これらの 言葉を言った効果として、それまで存在していた社会状況が変化させられ、その子をXという 名で呼ぶことが「正しい」とされるようになる。ここでは、言葉は最も普通の用法である世界 の《記述のため》に用いられているのではなく、社会的な慣行を背景として《一定の変化を引 き起こすため》に用いられている。約束の言葉を述べるということについても同じことがあて はまる。「私の車で駅までお送りすることをお約束します」は事柄の《記述》ではなく、それ はその言葉を話した人に道徳的な責務を創造する効果を持つ発話である。それは話した人を拘 束する。言葉のこの用法が法においてたいへんな重要性をもつことは明らかである。それは、 「私はここに私の金時計を友人Xに遺贈します」と遺言者によって書かれた遺言書や、立法者 によって用いられた法の文言、たとえば「ここに、......法を制定する」を見れば明らかである。 法においては、正当な資格を備えた人によって、適切な状況の下で述べられた言葉は法的効果 を持っている。  イギリスの法律家はこのような仕方で用いられる言葉をときどき「効果発生」 語"operative" words と呼ぶが、法以外の分野にも広く見られるこの言語機能は、イギリ スの多くの哲学者には「遂行的言明」として知られている。法の内外における言語の遂行的用 法は多くの興味ある特殊な特徴を備えていて、その点で世界を記述する言明が真であるか偽で あるかに関心を抱くときにわれわれが使う言語の用法とは異なっている。法律行為 Rechtsgeschäfte の一般的性質は、言語の遂行的用法というこの考えをぬきにして は理解できないように思われる。何人かの法哲学者は、たんに言葉を使うだけで責務を創造し たり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させたりできるという事実にたいへん当惑 した。その中でも有名なのはヘーゲルストレームである。彼にとっては、それは魔術や法的 錬金術の一種に思えたのである。しかし、それが言語の特別な機能であることを認識するだけ でそれをちゃんと理解できることは明らかである。つまり、ある人がある言葉を話すときには 一定のルールが機能し始めるべし、ということを定めるルールまたは慣行が背景として与えら れると、それによって当該言葉の機能そして広義においてその言葉の意味が決定されるのであ る。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第5部 四人の法理論家たち,12 イェーリングの概念の天国と現代分析法理学,pp.313-314,みすず書房(1990),矢崎光圀(監 訳),松浦好治(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb


ハーバート・ハート
(1907-1992)




2021年12月23日木曜日

政治的論議や社会的諸制度の批判の場にお いて、非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的になるか、もしくは、総じて無意味ないし瑣末なものになる。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

自然権批判

政治的論議や社会的諸制度の批判の場にお いて、非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的になるか、もしくは、総じて無意味ないし瑣末なものになる。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))














(a)もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のであり、いかなる例外も、あるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは危険なほど無政府主義的になる。不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、確立された法を「無効」にし、法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するようなものと理解されることになる。
(b)逆に、一 般的な例外を承認するならばたとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針となる。




 「ベンサムの第二の批判は、政治的論議や確立された法および社会的諸制度の批判の場にお いて非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的であるにちがいないか、もしくは、総じて無意味ないし瑣 末なものであるだろう、というものである。もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のでありいかなる例外もあるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは前者であろ う。ある何らかの確立された法に対して強い反発感情を抱く人びとは、不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、このような感情を何かより以上のものとして、つまり 確立された法を「無効」にし法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するよう な、何か確立された法に優位するものの要求として表わすことができるであろう。そうする代 わりに、自然権が形式上絶対的なものとして表わされず(フランス「人権宣言」のように)一 般的な例外を承認するならば――たとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば――、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針なのである。かくして、新しいアメリカ諸 州のいくつかでは、憲法上、明文によって自然的自由が宣言されたにもかかわらず、それは奴 隷所有者の奴隷を所有する権利に影響を与えないとされたことで、自然権は瑣末なものとなっ たのである。このように、自然権は、政府の権力行使が常に自由や所有に対する何らかの制限 を伴っているがゆえに、整序だった政府と両立しえないか、それとも瑣末で空虚で役立たない かのどちらかである、とベンサムは結論づけたのである。」
 (ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利 主義と自然権,pp.214-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb


ハーバート・ハート
(1907-1992)




2021年12月21日火曜日

カール・ポパー(1902-1994)の命題集

カール・ポパー(1902-1994)命題集


カール・ポパー(1902-1994)















第1部 世界3論
第2部 心身問題
第3部 科学基礎論
第4部 社会科学方法論、進化論、歴史論
第5部 めざすべき社会──自由主義の諸原則



第1部 世界3論

(1)世界3は、世界1のなかに符号化されている
(2)世界3の存在
(3)世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である
(4)世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する
(5)人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりする ことができる
(6)世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である
(7)世界3の自律性

第2部 心身問題

(1)【各論の概要
(1.1)【徹底的唯物論】
(1.2)【同一説(中枢状態説)】
(1.3)【随伴現象論(epiphenomenalism)】
(1.4)【汎心論】
(2)【心身問題と世界3
(2.1)心身問題と世界3
(2.2)世界3に属するもの
(2.3) 世界3の生成と変化の法則
(2.4)一つの反論:世界3の創造とは、世界1または世界2の中の符号との相互作用ではないのか(ジョン・エックルス(1903-1997)) 
(2.5)反論への回答
(2.6)心身問題における言語の役割
(2.6.1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている
(2.6.2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である
(2.6.2.1)記憶と学習
(2.6.3)人間の理性と人間の自由の創発
(2.6.4)言語の機能
(2.6.5)言語のフィードバック効果
(2.6.6)世界3の所産としての自我

第3部 科学基礎論
(1)真理の探究
(2)理論の役割
 (2.1)道具主義的な計算規則と理論との違いは何か
(3)理論は実証できない
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
 (3.2)観察は知識の源泉ではないのか?
 (3.2.1)確実な経験と科学的事実
 (3.2.2)相互主観的テスト可能性
 (3.2.3)科学と独断論、心理主義
 (3.2.4)観察の役割
 (3.3)確実な知識の源泉はない
 (3.3.1) 観察、論理的思考、知的直観、想像力
 (3.3.2)知識の源泉としての伝統
 (3.4)理論は人間精神の一つの自由な創造物である
 (3.5)理論は人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している
(4)では、理論の客観性とは何か
《小目次》
(1)科学的知識の性質
(1.1)科学的客観性を保証するもの
(1.2)科学者の友好的かつ敵対的協働
(1.3)科学における権威主義と批判的アプローチの対比
(2)大胆な理論の提起
(2.1)科学と擬似科学を区別する反証可能性
(2.2)ある出来事が生じないことを予言する理論
(2.3)テスト可能性の度合
(2.4)テストの厳しさの度合
(3)誤りを除去する批判的方法
(3.1)批判に対する辛抱強い反論の必要性
(3.2)実験的テスト
(3.3)実験は理論に導かれている
《小目次終わり》

(5)経験主義の原理
(6)帰納の論理的問題
(7)批判的合理主義の原理
 (7.1)批判的推論
 (7.2)観察と実験の役割
 (7.3)理論の拒否、受容の条件
 (7.3.1)後退を防ぐ保守的な条件
 (7.3.2)新しい仮説に望まれる革命的な条件
 (7.3.3)観察と実験による判定
 (7.4)世界の謎は汲み尽くされることはない
(8)傾向なのか、方法と能動的な行為なのか
 (8.1)傾向と考える理論
 (8.2)方法と能動的な行為と考える理論

第4部 社会科学方法論、進化論、歴史論
(1)人間や社会に関する法則とは?

(1.1)社会理論と社会との相互作用
(1.1.1)情報から社会への影響(オイディプス効果)
(1.1.2)社会から情報への反作用
(1.1.3)社会に関する理論と社会との相互作用

(1.2)問題:社会に関する理論の客観性とは何か
(1.2.1)解答:予言と技術的予測
(1.2.2)技術的社会科学
(1.2.3)技術的社会科学の効用
(1.2.4)方法論的唯名論と本質主義
(1.2.5)解答:方法論的個人主義
(1.2.6)仮説モデルとしての社会的存在
(1.2.7)社会科学における実験に関する問題提起
(1.2.8)解答:科学的な実験とは何か
(1.3)価値論

《小目次》
(1)問題:人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
(2)我々は、いかに行為すべきか
(3)規範を事実の上に基礎づけることは不可能
(3.1)生物学的自然主義への批判
(3.2)倫理的実定主義への批判
(3.3)心理学的自然主義への批判
(4)フレームワークの神話
 (4.1)独断論
 (4.2)共約不可能性
 (4.3)相対主義
(5)フレームワークの神話の誤り
 (5.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
 (5.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
 (5.3)反論
 (5.4)反論への回答
 (5.4.1)方法1:自らの原理を強化する
 (5.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
 (5.4.3)客観的真理の増大という価値
 (5.4.4)合理主義と平等主義との関係
(6)私はいかに行為すべきか
《小目次終わり》


(2)生命の起源、生命の進化
(2.1)物理的過程との相関、累進的な単称的分析
(2.2)問題(あるいは情報)は実在的なものである
(2.3)生命の起源
(2.4)自己増殖、適応、変異
(2.5)問題解決方法も、問題であった
(2.6)進化論と世界3

(3)歴史とは何か
(3.1)問題:歴史における出来事の新奇性
(3.2)解答:新奇性、歴史性とは何か
(3.3)解答:単称言明である仮説
(3.4)問題:生命の進化や人間の歴史に法則は存在し得るのか?
(3.5)進化に傾向はあるのか
(3.6)規則性の因果的説明とは何か
(3.7)人間の歴史
(3.7.1)人間の歴史の道筋は予測できるのか
(3.7.2)歴史の中に「発見される意味」は恣意的、偶然的、非科学的なもの
(3.7.3)倫理的理念や目標設定によって初めて歴史に意味を読み取れる
(3.7.4)各世代の歴史解釈
(3.7.5)開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治
(3.7.6)将来の運命は私たち自身にかかっている

第5部 めざすべき社会──自由主義の諸原則

(1)必要悪としての国家
(1.1)政治的、物理的制裁力
(2)民主主義の本質
(2.1)多数者支配は民主主義の本質ではない
(2.2)民主主義かどうかの認定規準
(2.3) 民主主義的憲法の改正限界
(2.4)寛容の限界
(2.5)民主主義を保護する制度
(2.6)経済的諸利益が依存するもの
(2.7)全ての闘いにおいて民主主義の維持が最優先である
(3)何事かをなし得るのは市民
(3.1)個人主義
(3.2)個人主義的利他主義
(4)民主主義は、最も害が少ない
(4.1)開かれた社会
(5)制度は善用も悪用もできる
(6)制度を支える伝統の力
(7)自由主義の諸原則は改善のための原則
(7.1)事実から目標は導出できない
(7.2)事実から目標が導出可能とする反論
(7.3)政治とは、政治目標とその実現方法の選択である
(7.4)最初に目標を決めることについて
(7.4.1)ユートピア的態度
(7.4.2)ユートピア主義への批判
(7.5)空想的な目標
(7.5.1)善い目的は悪い手段を正当化するか
(7.5.2)より大きな悪を避けるための手段としての悪
(7.5.3)ある行為の全結果と他の行為の全結果の比較
(7.5.4)政治権力と社会知識の相補性
(7.5.5)世論について
(7.5.6)制度による選抜の弊害
(7.6)事実の評価
(7.6.1)ピースミール工学
(7.7) 悪に対する漸次的闘い
(8)伝統としての道徳的枠組み
(8.1)伝統の力
(8.2)合理的討論の原則
(8.2.1)可謬性の原則
(8.2.2)合理的討論の原則
(8.2.3)真理への接近の原則
(8.3)思想の自由と真理
(8.4)知にかかわる倫理


───────────────────

世界3論
《概要》

《目次》
(1)世界3は、世界1のなかに符号化されている
(2)世界3の存在
(3)世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である
(4)世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する
(5)人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりする ことができる
(6)世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である
(7)世界3の自律性

(1)世界3は、世界1のなかに符号化されている
(a)世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、 社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。対象の多くは 物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。

┌世界1────┐
│人間⇒世界3│
│   の符号│
└───────┘
(b)モナド論による定式化:実体的紐帯の精神
 人間の精神は、書籍を媒介物として、他者の精神と直に接触する。それは、自己の精神内の現象でありながら、元々の自己ではなく、また他者の精神そのものでもない。これを、新たなモナドである実体的紐帯の精神という概念で理解する。
 一般化する。人間は、人間の精神が創り出した物理的対象物を媒介物として、他者と相互作用する。一つの物理的媒介物は、一つの実体的紐帯を発生させる。実体的紐帯の精神が世界3である。
(2)世界3の存在
 世界3は、単に世界1の特定の対象ではない。また、個々の世界2の集まりともみなせな い。世界1、世界2とは別の世界が確かに存在する。
(a)人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2と は異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではない し、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。そして内容は、本ごとや版 ごとで変わりはしない。
(b)世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人に よって計画的に生産された結果ではない。

┌世界2────┐
│世界3  ⇔ 世界3
│の符号  │
└───────┘

(3)世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である
(参照:世界3とは何か?(カール・ポパー(1902- 1994))
 世界1に具現化されている世界3は、本のように符号化されたものもあれば、芸術作品のよう に世界1の対象の役割がより大きいものもあるが、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解 するのは、物質化された世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面 である。

(a)私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符号化、具現化されたも のを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われる。
(b)特別な本ではない場合は、世界1の対象は単に付随的な符号と思われるかも知れないが、 例えば、ダンテの稀覯本を扱う際の鑑識家の楽しみは、特定の対象としての世界1に依存して いる。しかし、その楽しみは歴史などの知識に基づく世界3に属している。
(c)例として、ミケランジェロの彫刻はどうだろう。この場合は、さらに世界1の対象の役割 が大きくなる。しかし、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、物質化された 世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面である。
(d)モナド論による定式化
 個別の精神が接触するのは、実体的紐帯の精神である。

(4)世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する
(a)世界3は、物理的対象としての世界1としては常に存在するにしても、いずれかの世界2 が存在するときだけ存在すると言えるのか。それとも、世界2の記憶、意図の対象としていっ さい存在しないときにも、存在すると言えるのか。
(b)世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界3として存在する。
(c)一度も演奏されなかったとしても、楽譜やレコードのように、記号化した形でのみ存在 している対象もまた、世界3として存在する。
参照:世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界 3として存在する。また、世界3の実在性を理解することは、世界3での新発見や創造と、未解 決の問題を解決する探究の、前提条件である。(カール・ポパー(1902-1994))
(d)モナド論による定式化
 実体的紐帯の精神は、個別の人間精神と相互作用していないときも、存在する。実体的紐帯の身体たる、個別の人間の集合体と媒介物である人間精神の所産が存在する限り実体的紐帯の精神も存在すると考えて良い。個別の人間が存在しなければ、実体的紐帯も滅びる。

(5)人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したり することができる
世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中 に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カー ル・ポパー(1902-1994))
(a)モナド論による定式化
 個別の精神は、実体的紐帯の精神と相互作用する。物理的媒介物がなければ、感じたり考えたり行動したり、できないわけではない。


(6)世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である
人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、 世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶなら ば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))
(i)科学理論の構築は、科学者による既存の理論の理解、新しい問題の発見、解決法の提案、批 判的な議論など長い知的な仕事によるものだが、ここには個々の科学者の世界2の寄せ集めを 超える世界が存在する。これが、世界3である。そして、これら科学理論の応用である人工物 が、世界1に実現されて、地球表面を覆っていることを考えてみよ。これらが世界1の中だけで 実現されていると考え得るか。世界2の寄せ集めだけで実現されていると考え得るか。このよ うに考えると、世界3の実在性は確かなものに思える。
(ii)思想の実在性
 社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))
 (a)社会の経済組織、すなわち自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は概ね正しいが注意すべき点がある。
 (b)ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。
 (c)思考実験:あらゆる機械やあらゆる社会的組織も含めて、我々の経済体制が、ある日壊滅させられたと想像せよ。だがしかし技術上の知識、科学上の知識が保存されたと想像してみよ。
 (d)思考実験:一方で、これらの事柄についてのすべての知識が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ。



(7)世界3の自律性
 世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。

未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいな いが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内 的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。(カール・ポ パー(1902-1994))

世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようにな る。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようであ る。(カール・ポパー(1902-1994))
(a)世界3は、確かに最初は人間が作ったものであり、また人間の心の所産である。
(b)しかし、いったん存在するようになると、それは意図しなかった結果を生み出す。それ は、ある程度の自律性を持っている。
(c)また、今は誰も知らない未知の諸結果が客観的に存在していて、発見されるのを待って いるかのようである。
(c.1)世界3の無時間性が、そう感じさせる

(d)未知の諸結果が発見されるのを待っており、また、未解決の問題については、その解決 が客観的に存在すると理解することが、発見と解決のための探究の重要な前提条件である。

(8)世界3の歴史
 世界3は歴史をもっている。それはわれわれの観念の歴史である。


心身問題

心身問題のまとめ:徹底的唯物論、同一説(中枢状態説)、随伴現象論、汎心論。(カー ル・ポパー(1902-1994))


(1)【各論の概要
(1.1)【徹底的唯物論】
(1.2)【同一説(中枢状態説)】
(1.3)【随伴現象論(epiphenomenalism)】
(1.4)【汎心論】
(2)【心身問題と世界3
(2.1)心身問題と世界3
(2.2)世界3に属するもの
(2.3) 世界3の生成と変化の法則
(2.4)一つの反論:世界3の創造とは、世界1または世界2の中の符号との相互作用ではないのか(ジョン・エックルス(1903-1997)) 
(2.5)反論への回答
(2.6)心身問題における言語の役割
(2.6.1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている
(2.6.2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である
(2.6.2.1)記憶と学習
(2.6.3)人間の理性と人間の自由の創発
(2.6.4)言語の機能
(2.6.5)言語のフィードバック効果
(2.6.6)世界3の所産としての自我



─────────────


(1)【各論の概要
(1.1)【徹底的唯物論】
世界1のみが実在する。

時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
 ↓           ↓
時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

(1.2)【同一説(中枢状態説)】
 世界1は、次の2つの世界に区別することができる。すなわち、意識的過程と同一である物理 過程の世界 1mと、それ以外の世界 1pである。世界 1mと、世界 1pには、相互作用が可能である。
 徹底的唯物論とは異なり、心的世界2も実在すると考える。心的世界2と、身体・大脳の物理 的過程 1m とは、世界1のなかの同一の実体についての、異なる二つの記述方 法である。したがって、随伴現象論とは異なり、心的世界2も、世界1の実体として物理過程と 相互作用することができる。

時間1 世界1・P1 ⊃ 1m・状態1
 │       │                =世界2・M1
 ↓        ↓
時間2 世界1・P2 ⊃ 1m・状態2
        =世界2・M2

(1.3)【随伴現象論(epiphenomenalism)】
 精神状態は、脳内のプロセスに随伴する。ただし、因果関係にはかかわらない。
また、汎心論とは異なり、生命のある対象のみが、内的または主観的経験を持つと考える。

時間1 世界1・P1 ⇒ 世界2・M1
 ↓         ↓
時間2 世界1・P2 ⇒ 世界2・M2

(1.4)【汎心論】
 純粋な物理的対象も、多かれ少なかれ我々自身の内的意識に類似の内面を持っている。

時間1 世界1・P1 世界2・M1
 ↓        ↓                  ↓意識的な思考過程
時間2 世界1・P2 世界2・M2


(2)【心身問題と世界3
(2.1)心身問題と世界3
 個別の精神が、物理的諸法則に従いつつも、なぜ能動的に働き物理的世界に影響を与え得るように見えるのかを理解するのに、個別の精神が実体的紐帯の精神を把握して新たな実体的紐帯の精神を生成するという事実が重要な役割を果たしている。

(2.2)世界3に属するもの
(a)物理的世界1の諸法則の支配の下にある現象でもなく、個々の世界2の現象とも言えな いような現象が存在する。これが、世界3である。
(b)仮に、すべて物理的世界における現象だと考えてみる。
数学とか論理学も、物理的世界における人間の脳の進化と自然淘汰の産物ではないのか。環境 に適応する過程のなかで、言語が生まれ、思考が生まれ、適応的な推理のための性向的能力が 習得されたのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))
(i)進化と自然淘汰の産物として、人間の大脳が生まれた。
(ii)環境に適応するこの過程のなかで言語活動が生まれた。
(iii)適応的な行動を生むための思考と、適応的な推理のための性向的能力が習得された。
(iv)やがて学校教育において、論理的思考が組織的に学習されることになった。

(v)数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘 汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それ と相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ ポパー(1902-1994))
(a)たとえば、世界2における計算、または世界1に書き下した計算式、または、ある計算 を行なっているコンピュータが「正しい」とか「誤っている」と言うことには、確かに意味が ある。「正しい」論理法則とは、何なのか。
(b)「正しい」「誤っている」と言うためには、基準が必要であるが、この基準は、物理 的世界1の中に具現化されているだろうか。たとえば、ある特定の論理学の書物が基準である とか。
(c)あるいは、大多数の論理学者が正しいと判断するから「正しい」というような方法 で、世界2の集合体が、その基準を具現化しているのだろうか。
(d)ある論理法則が「正しい」とか「誤っている」という基準は、物理的世界1に具現化さ れている対象物や、それと相互作用する主観的経験の世界2の集合体を超える、別の世界に属 していると思われる。
(e)モナド論による定式化
 個別の精神が、ある計算をしたとする。あるいは、紙の上に計算式を書き下したとする。あるいはまた、コンピュータの中である計算が実行されたとする。その計算が正しいか誤っているかは、確かに意味があるが、これは物理的法則で説明できるのか。あるいは個別の精神の何からの法則で説明できるのか。実体的紐帯の精神の概念で理解できる。

(2.3) 世界3の生成と変化の法則
 世界1を支配する諸法則によって、世界3の生成と変化を理解することができるだ ろうか。できるとは、思えない。

時間1 世界1・P1⇒世界3・C1
 ↓            ↓
時間2 世界1・P2⇒世界3・C2

(a)世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。 
 個別の精神は、実体的紐帯の精神を把握し、批判的な選択作用により、新たな実体的紐帯の精神を作り出す。

時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
 │              │┌───┘
 ↓                ↓↓
時間2 世界3・C2⇒世界2・M2
 
(b)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。
 実体的紐帯の精神は、個別の精神との相互作用によって、新たな実体的紐帯の精神を生成する。

時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
 │       │                         │┌───┘
 ↓        ↓                          ↓↓
時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(c)世界2が、未だ世界3のなかに表現されておらず、したがって当然、世界1に は存在しない新しい問題を発見したり、問題への新しい解決を発見するときのような創造的行 為を考えると、世界2が必ず世界1を経由するということは、誤りではないかと思われる。 

(d)例として、数学の問題を発見し、証明する過程。
(i)最初に問題を感じ、問題の存在に気づく。あるいは、証明の考案がなされる。
(ii)次に、(i)が言語で表現される。
(iii)明確化し、証明の妥当性を批判的に調べるため、世界1の表現に具現化される。 

(e)例として、数学における無限の概念は、世界1、世界2に具現化されなくて も、直接把握される。論証のための表現は世界1、世界2に具現化されるが、概念そのものは直 接把握されるように思われる。

(f)例として、私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符 号化、具現化されたものを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われ る。

(2.4)一つの反論:世界3の創造とは、世界1または世界2の中の符号との相互作用ではないのか(ジョン・エックルス(1903-1997)) 
(g.1)モナド論による反論の定式化
 個別の精神は、直接的に実体的紐帯の精神と関係を持つのではなく、物理的世界を経由しているのではないか。すなわち、個別の精神は、実体的紐帯の身体たる物理的媒介物である符号、あるいは個別の精神内の何らかの対象に働きかけることで、新たな実体的紐帯の精神を生成するのではないか。
(b2.3.1)世界3の対象は、世界1の物質的対象の上に符号化されている。
(b2.3.2)世界2は、世界1の符号から意識経験を引き出している。

(符号)⇔(符号の意識経験)⇔(世界3)
世界1・S1⇔世界2・S1⇔世界3・C1
世界1・S2⇔世界2・S2⇔世界3・C2

(b2.3.3)世界2は、世界3の符号である世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を 生成する。
時間1 世界1・P1⊃世界1・S1⇔世界2・S1⊂世界2・M1
 │      │                   │                     ↓↑                │
 │     │                    │                世界3・C1      │
 │     │                    │             ┌─────────┘
 ↓      ↓                     ↓              ↓
時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2⊂世界2・M2
               ↓↑
             世界3・C2


(b2.3.4)世界2は、世界3の符号である世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を 生成する。
時間1 世界1・P1 世界2・S1⊂世界2・M1
 │         │                │      ↓↑          │
 │         │                │世界3・C1 │
 │         │                │      ┌────┘
 ↓          ↓                 ↓       ↓
時間2 世界1・P2 世界2・S2⊂世界2・M2
           ↓↑
         世界3・C2



(2.5)反論への回答
(b2.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生 成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ 具現化する。(カール・ポパー(1902-1994))
(m)モナド論による定式化
 個別の精神は、実体的紐帯の精神と直接的に相互作用し、新たな実体的紐帯の精神を生成し、物理的世界または個別の精神内の対象に働きかけることで、新たな実体的紐帯の精神を、物理的世界や個別の精神内へ具象化する。

(b2.4.1)世界3の符号である世界1の対象は、いかに世界2により働きかけられるにして も、それ自体は世界1の対象であるから、世界1の諸法則に従って生成・変化する。また世界2 は、いかにそれが自ら固有の法則に従って働きかけるかのように見えようが、世界1の諸法則 に支えられている。世界2は、最初に直接的に、世界1の諸法則には服さない世界3との関係を 持つことなしには、世界1の因果関係から逃れることはできない。
(m)モナド論による定式化
 もし個別の精神が、実体的紐帯の身体たる物理的媒介物である符号を使っているならば、符号は物理的世界の法則の制約の下にある。また、個別の精神内の何らかの対象に働きかけているのなら、物理的法則とは異なる精神の法則には従ってはいるものの、個別の身体との相関法則には服している。

(b2.4.2)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象へ働 きかけることで、新たな世界3を世界1へ具現化する。

(b2.4.3)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働 きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。

(b2.4.4)正しいことの理由。
参照:世界2は、世界3と直接的に相互作用する。例として、(a)新しい問題の 発見と解決、(b)例として数学の問題と証明、(c)例として数学における無限の概念、(d)例と して言語の「意味」の理解。(カール・ポパー(1902-1994))
(b2.4.4.1)世界2が、未だ世界3のなかに表現されておらず、したがって当然、世界1には 存在しない新しい問題を発見したり、問題への新しい解決を発見するときのような創造的行為 を考えると、世界2が必ず世界1を経由するということは、誤りではないかと思われる。
(b2.4.4.2)例として、数学の問題を発見し、証明する過程。
(i)最初に問題を感じ、問題の存在に気づく。あるいは、証明の考案がなされは異なり、 心的世界2も、世界1の実体として物理過程と相互作用することができる。


(2.6)心身問題における言語の役割
 言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との 関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動 的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

(2.6.1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている。
 ・世界1:自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ自然的過程
 ・言語を学習する強い必要性と、無意識的で生得的な動機
 ・言語を学習する能力
(2.6.2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である。
 ・世界2:個々の言語を実際に学習する過程

(2.6.2.1)記憶と学習

最広義の"記憶"には,生得的なもの(遺伝子,神経系,免疫 系,その他の諸能力)も含まれるし,試行錯誤,問題解決,行為と選択による能動的な学習によっ て獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))
(1)保持時間に基づく記憶の分類
(出典:記憶の分類<脳科学辞典)
(1.1)心理学
感覚記憶、短期記憶(保持期間が数十秒程度)、長期記憶
(1.2)臨床神経学
即時記憶(情報の記銘後すぐに想起させるもの)
近時記憶(情報の記銘と想起の間に干渉が介在される)
遠隔記憶(臨床場面では個人の生活史(冠婚葬祭や旅行など)を尋ねることが多い)
(2)内容に基づく記憶の分類
(出典:記憶の分類<脳科学辞典)
(2.1)陳述記憶(宣言的記憶)
 イメージや言語として意識上に内容を想起でき、その内容を陳述できる。

(2.1.1)エピソード記憶
 個人が経験した出来事に関する記憶で、例えば、昨日の夕食をどこで誰と何を食べた か、というような記憶に相当する。
(a)関連:「連続性形成記憶」。アンリ・ベルクソンの《純粋記憶》に関連しているよ うに思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録である。 (カール・ポパー(1902-1994))

(2.1.2)意味記憶
 知識に相当し、言語とその意味(概念)、知覚対象の意味や対象間の関係、社会的約 束など、世の中に関する組織化された記憶である。
(例) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習(カール・ポパー (1902-1994))
生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》と、背景にある《何であるかの 知識》とによって導かれる能動的探究
(a)新しい推測、新しい理論の作成
(b)その新しい推測や理論の批判とテスト
(c)その推測の拒絶と、それがうまくいかないという事実の記録
(d)もとの推測の修正や新しい推測を用いての(c)から(a)への過程の反復
(e)新しい推測がうまくいくようだという発見
(f)補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
(g)その新しい推測の実際的で標準化された、反復的な使用

(2.2)非陳述記憶(非宣言的記憶)
 意識上に内容を想起できない記憶で、言語などを介してその内容を陳述できない記憶であ る。
(2.2.1)手続き記憶
 手続き記憶(運動技能、知覚技能、認知技能など・習慣)は、自転車に乗る方法やパズ ルの解き方などのように、同じ経験を反復することにより形成される。一般的に記憶が一旦形 成されると自動的に機能し、長期間保たれるという特徴を持つ。
(2.2.2)プライミング
 プライミングとは、以前の経験により、後に経験する対象の同定を促進(あるいは抑 制)される現象を指し、直接プライミングと間接プライミングがある。
(2.2.3)古典的条件付け
 古典的条件付けとは、梅干しを見ると唾液が出るなどのように、経験の繰り返しや訓練 により本来は結びついていなかった刺激に対して、新しい反応(行動)が形成される現象をい う。
(2.2.4)非連合学習
 非連合学習とは、一種類の刺激に関する学習であり、同じ刺激の反復によって反応が減 弱したり(慣れ)、増強したり(感作)する現象である。

(3)獲得方法に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
(3.1)生得的な記憶
(a)遺伝子に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラム
(b)生得的神経路の構造
(c)機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは歩いたり話したりすることを 学ぶためのさまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もま たここに挙げることができる。
(d)泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のため のその他の生得的能力。
(3.2)何らかの学習過程を通して獲得される記憶
(a)無意識的で受動的な学習過程によって獲得される記憶
(b)意識的で能動的な学習過程によって獲得される記憶
(4)想起の様相に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
(4.1)能動的に随意に想起できる記憶
(4.2)随意に想起できず、求められなくとも想起されてしまう記憶

3種類の学習:(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習、(2)模倣による学習、伝統 の吸収、(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習。(カール・ポパー(1902- 1994))
(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習
(a)新しい情報の獲得、すなわち新しい事実や新しい問題の発見、問題に対する新しい解決 の発見をもたらす学習である。
(b)解こうとしている問題、テストしようとしている推測に基づく、体系的観察による学習 と、偶然的な観察からの学習を含む。
(c)理論的なものだけでなく、新しい技能とか、物事を行なう新しいやり方など、実践的な ものも含む。
(2)模倣による学習、伝統の吸収
(a)原始的で重要な学習のひとつの形態で、高度に複雑な本能に基礎をおいている。
(b)示唆や感情が学習で演じている役割は、他の仕方での学習よりもはるかにはっきりして いる。
(c)模倣による学習は、いつでも典型的な試みと誤りの過程でもある。
(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習
(1)と(2)によって学ばれた解決に、慣れ親しむことによる学習である。



(2.6.3)人間の理性と人間の自由の創発
 思考は、言語で表現され外部の対象となることで、間主観的な批判に支えられた客観的な基準 の世界3に属するようになる。(カール・ポパー(1902-1994))
(a)思考はひとたび言語に定着させられると、われわれの外部の対象となる。
(b)外部の対象となることで、間主観的に批判できるものとなる。
(c)間主観的に批判できることで、客観的な基準の世界、すなわち世界3が出現してくる。
(d)世界3に属することで、等値、導出可能性、矛盾といった論理的関係が意味を持つように なる。
(e)客観的な基準の世界に対して、世界2は主観的な思考過程という位置づけが成立する。

(2.6.4)言語の機能
 言語が、記述機能と論証機能を獲得し、世界3が創造されたことによって、自然選択によらな い非遺伝的成長が可能となり、理性や人間の自由が創発された。(カール・ポパー (1902-1994))
(4.1)表出機能
(4.2)通信機能
(4.3)記述機能:記述内容には、真・偽の区別がある。
(4.4)論証機能:論証には、妥当かどうかの区別がある。
(a)世界3の創造
 記述機能、論証機能によって世界3が創造された。



(b)非遺伝的成長
 自然選択から、合理的批判にもとづく選択に依存して成長できるようになった。
(c)人間の理性と人間の自由の創発

(2.6.5)言語のフィードバック効果
(a)自らの物質的環境への精通
(b)他者との関係
(c)自我、人格の形成

(2.6.6)世界3の所産としての自我
 形而上学的信念、宗教的信念、道徳的信念、科学的知識 が「私の経験」から構築されると考える理論は誤っている。「私の」知識、信念は、それらが 属する世界3との相互作用、能動的な学習と探究の成果の所産である。(カール・ポパー (1902-1994))

自我とは、
(a)物質的環境との相互作用の所産である。
(b)他者との相互作用の所産である。
(c)世界3の能動的な学習と、探究の成果の所産である。
(i)例えば、科学的知識は「私の」知識ではない。
(ii)宗教的信念、道徳的信念、形而上学的信念も、ある伝統を吸収した結果である。
(iii)伝統のいくつかを自ら批判することは、「自分の知識」であると信じているものを 形成するのに重要な役割を演じるであろう。
(iv)そうした批判はほとんどいつでも、伝統の内部や、様々な伝統のあいだに不整合を発 見することから引き起こされてくる。
(v)自らの観察経験が伝統的理論を本当に反証する機会などめったにない。
(vi)もちろん、「私自身の経験」による「個人的知識」は存在する。しかし、その経験を 表現する言語の由来まで考えれば、完全に「私自身の経験」の結果だと言えるものなどほとん どない。


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科学基礎論
(1)真理の探究
(2)理論の役割
 (2.1)道具主義的な計算規則と理論との違いは何か
(3)理論は実証できない
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
 (3.2)観察は知識の源泉ではないのか?
 (3.2.1)確実な経験と科学的事実
 (3.2.2)相互主観的テスト可能性
 (3.2.3)科学と独断論、心理主義
 (3.2.4)観察の役割
 (3.3)確実な知識の源泉はない
 (3.3.1) 観察、論理的思考、知的直観、想像力
 (3.3.2)知識の源泉としての伝統
 (3.4)理論は人間精神の一つの自由な創造物である
 (3.5)理論は人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している
(4)では、理論の客観性とは何か
《小目次》
(1)科学的知識の性質
(1.1)科学的客観性を保証するもの
(1.2)科学者の友好的かつ敵対的協働
(1.3)科学における権威主義と批判的アプローチの対比
(2)大胆な理論の提起
(2.1)科学と擬似科学を区別する反証可能性
(2.2)ある出来事が生じないことを予言する理論
(2.3)テスト可能性の度合
(2.4)テストの厳しさの度合
(3)誤りを除去する批判的方法
(3.1)批判に対する辛抱強い反論の必要性
(3.2)実験的テスト
(3.3)実験は理論に導かれている
《小目次終わり》

(5)経験主義の原理
(6)帰納の論理的問題
(7)批判的合理主義の原理
 (7.1)批判的推論
 (7.2)観察と実験の役割
 (7.3)理論の拒否、受容の条件
 (7.3.1)後退を防ぐ保守的な条件
 (7.3.2)新しい仮説に望まれる革命的な条件
 (7.3.3)観察と実験による判定
 (7.4)世界の謎は汲み尽くされることはない
(8)傾向なのか、方法と能動的な行為なのか
 (8.1)傾向と考える理論
 (8.2)方法と能動的な行為と考える理論


(1)真理の探究
(a)真理の探究には、何ものにも勝る重要性があり、われわれの目的であり続ける。
(b) 科学は、事実に基礎をおいており、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもっ て結論づけられるようになっている。またそれは単に、検証可能な量的予測の技術なのではな く、この世界の真の仕組みを理解しようとする営みである。(カルロ・ロヴェッリ (1956-))

(2)理論の役割
 理論は、実践的な科学と理論科学にとって至高の重要性を持つ。
(2.1)道具主義的な計算規則と理論との違いは何か
理論は、普遍的に成立する真理を探究し、真理 は想像を超える未知の出来事を予測できる豊かさを持ち、経験の理解を助ける。予測は有用な だけでなく、偽なる理論を排除するために必要なものと考えられている。(カール・ポ パー(1902-1994))

(a)論理的構造が異なる
 限定された目的のための計算規則なのか(道具主義)、普遍的に成り立つことを推測とし て主張しているか(理論)の違いがある。2つ以上の理論体系の間には、演繹体系内における 論理関係があるが、2つ以上の計算規則の間には、この関係があるとは限らない。理論に基づ いて、限定された目的の計算規則を導出することはあり得るが、逆はあり得ない。
(b)有用なのか、真理なのか
 有用なので選ばれているのか(道具主義)、真理なので選ばれているのか(理論)の違い がある。


(c)応用可能性の限界なのか、反証なのか
 応用可能性の限界があっても使われるのか(道具主義)、反証されると破棄されるのか (理論)の違いがある。
(d)適用可能領域の変更なのか、反証なのか
 適用可能領域の変更があっても破棄されないのか(道具主義)、適用の失敗が反証事例と 考えられるのか(理論)の違いがある。
(e)特殊化する傾向があるか、一般化する傾向があるか
 ますます特殊化する傾向があるか(道具主義)、ますます一般化する傾向があるか(理 論)の違いがある。実用的な観点からは、道具は手もとの特殊な目的にとってもっとも便利な ものであることが望まれる。



(f)論理的に異なる理論への態度が異なる
 実際的な応用が予測できるかぎりでは、いまのところ、両者の区別がつかないといった ケースの場合、2つの理論がその適用領域で同じ結果をもたらすなら、それらは等しいと考え るのか(道具主義)、2つの理論が論理的に異なっていれば、異なった結果が生じるような適 用領域を見つけ出そうとするか(理論)の違いがある。

(g)未知の出来事の予測の有無
 既知の出来事をうまく予測しようとするだけなのか(道具主義)、決して誰も考えもしな かったような出来事が予測されることがあり得ると考えるのか(理論)の違いがある。理論で は、もしこれが「真理」であるならば、このようなことが生じるはずだという予測がある。 



(h)道具以上の何らかの情報内容
 すなわち、理論には、道具としての能力を超えて、何らかの情報内容がある。
(i)「真なる」理論は、経験の理解へ導く
 計算規則は経験を再現しようとするが、理論は経験を「解釈する」助けになる。
(j)予測は「偽なる」理論を排除する
 予測は実用的な価値のみならず(道具主義)、「偽なる」なる理論を除去する。

(3)理論は実証できない
 真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。 
参照: ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な 批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいて いることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))



(3.1)帰納の非妥当性の原理
(a)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、およ び、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。 
(b)理論を信じる実証的理由は、決して得られない。

(3.2.1)確実な経験と科学的事実

(a)いかに確実に思える経験でも科学的事実ではない
 確信の感情がいかに強烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性をまったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理由にはならない。
(b)経験を表示する言明は心理学的な仮説
 経験を表示する言明(我々の知覚を叙述している言明、プロトコル文とも呼ばれるれる)は、科学においては心理学的言明であり、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。
(c)経験への還元主義は誤りである
 従って、科学的言明の客観性を、経験を表示する言明に還元することによって基礎付けようとする理論は、誤りである。

(3.2.2)相互主観的テスト可能性


(a)相互主観的テスト可能性
 科学的言明が客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならない。
(b)科学にはテスト不能な言明は存在しない
 なぜなら、そのその言明が理論において意味があるのなら、演繹の連鎖の中で、その言明が前提条件として登場するような、別の言明があることになるが、その言明がテスト可能なら元の言明もテスト可能だからである。
(c)演繹結果によるテストには、無限後退の困難は存在しない
 ある言明が真であるかどうかを、明らかに真である言明にまで遡らせようとする方法論には、無限後退の困難がある。しかし、テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな い。従って、無限後退の困難はない。
(d)無限のテスト可能性について
 しかし、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできない。これは問題ないのか。問題ない。なぜなら、無限のテスト可能性の要求は、受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬという条件とは異なるか

(3.2.3)科学と独断論、心理主義

(a)科学は独断論なのか
 理論が確証されていない仮説にとどまるという意味で独断論というなら、そうである。しかし科学における理論は全てこのようなものであり、また必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストを続行できるようなものである。
(a)科学は心理主義なのか
 (i)理論が予測する結果の確認が、我々の知覚的経験に依存しているという意味で、心理主義というなら、その通りである。しかし科学においては、その知覚的経験によってある言明が事実であることを正当化するのではない。その知覚的経験の情報によって、言明の受け入れまたは拒否の判断の材料として使われるだけである。


(3.2.4)観察の役割
(a)知識は、タブラ・ラサから始めることはできない。
(b)一般的には、ある観察や発見の影響範囲は、それによって既存の理論を修正できるか どうかにかかっている。
(c)ある観察や偶然の発見によって知識が進歩することは、時として可能ではある。



(3.3)確実な知識の源泉はない
 知識が事実であることを約束するような「知識の源泉」は、ない。
(3.3.1) 観察、論理的思考、知的直観、想像力
 観察、論理的思考、知的直観、知的想像力は、未知の領域に踏み込むために必要な大 胆な理論を創造する際の助けになり、重要なものである。しかし、真理であることを約束して くれるわけではない。それどころか、誤りへと導いてしまうかもしれない。実際、私たちの理 論のほとんど大部分は、誤りである。

(3.3.2)知識の源泉としての伝統
 知識の重要な源泉は、伝統である。知識の内容だけでなく、知識の習得方法や態度なども、伝統を通じて獲得される。


(3.5)理論は人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している


(4)では、理論の客観性とは何か
 仮説的推測的知識の客観性の本質は,推論を反駁し,テ ストで反証しようとする他者の存在である.また,科学と擬似科学を区別するのは理論の反証可 能性である.自由な批判とテストによって誤りが除去されていく.(カール・ポパー (1902-1994))

(1)科学的知識の性質
 あらゆる科学的知識は仮説的ないし推測的なものである。
(1.1)科学的客観性を保証するもの
 科学的客観性は、その理論を反駁しようとする批判によって保証される。
(1.2)科学者の友好的かつ敵対的協働
 客観性は、個々の科学者の客観性ないし公平無私によって保証されるのではなく、「科学 者の友好的かつ敵対的協働」とでも呼べる科学者の集団によってもたらされる。
(1.3)科学における権威主義と批判的アプローチの対比
 科学における権威主義は、科学上の理論を確立しようとする観念、すなわち理論を証明し たり、実証したりしようとする観念と結びついていた。批判的アプローチは、科学上の推測を テストしようとする観念、すなわち推測を反駁したり、反証したりしようとする観念と結びつ いている。
(2)大胆な理論の提起
 知識の成長、とくに科学的知識の成長は、われわれの誤りから学ぶことにある。まず、あえ て誤りを犯すというリスクを冒すこと、すなわち、新しい理論を大胆に提起する。
(2.1)科学と擬似科学を区別する反証可能性
 理論とか仮説とか推測が科学において果たす根本的な役割は、テスト可能(あるいは反証 可能)な理論と、テスト可能ではない(あるいは反証可能ではない)理論とのあいだの区別を 重要なものにする。

()存在言明について

(2.2)ある出来事が生じないことを予言する理論
 ある特定の出来事が生じないであろうと予言する理論が、反証可能な理論である。あらゆ る手段を講じて、その出来事を生じさせようと努めることが、テストになる。
(2.3)テスト可能性の度合
 より多くのことを主張し、したがってより多くのリスクを冒している理論の方が、主張を あまりしていない理論よりテスト可能性の度合が高い。
(2.4)テストの厳しさの度合
 定性的なテストは、一般的にいえば、定量的なテストよりきびしさの度合が低い。また、 より正確な定量的予測のテストの方が、正確さの劣る予測のテストよりもいっそう厳しいテス トである。
(3)誤りを除去する批判的方法
 われわれが犯した誤りを系統的に探すこと、すなわち、われわれの理論を批判的に議論した り、批判的に検討したりする。
(3.1)批判に対する辛抱強い反論の必要性
 科学の方法は批判的議論の方法なので、批判の対象となっている理論が、辛抱強く擁護さ れるべきだということもおおいに重要なことである。というのは、そのような仕方でのみ、理 論のもつ真の力を知ることができるからだ。
(3.2)実験的テスト
 この批判的議論で用いられるもっとも重要な議論のなかには、実験的テストによる議論が ある。
(3.3)実験は理論に導かれている
 実験は、つねに理論によって導かれている。


(5)経験主義の原理
(a)科学理論の採否は、観察と実験の結果に依拠すべきである。
(6)帰納の論理的問題
参照: 帰納の非妥当性の原理と、経験主義の原理とが衝突し、そこに帰納の論理的問題があると、か つて考えられたことがあるが、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。批判的合理主 義の原理が、解答を与える。(カール・ポパー(1902-1994))
(a)かつて、帰納の非妥当性の原理と経験主義の原理とが衝突するように考えられたことがあった。
(b)この問題から、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。

(7)批判的合理主義の原理
(7.1)批判的推論
 科学理論の採否は、批判的推論に依拠すべきである。

(a)矛盾について

(b)矛盾を許さないという決意

(7.2)観察と実験の役割
 観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることがで きる。

(a)観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えること ができる。
(b)私たちが、実在から得ることができる唯一の情 報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間 違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))

(7.3)理論の拒否、受容の条件
 理論は、合理的批判の結果に照らして他の既知の理論よりもよりよい、あるいはより悪い 理論として、暫定的に、拒否されたり、受け容れられたりする。
先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造 と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理 らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))

(7.3.1)後退を防ぐ保守的な条件
(a)新しい仮説は、先行仮説が解決した問題を、同じ程度にうまく解決せねばならな い。
(b)伝統は、重要な知識の源泉である
 伝統なしには、知識を得ることは不可能である。知識は、既存の知識を修正し、訂正 することによって進歩する。
(c) 理論における想像力の役割:何の手がかりもなしに新たな理論を「想像しようと試みる」に は、わたしたちの空想力はあまりに貧弱である。すでに成功を収めている理論と実験データ に、この世界の真の姿の兆候が現われている。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

(7.3.2)新しい仮説に望まれる革命的な条件
(a)新しい仮説は、先行仮説からは導出されない予測を演繹する。
(b)新しい仮説は、先行仮説と新しい仮説のいずれを支持するかの、決め手となる実験 を構成する。

(7.3.3)観察と実験による判定
 もし、決め手となる実験が新しい仮説に有利に決まるなら、より「真理らしさ」が増大 した、科学理論は「進歩した」と言うことができる。

(7.4)世界の謎は汲み尽くされることはない
 ある問題の解決は、新たな未解決の問題を生み出す。世界の事物についての諸経験が深ま るほど、知識が深まるほど、自分たちの無知についての知識がいっそう明確になってゆく。こ れは、無知が必然的に際限のないものであるのに対して、私たちの知識には限界があるという 事実に由来する。

(8)傾向なのか、方法と能動的な行為なのか
 科学理論は、理論や仮説に固有の傾向として、真理らしさの増大に「向かう」と言うべきで はない。科学の進歩は、誤謬消去を基礎とした科学の方法と、我々の批判的で能動的な行為に より支えられている。
(8.1)傾向と考える理論



第2部 社会科学方法論、進化論、歴史論

《目次》
(1)人間や社会に関する法則とは?

(1.1)社会理論と社会との相互作用
(1.1.1)情報から社会への影響(オイディプス効果)
(1.1.2)社会から情報への反作用
(1.1.3)社会に関する理論と社会との相互作用

(1.2)問題:社会に関する理論の客観性とは何か
(1.2.1)解答:予言と技術的予測
(1.2.2)技術的社会科学
(1.2.3)技術的社会科学の効用
(1.2.4)方法論的唯名論と本質主義
(1.2.5)解答:方法論的個人主義
(1.2.6)仮説モデルとしての社会的存在
(1.2.7)社会科学における実験に関する問題提起
(1.2.8)解答:科学的な実験とは何か
(1.3)価値論

《小目次》
(1)問題:人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
(2)我々は、いかに行為すべきか
(3)規範を事実の上に基礎づけることは不可能
(3.1)生物学的自然主義への批判
(3.2)倫理的実定主義への批判
(3.3)心理学的自然主義への批判
(4)フレームワークの神話
 (4.1)独断論
 (4.2)共約不可能性
 (4.3)相対主義
(5)フレームワークの神話の誤り
 (5.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
 (5.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
 (5.3)反論
 (5.4)反論への回答
 (5.4.1)方法1:自らの原理を強化する
 (5.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
 (5.4.3)客観的真理の増大という価値
 (5.4.4)合理主義と平等主義との関係
(6)私はいかに行為すべきか
《小目次終わり》

(2)生命の起源、生命の進化
(2.1)物理的過程との相関、累進的な単称的分析
(2.2)問題(あるいは情報)は実在的なものである
(2.3)生命の起源
(2.4)自己増殖、適応、変異
(2.5)問題解決方法も、問題であった
(2.6)進化論と世界3

(3)歴史とは何か
(3.1)問い:歴史における出来事の新奇性
(3.2)解答:新奇性、歴史性とは何か
(3.3)解答:単称言明である仮説
(3.4)問題:生命の進化や人間の歴史に法則は存在し得るのか?
(3.5)進化に傾向はあるのか
(3.6)規則性の因果的説明とは何か
(3.7)人間の歴史
(3.7.1)人間の歴史の道筋は予測できるのか
(3.7.2)歴史の中に「発見される意味」は恣意的、偶然的、非科学的なもの
(3.7.3)倫理的理念や目標設定によって初めて歴史に意味を読み取れる
(3.7.4)各世代の歴史解釈
(3.7.5)開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治
(3.7.6)将来の運命は私たち自身にかかっている




(1.1)社会理論と社会との相互作用

(1.1.1)情報から社会への影響(オイディプス効果)
 (a)予測というのは一つの社会的なできごとであり、ほかの社会的できごとと相互作用する可能 性がある。そのほかのできごとには、当の予測の対象も含まれる。
 (b)極端な場合、予測自体が《原因》となってそのできごとが起こるということもあるかもしれ ない。
 (c)何かを予測することも、予測を控えることも、さまざまな結果をもたらしうる。

注意すべき理論


(1.1.2)社会から情報への反作用
 (a)予測自体が予測したできごとに影響を及ぼすかもしれないということも 意識すると、予測の中身にも逆の影響が及ぶ可能性がある。
 (b)ある状況においては、予測の影響が、予測をする観察者にも逆向きの重大な影響を返 すことがありうる。

(1.1.3)社会に関する理論と社会との相互作用
 (a)社会の発展のある一時期にある種の傾向が内在する場合は必ず、その発展に影響を及ぼ すよう な社会学理論があると考えていい。その場合、社会科学は新しい時代を生み出すのに手 を貸す助産婦の役割を果たすかもしれないが、保守的な利益のために、起ころうとしている社 会の変化を遅らせる働きをする可能性もある。
 (b)ヒストリズム
  各学説や学派を、特定の時代に支配的 だった嗜好や利害に関係づけて説明する。
 (c)知識社会学
  各学説や学派を、政 治的、あるいは経済的、あるいは階級的利害に関係づけて説明する。

(1.2)問題:社会に関する理論の客観性とは何か
 社会科学者は懸命に真実を見出そうとしているのだろうが、同時に、必ず社会に確かな 影響を及ぼすことになる。社会科学者の言明が《実際に》影響を及ぼすという事実により、科 学者の客観性は失われる。




(1.2.1)解答:予言と技術的予測


(1.2.2)技術的社会科学
(1.2.3)技術的社会科学の効用


(a)社会の改善提案への批判的研究
 社会科学は、ごく一般的に言うなら社会を改善する提案に対する批判を通じて、より厳密 に言うなら、経済的あるいは政治的なある特定の行為が期待された望ましい結果を生み出す可 能性が高いかどうかを知る試みを通じて、発展してきた。
(b)有意義な理論の源泉
 技術 的アプローチは、そこから純粋に理論的で有意義な問題が生まれるという点で実りあるものと なるだろう。
(c)科学的な基準への準拠
 技術的にアプ ローチすることで、私たちは、明晰性の基準や実践的検証可能性など、ある決まった基準に 従って理論を立てざるをえなくなる。
(d)形而上学的思弁への歯止め
 とくに本来的な社会学の分野では、思弁的 傾向から形而上学の領域に足を踏み入れがちであるが、この歯止めになる。


(1.2.4)方法論的唯名論と本質主義



(1.2.5)解答:方法論的個人主義



(1.2.6)仮説モデルとしての社会的存在


(1.2.7)社会科学における実験に関する問題提起

(a)自然科学における典型的な実験は、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。
(b)社会科学において、同様の実験が行えるとしても、意味を持つだろうか。
(c)社会科学において、そもそも理想的な実験条件を準備できるだろうか。

(1.2.8)解答:科学的な実験とは何か
(1)社会実験の例
 (a)新しい食料品店を開いた店主は、一つの社会実験を行なっている。
 (b)市場の売り手と買い 手は、供給が増えるたびに価格が下がり、需要が増えるたびに価格が上がる傾向があるという 教訓を、実践的な実験を通じてのみ学ぶのである。 
 (c)民間企業のあらゆる活動、公的な政策実施もすべて社会実験である。
(2)課題への取組みと誤りから学ぶ方法
 ただ観察したことを 記録するのでなく、積極的な試みをして、何らかのある程度実践的で限定的な問題を解決しよ うとする。そして《誤りから学ぶ》姿勢をもったときに、その場合にのみ、私たちは前進す る。
(3)社会的政治的な課題における効果的な方法は、科学的方法そのものである
 私たちが試行のリスクを冒す姿勢をより自由に、より意識 的にとればとるほど、そして自らが常に犯す間違いに、より批判的な目を向ければ向けるほ ど、試行錯誤の方法は科学的な性格を帯びることになる。この定式は、実験の方法だけでな く、理論と実験の関係についても当てはまる。すべての理論は試行である。うまくいくかどう かが試される暫定的な仮説なのである。実験による裏づけとは、理論のどこが誤っているかを 見つけ出そうと批判的精神のもとで遂行される検証の結果にすぎない。
(4)政治における科学的方法の適用
 政治に科学的方 法に近いものを適用する唯一の方法は、〈欠陥がなく悪影響も伴わないような政策などありえ ない〉という前提のもとで施策を進めることなのである。誤りに注意を向け、見つけ出し、公 にし、分析し、そこから学ぶという姿勢を、政治学者はもちろん、科学的政治家もとらなけれ ばならない。

(1.3)価値論

《小目次》
(1)問題:人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
(2)我々は、いかに行為すべきか
(3)規範を事実の上に基礎づけることは不可能
(3.1)生物学的自然主義への批判
(3.2)倫理的実定主義への批判
(3.3)心理学的自然主義への批判
(4)フレームワークの神話
 (4.1)独断論
 (4.2)共約不可能性
 (4.3)相対主義
(5)フレームワークの神話の誤り
 (5.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
 (5.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
 (5.3)反論
 (5.4)反論への回答
 (5.4.1)方法1:自らの原理を強化する
 (5.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
 (5.4.3)客観的真理の増大という価値
 (5.4.4)合理主義と平等主義との関係
(6)私はいかに行為すべきか



(1)問題:人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?


 (a)我々によって可能なすべての行為は人間本性に基づくものである。不可能な行為であれば、もとより考慮外でよい。従って、意味のある問い方は次のとおりである。
 (b)人間本性のうちで、どの要素に従って、それを発展させるべきであるのか。
 (c)人間本性のうちで、どの側面を抑圧ないし制御すべきであるのか。
 (d)すなわち、これは規範概念である。簡単な例で考えよう。美味しいものと、まずいもの。美味しいからといって身体に良いとは言えない。情動が、規範概念を直接定義するわけではない。そこで、健康に良い食べものとして再定義してみる。すると、経験と理性と他者との批判的な議論によって、真偽の区別ができる概念になる。しかし、この概念は我々が選択したものである。また、その食べ物が健康に良いものかどうかにかかわらず、我々はどの食べ物も食べることができるし、食べないこともできる。また、真偽の判断は区別はできても、判断の難しい対象もあるし、そもそも私は、健康に良いという基準では食べ物を選ばないかもしれない。

(2)我々は、いかに行為すべきか
 (a)法規範
 (b)慣習としての道徳規範
 (c)宗教的信念
 (d)医療的知識
 (e)一般にあらゆる工学的知識
 (f)科学も一定の規範に支えられている
 (g)美的規範


(3)規範を事実の上に基礎づけることは不可能




 (3.1)生物学的自然主義への批判

(3.2)倫理的実定主義への批判

(3.3)心理学的自然主義への批判




(4)フレームワークの神話
合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断 論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤 りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる. (カール・ポパー(1902-1994))
(4.1)独断論
 あらゆる合理的討論は何らかの原理、もしくはしばしば公理と呼ばれるものから出発せね ばならず、また無限背進を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れ ねばならない。
(4.2)共約不可能性
 前提にした原理や公理自体は、合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もあり えない。
(4.3)相対主義
 全てのフレームワークは、優劣において同等の資格を持つ。
(5)フレームワークの神話の誤り
(5.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
 フレームワークの神話には、暗黙の仮定が存在する。それは、合理的討論は正当化や証 明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴を持たねばならないという 仮定である。
《概念図》
原理1 ←互いに対立→ 原理2
 ↓   討論不可     ↓
結論1              結論2

(5.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
 科学における合理的討論は、原理や公理の論理的帰結が、すべて受け入れることのできる ものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テス トしようとするものなのである。
《概念図》
原理1 原理2 ......つねに誤りの可能性がある
 ↓   ↓
結論1 結論2 ......結論が受け入れられるか?

(5.3)反論
「われわれに好ましく思える帰結」自体が、フレームワークの一部なのだから、フレーム ワークの外側に出ることはできない。
(5.4)反論への回答
帰結による合理的討論によっても,各自の原理 の外へは出れないという反論に対する再反論.相手の原理を無視し自己強化するのでなく,自他 の原理を超えた,より包括的な真理の探究という原理によって乗り越え可能である.(カー ル・ポパー(1902-1994))

 原理1、結論1が自らの主張であるとして、結論1も結論2も満足できない場合、われ われは以下の二つの方法を選択することができる。
(5.4.1)方法1:自らの原理を強化する
 自らの原理1を強化して、相手の原理、結論は課題に設定しない。
(5.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
 人間、社会、自然、宇宙の真の姿を理解すること。これは、確かに、一つのフレーム ワークの選択であるかもしれない。しかし、自らの原理、結論とともに、相手が提示した原 理、結論をも理解して、乗り越えようとする原理である。

《概念図》
原理1 原理2
 ↓   ↓
結論1 結論2
不満足 不満足

方法1
原理1’修正 原理2
 ↓     ↓
結論1’   結論2
満足   考慮外

方法2
より包括的な真理の探究
という原理
 ↓      ↓ 
原理1” 原理2”
 ↓    ↓
結論1” 結論2”
満足 満足

(5.4.3)客観的真理の増大という価値
 価値は生命とともに世界に登場する。無意識的な問題による価値から自由な想像力と知性によるあらゆる創造物までの中で、世界3の中核的部分に存在する人間的価値の世界は、客観的真理の増大という価値が支配している。なぜなら、それが価値であるというのは真実なのかという問題が立ち現れるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

(5.4.4)合理主義と平等主義との関係



(6)私はいかに行為すべきか
 (a)道徳判断、倫理的決定という意味が、この意味だとすれば、仮に法規範に反することでも、私は自分の考えに従って、自分で行為を選択できる。
 (b)人の決定を「裁くな」というのは、人道主義倫理の根本法則の一つである。
 (c)たとえ善、悪という言葉を使ったとしても、善という言葉の意味が「私がなすべきこと」という意味を持たない限り、私のなすべきことは導出できない。



(2)生命の起源、生命の進化



 (2.1)物理的過程との相関、累進的な単称的分析
 物理学的過程と細微にわたって相関しているとみなせないような、あるいは物理化学的 見地から累進的に分析できないような生物学的過程は存在しない。
(2.2)問題(あるいは情報)は実在的なものである
 生物体のもろもろの問題は、物理学的なものではない。それらの問題は物的事物でもなけれ ば物理的法則でもなく、物理的事実でもない。それらの問題は特殊な生物学的実在である。こ れらの問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において「実 在的」である。




(2.3)生命の起源
 生命の起源とは、問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか、これが問題である。
(2.4)自己増殖、適応、変異
 増殖できると仮定してみよう。しかしそれでもなお、これら の物体は、もし適応ができないとすれば「生き」てはいないであろう。これを達成するためには、それらの物体は増殖に加えて正真正銘の変異性を必要と する。
(2.5)問題解決方法も、問題であった
 生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題を解決するすべを、様々な種は自然淘汰によって、つまり増殖と変異の方法によって「学ん」だ。そしてこの方法そのものも、同じ方法によって学びとられたも のである。


(2.6)進化論と世界3
 進化論においても、世界3の概念を持ち込めるよう にさせもする。人間的世界3の先駆のみなせる動物的産物が存在する。
(3)歴史とは何か

(3.1)問い:歴史における出来事の新奇性

(a)自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。
(b)しかし社会には歴史があり、同じ条件での反復は不可能で、全ての出来事は1回だけしか起こらないかもしれない(新奇性)。
(c)社会現象の解明に、科学的な方法は使えるのだろうか。

(3.2)解答:新奇性、歴史性とは何か


(3.3)解答:単称言明である仮説

(a)医学的 な当座の診断は、普遍法則の性質は持たず、単称的で歴史的性格のものだが、これを仮説と表 現することはまったく正しい。
(b)進化論の仮説が普遍的自然法則ではなく、地上の多くの動植物の祖先に関する歴史的な特称(より正確に言うなら単称)言明である。

(3.4)問題:生命の進化や人間の歴史に法則は存在し得るのか?

(3.5)進化に傾向はあるのか


(3.6)規則性の因果的説明とは何か

(1)特定の出来事の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)《特定的初期条件》
 これは、単称言明である。正確には、条件ではなく、状態である。原因と呼ばれる。
 (c)ある《特定の出来事》を、(a)と(b)とから演繹できるとき、因果的説明がなされたことになる。説明された特定の出来事は、結果と呼ばれる。

(2)規則性の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)ある種類の状況を特徴付ける条件
 (c)ある規則性
 (a)と(b)とから規則性を演繹できても、不十分である。規則性の因果的説明とは、主張されているその規則性が当てはまる条件(b)を含む法則を、すでに独立に検証、確認された普遍法則から演繹することにある。




(3.7)人間の歴史
(3.7.1)人間の歴史の道筋は予測できるのか
 個々の社会理論(たとえば経済理論)は、ある特定の条件のもとで、社会にどのような発 展が生じるかという予測を導き出すだろうし、それが正しいかどうかテストすることもでき る。
(2)人間の歴史の道筋の予測
 しかし社会科学は、人間の歴史の道筋を予測することはできない。少なくとも、未来の道 筋のうち、知識の成長によって強く影響される側面は予測できない。
(2.1)知識の自己予測
 なぜなら、知識が自らの将来の成長について自己予測をすることは矛盾であり、不可 能だからだ。予測者がいかに複雑であったとしても、明日初めて知り得ることを今日予測する ことはできない。
(2.2)予測者の相互作用
 結果として、相互に行為しあう予測者からなる「社会」は、この社会自体の将来にお ける知識のありさまを予測することはできない。
(2.3)知識と人間の歴史の道筋
 人間の歴史の道筋は、人間の知識の成長によって強く影響される。よって、社会科学 は、人間の歴史の道筋を予測することはできない。



(3.7.2)歴史の中に「発見される意味」は恣意的、偶然的、非科学的なもの
 歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然 的、非科学的なものである。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史 の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込む ことができる。(カール・ポパー(1902-1994))

(3.7.3)倫理的理念や目標設定によって初めて歴史に意味を読み取れる
合理性原理の3つの意味
合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意 味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応 ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カー ル・ポパー(1902-1994))
(1)客観的状況
 (a)現実にそうであったものとしての状況、歴史家が再構成しようとする客観的状況であ る。
 (b)客観的状況とは、そもそも何かを考えると、(3)が(1)を構成しているともいえる。 
 (c)各行為者が、現実をどのように認識していたのかという状況も含まれる。すなわち、 以下の(2)も状況として(1)に含まれている。
(2)行為者が認識する状況
 行為者が現実に見たものとしての状況である。
(3)行為者が認識すべき状況
 行為者が、客観的状況のなかでそう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべき だったはずの状況である。
(4)仮想的な合理性原理
 行為者は、自らの客観的状況(1)に対して適切に行動する。
(5)現実的な合理性原理
 行為者は、認識した自らの状況(2)に対して適切に行動する。
(6)規範的な合理性原理
 (a)行為者は、認識すべきと考えられる自らの状況(3)に対して適切に行動するべきであ る。
 (b)歴史家が、「失敗」を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(2)と(3) の違いを論ずることになろう。
 (c)もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといっても よい。
 (d)なお状況は、過去、現在、予測としての未来、規範としての未来を含むだろう。すな わち、行為者は過去、現在をこのように認識すべき、状況がこのような結果を招くだろうと予 測すべき、状況からこのようにすべきと認識すべきという様相が区別できよう。
(7)現実的な人間行動
 われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方 で行為する、言葉をかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては、普遍的 には真ではないとつけ加えてもいいだろう。


(3.7.4)各世代の歴史解釈


(3.7.5)開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治




(3.7.6)将来の運命は私たち自身にかかっている





第5部 めざすべき社会──自由主義の諸原則
 

めざすべき社会──自由主義の諸原則
(1)必要悪としての国家
(1.1)政治的、物理的制裁力
(2)民主主義の本質
(2.1)多数者支配は民主主義の本質ではない
(2.2)民主主義かどうかの認定規準
(2.3) 民主主義的憲法の改正限界
(2.4)寛容の限界
(2.5)民主主義を保護する制度
(2.6)経済的諸利益が依存するもの
(2.7)全ての闘いにおいて民主主義の維持が最優先である
(3)何事かをなし得るのは市民
(3.1)個人主義
(3.2)個人主義的利他主義
(4)民主主義は、最も害が少ない
(4.1)開かれた社会
(5)制度は善用も悪用もできる
(6)制度を支える伝統の力
(7)自由主義の諸原則は改善のための原則
(7.1)事実から目標は導出できない
(7.2)事実から目標が導出可能とする反論
(7.3)政治とは、政治目標とその実現方法の選択である
(7.4)最初に目標を決めることについて
(7.4.1)ユートピア的態度
(7.4.2)ユートピア主義への批判
(7.5)空想的な目標
(7.5.1)善い目的は悪い手段を正当化するか
(7.5.2)より大きな悪を避けるための手段としての悪
(7.5.3)ある行為の全結果と他の行為の全結果の比較
(7.5.4)政治権力と社会知識の相補性
(7.5.5)世論について
(7.5.6)制度による選抜の弊害
(7.6)事実の評価
(7.6.1)ピースミール工学
(7.7) 悪に対する漸次的闘い
(8)伝統としての道徳的枠組み
(8.1)伝統の力
(8.2)合理的討論の原則
(8.2.1)可謬性の原則
(8.2.2)合理的討論の原則
(8.2.3)真理への接近の原則
(8.3)思想の自由と真理
(8.4)知にかかわる倫理



(1)必要悪としての国家

 (a)人は人に対して狼であるか? 故に国家が必要であるか?
 (b)人が人に対して天使であるとしても、国家は必要である。依然として弱者と強者とが存在する。弱者が、強者の善良さに恩義をこうむりながら生き る。これを認めない場合は、国家の必要性が承認される。
 (c)国家は絶えざる脅威であり、たとえ必要悪であるとはいえ、悪であることに変わりはな い。国家が自らの課題を果すためには、権力を持たねばならないが、その権力の濫用から生じ る危険を完全に取り除くことはできない。また、権利の保護に対する代価が高すぎる場合もあ ろう。

(1.1)政治的、物理的制裁力



(2)民主主義の本質
 民主主義においては、政府は流血なしに倒されうる。専制政治においてはそうではない。 


(2.1)多数者支配は民主主義の本質ではない
 普通選挙制度が最も重要であるとはいえ、民主主義は多数者の支配として完全に性格づ けられうるものではない。なぜなら多数者が専制政治的に支配することもありうるからである。
(2.2)民主主義かどうかの認定規準
 支配者、政府を、流血の惨事なしに非支配者によって解職できること。これが民主主義の本質であり、民主主義と専制政治の区別が最も本質的である。それゆえ、権力の座にある者が、平和的変革運動の可能性を少数者に保証する諸制 度を保護しないならば、彼らの支配は専制政治なのである。
(2.3) 民主主義的憲法の改正限界
 整合的な民主主義的憲法は、法体系の変革のうち一つのものだけは、すなわち、憲法の民主主義的性格を危険にさらすであろうような変革だけは排除すべきである。 
(2.4)寛容の限界
 民主主義の暴力的転覆を他人に教唆するような者たちに、保護される権利は存在しない。




(a)不寛容な少数派が、合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである。
(b)ただし、寛容は相互性を基盤としてのみ存在し得ることを知らしめること。
(c)民主制の廃絶は、勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるので、民主制の廃絶を訴える政党が、仮に民主的手段によって多数派になるようなことがあれば、われわれは寛容である必要 はない。


(2.5)民主主義を保護する制度
 民主主義を保護すべき諸制度をたてる政策は、いつでも、被支配者のうちにも支配者のうちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しているという仮定に基づいて進められねばならな い。 
(2.6)経済的諸利益が依存するもの
 民主主義が破壊されるならば、すべての権利が破壊されることになる。万一、被支配者が或る種の経済的諸利益を享受しているなら、それらは黙許によってのみ存続しているのであ ろう。
(2.7)全ての闘いにおいて民主主義の維持が最優先である
 民主主義は、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦場を提供する。しかし、この戦場で戦われるすべての個別的戦闘において民主主義の維持が第 一に考慮されないならば、その時には、常に存在している潜在的な反民主主義的傾向は、民主主義の崩壊をもたらすであろう。


(3)何事かをなし得るのは市民
 民主主義は枠組みであり、何事かをなし得るのは市民である。

(3.1)個人主義

(3.2)個人主義的利他主義


(i)個人主義、集団主義、利己主義、利他主義
 (a)個人主義  (a')集団主義
 (b)利己主義  (b')利他主義
(a)人間の人格は永遠の価値を持ち、目的そのものである。(個人主義)
(a')個人はつねに、都市・国家・部族・ あるいは他の集合体の利益に役立たねばならない。(集団主義)
(b)自己や自集団の利益を最優先に考える。(利己主義)
(b')他者や他集団の利益を考える。(利他主義)

(ii)集団主義的利己主義の詭弁
 自己の利益を最優先にすること(利己主義)への道徳的な反発感情を使って、個人の人格に最高の価値を認める考え(個人主義)を攻撃し、個人は集団のためにあるという考え(集団主義)にすり替え、自集団のみの利益のために個人を犠牲にする。(集団主義的利己主義)
(iii)真実は個人主義的利他主義にある
 真実は、個人の人格に最高の価値を認める(個人主義)が故に、他者の喜びや悲しみに関心を持ち(利他主義)、政治や社会への関心は、他者に対する共感と責任感を基礎とする。


(4)民主主義は、最も害が少ない
 (a)多数派はいつでも正しいとは限らない。
 (b)民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知る限りで もっとも害が少ない。

 (c)民主的統治形態(目的のための手段)
 (i)国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。
 (ii)開かれた社会を、内的あるいは外的な侵害から守るためには、強力な国家、強力な政 府の保護を必要とする。
 (iii)国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつもその誤用の危険がある。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。
 (iv)必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りである。それは、抑制と均衡のシ ステムであり、「民主主 義」とも呼ばれる。

(4.1)開かれた社会

(a)開かれた社会(目的)
 個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態である。自由や寛容や正義、市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような諸価値に支えられている。

(b)闘う勇気を支える真理を探究し,誤謬から解放 されるためには,自身の理念を闘う理念と同様に,批判的に考察できることが必要だ。これは, 自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー (1902-1994))

(5)制度は善用も悪用もできる
 (a)制度は、いつでも両価的である。善用もできれば、悪用もできる。
 (b)制度を支える良い伝統が必要である。伝統は、制度と個人の意図や価値観を結びつける 一種の連結環を作り出すために必要である。
(6)制度を支える伝統の力
 (a)法はただ一般的な原理を書き記しているのみであり、その解釈や司法過程は、伝統的な 正義や原則によって支えられ、発展させられる。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的 な原則についても当てはまる。
 (b)個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、 可能なかぎり等しく課せられ、そして可能なかぎり少なくされる。

(7)自由主義の諸原則は改善のための原則

(7.1)事実から目標は導出できない
 (a)社会科学によって扱われる事実。
 (b)倫理的な考察に基づいているか、他の意思決定に基づいているかのいずれにせよ、政治 的な目標。 

(7.2)事実から目標が導出可能とする反論
 (a)意思決定の仕方は、教育やそれと同じような事実の影響に依存してい る。
 (b)目標や意思決定もそれ自体が事実である。

(7.3)政治とは、政治目標とその実現方法の選択である
 (a)目標が実現可能かどうかは事実の問題であり、社会科学 によって探究される。
 (b)目標を実現する方法もまた、社会科学に よって探究される。

(7.4)最初に目標を決めることについて
 それにもかかわらず、最初に社会を構想してから、実現方法を考えるというアプローチを、批判することを試みる。

(7.4.1)ユートピア的態度


(i)合理的な行為はどれも、一定の目標をもつ はずである。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、またこの目的に適うようにその手段 を決定する程度において合理的なものとなる。
(ii)それゆえ、われわれが合理的に行為したいと思 うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。そして、真実の究極の目的を決定す るに当たっては注意深くなければならない。以上 の原則を政治活動の領域に適用すれば、何らかの実践活動をする前に、われわれの究極の政治 目標、すなわち理想国家を決定しなければならない、という要求となる。

(7.4.2)ユートピア主義への批判




(7.5)空想的な目標
 空想的な目標は、実行不可能性が問題ではなく、そのアプローチが全体主義的であり、そして全体主義は怪 物キマイラである。一連の新しい社会制度の帰結を《すべて》思い描くことはできない。





(7.5.1)善い目的は悪い手段を正当化するか

(7.5.2)より大きな悪を避けるための手段としての悪


(7.5.3)ある行為の全結果と他の行為の全結果の比較


(7.5.4)政治権力と社会知識の相補性

(7.5.5)世論について

(1)自由で批判的で公開的な討論
 世論は、正義の問題や他の道徳的テーマについての討論を含めて、学問において生じている 自由で批判的で公開的な討論からは区別される。
(2)一つの社会現象としての世論
 (a)自由で批判的で公開的な討論によって、世論はたしかに影響される。
 (b)しかし、討論の成果として、世論が出現してくるわけではない。
 (c)また、討論によって世論を押さえつけられるものでもない。
(3)世論の否定的な側面
(3.1)世論が真理と誤謬の裁判官ではない
 世論が、神の声として、真理と誤謬についての裁判官として、承認されることはあっては ならない。
(3.2)世論は操作され、演出され、計画される
 残念なことに世論は操作され、演出され、また計画される。
(3.3)世論が自由にとっての脅威となることもある
 強固な自由主義の伝統による束縛を受けないならば、世論は、自由にとっての脅威とな る。世論は趣味の問題の裁判官としては、危険なものなのである。
(4)世論の否定的な側面の克服
(4.1)自由主義の伝統の強化
 これらすべての脅威に対してわれわれは、自由主義の伝統を強化することによってのみ対 抗し得る。また、この自由主義を守るということにおいて、すべての人は共同することができ る。
(4.2)世論の積極的な側面
(a)世論はしばしば政府より賢明
 世論は、確かに、政府などよりはしばしば啓発されていて賢明である。
(b)世論は、正義と道徳的価値を言い当てる
 また世論は、往々にして、正義と他の道徳的価値にかんする啓発された裁判官でもあ る。




(7.5.6)制度による選抜の弊害


(a)制度による選抜の弊害
 制度による選抜は、常に自発性と独創性を排除し、またより一 般的に言えば異常な性質や予期されない性質というものを排除する。
(b)教育制度による選抜の弊害
 教育制度に対して、最善者を選抜するという不可能 な課題を負わせようとする傾向は、教育体系を競争場に変え、学科過程を障害物競争に 変えてしまう。学生が研究のための研究に没頭し自分の主題と研究を真に愛するのを励ますの ではなく、彼は個人的経歴のための研究を奨励される。彼は自分の昇進のために越えなければ ならない障害を超すのに役立つ知識のみを得るように誘導される。
(c)特に知的指導者の選抜
 知的指導者を制度によって選抜するという不可能な要求は、科学の生命ばかりか知性の生命そのものをも危地に陥し入れるのである。

(7.6)事実の評価
 目標は事実に還元不可能である。では、目標は何から得られるのか。それは、単なる空想なのか。事実の評価から、我々は選択肢を作り、そして選択する。

(a)評価、改善のための制度
 自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変でき るようにするための補助的な原則である。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わる ことはできない。

(7.6.1)ピースミール工学
(i)この方法を採用する政治家は、社会の青写真を心にもっていてもよいしもっていなくて もよい。
(ii)完全というものは仮に達成可能だとしても はるかに遠いものであり、人類の各世代、それゆえ現在の世代もまたある要求をもっている。
(iii)社会の最大で最も緊急な悪を探してそれと闘うという方法を採用する。


(7.7) 悪に対する漸次的闘い
 従って、政治的な目標選択は、悪に対する漸次的闘いとなる。
 自由主義とは、専制政治への対抗という点を除けば、革命的であ るというよりは、むしろ進化を目ざす信条である。






(8)伝統としての道徳的枠組み
 伝統のうちでも、もっとも重要なものは、制度化された法的枠組みに呼応する道徳的枠組み を形成している伝統である。この伝統により、道徳的感情が育成されている。





(8.2)合理的討論の原則
 認識論的かつ倫理的な原則である。
 恐らく,私たちは共に部分的に間違っている. 私たちは, 真理に接近するために討論するのであって,相手を打ち負かすためではない. だから,合意でき なくとも,互いによりよい理解には達し,多くを学ぶだろう.(カール・ポパー(1902- 1994))
(8.2.1)可謬性の原則
 私は、あなたから学ぼうとしている。私が間違っていて、恐らくあなたが正しいのであろ う。しかし、私たちの両方がともに間違っているのかもしれない。
我々は必ず間違える



(8.2.2)合理的討論の原則
 私たちは、批判可能な特定の問題を論じているのであって、相手の人格を攻撃しようとし ているのではない。問題を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲している。
(8.2.3)真理への接近の原則
 私たちは何故、討論するのか。真理に接近するためである。だから仮に、合意に達するこ とができないときでも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶことができるに違いない。 

(8.3)思想の自由と真理
 思想の自由および自由な討論は、目的そのものともいえる根本的な自由主義的価値だが、我々が真理に到達するためにも必要なものだ。真理は顕現しない。しかも手に入れるのは容易ではない。真理の探求には (a)自由な想像力と(b)試行錯誤(c)批判的討論を経由した偏見の漸次的発見が必要だからである。(カール・ポパー(1902-1994))


(8.4)知にかかわる倫理
 知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、政治家などに とっての倫理である。
推論知には権威が存在せず,確証理論も例外ではない.誤り は不可避で,学びの契機であり,自己批判と知的誠実さ,他者批判の必要性と尊重,寛容の原理が 要請される.批判は真理のため,人でなく理論に関し理由と論拠によってなされる.(カー ル・ポパー(1902-1994))

(1)推論知の本質
 (a)客観的な推論知において権威は存在しない。われわれの客観的な推論知は、いつでもひとりの人間が修得できるところをはるかに超え ている。それゆえいかなる権威も存在しない。このことは専門領域の内部においてもあてはま る。
 (b)確証された理論も例外ではない。もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。

(2)誤りの不可避性
 (a)誤りを避けることは不可能
 すべての誤りを避けること、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けること は、不可能である。
 (b)誤りを避けることの困難性
 もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。しかしな がら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして 何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。 

(3)誤りの本質の理解
 (a)誤りに対する態度の変更
 それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。われわれの実際上の 倫理改革が始まるのはここにおいてである。
 (b)誤りから学ぶという原則
 新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさ に自らの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大 の知的犯罪である。
 (c)誤りを分析すること
 それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれ は、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りを あらゆる角度から分析しなければならない。

(4)自己批判と知的誠実さ
 それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。

(5)価値あるものとしての他者の批判
 (a)他者による批判の必要性
 われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学 ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 (b)自分とは似ていない他者の価値、寛容の原理
 誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする、また彼らはわれわれ を必要とするということ、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の 人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 (c)他者から指摘された誤りへの感謝
 われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせ てくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばね ばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと 同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。

(6)合理的な批判の原則
 (a)理由や論拠を伴った具体的な批判
 合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言 明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定さ れた理由を述べるものでなければならない。
 (b)批判は、真理のため
 それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。
 (c)人の批判ではなく内容の批判
 このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。



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