2024年4月24日水曜日

12. 人はできうるかぎりつかみどころがなく、しかも希望をもたせるような答えにとどめるように気をくばらなければならない。しかもこのばあい、可能なかぎりはっきりした約束を避けることである。」(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)

 人はできうるかぎりつかみどころがなく、しかも希望をもたせるような答えにとどめるように気をくばらなければならない。しかもこのばあい、可能なかぎりはっきりした約束を避けることである。」(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)


 「君が世話をするつもりもないようなことは約束しないのが誠実で男らしい態度である。

ところが、人間は理性に支配されるものではないので、たとえすじの通った理由があっての上でも、君が断わったその相手は、おおむね不満をいだくものである。

これとは反対のことが、気安く約束してやったときにもおこってくる。というのは、多くのことがおこってきて、君が約束していたことを守る必要がなくなるばあいがあるからである。

このばあいでも、君は労せずして満足を与えることができることになる。またたとえ、君が約束を実行しなければならないようなばあいでさえも、いいのがれする道はあるのだ。そして多くの人間は血のめぐりの悪いものだから、口先でだまされてしまう。

けれども、君がした約束を破ってしまうのは、醜悪なことなので、それによって君がひきだしたあらゆる利益をも台無しにしてしまう。

このようなわけなので、人はできうるかぎりつかみどころがなく、しかも希望をもたせるような答えにとどめるように気をくばらなければならない。しかもこのばあい、可能なかぎりはっきりした約束を避けることである。」

(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)、『リコルディ』B、八七 他人からの依頼、フィレンツェ名門貴族の処世術、p.220、[永井三明・1998])





索引:)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)


2024年4月23日火曜日

17. 確率評価の持つ問題点(高木仁三郎(1938-2000)

確率評価の持つ問題点(高木仁三郎(1938-2000)


 「個々の機器の故障の確率を求めるとか推定する、というのは、現実的には想像を絶する困難な作業です。

このような確率評価の持つ問題点については、すぐれた証言があるので、それを引用してみましょう。

 この証言は、一九七四年二月一日のカリフォルニア州議会におけるウィリアム・ブライアン博士によるものです。

フォールト・ツリー解析法は、かつてアメリカの航空宇宙局(NASA)が、その宇宙飛行計画の信頼性を評価するのに採用してきたものであり、実効が上がらず修正を迫られたものでした。ブライアン博士は、その作業に従事してきた技術者として、次のように証言しています。

 「サターン・ロケット原子力発電所のような複雑なシステムでこのような数のゲームをやろうとすれば、何十万という部品を考慮する必要があるのはお分かりでしょう。

そのうちのいくつかは付加的なものであり、いくつかは連続しているでしょう。

連続した一〇個の部品の故障ごとに、故障率は一桁変化します。分かりやすくいえば、仮に一〇個の部品を一続きとし、すべてが動作した時にこのシステムの故障率をたとえば一〇のマイナス三乗(一〇〇〇分の一)とすれば、部品一個当たりの故障は一〇のマイナス四乗(一万分の一)にしなければなりません。

 結局、この宇宙船の全体的な目標は一〇のマイナス三乗程度なので、ある種のサブシステム、たとえば私の担当だった第四段エンジンの部品に要求される信頼性は、現在AEC(当時のアメリカの原子力委員会)が使用している値とほぼ同じになります。

つまり故障率は一〇のマイナス九乗から一〇のマイナス一二乗です。これは一〇億回ないし一兆回の操作で一回の故障を起こすという割合です。工学に詳しい仲間達は、この要求を聞いて吹き出してしまいました。

こんな低い故障率を持つものなどありえません。私のうちにもそのようなものは何一つありません。もちろん洗濯機も掃除機も自動車エンジンも違うし、ロケットや原子力発電所のように沢山の部品を持ったシステムもそんな低い故障率でありえようはずがありません」(『技術と人間』一九七六年一月号)

 そこで、ブライアン博士やその他数多くの宇宙計画の安全解析にかかわった科学者・技術者たちが行ったのは、「NASAの要求を満足しうるということを紙の上だけで立証する」ことだったのです。

つまり、まず、NASAが受け入れてくれそうな故障率の最終値を想定し、それに合わせて、どのみち実証的に確かめようのない、個々の部品の故障率を一〇億分の一なり一兆分の一と決めてしまい、そしてその「データ」をもとに、あらためてフォールト・ツリー解析法によって、全体としての事故率を決めるというやり方です。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第七巻 市民科学者として生きるⅠ』科学は変わる Ⅱ 原子力の困難(一)、pp.60-61)



19. ルールと制度は経済を背後から支えるものであり、それらのルールをどう定め、更新し、実施するかがあらゆる人に影響をあたえる(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

ルールと制度は経済を背後から支えるものであり、それらのルールをどう定め、更新し、実施するかがあらゆる人に影響をあたえる(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),


「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。

経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。

 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。

たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。

 氷山の頂点は、わたしたちが見て経験しているものだ。有権者と政治家にとって最も重要となる、わたしたちの日常生活。しかしそれは、政治・経済のパワーバランスを決定し勝者と敗者を生む市場構築力のかたまりによって運ばれている。

海面下にある氷山のかたまりが船を沈めるのと同じように、そのルールのかたまりがアメリカの中流層を沈めているのだ。

 多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。

 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。

グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。

この考えかたに準ずれば、住宅金融の過剰融資を抑えれば、金融セクターはバブルをつくる別の方法を見つけ出し、経営幹部の給与をひとつの方法で制御すれば、企業はCEOたちに報酬をあたえるもっと巧妙な手段を見つけることになる。

 こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。

 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。

 つまり、労働法やコーポレートガバナンス、金融規制、貿易協定、体系化された差別、金融政策、課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。

 経済と権力のルールを定めるためのここでの主眼は、政府に対して“かかわるな”と要求することではない。

政府が“かかわらない”でいられることはまれだ。先に述べたように、市場は真空に存在するわけではない。市場を構築して、ルールと規制を定め、そのもとで稼働させるのは政府だ。ルールと制度は経済を背後から支えるものであり、それらのルールをどう定め、更新し、実施するかがあらゆる人に影響をあたえる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

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(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)






1990年代と2000年代には、また別のすさまじい変化があった。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

1990年代と2000年代には、また別のすさまじい変化があった。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「1990年代と2000年代には、また別のすさまじい変化があった。

この期間、規制を緩和された金融セクターは、企業にむけて“短期主義”を奨励した。結局、1990年代にみられた成長の多くは不安定で、バブルの上に築かれていたことがわかった――まずはITバブル、次に住宅バブル。

“大いなる安定”は幻影であることが判明した。もたらされたのは、よりよく制御された経済につながる新しい経済的見識(たとえば金融政策の実施にかんしてなど)ではなく、さらなる不安定と、成長の鈍化と、不平等の拡大だった。

 同時期に、テクノロジーとグローバル化にも変化があり、世界の国々がより緊密に統合されはじめた。

これらの進歩は、中流層の生活を脅かすのではなく、生活水準を向上させるはずだった。うまく制御すれば、実現していたかもしれない。

しかし、広く受け入れられていた前提は、自由化された市場が自動的に人々すべてを豊かにするというもので、その前提は悲惨なほど間違っていることがあきらかになった。

グローバル化とテクノロジーは世界市場にさらなる相互依存をもたらした一方で、労働コストの“底辺への競争”に対するセーフガードがなかったため、アメリカ経済における大規模な失業と賃金引き下げへの圧力をもたらした。

さらにこの圧力は、アメリカ経済の金融化が増大するとともに、製造工程の複数の段階を一手に担う垂直統合の製造業を衰退させる一因にもなった。これらすべての要素の極致が、レントと搾取が蔓延し、賃金と雇用が削減されたアメリカ経済なのだ。


 ※短期主義 Short-termism

 短期的な利潤と株主の利益に重点を置いた1980年代以降のコーポレートガバナンスのモデル。持続性とイノベーションと成長につながる人材や研究への長期投資といった長期的な考えかたとは対照的。


 今日、多くの人が1990年代と2000年代の画期的なイノベーションに希望を託している。

インターネットで可能になった分散コンピューティング、ナノテクノロジーの有望性、バイオテクノロジーや個別化医療の大きな可能性。これまでのところ、強力な企業をつくったり、インターネットの力の上に財産を築くなど、いくつかの分野で成長がみられる。

しかし経済をめぐる最も重要な疑問は、これらのテクノロジーがさらなる成長と機会と快適な暮らしを生み出し、もっと多くの人に分配するのに役立つかどうかだ。

インターネットとその未開発の革新的な潜在力は、21世紀の今、あらゆる所得水準の人々にとって20世紀の製造業に匹敵するものになれるだろうか? それとも、レントの蔓延した目下の経済に拍車をかけるのだろうか? 

ウェブ技術は多くの利益をもたらしているが、繁栄の幅広い共有をうながすかどうかはまだわかっていない。実のところ、いくつかの新しいテクノロジーは、所得と富と権力のさらなる集中を招く傾向にある。

 これがわたしたちの課題だ。イノベーションのすばらしさを実感するには、目前の問題をまず解決しなければならない。35年にわたるサプライサイドの考えかたとルールが、アメリカの経済と社会のあらゆる面をつくり替え、成長の鈍化と前例のない不平等へ導き、それによって数々の問題がのこされているからだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.44-46,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))

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(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


19.このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう(マルティン・ブーバー(1878-1965)

このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう(マルティン・ブーバー(1878-1965)




 「だが、観察とも照察とも決定的におもむきを異にしている知覚というものがある。
 観察者と照察者とは、彼らがひとつの眼目、まさに、われわれの眼前に生きている人間を知覚しようという意向を有している点で共通している。

さらにこの両者にとって相手の人間は、観察し照察する彼ら自身からも、彼らの個人的生活からも切り離された一個の対象であり、まさにそれゆえにこそ《正当》に知覚され得るのだ。

したがって彼らがそうして経験するものとは、観察者においては諸特徴の総和であり、照察者においてはひとつの存在(Existenz)であるというようにことなってはいても、それによって彼らに行為が要求されることも、運命がもたらされることもなく、むしろすべてのことは、切り離された知覚能力(Ästhesie)の場においておこなわれるのである。

 だが、私の個人生活がある敏感な状態におかれている時に、ひとりの人間が私のまえに現われ、彼のところから私にむかって何かが、私がまったく客体的に把握できぬ何かが、《何かを語る》ような場合、事情は別である。

この場合、その人間がどういう人間だとか、彼のうちにどのようなことが起こっているとか、そういうことが私に語られるのではけっしてない。

いや、何かが《私にむかって》語られ、語りかけられ、何かが私自身の生のうちへと語りかけられるのだ。

それは、その人間に関する何か、たとえば、彼が私を必要としているというようなことでもあり得るし、一方また、この私に関する何かでもあり得よう。 

しかしその人間自身が、私とかかりあうことによってこのような語りかけにたずさわるのではない。彼はそもそも私とかかりあってはいない、彼はたぶん私の存在にすらまったく気づいてはいないわけである。

つまり、そのことを私に語るのは彼なのではなく、ただ何かによってこちらへと《語られる》ことがあるだけなのだ。

それゆえあの孤独な男がベンチのうえで、隣の男に自分の秘密を無言のままに打ち明けたこととは、話がまた別なのである。

 この場合、《語る》、《語られる》という言葉を比喩として理解するなら、事は理解されない。《これには何も語りかけてくるものがない》という慣用句は、比喩としてはもう擦りきれている。

しかし、私が指し示している語りかけは、事実として存在する言語なのだ。言語という家のなかには多くの部屋があり、そしてこの場合の言語とは、内面の言語という部屋のうちのひとつなのである。

 このように語りかけられることを感受するという行為は、照察や観察のそれとはまったくことなっている。私は、そのひとのところから、そのひとを通して何かが私に語られたところの人間を、描写したり、物語ったり、記述したりすることはできない。

もし私がそうしようとこころみるならば、あの語りかけは止んでしまうだろう。この人間は私の対象物ではない。私は彼に関わりを持つにいたったのである。たぶん、私は彼との関係を通して何かをはたさなければならない。

だがたぶん、私はただ何かを会得することができるだけであって、そして肝心なのはただ、私がその語りかけを《引き受ける》ことなのである。

この場合、私がほかならぬその人間にむかって直ちに応答するようなこともあり得よう。あるいはまた、その語りかけが、長いあいだにおよぶ一種の多様な連動作用を有していて、私がその語りかけにたいしてどこか別の所で、いつか別の時に、だれか別の人間にむかって応答することもあり得よう、……いかなる言語によってであるかはいざ知らず。

そして今は、私がその応答を引き受けるということだけが大事なのだ。いずれにしてもしかし、私にむかってひとつの言葉が、ひとつの応答を求めるひとつの言葉が生じたわけである。

 このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう。

 私が感得するのは人間であるとは限らない。それは動物でも、植物でも、石でもあり得るのだ。時に応じてそれらを通して何かが私に語りかけられるところの現象の系列から根本的に締め出されているような、いかなる種類の現象も、出来事も存在しないのである。

いかなるものも、言葉の容器たることを拒むことはできない。対話的なものの可能性とは、感得の可能限度なのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.198-199、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話




照察者(Betrachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 照察者(Betrachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)


「照察者(Betrachter)は、そもそも緊張していない。彼は対象を自由に見ることができるような姿勢をとり、自分のまえに示されるだろうものを虚心に待つ。

ただ最初のうちだけは、彼の心にも意図がはたらいているかも知れないが、そのあとのことはすべて無意的におこなわれるのだ。

彼はせかせかと記録したりはしない。彼は伸びやかにふるまい、何かを忘れることなどはすこしもおそれない(《忘れるのはよいことだ》と彼は言う)。彼は自分の記憶に責務を課したりはしない。

彼は、保持するにあたいするものを保持してくれる記憶の有機的なはたらきを信頼しているのだ。

彼は観察者のように草を緑色飼料として刈りいれたりはしない、彼は草の向きを変えて陽光を受けさせてやるのだ。

《特徴》には彼は注意をはらわない(《特徴は眼をあざむく》と彼は言う)。対象にそなわっているもののうち、彼にとって大事なのは、《特質》でも《外容》でもないところのものである(《興味をひくものは重要ではない》と彼は言う)。あらゆる偉大な芸術家は照察者であった。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.199-200、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






観察者(Beobachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)

観察者(Beobachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)




 「われわれの眼前に生きているひとりの人間(私が念頭においているのは、学問の対象としての人間ではない。私はここでは学問については語らない)をわれわれが知覚する方法は、三つに区別される。

さてこの場合、われわれの知覚の対象である人間が、われわれのこと、われわれが彼のそばにいることを、知っている必要はいささかもない。彼がわれわれの知覚行為に何らかの関わりを有しているかどうか、何らかの挙止によって応ずるかどうかということもまた、どちらでもよいのである。

 観察者(Beobachter)は、被観察者を記憶に刻印し、《記録》すべく、このうえなく緊張している。

彼は相手を探知し、記述する。彼はしかも、あたうる限り多くの《特徴》(Züge)を記述しようとやっきになっている。彼はさまざまな特徴を、それらのうちの何ひとつとして取り逃すまいとして待ち伏せるのである。

対象はここではさまざまな特徴によって成り立っているにすぎず、あらゆる特徴について、その背後にひそんでいるものが知られてしまうのだ。

人間的事象の表出方式なるものについての知識が、新しく現れてくるさまざまな個人的な表出変差を絶えず直ぐさま抱合してゆき、相変わらず役立つわけである。

顔はここではたんなる表情にほかならず、行動はたんなる表出様態にほかならないのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.198-199、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






2024年4月22日月曜日

24. 特別学習プログラム(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

特別学習プログラム(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 「人々がしばしば不適応と判断される主な理由は、その人たちが出会う社会的・職業的要求に効果的に対処するために必要な行動様式をどのように実行するかを学ばなかったということであろう。

つまり、うまく役割を果たすために要求されている技術が欠如しているので、適切にふるまえない。

例えば、社会的、経済的に恵まれていない人は、職業や対人関係場面で成功するために必要な行動様式や能力を獲得していないので苦しんでいるのかもしれない。同様に、私たちの文化において高校中退は実際に、恒久的な不利益をもたらす。

そのような行動的欠陥は、もし広範囲に及ぶものなら、重篤な情動的苦痛を生じさせるかもしれない。

多くの特別学習プログラムは、人々にさまざまな問題解決戦略や認知的スキル(Bijou,1965)を教えるように、また人々が多くの他の肯定的な行動の変化を成し遂げるのを援助するよう計画されている(Kamps et al.,1992; Karoly,1980)。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅳ部 行動・条件づけレベル、第11章 行動の分析と変容、p.355、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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行動査定と行動変容の間の密接な関係は機能分析、つまり刺激条件の変化と選択された行動パターンの変化の間の密接な共変動の分析において最も明らかである(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 行動査定と行動変容の間の密接な関係は機能分析、つまり刺激条件の変化と選択された行動パターンの変化の間の密接な共変動の分析において最も明らかである(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 「ある子どもの読書の問題が、視力の悪さによって引き起こされると仮定したら、矯正メガネや矯正手術のような適切な治療をすれば、例えば読書行動の向上など、行動上の変化がもたらされるはずである。

心理的原因に関しても、同じであるのは間違いない。例えば、もし子どもの読書の困難さが、読書するようにという母親からの圧力についての不安で引き起こされていると信じるなら、母親が圧力を減少させたとき、読書行動に期待された改善が生じるかどうか、試してみるべきである。

つまり、行動を完全に理解するには、それを引き起こす条件を知る必要がある。条件の変化が反応パターンの予測された変化を生じさせることを示すことができたとき、それら条件の意味を理解できたと、確信をもっていうことができる。

 行動査定と、例えば行動の変化などの治療との間の明確な区別は、このように考えると、意味はないし可能でもない。実際、行動査定における最も重要な革新のいくるかは、問題行動を変容させる治療的努力から派生している。

これらの査定方法の主要な特徴は、それらが行動変容と密接に結びついており、実際に行動変容とは分離することはできないということである。

 行動査定と行動変容の間の密接な関係は機能分析、つまり刺激条件の変化と選択された行動パターンの変化の間の密接な共変動の分析において最も明らかである。そのような機能分析は、行動査定の基本であり、そのことは行動を系統的に変化させようとする研究において最もはっきりと示される。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅳ部 行動・条件づけレベル、第11章 行動の分析と変容、pp.342-343、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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2024年4月21日日曜日

24. 人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。 (チャールズ・カーバー、マイケル・シャイアー)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。 (チャールズ・カーバー、マイケル・シャイアー)ジョナサン・H・ターナー(1942-)



「カーバーとシャイアーは、感情が行動調整にとって重要であるとする考えに同意しない。

彼らは感情的要因よりもむしろ情報が自己調節を導いていると論じる。

不一致減少に向けたさらなる努力が成功を収めると信じているなら彼らは継続するだろう。もし人びとが不一致減少に向けた努力が不成功に終わると思っていると、彼らは撤退し、止めてしまうだろう。

しかし撤退することもままならないことがある。とくにその目標が個人の自己定義の中心に位置している場合がそうである。人びとは止めることもできず、そしてなお不一致を経験すると、彼らはしばしば憂鬱になる。

つまりカーバーとシャイアーは、不一致の現前そのものがいつも不快(否定的情動)を人びとのうちにつくりだすとは考えていない。むしろ否定的な気持ちは、個人が不一致を減らせないと確信する場合だけに生じる。そうであるとすると、その個人は自己目標の優先順位を入れかえるだろう。

つまり人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。  

最後にカーバーとシャイアーは、感情は不一致減少のフィードバック・ループから生じるだけでなく、個人が特定の結果を避けようと試みる不一致拡大のフィードバック・ループからも生じると議論している。

その目標に近づこうとする行為よりも、むしろある個人の行動は基準あるいは準拠している価値から離れる動きを起こそうとするかもしれない。」(中略)  

「不一致減少のループでは、個人は目標を達成しようとつとめる。そして個人が望ましい目標に近づくほど、喜びなどの肯定的感情がますます出現する。

不一致拡大のループでは、個人は目標を避けようとつとめ、そして個人がそうすることに成功するほど、安堵のような感情が生じやすくなる。  

カーバーとシャイアーのアプローチとヒギンズの情動理論のあいだには、いくつかの興味深い相違が見いだされる。

ヒギンズにとって、感情は自己の二つの表象間の不一致の関数である。これに対して、カーバーとシャイアーにとって、感情は目標に向う速度の関数である。

たとえばカーバーとシャイアーにとって、不一致があっても個人が目標へ向けて速い速度で進行していると感じるかぎり、否定的より肯定的な感情が経験される。  

もう一つの相違は、ヒギンズ理論は否定的感情に焦点を合わせる傾向が見られるが、カーバーとシャイアーは肯定的ならびに否定的感情に等しく注目している。

さらに、両者の理論のあいだにあるもう一つの相違は、道徳指令、すなわち「理想的」と「当為的」がどのように概念化されるかと関係する。理想は不一致減少のループを取り扱うのに対して、当為は不一致減少のループ(肯定的目標の実現に向けた運動)および不一致拡大のループ(反目標からの逃避)の両方を示唆している(Carver and Sheier,1998)。

カーバーとシャイアーにとって、もし個人が回避ループで十分に進展できなかったならば、経験される不安の水準は、肯定的目標に向う運動が実現されないときと同程度であろう(ヒギンズモデルはこの点を強調している)。  

カーバ-とシャイアーのモデルの強みは、「怖がる自己」「望ましくない自己」「あってほしくない自己」と見なされるものから出現する感情に注目していることである。」

 
望ましい目標 目標に向けた展開なし
標準を下回る速度で目標に向う展開
不一致減少なし
不一致減少
憂鬱
望ましい目標 標準より速い速度で目標に向う展開 不一致減少 高揚/喜び
望ましくない目標 目標に向けた展開なし
標準を下回る速度で目標から遠ざかる展開
不一致拡大なし
不一致拡大
不安
望ましくない目標 標準より速い速度で目標から遠ざかる展開 不一致拡大 安堵
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第4章 象徴的相互作用論による感情の理論化、pp.273-276、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年4月19日金曜日

29 約束することのできる動物を育成するというあの課題(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)


約束することのできる動物を育成するというあの課題(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)


「まさにこれこそは《責任》の由来の永い歴史なのである。

約束することのできる動物を育成するというあの課題は、われわれがすでに理解したごとく、その条件や準備として、まずもって人間を或る程度まで必然的な、一様な、同等者たちのあいだで同等な、規則的な、したがってまた算定可能なものと《する》というより差し迫った課題を含んでいる。

私が〈習俗の倫理〉と呼んだもののあの巨大な作業(『曙光』九節、一四節、一六節参照)―――人類のもっとも長きにわたった期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、人間のあの《前史的な》作業の全体は、たとえその内にどんなに多くの冷酷、暴虐、遅鈍、痴愚が宿っているにしても、右の課題に関する点でその意義をもち、立派に申し開きが立つものとなる。

それというのも、人間は習俗の倫理と社会的拘束の緊衣とのおかげで本当に算定しうるものと《された》からである。

しかるに、もしわれわれがこの巨大な過程の終点に立ってみるならば、すなわち樹木がついにその実を結び、社会とその習俗の倫理がそれの手段にすぎなかった当の《目的》がついに実現される地点に立ってみるならば、そのときわれわれは、その樹のもっとも熟した果実として《主権者的な個体》を見いだすであろう。

これこそは自己自身にのみ等しい個体、習俗の倫理からふたたび解き放たれた個体、自律的にして超倫理的な個体(というのも〈自律的〉と〈倫理的〉とは相容れないから)、要するに自己固有の、独立的な、長い意志をもつ《約束のすることのできる》人間である。

―――そして彼の内には、ついに達成されて彼自身それの化身となった《そのもの》についての、全筋肉を震わせるほどの誇らかな意識が、真の権力と自由との意識が、人間そのものとしての完成感情が見られる。

真実に約束することの《できる》この自由となった人間、この《自由なる》意志の支配者、この主権者、―――この者が、かかる存在たることによって自分が、約束もできず自己自身を保証することもできないすべての者に比して、いかに優越しているかを、いかに多大の信頼・多大の恐怖・多大の畏敬を自分が呼びおこすか―――彼はこれら三つのものすべての対象となるに〈値する〉―――を、知らないでいるはずがあろうか?

 同時にこの自己に対する支配とともに、いかにまた環境に対する支配も、自然および一切の意志短小にして信頼しがたい被造物どもにたいする支配も、必然的にわが手にゆだねられているかを、知らないでいるはずがあろうか? 

〈自由なる〉人間、長大な毀たれない意志の所有者は、この所有物のうちにまた自己の《価値尺度》をもっている。

彼は自己を基点にして他者を眺めやりながら、尊敬したり軽蔑したりする。彼は必然的に、自己と同等な者らを、強者や信頼できる者ら(約束することの《できる》者たち)を尊敬する、

―――要するに主権者のごとくに重々しく、稀に、ゆったりとして約束する者、容易には他を信頼せず、ひとたび信頼したとなれば《これを賞揚する》者、おのれの一言を災厄に抗してすら・〈運命に抗して〉すらも守りぬくほど十分に自分が強いことを知るがゆえに、頼むに足るだけの言質を他に与える者、こうしたすべての者を尊敬するのである―――。

同様にまた必然的に彼は、できもしないのに約束する法螺吹きの痩犬どもを足蹴にすべく身構えるだろうし、舌の根の乾かぬうちにはやくもその約束を破る虚言者どもに懲戒の笞を振るうべく身構えるであろう。

《責任》という格外の特権についての誇らかな自覚、この稀有な自由の意識、自己と命運とを支配するこの権力の意識は、彼の心の至深の奥底まで降り沈んでしまって、本能とまで、支配的な本能とまでなっているのだ。

―――もし彼にしてこれを、その支配的な本能を、一つの言葉で名づける必要に迫られるとすれば、これを彼は何と呼ぶであろうか? 疑いの余地もなく、この主権者的な人間はこれを自己の《良心》と呼ぶ・・・」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『道徳の系譜』第二論文〈負い目〉、〈良心の疾しさ〉、およびその類いのことども、二、ニーチェ全集11 善悪の彼岸 道徳の系譜、pp.425-427、[信太正三・1994]) (索引:約束することのできる動物)

ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

2024年4月17日水曜日

11. もし君が特定の個人を攻撃するばあい、その人物の祖国や家族や親類のことを悪くいってはならない。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)

 もし君が特定の個人を攻撃するばあい、その人物の祖国や家族や親類のことを悪くいってはならない。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)

 「もしやむにやまれず、あるいは腹にすえかねて、どうしても他人にむかってひどいことを言わなければならないようなときには、すくなくともその当人だけの気にさわることを口にするだけに止めておくように注意したまえ。

たとえば、もし君が特定の個人を攻撃するばあい、その人物の祖国や家族や親類のことを悪くいってはならない。

それというのも、たった一人の特定の人間を攻撃しようとして、多くの人々を怒らせるなど愚の骨頂だからである。」

(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)、『リコルディ』C、八 他人を非難する方法、フィレンツェ名門貴族の処世術、p.52、[永井三明・1998])


フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



2024年4月16日火曜日

16. ノーマル・アクシデント(高木仁三郎(1938-2000)

ノーマル・アクシデント(高木仁三郎(1938-2000)

 「この種の事故のパターンが、なぜ現代の巨大システムには、現れやすいのか、ということが問題になる。この問いに対する答えには、エール大学の社会学者チェールズ・ペロウが示唆を与えてくれた。彼の著『ノーマル・アクシデント』に従って、しばらく彼の考えを述べてみよう」。

 「彼は現代の巨大システムにおける事故を、ポカとかミスとか何かしら信じられないようなことによってもたらされる、偶然的なものとはみない。

あるいは、そのシステムにとって外在的なものとはみない、と言ってもよいかもしれない。

彼は事故はシステムそのものが生み出すもの、いわばシステムに内在し、システムの営みそのものとして生み出されてしまうものとみる。

 その意味で、彼はノーマル・アクシデントという言葉を使う。ノーマル(通常、正常)なアクシデント(事故)とは、そもそも矛盾した表現である。アクシデントとは、そもそも異常(反ノーマル)な事態のはずだから。

しかし、まさにノーマル・アクシデントという捉え方こそが必要だと彼は力説する。同じことだがシステム・アクシデントという言葉も使われている。」

 「さて、ペロウが現代システムの重要な特徴として第一にあげるのが相互作用性( interactiveness )ということである。相互作用というのは、ひとつのシステムのいろいろな部分とかあるいはさまざまな機能が相互に関連していて作用しあうということである。」

 「現代のシステムは、巧妙に高度な機能が組み込まれているだけに、複雑な相互作用を起こす。こういう性質を称して、ペロウは「高い相互作用性をもつ」と呼び、そういうシステムは、共倒れを起こしやすいとしている。私は、将棋倒しにこそなりやすいのではないかと思う。

 右のような機能的な複雑さと直感的なわかりにくさというだけでなく、相互作用の強さにはさまざまな原因があるとして、ペロウはたとえば、近接性ということをあげている。

 現代の巨大プラントでは、機能性と空間の有効利用を考え諸機能を空間的にきわめて近接してコンパクトに作るように配置する。ところがそんなシステムの一ヵ所で爆発があるとすぐに他の部分も損傷する。火災も同様で、ラアーグ再処理工場の火災のケースがまさにそうだった。

この「近接性」も、本来設計者が予期しなかったような相互作用の原因となり、共倒れや将棋倒しにもつながることは容易に理解できよう。

 私がさらに付け加えれば、原発事故では放射能が、化学工場の事故では化学毒物が、事故の初期に漏れ始めると、これが制御室を襲ってくることがある(実際スリーマイル島事故でもチェルノブイリの事故でも制御室は危機になった)。これもひとつの「複雑な相互作用」で、そうなったら混乱は増幅される。

 もうひとつ付け加えておくと、システムが全体として複雑になるにつれて、構成各要素間の予期せぬ相互作用の可能性は飛躍的に増えるだろう。

その観点から言うと、安全装置を何重にも多く装備することで、システムは必ずしも安全性を増さないのである。むしろ、複雑になった分だけ、事故が起こりやすくなるかもしれない。ここに、安全装置が決して万能でない理由がある。」

 「もうひとつのペロウの重要な概念は、「緊密さ( tightness )」ということだ。現代の先端的システムはどれも非常に緊密( tight )につくられていて遊びがない。

ある圧力とか温度とか定められた範囲にきわめて近いところで運転され、それを少しはずれるととたんに事故になるようにつくられている。遊びのたくさんある自転車の運転とはわけが違う。

 もちろんある程度の余裕ということは安全上から現代のシステムでも必要とされるが、その幅はきわめて小さい。たとえば、原発で制御棒を誤って引き抜いてもよい本数はたかだか一本である。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第九巻 市民科学者として生きるⅢ』巨大事故の時代 第七章 事故はなぜ起きるか、pp.123-127)




2024年4月15日月曜日

18. サプライサイド経済理論(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

サプライサイド経済理論(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「1980年代には、その前の10年間に発展したサプライサイド経済理論の影響下で、保守的なイデオロギーと特別利益団体に駆り立てられたアメリカの政策立案者たちが経済を自由化しはじめた。

さらに、国は最富裕層と資本収益に対する税率を引き下げた。

そして1990年代には、キャピタルゲイン課税がさらに引き下げられた。今世紀初めには、最高税率、キャピタルゲイン課税、配当金課税のさらなる引き下げが行なわれた。

これらはすべて、労働と貯蓄をさらに促進するためとされた。減税すれば成長が拡大し、すべての国民が利益を得られるというのが前提だった。

レーガン大統領は、成長が著しく拡大し、税収も増えるだろうと論じたが、結果は思わしくなかった。期待されたサプライサイドの反応は現れず、税収は減り、成長は鈍って経済はさらに不安定になったのだ。

 

 ※サプライサイド経済理論 Supply-side economic theories

 経済の供給側(サプライサイド)を増大させることに焦点をあてる理論――たとえば、事業や投資家のためにさらに有利な条件を設けたり、減税が大きな労働力の供給を引き出すことを期待して労働者に対する税率を引き下げたりする。

需要に焦点をあてるケインズ学派とは対照的な理論。

サプライサイド理論は、税率の引き下げと事業に対する規制緩和でインセンティブを高めれば、労働や投資や起業の増加につながり、さらには雇用や所得や税収の上昇というトリクルダウン効果をともなって力強い成長につながると想定した。

予測ははずれ、この理論は経済学者たちからの信用をほぼ失うことになったが、一定の保守的な政治家や理論家のあいだでは今も好まれている。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.43-44,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))

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(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)








持続可能かつ公平な成長を取り戻す(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)


持続可能かつ公平な成長を取り戻す(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「持続可能かつ公平な成長を取り戻す

 ①公共投資にもとづく成長政策。

 トリクルダウン経済がうまく機能しない理由はすでに説明した。成長は自動的に万人に恩恵をもたらすわけではないが、貧困によって引き起こされる事象をふくめ、きわめて扱いが難しい問題の一部に対して、解決のために必要なリソースを提供してくれる。いま現在、アメリカとヨーロッパ諸国が直面している最重要問題は、需要の不足だ。しかし、やがて総需要が回復を遂げ、アメリカの資源をフル活用できるようになれば(すなわち、アメリカが本来の機能を取り戻せば)、今度は供給側が新たな制約要因となるだろう。もちろんこれは、右派の主張するサプライサイド経済学の時代が来ることを意味しない。投資を行なわない企業の法人税率を上げ、投資と雇用創出を行なう企業は下げる、という政策を導入すれば、財界の一部が求める一律の減税より、高い確率で経済成長を実現することができるはずだ。

 右派の主張するサプライサイド経済学は、とりわけ法人税にかんして租税インセンティブを過大評価する一方、ほかの政策の重要性を過小評価してきた。政府の公共投資――インフラと教育と技術への投資――は、前世紀の成長を下支えしてきており、今世紀においても成長の基盤となる潜在性を秘めている。将来的に公共投資は経済を拡大させ、民間投資の魅力をさらに向上させることとなるだろう。経済歴史学者のアレックス・フィールズが指摘したように、1930年代と40年代と50年代と60年代は、前後の数十年間と比べても、生産性の伸び率が高いという特徴を持っており、その成功の大部分は公共投資に由来していたのである。

 ②雇用および環境を維持するための投資とイノベーションの方向転換。

 わたしたちは投資とイノベーションの方向性を、労働節約(現状では雇用喪失の婉曲な言いまわし)から資源節約へ転換させなければならない。これは簡単な作業ではなく、駆け引きが必要となってくるだろう。たとえばイノベーションの領域では、政府の資金で基礎・応用研究を振興する政策と、環境被害の賠償責任を100パーセント企業に負わせる政策を、同時に進めればいい。おそらく企業には資源節約のインセンティブが働き、労働者のリストラ一辺倒の姿勢を変えられるはずだ。現在のような一律の低金利政策は、低熟練労働者を機械に置き換える働きを助長しているため、投資税額控除を通じて投資を奨励する手法に切り替えたほうがいいだろう。控除の適用は、投資が資源節約と雇用維持を実現する場合にのみ認め、それらが破壊される場合は認めてはならない。

 わたしが本書を通じて強調してきたとおり、重要なのは成長そのものではなく、どのような成長がもたらされるかという点だ(成長の質と言い換えてもいい)。大多数の個人の暮らし向きを悪化させ、環境の質を低下させ、人々に不安感と疎外感を抱かせるような成長は、わたしたちが追い求めるべきものではない。市場の力をより良く形作ることと、集めてきた税金を成長促進と社会の福祉向上に使うことが、矛盾しないという事実は、わたしたちにとって朗報と言える。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.405-407,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳


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ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


新たな社会契約(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

新たな社会契約(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「新たな社会契約

 ①労働者と市民の集団行動の支援。

 ゲームのルールは各参加者の交渉力に影響を与える。アメリカがつくり出したルールは、資本家に対する労働者の交渉力を弱め、結果として彼らを苦しめてきた。雇用の不足とグローバル化の非対称性は、求職競争を引き起こし、労働者に敗北を、資本家に勝利をもたらしてきた。それが偶然の進化の産物であれ、意図的な戦略の産物であれ、いまは事態を認識し、流れを逆転させるべきときなのだ。

 万人に尽くす社会や政府――正義と公正と機会均等の原則に一致する社会や政府――は、ひとりでに維持されるものではない。誰かが目を光らせていなければ、アメリカの政府と諸制度は、さまざまな利益集団によって掌握されてしまうだろう。最低でも拮抗する勢力の存在は不可欠だが、残念ながらアメリカの社会と政治は、バランスを欠いたまま発展を続けてきた。人間がつくったすべての制度は必ずあやまちを犯し、それぞれが独自の弱点をかかえている。きわめて多数の大企業が労働者を搾取したり、環境に損害を与えたり、反競争的行為に手を染めたりしていても、大企業を根絶やしにしろと主張する者はいない。代わりにわたしたちは、危険を認識し、規制を課し、企業の行動を変えさせようとする。なぜなら、100パーセントの成功はありえないとしても、改革が企業のふるまいを向上させうると知っているからだ。

 それと好対照をなすのが、アメリカ人の労働組合に対する態度である。労組は罵詈雑言を浴びせられ、多くの州では、労組の力を弱める露骨な試みがなされている。労働者が変化を受け入れ、新たな経済環境に順応するには、基本的な社会保護の制度が必要となるが、そのような制度を守り抜き、利益集団の跳梁を抑え込みたいとき、労働組合がどれほど重要な役目を果たしうるかという点を認識している者は、皆無と言っていい。

 ②差別の遺産を払拭するための積極的差別是正措置。

 最も腹立たしい、そして最も根絶しにくい不平等の源のひとつは差別であり、ここには現在も継続中の差別と、過去の差別の遺産がふくまれる。国によって差別の形は異なるが、人種差別と性差別はほぼすべての国に存在する。市場に力に任せておいたら、差別の根絶は望むべくもない。前に述べたとおり、市場の力と社会の力が合わさったとき、差別は持続の可能性を手に入れるのだ。そのような差別によって、わたしたちの根源的な価値観やアイデンティティや国民性はむしばまれている。必要不可欠なのは差別を禁止する強力な法律だが、現時点で差別の撲滅に成功したとしても、過去の差別の影響は残りつづけるだろう。幸い、わたしたちはアファーマティブ・アクション制度を通じた事態改善の方法を学びとってきた。定員割当制度ほどは厳格ではないものの、アファーマティブ・アクションを善意で実践していけば、基本的な原理原則と調和する方向に、アメリカ社会の進化をうながすことができる。機会均等の鍵は教育にあるため、教育分野におけるアファーマティブ・アクションは、より大きな重要性を秘めていると言っていいだろう。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.403-405,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

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ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


完全雇用の回復と維持(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

完全雇用の回復と維持(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「完全雇用の回復と維持

 ①完全雇用を平等に維持するための財政政策。」(中略)「

 ②完全雇用を維持するための通貨政策と通貨制度。」(中略)「

 ③貿易不均衡の是正」(中略)「

 ④積極的な労働市場政策と社会保護の改善。

 アメリカの経済は大きな構造転換を遂げようとしている。グローバル化と技術進歩からもたらされた変化が、労働者たちに業種間・職種間の大移動を強いる一方、市場は独力で変化への対応をうまく取り仕切れていない。だから、変化のプロセスから生まれる勝者をできるだけ多くし、敗者をできるだけ少なくするためには、政府が積極的な役割を果たさなければならないだろう。消え去っていく仕事から、新しく生み出される仕事への移動をうながすには、積極的な支援が不可欠であり、少なくとも転職による労働環境の悪化を防ぎたいなら、教育と技術に莫大な投資を行なう必要がある。積極的な労働市場政策が効果をあげうるのは、当然ながら、移動先の雇用が存在する場合に限られる。もしも、わたしたちが金融制度の改革に失敗し、金融セクターを本来の基幹機能へ復帰させられなければ、未来の新ビジネスに対する資金提供という役割も、政府が積極的に担わざるをえなくなるかもしれない。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.400-403,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))


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富裕層以外の人々を支援する(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

富裕層以外の人々を支援する(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「富裕層以外の人々を支援する

 ①教育へのアクセス権の向上。

 機会の形成を左右する最も大きな要因は、何と言っても教育へのアクセス権だ。わたしたちが進んできた方向(所得層別に分かれた住宅地、高等教育に対する公的支援の急減、公立大学の授業料の高騰、工学などの高需要・高コスト分野における奨学生の制限)は、逆転させることができるものの、それには国を挙げた協調と努力が必要となる。教育へのアクセス権を向上させるための方策、とりわけ公教育の質を向上するための方策について語りはじめたら、一冊の分厚い本ができあがってしまうだろう。

 しかし、すぐに打てる手がひとつある。営利第一主義の学校に対する規制だ。政府融資、政府保証融資、民間融資のいずれを原資とする場合でも、学資ローンを背負わされた若者たちは、ローン債務の免除禁止という枷をはめられる一方、機会の拡大という恩恵にはあずかれなかった。じっさい、営利第一主義の学校は、向上心にあふれる貧しいアメリカ人の足をひっぱる主要因となってきたのだ。良い就職先には決まって卒業できる学生は少数にとどまり、圧倒的大多数は巨額の債務とともに大学から放り出される。そのような略奪的行為の継続をゆるすことは不条理であり、事実上、公的資金で略奪を支えることはなおさら不条理である。公的資金の使いみちとして適切なのは、州もしくは非営利の高等教育制度に対する援助の拡充や、貧困層の教育機会を保証するための奨学金の提供だ。

 ②一般の人々に貯蓄をうながす。」(中略)「

 ③万人のための医療」(中略)「

 ④医療以外の社会保護制度の強化。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.395-398,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

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ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)







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