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2022年1月16日日曜日
20.人間の目的は全て、抑制し得ない究極的な価値である。しかし、目的が理性の名において区別されるとき歪曲が始まる。各個人の想像力による特異的なもの、審美的、非理性的な目的が抑圧され、理性による目的が真のものとされるが、それは恣意的な直感に過ぎない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
19.外部的な要因は、自分では思い通りに支配できないというのは事実である。しかし、自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。この世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないが、我々は現実を受け入れて進むのが、より自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
内なる砦への退却は自由ではない
外部的な要因は、自分では思い通りに支配できないというのは事実である。しかし、自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。この世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないが、我々は現実を受け入れて進むのが、より自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
2022年1月15日土曜日
18.非常に多くの国で、非常に長い期間にわたって非常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律が存在する。これを認めると、それによって他の人々と一緒に生きることが可能になる。仮に、異なる文化、異なるものの見方、異なる直感を持った人々でも、理解することはできるだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
普遍的な道徳律
非常に多くの国で、非常に長い期間にわたって非常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律が存在する。これを認めると、それによって他の人々と一緒に生きることが可能になる。仮に、異なる文化、異なるものの見方、異なる直感を持った人々でも、理解することはできるだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
17.権力の問題は、観察、歴史分析、社会学的調査によって解決される経験的な問題であるが、政治哲学の対象はこれだけではない。それは本質的には、社会状況に適用された道徳哲学であり、人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
政治哲学とは
権力の問題は、観察、歴史分析、社会学的調査によって解決される経験的な問題であるが、政治哲学の対象はこれだけではない。それは本質的には、社会状況に適用された道徳哲学であり、人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
16.各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
消極的自由と積極的自由
各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,二つの自由概念,pp.66-68,みすず書房 (1993),河合秀和(訳))
2022年1月14日金曜日
倫理的独立への権利は、宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈である。それは、宗教的自由の歴史的核心を保護する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
倫理的独立への権利
倫理的独立への権利は、宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈である。それは、宗教的自由の歴史的核心を保護する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『神なき宗教』,第3章 宗教的自由,筑摩書房 (2014),pp.142-146,森村進(訳))
神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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人間の生命には、自然的生命という意味でも、生涯という意味でも、内在的価値がある。各個人の生涯には、その人がどう考えるかにかかわらず客観的な意味と重要性が存在し、各個人には、自己の生涯に対する不可避的な倫理的責任が存在する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
人間の生命の価値
人間の生命には、自然的生命という意味でも、生涯という意味でも、内在的価値がある。各個人の生涯には、その人がどう考えるかにかかわらず客観的な意味と重要性が存在し、各個人には、自己の生涯に対する不可避的な倫理的責任が存在する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『神なき宗教』,第1章 宗教的無神論,筑摩書房 (2014),pp.20-21,森村進(訳))
神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢である。人生には尊厳を喪失しないために、自己主張を求められる場合がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
生の不可侵性に対する最大の侮辱
生の不可侵性に対する最大の侮辱は、その 複雑性に直面した場合の無関心や怠慢である。人生には尊厳を喪失しないために、自己主張を求められる場合がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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尊厳死の問題は、生命の尊厳と他の価値との衝突ではなく、何が生命の尊厳かという問題である。自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか、逆に、自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのかが、問題である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
尊厳死の問題
尊厳死の問題は、生命の尊厳と他の価値との衝突ではなく、何が生命の尊厳かという問題である。自然的生命の挫折は必ず生命の尊厳を損なうのか、逆に、自然的生命の継続が、生命の尊厳を損なう場合も、存在するのかが、問題である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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2022年1月13日木曜日
生命に対する自然的投資と人間的投資の挫折の概念によって、生命の不可侵性に対する中絶の意味を理解できたが、尊厳死についてはどうだろう。それが、患者の最善の利益であると本人が考える場合でも、その利益を犠牲にして自然的生命を守ることが正しいとは思えない。しかし、それでもなお、意図的な死は生命の本質的価値に対する最大の侮辱であるという直感がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
人々の直感、生命の不可侵性
生命に対する自然的投資と人間的投資の挫折の概念によって、生命の不可侵性に対する中絶の意味を理解できたが、尊厳死についてはどうだろう。それが、患者の最善の利益であると本人が考える場合でも、その利益を犠牲にして自然的生命を守ることが正しいとは思えない。しかし、それでもなお、意図的な死は生命の本質的価値に対する最大の侮辱であるという直感がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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中絶のモラル性に関する意見の相違は深い。しかし、生命の神聖さについて我々は共通の理想を持っている。また、意見の相違は、精神的・宗教的なものであり、本人だけが決定できるものなのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
精神的・宗教的なもの
中絶のモラル性に関する意見の相違は深い。しかし、生命の神聖さについて我々は共通の理想を持っている。また、意見の相違は、精神的・宗教的なものであり、本人だけが決定できるものなのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を亡き者にする行為が、いま問題である。懐妊、胎児の成長から始まる自然と人間の創造的な努力の投資が、死やその他の方法で挫折させられるのが、悪の本質であるとの仮説は、この問題解明のヒントを与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
生命の挫折による悪
将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を亡き者にする行為が、いま問題である。懐妊、胎児の成長から始まる自然と人間の創造的な努力の投資が、死やその他の方法で挫折させられるのが、悪の本質であるとの仮説は、この問題解明のヒントを与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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目的や目標に関して合意がある場合、その目的の役に立つかどうかで、あるものの価値(道具的価値)が判断できる。では、その目的や目標についてはどうだろう。単なる好き嫌いの違いである(主観的価値)と考えられる場合と、そのもの独自の本来的な価値(本来的価値)があると主張される場合とがある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
道具的価値、主観的価値、本来的価値
目的や目標に関して合意がある場合、その目的の役に立つかどうかで、あるものの価値(道具的価値)が判断できる。では、その目的や目標についてはどうだろう。単なる好き嫌いの違いである(主観的価値)と考えられる場合と、そのもの独自の本来的な価値(本来的価値)があると主張される場合とがある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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2022年1月12日水曜日
中絶に反対する人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度を示さなければならない。死刑に反対し、貧者のためのより公正な医療政策の実現に向けて努力し、福祉政策を推進し、積極的な安楽死の合法化に反対すべきである。(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))
生命倫理の一貫性の主張
中絶に反対する人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度を示さなければならない。死刑に反対し、貧者のためのより公正な医療政策の実現に向けて努力し、福祉政策を推進し、積極的な安楽死の合法化に反対すべきである。(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))
ジョセフ・カーディナル・ バーナー ディン(1928-1996) |
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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(1)中絶はモラル上深刻な決定である、(2)胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容 、(3)母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容、(4)刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限はない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
中絶に関する理論
(1)中絶はモラル上深刻な決定である、(2)胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容 、(3)母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容、(4)刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限はない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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妊婦は、喫煙を避けたりして胎児に悪影響を与え得る行為を避ける。傷つけるより亡き者にすることの方が悪なので、中絶は悪である。この議論のどこに誤りがあるのか。将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を、亡き者にする行為である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
中絶の問題
妊婦は、喫煙を避けたりして胎児に悪影響を与え得る行為を避ける。傷つけるより亡き者にすることの方が悪なので、中絶は悪である。この議論のどこに誤りがあるのか。将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を、亡き者にする行為である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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生命倫理の問題では、(a)諸利益に関する権利の問題と、(b)人間の生命固有の価値に関する問題を、区別して考えることが必要である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
生命倫理
生命倫理の問題では、(a)諸利益に関する権利の問題と、(b)人間の生命固有の価値に関する問題を、区別して考えることが必要である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
2022年1月9日日曜日
財産に対する自然権を主張するリバータリアニズムに対して、諸個人の福利や幸福のため政府による財産の規制と分配を主張するいくつかの理論がある。このうち、功利主義、福利の平等論、実質的平等論は、自由な私的決定の原理と衝突する。資源の平等論は、どうだろうか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
政治理論の類型
財産に対する自然権を主張するリバータリアニズムに対して、諸個人の福利や幸福のため政府による財産の規制と分配を主張するいくつかの理論がある。このうち、功利主義、福利の平等論、実質的平等論は、自由な私的決定の原理と衝突する。資源の平等論は、どうだろうか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ロナルド・ドゥオーキン (1931-2013) |
およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
唯一の正しい解釈が存在するのか
およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ロナルド・ドゥオーキン (1931-2013) |
2022年1月7日金曜日
法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
法の諸部門と純一性について
法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
「法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。ロー・スクールは 教科過程を法の分野別に区分し、ロー・スクールの図書館も論文も同じく分野別に区分するこ とで、経済的ないし身体的損害から情緒的損害を区別し、非意図的な不法行為から意図的な不 法行為を、犯罪から不法行為を、契約以外のコモン・ローの諸分野から契約を、公法から私法 を、そして更に公法の他の諸分野から憲法を区別している。法をめぐる議論や司法上の議論は これらの伝統的な区別を尊重している。通常、判決に示された意見は当該事案を何らかの法部 門へと割当てることから始まり、考慮される先例や制定法はもっぱらこの法部門から引き出さ れるのが常である。そして、最初に行なわれるこの分類はしばしば異論の余地があると同時に 決定的に重要な意味をもつ場合がある。 法を諸部門へと区分することは、それぞれ異なった理由によるが慣例主義とプラグマティズ ムの両者の考え方に適合している。法の諸部門は伝統に基礎を置いており、これは慣例主義を 支持するように思われる。そして、これらの諸部門は、プラグマティストが例の高貴なる虚言 を語る際に操作可能な戦略を提供してくれる。つまり、プラグマティストは、自分の新しい法 理論が過去の判決と原理において整合する必要がない理由を説明するために、過去の判決を正 しく理解すればこれが異なった法部門に属することを主張できるからである。これに対して、 純一性としての法は、法を諸部門へと区分することに対してもっと複雑な態度をとる。その一 般的な精神は、このような区分を断罪する。なぜならば、純一性の司法上の原理は裁判官に対 して法を可能なかぎり総体として整合的なものにすることを要求するが、このことは、学問上 の境界線を無視し、法の幾つかの分野を根本的に修正してこれらを他の分野と原理において一 層整合的なものにすることによって、よりよく達成されるかもしれないからである。しかし他 方、純一性として法は解釈的な立場である。法が諸部門へと区分されていることが法実務の特 徴であれば、適格であることを目指すいかなる解釈もこの特徴を無視することはできない。 ハーキュリーズは、諸部門へと区分されている法の在り方について構成的解釈を試みること で、前記の競合する要請に答えようとする。彼は、法を諸部門へと区分する実践を説明する際 に、当の実践を最善の光のもとに示すような説明を見い出そうと努める。諸部門の間に設けら れた境界は、一般の人々の見解と普通は一致している。例えば、多くの人々は故意の加害行為 が不注意による加害行為よりも強い非難に値すると考えており、国家がある人間に対して彼が 惹起した損害の賠償金を支払うように要求する場合と、同じく国家がある人間を犯罪について 有罪と宣告する場合とでは、非常に異なった種類の正当化が必要となること、等々についても 同様である。この種の一般的な意見に合わせて法の諸部門を区別すれば予測可能性は促進さ れ、公職者が突然に解釈を変えて法の広汎な諸領域を根絶やしにしてしまうようなことも未然 に防げるわけであり、しかも純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方でこ れを達成できるのである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第7章 法における純一性,法――情緒的 損害の問題,未来社(1995),pp.389-390,小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン (1931-2013) |
自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
政治的責務は連帯責務である
自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
ロナルド・ドゥオーキン (1931-2013) |