2018年4月16日月曜日

不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするときに感じるさまざまな情念は、私たちに、知的な喜びともいえる快感を経験させる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念が経験される知的な喜び

【不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするときに感じるさまざまな情念は、私たちに、知的な喜びともいえる快感を経験させる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「また、わたしたちが不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、わたしたちの想像力に与えられる対象の違いによって、ときに悲しみ、ときに喜び、あるいは愛、憎しみ、一般にすべての情念が、わたしたちのうちに引き起こされる。だがそれとともに、わたしたちは、それらの情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、快感をおぼえる。この快感は、知的な喜びであって、他のすべての情念からと同じように、悲しみからも生じうるものだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四七、pp.127-128、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念が経験させる知的な喜び)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))

永遠の決定と自由意志

【永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。しかし、いずれを選ぶかに無関心であってはならないし、この神意の決定の不変の運命に頼ってもならない。私たちにのみ依存する部分を正確に見きわめ、この部分以上に欲望が広がらないようにすること。そして、理性が認識できた最善を尽くすこと。

 「ゆえに、わたしたちの外部に偶然的運があって、その意向のままに、事物を起こさせたり起こさせなかったりしている、という通俗的意見を、まったく捨て去らねばならないし、そして次のことを知らねばならない。

すべてが神の摂理に導かれている。その摂理の永遠の決定は、不可謬かつ不変なので、その決定がわたしたちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、わたしたちに必然的、いわば運命的でないものは何も起こらない、と考えねばならない。

したがって、わたしたちはそれと別様に起こるように欲すれば、必ず誤る。以上のことを知らなければならない。

しかし、わたしたちの欲望の大部分は、まったくわたしたちだけに依存するのでもなければ、まったく他に依存するのでもない、そうした事物にまで及んでいるから、これらのものにおいて、わたしたちにのみ依存する部分を正確に区別すべきである。

この部分以上にわたしたちの欲望が広がらないようにするためだ。

残りの部分については、その首尾はまったく運命的かつ不変と認めて、わたしたちの欲望がそれにかかわらないようにすべきである。

しかしやはり、その部分をも多少は期待させてしまう諸理由を考察することで、わたしたちの行動を統御するのに役立てるべきである。

たとえば、ある場所に用事があって、そこへは二つの違った道を通って行くことができ、その一方の道はふだんは、他方の道よりはるかに安全だ、という場合がある。

ところが、摂理の決定によればおそらく、このより安全と考えられる道を行けば必ず強盗に出会い、反対にもう一方の道はなんの危険もなしに通れることになっている。

だからといってわたしたちは、そのいずれかを選ぶことに無関心であってはならないし、また、この神意の決定の不変の運命に頼ってもならない。

が、理性は、通常はより安全である道を選ぶことを要求する。

そして、わたしたちがその道に従ったとき、そのことからいかなる悪が起こったとしても、わたしたちの欲望はこれに関してはすでに達成されているはずなのだ。

なぜなら、その悪はわたしたちにとっては不可避であったから、その悪を免れたいと望む理由はまったくなく、わたしたちはただ、上述の仮定でなしたように、知性が認識できた最善を尽くせばそれでよかったのだから。

そして、このように運命を偶然的運から区別する修練をつむとき、欲望を統御することをたやすく自ら習慣とし、そのようにして、欲望の達成はわたしたちにのみ依存するわけだから、欲望はつねにわたしたちに完全な満足を与えることができるのは確かである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四六、pp.125-127、[谷川多佳子・2008])
(索引:二つの道の喩え、自由意志、私たちに依存しないもの、偶然的運、必然性、永遠の決定)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

私たちに依存しないもの

【私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 結果を生む原因のすべてを知り尽くしてはいないにもかかわらず、私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じる場合には、かつてそれに似たものが起こったことがあると判断し、ただそれらを「偶然的運」と考えているのである。しかし摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、偶然的運とは対置されねばならない。もし、それが起こらなかったときは、生起に必要であった原因のどれかが欠けていたのであり、したがってそれは絶対に不可能なものであったのだ。私たちが予めこれらの点に無知でなかったならば、けっしてそれを可能とは考えなかったろうし、したがってそれを欲望もしなかっただろう。すなわち、偶然的運とは、わたしたちの知性の誤りから生じただけの幻なのである。

 「したがって摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、偶然的運とは対置されねばならない。

そうやって、偶然的運とは、わたしたちの知性の誤りから生じただけの幻として打破されるべきものとなる。

たしかに、わたしたちは、ともかくも可能だと認めるものだけを欲望できる。

そしてわたしたちに依存しないものを可能だと認めるのは、ただそれらが偶然的運に依存すると考える場合である。つまり、それらは起こりうる、かつてそれに似たものが起こったことがある、と判断する場合である。

ところで、このような意見は、わたしたちがいちいちの結果を生むにあずかった原因のすべてを知り尽くしてはいないことにもとづくだけなのである。

事実、わたしたちが偶然的運に依存すると認めたものが起こらないとき、それによって明らかになるのは次のことだ。

偶然的運によって起こると考えられたものの生起に必要であった原因のどれかが欠けていたこと、したがってそれは絶対に不可能なものであったこと、また、それに似たものも、かつて起こらなかったこと、つまりその生起のためには同様の原因がやはり欠けていたこと。

そこで、もしわたしたちが予めこれらの点に無知でなかったならば、けっしてそれを可能とは考えなかったろうし、したがってそれを欲望もしなかっただろう。」

(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四五、pp.124-125、[谷川多佳子・2008])
(索引:私たちに依存しないもの、偶然的運、必然性、原因)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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