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2018年4月11日水曜日

悟性の及ぶ範囲を広げようとすることも、また、意志に違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と意志

【悟性の及ぶ範囲を広げようとすることも、また、意志に違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 また、そもそも、私が理解すること、理解しようとすること、悟性の及ぶ範囲を広げようとすることも、意志に違いないのである。すなわち、「我々が真理を捉えるとき、我々は意志的にこれを行うのであるから、(単に)捉えざるを得ない場合に比べて、真理を捉える点で遙かに多くを、我々に帰しなければならないのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』第一部 三七、p.60、[桂寿一・1964])
(索引:悟性、真理、意志)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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認識の欠陥による不決定な状態は、程度の低い自由である。また、真と善を明晰に見たときの躊躇のない判断・選択は自由を減少させるものではない。悟性には到達し難い一層広い範囲にまで、意志は及び得る。これが自由意志であり、誤りと罪の原因でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自由意志と誤り、罪

【認識の欠陥による不決定な状態は、程度の低い自由である。また、真と善を明晰に見たときの躊躇のない判断・選択は自由を減少させるものではない。悟性には到達し難い一層広い範囲にまで、意志は及び得る。これが自由意志であり、誤りと罪の原因でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 意志の「自由」とは何か。何等の根拠も私を他方の側によりも一方の側に一層多く駆り立てない場合に私が経験するところの、かの不決定は、最も低い程度の自由であり、これは、意志における完全性ではなくて、ただ認識における欠陥を示す。なぜなら、何が真であり善であるかを明晰に見たならば、私は決していかなる判断をすべきか、あるいはいかなる選択をすべきかについて躊躇しなかっただろうからだ。そして、意志は悟性よりも一層広い範囲に及ぶ故に、私が意志を悟性と同じ範囲の内に限らないで、私の理解しないものにまでも広げることになる。かかるものに対して意志は不決定である故に、容易に意志は真と善とから逸脱し、かようにして私は過つと共にまた罪を犯す。
 「私が自由であるためには、私が一方の側にも他方の側にも動かされることができるということは必要でなく、かえって反対に、私が真と善との根拠をその側において明証的に理解する故にせよ、あるいは神が私の思惟の内部をそうするように処置する故にせよ、私の一方の側に傾くことが多ければ多いだけ、ますます自由に私はその側を選択するのであるから。実に神の聖寵も、自然的な認識も、決して自由を減少せしめるのではなく、かえってむしろこれを増大し、強化するのである。しかるに、何等の根拠も私を他方の側によりも一方の側に一層多く駆り立てない場合に私が経験するところの、かの不決定は、最も低い程度の自由であり、そして意志における完全性ではなくて、ただ認識における欠陥、すなわち或る否定を証示するのである。なぜなら、もし私がつねに何が真であり善であるかを明晰に見たならば、私は決していかなる判断をすべきかあるいはいかなる選択をすべきかについて躊躇しなかった筈であり、そしてかようにして、たといまったく自由であったにしても、決して不決定ではあり得なかったであろうから。
 ところでこれらのことから私は次のことを知覚する。すなわち、私が神から授かっている意欲の力は、それ自身として観られた場合、私の誤謬の原因ではないということを。なぜなら、この力は極めて広くて、その類において完全であるから。また理解の力もそうではないということを。なぜなら、私はこの力を神から理解するために授かっている故に、私の理解するあらゆるものは、疑いもなく私はこれを正しく理解し、そしてこれにおいて私が過つということはあり得ないから。しからばどこから私の誤謬は生じるのであろうか。言うまでもなくただこの一つのことから、すなわち、意志は悟性よりも一層広い範囲に及ぶ故に、私が意志を悟性と同じ範囲の内に限らないで、私の理解しないものにまでも広げるということからである。かかるものに対して意志は不決定である故に、容易に意志は真と善とから逸脱し、かようにして私は過つと共にまた罪を犯すのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察四、pp.86-87、[三木清・1949])
(索引:自由意志、意志、悟性、真、善、誤り、罪)

省察 (岩波文庫 青 613-2)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2018年1月12日金曜日

悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものを理解しようとするときは、その観念を、判明に想像力の中に形成すべきである。このとき、この観念を表現する物自体(モデル)を、外部感覚に示すと、理解を容易にする。ところで、多数の事物を、判明に理解するということは、その多数の事物の多様性のなかから、注意する必要のない属性をすべて除去し、本質的な属性を引き出すことである。さらに、この抽出された観念は、物自体として表現するよりも、むしろ物のある省略された形(記号)で示すことにより、より理解を容易にする。
 「それはこうである。悟性は想像力によって動かされ、また逆に想像力に働きかけることができ、同様に想像力は運動力を介して感覚に働きかけてそれを対象に向かわせ、また逆に感覚は想像力に働いてその中に物体の像を画くことができ、しかしてかの記憶なるものは、少なくともそれが身体的であって獣の記憶と同様である限り、想像力と別のものではない、のであるから、人は確実に次の結論に達する。悟性は、物体的なもの乃至は物体に似たものを少しも含まぬ事柄に携わる時、上の諸能力の助けを借りることはできない。かえって、それらに妨げられるために、感覚を遠ざけ、かつ想像力をあらゆる判明な印象から、できる限り除き去るべきである。しかしながら、もし悟性が、何か物体に関係をもちうるものを、吟味しようと企てるならば、そのものの観念を、できるだけ判明に、想像力の中に形成すべきである。しかして、より容易にこのことを成し遂げるには、この観念の表現する物自体を、外部感覚に示すべきである。ところで事物が多数あっても、その一々を悟性が判明に直感する助けとはなりえない。で、しばしば多くのものの中からただ一つを抽き出す必要があるが、それには、事物の観念からして現在注意する要のないものをすべて除去し、残部がより容易に記憶に留められるようにすべきである。そして同様にして、この時物自体を外部感覚に示すべきではなくむしろ物の或る省略された形を示すべきであり、この形は、記憶の誤りを避けるに足りさえするなら、小さければ小さいほど都合がよいであろう。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、pp.77-78、[野田又夫・1974])
(索引:悟性、想像力、観念を表現する物自体、捨象、抽象、物の省略された形、モデル、記号)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「さてわれわれがわが内に認めるところ、ただ悟性のみが知識を獲得しうるが、それはまた他の三つの能力、すなわち想像力(imaginatio)・感覚・記憶(memoria)によって、或いは助けられ或いは妨げられうる。そこで、順序正しく、これら三つの能力の一々がいかなる害を与えうるかを考察し、以ってこの害を防ぐべきであり、またいかなる益を与えうるかを考察して、以ってそれらの寄与を残らず用うべきである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第八、p.56、[野田又夫・1974])
(索引:想像力、悟性、感覚、記憶)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月11日木曜日

悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「想像力が物体を構像するために図形を用いるように、悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体を用いる。こうして我々は、一層高い仕方で哲学する際には、精神を認識によって崇高な高所に上昇させることが出来るのである。
 何故に哲学者達の書よりも詩人達の書に一層深い意味をもつ章句が見出されるのか、驚くべきことに思われるかも知れない。その理由は、詩人達が霊感と想像の力とによって書いたからである。我々の中には、燧石の中における火のように、学問の種子が宿っている。その種子は哲学者達によっては理性を用いて引き出されるが、詩人達によっては想像力によって打ち出され、一層強く輝くのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『思索私記』デカルト著作集[四]、p.440、[森有正・1993])
(索引:想像力、悟性、精神的なものの形象化、燧石の中の火、詩)

デカルト著作集(全4巻)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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