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2022年1月22日土曜日

過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の特質

過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「その二、三の実例としては、カール・ポッパー教授のプラトンの政治理論に対する攻撃、 アーヴィング・バビットのルソーに対する痛烈な論難、シモーヌ・ヴェーユの旧約聖書の道徳 に対する烈しい嫌悪、今日しばしば行われている18世紀の実証主義ないし政治理論にける「科 学主義」に対する非難・攻撃、などを挙げることができよう。古典的な構成体のあるものは相 互に衝突し合うものであるけれども、それぞれが恒久的な人間の諸属性に関する生き生きとし たヴィジョンに基づき、各世代のある探究者たちの心を満たしうるものであるかぎり、いかに時間的・空間的環境が異なろうとも、プラトンやアリストテレスのつくったモデル、またユダ ヤ教、キリスト教、カント的自由主義、ロマン主義、歴史主義、等のモデルは、みな生きなが らえて、今日もさまざまな形で相争うているのである。  人間や環境が根本的な変化をとげるとか、われわれの人間観に革命的変化をもたらすような 新しい経験的知識が獲得されるとかしたならば、そのときにはきっと、これらのモデルのある ものは関連性を失い、エジプト人やインカ人の倫理や形而上学のように忘れ去れることであろ う。だが、人間が現に今日ある通りのものである間は、論争は、これらのヴィジョンなりそれ と同様の他のヴィジョンなりによって設定された用語でつづけられてゆくであろう。そしてそ のそれぞれは、現実の諸条件が人間のどの側面を際だたせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。ただひとつ確実なことは、哲学的問題とはなんであり、それは経験 的あるいは形式的問題とどのようにちがうか(もっともこの相違は必ずしも明確なものでなく てもよいので、重なり合ったり、あるいは境界線上にある問題は多々ある)を理解している、 また少なくとも感知しているひとびとにとってのほかは、その解答――いまここでの場合には西 洋の主要な政治学説――は、知的幻想、超然たる哲学的思弁、現実の行為ないし事件にたいして 関わりのない知的構成物と思われることであろう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.507-508,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治哲学の成立条件

政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、政治哲学は不要となる
 ただ一つの目標によって支配されている社会においては、目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。


「ところで、このことは、少なくともひとつ重要な問題が含まれている。もしも「いかなる 世界において政治哲学――それを存立せしめるような議論や論議――は原理的に可能であるか」と いうカント的な問題が提起されるならば、「諸目的がたがいに衝突しあうような世界において のみ、それは原理的に可能である」というのがそれに対する答えでなければならない。ただひ とつの目標によって支配されている社会においては、原理的にはこの目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。それは経験と観察とによって確定され、その 他の方法を用いても原因や相関関係を発見することができる。それは、少なくとも原理的に は、実証科学に還元されうるものである。そのような社会にあっては、政治的目的とか価値と かについての深刻な問題は生じえないので、ただ目標に達するためのもっとも効果的な道はな にかという経験的な問題しかないわけである。」(中略)「以上のようなわけで、伝統的な意 味における政治哲学、すなわち、たんに諸概念の明瞭化ということだけではなく、前提とか暗 黙裡の想定とかの批判的検討、先後の順序や究極目的などの究明にたずさわる研究が可能であ るような唯一の社会は、あるひとつの目的が全体には受けいれられていない社会であるという ことになる。ただひとつの目的が全体に受けいれられないことの理由はさまざまありうるであ ろう。単一の目的がじゅうぶんなだけ多数のひとびとによって受けいれられなかったとか、他 の諸価値がいつかひとびとの理性なり感情なりを引きつけないという保証は、原理的には、あ りえないゆえに、あるひとつの目的を究極的と見なすわけにはゆかないからとか、いかなる終 局的な単独目的も発見しえない――ひとが多くのちがった目的を追求しうるものである限り、そ のうちのひとつ、あるいは一部が、そのひとたちお互いにとって終局的な単独目的の意味をも つことはないからとか、その他。これらの目的のうちのあるものは公共的ないし政治的な目的 であるかもしれない。それらのすべてが、原理的にも、相互に矛盾なく両立するものでなけれ ばならぬと考えるべき理由はない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.467-469,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論と価値観の問題

伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)政治理論は規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とする
「どうして人は服従するのか」という問題は経験的心理学、人類学、社会学の問題である。これに対して、「どうして人は、だれか他の人に服従しなければならないのか」という問題は、権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めている。

(b)基礎となる価値観が異なると諸概念も根本的に異なる
 (i)いくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がない。
 (ii)諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、または何なのか、等々に関しては大きな見解の相違がある。
 (iii)価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。
 (iv)権利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろう。



「伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。われわれはこれらの概念を分析する必要があ り、またこれらの表現がわれわれの言語においてどのように機能するか、あるいはそれらがい かなるかたちの行為を命令し、禁止するか、またそれはどうしてか、あるいはそれらはどのよ うな価値体系ないし世界観に適合するか、またそれはどのようにしてか、といったことを追求 してゆく。おそらくあらゆる政治的問題のうちでもっとも基本的な問題は、「どうしてひと は、だれか他のひとに服従しなければならないのか」という問題であるが、この問いをわれわ れが発するとき、われわれが問うているのは「どうしてひとは服従するのか」という問題――こ れは経験的心理学、人類学、社会学が答えることができよう――ではないし、また「だれがだれ に服従するのか、いつまたどこで、それはいかなる原因によって決定されるか」という問題―― これもまたほぼ右の諸学の分野から引き出される証拠によっておそらく答えられるだろう――で もないのである。どうしてひとが服従しなければならないのかと問うときには、われわれは、 権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めているわけなのだ。その名において命令が発せられ、ひと が強制され、戦争が行われ、新しい社会がつくられ、古い社会が破壊される、そういう言葉が ある。その言語表現は、今日のわれわれの生活において他のいかなるものにも劣らぬ大きな役 割を演じている。こうした問題が一見哲学的であるのは、そこに含まれているいくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がないという事実によるのである。それらの分野における行 動の真の理由はなんであるのか、どうしたら適切な諸命題が確立されうる、さらにはもっとも らしいものにされうるのか、それらの諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、またはなん なのか、等々に関しては大きな見解の相違があり、したがって、真の公共的批判と転覆との境 界線、あるいは自由と抑圧との区別、等々についてもなんら意見の一致は見られない。こうい う問題に対して相容れることのない解答がさまざまな学派なり思想家なりによって提出されつ づけている限り、この分野における一科学――経験的にせよ形式的にせよ――の確立の見通しは、 前途ほど遠しの感がある。実際、価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根 本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。というのは、たとえば権 利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非 合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろうからである。さら にまた、これらの差異が、少なくも一見したところでは、論理的であるか経験的であるかとい うのではなく、ふつうは、いかんともしがたく哲学的なものとして類別される――そしてそれが 正当である――ようなものであったということも、同じく明らかなことのように思われる。」 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.466-467,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2018年11月9日金曜日

法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の総体を正当化すべく要請された法理論

【法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 ある法理論を、他の法理論より優先して選択すべき、いかなる基礎が存在するかが問題である。
(1)法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論へと深く入り込まざるを得ないであろう。
(2)ある法律家の法理論においては、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理は、ほぼ全て何らかの意義と役割を持つであろう。
(3)ただし、憲法上の配慮により排除される原理は別とする。
(4)制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理だけでは、政治理論や道徳理論の構成には不十分である。
 参照: 原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「私は他の法理論に優先してある理論を選択すべきいかなる基礎も見出されない、と主張しているのではない。逆に次節で検討される裁量論を私が拒否することからもわかるように、ある理論を他より勝れたものとして区別する説得力ある論証を示し《うる》と私は考えている。しかしこれらの論証は、たとえば社会における平等義務の本質は何か、といった規範的政治理論の諸問題の論証を含み、この種の論証は、法とは何かを決定する際に考慮さるべき問題には一定の限界がある、という実証主義的な観念では捉えることのできない論証である。制度的支えというテストは、ある法理論を最良の理論として特定化する機械的ないし歴史的基礎や倫理的に中立的な基礎を我々に与えてはくれない。それどころかこのテストは、ある一人の法律家が一連の法的原理を他のより広範な倫理的ないし政治的原理から区別することさえ可能にしないのである。通常、法律家の法理論には彼が受容するほぼすべての政治的倫理的原理の総体が含まれるだろう。確かに、憲法上の配慮により排除される原理を別とすれば、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理でありながら、法の総体を正当化すべく要請された詳細な正当化図式の内部には属さず、この図式において何の意義ももたないような原理を一つでも考えだすことは困難である。それ故実証主義者が制度的に確立した慣行を法の窮極的テストの役割を演ずるべきものとして採用しても、これはただ彼の台本の残りの部分をその犠牲として放棄することによってのみ可能なのである。
 しかしもしそうであれば、法理論にとり由々しい結果が生ずることになる。法理論は「法とは何か」という問いを立て、大半の法哲学者は法的権利義務の立証過程において適切な仕方で登場する「規準」を特定化することにより、この問いに答えようとしてきた。しかし、このような規準の網羅的なリストが作成されえないとすれば、法的権利義務を他のタイプの権利義務から区別する別の方法が発見されねばならない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,3「制度的支え」は承認のルールを構成するか,木鐸社(2003),pp.79-80,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法理論,政治理論,道徳理論,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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