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2018年9月9日日曜日

3.向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる関係事象が、最初に存在する。次に、関係における作用の担い手が対象化される。神秘的威力を持った、月、太陽、野獣、酋長、シャーマン、死者たち。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

最初に関係事象が存在する

【向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる関係事象が、最初に存在する。次に、関係における作用の担い手が対象化される。神秘的威力を持った、月、太陽、野獣、酋長、シャーマン、死者たち。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

(1)最初に、関係事象、関係状態が存在する。
 例えば月が、生きた肉体として迫って来て、魅惑する。体に触れて、不快な、あるいは甘美な何かをしかける。それは、体の中を貫き流れる、月の作用そのもののようである。向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる。
(2)関係における作用の不可解な存在が、作用の行為者、担い手として対象化され、表象が生じ、月という擬人像が徐々に分離する。
(3)この段階で、月に魂が宿っているという想像がされるかもしれない。いずれにしても、最初に、関係事象が存在しなければ、感覚されぬものの存在を認めるというようなことは、あり得ないだろう。
(4)さまざまな名辞や概念、人間や擬人物や事物に関するさまざまな表象は、関係事象や関係状態に関する諸表象から分離して生じたものだろう。
(5)人類の歴史の初期において、神秘的威力に帰された様々な現象の事例。
 (a)夜中に訪れて苦痛や歓喜を与える月や死者
 (b)焼きこがす太陽
 (c)こちらに向かって吠えたてる野獣
 (d)けわしい眼つきで無理を強いる酋長
 (e)歌によって狩りへの熱狂をかきたてるシャーマン

 「さまざまな名辞や概念、また、人間や擬人物や事物にかんするさまざまな表象は、関係事象や関係状態にかんする諸表象から分離して生じたものと推定してさしつかえない。
 
《自然人》をおそう根元的で、霊を揺すぶりおこすような印象や感動は、関係事象そのもの、つまり向かいあう存在をありありと体感すること、そして関係状態そのもの、つまり向かうあう存在とともに生きることからひき起こされるものである。

自然人は彼が夜毎に見る月のことで考えをわずらわしたりはしないのだ。その月が、眠りあるいは目覚めている彼に向って、生きた肉体としてせまってきて、身の動きによって彼を魅惑するとか、彼の体にふれて、不快なことにせよ甘美なことにせよ、何かをしかけるまでは。
 
しかもこのような出来事から彼は、月とは渡りあるく光の円盤だというような視覚的表象を得たり、その光の円盤にはデモーニッシュな存在が何らかの仕方でやどっているというような表象を得たりするのではない。

そうではなくて、ただあの月の作用そのものの動力的な、体のなかをつらぬき流れる《刺戟像》(Erregungsbild)だけが彼のうちに残り、この刺戟像からようやく、作用しかけてくる月という擬人像が徐々に分離するのだ。

すなわち、このときはじめて、夜毎におとずれてきた不可解な存在の記憶のなかから、それがあの作用の行為者にして担い手であるという表象がめざめてきて、そしてその不可解な存在の対象化、すなわち、本来は経験の対象ではなく、ただ全身で受けとめられるものである《汝》の《彼》=あるいは《彼女化》が可能になるのである。」(中略)

原始人の世界は身体的に体感されることに限られていて、たとえば死者の来訪というようなことも、まったく《自然に》彼の身体的体感の一部をなしているのだ。

感覚されぬものの存在を認めるというようなことは、原始人にとってはばかげたことと思われるに違いない。

原始人が《神秘的威力》に帰しているさまざまな現象は、すべて根元的な関係事象、つまり彼の身体を刺戟し、ひとつの《刺戟像》を彼のなかに残してゆくからこそ、彼が考えをわずらわすところの事象なのである。

だから、夜なかに彼のもとを訪れて苦痛や歓喜を与える月や死者が、また、彼を焼きこがす太陽が、彼にむかって吠えたてる野獣が、けわしい眼つきで無理を強いる酋長が、歌によって狩りへの熱狂をかきたてる巫者(シャーマン)が、そのような威力の持ち主なのだ。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.28-30、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:関係事象,関係状態,擬人像)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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