2018年10月27日土曜日

そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法準則の拘束力を支える諸原理

【そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。そして、これらの諸原理は、法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。
(1)当該特定の法準則を肯定的に支持する諸原理
 これらの諸原理は、当該法準則の変更を支持するかもしれない他の諸原理よりも、重要であることを意味している。
(2)既に確立された法理論からの離反に対抗する、幾つかの重要な諸原理
 (2.1)立法権の優位の理論
  裁判所は、立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると主張する諸原理
 (2.2)先例の理論
  判決の一貫性が、衡平にかない、実効性のあることを主張する諸原理

 「第二に、どのような裁判官でも、既存の法理論を変更しようと試みる者は、既に確立された法理論からの離反に対抗する幾つかの重要な規準を考慮すべきであり、この種の規準も多くの場合原理なのである。この原理には、「立法権の優位」の理論、つまり裁判所は立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると言う一連の原理が含まれ、更に先例の理論、すなわち判決の一貫性が衡平にかない実効性のあることを示すもう一つ別の一連の原理がこれに含まれるだろう。立法権の優位や先例の理論は、各々の妥当領域において「現状維持」の傾向をもつが、必ずしもこれを決定的なかたちで要請するわけではない。しかし裁判官は、これらの理論を構成する個々の原理や政策の中から任意のものを自由に選択することはできない。既述のごとく、もしそうだとすると、拘束力をもつ法準則など存在しないことになるからである。
 それ故、特定の法準則が拘束力を有すると言われるとき、これが何を意味するかを考察してみよう。まずこれは、法準則がある諸原理により肯定的に支持されており裁判所はこれらの原理を勝手に無視することはできず、しかも総体としてこれらの原理は、法準則の変更を支持する他の諸原理よりも重要であることを意味するだろう。さもなければ、特定の法準則が拘束力を有することは、次のこと、すなわち立法府の優位とか先例に関する一組の保守的諸原理により法準則のいかなる変更も禁止されており、裁判所がこれらの原理を無視しえないことを意味する。法準則が拘束力を有すると言われるとき、これら二つの意味が同時に含まれていることが多い。というのもたいていの場合、上記の保守的な諸原理は、まさに原理であって法準則ではないが故に、裁判所が尊重すべき他の実質的諸原理によってはもはやコモン・ローの法準則や古くからの制定法が支持されえないとき、これらの法準則や制定法を救えるほど十分には強力でないからである。もちろん、上記二つの意味のいずれにおいても、原理や政策の総体は法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),p.36,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則の拘束力を支える諸原理,立法権の優位の理論,先例の理論)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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8.問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定する責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにするのは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影の問題

【問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定する責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにするのは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれている。
 (1.1)特定の種類の行為が、ルールによって規制されるべきだという意志を表明するには、ルールの中で使用する言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例を持っていなければならない。
 (1.2)それにもかかわらず、言葉が明らかに適用できるとも適用できないとも言えないような議論の余地を持ったケースという半影の部分が存在する。
(2)半影の部分は、論理的演繹の問題ではなく、誰かが決定しなければならない。言葉が当面のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に対する責任とともに、誰かが負わなければならない。
(3)このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものよりは良いものになるのであろうか。

 「ある法的ルールが公園の中で乗物に乗ることを禁じている。

明らかにこれで自動車は禁じられているが、では、自転車、ローラースケート、玩具の自動車はどうだろう。飛行機はどうだろう。

このルールの目的からして、ここに挙げたこれらのものは、「乗物」と呼ばれるのか呼ばれないのか。

もし私たちが互いに意志を疎通させようとし、そして、最もありふれた形式の法におけるように、特定の種類の行為がルールによって規制されるべきだという意志を表明しようとするならば、私たちの使用する――私の挙げた例の中の「乗物」のような――一般的言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例を持っていなければならない。中核的な確固とした意味がなければならない。

だが、また同時に、言葉が明らかに適用できるとも適用できないともいえないような議論の余地を持ったケースという半影の部分も存在する。

このようなケースはそれぞれ、標準的なケースと共通のいくつかの特徴を持つであろう。

人間の創意工夫と自然な過程をたどって、既知のものの上にこのような変種が次第に積み上げられてゆく。

そして、もしこれらの範囲の事実は既に存在するルールの下に入るか否かを答えなければならないならば、その分類をする者はあるがままにではなく自らが決定を下さなければならない。

というのも、私たちが言葉をあてはめ、ルールを適用する事実や現象は、言わば、《沈黙を守っている》からである。玩具の自動車が声を上げて、「この法的ルール目的からすれば私は乗物である」などと言うことはあり得ないし、左右一組のローラースケートが「私たちは乗物ではない」と声を揃えて言うこともあり得ない。事実状況は私たちがうまく名付け、折り目をつけ、畳むのを待ってはくれない。

まして、法的な分類が裁判官にすぐに読めるように事実状況の上に書かれてあるなどということはない。

そうではなくて、法的ルールを適用する際には、言葉が当面のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に対する責任とともに、誰かが負わなければならない。標準的なケースという強固な核、ないし、確固とした意味の外で生じる問題を「半影の問題」と呼んでもいいかもしれない。

公園の使用といった些細なことに関してであれ、憲法の多次元的一般性に関してであれ、この問題は常に付きまとう。

もし不確実な半影がすべての法的ルールを取り囲んでいるならば、半影部分にある特定のケースへの法的ルールの適用は論理的演繹の問題にはならず、したがって演繹的推論は、何世代にもわたってまさに完璧な人間の推論であるとして賞賛されてきたが、裁判官が、また実際誰であれ、一般的なルールの下に具体的なケースをもってくる際にすべきことのモデルとしては役に立たないことになる。

そこでは演繹だけでは十分ではない。

そして、半影の問題について法的議論と法的決定とが合理的であろうとするならば、その合理性は前提との論理的関係以外のものの中にあることになる。

したがって、このルールの目的からして飛行機は乗物ではないと議論し決定することが合理的、ないし、「もっとも」であるならば、この議論は、論理的に確定的でなくとも、もっともで合理的であることになる。

では、このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものよりは良いものになるのであろうか。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.72-73,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影の問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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