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2019年7月31日水曜日

司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

何らかの観点による「在るべきもの」

【司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(b)追記。

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
   たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)大部分の裁判官が任務を果たす際の基準として、どのようなルールを受け入れているのかは、事実問題である。
   (b.1)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
   (b.2)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言えない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破ることができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違いである。
   (b.3)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀である。
   (b.4)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる。

  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものだろうか。
  (a)このケースでの「べき」は、道徳とは関係のないものであろう。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これも恐らく違うだろう。
  (c)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 「判決を最終的で権威あるものとしているルールのうしろに隠れて、裁判官達が一緒になって現行のルールを拒否し、議会のもっとも明白な立法さえも裁判官の判決に何らかの制約を課しているとみなさなくなることはもちろん可能なのである。裁判官のなす裁定の過半数がこのような性質をもっており、しかも受けいれられていたとすれば、これがその体系を変形させることになるのであって、それはあるゲームをクリケットから「スコアラーの裁量」に変更させたのと同様である。しかしこのような変形の可能性が常にあるからといっても、現存する体系が、それについてその変形がなされた場合に考えられるような体系と同じだということにはならない。いかなるルールも、違反や拒否がなされないように保証することはできないのであって、それは人間というものが、心理的、物理的にルールを破ったり、拒否したりすることがありえないとはいえないからである。そして、もしそのようなことが十分長期間にわたって行なわれたとすれば、そのルールは存在しなくなるだろう。しかし、およそルールが存在する場合、破壊に対して何が何でも保証がなくてはならないということは必要ではない。ある時点で、裁判官が国会や議会の立法を法として受けいれるよう要求するルールが存在すると言うときには、そこではまずその要求が一般的に従われており、個々の裁判官が逸脱したり拒否したりするのは稀であること、また第二に、逸脱や拒否が生じたときまたは生じたならば、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる、または扱われるであろうということが含まれる。そして第二の場合については、たとえ、特定の事件に関してそこから生じる判決の結果は、立法がその正しさではなくてその妥当性を認める場合を別とすれば、判決の最終性に関するルールがあるために打ち消されないとしても、そのように扱われ、扱われるだろうということが含まれる。人はあらゆる約束を破ることができるだろうということは、論理的に可能であって、おそらく最初はそうすることは悪いという意識をもつが、やがてこのような意識をもたないでそうするだろう。その場合には、約束を守ることは義務であるとするルールは存在しなくなるといえよう。しかしこのことは、このようなルールが現に存在せず、約束は現に拘束力をもたないという見解を支持するには薄弱である。裁判官が現行の体系を破壊しうるということにもとづいて、同じようなことを彼らについてしてみても、それ以上にはできないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.159-160,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:在るべきもの,半影的問題,在る法,ルールの存在)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年5月3日金曜日

たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における何らかの「べき」観点の必要性

【たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1.2)追記。

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)大部分の裁判官が任務を果たす際の基準として、どのようなルールを受け入れているのかは、事実問題である。
  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものだろうか。
  (a)このケースでの「べき」は、道徳とは関係のないものであろう。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これも恐らく違うだろう。
  (c)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 「この権威的な決定という例から学ぶべき第二の教訓は、一層基本的な事柄にかかわっている。得点のルールには他のルールと同様に、スコアラーが選択を行なわなければならない開かれた構造の領域があるにもかかわらず、確定された意味をもった核があるという理由で、普通のゲームと「スコアラーの裁量」のゲームとを区別することができる。スコアラーが離れることができないのはこの核であり、そしてそのかぎりで、競技者が得点に関する公式の陳述をなす場合にも、またスコアラーが公式の裁決をなす場合も、ともに得点の記録が正しいかどうかの基準となっている。スコアラーの裁決は、最終的ではあっても誤ることがないのではないという主張が、正しいと考えられるのはこのことによるのである。同じことが法についても当てはまる。
 スコアラーのなしたいくらかの裁決が明らかに間違っていても、ある点まではゲームの継続の妨げにはならない。それは明らかに正しい裁決と同じであるとみなされる。しかし間違った決定の容認が、ゲームの継続と両立できる範囲には限りがあって、このことは法においても非常に類似している。単発的なあるいは例外的な公式な間違いが容認されるという事実は、クリケットや野球がまだ行なわれているということを意味している。他方、これらの間違いがしばしばなされるか、あるいはスコアラーが得点のルールを拒否するならば、競技者はもはやスコアラーの間違った裁決を受けいれないような段階、または受けいれてもそのゲームは変わったものになってしまうような段階がくるにちがいない。それはもはや、クリケットや野球ではなくて、「スコアラーの裁量」である。というのは、これらのゲームの決定的な特徴は、一般に、ルールの開かれた構造がスコアラーにどれだけ自由な幅を残すにせよ、ルールの明白な意味が要求する方法でゲームの結果が評価されるべきだという点にあるからである。考えられるある状況では、行なわれているゲームがまったく「スコアラーの裁量」であると言うべきであるが、しかしすべてのゲームにおいてスコアラーの裁決が最終的であるという事実は、すべてのゲームが「スコアラーの裁量」であるということを意味しない。
 裁判所の判決のユニークさは特定のケースで何が法であるかを最終的、権威的にのべるところにあるとするルール懐疑主義の形態をわれわれが評価するとき、上記の差異は心に留めておかれなくてはならない。法の開かれた構造は、スコアラーに対してよりもはるかに広く、重要な法創造の権能を裁判所にゆだねているのであって、スコアラーの裁定は法を創造する先例として使われないのである。すべての人々に対して明白だと思われるようなルールの範囲にある事柄と、論争の余地がある境界線上の事柄のいずれに関しても、裁判所が決定したことはすべて立法により変更されるまでは存続する。立法の解釈についてもまた、裁判所は同一の最終的、権威的発言権をもつだろう。しかし、裁判所の体系を定め、最高裁判所が適切だと考えるものはすべて法であると規定する憲法と、合衆国の現行の憲法またはこの点に関するいかなる現代の国家の憲法との間には、やはり差異が存在する。「憲法(または法)とは、どのようなものであれ、裁判官がそれだと言うものである」ということは、もしこの区別を否定するものと解釈されるなら、それは誤りである。いかなる時点でも、裁判官はたとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしており、その体系のルールの中心部は正しい判決の基準を提供できる程度に十分確定しているのである。裁判所は、その体系内では争うことのできない判決を下す権限を行使するさいに、これらを無視することができないものとみている。任務につくいかなる裁判官も、スコアラーの場合と同様に、議会における女王が制定するものは法であるというルールのようなルールが、伝統として確立され、任務を果たすさいの基準として受けいれられていることを見い出す。これは職務につく者の創造的活動を許容すると同時に、制限している。たしかにこのような基準は、ときの裁判官の大部分がこれを守るのでなければ、存続することができない。というのは、いかなる場合にも基準が存在するということは、それが正しい裁判の基準として受けいれられ、使用されることだけから成りたっているからである。しかしこのことによって、これらの基準を使用する裁判官がその創設者とされたり、ホードリーの言葉によれば、好むところにしたがって決定することのできる「立法者」とされたりするのではない。基準を維持するには、裁判官がそれを守ることが必要であるが、しかし裁判官はそれをつくるものではないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.157-159,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:半影的問題,べき観点,難解な事案)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月30日火曜日

最高裁判所は、何が法であるかの最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化からの逸脱と思われる場合がある。決定の最終性は、無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

司法的決定の最終性と無謬性

【最高裁判所は、何が法であるかの最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化からの逸脱と思われる場合がある。決定の最終性は、無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.2)追記。

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))
(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
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 (3.1)難解な事案における裁判官の決定が、新たな法を創造していると見なすことが、妥当とは思えない場合がある。
  (a)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (b)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」と見なすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化から逸脱していると思われる場合がある。すなわち、決定の最終性は無謬性とは異なる。
 (3.3)日常言語においても、次のような事実がある。
  (a)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (b)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (c)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

 「最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権をもっており、それが言明されたときは、裁判所が「間違っている」と言ったところで、その体系のなかではいかなる効果ももたない。つまりそれにより誰の権利も義務も変更されることはないのである。その判決はもちろん立法により法的効果を奪われることがあるが、この方法をとらなければならないというその事実からして、法に関するかぎり、裁判所の判決が間違っていると言っても空しいものであることが明らかになる。これらの事実を考えると、最高裁判所の判決については、その最終性と無謬性とを区別することはいかにもペダンティックであるように思われる。このことは、裁判所が判決するさいには常にルールにより拘束されていないということを別の形で主張することになる。すなわち、「法(または憲法)とは、裁判所がそれだと言うものである」。
 この形の理論のもっとも興味深く、そして教訓的な特徴は、「法(または憲法)とは、裁判所がそれだと言うものである」という陳述のような曖昧さを利用していることと、法に関して公機関以外の陳述と、裁判所が行なう陳述との関係について、この理論が首尾一貫するためにはしなければならない説明の仕方とである。この曖昧さを理解するために、ゲームの場合との類似性に目を向けてみよう。多くの競技は、公式のスコアラーなしに行なわれている。競技者の関心が互いに競い合っているにもかかわらず、彼らはかなりうまく個々のケースに得点のルールを適用している。彼らの判断は普通一致するのであって、解決されないような対立はほとんどない。公式スコアラーの制度ができる以前は、競技者による得点の陳述は、彼が正直であれば、そのゲームで容認されている個々の得点のルールを参照することによりゲームの進行を評価しようとする努力をあらわしている。このような特定の陳述は、得点のルールを適用する内的陳述であって、これは一般に競技者がルールを守るだろうこと、もし違反すれば異議を唱えるだろうことを前提としているけれども、これらの諸事実に関する陳述ないし予測ではない。
 慣習の体制から成熟した法の体系への変化と同様に、最終的な裁判権をもつスコアラーの制度を定める第2次的ルールをそのゲームに付加することは、その体系に新しい種類の内的陳述をもちこむのである。というのは、得点に関する競技者の陳述とは異なって、スコアラーの決定は、これを争うことができないような地位を第2次的ルールによって与えられるからである。《この》意味でたしかにゲームの目的にとって、「得点とはスコアラーがそれだと言うものである。」しかしここで注意しなければならないことは、得点の《ルール》が以前のままであることであって、これを自己の最善をつくして適用することがスコアラーの義務なのである。「得点とはスコアラーがそれだと言うものである」ということが、スコアラーが自己の裁量で適用しようとするもの以外には、得点に関するルールは何もないということを意味するなら、それは誤りであろう。このようなルールをもったゲームが実際にあるかもしれないし、もしスコアラーの裁量がいくらかの規則性をもって行使されるなら、そのゲームをしてもある程度は楽しいかもしれない。だが、それは別のゲームになってしまう。われわれは、このようなゲームを「スコアラーの裁量」のゲームと呼ぶことができるだろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.154-155,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:司法的決定の最終性と無謬性,最高裁判所)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2019年4月29日月曜日

社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能なルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識、直感的な行為自体が示すルールもあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

記述可能なルールと、行為が示すルール

【社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能なルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識、直感的な行為自体が示すルールもあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.1)追加。
(2.3)追加記載。
(2.4)追加。

(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。
 人が、あるルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更されえないものとしてこれを受けいれているとは、どのようなことか。
 (2.1)ルールの存在は事実の問題
  ルールが存在するかどうかは、ある状況における行為の仕方、心理的な思考過程に関する、ある事実が存在するかどうかの問題であり、証拠によって裏付けられるようなものである。
 (2.2)外的視点
  (a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返される。
  (b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
  (c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。
 (2.3)内的視点
   「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)行動様式に関する共通の基準が存在する。
  (b)行為の正当な理由:なぜ、その行為が正しいのかと理由が求められたとき、そのルールが参照される。また、行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当化される。
  (c)批判的態度:基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十分な理由として受け容れられている。
  (d)反省的態度:批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
  (e)一致への要求
   逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられている。
  (f)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
   (e.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
   (e.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろう。
   (e.3)個人の、恥、自責の念、罪の意識という感情の働きに、任されている場合もあるだろう。
   (e.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もあるだろう。
  (g)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
   批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例えば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」。

 (2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
  (a)ルールについて、行為者が意識的に考慮すること、またルールの容認を表明することとは、必ずしもルールの存在の要件ではない。
  (b)状況に応じた無意識的、直感的な行為が、あるルールの存在を示している場合もあり得るだろう。
  (c)別のルールに動かされている人が、見せかけやごまかしで、あるルールの容認を表明する場合もあり得るだろう。
  (d)事実として存在し、また同時に明確な基準として意識されているルールに、一致しようとする真の努力によって、行為が導かれている場合もあり得るだろう。
  (e)一般的でしかも仮定的な用語で記述され得るルールも存在するし、記述するのが難しいルールも存在し得るだろう。

 (2.5)感情
  (a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験する。
  (b)社会的ルールと感情との関係
   感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。


 「ときには、裁判所を拘束するルールの存在が否定されることがあるが、それは、一定の仕方で行動する人が、その行動により、彼にそうせよと要求するルールの容認を表明したのかどうかの問題が、当人が事前にか、または行為中にたどった思考過程に関する心理上の問題と混同されているためである。人がルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更されえないものとしてこれを受けいれるとき、彼はルールが一定の状況において要求することをまったく直感的に理解し、そのルールとルールの要求をまず考えることなしに、そうすることはよく見られることである。われわれが、ルールに従ってチェスの駒を動かしたり、赤信号で停止するとき、われわれの行動はルールに一致するとはいっても、しばしばその状況に対する直接の反応であって、ルールの観点からの考慮を経ていない。このような行動が、当該ルールの真の適用 genuine applications of the rule であるという証拠は、それらがある状況の下にあるということに見い出される。そのうちのいくつかは、個々の行為より先になされて、他がこれに追随しており、それらのいくつかのものは、一般的でしかも仮定的な用語でのみのべられるものである。行為するさいに、われわれがあるルールを適用したということを示すこれらの要素のうち、もっとも重要なものは、《もし》われわれの行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当化しようとすることである。われわれが真にこのルールを受けいれていることは、過去から引き続いてこれを一般的に承認し、またこれに一致しているということによってだけでなく、われわれが自分達や他人の逸脱を批判することによっても、表明されているのである。このような証拠やこれに類似する証拠にもとづいて、われわれはたしかに次のように結論できるだろう。すなわち、われわれがルールのことを「考えることなく」これに一致して行動する前に、どうすることが正しいのか、その理由は何であるかを答えるよう求められていたとしたら、正直であるかぎり、そのルールをもち出して答えたであろうということである。あるルールを真に順守する行動と、たまたまルールと一致したにすぎない行動とを区別するのに必要なものは、そのような状況のもとにわれわれの行為があるということなのであって、そのルールについてはっきりと考えて行動するということではない。大人のチェス・プレーヤーが受けいれられたルールへの一致という形でチェスの駒を動かすことと、赤子がチェスの駒を押して正しい場所へ移動させたにすぎない行為とを区別するのは、こんなふうにしてである。
 こう言ったとしても、みせかけや「ごまかし」がありえないとか、それが成功しないこともあると言っているのではない。ある人が、《後になってから》自分はルールにもとづいて行動したのだというふりをしているかどうかのテストは、すべての経験的テストと同様に、本来誤りやすいものではあるが、しかし常にそうであるわけではない。ある社会では、裁判官がいつもまず直感的にまたは「勘により」決定に到達し、その後で法的ルールの目録から一つを選びだし、これこそ当該事件に似ているのだというふりをするにすぎないこともある。その場合、裁判官はその言動からすれば、選んだ法的ルールが彼らを拘束するものと考えているようなそぶりを何も示さないとしても、このルールこそは彼らの決定を命じているものだと彼らは考えていると主張することもあろう。いくらかの判決はこのようであるかもしれないが、大部分の判決の場合には次のようなことが確かに明らかなのである。すなわちそれらの判決は、大部分はチェス・プレーヤーの指し手と同様に、それぞれ判決を導く基準として意識的に採用したルールに一致しようとする真の努力によって得られるか、またはもし直感的に引き出されたとしても、その裁判官が以前から守ろうとしているルール、しかも当該事件にとっても重要であることが一般に認められているようなルールによって正当化されているのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第2節 ルール懐疑主義の多様性,pp.152-154,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:社会的ルール,ルールの外的視点,ルールの内的視点,記述可能なルール,行為が示すルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月25日木曜日

選択肢の非一意性と選択の必要性の認識は、以下の目的にとって重要である。(a)想定され得なかった事実の構造の解明、(b)用語の新たな解釈、より正確な概念の解明、(c)新たな問題の解決と目的の明確化。(ハーバート・ハート(1907-1992))

形式主義、概念主義、法律家の「概念の天国」

【選択肢の非一意性と選択の必要性の認識は、以下の目的にとって重要である。(a)想定され得なかった事実の構造の解明、(b)用語の新たな解釈、より正確な概念の解明、(c)新たな問題の解決と目的の明確化。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.4.2)追記。

(4)半影的問題における決定の本質
  半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法の不完全性
  法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法の中核の存在
  法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
   法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

  (4.3.1)むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神ではなくて人間だから、このような「選択の必要性」を負わされているのである。
  (4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
   この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
  (4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
   (a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定めている。
   (b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となっている論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定したものにされていく。
 (4.4)選択肢の非一意性
  (4.4.1)在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
  (4.4.2)ルールの意味を凍結して、選択の必要性を認識しないことは、形式主義、概念主義、法律家の「概念の天国」の誤りに導かれる。
   (a)事実に関する不完全な認識と、予知不可能性から不可避的に生じてくる全く想定していなかった事件、問題に関して、未知の構造を解明しようとする努力がなされず、既存の枠組みへのあてはめが行われる。
   (b)一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる。その結果、様々な事件で問題となっている論点の違いに照らして、その用語を解釈しようとするような努力が行われない。
   (c)新たな事実の構造の中で解明されるべき概念が固定され、新たな問題の解決の中で明確にされるべき目的が固定されることで、概念の一部が不正確になり、もたらされる社会的結果の評価が不十分なものになる。

 (4.5)決定は強制されず、一つの選択である
  存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。


 「さまざまな法体系において、あるいは同一法体系でも時点が違う場合には、一般的ルールを個々の事例に適用するさい、格別の選択をすることの必要性は、無視されたり、多少ともはっきりと承認されたりすることがありうる。形式主義 formalism または概念主義 conceptualism として法理論に知られている欠点は、言葉で定式化されたルールに対してとる態度に見られるのであって、その態度は一般的ルールがひとたび設定されるときは、このような選択の必要性をおおい隠し、また最小限にとどめようとするものである。この一つのやり方は、ルールの意味を凍結して、その一般的用語が、適用問題を生じるすべての場合に、同一の意味をもたねばならないとすることである。このことのためには、明瞭な事例に存在するある特徴に注目して、これらの特徴が、その特徴をもっているすべての事柄をルールの範囲内に入れるための、必要で十分な条件であると主張すればよいのであって、そのさいその特徴をもっているすべての事柄が他の特徴をもっているかどうか、またこのようにルールを適用することの社会的結果がどうであるかは問うところではないのである。こうすることは、われわれの知らない構造をもった一連の未来の事例について、どう扱ってよいかわからないまま予断するという犠牲を払って、ある程度の確実性または予測可能性を確保することになる。そうすることで、われわれは実際、論点が生じて確認されたときにだけ合理的に解決できるにすぎないものを、事前に、しかし、知らないままでも解決することに成功するだろう。このようなやり方で、われわれが合理的な社会的目的を実現するためには、除外したいと思うような事件や、もしそれ程厳密に定義していなかったとしたら、言語の開かれた構造をもった用語からすれば排除してもよいような事件を、あるルールの範囲内に包含せざるをえないようになるだろう。われわれが厳密に分類するということは、そのルールをもち、維持しようとする目的と、このように争うことになるだろう。
 この仮定のゆきつくところが法律家の「概念の天国」the jurists' 'heaven of concepts'である。これが達成されるのは、一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる場合である。そこでは、繰り返し生じるさまざまな事件で問題となっている論点の違いに照らして、その用語を解釈しようとするような努力は、まったく求められもしなければ、行なわれもしないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,pp.141-142,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:形式主義,概念主義,法律家の「概念の天国」,選択肢の非一意性,選択の必要性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2019年4月20日土曜日

法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法の不完全性

【法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.3)追記。

  半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)それにもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。この基準は、何だろうか。
 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
  (1.2.1)このケースでの「べき」は、道徳とはまったく関係のないものである。
  (1.2.2)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 (1.3)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
 (1.4)しかし、在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))
(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
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 (3.1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
  (3.1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (3.1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)日常言語においても、次のような事実がある。
  (3.2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (3.2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (3.2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(4)半影的問題における決定の本質
  半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法の不完全性
  法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法の中核の存在
  法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)事実認識の不完全性と目的の不確定性
  (4.3.1)むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神ではなくて人間だから、このような選択の必要性を負わされているのである。
  (4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
   この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
  (4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
   (a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定めている。
   (b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となっている論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定したものにされていく。
 (4.4)選択肢の非一意性
  在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
 (4.5)決定は強制されず、一つの選択である
  存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。


 「行動の基準を伝達する手段として、先例または立法のいずれが選ばれるにせよ、それらは、大多数の通常の事例については円滑に作用したとしても、その適用が疑問となるような点では不確定であることがわかるだろう。それらには《開かれた構造》an open texture と呼ばれてきたものがあるだろう。われわれは今まで、これを立法の場合につき、人間の言葉の一般的特徴としてのべてきた。つまり、境界線上の不確定さというものは、事実問題に関してどんな伝達の形態をとったとしても、一般的分類用語を使用するかぎり支払わなければならない代償なのである。英語のような自然言語がこのように使われるとき、開かれた構造になることは避けられない。しかし、このように伝達は開かれた構造という特色をもった言語に実際は依存しているが、それを別にしても、われわれは、特定の事例に適用されるかどうかの問題が常に事前に解決されており、実際の適用にあたって、開かれた選択肢からの新たな選択を決して含まないような詳細なルールの概念を、なぜ理想としてさえ抱くべきでないのかという理由を認識することが重要である。その理由を簡単に言えば、われわれが神ではなくて人間だから、このような選択の必要性を負わされているのである。個々の場合について、公機関による格別の指令を待たずに使えるような一般的基準により、明白にそして事前に何らかの行動領域を規律しようとするときはいつでも、関連する二つの困難の下で苦労することが、人間の(したがって立法の)置かれた状況の特色である。第一の困難は、事実についてわれわれが相対的に無知であること、第二はわれわれの目的が相対的に不確定であることにある。もしわれわれの住んでいる世界の特徴が限られており、しかもそれらがそのすべての結合の方法を含めてわれわれに知られているとしたら、あらゆる可能性に対して事前にそなえることができるだろう。個々のケースへの適用につき、格別の選択をなす必要がないようなルールを作ることもできるだろうし、あらゆることを知ることができ、その結果あらゆることに対してルールが事前にあることをし、また特に定めておくこともできるだろう。これが「機械的」法学 'mechanical' jurisprudence に適した世界であろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,pp.139-140,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
 「われわれの世界がこうでないことは明らかであり、人間たる立法者は将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を知りつくすことはできない。こうした予知の不可能性から、目的について相対的な不確定性がもたらされることになる。われわれがあえて何らかの一般的な行為のルール(たとえば公園内に乗り物を乗り入れるべからずというルール)を作成するとき、この文脈で使われる文言は、いかなる事柄も、その範囲内に入ろうとするかぎり満たさなくてはならない必要条件を確定しており、その範囲内にあることが確かであるような事柄のある明瞭な事例が、われわれの心に浮んでくるだろう。それらは範例であり、明白な事例(自動車、バス、オートバイ)なのであって、われわれの立法目的はすでにある選択をなしているので、そのかぎりで確定されているのである。公園内での平和と静けさは、これらの乗物を排除するという犠牲を払ってでも維持されるべきであるという問題を、われわれははじめに解決しておいた。他方われわれは、公園での平和という一般的目的を、はじめには考えなかったか、おそらくは考えることができなかった事例(電気で動くおもちゃの自動車)に関連させるまでは、われわれの目的はこの面で確定されていない。われわれは考えたことのない事件が生じたとき、そこで起きるかもしれない問題を、予知しなかったので、それを解決していない。つまり、その問題というのは、公園内のある程度の平和が、これらのものを使って楽しみ喜ぶ子供達との関係で、犠牲にされるべきか、それとも守られるべきかということである。考えたことのない事件が生じるとき、われわれは問題となっている論点に直面するのであって、そのさいもっともよく満足できる方法で、これらの競合する利益間の選択をなすことにより問題を解決することができる。そうすれば、はじめの目的をより確定したものとしているであろうし、ある一般的な言葉がこのルールの目的にとってもつ意味についての問題は付随的に解決しているであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,p.140,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:法の不完全性,事実に関する無知,予知不可能性,目的の不確定性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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