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2018年1月20日土曜日

「我々がどんなものの認識にも到達し得ない」ということを否定する限り、我々が、我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということは、否定される。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

欺瞞者である神

【「我々がどんなものの認識にも到達し得ない」ということを否定する限り、我々が、我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということは、否定される。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))】
 「我々がどんなものの認識にも到達し得ない」ということを否定する限り、我々が、我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということは、否定される。なぜなら、我々が自ら論証に導かれて到達した結論に導かれながら、同時にそれがまた否定されることになるかもしれないなら、いかなる認識にも到達し得ないからだ。
 「我々がいかなるものについても確実であり得ないのは、我々が神の存在を知らない限りにおいてでなく(なぜなら、このことについては今問題になっていないから)、ただ我々が神について明瞭判然たる観念を持たない限りにおいてのみである、と。」では、神について明瞭判然たる観念とは、どのようなものか。
 仮に、神が欺瞞者であるとしてみよう。このとき、「例えば三角形の本性に注意した場合、我々はその三角の和が二直角に等しいと結論せざるを得ないけれども、しかし我々が我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということになれば、同じ結論はなされ得ないからである。」すなわち、我々はその三角の和が二直角に等しいということに導かれながら、同時にそれがまた否定されることになるかもしれない。「しかし我々は『それだから我々はどんなものの認識にも到達し得ない。』ということはこれを否定する。」ゆえに、神が欺瞞者であると考えることはできない。つまり、「全問題の核心は係って次の点にのみ存するからである。それは即ち、神が欺瞞者であると考えることも欺瞞者でないと考えることも等しく容易であるなどということがないように我々を決定する神の観念、そうした神の観念を我々は形成し得るということである。」
(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『デカルトの哲学原理』デカルトの哲学原理第一部、pp.30-33、[畠中尚志・1959])
(索引:欺瞞者である神)

デカルトの哲学原理―附 形而上学的思想 (岩波文庫)




(出典:wikipedia
バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「どんなものも、その本性において見れば、完全だとも不完全だとも言われないであろう。特に、生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起することを我々が知るであろう後は。」(中略)「人間はしかし無力のためその思惟によってこの秩序を把握できない。だが一方人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能とは認めないから、この完全性[本性]へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは、適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum tota Natura habet)である。」
 「だから私の志す目的は、このような本性を獲得すること、並びに、私と共々多くの人々にこれを獲得させるように努めることにある。」(中略)「次に、出来るだけ多くの人々が、出来るだけ容易に且つ確実にこの目的へ到達するのに都合よいような社会を形成しなければならない。なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。また健康はこの目的に至るのに大切な手段だから、全医学が整備されなければならない。また技術は多くの難しい事柄を簡単なものにして、我々に、生活における多くの時間と便宜を得させてくれるから、機械学を決してなおざりにしてはならない。」(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(12)(13)(14)(15)、pp.17-19、岩波文庫(1968)、畠中尚志(訳))

バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)
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2017年12月26日火曜日

私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

我思う故に我あり

【私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。】
 偽なるものに同意しないように用心する「私」が、確かに存在する。この私の存在も、疑うことができる。しかし、疑うことが、また確かに、私が存在していることを示す。このようにして、私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。私は存在する。
 「私は、世界のうちにまったく何物も、何等の天も、何等の地も、何等の精神も、何等の身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、『私は有る、私は存在する』、という命題は、私がこれを言表するたび毎に、あるいはこれを精神によって把握するたび毎に、必然的に真である、として立てられねばならぬ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察二、p.38、[三木清・1949])
(索引:我思う故に我あり、コギト・エルゴ・スム)

省察 (岩波文庫 青 613-2)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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