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2020年4月1日水曜日

26.最広義の「記憶」には、生得的なもの(遺伝子、神経系、免疫系、その他の諸能力)も含まれるし、試行錯誤、問題解決、行為と選択による能動的な学習によって獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))

記憶の種類

【最広義の「記憶」には、生得的なもの(遺伝子、神経系、免疫系、その他の諸能力)も含まれるし、試行錯誤、問題解決、行為と選択による能動的な学習によって獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))】
(1)保持時間に基づく記憶の分類
 (出典:記憶の分類脳科学辞典
 (1.1)心理学
  感覚記憶、短期記憶(保持期間が数十秒程度)、長期記憶
 (1.2)臨床神経学
  即時記憶(情報の記銘後すぐに想起させるもの)
  近時記憶(情報の記銘と想起の間に干渉が介在される)
  遠隔記憶(臨床場面では個人の生活史(冠婚葬祭や旅行など)を尋ねることが多い)
(2)内容に基づく記憶の分類
 (出典:記憶の分類脳科学辞典
 (2.1)陳述記憶(宣言的記憶)
  イメージや言語として意識上に内容を想起でき、その内容を陳述できる。
  (2.1.1)エピソード記憶
    個人が経験した出来事に関する記憶で、例えば、昨日の夕食をどこで誰と何を食べたか、というような記憶に相当する。
   (a)関連:「連続性形成記憶」。アンリ・ベルクソンの《純粋記憶》に関連しているように思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録である。(カール・ポパー(1902-1994))

  (2.1.2)意味記憶
    知識に相当し、言語とその意味(概念)、知覚対象の意味や対象間の関係、社会的約束など、世の中に関する組織化された記憶である。
  (例) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習(カール・ポパー(1902-1994))
   生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》と、背景にある《何であるかの知識》とによって導かれる能動的探究
   (a)新しい推測、新しい理論の作成
   (b)その新しい推測や理論の批判とテスト
   (c)その推測の拒絶と、それがうまくいかないという事実の記録
   (d)もとの推測の修正や新しい推測を用いての(c)から(a)への過程の反復
   (e)新しい推測がうまくいくようだという発見
   (f)補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
   (g)その新しい推測の実際的で標準化された、反復的な使用

 (2.2)非陳述記憶(非宣言的記憶)
  意識上に内容を想起できない記憶で、言語などを介してその内容を陳述できない記憶である。
  (2.2.1)手続き記憶
   手続き記憶(運動技能、知覚技能、認知技能など・習慣)は、自転車に乗る方法やパズルの解き方などのように、同じ経験を反復することにより形成される。一般的に記憶が一旦形成されると自動的に機能し、長期間保たれるという特徴を持つ。
  (2.2.2)プライミング
   プライミングとは、以前の経験により、後に経験する対象の同定を促進(あるいは抑制)される現象を指し、直接プライミングと間接プライミングがある。
  (2.2.3)古典的条件付け
   古典的条件付けとは、梅干しを見ると唾液が出るなどのように、経験の繰り返しや訓練により本来は結びついていなかった刺激に対して、新しい反応(行動)が形成される現象をいう。
  (2.2.4)非連合学習
   非連合学習とは、一種類の刺激に関する学習であり、同じ刺激の反復によって反応が減弱したり(慣れ)、増強したり(感作)する現象である。

(3)獲得方法に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)生得的な記憶
  (a)遺伝子に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラム
  (b)生得的神経路の構造
  (c)機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは歩いたり話したりすることを学ぶためのさまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もまたここに挙げることができる。
  (d)泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のためのその他の生得的能力。
 (3.2)何らかの学習過程を通して獲得される記憶
  (a)無意識的で受動的な学習過程によって獲得される記憶
  (b)意識的で能動的な学習過程によって獲得される記憶
(4)想起の様相に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
 (4.1)能動的に随意に想起できる記憶
 (4.2)随意に想起できず、求められなくとも想起されてしまう記憶

 「関連した問題の一般的な展望を得るために、最も広い意味での《記憶》という語に含まれる現象を枚挙するのが有益であると思われる。

 磁化の《経験》に関しての鉄棒、または成長する結晶が示すような《断層》に関しての前有機的《記憶》から始めることもできよう。だが、このような前有機的効果の目録は長いわりに啓発的でない。

(1) 生物の最初の記憶に似た効果は、十中八九、遺伝子(DNAまたはたぶんRNA)に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラムの維持であることはほとんど間違いない。それは、とりわけ、記憶の誤りの出現(突然変異)と、そのような誤りが持続する傾向を示している。

(2) 生得的神経路は本能、行動の仕方、そして技能からなる一種の記憶を構成するようである。

(3) この構造的または解剖的エングラム(2)に加えて、機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは(歩いたり話したりすることを学ぶための)さまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もまたここに挙げることができる。

(4) 泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のためのその他の生得的能力。

(5) 何らかの学習過程を通して獲得される記憶
(5.1) 能動的に獲得される (a)意識的に (b)無意識的に
(5.2) 受動的に獲得される (a)意識的に (b)無意識的に

(6) 前述のものと部分的に結びつく、それ以上の区別
(6.1) 随意に思い起こせる
(6.2) 随意に思い起こせない(が、いわば、《期待波》(expectancy waves)として求められなくても起こる)
(6.3) 手の技能とその他の身体的技能(水泳、スキー)
(6.4) 言語で表現された理論
(6.5) 会話、語彙、詩の学習」(中略)


(7) 連続性形成記憶。これと関連して、いくつかの興味深い理論がある。それは、アンリ・ベルクソン〔1896〕、〔1911〕が(《習慣》と対立させて)《純粋記憶》と呼んだものと関連しているように思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録だが、この記録は、ベルクソンによれば、大脳中に、つまりどのような物質中にも記憶されていない。それは純粋に精神的な実体として存在する。(大脳の機能は純粋記憶に対してフィルターとして働き、それがわれわれの注意に侵入しないようにする。)」(中略)

(8) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習の過程については、われわれは少なくとも次のような異なる段階を区別すべきであると思われる。
(8.1) 生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》(knowledge how)と、(背景にある)《何であるかの知識》(knowledge that)とによって導かれる能動的探究
(8.2) 新しい推測、新しい理論の作成
(8.3) その新しい推測や理論の批判とテスト
(8.4) その推測の拒絶と、それがうまくいかない(《そうではない》)という事実の記録
(8.5) もとの推測の修正や新しい推測を用いての(8.4)から(8.2)への過程の反復
(8.6) 新しい推測がうまくいくようだという発見
(8.7) 補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
(8.8) その新しい推測の実際的で標準化された使用(その採用)
 これらの段階の中で、(8.8)の過程のみが反復という性格をもつ、と私は思っている。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P4章 自我についてのいくつかの論評、41――記憶の種類(上)pp.213-216、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:記憶の種類)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2019年3月26日火曜日

25.世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))

世界1に具現化されていない世界3の存在

【世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「具現化されていない世界3の対象の存在が重要であると私が考える主要な理由はこうである。

もし具現化されていない世界3の対象が存在すれば、世界3の対象を把握したり、理解したりすることは常に、その対象の物質的に具現化されているものとの感覚的な結びつきに依存する、例えば書物の中の一つの理論の言明をわれわれが読むことに依存すると主張するのは正しい考えではない。

この考えに反対して、私は世界3の対象を把握する最も特徴的な仕方は、それらの具現化やわれわれの感覚の使用にほとんど依存しない方法によってであると主張する。

私のテーゼは、人間の心は、常に直接的にというのでなければ、間接的な方法(これは後に議論されることになる)によって世界3の対象を把握する、というものである。この間接的方法とは、対象の具現化とは独立した方法であり、そして(書物のような)世界1にも属する世界3の対象の場合には、それら対象の具現化された事実から抽象する方法である。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、12――具現化されていない世界3の諸対象(上)p.72、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年11月19日月曜日

23.生命は、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているが、命をかけ暴力を使うことなく、試行し、誤りを排除できる方法が発現し、圧倒的な優位を獲得した。それは、人間の心と、文化(世界3)の発現である。(カール・ポパー(1902-1994))

自然淘汰の結果としての心と文化

【生命は、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているが、命をかけ暴力を使うことなく、試行し、誤りを排除できる方法が発現し、圧倒的な優位を獲得した。それは、人間の心と、文化(世界3)の発現である。(カール・ポパー(1902-1994))】

 「各章であまり明示されていなかったが、明示すべき最後の点は次のことである。
 (9) 自然淘汰と淘汰圧は通常は、生命への多少とも激烈な闘争の結果として考えられる。
 しかし、心、世界3、理論の発現によってこれは変わる。われわれは理論を最後まで戦わす――われわれの代わりに理論を死に至らしめる。

自然淘汰の観点からは、心と世界3の主要な機能は、われわれ自身を暴力的に排除することなく、試行と、誤りの排除という方法を適用することを可能にすることである。この点に、心と世界3の偉大な生存価値があるのである。

したがって、心と世界3との発現をもたらすことで、自然淘汰は自らとその元来の暴力的性格を超越する。世界3の発現によって、淘汰はもはや暴力的である必要はなくなる。

われわれは非暴力的な批判によって誤った理論を排除できるのである。非暴力的な文化的進化はユートピア的な夢ではなく、むしろ、自然淘汰を通じての心の発現の可能な結果の一つなのである。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P6章 要約(上)pp.319-320、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:自然淘汰,心,文化,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年11月18日日曜日

22.先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))

「真理らしさ」の増大

【先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))】

(3.1.3.1)(6.3.1)~(6.3.3)(7)追加記載。

(1)真理の探究には、何ものにも勝る重要性があり、われわれの目的であり続ける。
(2)理論は、実践的な科学と理論科学にとって至高の重要性を持つ。
(3)しかし、真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。
 参照: ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
  (3.1.1)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、および、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。
  (3.1.2)したがって、理論を信じる実証的理由は、決して得られない。
  (3.1.3)したがって、理論は当て推量、推測である。
   (3.1.3.1)科学も、人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している。
(4)経験主義の原理
 (4.1)科学理論の採否は、観察と実験の結果に依拠すべきである。
(5)帰納の論理的問題
 参照: 帰納の非妥当性の原理と、経験主義の原理とが衝突し、そこに帰納の論理的問題があると、かつて考えられたが、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。批判的合理主義の原理が、解答を与える。(カール・ポパー(1902-1994))
 (5.1)かつて、(3.1)と(4)が衝突するように考えられたことがある。
 (5.2)この問題から、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。
(6)批判的合理主義の原理
 (6.1)科学理論の採否は、批判的推論に依拠すべきである。
 (6.2)観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることができる。
 (6.3)理論は、合理的批判の結果に照らして他の既知の理論よりもよりよい、あるいはより悪い理論として、暫定的に、拒否されたり、受け容れられたりする。
  (6.3.1)新しい仮説に要請される、後退を防ぐ保守的な条件。
   (a)新しい仮説は、先行仮説が解決した問題を、同じ程度にうまく解決せねばならない。
  (6.3.2)新しい仮説に望まれる、革命的な条件。
   (a)新しい仮説は、先行仮説からは導出されない予測を演繹する。
   (b)新しい仮説は、先行仮説と新しい仮説のいずれを支持するかの、決め手となる実験を構成する。
  (6.3.3)もし、決め手となる実験が新しい仮説に有利に決まるなら、より「真理らしさ」が増大した、科学理論は「進歩した」と言うことができる。
(7)科学理論は、理論や仮説に固有の傾向として、真理らしさの増大に「向かう」と言うべきではない。科学の進歩は、誤謬消去を基礎とした科学の方法と、我々の批判的で能動的な行為により支えられている。

 「一般に人間の思考というもの、そして特に科学というものは、人間の歴史の所産である。それゆえ、それらは多くの偶然に依存している。つまり、われわれの歴史が異なっていたならば、われわれの現在の考え方と現在の科学もまた(もしあったとすれば)異なっていたことであろう。


 多くの人はこのような論証によって相対主義的または懐疑論的な結論を出してきたが、この結論は避けられないものではけっしてない。

われわれは事実として、思考には偶然的(そしてもちろん非合理的)要素があることを容認できる。だが、われわれは相対主義的な結論を自滅的で、敗北主義的なものとして拒否できる。

なぜなら、これはしばしば行なっていることだが、われわれは自身の誤りから学ぶことができ、これが科学の進歩の仕方であると指摘できるからである。われわれの出発点がいかに誤っていようと、それらを訂正し、したがって超えることができるのである。科学において行なわれるように、われわれが意識的な批判によって誤りをつきとめようとする場合は特にそうである。

したがって、科学的思考は多少とも偶然的な出発点をもつにもかかわらず、(合理的な観点からは)進歩的であり得る。

そしてわれわれは、批判することによって科学の前進を能動的に助けることができ、そのため真理に近づくことができる。

目下の科学理論は、多少とも偶然的な(またおそらく歴史的に決定された)われわれの偏見《と》批判的な誤謬消去の共通の所産である。批判と誤謬消去という刺激の下で科学理論の真理らしさは増大に向うのである。

 おそらく私は《向う》と言うべきではないだろう。

というのは、より真理らしくなるのはわれわれの理論や仮説に固有の傾向ではないからである。それはむしろ、新しい仮説が以前の仮説に比べて改良されているようにみえる時に限ってその仮説を承認するという、われわれの批判的態度からの結果なのである。

われわれが新しい仮説に対して、それを以前のものと置き換えることを承認する前に要求するのは次のことである。
 (1) それは先行仮説が解決した問題を、少なくとも先行仮説が行なったと同じ程度にうまく解決せねばならない。
 (2) それは古い理論からは出てこない予測の演繹を許すものでなければならない。望ましくは、古い理論に矛盾する予測を認め、決め手となる実験の構成を許すものでなければならない。

もし新理論が(1)と(2)を満足するなら、それは進歩が可能なことを示している。もし決め手となる実験が新理論に有利に決まるなら、進歩は現実のものとなるだろう。

 (1)は必要な要請であり、かつ保守的な要請である。それは後退を防ぐ。(2)は選択的で、望ましいものである。それは革命的である。科学におけるすべての重要な成功は革命的であるが、科学のすべての進歩が革命的性格をもっているわけではない。二つの要請がいっしょになり、科学の進歩の合理性、すなわち真理らしさ(verisimilitude)の増大を保証するのである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P5章 心身問題についての歴史的批評、43――われわれの宇宙像の歴史(上)pp.231-232、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:真理らしさ)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年9月4日火曜日

14.世界2は、世界3と直接的に相互作用する。例として、(a)新しい問題の発見と解決、(b)例として数学の問題と証明、(c)例として数学における無限の概念、(d)例として言語の「意味」の理解。(カール・ポパー(1902-1994))

世界2と世界3の相互作用

【世界2は、世界3と直接的に相互作用する。例として、(a)新しい問題の発見と解決、(b)例として数学の問題と証明、(c)例として数学における無限の概念、(d)例として言語の「意味」の理解。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.4.4)追加記載

 (b2.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ具現化する。
 (b2.4.1)世界3の符号である世界1の対象は、いかに世界2により働きかけられるにしても、それ自体は世界1の対象であるから、世界1の諸法則に従って生成・変化する。また世界2は、いかにそれが自ら固有の法則に従って働きかけるかのように見えようが、世界1の諸法則に支えられている。世界2は、最初に直接的に、世界1の諸法則には服さない世界3との関係を持つことなしには、世界1の因果関係から逃れることはできない。

 (b2.4.2)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1へ具現化する。

 時間1 世界1・P1           (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │             │┌───┘
  ↓    ↓             ↓↓
 時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌──────────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3⊃世界1・S3⇔世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 (b2.4.3)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。

 時間1 世界1・P1     (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │         │┌───┘
  ↓    ↓         ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3 世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 (b2.4.4)(b2.4.2)が正しいことの理由。
 (b2.4.4.1)世界2が、未だ世界3のなかに表現されておらず、したがって当然、世界1には存在しない新しい問題を発見したり、問題への新しい解決を発見するときのような創造的行為を考えると、世界2が必ず世界1を経由するということは、誤りではないかと思われる。
 (b2.4.4.2)例として、数学の問題を発見し、証明する過程。
  (i)最初に問題を感じ、問題の存在に気づく。あるいは、証明の考案がなされる。
  (ii)次に、(i)が言語で表現される。
  (iii)明確化し、証明の妥当性を批判的に調べるため、世界1の表現に具現化される。
 (b2.4.4.3)例として、数学における無限の概念は、世界1、世界2に具現化されなくても、直接把握される。論証のための表現は世界1、世界2に具現化されるが、概念そのものは直接把握されるように思われる。
 (b2.4.4.4)例として、私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符号化、具現化されたものを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われる。

 「ここでの私の要点は、われわれは、問題となっている世界3の観念を把握するためには、世界3の観念を世界1で表現する(例えば、大脳の構成要素によるモデル)必要はない、ということです。

世界2による世界3の対象の直接把握の可能性についてのテーゼは(無限系列のような世界3の無限の対象のみではなく)一般に正しいと私はみなします。

でも、無限の対象の例は、私の考えでは、世界3の対象を世界1で表現する必要のないことを明白にしてくれます。

われわれは、もちろん永久に続く(任意の中間結果に1を加えるような)操作をプログラム化したコンピュータを作れるでしょう。でも、

(1)コンピュータは実際には永久に続くのではなく、有限時間内に尽きてしまいます(あるいは、すべての利用可能なエネルギーを消費してしまいます)。

(2)もしそのようにプログラムされていれば、途中結果の系列は伝えますが、最終結果は伝えないでしょう。(仮無限という世界3の観念の(有限の)物理モデルないし表現はありません。)

 世界3の対象を直接把握することの論証は、無限についての世界1の表現が存在しないことには依存しません。

決定的なことは私には次のように思えるのです。世界3の問題――例えば、数学の問題――を発見する過程で、われわれはそれが話し言葉、または書き言葉で表わされる前に、まず曖昧に問題を《感じ》ます。われわれはまずその存在に気づき、そして口頭の、または書かれた表示(いわば、随伴現象)を与えます。

そして、さらにそれを明確に、鋭くします。(この最後の段階でのみ、われわれは言語で問題を表現するのです。)これは作成し、照合し、また作成するという過程なのです。

 完成された世界3の証明はその妥当性について批判的に調べられねばならず、この目的のために、証明は世界1の表現――言語、望むべくは書き言葉――に移されなければなりません。

でも、証明の考案は世界2の世界3への直接操作――確かに、大脳の助けによるが、大脳に符号化された表現や世界3の対象の別の具体物からの問題または結果の読み取りを伴わない操作――でした。

 このことが示唆するのは、問題や新しい証明、またはその種のものいずれを問わず、新しい世界3の対象を作る世界2のすべてまたは大部分の創造的働きは、たとえ世界1の過程が伴うにしても、記憶や符号化された世界3の対象の読みとり以外のものでなければならない、ということです。

さて、これは非常に重要なことです。なぜなら、この種の直接接触はまた、世界2が符号化、具現化された世界3の対象を用いて、それらの符号化に対立したものとしての世界3の側面を直接みる仕方でもある、と考えられるからです。

これは、本を読む際、われわれがページの上の符号を飛び越して、直接意味を得る場合の方法なのです。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DXI章、(下)pp.781-782、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:世界2と世界3の相互作用)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年9月3日月曜日

13.可能性の領域である新しい観念は、確率的な法則に従って、非決定論的に発生する。新しい観念は、世界3につなぎ止められ、検討され、テストされ、不適切なものは消去され、最適なものが生き残る。(カール・ポパー(1902-1994))

意識現象と量子力学

【可能性の領域である新しい観念は、確率的な法則に従って、非決定論的に発生する。新しい観念は、世界3につなぎ止められ、検討され、テストされ、不適切なものは消去され、最適なものが生き残る。(カール・ポパー(1902-1994))】

量子力学が、意識現象に関わると思われる理由

(1)古典物理学の決定論においては、自由意志が存在する余地がないように思われた。
(2)量子力学は、確率論的な時間発展と、一回の観測における不確定性、非決定性を与える。
(3)しかし、自由意志の問題は、偶然的で確率論的な事柄であるとは思えない。
(4)この偶然性と、自ら選択し決定するという自由意志は、どのように関係するのか。
 (4.1)可能性の領域である新しい観念は、遺伝における突然変異のように、確率的な法則に従って、非決定論的に発生する。
 (4.2)新しい観念は、世界3につなぎ止められ、検討され、テストされ、不適切なものは消去され、最適なものが生き残る。

(再掲)
 (b2.4.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。

 時間1 世界1・P1     (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │         │┌───┘
  ↓    ↓         ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3 世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 「P――もちろん、それはたいへん難解な問題です。それに関連して多くの考えをもっていますが、それらはまだまだ練り上げられていません。


 まず第一に、量子論的な不確定性が、ある意味で助けにはならないことにもちろん同意しますが、それは単に確率法則に導くだけだからであり、自由な決定のようなものが確率的事柄であるとは言いたくないのです。 

 量子力学的な不確定性の困難は二つの部分からなっています。第一に、それは確率的です。このことは、偶然的事柄ではない自由意志の問題にそれほど助けにはならないのです。第二に、それはわれわれに非決定論しか与えず、世界2への開放性を与えません。

しかし、遠回りの仕方で、自由意志の決定が確率的事柄であるという誤ったテーゼに身をゆだねることなしに、量子論的な不確定性を用いることができる、とは考えます。  

この文脈では一点についてだけ述べましょう。新しい観念は遺伝的な突然変異に著しく似ています。そこで、しばらく遺伝的な突然変異についてみてみましょう。突然変異は(放射線効果を含む)量子論的な不確定性によってもたらされるようです。したがって、それらもまた確率的で、それら自身元来選択されたものでもなく、または適切なものでもないが、不適切な突然変異を取り除く自然淘汰が次に働くのです。
 
さて、われわれは新しい観念、自由意志の決定、そして類似のことに関して同様の過程を考えることができます。すなわち、可能性の領域は、提案の――いわば大脳によってもたらされた可能性の――確率論的、量子力学的特徴をもつ集合によってもたらされるのです。

これらの上へ、一種の淘汰圧が働き、世界3につなぎ止められ、そこで検討し、そこの基準でテストするところの心に受け入れられないような提案と可能性を消去するのです。これが、それらのことの起こる仕方でしょう。
 
そして、彫刻家が像を作るために石を刻み、不要部分をすてるように働く抑制ニューロンの示唆を私がたいへん好むのは、この理由からでした。」 


(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DX章、(下)pp.767-768、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:意識現象,量子力学)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年9月2日日曜日

12.世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ具現化する。(カール・ポパー(1902-1994))

世界2と世界3との相互作用

【世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ具現化する。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.4)追加記載。

 (b2.3)世界2は、直接的に世界3への関係を持つのではなく、世界1を経由しているのではないか。世界2は、世界3の符号である世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。(ジョン・エックルス(1903-1997))
 (b2.3.1)世界3の対象は、世界1の物質的対象の上に符号化されている。
 (b2.3.2)世界2は、世界1の符号から意識経験を引き出している。

   (符号)⇔(符号の意識経験)⇔(世界3)
    世界1・S1⇔世界2・S1⇔世界3・C1
    世界1・S2⇔世界2・S2⇔世界3・C2

 (b2.3.3)世界2は、世界3の符号である世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 時間1 世界1・P1⊃世界1・S1⇔世界2・S1⊂世界2・M1
  │    │   │    ↓↑    │
  │    │   │   世界3・C1   │
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2⊂世界2・M2
                ↓↑
               世界3・C2

 (b2.3.4)世界2は、世界3の符号である世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 時間1 世界1・P1 世界2・S1⊂世界2・M1
  │    │   │↓↑   │
  │    │   │世界3・C1 │
  │    │   │┌────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2⊂世界2・M2
            ↓↑
            世界3・C2

 (b2.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ具現化する。
 (b2.4.1)世界3の符号である世界1の対象は、いかに世界2により働きかけられるにしても、それ自体は世界1の対象であるから、世界1の諸法則に従って生成・変化する。また世界2は、いかにそれが自ら固有の法則に従って働きかけるかのように見えようが、世界1の諸法則に支えられている。世界2は、最初に直接的に、世界1の諸法則には服さない世界3との関係を持つことなしには、世界1の因果関係から逃れることはできない。
 (b2.4.2)世界2が、未だ世界3のなかに表現されておらず、したがって当然、世界1には存在しない新しい問題を発見したり、問題への新しい解決を発見するときのような創造的行為を考えると、世界2が必ず世界1を経由するということは、誤りではないかと思われる。

 (b2.4.3)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1へ具現化する。

 時間1 世界1・P1           (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │             │┌───┘
  ↓    ↓             ↓↓
 時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌──────────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3⊃世界1・S3⇔世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 (b2.4.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。

 時間1 世界1・P1     (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │         │┌───┘
  ↓    ↓         ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3 世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 「P――あなたがその点を強調するのは非常に重要なことです。でも、私はあなたの批判に完全に同意するわけではありません。 

世界2と世界3の相互作用の多くにおいては、大脳が含まれ、それとともに世界1も含まれることは完全に正しい。  

 しかし、世界2と世界3を含む多くの創造的行為では特に、世界1が必然的に含まれるわけでは《なく》、含まれたとしても世界2の随伴現象として含まれる、と私は考えます。 
 
すなわち、何かが世界1の中で進行しているが、それは部分的に世界2に依存しているのです。(これが相互作用の考えです。)

創造的行為》によって、私が意味しているのは、新しい問題の発見や、われわれの問題への新しい解決の発見です。この発見の過程は、それと平行して進行する世界1の過程をもっているらしい、というのはまったく正しい。

でも、私が強調したいのは、それに平行していたのではない、ということです。なぜなら、何か新しいものの発見はユニークな過程であり、標準的な基本過程に分析できない二つのユニークな過程の間の平行関係については語ることができない、と考えるからです。(右で言及されたのは、世界1の過程が世界2で進行しているものに関して随伴的な現象である場合の一つです。)

 でも、これとはまったく別に、世界3の中でまだ十分には表現されていない、発見され、表現されるべき問題がある、と感じる時、そのような場合にはわれわれ、より正確にはわれわれの世界2は、すべての段階で世界1をひきずり込むことなしに、本来的に世界3を扱うということを認識するのは、非常に重要だと思われます。

世界1が一般的背景を与えるというのは疑いもなく真です。世界1の記憶がなくては、われわれは自分のしていることができなかったでしょう。

でも、われわれが取り出したい特別の新しい問題は、世界3の中で直接に世界2によって知られるのです。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DX章、(下)pp.764-765、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:世界2と世界3との相互作用)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年9月1日土曜日

世界2は、直接的に世界3への関係を持つのではなく、世界1を経由しているのではないか。世界2は、世界3の符号である世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。(ジョン・エックルス(1903-1997))

世界3の符号としての世界1、世界2の対象

【世界2は、直接的に世界3への関係を持つのではなく、世界1を経由しているのではないか。世界2は、世界3の符号である世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。(ジョン・エックルス(1903-1997))】

(b2.3)追加記載。

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(b2.3)世界2は、直接的に世界3への関係を持つのではなく、世界1を経由しているのではないか。世界2は、世界3の符号である世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 (b2.3.1)世界3の対象は、世界1の物質的対象の上に符号化されている。
 (b2.3.2)世界2は、世界1の符号から意識経験を引き出している。

   (符号)⇔(符号の意識経験)⇔(世界3)
    世界1・S1⇔世界2・S1⇔世界3・C1
    世界1・S2⇔世界2・S2⇔世界3・C2

 (b2.3.3)世界2は、世界3の符号である世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 時間1 世界1・P1⊃世界1・S1⇔世界2・S1⊂世界2・M1
  │    │   │    ↓↑    │
  │    │   │   世界3・C1   │
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2⊂世界2・M2
                ↓↑
               世界3・C2

 (b2.3.4)世界2は、世界3の符号である世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を生成する。
 時間1 世界1・P1 世界2・S1⊂世界2・M1
  │    │   │↓↑   │
  │    │   │世界3・C1 │
  │    │   │┌────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2⊂世界2・M2
            ↓↑
            世界3・C2

 「E――『エンカウンター』誌にカールが提出した論文「非決定論は十分でない」についての議論をしましょう。

私の言いたい第一のことは、世界1、2、3の関係についてです。世界1は世界2に対して因果的に開いていなければならない、という言明にはまったく賛成ですが、世界2の世界3への直接的な行動による因果的な開放性について語るならば、誤解が生じるのではないかと感じられます。

その間には常に世界1を通しての段階が挿入されていると言いたいのです。

これはもちろん、ある物質対象の上に符号化された世界3の表現から意識経験を導き出しているならば、十分明らかなことです。

すると明らかに、意識経験は、受容と伝達の世界1の段階のすべてを通して起こっている感覚を介して知覚されねばなりません。

他方、特別な領野での大脳のいくつかの記憶過程によってニューロン回路に世界3が符号化されるより十分な条件があります。

その場合でさえ、私が強調するのは、意識経験はニューロン結合の中に符号化される世界3を世界1から取り出さなければならない、ということです。
 P――世界3が大脳に符号化されると言う代わりに、世界3の対象は大脳に記録される、そしてそれゆえ、いわば具現化される、と言うべきではないでしょうか。

世界3の全体はどこにもありません。しばしば具現化され、それゆえ、局在化できるのは、いくつかの個々の世界3の対象だけなのです。

 E――それら対象は記憶として思い出され、表現できます。しかし、そこにおいてさえ、世界3の対象は、いわばニューロンの仕組みの上に符号化され、それから自己意識的な心の働きによって抽出されなければなりません。

ですから、ある意味で、この連関に入ってくる世界1があるのです。このことはまったくつまらないことだとは思いますが、それに触れたいのです。

というのは、自己意識的な心、つまり世界2と、外部世界、または大脳いずれかの中で対象上に符号化された情報(世界3)との間には、ある直接的な関係(透視(clairvoyance))があるらしいことがいくつかの批判によって指摘できるからです。

結局、「非決定論は十分ではない」の中で語られた話はもちろん受け入れることができます。私がしたいのはささいな批判にすぎないのです。」
(ジョン・エックルス(1903-1997)『自我と脳』第3部、DX章、(下)pp.763-764、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:世界3の符号)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
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2018年8月30日木曜日

11.数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))

物理法則と論理学の法則

【数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.2)を追記。

(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

 (c1.1)もし、これが正しいならば、世界2での過程はすべて世界1の物理学、化学の法則に支配されているのか。しかし、たとえば数学の公理とか論理学の法則とは、いったい何なのか。これも、世界1の諸法則に従っているのか。
 (c1.2)コンピュータは、世界1の諸法則によって実現され、動作しているにもかかわらず、同時に論理的諸原理にも従っている。
 (c1.3)なぜ、(c1.2)のようなことが可能なのか。それは、コンピュータも論理学の法則も、世界3に属しているからである。参照:(b2)

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

 (b2.1)しかし、すべては物理的世界1における現象であることには、変わりないのではないか。
  (b2.1.1)進化と自然淘汰の産物として、人間の大脳が生まれた。
  (b2.1.2)環境に適応するこの過程のなかで言語活動が生まれた。
  (b2.1.3)適応的な行動を生むための思考と、適応的な推理のための性向的能力が習得された。
  (b2.1.4)やがて学校教育において、論理的思考が組織的に学習されることになった。
 (b2.2)(b2.1)が正しいとしても、ある論理法則が「正しい」とか「誤っている」という基準は、物理的世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する主観的経験の世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。
  (b2.2.1)たとえば、世界2における計算、または世界1に書き下した計算式、または、ある計算を行なっているコンピュータが「正しい」とか「誤っている」と言うことには、確かに意味がある。「正しい」論理法則とは、何なのか。
  (b2.2.2)「正しい」「誤っている」と言うためには、基準が必要であるが、この基準は、物理的世界1の中に具現化されているだろうか。たとえば、ある特定の論理学の書物が基準であるとか。
  (b2.2.3)あるいは、大多数の論理学者が正しいと判断するから「正しい」というような方法で、世界2の集合体が、その基準を具現化しているのだろうか。

 「I――コンピュータや大脳は誤りを犯さないのでしょうか。

 P――もちろん、コンピュータは完全ではありません、人間の大脳もまたそうです。言わずと知れたことですよ。

 I――でも、もしそうならば、あなたには世界1の中の対象に具現化または具体化されていない妥当性の基準のような、世界3の対象が必要になりますよ。《推論の妥当性》に訴えることができるためにはそれら基準が必要です。でもあなたはそのような対象の存在を否定しています。

 P――私は非物質的な世界3の対象の存在を断固否定します。しかし、私にはまだあなたの要点がよくわかったわけではないのです。

 I――私の要点はまったく簡単です。もしコンピュータや大脳が誤りを犯すことができるなら、それらは何に比べて劣っているのだろうか。

 P――他のコンピュータや大脳、あるいは論理と数学の書物の内容より劣っているのです。

 I――それらの書物は誤りを犯すことがないのでしょうか。

 P――もちろん、あります。でも間違いは稀です。

 I――それはあやしいが、そうだったとしましょう。でもまだ質問があります。もし間違いがあるなら――いいですか、それが論理的な間違いとしたら――どんな基準でそれは間違いなのですか。

 P――論理学の基準です。

 I――そのとおりです。でも、それら基準は非物質的世界3の基準ですね。

 P――それには賛成しかねます。それらは抽象的な基準ではなく、大多数の論理学者――事実、少数の過信派以外のすべて――がそのようなものとして受け入れる気になる基準や原理なのです。

 I――原理が妥当だから論理学者がその気になるのでしょうか。それとも彼らが受け入れる気になるから原理は妥当なのでしょうか。

 P――紛らわしい質問ですね。それへの明白な答え、そしてとにかくあなたの答えは、「論理的基準が妥当であるゆえに、論理学者はそれを受け入れる気になる」ということのようだ。だがこれは、私が否定する非物質的な、したがって抽象的な基準や原理の存在を認めることでしょう。

いや、私はあなたの質問に別の答えをしなければなりません。基準は、それらが存在する以上は、人々の大脳の状態や性向として存在するのです。状態や性向というのは人々に正しい基準を受け入れさせるものです。

するともちろん、あなたは次のように問うかもしれません。「《妥当な》基準以外の《正しい》基準は他にあるのだろうか、と。

私の答えは「言語行動のいくつかの仕方、あるいはいくつかの信念を他の信念と結び合わせるいくつかの仕方がその基準であり、それらの仕方は生存闘争で有用だとわかり、それゆえ自然淘汰によって淘汰されたか、またはたぶん学校教育その他で条件づけによって学ばれたものです」。

 これらの遺伝され、学習された性向は何人かの人々によって《われわれの論理的直感》と呼ばれるものです。私はそれらが(抽象的な世界3の対象と反対に)存在することを認めます。

私はまた、それらが常に信頼できるとは限らず、論理的な誤りが存在することも認めます。でもこれらの誤った推論は批判し、取り除くことができます。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、21――J・B・S・ホールディンの唯物論反駁の一修正形式(上)pp.121-122、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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