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2023年5月28日日曜日

言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言語ゲーム( language game )

 言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「思考とは本質的には記号を操作することだと言うとき、君の最初の質問は、「では記号とは何か」であるかもしれない。―――この質問に何らかの一般的な答をする代りに、「記号を操作する」と言いうる具体的ケースのあれこれを君に注意深く観察することを求めたい。言葉[という記号]を操作する簡単な一例をみてみよう。私が誰かに「八百屋からリンゴを六つ買ってきてくれ」と命じる。このような命令を[実地に]果たす仕方の一つを描写してみよう。「リンゴ六つ」という字句が紙切れに書かれていて、その紙が八百屋に手渡される、八百屋は「リンゴ」という語をいろんな棚の貼札とくらべる。彼はそれが貼札の一つと一致するのを見つけ、一から始めてその紙片に書かれた数まで数える、そして数を一つ数える毎に一個の果物を棚から取って袋に入れる。―――これは言葉が使われる一つの仕方である。以後たびたび私が言語ゲーム( language game )と呼ぶものに君の注意をひくことになろう。それらは、我々の高度に複雑化した日常言語の記号を使う仕方よりも単純な、記号を使う仕方である。言語ゲームは、子供が言葉を使い始めるときの言語の形態である。言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態すなわち原初的言語の研究である。我々が真偽の問題、[すなわち]命題と事実との一致不一致の問題、肯定、仮定、問の本性の問題、を研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。これらの[問題での]思考の諸形態がそこでは、高度に複雑な思考過程の背景に混乱させられることなく現われるからである。言語のかような単純な形態を観察するときには、通常の言語使用を蔽っているかにみえるあの心的な[ものの]霧は消失する。明確に区分された、くもりのない働きや反応が見られる。それにもかかわらず、それらの単純な過程の中に、もっと複雑な[通常の]言語形態に連続している言語形態をみてとれる。この原初的形態に漸次新しい形態を付け加えてゆけば、複雑な形態を作り上げられることがわかる。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.45、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]



考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

表現する過程

 考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「そこでの私の意図のすべては、考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在しなければ《ならぬ》と考える誘惑を取除くことであった。 
 諸君に要領を一つ教えたい。君が、思考、信念、知識等の本性に困惑している場合には、思想の代りに思想の表現を置き換えてみること。この置き換えで厄介なところ、同時にまたそれがこの置き換えの狙いでもあるが、それは信念や思想その他の表現は或る文(センテンス)に過ぎないということである。―――その文は或る言語体系に属するものとしてのみ、すなわち或る記号系の中の一つの表現としてのみ、意味を持ちうる。そこで、この記号系を我々が述べる文のすべてに対するいわば恒久的な背景だと考え、紙の上に書かれ声に出された文こそ独立してはいるものの、心の考える働きの中には記号系が全部ひっくるめて存在している、と思いたくなるのだ。この心の働きは、記号のどんな手動操作にもできないことを奇跡的な方法でやってのけるように見える。しかし、何らかの意味で全記号系が同時に現在していなければならなぬという考えの誘惑が消えた時には、もはや表現と並んでそれらとは別な奇妙な心の働きの存在を《想定する》意味もなくなる。しかしこれはもちろん、特有の意識の働きが思想の表現には一切伴わない!ことを示したというのではない。ただ、前者が後者に伴わねば《ならぬ》、ともはや言わないだけなのである。
  「しかし、思想の表現は常に偽でもありうる。或ることを言い別のことを意味できるからである。」だが、或ることを言い別のことを意味する時におこる、場合場合で違うさまざまなことを考えてみ給え。―――次の実験をしてみ給え。「この部屋は暑い」という文を口にしながら「寒い」を意味してみる。そして何をやっているかを精しく観察してみ給え。
  こういう生き物を想像するのはたやすい。その生き物はプライベートな思考を「傍白」の形でする、そして嘘をつくには一つのことを正面きって話しついでその逆のことを傍白する。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.83-84、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]





思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考とは表現する行為そのもの

 思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


(a)「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。
(b)声にも出さず、内語もしないで、「明日は多分雨だろう」と考えることができるか。
(c)少なくとも、考えること抜きで話すことはできないだろうか。もちろんできる。
(d)掛算 7 × 5 = 35 を言うと共に、それを考える。
(e)今度は、考えることなしに言ってみる。


「次の実験をしてみ給え。或る文、例えば、「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。つぎに、同じことを考え、今意味したことをもう一度意味してみる、しかし今度は何も言わない(声にもださず、内語もしない)。つまり、明日は雨だろうと考えることが明日は雨だろうと言うことに伴う[それとは別の]ことならば、始めのことだけをやって二番目の行動を差控えてみよ、ということである。―――考えることと話すこととが歌の歌詞とメロディの関係にあるならば、丁度歌詞抜きで節だけを歌えるように、話すことをしないで考えることだけをやれよう。
  だが少なくとも、考えること抜きで話すことはできはすまいか。もちろんできる―――しかし、君が考えることなく話す場合、どんな種類のことを君はしているのかよくみてみ給え。まっさきに注目してほしいのは、「話し且つその中味を意味する」と呼びたい過程と、考えなしに話すと呼びたい過程とを区別するものは必ずしも、《話している時点で》起きることではない、ということである。この二つを区別するものが、話しの以前と以後に起きることである場合も十分にありうる。
  私が今慎重に、考えることなしに話すことをやってみるとしよう―――実際私はどういうことをするだろう。例えば、或る本から一つの文を読み上げる、だが自動的に読もうとする、すなわち、他の場合なら読むことで生まれてくるイメージや感情と一緒にその文を読まないように極力つとめる。その一つの方法は、朗読している間何か他のことに注意を集中する、例えば、朗読の間皮膚を強くつねることであろう。―――次のように言おう。考えることなしに文を話すとは、話にスイッチを入れ、話に伴うものごとの方のスイッチを切ることである。では、考えてほしい。その文を言うことなしに考えることはこのスイッチを逆にすることであろうか(前には切ったスイッチを入れ、入れたものを切る)、と。つまり、その文を言うことなしに考えるとは、今度は単に、言葉に伴ったものごとの方を留めて言葉の方を取り除くことか、と。或る文の思想をその文なしで考えようと実際に試みて、そしてこれが現に起きることかどうかをみてみ給え。 
 要約してみよう。「考える」「意味する」「願う」等のような言葉の使い方を吟味するならば、この吟味を経過することによって、思想を表現する行為とは別に何か奇妙な媒体の中にしまいこまれた奇妙な思考作用を探し求めたい誘惑から解放される。また、もはや既成の表現形式には妨げられることなく、思考の経験とは単に言表の経験である場合も《ありうるし》、言表の経験プラスそれに伴う他の経験からなっている場合もあることを認めることができる。(また次の場合を検討するのも有益である。掛算が文の一部である場合。例えば、掛算 7 × 5 = 35 を言うと共にそれを考える、今度は考えることなしに言ってみる、これらがどういったものであるか考えて見給え。)語の文法を吟味することで、偏りのない眼で事実を見ることを妨げていたその表現の固定化したしきたりが弱められる。我々の探究はこの偏りを取り去ろうとしてきたのである。この偏りが、我々の言語に埋めこまれている或る挿し画に事実の方が合わねば《ならぬ》という考えを強いるのである。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.84-86、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




2023年5月27日土曜日

思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考とは記号操作

思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「こうして、思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合には心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君は隠喩を使っている、[君の言い方で]心が主体であるのは、書く場合の主体は手だと言える場合とは違った意味である、ということに注意を向けてもらうだけだ。
  更にもし、思考がおこなわれる場合を云々するなら、その場所は書いている紙、喋っている口だと言う権利がある。ここでもし、頭や脳を思想の場所だと言うとすれば、それは「思考の場所」という表現を違った意味で使っているのである。頭を思考の場所と呼ぶ理由は何であるか検討してみよう。そういう表現の形を批判したり適切でないことを示すのがその意図ではない。なすべきことは、その表現の働き、その表現の文法を理解することである。例えば、その文法が、「口で考える」また、「紙上の鉛筆で考える」という表現とどういう関係にあるかをみることである。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.30、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]





記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

記号の意味とは何か

 記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。  (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用( use )であると言うべきであろう。 
 仮に記号の意味(簡単に言えば、記号で大切なもの)が、記号を見聞きするとき我々の心の中に作り上げられるイメージであるとしても、先に述べたやり方で、この心的イメージを我々の眼に見える外的事物、例えば描かれたイメージ[つまり画]や模造されたイメージ[つまり模型]で置き換えてみよう。すると、書かれている[無機的な]記号がそれだけでは死んでいると言うのであれば、それに描かれたイメージをつけ加えたところでそれらが一緒になったものが生きる道理はない。
 ―――事実、君が心的イメージを例えば描かれたイメージで置換えて見たとたん、またそれによってイメージが神秘的性格を失ったとたん、そのイメージは文にいかなるものであれ命を附与するとは思えなくなるのである。(実のところ、君が自分の目的に必要としたのはまさにこの心的イメージの神秘的性格だったのである。)
  我々のおちいりやすい誤りを次のようにも言えよう。我々の探しているのは記号の使用であるが、それを何か記号と《並んで存在》しているもののように考えて探すのだ、と。(この誤りのもとの一つはまたしても、「名詞に対応する物」を求める、ということである。)
 記号(文)はその意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。簡単に言えば、文を理解することは言語を理解することである。 
 文は言語体系の部分としてのみ命をもつ、とも言えよう。だのに人は、文に命を与えるものはその文に随伴する、神秘的な領域にある何かであると想像する誘惑に負けるのである。しかし、たとえ文に随伴するものがありとしても、すべてそれは我々にとってまた一つの記号にすぎぬであろう。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.27-28、大森荘蔵)

2018年7月13日金曜日

記号の意義、意味とは別に、記号に結合する表象がある。それは、対象の感覚的印象や、しばしば感情が浸透している内的、外的な行為の内的な像であり、個人ごとに異なり、移ろいやすい。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号に結合する表象

【記号の意義、意味とは別に、記号に結合する表象がある。それは、対象の感覚的印象や、しばしば感情が浸透している内的、外的な行為の内的な像であり、個人ごとに異なり、移ろいやすい。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(1)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(2)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

(再掲)
記号、意義、意味の間の関係(1)

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味              =一つの対象
 記号 → 一つの意義 →(意味がない場合)
 ※上記の関係が成立するには、文脈の指定が必要になることがある。

記号、意義、意味の間の関係(2)

 一つの対象─┬→意義a →表現a1、表現a2、表現a3、……
=一つの意味 ├→意義b →表現b1、表現b2、表現b3、……
       └→意義c →表現c1、表現c2、表現c3、……

 「一つの記号の意味とも区別されるべきであり、また、その記号の意義とも区別されるべきであるのは、その記号に結合する表象(Vorstellung)である。記号の意味が感覚的に知覚可能な対象であるならば、その対象について私が持つ表象は、私が持っていた感覚的印象を想起することと私が遂行した内的ないし外的な行為とから生成する内的な像(Bild)である。この像には、しばしば感情が浸透しており、個々の部分の明瞭さは千差万別であり、かつ、うつろいやすい。また、同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。表象は、主観的なものである。すなわち、一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』29、フレーゲ著作集4、p.75、土屋俊)
(索引: 表象,記号,意義,意味)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)
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2018年6月23日土曜日

記号、意義、意味の間の関係(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号、意義、意味の間の関係

【記号、意義、意味の間の関係(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
 記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応する。ただし、日常言語においては、この要請を満たさないことが多く、文脈の指定が必要になることがあるが、それで満足しなければならない。また、意義は持つが、意味を持つかどうか疑わしいこともある。逆に、一つの意味(すなわち、一つの対象)に付与される記号は必ずしも一つではない。そして、ある意義は意味の一面を我々に認識させる。すべての側面から意味を認識するためには、あらゆる意義を知る必要があるが、そのようなことは到底我々にはできない。また、同じ一つの意義は、異なる言語によってだけではなく、同一の言語においても異なる表現を有している。

記号、意義、意味の間の関係(1)

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味
             =一つの対象

 記号 → 一つの意義 →(意味がない場合)

 ・上記の関係が成立するには、文脈の指定が必要になることがある。

記号、意義、意味の間の関係(2)

 一つの対象─┬→意義a→表現a1、表現a2、表現a3、……
=一つの意味 ├→意義b→表現b1、表現b2、表現b3、……
       └→意義c→表現c1、表現c2、表現c3、……

 「固有名の意義は、その固有名が属する言語もしくは表記法の全体に十分に通暁しているすべての人によって把握される。しかし、そのことによっては、固有名の意味は、たとえそれが存在するにせよ、依然としてその一面のみが明らかにされたにすぎない。意味をすべての側面から認識するためには、所与のすべての意義について、その意義がその意味に属するか否かを直ちに述べうることが必要である。しかしそのようなことは到底我々にはできない。
 記号、記号の意義、記号の意味というものの間の適法な関係は、記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応するが、しかし、一つの意味(すなわち、一つの対象)に付与される記号はかならずしも一つではないというものである。同じ一つの意義は、異なる言語によってだけではなく、同一の言語においても異なる表現を有している。もちろんこの適法な関係には、例外が存在する。確かに、完璧な記号体系の全体においてはすべての表現に対して、何らかの定まった意義が対応するのが当然であろう。しかし、人々の日常言語(Volkssprahe)は、この要請を満たさないことが多く、したがって、同一の文脈において同一の語が常に同一の意義を持つだけで満足しなければならない。あるいはまた、文法的に正しく構成され、かつ、固有名の代りとなる表現が常に一つの意義を持つということは承認することができるが、それにもかかわらず、その意義に対して一つの意味が対応するか否かということは、そのことによっては述べられていない。例えば、「地球からもっとも離れた天体」という言葉は、一つの意義を持つが、この言葉が一つの意味を持つかどうかは非常に疑わしい。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』27-28、フレーゲ著作集4、pp.73-74、土屋俊)
(索引:記号、意義、意味)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年6月22日金曜日

固有名の意義とは? 固有名の意味とは?(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

固有名の意義、固有名の意味

【固有名の意義とは? 固有名の意味とは?(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

記号   ⇔ 記号の意義   ⇔ 記号の意味

固有名    記号によって    記号によって
       表現された     表示された
       対象の様態     特定の対象

宵の明星 ⇔ 太陽が沈んだ後、⇔(金星)
       西の空にどの星
       よりも先に、一
       番明るく輝いて
       いる星。

明けの明星⇔ 太陽が昇る前に、⇔(金星)
       東の空にどの星
       よりも後まで、
       一番明るく輝い
       ている星。

金星   ⇔ 太陽系で、太陽 ⇔(金星)
       に近い法から二
       番目の惑星。

 「例えば、a,b,cが、それぞれ三角形の各頂点とその対辺の中点とを結ぶ線分であるとしよう。このとき、aとbとの交点は、bとcとの交点と同一である。したがって、我々は同一の点に対して二つの異なる表記を得たことになる。そして、この二つの名前、すなわち、「aとbとの交点」と「bとcとの交点」という二つの名前は、また同時に、表示されたものの与えられる様態をも示す(deuten)ゆえに、この文には、実質的(wirklich)な認識が含まれることになる。
 従って、記号(名前、語結合(Wörterverbindung)、文字)に結び付くものとして、その記号によって表示されたもの、すなわち、記号の意味(Bedeutung)と呼ぶことのできるものに加えて、記号の意義(Sinn)と私が名づけたいものを考慮するべきである。そして、表示されたものの与えられる様態は、その記号の意義の中に含まれることになる。この考え方に従うならば、上述の例に関しては、「aとbとの交点」という表現の意味と「bとcとの交点」という表現の意味とは同一であるが、この二つの表現の意義は異なることになる。同様に、「宵の明星」と「明けの明星」の意味は同一であるが、それらの表現の意義は同一ではないということになるであろう。
 以上の議論の脈絡から明らかになることは、まず私がここで「記号(Zeichen)」や「名前(Name)」として理解しているものが固有名(Eigenname)の役割を果たす何らかの表記手段であるということと、それゆえに、その記号法の意味は特定の対象(Gegenstand)(ただし、この語を最も広い意味において理解するとして)であり、他の論文でさらに詳しく検討するはずの概念(Begriff)や関係(Beziehung)ではないということである。また、一つの個別的な対象を表示する記号が、複数の語、あるいは、その他の記号から構成されているということもありうる。したがって、簡単のためにそのような機能を果たす表記を一括して固有名と名づけることが許されるであろう。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』26-27、フレーゲ著作集4、pp.72-73、土屋俊)
(索引:記号、固有名、対象、固有名の意味、固有名の意義)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年1月13日土曜日

問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

紙の上の能動

【問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 いまや、紙に書き留めておくことのできるものは、記憶に委ねない。われわれは、問題の諸項を、最初に示された通りに書き込む。次いで、それらの項がいかなる仕方で抽象されたか、いかなる記号によって表示されているか、を書く。かくしてこの記号を以って解決を見出した後、われわれはその解決を、容易に、記憶の助力を少しも借らずして、始め問題となっていた特殊な主体に適用しうるであろう。
 「今や一般的に、絶えざる注意を必要とせずかつ紙に書きとめておくことのできる事物は、決して記憶に委ねないように、注意すべきである。すなわち、不必要な記憶の努力が、われらの精神の一部を、現前の対象の認識からはずれさせることのないようにすべきなのである。そして一覧表を作るべきである。――これへわれわれは、問題の諸項を、最初に示された通りに書き込む。次いで、それらの項がいかなる仕方で抽象されたか、いかなる記号によって表示されているか、を書く。かくしてこの記号を以って解決を見出した後、われわれはその解決を、容易に、記憶の助力を少しも借らずして、始め問題となっていた特殊な主体に適用しうるであろう。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一六、pp.127-128、[野田又夫・1974])
(索引:紙の上の諸項、記憶、抽象、記号)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月12日金曜日

悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものを理解しようとするときは、その観念を、判明に想像力の中に形成すべきである。このとき、この観念を表現する物自体(モデル)を、外部感覚に示すと、理解を容易にする。ところで、多数の事物を、判明に理解するということは、その多数の事物の多様性のなかから、注意する必要のない属性をすべて除去し、本質的な属性を引き出すことである。さらに、この抽出された観念は、物自体として表現するよりも、むしろ物のある省略された形(記号)で示すことにより、より理解を容易にする。
 「それはこうである。悟性は想像力によって動かされ、また逆に想像力に働きかけることができ、同様に想像力は運動力を介して感覚に働きかけてそれを対象に向かわせ、また逆に感覚は想像力に働いてその中に物体の像を画くことができ、しかしてかの記憶なるものは、少なくともそれが身体的であって獣の記憶と同様である限り、想像力と別のものではない、のであるから、人は確実に次の結論に達する。悟性は、物体的なもの乃至は物体に似たものを少しも含まぬ事柄に携わる時、上の諸能力の助けを借りることはできない。かえって、それらに妨げられるために、感覚を遠ざけ、かつ想像力をあらゆる判明な印象から、できる限り除き去るべきである。しかしながら、もし悟性が、何か物体に関係をもちうるものを、吟味しようと企てるならば、そのものの観念を、できるだけ判明に、想像力の中に形成すべきである。しかして、より容易にこのことを成し遂げるには、この観念の表現する物自体を、外部感覚に示すべきである。ところで事物が多数あっても、その一々を悟性が判明に直感する助けとはなりえない。で、しばしば多くのものの中からただ一つを抽き出す必要があるが、それには、事物の観念からして現在注意する要のないものをすべて除去し、残部がより容易に記憶に留められるようにすべきである。そして同様にして、この時物自体を外部感覚に示すべきではなくむしろ物の或る省略された形を示すべきであり、この形は、記憶の誤りを避けるに足りさえするなら、小さければ小さいほど都合がよいであろう。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、pp.77-78、[野田又夫・1974])
(索引:悟性、想像力、観念を表現する物自体、捨象、抽象、物の省略された形、モデル、記号)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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