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2019年8月1日木曜日

一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的な原則の特徴

【一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
 (1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
 (2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
  (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
  (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
   (a)重要性
   (b)意図的な変更を受けないこと
   (c)道徳的犯罪の自発的な性格
   (d)道徳的圧力の形態
 (3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
 (4)法:実際に在る法

 「正義というのは、個人の行動にではなく、さまざまな《部類》の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。このことによって、正義は法や他の公的ないしは社会的制度を批判するさい、特別な重要性をもつのである。それは徳のうちでもっとも公的なそしてもっとも法的なものである。しかし正義の原則は道徳の観念をすべて含んではいない。だから、道徳的な基礎からなされる法についてのすべての批判が、正義の名においてなされるわけではない。ある法は道徳的には個人がしてはいけないとされる行動を求めているという単にそれだけの理由によって、あるいは、道徳的には義務的である行動を差し控えるよう求めているという理由で、そのような法は道徳的に悪であると非難されるかもしれない。
 それゆえ、道徳に属しそして行為を道徳的に義務づけるような、個人の行為に関する、これらの原則 principles、ルール、基準 standards を、一般的な用語で特徴づけることが必要である。ここで、われわれは二つの関連した困難に直面する。まず第一に、「道徳」という言葉、および「倫理」というようにそれと関連しあるいはほとんど同義の他のすべての用語は、それ自身かなりの曖昧な部分や「開かれた構造」をもつのである。ある人は道徳と分類するだろうが、他の人はそうしないような一定の形態の原則やルールがある。第二に、以上の点に関して合意が存在し、一定のルールや原則が疑いもなく道徳に属するものとして受けいれられているところにおいてさえ、それらの《地位》、つまりそれが人間の他の知識や経験に対してどのような関係にあるのかについて、大きな哲学的な不一致がまだ存在するかもしれない。それらは人間によってつくられたのではなく、人間の知性によって発見されるのを待っている宇宙の構造の一部を形成する不変の原則なのであろうか。それとも、それらは変化する人間の態度、選択、要求、感情の表現なのであろうか。これらは道徳哲学における二つの極端をぞんざいに方式化したものである。それら両極端の間に、多くの複雑で微妙な変形が存在するのであり、哲学者たちはそれらを道徳の性質を解明するため努力するなかで発展させたのである。
 これから後において、われわれはこれらの哲学的な困難さを取り除こうとするのである。われわれは、後に「重要性」、「意図的な変更を受けないこと」、「道徳的犯罪の自発的な性格」、「道徳的圧力の形態」という見出しの下で、4つの基本的な特徴を確認するのであるが、それらの特徴は、もっとも一般的に「道徳」とみなされている行動に関する原則、ルール、基準のなかに常に一緒に見い出されるのである。 これらの4つの特徴は、そのような基準が社会生活や個々人の生活において演じている特徴的で重要な機能のさまざまな側面を反映している。このことによってのみ、これら4つの特徴をもつものをすべて、別々の考慮のために、なかんずく法との対比および比較のために、区分することは正当化されるだろう。さらに道徳がこれらの4つの特徴をもつという主張は、その《地位》や「基本的」性格について対立する哲学理論にはかかわらないのである。たしかに、すべてとは言わないまでもほとんどの哲学者は、これら4つの特徴がすべての道徳的ルールや原則に必要であることに同意するであろう。もっともその場合、彼らは道徳がそれらの特徴をもつという事実については非常に異なった解釈や説明をするだろう。これらの特徴は、道徳と、もっと厳密なテストによれば道徳から除外されるような、行動に関する一定のルールや原則とを区別するのに必要であるだろうけれども、《ただ》必要であるだけであって、十分ではないとして反論されるかもしれない。われわれは、そのような反論が基礎としている事実には言及するだろうが、われわれは広い意味での「道徳」を支持する。そうするのが正しいと考えるのは、多くの慣用法と一致するからであり、またこの広い意味でのこの言葉があらわすものは社会生活および個人生活において重要で明白な機能を演じているからである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.183-184,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的な原則の特徴,行動規則,正義の原則)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年7月31日水曜日

司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

何らかの観点による「在るべきもの」

【司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(b)追記。

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
   たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)大部分の裁判官が任務を果たす際の基準として、どのようなルールを受け入れているのかは、事実問題である。
   (b.1)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
   (b.2)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言えない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破ることができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違いである。
   (b.3)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀である。
   (b.4)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる。

  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものだろうか。
  (a)このケースでの「べき」は、道徳とは関係のないものであろう。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これも恐らく違うだろう。
  (c)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 「判決を最終的で権威あるものとしているルールのうしろに隠れて、裁判官達が一緒になって現行のルールを拒否し、議会のもっとも明白な立法さえも裁判官の判決に何らかの制約を課しているとみなさなくなることはもちろん可能なのである。裁判官のなす裁定の過半数がこのような性質をもっており、しかも受けいれられていたとすれば、これがその体系を変形させることになるのであって、それはあるゲームをクリケットから「スコアラーの裁量」に変更させたのと同様である。しかしこのような変形の可能性が常にあるからといっても、現存する体系が、それについてその変形がなされた場合に考えられるような体系と同じだということにはならない。いかなるルールも、違反や拒否がなされないように保証することはできないのであって、それは人間というものが、心理的、物理的にルールを破ったり、拒否したりすることがありえないとはいえないからである。そして、もしそのようなことが十分長期間にわたって行なわれたとすれば、そのルールは存在しなくなるだろう。しかし、およそルールが存在する場合、破壊に対して何が何でも保証がなくてはならないということは必要ではない。ある時点で、裁判官が国会や議会の立法を法として受けいれるよう要求するルールが存在すると言うときには、そこではまずその要求が一般的に従われており、個々の裁判官が逸脱したり拒否したりするのは稀であること、また第二に、逸脱や拒否が生じたときまたは生じたならば、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる、または扱われるであろうということが含まれる。そして第二の場合については、たとえ、特定の事件に関してそこから生じる判決の結果は、立法がその正しさではなくてその妥当性を認める場合を別とすれば、判決の最終性に関するルールがあるために打ち消されないとしても、そのように扱われ、扱われるだろうということが含まれる。人はあらゆる約束を破ることができるだろうということは、論理的に可能であって、おそらく最初はそうすることは悪いという意識をもつが、やがてこのような意識をもたないでそうするだろう。その場合には、約束を守ることは義務であるとするルールは存在しなくなるといえよう。しかしこのことは、このようなルールが現に存在せず、約束は現に拘束力をもたないという見解を支持するには薄弱である。裁判官が現行の体系を破壊しうるということにもとづいて、同じようなことを彼らについてしてみても、それ以上にはできないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.159-160,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:在るべきもの,半影的問題,在る法,ルールの存在)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年5月3日金曜日

たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における何らかの「べき」観点の必要性

【たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1.2)追記。

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)大部分の裁判官が任務を果たす際の基準として、どのようなルールを受け入れているのかは、事実問題である。
  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものだろうか。
  (a)このケースでの「べき」は、道徳とは関係のないものであろう。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これも恐らく違うだろう。
  (c)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 「この権威的な決定という例から学ぶべき第二の教訓は、一層基本的な事柄にかかわっている。得点のルールには他のルールと同様に、スコアラーが選択を行なわなければならない開かれた構造の領域があるにもかかわらず、確定された意味をもった核があるという理由で、普通のゲームと「スコアラーの裁量」のゲームとを区別することができる。スコアラーが離れることができないのはこの核であり、そしてそのかぎりで、競技者が得点に関する公式の陳述をなす場合にも、またスコアラーが公式の裁決をなす場合も、ともに得点の記録が正しいかどうかの基準となっている。スコアラーの裁決は、最終的ではあっても誤ることがないのではないという主張が、正しいと考えられるのはこのことによるのである。同じことが法についても当てはまる。
 スコアラーのなしたいくらかの裁決が明らかに間違っていても、ある点まではゲームの継続の妨げにはならない。それは明らかに正しい裁決と同じであるとみなされる。しかし間違った決定の容認が、ゲームの継続と両立できる範囲には限りがあって、このことは法においても非常に類似している。単発的なあるいは例外的な公式な間違いが容認されるという事実は、クリケットや野球がまだ行なわれているということを意味している。他方、これらの間違いがしばしばなされるか、あるいはスコアラーが得点のルールを拒否するならば、競技者はもはやスコアラーの間違った裁決を受けいれないような段階、または受けいれてもそのゲームは変わったものになってしまうような段階がくるにちがいない。それはもはや、クリケットや野球ではなくて、「スコアラーの裁量」である。というのは、これらのゲームの決定的な特徴は、一般に、ルールの開かれた構造がスコアラーにどれだけ自由な幅を残すにせよ、ルールの明白な意味が要求する方法でゲームの結果が評価されるべきだという点にあるからである。考えられるある状況では、行なわれているゲームがまったく「スコアラーの裁量」であると言うべきであるが、しかしすべてのゲームにおいてスコアラーの裁決が最終的であるという事実は、すべてのゲームが「スコアラーの裁量」であるということを意味しない。
 裁判所の判決のユニークさは特定のケースで何が法であるかを最終的、権威的にのべるところにあるとするルール懐疑主義の形態をわれわれが評価するとき、上記の差異は心に留めておかれなくてはならない。法の開かれた構造は、スコアラーに対してよりもはるかに広く、重要な法創造の権能を裁判所にゆだねているのであって、スコアラーの裁定は法を創造する先例として使われないのである。すべての人々に対して明白だと思われるようなルールの範囲にある事柄と、論争の余地がある境界線上の事柄のいずれに関しても、裁判所が決定したことはすべて立法により変更されるまでは存続する。立法の解釈についてもまた、裁判所は同一の最終的、権威的発言権をもつだろう。しかし、裁判所の体系を定め、最高裁判所が適切だと考えるものはすべて法であると規定する憲法と、合衆国の現行の憲法またはこの点に関するいかなる現代の国家の憲法との間には、やはり差異が存在する。「憲法(または法)とは、どのようなものであれ、裁判官がそれだと言うものである」ということは、もしこの区別を否定するものと解釈されるなら、それは誤りである。いかなる時点でも、裁判官はたとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしており、その体系のルールの中心部は正しい判決の基準を提供できる程度に十分確定しているのである。裁判所は、その体系内では争うことのできない判決を下す権限を行使するさいに、これらを無視することができないものとみている。任務につくいかなる裁判官も、スコアラーの場合と同様に、議会における女王が制定するものは法であるというルールのようなルールが、伝統として確立され、任務を果たすさいの基準として受けいれられていることを見い出す。これは職務につく者の創造的活動を許容すると同時に、制限している。たしかにこのような基準は、ときの裁判官の大部分がこれを守るのでなければ、存続することができない。というのは、いかなる場合にも基準が存在するということは、それが正しい裁判の基準として受けいれられ、使用されることだけから成りたっているからである。しかしこのことによって、これらの基準を使用する裁判官がその創設者とされたり、ホードリーの言葉によれば、好むところにしたがって決定することのできる「立法者」とされたりするのではない。基準を維持するには、裁判官がそれを守ることが必要であるが、しかし裁判官はそれをつくるものではないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.157-159,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:半影的問題,べき観点,難解な事案)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月30日火曜日

最高裁判所は、何が法であるかの最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化からの逸脱と思われる場合がある。決定の最終性は、無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

司法的決定の最終性と無謬性

【最高裁判所は、何が法であるかの最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化からの逸脱と思われる場合がある。決定の最終性は、無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.2)追記。

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))
(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
検索(ロン・フラー)

 (3.1)難解な事案における裁判官の決定が、新たな法を創造していると見なすことが、妥当とは思えない場合がある。
  (a)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (b)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」と見なすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化から逸脱していると思われる場合がある。すなわち、決定の最終性は無謬性とは異なる。
 (3.3)日常言語においても、次のような事実がある。
  (a)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (b)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (c)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

 「最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権をもっており、それが言明されたときは、裁判所が「間違っている」と言ったところで、その体系のなかではいかなる効果ももたない。つまりそれにより誰の権利も義務も変更されることはないのである。その判決はもちろん立法により法的効果を奪われることがあるが、この方法をとらなければならないというその事実からして、法に関するかぎり、裁判所の判決が間違っていると言っても空しいものであることが明らかになる。これらの事実を考えると、最高裁判所の判決については、その最終性と無謬性とを区別することはいかにもペダンティックであるように思われる。このことは、裁判所が判決するさいには常にルールにより拘束されていないということを別の形で主張することになる。すなわち、「法(または憲法)とは、裁判所がそれだと言うものである」。
 この形の理論のもっとも興味深く、そして教訓的な特徴は、「法(または憲法)とは、裁判所がそれだと言うものである」という陳述のような曖昧さを利用していることと、法に関して公機関以外の陳述と、裁判所が行なう陳述との関係について、この理論が首尾一貫するためにはしなければならない説明の仕方とである。この曖昧さを理解するために、ゲームの場合との類似性に目を向けてみよう。多くの競技は、公式のスコアラーなしに行なわれている。競技者の関心が互いに競い合っているにもかかわらず、彼らはかなりうまく個々のケースに得点のルールを適用している。彼らの判断は普通一致するのであって、解決されないような対立はほとんどない。公式スコアラーの制度ができる以前は、競技者による得点の陳述は、彼が正直であれば、そのゲームで容認されている個々の得点のルールを参照することによりゲームの進行を評価しようとする努力をあらわしている。このような特定の陳述は、得点のルールを適用する内的陳述であって、これは一般に競技者がルールを守るだろうこと、もし違反すれば異議を唱えるだろうことを前提としているけれども、これらの諸事実に関する陳述ないし予測ではない。
 慣習の体制から成熟した法の体系への変化と同様に、最終的な裁判権をもつスコアラーの制度を定める第2次的ルールをそのゲームに付加することは、その体系に新しい種類の内的陳述をもちこむのである。というのは、得点に関する競技者の陳述とは異なって、スコアラーの決定は、これを争うことができないような地位を第2次的ルールによって与えられるからである。《この》意味でたしかにゲームの目的にとって、「得点とはスコアラーがそれだと言うものである。」しかしここで注意しなければならないことは、得点の《ルール》が以前のままであることであって、これを自己の最善をつくして適用することがスコアラーの義務なのである。「得点とはスコアラーがそれだと言うものである」ということが、スコアラーが自己の裁量で適用しようとするもの以外には、得点に関するルールは何もないということを意味するなら、それは誤りであろう。このようなルールをもったゲームが実際にあるかもしれないし、もしスコアラーの裁量がいくらかの規則性をもって行使されるなら、そのゲームをしてもある程度は楽しいかもしれない。だが、それは別のゲームになってしまう。われわれは、このようなゲームを「スコアラーの裁量」のゲームと呼ぶことができるだろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.154-155,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:司法的決定の最終性と無謬性,最高裁判所)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2019年4月29日月曜日

社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能なルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識、直感的な行為自体が示すルールもあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

記述可能なルールと、行為が示すルール

【社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能なルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識、直感的な行為自体が示すルールもあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.1)追加。
(2.3)追加記載。
(2.4)追加。

(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。
 人が、あるルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更されえないものとしてこれを受けいれているとは、どのようなことか。
 (2.1)ルールの存在は事実の問題
  ルールが存在するかどうかは、ある状況における行為の仕方、心理的な思考過程に関する、ある事実が存在するかどうかの問題であり、証拠によって裏付けられるようなものである。
 (2.2)外的視点
  (a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返される。
  (b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
  (c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。
 (2.3)内的視点
   「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)行動様式に関する共通の基準が存在する。
  (b)行為の正当な理由:なぜ、その行為が正しいのかと理由が求められたとき、そのルールが参照される。また、行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当化される。
  (c)批判的態度:基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十分な理由として受け容れられている。
  (d)反省的態度:批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
  (e)一致への要求
   逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられている。
  (f)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
   (e.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
   (e.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろう。
   (e.3)個人の、恥、自責の念、罪の意識という感情の働きに、任されている場合もあるだろう。
   (e.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もあるだろう。
  (g)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
   批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例えば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」。

 (2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
  (a)ルールについて、行為者が意識的に考慮すること、またルールの容認を表明することとは、必ずしもルールの存在の要件ではない。
  (b)状況に応じた無意識的、直感的な行為が、あるルールの存在を示している場合もあり得るだろう。
  (c)別のルールに動かされている人が、見せかけやごまかしで、あるルールの容認を表明する場合もあり得るだろう。
  (d)事実として存在し、また同時に明確な基準として意識されているルールに、一致しようとする真の努力によって、行為が導かれている場合もあり得るだろう。
  (e)一般的でしかも仮定的な用語で記述され得るルールも存在するし、記述するのが難しいルールも存在し得るだろう。

 (2.5)感情
  (a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験する。
  (b)社会的ルールと感情との関係
   感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。


 「ときには、裁判所を拘束するルールの存在が否定されることがあるが、それは、一定の仕方で行動する人が、その行動により、彼にそうせよと要求するルールの容認を表明したのかどうかの問題が、当人が事前にか、または行為中にたどった思考過程に関する心理上の問題と混同されているためである。人がルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更されえないものとしてこれを受けいれるとき、彼はルールが一定の状況において要求することをまったく直感的に理解し、そのルールとルールの要求をまず考えることなしに、そうすることはよく見られることである。われわれが、ルールに従ってチェスの駒を動かしたり、赤信号で停止するとき、われわれの行動はルールに一致するとはいっても、しばしばその状況に対する直接の反応であって、ルールの観点からの考慮を経ていない。このような行動が、当該ルールの真の適用 genuine applications of the rule であるという証拠は、それらがある状況の下にあるということに見い出される。そのうちのいくつかは、個々の行為より先になされて、他がこれに追随しており、それらのいくつかのものは、一般的でしかも仮定的な用語でのみのべられるものである。行為するさいに、われわれがあるルールを適用したということを示すこれらの要素のうち、もっとも重要なものは、《もし》われわれの行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当化しようとすることである。われわれが真にこのルールを受けいれていることは、過去から引き続いてこれを一般的に承認し、またこれに一致しているということによってだけでなく、われわれが自分達や他人の逸脱を批判することによっても、表明されているのである。このような証拠やこれに類似する証拠にもとづいて、われわれはたしかに次のように結論できるだろう。すなわち、われわれがルールのことを「考えることなく」これに一致して行動する前に、どうすることが正しいのか、その理由は何であるかを答えるよう求められていたとしたら、正直であるかぎり、そのルールをもち出して答えたであろうということである。あるルールを真に順守する行動と、たまたまルールと一致したにすぎない行動とを区別するのに必要なものは、そのような状況のもとにわれわれの行為があるということなのであって、そのルールについてはっきりと考えて行動するということではない。大人のチェス・プレーヤーが受けいれられたルールへの一致という形でチェスの駒を動かすことと、赤子がチェスの駒を押して正しい場所へ移動させたにすぎない行為とを区別するのは、こんなふうにしてである。
 こう言ったとしても、みせかけや「ごまかし」がありえないとか、それが成功しないこともあると言っているのではない。ある人が、《後になってから》自分はルールにもとづいて行動したのだというふりをしているかどうかのテストは、すべての経験的テストと同様に、本来誤りやすいものではあるが、しかし常にそうであるわけではない。ある社会では、裁判官がいつもまず直感的にまたは「勘により」決定に到達し、その後で法的ルールの目録から一つを選びだし、これこそ当該事件に似ているのだというふりをするにすぎないこともある。その場合、裁判官はその言動からすれば、選んだ法的ルールが彼らを拘束するものと考えているようなそぶりを何も示さないとしても、このルールこそは彼らの決定を命じているものだと彼らは考えていると主張することもあろう。いくらかの判決はこのようであるかもしれないが、大部分の判決の場合には次のようなことが確かに明らかなのである。すなわちそれらの判決は、大部分はチェス・プレーヤーの指し手と同様に、それぞれ判決を導く基準として意識的に採用したルールに一致しようとする真の努力によって得られるか、またはもし直感的に引き出されたとしても、その裁判官が以前から守ろうとしているルール、しかも当該事件にとっても重要であることが一般に認められているようなルールによって正当化されているのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第2節 ルール懐疑主義の多様性,pp.152-154,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:社会的ルール,ルールの外的視点,ルールの内的視点,記述可能なルール,行為が示すルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月25日木曜日

選択肢の非一意性と選択の必要性の認識は、以下の目的にとって重要である。(a)想定され得なかった事実の構造の解明、(b)用語の新たな解釈、より正確な概念の解明、(c)新たな問題の解決と目的の明確化。(ハーバート・ハート(1907-1992))

形式主義、概念主義、法律家の「概念の天国」

【選択肢の非一意性と選択の必要性の認識は、以下の目的にとって重要である。(a)想定され得なかった事実の構造の解明、(b)用語の新たな解釈、より正確な概念の解明、(c)新たな問題の解決と目的の明確化。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.4.2)追記。

(4)半影的問題における決定の本質
  半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法の不完全性
  法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法の中核の存在
  法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
   法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

  (4.3.1)むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神ではなくて人間だから、このような「選択の必要性」を負わされているのである。
  (4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
   この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
  (4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
   (a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定めている。
   (b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となっている論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定したものにされていく。
 (4.4)選択肢の非一意性
  (4.4.1)在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
  (4.4.2)ルールの意味を凍結して、選択の必要性を認識しないことは、形式主義、概念主義、法律家の「概念の天国」の誤りに導かれる。
   (a)事実に関する不完全な認識と、予知不可能性から不可避的に生じてくる全く想定していなかった事件、問題に関して、未知の構造を解明しようとする努力がなされず、既存の枠組みへのあてはめが行われる。
   (b)一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる。その結果、様々な事件で問題となっている論点の違いに照らして、その用語を解釈しようとするような努力が行われない。
   (c)新たな事実の構造の中で解明されるべき概念が固定され、新たな問題の解決の中で明確にされるべき目的が固定されることで、概念の一部が不正確になり、もたらされる社会的結果の評価が不十分なものになる。

 (4.5)決定は強制されず、一つの選択である
  存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。


 「さまざまな法体系において、あるいは同一法体系でも時点が違う場合には、一般的ルールを個々の事例に適用するさい、格別の選択をすることの必要性は、無視されたり、多少ともはっきりと承認されたりすることがありうる。形式主義 formalism または概念主義 conceptualism として法理論に知られている欠点は、言葉で定式化されたルールに対してとる態度に見られるのであって、その態度は一般的ルールがひとたび設定されるときは、このような選択の必要性をおおい隠し、また最小限にとどめようとするものである。この一つのやり方は、ルールの意味を凍結して、その一般的用語が、適用問題を生じるすべての場合に、同一の意味をもたねばならないとすることである。このことのためには、明瞭な事例に存在するある特徴に注目して、これらの特徴が、その特徴をもっているすべての事柄をルールの範囲内に入れるための、必要で十分な条件であると主張すればよいのであって、そのさいその特徴をもっているすべての事柄が他の特徴をもっているかどうか、またこのようにルールを適用することの社会的結果がどうであるかは問うところではないのである。こうすることは、われわれの知らない構造をもった一連の未来の事例について、どう扱ってよいかわからないまま予断するという犠牲を払って、ある程度の確実性または予測可能性を確保することになる。そうすることで、われわれは実際、論点が生じて確認されたときにだけ合理的に解決できるにすぎないものを、事前に、しかし、知らないままでも解決することに成功するだろう。このようなやり方で、われわれが合理的な社会的目的を実現するためには、除外したいと思うような事件や、もしそれ程厳密に定義していなかったとしたら、言語の開かれた構造をもった用語からすれば排除してもよいような事件を、あるルールの範囲内に包含せざるをえないようになるだろう。われわれが厳密に分類するということは、そのルールをもち、維持しようとする目的と、このように争うことになるだろう。
 この仮定のゆきつくところが法律家の「概念の天国」the jurists' 'heaven of concepts'である。これが達成されるのは、一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる場合である。そこでは、繰り返し生じるさまざまな事件で問題となっている論点の違いに照らして、その用語を解釈しようとするような努力は、まったく求められもしなければ、行なわれもしないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,pp.141-142,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:形式主義,概念主義,法律家の「概念の天国」,選択肢の非一意性,選択の必要性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2019年4月20日土曜日

法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法の不完全性

【法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.3)追記。

  半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)それにもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。この基準は、何だろうか。
 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
  (1.2.1)このケースでの「べき」は、道徳とはまったく関係のないものである。
  (1.2.2)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 (1.3)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
 (1.4)しかし、在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))
(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
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 (3.1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
  (3.1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (3.1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)日常言語においても、次のような事実がある。
  (3.2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (3.2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (3.2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(4)半影的問題における決定の本質
  半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法の不完全性
  法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法の中核の存在
  法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)事実認識の不完全性と目的の不確定性
  (4.3.1)むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神ではなくて人間だから、このような選択の必要性を負わされているのである。
  (4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
   この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
  (4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
   (a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定めている。
   (b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となっている論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定したものにされていく。
 (4.4)選択肢の非一意性
  在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
 (4.5)決定は強制されず、一つの選択である
  存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。


 「行動の基準を伝達する手段として、先例または立法のいずれが選ばれるにせよ、それらは、大多数の通常の事例については円滑に作用したとしても、その適用が疑問となるような点では不確定であることがわかるだろう。それらには《開かれた構造》an open texture と呼ばれてきたものがあるだろう。われわれは今まで、これを立法の場合につき、人間の言葉の一般的特徴としてのべてきた。つまり、境界線上の不確定さというものは、事実問題に関してどんな伝達の形態をとったとしても、一般的分類用語を使用するかぎり支払わなければならない代償なのである。英語のような自然言語がこのように使われるとき、開かれた構造になることは避けられない。しかし、このように伝達は開かれた構造という特色をもった言語に実際は依存しているが、それを別にしても、われわれは、特定の事例に適用されるかどうかの問題が常に事前に解決されており、実際の適用にあたって、開かれた選択肢からの新たな選択を決して含まないような詳細なルールの概念を、なぜ理想としてさえ抱くべきでないのかという理由を認識することが重要である。その理由を簡単に言えば、われわれが神ではなくて人間だから、このような選択の必要性を負わされているのである。個々の場合について、公機関による格別の指令を待たずに使えるような一般的基準により、明白にそして事前に何らかの行動領域を規律しようとするときはいつでも、関連する二つの困難の下で苦労することが、人間の(したがって立法の)置かれた状況の特色である。第一の困難は、事実についてわれわれが相対的に無知であること、第二はわれわれの目的が相対的に不確定であることにある。もしわれわれの住んでいる世界の特徴が限られており、しかもそれらがそのすべての結合の方法を含めてわれわれに知られているとしたら、あらゆる可能性に対して事前にそなえることができるだろう。個々のケースへの適用につき、格別の選択をなす必要がないようなルールを作ることもできるだろうし、あらゆることを知ることができ、その結果あらゆることに対してルールが事前にあることをし、また特に定めておくこともできるだろう。これが「機械的」法学 'mechanical' jurisprudence に適した世界であろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,pp.139-140,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
 「われわれの世界がこうでないことは明らかであり、人間たる立法者は将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を知りつくすことはできない。こうした予知の不可能性から、目的について相対的な不確定性がもたらされることになる。われわれがあえて何らかの一般的な行為のルール(たとえば公園内に乗り物を乗り入れるべからずというルール)を作成するとき、この文脈で使われる文言は、いかなる事柄も、その範囲内に入ろうとするかぎり満たさなくてはならない必要条件を確定しており、その範囲内にあることが確かであるような事柄のある明瞭な事例が、われわれの心に浮んでくるだろう。それらは範例であり、明白な事例(自動車、バス、オートバイ)なのであって、われわれの立法目的はすでにある選択をなしているので、そのかぎりで確定されているのである。公園内での平和と静けさは、これらの乗物を排除するという犠牲を払ってでも維持されるべきであるという問題を、われわれははじめに解決しておいた。他方われわれは、公園での平和という一般的目的を、はじめには考えなかったか、おそらくは考えることができなかった事例(電気で動くおもちゃの自動車)に関連させるまでは、われわれの目的はこの面で確定されていない。われわれは考えたことのない事件が生じたとき、そこで起きるかもしれない問題を、予知しなかったので、それを解決していない。つまり、その問題というのは、公園内のある程度の平和が、これらのものを使って楽しみ喜ぶ子供達との関係で、犠牲にされるべきか、それとも守られるべきかということである。考えたことのない事件が生じるとき、われわれは問題となっている論点に直面するのであって、そのさいもっともよく満足できる方法で、これらの競合する利益間の選択をなすことにより問題を解決することができる。そうすれば、はじめの目的をより確定したものとしているであろうし、ある一般的な言葉がこのルールの目的にとってもつ意味についての問題は付随的に解決しているであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,p.140,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:法の不完全性,事実に関する無知,予知不可能性,目的の不確定性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月14日日曜日

論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

論理的に単一の法体系が存在するための条件

【論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3.1)に追記。
(3.3.3)追記。
(3.3.4)追記。

(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
   「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.1)「せざるを得ない」
  (a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
  (b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
  (c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
 (3.2)「責務を負っている」
  (a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
  (b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
  (c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。
 (3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
  社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
   (a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
   (b)ルールが存在することを拒否する。
   (c)この人々は、ルールに「服従」している。
   (d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含まれている必要がない。
   (e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
  (3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
   (a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
   (b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
  (3.3.3)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
   (a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社会。
   (b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
    「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
  (3.3.4)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
   (a)公機関
    法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱は義務からの違反として、批判される。
   (b)一般の私人
    これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

 「立法者が自分に権能を与えているルールと一致して行なうことを、裁判所が容認された究極の承認ルールを適用するときに行なうことを「服従」という言葉で記述しようとするとき、どうして誤解を生じるのかというと、それはルール(あるいは命令)に従うということは従う人の側の考え、つまり自分の行なうことは彼自身にとっても他人にとってもそうするのが正しいという考えが必ずしも含まれている《必要》がないからである。彼は自分の行なうことがその社会集団の他の人々にとっての行動の基準を実現することであると考える必要はない。彼はルールに従った自分の行動を「正しい」、「適切だ」、「義務である」と考える必要はないのである。言いかえれば、彼の態度は社会的ルールが容認され、行為の諸類型が一般的基準として扱われるときに常に見られる批判的な性格をもつ必要がないのである。彼はルールをその適用を受けるすべての人に対する基準として容認する内的視点を彼らとともにもっているかもしれないが、そうする必要はないのである。その代わりに、彼はそのルールが刑罰の威嚇によって《彼》にその行為を要求するものであるとしか考えていないかもしれない。彼は結果を恐れて、あるいは惰性からそのルールに服従するかもしれないのであって、そのとき彼は自分自身も他人もそうする責務があると考えていないのであり、また逸脱したからといって自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。しかしルールに対するこのような単なる個人的な関与の仕方は、すべての一般人がルールに従うときに見られるものである《かもしれない》が、それは裁判所を裁判所として活動させるルールに対する裁判所の態度を特徴づけることができないのである。このことは、他のルールの妥当性を評価する究極の承認のルールについて、もっとも明らかに当てはまる。究極の承認のルールがいやしくも存在するとすれば、それは内的視点から正しい判決の公的で共通な基準であるとみなされなければならないのであって、それぞれの裁判官が自分なりに従うにすぎないものであるとみなされてはならないのである。体系のそれぞれの裁判官は場合によっては、これらのルールから逸脱するかもしれないが、一般的には裁判所はそのような逸脱を基本的に公的であり共通のものである基準の違反として、批判的に関与しなければならない。これは単に法体系の効率ないし健全さの問題ではなく、論理的には単一の法体系があると言えるための必要条件である。単に何人かの裁判官が、議会における女王の制定するものが法であるということにかこつけて「自分のためにだけ」行動し、そしてこの承認のルールを尊重しない人々を批判しないならば、法体系の特徴ある統一性と継続性は失われるであろう。なぜならそれらはこの決定的な点において、法的妥当性の共通の基準の容認にもとづいているからである。裁判所の行動のこういった気まぐれさと、一般人が裁判所の矛盾した命令に出会ったときに生じる混乱との間で、われわれはその状況をどのように記述するのかと迷うであろう。われわれは《造化の戯れ》lusus naturae に直面しているのであり、それはあまりに明白なのでしばしば注目されないものについてのわれわれの意識を鋭くするという理由だけからも考察に値するのである。
 したがって、法体系の存在にとって必要で十分な二つの最低条件がある。一方において、その体系妥当性の究極的基準に一致して妥当しているこれらの行動のルールは、一般的に従われていなければならない。他方において、法的妥当性の基準を明記する承認のルールおよび変更のルールと裁判のルールは、公機関の活動に関する共通の公的基準として公機関によって有効に容認されていなければならない。第一の条件が私人が満たす《必要のある》唯一のものであって、彼らはそれぞれ「自分なりに」服従しているだろうし、またその服従の動機はどのようなものでもよいということである。しかし健全な社会では、彼らは実際それらのルールをしばしば行動の共通な基準として受けいれ、またそれらのルールに従う責務を認め、あるいはこの責務をたどっていって、憲法を尊重するというさらに一般的な責務に至ることさえあるのである。第二の条件は、体系の公機関によって満たされなければならない。彼らはこれらのルールを公機関の行動に関する共通の基準とみなし、そしてそれぞれ自分自身や他人の逸脱を違反として批判的に評価しなければならない。もちろん、これらのルールのほかに、単なる個人的な資格における公機関に適用される多くの第1次的ルールがあることもたしかであり、彼らはそれらに従うだけでよいのである。」(中略)「法体系を考察するもっとも実りのある方法であるとわれわれがのべた、第1次的ルールと第2次的ルールの結合があるところでは、ルールをその集団にとっての共通の基準として容認することは、一般人が自分なりにルールに従うことによってそのルールを黙って受けいれているという相対的に受動的な状態とは違ってくるだろう。極端な場合(「これが有効なルールだ」という)法的言語の特徴ある規範的使用を伴った内的視点は公機関の世界に限られるかもしれない。この一層複雑な体系においては、公機関だけが法の妥当性に関する体系の基準を容認し、用いるかもしれない。このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。しかし、そのような社会が存在しえないと考えたり、それを法体系と呼ぶのを拒否する理由はほとんどないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第2節 新しい諸問題,pp.125-127,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:せざるを得ない,責務を負っている,法体系)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月9日火曜日

ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルールの存在

【ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3.1)追記。

 (3.3)法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されている。

 (i)究極の承認のルールの適用……事実
 (ii)裁判所を含む一般的な諸活動での容認・使用……事実として確証可能
   ↓
 特定の法体系の妥当性

  (3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題である。
   (a)承認のルールは、裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認する際、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。
   (b)ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。
  (3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
   (a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
   (b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
   (c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
   (d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。

 「一層重要な異議は、究極の承認のルールが妥当するという「想定」について語ることは妥当性に関する法律家の陳述の背後にある第二の前提のもつ基本的に事実的な性質を隠すことになる、というものである。承認のルールが実際に存在しているのは、裁判官、公機関、その他の人々の実際の活動においてではあるが、その活動は明らかに複雑な事柄である。のちに見るように、この種のルールの正確な内容と範囲について、またその存在についてさえ生じてくる疑問には明確なあるいは確定的な答ができないような状況がたしかにある。それにもかかわらず、「妥当性を想定すること」をそのようなルールの「存在を前提すること」から区別することは重要であって、そのような区別をしないとそういったルールが《存在する》という主張の意味が曖昧になるという理由からだけでも重要なのである。
 前章で素描した責務の第1次的ルールの単純な体系においては、あるルールが存在するという主張はそのルールを容認していない観察者が行なうような事実に関する外的陳述でありうるだけであって、この場合その検証は観察者が事実の問題として、ある行動様式が一般に基準として容認されているかどうか、またその様式が単なる一定方向に向かう単なる習慣から社会的ルールを区別する上述の特徴を伴っているかどうかを確認することでなされる。イギリスでは教会に入るときには帽子を取らなければならないという、法的なものではないが、あるルールが存在するという主張を解釈し検証する場合もこの方法によるべきなのである。もしこのようなルールが社会集団の実際の活動のなかに存在していることがわかれば、それらのルールの価値や望ましさはもちろん問題になるけれども、それらの妥当性について別個に議論すべき問題はないのである。一度それらのルールの存在が事実として確証されてしまうと、それらが妥当していることを肯定したり否定したりするならば、あるいはそれらの妥当性を「想定する」が示すことはできないと言ったりするならば、われわれは事態を混乱させるだけであろう。他方、成熟した法体系におけるように承認のルールを含むルールの体系が存在し、したがってルールがその体系の一部であるということが、今や承認のルールの与える一定の基準を満足させているかどうかにかかっているところにおいては、「存在する」という言葉は新しい用い方をされるのである。ルールが存在するという陳述は、それが慣習的ルールの単純な場合におけるように、一定の行動様式が実際の活動のなかで基準として一般的に容認されているという《事実》に関する外的陳述ではもはやないのである。それは、現在容認されてはいるがのべられていない承認のルールを適用し、また(おおざっぱに言えば)「体系に妥当性の基準があるところでは妥当する」ことを単に意味する内的陳述なのである。しかし、他の点と同様にこの点においても承認のルールは体系のその他のルールと異なっている。それが存在するという主張は、事実に関する外的陳述でありうるのみである。というのは体系の下位のルールはたとえ一般的に無視されているとしても妥当するだろうし、その意味で「存在する」だろうが、それに対して、承認のルールは裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認するさいの、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在するからである。その存在は事実の問題なのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.119-120,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:法的妥当性,承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月7日日曜日

法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルールの存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルールの存在、価値、基礎づけ

【法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルールの存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)法的妥当性についての内的陳述
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
(2)事実についての外的陳述
 「あるルールが表現されている法体系は、裁判所や公機関や私人によって用いられている究極の承認のルールによって、承認されている。」

 究極の承認のルール
   ↓
 特定の法体系の妥当性

(3)では、究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか
 (3.1)承認のルールの妥当性は証明不能であり、ひとつの仮説なのか?

  ???
   ↓
 究極の承認のルール……仮説
   ↓
 特定の法体系の妥当性

 (3.2)価値についての陳述なのか?
 「あるルールが表現されている法体系の承認のルールは優れたものであって、それに基づく体系は支持するに値する。」

 究極の承認のルール……価値についての陳述
   ↓
 特定の法体系の妥当性

 (3.3)法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されている。

 (i)究極の承認のルールの適用……事実
 (ii)裁判所を含む一般的な諸活動での容認・使用……事実として確証可能
   ↓
 特定の法体系の妥当性

  (3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題である。
  (3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
   (a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
   (b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
   (c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
   (d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。

 「たしかに、この究極のルールについて多くの疑問がある。このルールがイギリスの裁判所、立法府、公機関あるいは私人の実際の活動において究極の承認のルールとして実際に用いられているかどうかをたずねることができる。あるいは、われわれの法的推論過程は今では放棄されてしまっている体系の妥当性の基準を用いたつまらないゲームだったのだろうか。法体系の満足すべき形式は、まさにそのようなルールを根底にもっていることなのかどうかをきくことができる。そのようなルールは害よりも益をもたらすだろうか。それを支持する十分な理由があるのだろうか。そうする道徳的責務があるのだろうか。これらが極めて重要な疑問であることは明らかであるが、承認のルールについてそれらの疑問を出すとき、それと同じく明らかなのは、われわれが承認のルールの助けをかりて答えたその他のルールに対する疑問ともはや同じ種類の疑問に答えようとしているのではないということである。特定の制定法が妥当するのは、それが議会における女王の制定するものは法であるというルールを満足させているからだ、と言うことから進んで、イギリスにおいてこの最終的なルールは究極の承認のルールとして裁判所や公機関や私人によって用いられていると言うとき、われわれはその体系のあるルールの妥当性を主張する法についての内的陳述から事実についての外的陳述、つまり体系の観察者がたとえ自分はその体系を容認していなくても行なう陳述に移っているのである。同様に、特定の制定法が妥当するという陳述からその体系の承認のルールは優れたものであって、それにもとづく体系は支持するに値するという陳述に移るときもまた、われわれは法的妥当性についての陳述から価値についての陳述に移っているのである。
 承認のルールの法的究極性を強調した人々はこのことを表明するために、体系のその他のルールの法的妥当性は承認のルールを参照することによって証明されうるのに対して、承認のルール自体の妥当性は証明されえないのであって、それは「想定される」か「仮定される」かあるいは「仮説」なのであるとのべた。しかしながら、これは重大な誤解を招くものであろう。裁判官や法律家であれ、あるいは一般人であれ、彼らが法体系の日常の運用のなかで特定のルールが法的に妥当すると言うとき、その陳述はたしかに一定の前提を伴っている。それらは、その体系の承認のルールを容認している人々の観点を表明している法についての内定陳述であって、それゆえそのようなものとして、体系に関する事実の外的陳述ではのべることができそうな多くのことをのべないままにしておくのである。このように、のべないままにされている事柄は法的妥当性についての陳述の通常の背景や文脈を形成し、したがってそれらの陳述によって「前提」されていると言われるのである。しかしそれらの前提とされている事柄が何であるかを正確に理解し、それらの性質を曖昧にしないことが大切である。それらは二つのことからなっている。第一に、ある一定の法のルール、たとえば特定の制定法が妥当すると真剣に主張する人は、法を確認するために適当なものとして容認している承認のルールをみずから利用しているのである。第二に、この承認のルールの観点から彼は特定の制定法を評価するのであるが、この承認のルールは彼によって容認されているだけでなく、その体系の一般的な活動のなかで実際に受けいれられ使用されているのが実状なのである。もしこの前提の正しさが疑われるならば、それを実際の活動、つまり裁判所が法としてみなされるべきものを確認する仕方とその確認が一般に黙認されることとに照らして確証することができるだろう。
 これら二つの前提は、証明されえない「妥当性」の「想定」であると記述しても十分ではないのである。あるルールの体系の一部としての地位が承認のルールの与える一定の基準を満足させているかどうかにかかっているような、ルールの体系《内部》で生じる疑問に答えるために、われわれは「妥当性」という言葉を必要とするにすぎないし、また普通その言葉を用いるだけなのである。基準を与える承認のルールそのものの妥当性についてそのような疑問は生じえない。承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されているのである。承認のルールの妥当性は「想定されるが証明されえない」と、曖昧に言うことによって、この単純な事実を表現することは、メートルによるすべての測定の正しさを究極的に決めているパリのメートル原器が、それ自体正しいことは想定できるが決して証明できないと言うのと同じである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.117-119,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:法的妥当性,内的陳述,外的陳述,承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2019年4月2日火曜日

主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

主権的立法権の存在と最高の承認のルール

【主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

最高の承認のルールとは何か。
(1)法的妥当性の基準、法源が「最高」であるとは、
 (a)ある承認のルール:最高の承認のルール、究極のルール
 (b)別の承認のルール
 (a)の基準に照らして確認されたルールが、他の諸基準(b)に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認される。逆に、(a)以外の諸基準に照らして確認されたルールは、(a)の基準に照らして確認されたルールと衝突すれば、承認されない。
(2)「最高」と「無制限」は混同されやすいが、別の概念である。
 (2.1)憲法の条項のなかに、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、その最高性が直ちに無制限な立法権を意味するものではない。
 (2.2)憲法が、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、特定の条項を改正権の範囲外におくことによって、明示的に、立法権限を制限している場合もある。
 (2.3)従って、「すべての法体系は、法的に無制限な主権的立法権の存在を前提としている」という理論は、誤りである。

 「体系の他のルールの妥当性の評価基準を与えている承認のルールはわれわれが明らかにしようと試みる重要な意味をもっており、《究極の》ルール the ultimate rule である。そして普通見られるように、いくつかの基準が相対的な従属と優越という順序に位置づけられているところではそのうちの一つが《最高》supreme なのである。承認のルールの究極性とその基準のうちの一つがもつ最高性というこれらの観念は注目に値する。われわれが拒否した理論から、つまりすべての法体系のどこかに、たとえそれが法的形式の背後にあっても、法的に無制限な主権的立法権が存在しなければならないという理論から、これらの観念を解き放すことは重要である。
 最高の基準と究極のルールというこれら二つの観念のうち、第一のものは非常に容易に定義できるものである。法的妥当性の基準あるいは法源が最高であると言ってよいのは、その基準に照らして確認されたルールが、たとえその他の諸基準に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認されるのであるが、それにひきかえ他の諸基準に照らして確認されたルールは最高の基準に照らして確認されたルールと衝突すればそのようには承認されないという場合である。比較の観点から、われわれがすでに用いた「優越的」基準や「従属的」基準という概念について、同じような説明をすることができる。優越的基準や最高の基準という観念は単に尺度上の《相対的》位置に関係しているだけで、法的に《無制限》な立法権というどんな観念をも意味していないことは明らかである。しかし、「最高」と「無制限」ということは少なくとも法理論上では容易に混同されるものである。その一つの理由は、より単純な形態の法体系において究極の承認のルール、最高の基準、法的に無制限な立法府という諸観念が一致してくるように思えることである。 というのは、立法府が何ら憲法的制限に服さず、みずからの制定法によって自己以外の源から生じるその他の法のルールすべてから法としての地位を取り去る権限をもっているところでは、その立法府の制定法は妥当性の最高の基準であるということが、その体系の承認のルールの一部になっているからである。憲法理論によれば、これがイギリスにおける立場なのである。しかし立法府がそのように無制限ではないアメリカ合衆国の体系のような諸体系においてさえ、妥当性に関して一つの最高の基準を含む一組の諸基準を与える究極の承認のルールが完全にとりこまれているだろう。改正権を規定していないかあるいはいくつかの条項を改正権の範囲外におく憲法によって通常の立法府の立法権限が制限されているところでも、そのとおりの状況であろう。「立法」という言葉をもっとも広く解釈したとしても、ここでは法的に無制限な立法府は存在していないのであるが、その体系はもちろん究極の承認のルールを含んでいるし、憲法の条項のなかに妥当性に関する最高の基準を含んでいるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.115-116,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:主権的立法権の存在,最高の承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月27日火曜日

25.個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の個人に与えるという第2次的ルールが、裁判のルールである。他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含まれる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

裁判のルール

【個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の個人に与えるという第2次的ルールが、裁判のルールである。他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含まれる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 (2.3)ルールの非効率性
  (2.3.1)ルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こり、絶え間なく続く。法の歴史によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如は、最も重大な欠陥であり、他の欠陥より早く矯正される。
  (2.3.2)ルール違反に対する処罰が、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されている。
  (2.3.3)違反者を捕え罰する、集団の非組織的な作用に費やされる時間が浪費される。
  (2.3.4)自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐の連鎖が続く。
  (2.3.5)補われる第2次的ルール:裁判のルール
   個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の個人に与えるというルールを、人々が受け入れている。また、違反の事実を確認した場合、他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含む。
   (a)裁判官、裁判所、管轄権、判決といった概念を定めている。
   (b)裁判のルールが存在するときは、裁判所の決定は何がルールであるかについての権威的な決定であるので、承認のルールにもなっている。
   (c)社会的圧力の集中化、すなわち、私人による物理的処罰や暴力による自力救済の行為を部分的に禁じるとともに、刑罰の適用を命じる排他的権能を定める。

 「第1次的ルールの単純な体制に対する第三の補完は、個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを権威的に決定する権能を個人に与える第2次的ルールからなっているのであって、それは社会的圧力が散漫なため生じるルールの《非効率性》を矯正しようとするものである。

裁判の最小限の形態はそのような決定のなかにあり、われわれはそのような決定をする権能を与える第2次的ルールを「裁判のルール」rules of adjudication と呼ぶことにする。

このようなルールは、誰が裁判できるかを確認する一方、どういう手続に従うべきかを定めるだろう。

他の第2次的ルールと同じように、このルールも第1次的ルールと異なった平面にある。

このルールは裁判官に裁判する義務を課すほかのルールによって強化されるかもしれないが、裁判のルールは義務を課すのではなく司法的権能を与えるのであり、責務の違反についての司法的宣言に特別な地位を与えるのである。

またこのルールはほかの第2次的ルールと同様に一群の重要な法的概念を定めているのであり、この場合には裁判官、裁判所、管轄権、判決といった概念を定めている。

裁判のルールはこのように他の第2次的ルールと類似しているだけでなく、さらに密接な関連をもっている。

事実、裁判のルールがある体系は、必然的にまた原初的で不完全な種類のルールにもかかわっているのである。この理由は、もし裁判所がルールが破られたという事実について権威的な決定をなす権能を与えられているならば、この決定は何がルールであるかについての権威的な決定とみなされざるをえないからである。

したがって、裁判管轄権を与えているルールは、裁判所の決定によって第1次的ルールを確認する承認のルールにもなるだろうし、こういった判決は法の「法源」となるだろう。

裁判管轄権の最小形態と一緒になったこの承認のルールの形態は、たしかに非常に不完全だろう。権威的な原典や法令集と違って、判決は一般的な用語ではあらわされないだろうし、判決をルールへの権威的な指針として用いることは個々の決定からのいくぶん不確実な推論に頼るということであり、そしてその信頼度は解釈者の技術と裁判官の一貫性とに左右されざるをえないのである。

 ほとんどの法体系では司法権能が第1次的ルールの違反の事実についての権威的決定に限られないことは言うまでもない。

たいていの体系は、しばらくして社会的圧力の集中化を進めることが有利であると知り、そこで私人による物理的処罰や暴力による自力救済の行為を部分的に禁じたのである。

その代わりに、それらの体系は違反に対する刑罰を指定するか少なくとも限定しているより進んだ第2次的ルールで責務の第1次的ルールを補っており、そして裁判官が違反の事実を確認した場合、他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能を裁判官に与えたのである。これらの第2次的ルールが体系の集中化された公的「制裁」sanctions を提供するのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.106-107,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:裁判のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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