ラベル 感情 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 感情 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年10月21日日曜日

14.思想は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項である。感情、欲求、反感を伴った多義的な思想が刺激剤となり、あたかも多数の諸人格が関与しているかのように、諸思想が比較、吟味、解釈、限定され一義的となる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

思想

【思想は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項である。感情、欲求、反感を伴った多義的な思想が刺激剤となり、あたかも多数の諸人格が関与しているかのように、諸思想が比較、吟味、解釈、限定され一義的となる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(再掲)(3.1)~(3.5)追記
意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
(1)ある思想が、直接ある思想の原因であるように見えるのは、見かけに過ぎない。すなわち「意志」を、何か単純な実体であると考えることは、一つの欺瞞的な具象化である。

時刻1 思想1⇒意志1
 │  │
 ↓  ↓
時刻2 思想2⇒意志2

(2)諸感情、諸思想等々の、意識に現われ出てくる諸系列や諸継起は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項であり、その徴候である。
(3)思想、感情、意志は、互いに抵抗し合う諸衝動一切の、支配と服従の瞬間的な権力確定の結果としての、ある総体的状態である。
 (3.1)思想が私の念頭に浮ぶ。意識にとって、あらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をする。
  (3.1.1)一群の感情、欲求、反感によって取りまかれている。
  (3.1.2)一群の他の思想によって取りまかれている。
 (3.2)一切の思考には、ある多数の諸人格が関与しているように見える。
  (3.2.1)多義的な思想を純化し、それが何を意味しているのかが問われる。
  (3.2.2)それが何を意味してもよいのかが問われる。
  (3.2.3)それは正しいのか、それとも正しくないのかが問われる。
  (3.2.4)他の諸思想の助けを求め、その思想と比較される。
 (3.3)かくして、思想は解釈が試みられ、限定され、確定されて一義的となる。
 (3.4)これら一切が、急速に、しかも急ぎの感情なしでなされる。このとき私は確かに、事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。
 (3.5)あらゆる感情に関しても事情は同様である。
  (3.5.1)内蔵の窮状、血圧、交感神経の病的な諸状態、不確実な不快感、苦痛が刺激剤となる。
  (3.5.2)私たちは、何らかの心的・道徳的な説明を探し求め、それを解釈する。
(4)ある思想に引き続き現れる思想は、諸衝動の総体的な権力状況が転移した結果を示す、一つの記号である。

時刻1 衝動11⇔衝動12
 │  ↓↑  ↓↑ ⇒感情1⇒思想1⇒意志1
 ↓ 衝動13⇔衝動14
時刻2 衝動21⇔衝動22
    ↓↑  ↓↑ ⇒感情2⇒思想2⇒意志2
   衝動23⇔衝動24

 「思想は、それが発生するさいの形態においては、それがついに一義的となるまで、解釈を、より正確には、或る任意の制限や限定を必要とする一つの多義的な記号である。

思想が私の念頭に浮ぶ―――どこから? 何によって? このことを私は知らない。

思想は、私の意志から独立的に、通常、一群の感情、欲求、反感によって、また一群の他の思想によって取りまかれ曖昧にされて発生し、かなりしばしば「意欲」あるいは「感情」の働きとほとんど区別されえない。

ひとは思想をこうした一群のもののうちから引き出し、それを純化し、それをひとり立ちさせて、いかにそれがそこに立っているか、いかにそれが歩むかを、見るのだが、これら一切はすばらしく急速に、それなのにまったく急ぎの感情なしでなされるのだ。

《何者が》これら一切をなすのか―――私はそれを知らず、そのさい私はたしかに、こうした事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。

次いでひとはその思想を裁く、ひとはこう問うのだ、「何をこの思想は意味するのか? 何をそれは意味してもよいのか? それは正しいのか、それとも正しくないのか?」と―――ひとは他の諸思想の助けを求め、その思想を比較する。

思考は、このように、ほとんど一種の公正な処置ないしは審理たるの実を示すのであり、そこには、裁く者、相手方がおり、そのうえ証人訊問さえもあるのであって、この証人訊問には私はいささか傾聴する必要がある―――もちろんただ《いささか》にすぎない。

私はたいていのことを聞き落とすように見える。

―――あらゆる思想は最初には多義的にぼんやりと発生し、それ自体としては解釈の試みや任意の確定のための誘因としてしか発生しないということ、一切の思考には或る多数の諸人格が関与しているように見えるということ―――、

これはそうやすやすとは観察できないことであって、私たちは、根本においては、これとは逆の訓練を、つまり、思考のさいに思考のことを思考しないという訓練を受けている。

思想の起原は隠されたままである。思想が或るずっと包括的な状態の徴候にすぎないということの蓋然性は、大きいのだ。

まさしく《この思想が》発生して他の思想が発生しないということ、この思想、多かれ少なかれまさしくこれだけの明るさをもって、ときとしては確実かつ高びしゃに、ときとしては弱々しく支えを必要として、総じてつねに刺激的に、物問いたげに発生するということ

―――つまり意識にとってあらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をするのだが―――、

こうした一切のことのうちに私たちの総体的状態の幾分かが記号というかたちで表現されているのだ。

―――あらゆる感情に関しても事情は同様であって、感情はそれ自体として何かを意味するのではない。

感情は、それが発生するとき、私たちによってまず解釈されるのであり、そしてしばしば《なんと奇妙に》解釈されることか! 

私たちにはほとんど「無意識的な」、内蔵の窮状のことを、下腹部における血圧の緊張のことを、交感神経の病的な諸状態のことを、まあ考えてみるがよい―――、かくて私たちが共通感官によってはそれについてほとんど一抹の意識をももっていないものが、なんと多くあることか! 

―――解剖学に精通している者だけが、そうした不確実な不快感のさいに、諸原因の正しい種類や《部位》を推量する。

しかし、その他のすべての者たちは、それゆえ、人間が存在するかぎり、総じてほとんどすべての人間たちは、そうしたたぐいの苦痛のさいに、なんらの身体的な説明をも探し求めないで、なんらかの心的・道徳的な説明を探し求め、そして身体の事実上の不調に或る《偽りの根拠づけ》をなすりつけるのだが、これは、彼らが、彼らのもろもろの不快適な経験や危惧の圏内で、このようにぐあいがよくないことのなんらかの根拠を取り出してくることによってなのだ。

拷問にかけられるとほとんどあらゆるひとがおのれに罪のあることを告白する。

その身体的な原因がわからない苦痛のさいには、そういう苦痛の拷問にかけられた者は、この者がおのれか他人たちかに《罪のあることを認める》までずっと、しかもそのようにきびしく審問的にみずから尋問する、

―――これは、たとえば、不合理な生活法に付き物のおのれの不機嫌を、習慣上道徳的に、つまりおのれ自身の良心の呵責と解釈した清教徒が行なったのと、同様のことだ。―――」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一九八、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.119-121、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:思想,感情)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
ニーチェの関連書籍(amazon)
検索(ニーチェ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング
ブログサークル

2018年10月17日水曜日

1.特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

習慣と社会的ルールの違い

【特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)習慣
 ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返される。
(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。さらに次の特性がある。
 (2.1)特定の行動の基準からの逸脱が、一般的に過ちや失敗と考えられ、批判にさらされる。また、逸脱がなされそうな場合、一致への圧力が存在する。
 (2.2)行動様式に関する共通の基準が存在し、人々には批判的、反省的態度が存在する。
  (2.2.1)基準からの逸脱が、批判の十分な理由として受け容れられている。
  (2.2.2)逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられている。
  (2.2.3)批判や要求をなす者も、批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
  (2.2.4)ただし、少数の常習的違反者は存在する。
 (2.3)観察可能な規則的、画一的な行動の事実は習慣の存在を示すが、社会的ルールの存在には、(2.2)のような「内的側面」が必要である。
  (2.3.1)批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例えば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」。
  (2.3.2)社会の批判と一致への圧力によって、社会的ルールが存在する場合、諸個人は、束縛または強制の感覚、あるいはある種の感情を経験することがある。しかし感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。

 「社会的ルールと習慣には、たしかに類似点がある。

それは、どちらも当該の行動(たとえば教会で帽子を取ること)は必ずしも不変ではないとしても、一般的でなければならないということである。このことは、一定の状況になればその行動が集団の大部分によって繰り返されることを意味する。すでにのべたように、「人々は《通常》as a rule そうする」という句に含まれているのはそのぐらいのことである。

しかし、このような類似点があるとしても、次のような三つの顕著な違いがある。

 第一に、集団が《習慣》をもつためには、人々の行動が事実上、一致するだけで十分である。通常の仕方から逸脱しても何らかの形で批判されるような事柄である必要はない。

しかし、行動がこのように一般的に一致したり、まったく同一であったとしても、それだけではその行動を要求するルールが存在するためには十分ではない。

というのは、このようなルールが存在するためには、それからの逸脱は一般的に過ちや失敗と考えられ、批判にさらされるのであり、逸脱がなされそうな場合、一致への圧力に直面するのである。もっとも、批判や圧力の形態はルールのタイプに応じて異なる。」

 「第二に、このようなルールが存在する場合、このような批判が実際に行なわれるのみならず、基準からの逸脱は、それに対する批判の《十分な理由》a good reason として一般的に受けいれられている。

逸脱に対する批判は、逸脱が生じそうな場合の基準への一致の要求がそうであるのと同様に、この意味において正当とみなされ、また正当化されるのである。

さらに、少数の常習的違反者は別として、このような批判や要求は、批判や要求をなす者とされる者の双方から一般的に正当とみなされたり、十分な理由をもってなされるのである。

集団がルールをもっていると言うことができるためには、集団のうちどれだけの人が、どの程度頻繁に、そしてどれぐらいの期間にこれらの種々の仕方で規則的な行動の様式を批判の基準として扱わなければならないのかという問題は、はっきりしていない。多少の毛があっても禿といわれる場合の毛髪の数に関する問題と同様、われわれはこの問題で煩わされる必要はない。

覚えておく必要があるのは、集団があるルールをもっているという陳述は、ルールに違反するだけでなく、ルールを自分や他人にとっての基準とみなすことを拒む少数者の存在と矛盾しないということだけである。」

 「社会的ルールを習慣と区別する第三の特徴は、すでにのべたところに含まれている。しかし、それは法理学において極めて重要であるのに非常にしばしば無視されたり、不正確にのべられたりしているので、ここで念入りに考察してみよう。それは、本書を通じてルールの《内的側面》internal aspect と呼ぶ特徴である。

ある習慣が社会集団において一般的であるという場合、この一般性は集団の大部分の人々の観察可能な行動についての事実にすぎない。

このような習慣が存在するためには、集団の構成員は一般的な行動について全然考える必要はないし、また当該の行動が一般的であるということを知ることさえ必要でない。まして彼らはその行動を教えようと努力したり、維持しようと意図したりする必要はさらさらない。各人は、他人が実際にそうしているように、それぞれ行動するだけで十分なのである。

しかし、これとは対照的に、社会的ルールが存在するためには、少なくともいくらかの人々が当該の行動を集団が全体として従わなければならない一般的基準とみなさなければならないのである。社会的ルールは、観察者が記録できる規則的、画一的な行動にみられる外的側面をもつ点では社会的習慣と共通しているが、それに加えて「内的」側面ももっている。

 ルールのこの内的側面は、ゲームのルールからでも簡単に説明されるだろう。

チェスの指し手は、クィーンを同じように動かす類似の習慣をもっており、外的な観察者は彼らがどういう態度でそう動かすかを知らなくてもその習慣を記録できるけれども、指し手の場合にはそれだけではない。その上、指し手達は、この行動様式に対する反省的、批判的態度をもっている。

彼らは、その様式をゲームをする人達すべてにとっての基準とみなすのである。各人は自分自身でクィーンを一定の仕方で動かすのみならず、そのような仕方でクィーンを動かすことはすべて適切なのだという「見解をもっている」。その見解は、逸脱が現にあったり、なされそうな場合における他人に対する批判および他人に対する一致への要求において表明されたり、また一方、人からこのような批判を受けたり、要求されたりする場合、それを正当だと認めることにおいて表明されるのである。

このような批判、要求、是認を表現するためには、広範囲の「規範的な」言語が使用される。

それには、「私(あなた)は、そのようにクィーンを動かすべきでなかった」、「私(あなた)は、そのようにしなければならない」、「それは正しい」、「それは誤っている」という表現がある。 

 ルールの内的側面は、外部から観察可能な身体的行動と対照をなす単なる「感情」の問題として、しばしば誤って説明される。

ルールが社会集団によって一般的に受けいれられ、社会の批判と一致への圧力によって一般的に支えられている場合、明らかに諸個人は、束縛または強制という心理的な経験に類似したことをしばしば経験するであろう。彼らが一定の仕方で行動するように「拘束されていると感じている」と言う場合、実際、彼らはこのような経験についてのべているのである。

しかし、このような感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって必要でも十分でもない。 

人々はあるルールを受けいれているが、強いられているというこのような感情は経験しない、と言っても矛盾ではない。必要なことは、共通の基準としての一定の行動の様式に対する批判的、反省的態度 a critical reflective atitude が存在しなければならないということと、この態度は(自己批判を含む)批判や、一致への要求において、さらにこのような批判や要求が正当であると是認することにおいてあらわれなければならない、ということである。

そして、それらはすべて「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」といった規範的な用語で特徴的に表現されるのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第4章 主権者と臣民,第1節 服従の習慣と法の継続性,pp.62-64,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),中谷実(訳))
(索引:社会的ルール,習慣,批判,ルールの内的側面,感情)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
ハーバート・ハートの関連書籍(amazon)
検索(ハーバート・ハート)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学・司法へ

法律・法学ランキング
政治思想ランキング

2018年9月13日木曜日

7.快と不快、愛着、反感等々の諸感情は、記憶による諸体験の形成物である。記憶は、強調し省略し、単純化し、圧縮し、対立(格闘)させ、相互形成し、秩序付け、統一体への変形する。諸思想は、最も表面的なものである。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

快と不快、感情、記憶

【快と不快、愛着、反感等々の諸感情は、記憶による諸体験の形成物である。記憶は、強調し省略し、単純化し、圧縮し、対立(格闘)させ、相互形成し、秩序付け、統一体への変形する。諸思想は、最も表面的なものである。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)諸思想は、最も表面的なものである。
(2)快と不快は、諸本能によって規制された諸々の複雑な価値評価の結果である。
(3)愛着、反感等々の諸感情は、既に諸々の統一体が形成されていることの徴候である。私たちの「諸本能」は、記憶による諸体験の形成物である。
(4)記憶過程
 (4.1)個別的な事実として思い起こされ得る極く最近の諸体験は、まだ表面上を漂っている。
 (4.2)多くの諸事例から概念が形成されるときのような、強調と省略がある。
 (4.2)単純化、圧縮、対立(格闘)、相互形成、秩序付け、統一体への変形。

 「記憶に関して学びなおされなくてはならない。

記憶とは、生きいきとして、おのれを秩序づけ、相互に形成しあい、たがいに格闘しあい、単純化作用や、圧縮作用や、多くの統一体への変形作用を行なっているところの、すべての有機的な生命の一切の諸体験の群れなのだ。

概念が多くの諸事例から形成されるのと同様な事情にあるなんらかの内的な《過程》が、すなわち、根本図式を際立たせて常にあらたに強調し、副次的な諸特徴を省略するはたらきが、進行しているにちがいない。

―――或るものがまだ個別的な事実として思い起こされうるかぎり、そのものはまだ溶け込んではいない。ごく最近の諸体験はまだ表面上を漂っているのだ。

愛着、反感等々の諸感情は、すでにもろもろの統一体が形成されていることの徴候である。私たちの「諸本能」はそうして形成物なのだ。

諸思想は最も表面的なものであり、不可解な仕方で生じて現存しているもろもろの価値評価は、いっそう深いところに達している。快と不快は、諸本能によって規制されたもろもろの複雑な価値評価の結果である。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 三〇三、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.172-173、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:快と不快,感情,記憶,価値評価,思想,本能)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
ニーチェの関連書籍(amazon)
検索(ニーチェ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング
ブログサークル

2018年9月12日水曜日

6.この自然情景、激動する海のこの感情、崇高な線、この確固として明確に見ること一般、その他、私たちが事物に授けた一切の美と崇高は、実際には己が創造したものであり、原始的人類から相続している遺産である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

感覚、知覚、感情

【この自然情景、激動する海のこの感情、崇高な線、この確固として明確に見ること一般、その他、私たちが事物に授けた一切の美と崇高は、実際には己が創造したものであり、原始的人類から相続している遺産である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

感覚、知覚、感情とは何か。
(1)私たちの祖先たちは、諸事物のうちへ何かを置き入れて見ることによって以外は、詩作し絵を描くすべをまだ知らなかった。感覚、知覚、感情は、原始的人類の詩作であり絵画であり、私たちはこの遺産を相続している。
(2)人間が感嘆し崇拝しているものは、実際には己が創造したもの、自らの産出物、所有物である。
 (a)例えば、これらの実際の自然情景、激動する海のこの感情
 (b)この崇高な線、この確固として明確に見ること一般
 (c)その他、およそ私たちが事物と想像とに授けた一切の美と崇高

 「《私の課題》は、私たちが事物と想像とに授けた一切の美と崇高を、《人間の所有物》や《産出物》として、また人間の最も美しい装飾、最も美しい弁明として返還請求することだ。詩人としての、思索者としての、神としての、権力としての、同情としての人間。

おお、《おのれを貧しくして、惨めだと感ずる》ために、人間が諸事物に贈ってきた人間の王者のような気前のよさったら! これこそ、いかに人間が感嘆し崇拝し、そして、おのれが感嘆するものをおのれが《創造した》ということを、人間が知らず、また知ろうと欲しないかという、人間の最大の「没我」なのである。

―――これらの「実際の」自然情景、それは《原始的人類》の《詩作》であり《絵画》なのだ、―――当時は人々は、諸事物のうちへ何かを《置き入れて見る》ことによって以外には、詩作し絵を描くすべをまだ知らなかったのである。《そしてこの遺産を》私たちは相続したのだ。―――この崇高な線、悲嘆的偉大さのこの感情、激動する海のこの感情は、すべて私たちの祖先たちによって《仮構された》のである。この確固として明確に《見ること》一般は!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅳ宗教/キリスト教 九三一、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.500、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:感覚,知覚,感情)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
ニーチェの関連書籍(amazon)
検索(ニーチェ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング
ブログサークル

2018年9月8日土曜日

4.意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

意識は無意識の徴候、記号

【意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)ある思想が、直接ある思想の原因であるように見えるのは、見かけに過ぎない。すなわち「意志」を、何か単純な実体であると考えることは、一つの欺瞞的な具象化である。

時刻1 思想1⇒意志1
 │  │
 ↓  ↓
時刻2 思想2⇒意志2

(2)諸感情、諸思想等々の、意識に現われ出てくる諸系列や諸継起は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項であり、その徴候である。
(3)思想、感情、意志は、互いに抵抗し合う諸衝動一切の、支配と服従の瞬間的な権力確定の結果としての、ある総体的状態である。
(4)ある思想に引き続き現れる思想は、諸衝動の総体的な権力状況が転移した結果を示す、一つの記号である。

時刻1 衝動11⇔衝動12
 │  ↓↑  ↓↑ ⇒感情1⇒思想1⇒意志1
 ↓ 衝動13⇔衝動14
時刻2 衝動21⇔衝動22
    ↓↑  ↓↑ ⇒感情2⇒思想2⇒意志2
   衝動23⇔衝動24


 「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの終末である。

或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ! ―――あらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。

あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の情動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動一切の、―――それゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。

すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である。
「意志」―――一つの欺瞞的な具象化。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 二五〇、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.148-149、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:意識,無意識,思想,感情,意志,衝動)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
ニーチェの関連書籍(amazon)
検索(ニーチェ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング
ブログサークル

2018年7月26日木曜日

18.感情の特徴:(a)情動が、感情と思考を誘発する。(b)誘発される感情と思考は、学習される。(c)特定の脳部位への電気刺激も、情動、感情、思考を誘発する。(d)感情、思考は、新たな情動誘発刺激となる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

感情

【感情の特徴:(a)情動が、感情と思考を誘発する。(b)誘発される感情と思考は、学習される。(c)特定の脳部位への電気刺激も、情動、感情、思考を誘発する。(d)感情、思考は、新たな情動誘発刺激となる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

(a) 情動が、感情と思考を誘発する(感情の情動依存性)。
 感覚/想起された ⇒ 情動 ⇒ 感情 ⇒ 思考
 対象/事象
(情動を誘発する
 対象/事象)
(b)情動によって誘発される感情と思考は、学習されたものである。

(c) 特定の脳部位への電気刺激により誘発された情動でも、学習された感情と思考を誘発する(情動誘発の神経機構の相対的自律性)
 (特定の脳部位  ⇒ 情動 ⇒ 感情 ⇒ 思考
  への電気刺激)
 ※ 学習によって情動と結びつけられた思考が、呼び起こされる。

(d) 呼び起こされた思考が、さらに情動の誘発因となる
  呼び起こされた ⇒ 情動 ⇒ 感情 ⇒ 思考
  思考
 ※ 呼び起こされた思考は、現在進行中の感情状態を高めるか、静めるかする。思考の連鎖は、気が散るか、理性によって終止符が打たれるまで継続する。

 「この患者における事象の順序は、「まず悲しみの情動があった」ことを暴いている。そしてそのあとに、普通悲しみの情動を誘発するような種類の思考が、つまり、われわれが日常的に「悲しく感じる」と表現している心の状態に特徴的な思考が生じたのだ。

ひとたび電気刺激が止むと、こうした現象は徐々に弱まり、やがて消えた。情動は失せ、感情も消えた。また不安な思考も消えた。

 この神経学的にまれな出来事の重要性は明白だ。情動が生じたあと感情ならびにその感情と関係する思考が生じるのだが、普通は、その速さゆえ、現象に固有の順序を正しく分析することが難しくなっている。

まず、情動の原因となるような思考が心に生じると、それが情動を引き起こす。ついでその情動が感情を生み、今度はその感情が、主題的に関係しているその情動状態を増幅しそうな別の思考を呼び起こす。

呼び起こされた思考は、新しい付加的な情動に対する独立した誘発因として機能し、それにより現在進行中の感情状態を高めるかもしれない。かくして、さらなる情動がさらなる感情を生む。

気が散って、あるいは理性によってそれに終止符が打たれるまで、そのサイクルはつづく。

そして、こうした一連の現象が全面展開されるころには――情動を引き起こした思考、情動の諸行動、われわれが感情と呼ぶ心的現象、そしてその感情に起因する思考――いったい何が最初だったかを自己観察により判断するのは難しくなっている。

この女性の事例は、われわれがそのごたごたを見分ける一助になる。彼女は、悲しみと呼ばれる情動が生じる前、悲しみの原因となるような思考も、悲しみの感情も、もってはいなかった。

この事実は、情動誘発の神経機構の相対的自律性、そして感情の情動依存性、その双方に対する証拠である。

 ここで当然、こう問う人がいるだろう。その情動と感情が適切な刺激によって動機づけられていなかったことを考えると、なぜこの患者の脳は通常悲しみを引き起こすような思考を呼び起こしたのか、と。

 その答えは感情の情動依存性、ならびに、人の興味深い記憶方法と関係がある。悲しみの情動が展開されると、そのあとただちに悲しみの感情がつづく。そしてすぐに脳はまた、悲しみの情動〈と〉悲しみの感情を引き起こすような種類の思考を提示する。

なぜなら、連合学習が、濃密な二方向ネットワークの中で、情動と思考を結びつけているからだ。かくして、特定の思考は特定の情動を、逆に、特定の情動は特定の思考を呼び起こす。認知レベルのプロセスと情動レベルのプロセスは、このような形で連続的に結ばれている。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第2章 欲求と情動について、pp.102-104、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:感情,情動,思考,感情の情動依存性)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
検索(アントニオ・ダマシオ)
検索(Antonio R. Damasio)
アントニオ・ダマシオの関連書籍(amazon)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

科学ランキング
ブログサークル

2018年7月15日日曜日

思考を構成する言語と文法は、論理的なものと、表象や感情など心理的なものとの混合体である。これは、複数の異なる言語の比較から明確になる。また、純粋に論理的な形式言語や概念記法の有益性も教える。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

論理的なものと心理的なものの混合体

【思考を構成する言語と文法は、論理的なものと、表象や感情など心理的なものとの混合体である。これは、複数の異なる言語の比較から明確になる。また、純粋に論理的な形式言語や概念記法の有益性も教える。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1) 我々は、ある特定の言語で考えている。
 (1.1) 思考には、表象及び感情と混ざり合っている。
 (1.2) 我々には、表象なしで思考するということは、明らかに不可能である。
(2) 文法とは、何か。
 (2.1) 文法は、論理が判断に対するのと類比的な重要性を、言語に対して持っている。
 (2.2) 文法は、論理的なものと心理学的なものとの混合体である。
(3) 論理学は、文法から論理的なものを純粋に取り出すことを課題とする。
 (3.1) 我々は、同じ思想を様々な言語で表現することができるが、異なる言語には、異なる心理学的な装飾が、しばしば纏わりついている。
 (3.2) 外国語を習うことは、言語の違いによる心理学的な装飾を理解させるとともに、純粋に論理的なものの把握にも役に立つ。
 (3.3) 私が提案した数学における形式言語や、概念記法のような根本的に違った方法で、純粋に論理的な方法で思想を表現することができるなら、有益であろう。

(再掲)
(a)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(b)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

 「元来人間にとって、思考は表象及び感情と混ざり合っている。論理学は、論理的なものを純粋に取り出すことを課題とするが、しかし、もちろんだからといって我々が表象なしで思考するということ―――これは明らかに不可能である―――にはならない。我々は意識的に論理的なものと、論理的なものに観念や感情というかたちでで結び付いているものとを区別しなければならないのである。ここには、我々がある言語で考えているという困難、ならびに、文法―――それは論理が判断に対するのと類比的な重要性を言語に対して持っている―――が論理的なものと心理学的なものとの混合体であるという困難が存在する。もし、そうでないとするならば、すべての言語は必然的に同じ文法を持つことになろう。確かに我々は同じ思想を様々な言語で表現することができるが、しかし、心理学的な装飾、思想の衣服は異なることがしばしばある。外国語を習うことが論理的な教育として役立つ理由はここにある。同じ思想を異なった言語で表わせることを知ることで、どのような言語においても外皮と有機的に結び付いている言語の芯と、その外皮とを区別することがよりよくできるようになるのである。このようにして言語の間の違いが、論理的なものの把握に役に立つ。だが、それでもなお、困難が完全に取り除かれるわけではないし、論理学の本は、厳密に言えば論理とは関係のない数多くの事柄―――例えば、主語ー述語―――を相も変わらず持ち出している。それゆえ、算術における形式言語や私の提案した概念記法のような、根本的に違った方法で思想を表現することに慣れることも有益なのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学[二]』154、フレーゲ著作集4、p.139、関口浩喜・大辻正晴)
(索引:言語,文法,論理学,思考,表象,感情,概念記法,形式言語)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)
フレーゲの関連書籍(amazon)
検索(フレーゲ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

数学ランキング
ブログサークル

2018年6月10日日曜日

1.ホメオスタシス機構の階層:(a)感情、(b)狭義の情動、(c)多数の動因と動機、あるいは欲求、(d)快または苦と結びついている行動、(e)免疫系、(f)基本的な反射、(g)代謝のプロセス(アントニオ・ダマシオ(1944-))

ホメオスタシス機構

【ホメオスタシス機構の階層:(a)感情、(b)狭義の情動、(c)多数の動因と動機、あるいは欲求、(d)快または苦と結びついている行動、(e)免疫系、(f)基本的な反射、(g)代謝のプロセス(アントニオ・ダマシオ(1944-))】
(a)感情
《例》欲望:意識を持つ個体が、自分の欲求やその成就、挫折に関して持つ認識と感情
(b)狭義の情動
《例》喜び、悲しみ、恐れ、プライド、恥、共感など。
(c)多数の動因と動機、あるいは欲求
《例》空腹感、喉の渇き、好奇心、探究心、気晴らし、性欲など。
《定義》欲求:ある特定の動因によって活発化する有機体の行動的状態
(d)快(および報酬)または苦(および罰)と結びついている行動――快楽行動、苦痛行動
《例》自動的な行動であり快や苦の経験が生じるとは限らない。意識される場合は「苦しい、快い、やりがいがある、苦痛を伴う」行動
《定義》特定の対象や状況に対する有機体の接近反応や退避の反応。
《誘発原因》
 ある身体機能の不調
 代謝調整の最適作用
 有機体に損害を与えるような外的事象
 有機体を保護するような外的事象
(e)免疫系
《誘発原因》
 有機体の外部から侵入してくるウイルス、細菌、寄生虫、毒性化学分子など。
 有機体の内部であっても、例えば死滅しつつある細胞から放出される有害な化学分子。
(f)基本的な反射
《例》有機体が音や接触に反応して示す驚愕反射。極端な熱さ、極端な寒さから遠ざけたり、暗いところから明るいところへ向わせたりする、走性、屈性など。
(g)代謝のプロセス
《定義》
・内部の化学的作用のバランスを維持するための、化学的要素(内分泌、ホルモン分泌)と機械的要素(消化と関係する筋肉の収縮など)
《機能》
・体内に適正な血液を分配するための、心拍数や血圧の調整。
・血液中や細胞と細胞の間にある液の酸度とアルカリ度の調整。
・運動、化学酵素の生成、有機体組織の維持と再生に必要なエネルギーを供給するための、タンパク質、脂質、炭水化物の貯蔵と配備の調整。

 「ホメオスタシス機構とは、自動的な生命調整を備えた、多数の枝分かれをもつ、大きな現象の木、と考えることができる。そして多細胞生物の場合、下から上に登っていくと、その立ち木には順に以下のようなものが見えてくるだろう。

 いちばん下の枝にあるのは、
・代謝のプロセス―――この中には、内部の化学的作用のバランスを維持するための化学的要素と機械的要素(たとえば内分泌やホルモン分泌、消化と関係する筋肉の収縮など)が含まれる。これらの作用は、たとえば心拍数や血圧(それにより体内に適正な血液が分配される)、内部環境(血液中や細胞と細胞の間にある液)の酸度とアルカリ度の調整、有機体にエネルギーを供給するために必要なタンパク質、脂質、炭水化物の貯蔵と配備(エネルギーは、運動、化学酵素の生成、有機体組織の維持と再生に必要)などを管理している。

・基本的な反射―――たとえば、有機体が音や接触に反応して示す驚愕反射。あるいは、有機体を極端な熱さや極端な寒さから遠ざけたり、暗いところから明るいところへ向わせたりする、走性、屈性など。

・免疫系―――免疫系は有機体の外部から侵入してくるウイルス、細菌、寄生虫、毒性化学分子などを撃退すべく備えている。興味深いことに、免疫系は、体内の健全な細胞に通常含まれている化学分子でも、それが死滅しつつある細胞から内部環境に放出されると有機体にとって危険であるような場合、そのような化学分子(たとえば、ヒアルロン酸の分解、グルタメート)に対しても備えている。要するに、免疫系は、有機体の完全性が外部からであれ内部からであれ脅かされるときの、第一の防御線である。

 中レベルの枝にあるのは、
・通常、快(および報酬)または苦(および罰)と結びついている行動―――こうしたものには、たとえば、特定の対象や状況に対する有機体の接近反応や退避の反応がある。人間の場合、感じることもできるし何が感じられているかを報告することもできるので、そうした反応は、苦しい、快い、やりがいがある、苦痛を伴うといったように説明される。」

(中略)「苦と快は多くの原因――たとえば、ある身体機能の不調、代謝調整の最適作用、有機体に損害を与えるような、あるいは有機体を保護するような外的事象――によって誘発される。しかし苦や快の〈経験〉は〈苦痛行動や快楽行動の原因ではない〉し、またそうした行動が生じる上で必要なものでもない。次項で述べるように、ひじょうに単純な生物は、たとえそうした行動を感じる可能性が低かったりゼロであったりしても、こうした情動的行動のうちいくつかを実行することができる。

 次に高いレベルにあるのは、
・多数の動因と動機―――主たる例は、空腹感、喉の渇き、好奇心、探究心、気晴らし、性欲、である。スピノザは〈欲求〉というじつに適切な言葉でそれらをひとまとめにし、また意識をもつ個体がそうした〈欲求〉を認識するようになる状況に対して〈欲望〉という言葉を使った。欲求という言葉は、ある特定の動因によって活発化する有機体の行動的状態を意味する。さらに欲望という言葉は、ある欲求をもっていることに対する、そしてその欲求の最終的な成就または挫折に対する意識的感情を意味している。このスピノザの区別は、本章の出発点である情動と感情の区別と、見事に対応している。明らかに人間には欲求と欲望があり、情動と感情がそうであるように、それらはシームレスに結びついている。

 最上部に近いが、最上部ではないレベルにあるのは、
・狭義の情動―――ここには自動化された生命調整のうちのもっとも重要な部分がある。つまり、喜びや悲しみや恐れからプライドや恥や共感まで、狭い意味での情動だ。では、木の最上部には何があるか。答えは単純、感情である。」

(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第2章 欲求と情動について、pp.55-59、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:ホメオスタシス,感情, 情動, 動因, 動機, 欲求, 快, 苦, 免疫系, 反射, 代謝)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
検索(アントニオ・ダマシオ)
検索(Antonio R. Damasio)
アントニオ・ダマシオの関連書籍(amazon)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

科学ランキング

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2