2018年5月7日月曜日

5.経験派は蟻の流儀でただ集めては使用する。合理派は蜘蛛のやり方で、自らのうちから出して網を作る。しかるに蜜蜂のやり方は中間で、庭や野の花から材料を吸い集めるが、それを自分の力で変形し消化する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

蟻・蜘蛛・蜜蜂の流儀

【経験派は蟻の流儀でただ集めては使用する。合理派は蜘蛛のやり方で、自らのうちから出して網を作る。しかるに蜜蜂のやり方は中間で、庭や野の花から材料を吸い集めるが、それを自分の力で変形し消化する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】


 「学を扱ってきた人々は、経験派の人か合理派の人かの何れかであった。

経験派は蟻の流儀でただ集めては使用する。合理派は蜘蛛のやり方で、自らのうちから出して網を作る。

しかるに蜜蜂のやり方は中間で、庭や野の花から材料を吸い集めるが、それを自分の力で変形し消化する。

哲学の真の仕事も、これと違っているわけではない。それはすなわち精神の力だけにとか、主としてそれに基づくものでもなく、また自然誌および機械的実験から提供された材料を、そのまま記憶のうちに貯えるのでもなく、変えられ加工されたものを、知性のうちに貯えるのである。

それゆえに、これら(すなわち経験的と理性的の)能力の、密で揺らぎない結合(未だ今までに作られていないような)から、明るい希望が持たるべきなのである。」

(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、九五、pp.154-155、[桂寿一・1978])
(索引:経験主義、合理主義、蟻・蜘蛛・蜜蜂の譬え)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)



(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
フランシス・ベーコンの本(amazon)
検索(フランシス・ベーコン)


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング

4.帰納法:感覚や実験により事物の本性に迫り、低次の命題から高次の命題へ、飛躍することなく段階的に探求してゆく。真実で実質的な生きた公理は、中間的公理であり、空想的な一般的公理ではない。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

帰納法と中間的公理

【帰納法:感覚や実験により事物の本性に迫り、低次の命題から高次の命題へ、飛躍することなく段階的に探求してゆく。真実で実質的な生きた公理は、中間的公理であり、空想的な一般的公理ではない。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 感覚や実験により事物の本性に迫り、低次の命題から高次の命題へ、飛躍することなく段階的に探求してゆく。どの段階においても、命題は概念的なものではなく、よく限定されている。感覚および個々的なものから、直ちに最も一般的なものに向かって飛んで行ってはならない。人間的な事がらや、運命にかかわるような真実で実質的な生きた公理は、中間的公理であり、空想的な一般的公理ではない。

 「それゆえに我々は通俗的および推量的な技術に対する裁判権は、(この部分に我々は全く係わらないのだから)推論式やこの種のよく知られかつ持てはやされた論証形式に任せるけれども、しかし事物の本性に対してはどこでも、低次の命題にも高次の命題にも帰納法を用いる。というのも「帰納法」とは次のような論証形式と考える、すなわち感覚を保ち(物の)本性に迫り、そして実地を目指しかつほとんどそれに携わるものだからである。

 したがって論証の順序もまた全く逆になる。というのは、今までは事は次のように運ばれるのを常とした、すなわち感覚および個々的なものから、直ちに最も一般的なものに向かって飛んでゆく、いわばそれを廻って論争が転回する不動の柱に向かってのごとく。それから他のものが中間者を通って派生せしめられる。

たしかに近道ではあるが、急坂で自然には達しない道であり、ただ論争に対しては下り坂で適当した道である。

ところが我々のほうに従えば、命題は飛躍することなく次々に引き出され、したがってやっと後になって最も一般的なものに達する。

しかしこの最も一般的なものも、概念的なものになってしまうのではなく、よく限定されたものであって、自然が事象的に自分により明らかなものとして認め、かつ事物の核心に存するようなものなのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』著作配分、p.39、[桂寿一・1978])

 「最も低い命題はむき出しの経験とあまり距ってはいないが、かの最高の最も一般的な(我々の持っている)公理なるものは、概念的であり抽象的であって、実質的なものをもたない。

しかるに、人間的な事がらや運命が懸けられているかの真実で実質的な生きた公理は、中間的公理であり、さらにこられの上に最後に、かの最も一般的なもの、すなわち抽象的ではなく、これら中間的なものによって、正しく限定されているような公理があるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一〇四、pp.162-163、[桂寿一・1978])

(索引:帰納法、公理、中間的公理)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)



(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
フランシス・ベーコンの本(amazon)
検索(フランシス・ベーコン)


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング

2018年5月6日日曜日

12.人は、自己評価基準を持っており、これにより自己を査定、評価し、これに合わせて自己賞賛や自己非難、報酬や罰を自分自身に与えることができる。(アルバート・バンデューラ(1925-))

自己評価基準

【人は、自己評価基準を持っており、これにより自己を査定、評価し、これに合わせて自己賞賛や自己非難、報酬や罰を自分自身に与えることができる。(アルバート・バンデューラ(1925-))】
(a) 人は、自分のために自分で開発した評価基準を、持っている。
(b) 人は、この評価基準により、自分自身の行動や、行動の結果を査定、判断し、自分自身を肯定的に評価したり、否定的に評価し、自信が持てなくなったりする。
(c) 人は、自己評価に合わせて、心理的に自己賞賛や自己非難をしたり、社会的、物的な報酬を与えて甘やかしたり、罰を与えて傷つけたりすることができる。

(出典:wikipedia
検索(アルバート・バンデューラ)

 「目標の追求において、人生の初期の段階から、人々は自分の行動とその結果である前進・進歩を評価し、それに合わせて自分自身に報酬を与えたり罰を与えたりする。
そうすることにより、さらに前進できるようにするが、場合によっては自分への働きかけがうまく行えないこともある(例:Bandura,1989; Carver & Scheier,1990)。

自分でみてよいと思えたなら自分自身をほめるなど、自分の達成について肯定的あるいは否定的に感じるかもしれないし、自信がもてない場合もあるだろう。

人は、自分に心理的、社会的、そして物的な報酬や罰を、自分で与えることができる。つまり、自分のために自分で開発した基準を用い、自分自身を査定し、自分自身についての内的な判断者、報酬-罰の管理者になるのである(Bandura,1986; Higgins,1990,1997)。

自己賞賛や自己非難、自分で与えるごほうびやお仕置き、自己を甘やかしたり傷つけたりすること、自分をほめたり逆に非難したりするなどは、人がよく行っていることである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第17章 自己制御――目標追求から目標達成へ、p.548、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:自己評価基準、自己賞賛、自己非難、報酬、罰)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

ウォルター・ミシェル(1930-)
ウォルター・ミシェルの関連書籍(amazon)
検索(ウォルター・ミシェル)
検索(Walter Mischel)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング

11.精神的健康には、肯定的な自己像が必要である。もちろん、現実と全く異なるものは害悪であるが、仮にそれが、現実よりいくらか過度であっても、肯定的なことが必要である。逆に、事実でも否定的なら、低い自尊心や抑うつ傾向がみられやすい。(ウォルター・ミシェル(1930-))

肯定的な自己像の必要性

【精神的健康には、肯定的な自己像が必要である。もちろん、現実と全く異なるものは害悪であるが、仮にそれが、現実よりいくらか過度であっても、肯定的なことが必要である。逆に、事実でも否定的なら、低い自尊心や抑うつ傾向がみられやすい。(ウォルター・ミシェル(1930-))】
 伝統的に、心理学者は正確な自己知覚が、精神的健康にとって不可欠なものであると考えてきた。しかしながら、精神的に健康な人々の多くはいくらか非現実的に肯定的なゆがんだ自己像をもっており、一方で自身をより正確にとらえている人のほうが精神的に健康でないことを研究者たちはみいだした。
(a) 小集団状況で相互作用を行い、自分自身と相互作用相手の性格の特徴を評定するように求められた被験者のうち、他者からの評定よりも好ましい自己評定をするのが健常者で、抑うつ患者の自己評定は他者からの評定と一致していた。
(b) 例えば、現実に即した自己知覚を行っている人は低い自尊心や抑うつ傾向がみられやすく、一方で精神的に安定した人は、肯定的な性格特性が、よりうまく自分自身を記述する傾向がみられる。
(c) もちろん現実に対するひどい認知のゆがみが、健常者の特徴であるということを示していると読み違えてはならない。

 「伝統的に、心理学者は正確な自己知覚が精神的健康にとって不可欠なものであると考えてきた(Jahoda,1958)。

しかしながら、精神的に健康な人々の多くはいくらか非現実的に肯定的なゆがんだ自己像をもっており、一方で自身をより正確にとらえている人のほうが精神的に健康でないことを研究者たちはみいだした(Armor & Taylor,2002; Taylor & Brown,1988)。

例えば、現実に即した自己知覚を行っている人は低い自尊心や抑うつ傾向がみられやすく、一方で精神的に安定した人は、肯定的な性格特性がよりうまく自分自身を記述すると考える傾向がみられる(Alicke,1985; Brown,1986)。

 大半の人々がもっている過度に肯定的な自己知覚は、抑うつ患者と健常者とを比較した研究において明らかになった(Lewinsohn et al.,1980)。

小集団状況で相互作用を行った患者たちは、自分自身と相互作用相手の性格の特徴を評定するように求められた。健常者の自己評定は他者からの評定よりも好ましく自分をとらえていた。

抑うつ患者の自己評定は他者からの評定と一致していたことから、健常者は実際よりも肯定的な自己像をもっていて、バラ色の眼鏡を通して自分を眺めていることを示している。」(中略)

「これらの結果は明確に一貫しており、興味深いものであるが、もちろん現実に対するひどい認知のゆがみが、健常者の特徴であるということを示していると読み違えてはならない。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅵ部 社会認知的レベル、第15章 社会認知的プロセス、p.489、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:自己像)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

ウォルター・ミシェル(1930-)
ウォルター・ミシェルの関連書籍(amazon)
検索(ウォルター・ミシェル)
検索(Walter Mischel)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

政治家たる者、己を慎み、品行正しく、驕って贅沢することを戒め、節倹を努め、自分の職務に厳しく、国民からはその仕事ぶりを気の毒だと思われるほどでなければ、十分な支持を得ることなどできない。(西郷隆盛(1828-1877))

気の毒だと思われるほど

【政治家たる者、己を慎み、品行正しく、驕って贅沢することを戒め、節倹を努め、自分の職務に厳しく、国民からはその仕事ぶりを気の毒だと思われるほどでなければ、十分な支持を得ることなどできない。(西郷隆盛(1828-1877))】
 万民の上に立って政治を行う者は、己を慎み、品行を正しくして、驕って贅沢することを戒め、節倹を努め、自分の職務をしっかり務めて国民の標準となり、一般の人たちからはその厳しい仕事ぶりを気の毒だと思われるほどでなければ、国民から十分な支持を得ることなどできない。しかるに、実際の政治をみると、政治家は自身の蓄財をはかるなど腐敗しており、本来の政治が行われていない。
 「萬民の上に位する者、己れを愼み、品行を正くし、驕奢を戒め、節儉を勉め、職事に勤勞して人民の標準となり、下民其の勤勞を氣の毒に思ふ樣ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創(さうさう)の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざり)、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戰も偏へに私を營みたる姿に成り行き、天下に對し戰死者に對して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。」
(西郷隆盛(1828-1877)『遺訓』4(集録本『西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文』)p.7、岩波文庫 (1939)、山田済斎(編))
『遺訓』西郷隆盛(1828-1877)青空文庫

西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫)


(出典:wikipedia
西郷隆盛(1828-1877)  「事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀(さぼう)を用ふ可からず。人多くは事の指支(さしつか)ゆる時に臨み、作略(さりやく)を用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜(じぎ)次第工夫の出來る樣に思へ共、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗るゝものぞ。正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる樣なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。」
(西郷隆盛(1828-1877)『遺訓』7(集録本『西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文』)p.7、岩波文庫 (1939)、山田済斎(編))
『遺訓』西郷隆盛(1828-1877)青空文庫

西郷隆盛(1828-1877)
テキスト:西郷隆盛(1828-1877)青空文庫
西郷隆盛の関連書籍(amazon)
検索(西郷隆盛)
検索(西郷どん)
検索(西郷隆盛 遺訓)
検索(山田済斎)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

10.嫌悪的な課題や、ストレスや苦痛を伴う出来事を、予測可能で自分で統制できると信じると、そう信じることがたとえ現実と合わない幻想のような場合でさえ、否定的な感情が弱まり、課題遂行の悪化がかなり防げる。(ウォルター・ミシェル(1930-))

予測可能性

【嫌悪的な課題や、ストレスや苦痛を伴う出来事を、予測可能で自分で統制できると信じると、そう信じることがたとえ現実と合わない幻想のような場合でさえ、否定的な感情が弱まり、課題遂行の悪化がかなり防げる。(ウォルター・ミシェル(1930-))】
 「とても痛い歯医者の治療のように、ある課題が嫌悪的であり、それをがまんしなければならないし、統制することもできない場合でさえ、その出来事やストレスを予測したり統制したりすることが可能だと信じることは、適応的な行動にとって重要な要素となる。

例えば古典的な研究において、女子大生が課題遂行中に不快なノイズを浴びせられた。そのノイズは、条件によって予測可能なタイミングか、不可能なタイミングで起きた(Glass,Singer & Friedman,1969)。このフラストレーション状況にがまんできるかどうかと課題遂行の質は、予測不可能なノイズ条件でのみ悪化したのである。

この結果と同じように興味深いのは、ストレスがかかった状況のとき、そのストレスが終わる時期を決めることができると実験参加者が信じた場合には、課題遂行の悪化がかなり防げたという結果である。

一般的にいえば、ストレスが生じる出来事や苦痛な出来事を、自分で予測でき統制できると信じると、そう信じることがたとえ現実と合わない幻想のような場合でさえ(Taylor & Brown,1988)、ほとんどの人で否定的な感情が弱まる傾向がある(Staub,Tursky & Schwarts,1971)。」 

(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅵ部 社会認知的レベル、第15章 社会認知的プロセス、p.487、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:知覚された統制、予測可能性)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

ウォルター・ミシェル(1930-)
ウォルター・ミシェルの関連書籍(amazon)
検索(ウォルター・ミシェル)
検索(Walter Mischel)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

2018年5月5日土曜日

9.統制の錯覚:成功の原因を内的帰属し、失敗の原因は外的帰属する。また、完全に偶然的な出来事でも、何かしら原因と秩序と意味があり、予測と統制が可能であると考える。これらは、自己高揚的バイアスの一部であり、パーソナリティにとって潜在的に有益でもある。(ウォルター・ミシェル(1930-))

統制の錯覚

【統制の錯覚:成功の原因を内的帰属し、失敗の原因は外的帰属する。また、完全に偶然的な出来事でも、何かしら原因と秩序と意味があり、予測と統制が可能であると考える。これらは、自己高揚的バイアスの一部であり、パーソナリティにとって潜在的に有益でもある。(ウォルター・ミシェル(1930-))】
 人間は、客観的に統制可能な出来事と、そうでない出来事を区別できない傾向がある。
(a) 自らのある行為の結果が良かったとき、その行為は自分自身が引き起こしたものであるとみなす傾向がある。また、うまくいかなかったときや負けたときは自分のせいでないと考える。これは、多くの人の場合、自己高揚的バイアスの一部である。
(b) まったくの偶然による出来事でも、その出来事はその人が引き起こした、その本人にふさわしいこと、すなわち世界は予測可能で公平なものであると考えたいという根源的な傾向がある。
(c) 特に悲劇的な事件のように、結果がよくないものであったときはなおさら、その出来事を「もっとも」なことで、意味があり、秩序正しいとみなすことができないかぎり、対処するのは難しいと感じる。
 このように人間は、出来事があたかも統制できているかのようにふるまう「統制の錯覚」をもっている。これは、自己高揚的バイアスの一部であると考えられてきたが、近年ではパーソナリティにとって、重要でかつ潜在的に有益で、治療的効果をもたらすことがわかってきた。

 「人間には、世界は予測可能で公平なものとしてみたいという根源的な傾向が存在しているようである。

私たちは「公正世界」(Heider,1958)を期待し、そこで生じる事柄は、たとえ宝くじがあたるか、ガンになるか、レイプや殺人に巻きこまれるかどうかといったことでさえ、その本人にふさわしいことであり、その人が引き起こしたと信じている。

多くの研究(Langer,1977の展望論文を参照)が、人々は客観的に統制可能な出来事とそうでない出来事を区別していないことを示している。

その代わり、まったくの偶然による出来事を、あたかも統制できているかのようにふるまう「統制の錯覚」をもっているように思われる。

 多くの人の場合、これは自己高揚的バイアスの一部である。

私たちは自らのある行為の結果がよかったとき、その行為は自分自身が引き起こしたものであるとみなす傾向がある。

何かをうまくこなせたときや何かに勝ったとき、それは自分の功績によるもので、うまくいかなかったときや負けたときは自分のせいでないと考える(例:Fitch,1970; Urban & Witt,1990)。

悲劇的な事件のように、結果がよくないものであったときはなおさら、その出来事を「もっとも」なことで、意味があり、秩序正しいとみなすことができないかぎり、対処するのは難しいと感じるかもしれない(例:Taylor & Armor,1996; Taylor & Brown,1988)。

これらの知見は、最初は知覚者による単純な自己高揚的バイアスを示す証拠としてみられていたが、近年ではパーソナリティにとって、重要でかつ潜在的に有益で、治療的効果をもたらすことがわかってきた(例:Seligman,1990; Seligman,Reivich,Jaycox & Gilham,1995; Taylor & Armor,1996)。」

(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅵ部 社会認知的レベル、第15章 社会認知的プロセス、pp.486-487、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:統制の錯覚)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

ウォルター・ミシェル(1930-)
ウォルター・ミシェルの関連書籍(amazon)
検索(ウォルター・ミシェル)
検索(Walter Mischel)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

8.一般的に誇りや恥は、達成の結果つまり失敗や成功が、内的に帰属されるときに最大化され、外的に帰属されるときに最小化される。(バーナード・ウェイナー(1935-))

原因の内的帰属と外的帰属

【一般的に誇りや恥は、達成の結果つまり失敗や成功が、内的に帰属されるときに最大化され、外的に帰属されるときに最小化される。(バーナード・ウェイナー(1935-))】

(出典:ResearchGate
検索(バーナード・ウェイナー)
検索(Bernard Weiner)

 「一般的に誇りや恥は、達成の結果つまり失敗や成功が内的に帰属されるときに最大化され、外的に帰属されるときに最小化される(Weiner,1974,p.11)。

言い換えると、成功が自らの能力や努力の結果である(内的理由)と知覚されると、単に課題がやさしかったとか運がよかった(外的理由)と知覚されるよりも肯定的な感情がもたらされる。

逆に、失敗が自らの低い能力や努力を怠ったせいである(内的理由)と知覚されると、課題が難しかったからとか運が悪かった(外的理由)と知覚されるときより、私たちは悪い気分になる(例:恥を感じる)。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅵ部 社会認知的レベル、第15章 社会認知的プロセス、p.486、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:誇り、恥、内的理由、外的理由、内的帰属、外的帰属)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

ウォルター・ミシェル(1930-)
ウォルター・ミシェルの関連書籍(amazon)
検索(ウォルター・ミシェル)
検索(Walter Mischel)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

7.自己効力期待:自分自身が行為の主体であり、自分にはうまく実行できるという期待と信念が、価値ある目標の追求、的確な判断、効果的な行動を助け、努力を持続させる。反対は無力感で、諦め、無気力、抑うつへの確実な道である。(ウォルター・ミシェル(1930-))

自己効力期待

【自己効力期待:自分自身が行為の主体であり、自分にはうまく実行できるという期待と信念が、価値ある目標の追求、的確な判断、効果的な行動を助け、努力を持続させる。反対は無力感で、諦め、無気力、抑うつへの確実な道である。(ウォルター・ミシェル(1930-))】
 自己効力期待とは、自分自身が自分の行為を起こしている行動主体であり、必要な行為を十分に統御して、 自分にはうまく実行できると期待し信じることである。この期待と信念が、困難な価値ある目標を追求し、自分の置かれた状況や自分を変え、改善するために、どこで、いつ、どのように行動するかといった判断を助け、効果的にものごとを行い、努力を持続させてくれる。
 この概念の心理的対極にあるのが、知覚された無力感で、それはあきらめ、無気力、そして抑うつへの確実な道である。


 「自分に、必要な行為が十分に統御でき、うまく実行できると期待し信じることは、効果的にものごとを行い、目標を追求するために、必要不可欠な条件である。

その期待と信念が、その人の努力を支え、価値ある目標を追求するかどうか、追求するなら、どこで、いつ、どのように行動するかといった判断を助けてくれる(Mischel et al.,1996)。

自分から始めた目標追求でさえ、自主性を発揮しようと努力するには、自分自身が自分の行為を起こしている行動主体であると表象することが必要である(Kuhl,1984,p.127)。

自己効用感、すなわち自分にはできるという信念は、困難な目標を追求することに成功するため、あるいは自分のおかれた状況や自分を変え、改善するために必要な基礎的条件である。

この概念の心理的対極にあるのが、知覚された無力感で、それはあきらめ、無気力、そして抑うつへの確実な道である(Bandura,1986)。」 

(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅵ部 社会認知的レベル、第15章 社会認知的プロセス、p.483、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:自己効力期待、無力感)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

ウォルター・ミシェル(1930-)
ウォルター・ミシェルの関連書籍(amazon)
検索(ウォルター・ミシェル)
検索(Walter Mischel)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2