2022年2月17日木曜日

6.多くの夢を砕き、別の未来の可能性への感性、想像力、欲望、個人の自由を抑え込むよう設計された絶望装置は、今あるシステムの改善、革新能力を失っていく。実際、過去の経済的革新の多くは、政治的なものだった。非正規雇用、労働組合の破壊、労働の非政治化、長時間労働等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

感性、想像力、自由の抑圧がもたらすもの

多くの夢を砕き、別の未来の可能性への感性、想像力、欲望、個人の自由を抑え込むよう設計された絶望装置は、今あるシステムの改善、革新能力を失っていく。実際、過去の経済的革新の多くは、政治的なものだった。非正規雇用、労働組合の破壊、労働の非政治化、長時間労働等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)想像力、欲望、個人の自由の封じ込め
 想像力、欲望、個人の自由といった、過去の偉大な世界革命において解放された一切は、消費主義のなかに、あるいはインターネットの仮想現実のなかに確実に封じ込められなければならなかった。
(b)別の未来の可能性への感性の抑圧
 多くの夢を砕き、別の未来の可能性へのあらゆる感性を抑え込むよう設計された絶望装置は、今ある資本主義が唯一実行可能な経済システムであると思わせる。その結果、我々は資本主義システムが崩壊していくのを目の当たりにするという奇妙な状況に置かれることとなった。

(c)非正規雇用、労働組合の破壊、労働の非政治化、長時間労働
 過去30年間の経済的革新の多くは、経済的というよりも政治的なものだった。終身雇用を打ち切って非正規雇用にすることは、より効率的な労働力を現実的に生み出すことは ないが、そのかわり組合の破壊や労働の非政治化を驚くほど効率的に成し遂げる。とどまることのない労働時間の増加についてもそうだ。週60時間の労働をしていれば、誰も政治活動などできない。


「実際に、過去30年間の経済的革新の多くは、経済的というよりも政治的なものだった。

終 身雇用を打ち切って非正規雇用にすることは、より効率的な労働力を現実的に生み出すことは ないが、そのかわり組合の破壊や労働の非政治化を驚くほど効率的に成し遂げる。

とどまるこ とのない労働時間の増加についてもそうだ。週60時間の労働をしていれば、誰も政治活動など できない。

いつも思うのは、資本主義が唯一実行可能な経済システムであると思わせる選択肢 と、資本主義をより発展可能な経済システムにする選択肢のどちらかを選ぶ場合、新自由主義はつねに前者を選択するということだ。

その複合的帰結は、人間の想像力に対する容赦ない攻撃である。厳密にいえば想像力、欲望、個人の自由といった、過去の偉大な世界革命において解放された一切は、消費主義のなかに、あるいはインターネットの仮想現実のなかに確実に封じ込められなければならなかった。他のすべての領域ではそれらは厳しく禁じられなければならない。

われわれは多くの夢を砕き、別の未来の可能性へのあらゆる感性を抑え込むよう設計された絶望装置の押しつけについて語っている。

だが、人々の試みの一切を政治的な檻のなかに事実上押し込めた結果、われわれは資本主義システムが崩壊していくのを目の当たりにするという奇妙な状況に置かれることとなり、結局のところそれとともに、誰もが別のいかなるシステムも実現不可能だという判断を下してしまったのだ。

        *  おそらくこれが、僕が第II章で指摘した、表面上は政治的に分裂している両サイドの支配階 級が、自らの権力によってつくりだせるもの以外に現実はないと信じ込むようになった世界に ついて、われわれが予期しうることのすべてである。

バブル経済は、政治システムを作動させ ている統治原理を買収するとともに、システム内部で現実そのものの原理を操作する一つの政 治プログラムから生じる。

まるでこの戦略が、ありとあらゆるものを消費してしまったかのよ うである。  

だがこのことは、常識レベルでのあらゆる革命が、目下の権力に対して破壊的な効果がある ことを意味している。

支配者はこうした想像力の爆発を夢想だにさせないことに一切に賭けて いる。

もしかれらがこの賭けに負ければその影響は(かれらには)計り知れないものになるだ ろう。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.326-328,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






5.ある政府、社会運動、ゲリラ軍、その他の組織的グループを非難もしくは支持に値するかを判断しようとするときに、まずこう質問する。彼らは、レイプ、拷問、殺人といった行為に関与しているか、もしくは関与することを他の人間に命令しているか。人権侵害という言葉が事態を曖昧にする場合がある。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

レイプ、拷問、殺人テスト

ある政府、社会運動、ゲリラ軍、その他の組織的グループを非難もしくは支持に値するかを判断しようとするときに、まずこう質問する。彼らは、レイプ、拷問、殺人といった行為に関与しているか、もしくは関与することを他の人間に命令しているか。人権侵害という言葉が事態を曖昧にする場合がある。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「「人権侵害」という言葉について考えてみよう。表面的にはこの言葉が何かを覆い隠し ていそうには見えない。

では、正気の人間が人権侵害を支持するだろうか。誰も支持しないの は明らかだ。

だが、不同意にも程度があって、この場合でいうと、たいてい人権侵害といわれ る事態を別の言葉で考えてみればその違いが明らかになる。  以下の文章を比較してみよう。

・「私は、自分たちの生死がかかった戦略命令を遂行するためなら、人権侵害を行う政権に対応し、場合によっては支持することすら必要であると考えている」

・「私は、自分たちの生死がかかった戦略命令を遂行するためなら、レイプ、拷問、殺人を行う政権に対応し、場合によっては支持することすら必要であると考えている」

この二番目の事例は確実に受け入れられない。これを耳にしたら、誰もが「この戦略命令は 本当に死活的なものなのか」、あるいは「そもそも戦略命令とは何か」と問いたくなるだろ う。

ここには、「権利」という言葉についてのかすかな据わりの悪さが込められている。

ほと んど「資格」に近く、まるで怒れる拷問の犠牲者たちが、自分たちの処遇に不満を言い、何か を要求しているかのようである。  

僕としては、この「レイプ、拷問、殺人」テストと呼ぶものがとても有効なことがわかっ た。これはごく簡単なものだ。

ある政府であれ、社会運動であれ、ゲリラ軍であれ、あるいは 他の組織的グループであれ、何らかの政治的実体が出現し、それを非難もしくは支持に値する かを判断しようとするときに、まずこう質問するのだ。「かれらは、レイプ、拷問、殺人と いった行為に関与しているか、もしくは関与することを他の人間に命令しているか」。

これは 自明の問いのようにも思えるが、でもこうした問いは驚くほど稀にしか発せられない――問われ たとしても、せいぜいのところ恣意的にしかなされないのだ。

あるいは、このような問いを立 ててみると、世界政治の多くの問題について一般に広く受け入れられている見解がただちに覆 されることに気づいて、驚くだろう。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.140-141,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月15日火曜日

4.資金は、学問にも大きな影響を及す。シンクタンクは、あらかじめ想定された政治的立場をただ単に正当化するためだけに人を雇い入れる。政治家たちは、経済学の研究とは、人々に信じさせたいことを正当化するための方法であると、公の場で認めるようになった。こうして、真の政治的討議が困難となる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

買収された学問

資金は、学問にも大きな影響を及す。シンクタンクは、あらかじめ想定された政治的立場をただ単に正当化するためだけに人を雇い入れる。政治家たちは、経済学の研究とは、人々に信じさせたいことを正当化するための方法であると、公の場で認めるようになった。こうして、真の政治的討議が困難となる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)学問へのお資金の影響
 学問は決して客観的なものではなかった。研究の方向性はつねに政府機関、あるいは裕福な慈善家からの資金提供によって決められてきた。
(b)想定された政治的立場を正当化するためのシンクタンク
 1970年代のシンクタンクの出現に端を発して、とりわけ経済学の研究において、あらかじめ想定された政治的立場をただ単に正当化するためだけに人を雇い入れるのが当 たり前になった。
(c)経済学は政策に都合の良い理念の正当化手段
 80年代に事態はさらに進み、政治家たちは、経済学の研究とは、人々に信じさせたいことを正当化するための方法であると、公の場で進んで認めるようになった。 
(d)その事例
 例として「経済を活性化させるため」にキャピタルゲイン税を切り下げることが、主張される。トリクルダウン式の経済政策がうまく機能しないことが実証的に示されても、びくともしない。すでに政策は決められている。経済学者は、すでに決定されたことを実行させるべく、科学的に聞こえる理屈をひねり 出すために存在している。事実、彼らはそれで稼いでいるのである。
(e)真の政治的討議が困難となる
 驚くべきことに経済学者のスポンサーたちは、政策に都合の良い理念の正当化のために資金提供することを積極的に認めるようになってきている。このような知的権力がつくり上げられたことで、真の政治討議をすることが徐々に困難になっていった。



「学問も同じだ。学問は決して客観的なものではなかった。

研究の方向性はつねに政府機 関、あるいは裕福な慈善家(追究課題や達成・成果について、控えめにいってもかなり独特な 考え方をする)からの資金提供によって決められてきた。

だが、1970年代のシンクタンクの出 現に端を発して、こうしたしばりがとりわけ経済学の研究方針に最も強い影響を及ぼすなか で、あらかじめ想定された政治的立場をただ単に正当化するためだけに人を雇い入れるのが当 たり前になってしまった。

80年代に事態はさらに進み、政治家たちは、経済学の研究とは人々 に信じさせたいことを正当化するための方法であると、公の場で進んで認めるようになった。 

僕はロナルド・レーガン政権下でのテレビで次のようなやり取りを目にして驚いたことを今で も覚えている。

 政府高官 :われわれの最優先課題は、経済を活性化させるためにキャピタルゲイン税を切り下げることだ。

 インタビュアー :しかしどのようにして、この種の「トリクルダウン」式の経済政策がうまく機能しないと論証する近年の数多くの経済研究に答えるのですか。これは富裕層によるさらなる雇用創出にはつながらないのではないでしょうか。

 高官 :ええ、確かにそうです。減税の経済的恩恵の真意はまだ十分には理解されてはいません。

 言い換えれば、経済学は最善の政策を決めはしないということだ。すでに政策は決められて いる。経済学者は、すでに決定されたことを実行させるべく、科学的に聞こえる理屈をひねり 出すために存在している。事実、かれらはそれで稼いでいるのである。シンクタンクに雇われ ている経済学者についていえば文字通りそれが仕事である。

これもまたこの問われていること が、驚くべきことにかれらのスポンサーたちがそのことを積極的に《認める》ようになってき ている。 

 このような知的権力がつくり上げられたことで、真の政治討議をすることが徐々に困難に なっていった。というのも、異なる立場にある者は、まったく異なる現実を生きているからで ある。」

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.144-146,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






3.議員に影響力を行使しようとして金銭を渡すことが賄賂なら、選挙キャンペーンの資金調達とロビー活動の組み合わせは、実質的には贈収賄である。この事実への言及を避ける狡猾な方法は、金銭の受け取りによって政治家が、法案の何らかの部分について立場を変えたと証明できるとき「本当の」贈収賄であると決めることだ。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

贈収賄を合法化する狡猾な方法

議員に影響力を行使しようとして金銭を渡すことが賄賂なら、選挙キャンペーンの資金調達とロビー活動の組み合わせは、実質的には贈収賄である。この事実への言及を避ける狡猾な方法は、金銭の受け取りによって政治家が、法案の何らかの部分について立場を変えたと証明できるとき「本当の」贈収賄であると決めることだ。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)実質的な贈収賄
 今では、賄賂を要求することには「資金調達」、贈収賄そのものには「ロビー活動」という新たな名称がつけられている。自分の選挙キャンペーンの資金調達を銀行に依存している政治家が、銀行のロビイストに対し、銀行を「規制」することになる法律を作成あるいは執筆することすら認めているのであ れば、銀行が政治家に特定の便宜を図るよう依頼する必要などほぼないのである。
(b)「本当の」贈収賄
 カネの受け取りによって政治家が、法案の何らかの部分について立場を変えたと証明できない限り、それは「贈収賄」ではないとする政治学者たちのお馴染みのセ リフに留意しておきたいと思う。このロジックでは、もし政治家がある法案に賛成票を投じようという気になり、カネを受け取り、後に自身の気が変わり反対票を投じる場合が贈収賄にな るのだ。
(c)贈収賄とはされない行為
 もし政治家が初めから、ある法案に対する自分の見解を、見返りとしてカネを くれる人間の目線でつくりあげる、あるいは資金提供者のロビイストたちに法案を書いてもら う場合には、贈収賄とはみなされない。
(d)対価を支払って影響力を行使することが悪でないとする考え
 何かを やらせるためにカネを払うことはそれ自体は悪ではないなどと、カネで影響力を行使することを大筋で認めれば、市民の一般生活の道徳はまったく異なった様相を呈しはじめる。



「だがやはり、アメリカ最大のタブーは、自らの腐敗について語ることである。

かつて、議 員に影響力を行使しようとしてカネを渡すことが「賄賂」とみなされ、違法とされた時代が あった。

それはカネを詰めたカバンを運び、特別な依頼――土地区画法の変更、建築契約の決 定、犯罪事件の起訴取り下げ等々――をする裏稼業が蔓延したからだ。

今では、賄賂を要求することには「資金調達」、贈収賄そのものには「ロビー活動」という新たな名称がつけられてい る。

自分の選挙キャンペーンの資金調達を銀行に依存している政治家が、銀行のロビイストに 対し、銀行を「規制」することになる法律を作成あるいは執筆することすら認めているのであ れば、銀行が政治家に特定の便宜を図るよう依頼する必要などほぼないのである。

この点にお いて、贈収賄はわれわれの政府のシステムのまさに土台になってしまっている。

この事実への 言及を避けるために、さまざまなレトリカルな策が弄される――〔したがって〕最も重要なの は、ある特定の行為(たとえば具体的には土地区画法を変更してもらう見返りにカネを差し出 すこと)を非合法のままにしておくことで、本当の「贈収賄」とは、政治的便宜を図るのと引 き換えに《別の》何らかの方法でカネを受け取ることだ、と主張するできるようにすることで ある。

ここで、こうしたカネの受け取りによって政治家が、法案の何らかの部分について立場 を変えたと証明できない限り、それは「贈収賄」ではないとする政治学者たちのお馴染みのセ リフに留意しておきたいと思う。

このロジックでは、もし政治家がある法案に賛成票を投じよ うという気になり、カネを受け取り、後に自身の気が変わり反対票を投じる場合が贈収賄にな るのだ。しかしもし政治家が初めから、ある法案に対する自分の見解を、見返りとしてカネを くれる人間の目線でつくりあげる、あるいは資金提供者のロビイストたちに法案を書いてもら う場合には、贈収賄とはみなされない。

このような区別が本来の目的に対して意味をなさない のはいうまでもない。

だが、ワシントンの平均的な上院議員や下院議員が再選を望むならば、 就任時から週におよそ1万ドルは調達しなければならないという事実は依然としてある。かれ らが調達するカネのほとんどは、1%の最富裕層からのものだ。

その結果、選出された議員 は、在任中のおよそ3割の時間を賄賂の要求に費やしている。  

こうしたことの一切はこれまでにも指摘され、論じられてきたこと――たとえ適切に名指され ないというタブーがあるにしても――である。

だが、あまり指摘されてこなかったのは、何かを やらせるためにカネを払うこと――従業員だけではなく、名誉も権力も最も持っている者も含め たあらゆる人に対して――はそれ自体は悪ではないなどと、カネで支配(影響力)を行使するこ とを大筋で認めれば、市民の一般生活の道徳はまったく異なった様相を呈しはじめることであ る。

誰かが都合のよい地位を得るために公務員に賄賂を渡していいならば、学者、科学者、 ジャーナリスト、そして警察はどうなるだろうか。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.142-144,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2.人間観、社会観、政治理念には、数多くの矛盾する理念がある。しかし金融、政治エリートたちは、資本主義の理念に疑問を抱くことが不可能な世界を創出するために、経済的人間と自由市場の理念の常識化に多大な時間と精力を注いできた。従って、真の革命は、人々の常識を揺さぶるようなものでなければ、前進は不可能である。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

疑問を抱くことが不可能な世界の革命

人間観、社会観、政治理念には、数多くの矛盾する理念がある。しかし金融、政治エリートたちは、資本主義の理念に疑問を抱くことが不可能な世界を創出するために、経済的人間と自由市場の理念の常識化に多大な時間と精力を注いできた。従って、真の革命は、人々の常識を揺さぶるようなものでなければ、前進は不可能である。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(1)人間観、社会観、政治理念
 政治とは何か、もしくは政治とはどのようなものであるべきか、社会とは何か、人々の基本的なあり方とは何か、そし て人々が世界から求められているのは何かといった、きわめて原理的な想定がある。
 (a)ここには絶対的な合意はない。多くの人々は、これらの問いをめぐる数多くの矛盾する考え方を抱いて いる。
(2)経済的存在としての人間と自由市場のイデオロギー
 人は基本的に経済的な存在である。すなわち民主主義とは市場であり、自由とは市場に参入する権利のことであり、消費者がますます豊かになることが、国 家的成功の尺度である。
 (a)それは常識であるという説得
 アメリカのメディアは、アメリカ人が既存の政治システムの諸条件を受け入れるよう説得するよりも、あらゆる人がそうしていると説得するようになってい る。
 (b)資本主義の理念に疑問を抱くことが不可能な世界の創出
  この国を動かしている金融エリート、政治エリートたちはこのイデオロギー的ゲームにすべてを賭けている。かれらは、実際に存続可能 な資本主義の形式を創出することよりも、資本主義という理念に疑問を抱くことをほぼ不可能 にする世界を創出することに多大な時間と精力を注いできた。
 


「真の革命の目的は、政治的・経済的関係の単なる再配置ではない。

真の革命は、つねに 人々の常識的水準に働きかけるものでなければならない。

アメリカではこれ以外のいかなる方 法でも前進は不可能であった。

説明しよう。  これまで論じてきたように、アメリカのメディアは、アメリカ人が既存の政治システムの諸 条件を受け入れるよう説得するよりも、あらゆる人がそうしていると説得するようになってい る。

ただこのことは特定のレベルにのみ当てはまる。より深層には、政治とは何か、もしくは政治とはどのようなものであるべきか、社会とは何か、人々の基本的なあり方とは何か、そし て人々が世界から求められているのは何かといった、きわめて原理的な想定がある。

ここには 絶対的な合意はない。多くの人々は、これらの問いをめぐる数多くの矛盾する考え方を抱いて いる。

それでもやはり重心は明確にある。深く埋め込まれた数多くの想定がある。 

 事実、世界の多くで、アメリカは政治的生活についてのある哲学の本拠地だといわれてい る。その哲学とは、何よりも人は基本的に経済的な存在であること、すなわち民主主義とは市 場であり、自由とは市場に参入する権利のことであり、消費者がますます豊かになることが国 家的成功の尺度であるというものである。

世界の大半でこれは「新自由主義」として知られて おり、数多くある哲学のなかのひとつとみなされ、その評価については国民的議論になってい る。

アメリカではこの単語はまったく使われない。われわれはこれらの事柄についてはただ 「自由」「自由市場」「自由貿易」「自由企業」「アメリカ的な生活」といったプロパガンダ 用語を通してしか語ることができない。

このような発想を冷笑はできるし、実際アメリカ人も そうすることはある。だがその基底にあるものに挑むためには、アメリカ人であることの意味 を根本から問い直さなければならない。

それは、必然的に革命的なプロジェクトたらざるをえ ない。そしてそれは同時にきわめて難しいことだ。

この国を動かしている金融エリート、政治 エリートたちはこのイデオロギー的ゲームにすべてを賭けている。かれらは、実際に存続可能 な資本主義の形式を創出することよりも、資本主義という理念に疑問を抱くことをほぼ不可能 にする世界を創出することに多大な時間と精力を注いできた。

その結果、われわれの帝国と経 済システムが窒息しよろめき、周囲のあらゆるものが崩壊する兆しが見えても、われわれの多 くは茫然としたまま、なにか別の可能性が存在することに思い至らなくなってしまったのであ る。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.137-138,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






1.ジョージ・オーウェルがずっと昔に指摘したように、腐敗した 政治システムのもとにいると、人は物事を適切に名指すことができなくなる。婉曲表現と隠語が公的な議論のあらゆる面にはびこっている。帝国と名指すことができない帝国、貢ぎ物と名指すことができない貢ぎ物、賄賂と名指すことができない賄賂、買収工作。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

適切に名指すことのできないこと

ジョージ・オーウェルがずっと昔に指摘したように、腐敗した 政治システムのもとにいると、人は物事を適切に名指すことができなくなる。婉曲表現と隠語が公的な議論のあらゆる面にはびこっている。帝国と名指すことができない帝国、貢ぎ物と名指すことができない貢ぎ物、賄賂と名指すことができない賄賂、買収工作。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「問6 なぜアメリカでは、政治におけるカネの役割に挑戦することが本質的な革命的行動 になるのか。

買収工作の背後にある原理とは、カネは権力であり権力は本質的にすべてである、というも のだ。

それは、われわれの文化全体を覆う考え方である。

ある哲学者が述べるように、賄賂は 存在論的な原理になってしまい、われわれの基本的な現実感覚を規定している。

したがってこ れに挑戦するということはすべてに挑戦することになる。  

僕はここで「賄賂」という言葉をかなり意識的に使っている――改めていうが、われわれが使 う言葉はきわめて重要なのだ。

ジョージ・オーウェルがずっと昔に指摘したように、腐敗した 政治システムのもとにいると、それを指示する人は物事を適切に名指すことができなくなるの である。この基準からすれば、現代アメリカはただならぬ腐敗状況にある。

われわれは帝国と 名指すことができない帝国を維持していて、それは、貢ぎ物と名指すことができない貢ぎ物を 搾り取り、われわれがまったく名指せない経済イデオロギー(新自由主義)で正当化している のだ。

婉曲表現と隠語が公的な議論のあらゆる面にはびこっている。

これは「巻き添え被害」 (軍隊は巨大な官僚組織であり、そのため曖昧な業界用語を使っていると予想される)のよう な軍事用語の場合、右派のみならず左派にも同様にあてはなる。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.139-140,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月12日土曜日

計算と予測が、政府、企業、種々の互いに組み合わさったエリートが参画してい る巨大な事業の中にあって、人々は、自らの意志、 感情、信念、理想、生き方を持った独自の人間という感覚を失い、自分の将来が何かのプログラムにはめ込まれていくような感覚、憂鬱、怒り、絶望に襲われる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

何かの手段であるかのような生き方

計算と予測が、政府、企業、種々の互いに組み合わさったエリートが参画してい る巨大な事業の中にあって、人々は、自らの意志、 感情、信念、理想、生き方を持った独自の人間という感覚を失い、自分の将来が何かのプログラムにはめ込まれていくような感覚、憂鬱、怒り、絶望に襲われる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)自らの意志、 感情、信念、理想、生き方
 特殊に人間的なものとしての人間、つまり個々に自らの意志、 感情、信念、理想、生き方を持ったものとしての人間という感覚に根ざした人権が、「地球 大」の計算と大規模な未来予測の中で見失われてしまったという感情がある。 
(b)計算と予測による政策
 計算と予測が政府、企業、種々の互いに組み合わさったエリートが参画してい る巨大な事業の中にあって政策立案者や会社重役たちの計画の指針になっている。量的な計算では、個々人の特殊な願望や希望、不安や目標を無視せざるを得ない。

(c)自分の将来か何かのプログラムにはめ込まれていく感覚
 今日の若者の間には、自分の将来を科学的にうまく作られた何かのプログラムにはめ込まれていく過程と見るものの数が増えつつある。彼らの平均寿命、能力、利用可能性のデータが、 最大多数の最大幸福を生み出す目的に目一杯かなうように分類、計算、分析を受け、そのプロ グラムに一人一人が組み込まれていく。これが国家、知識、世界等の規模での生活組織を決定する。
(d)憂鬱、怒り、絶望
 このような見通しが、彼らを憂鬱や怒りや絶望に追いやる。彼らは何らかの 独立の存在として、何らかのことを自分ですることを願っており、たんなる受身の存在である こと、誰かに代理されることを望んでいない。



「この反乱(それは反乱であるように見える)の効果は、それがまだ始まったばかりである から、予測は難しい。それは、特殊に人間的なものとしての人間、つまり個々に自らの意志、 感情、信念、理想、生き方を持ったものとしての人間という感覚に根ざした人権が、「地球 大」の計算と大規模な未来予測の中で見失われてしまったという感情から発している。そし て、このような計算と予測が政府、企業、種々の互いに組み合わさったエリートが参画してい る巨大な事業の中にあって政策立案者や会社重役たちの計画の指針になっているのである。量 的な計算では、個々人の特殊な願望や希望、不安や目標を無視せざるを得ない。多数の人々の ための政策を立案しなければならない時には常にそうならざるを得ないのであるが、今日では それがあまりにも極端なところまで進んでしまった。  今日の若者の間には、自分の将来を科学的にうまく作られた何かのプログラムにはめ込まれ ていく過程と見るものの数が増えつつある。彼らの平均寿命、能力、利用可能性のデータが、 最大多数の最大幸福を生み出す目的に目一杯かなうように分類、計算、分析を受け、そのプロ グラムに一人一人が組み込まれていくのを見るのである。これが国家、知識、世界等の規模で の生活組織を決定する。しかも彼ら個々の性格、生活様式、願望、気まぐれ、理想に余計な注 意を払わず、またそれに関心を持たずに(課題の達成にはその必要はないからである)決定し ていくのである。このような見通しが、彼らを憂鬱や怒りや絶望に追いやる。彼らは何らかの 独立の存在として、何らかのことを自分ですることを願っており、たんなる受身の存在である こと、誰かに代理されることを望んでいない。人間としての品位を認められることを要求して いる。人的資源に還元され、他人のやっているゲームのコマに還元されることを願っていな い。たとえそのゲームが、少なくとも一部には個々のコマの利益のためのものであったとして も、コマにはなりたくないと思っている。そして反乱は、あらゆるレヴェルで勃発していく。  反抗する若者たちは、大学、知的活動、組織化された教育から抜け出ていく。あるいはそれ を攻撃する。そのような教育機関をあの巨大な、脱人間化の機構そのものと考えるからであ る。彼らが知っているかどうかはともかく、彼らの訴えかけているのは一種の自然法、あるい は人間を目的のための手段(その目的がいかに善意から出たものであっても)として扱っては ならぬとしたカントの絶対命題である。彼らの抗議は時には合理的形態をとり、また時には激 烈なまでに非合理的形態をとる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『曲げられた小枝』,V,収録書籍名『理想の追求  バーリン選集4』,pp.311-312,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松本礼二(訳)) 

バーリン選集4 理想の追求 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)





(a)人間は目的そのものであり、価値は人間が創造する、(b) 制度は人間のために、人間によって創造される、(c) いかに高尚な理念でも、一人の人間の価値には及ばない、(d) 最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を評価すること。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

ロマン主義ヒューマニズムからの継承

(a)人間は目的そのものであり、価値は人間が創造する、(b) 制度は人間のために、人間によって創造される、(c) いかに高尚な理念でも、一人の人間の価値には及ばない、(d) 最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を評価すること。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)人間は目的そのものであり価値は人間が創造する
 価値を作るのは人間そのものであり、したがって価値を作る人は、何か彼よりも価値の高 いものの名において殺されることない。カントが人間はそれ自体が目的であり、何かの目的のための手段ではないと言っ た時、彼が言わんとしたのがこのことであった。
(b) 制度は人間のために、人間によって創造される
 制度は人間によって作られるだけでなく人間のために作られており、もはや役に立たなくなった時にはその制度は捨てねばならぬ。
(c) いかに高尚な理念でも、一人の人間の価値には及ばない
 進歩や自由や人間性などいかに高尚なものであっても、それら抽象的 理念の名において、あるいは制度の名において人間を殺戮することにはならない。価値が人間 によって与えられている以上、理念や制度はそれ自体で絶対的価値を持たない。
(d) 最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を評価すること
 すべての罪の中で最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を貶め、人間を辱めることだという点である。この固定されたパターンは、人間の願望とは無関係に何らかの客観的権威を持つものとされ、 人々は自らの意志に反してそのパターンに押し込まれてきたのである。



 「それでも、ロマン主義のヒューマニズム――この同じ奔放なドイツ精神――から、われわれは 重要なことを洞察できるようになっており、そのことは簡単には忘れられないであろう。第一 に、価値を作るのは人間そのものであり、したがって価値を作る人は、何か彼よりも価値の高 いものの名において殺されることはあるまい――彼より価値の高いものはないからである――とい う点である。カントが人間はそれ自体が目的であり、何かの目的のための手段ではないと言っ た時、彼が言わんとしたのがこのことであった。第二に、制度は人間によって作られるだけで なく人間のために作られており、もはや役に立たなくなった時にはその制度は捨てねばならぬ という点である。第三に、進歩や自由や人間性などいかに高尚なものであってもそれら抽象的 理念の名において、あるいは制度の名において人間を殺戮することにはならないという点であ る。人間だけが物を価値あるもの、あるいは神聖なものにできるのであって、価値がその人間 によって与えられている以上、理念や制度はそれ自体で絶対的価値を持たないからである。し たがってそれに抵抗したり変革したりしようとする試みは、神の意志にたいする反抗、死に よって罰せられるべき行為といったことには決してならないからである。第四に――これは自余 のことから出てくる結論であるが――すべての罪の中で最悪の罪は何らかの固定された基準、い わゆるプロクルーステスの寝台のために人間を貶め、人間を辱めることだという点である。こ の固定されたパターンは、人間の願望とは無関係に何らかの客観的権威を持つものとされ、 人々は自らの意志に反してそのパターンに押し込まれてきたのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,V,収録書籍名『理 想の追求 バーリン選集4』,pp.233-234,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松本礼 二(訳))

バーリン選集4 理想の追求 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




芸術家が芸術作品の創造に取り組んでいる時、彼は何か あらかじめ存在しているモデルからいわば転写するのではない。まさに今、創造する。人生の目的も、また然り。それは行動である。今や人の目的はいかなる 代価を払っても自分の内なる個人的なヴィジョンを実現することであると思われた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由な創造としての芸術

芸術家が芸術作品の創造に取り組んでいる時、彼は何か あらかじめ存在しているモデルからいわば転写するのではない。まさに今、創造する。人生の目的も、また然り。それは行動である。今や人の目的はいかなる 代価を払っても自分の内なる個人的なヴィジョンを実現することであると思われた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「芸術家が芸術作品の創造に取り組んでいる時、彼は――俗説はその逆の見方であるが――何か あらかじめ存在しているモデルからいわば転写するのではない。画家が描く前、あるいは構想 する前に、画はどこにあったのか。作曲家が構想する前に、シムフォニーはどこにあったの か。歌手が歌う前の歌はどこにあったのか。このような問いは無意味である。それは、「私が 散歩する前の散歩道はどこにあったのか」、「私の生きる前の私の生はどこにあったのか」と 問うのと似ている。生とはそれを生きることであり、散歩とはそれを散歩すること、歌は私が 作曲、あるいは歌う時に、私の作曲し歌うものである。私の行動とは別の何ものかではない。 創造とは、何かすでに与えられている固定的で永遠のプラトン的パターンを写そうとする行為 ではない。写すのは職人だけのすること、芸術家は創造するのである。  これが自由な創造としての芸術の理論である。私はそれが真理であるかどうかには関心がな い。関心があるのは、この何か発見するのではなく発明するものとしての目標ないし理想とい う観念が西欧思想の支配的範疇となったという事実である。これは人生の目的についてのある 捉え方を前提にしている。そこでの人生の目的は、独立に客観的に存在するものではない。あ たかも埋められた財宝のように、発見されるかどうかはともかく、それ自体として存在し、人 間が探し求めることのできるようなものではない。それは行動――行動としての形、質、方向、 目的を持った――である。何か作られたものではなく、すること、あるいは作ることそのもので ある。それは、行為をしている行為人、発明者、政治生活に入り込み、それを転換させていっ た。それは、政治行動は既存の公的基準で測定されるという古い理想にとって代わった。公的 基準は宇宙の客観的構成要素の一つであり、具眼の士、賢者や専門家ならはっきりと看取でき るし、むしろ彼らは賢者、専門家と呼ばれていたのである。しかし、今や人の目的はいかなる 代価を払っても自分の内なる個人的なヴィジョンを実現することである。このようなヴィジョ ンが他人にどのような影響を与えるかは、彼の関心事ではない。彼は自分の内なる光に忠実で なければならない。彼の知っていること、彼の知る必要のあることはそれだけ、それがすべて である。芸術家は自分の職業をもっと強く意識しているというにすぎない。哲学者、教育者、 政治家も強く意識している。しかしその意識は、すべての人にあるものである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,IV,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.218-220,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松 本礼二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




かつて、従うべき真なる価値があると信じられていたが、1820年頃には、非常に異なった見方が支配的になった。目的と諸価値を創造するのは個人であり、そもそも命令、要求、義務、目標に真偽値はない。各個人は、自分自身の内的な理想に仕えることが真実の生き方であるとする思想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

諸価値は個人によって創造される

かつて、従うべき真なる価値があると信じられていたが、1820年頃には、非常に異なった見方が支配的になった。目的と諸価値を創造するのは個人であり、そもそも命令、要求、義務、目標に真偽値はない。各個人は、自分自身の内的な理想に仕えることが真実の生き方であるとする思想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)目的を創造するのは諸個人
 自分の正しいと考えることをなせ、自分の美しいと思うものを作れ、自分の窮極の目的であるものに従って暮らせ、自分の生活の中の窮極の目的以外のものは全て手段であり、目的には一切のものを従属させねばならなぬ、まさしくそ れが、あなたに要求されていることなのである。
(b) 命令、要求、義務、目標に真偽はない
 課題を果せという命令、要求、義務は、 真でもなく偽りでもない。それは命題ではない。何かを述べたものではなく、事実を説明したものでもない。真か偽かを立証できるものではない。誰かが発見して、誰かがその真偽を点検 するようなものではない。それは目標なのである。
(c)その人個人の絶対性
 この理想は、孤独な個人にだけ啓示され たもので、他の全ての人には偽り、あるいは馬鹿げたものと思われるかもしれない。その個 人の属している社会の生活や世界観と対立しているかもしれない。


「およそ1820年頃には、非常に異なった見方が支配的になっている。詩人や哲学者、特にド イツの詩人や哲学者が、今では人になし得るもっとも高貴なことは、いかなる代価を払っても 自分自身の内的な理想に仕えることだと言っている。この理想は、孤独な個人にだけ啓示され たもので、他のすべての人には偽り、あるいは馬鹿げたものと思われるかもしれない。その個 人の属している社会の生活や世界観と対立しているかもしれない。しかし彼はそのために戦わ ねばならぬ。他に道がなければそのためには死なねばならぬというのである。しかし、もしそ の理想が偽りであればどうであろうか。まさにこの点で、範疇の根本的な移動、人間精神にお ける大きな革命となるような変化が生じている。理想が真か偽りかという問題はもはや重要で はなく、むしろ全体としては理解不可能なことと考えられている。理想は至上の命令という形 式で提出されている。それはあなたの中で燃えており、ただそれだけの理由で、あなたの内な る内面の光に奉仕せよというのである。自分の正しいと考えることをなせ、自分の美しいと思 うものを作れ、自分の窮極の目的であるものにしたがって暮らせ――自分の生活の中の窮極の目 的以外のものはすべて手段であり、目的には一切のものを従属させねばならなぬ――まさしくそ れが、あなたに要求されていることなのである。その課題を果せという命令、要求、義務は、 真でもなく偽りでもない。それは命題ではない。何かを述べたものではなく、事実を説明した ものでもない。真か偽かを立証できるものではない。誰かが発見して、誰かがその真偽を点検 するようなものではない。それは目標なのである。論理学、政治学のモデルが自然科学、神学 あるいはその他事実についての知識ないしその記述という形式から、生物的な衝動と目標とい う概念、芸術的創造という概念から成る何ものかに向かって突如として移行したのである。こ の点について、もっと具体的に説明したい。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,III,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.217-218,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松 本礼二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年2月11日金曜日

道徳や政治や神学の思想史は、敵対する専門家たちの敵対する主張の間に生じた激烈な対立の歴史である。自らの主張を真理であると信じ、また、たとえそれに到達するのは困難であっても、真理はあるはずだ。人間と社会に関する事実が、答えを示すと信じられていた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

価値の問題

道徳や政治や神学の思想史は、敵対する専門家たちの敵対する主張の間に生じた激烈な対立の歴史である。自らの主張を真理であると信じ、また、たとえそれに到達するのは困難であっても、真理はあるはずだ。人間と社会に関する事実が、答えを示すと信じられていた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)価値の問題
「人は何をなすべきか、あれこれのことが正しいのは何故か、これは善か悪 か、正か偽りか、許されているか禁止されているか」という形式の問題である。

(b)価値に関する諸説
 道徳や政治や神学の思想史は、敵対する専門家たちの敵対する主張の間に 生じた激烈な対立の歴史である。
 (i)神の聖典に記されている神の言葉
 (ii)啓示や信仰や聖なる神秘
 (iii)公認の神の解釈者、教会と聖職者の発言
 (iv)合理的形而上学
 (v)個人の良心の判断
 (vi)経験的観察、科学の実験室、経験素材への数学的方法の応用

(c)啓蒙主義、功利主義の綱領
 人間にとって必要なことは分析、分類することができ、自然と歴史の知識に照らして互 いに調整、調和させることができ、できるだけ多くの人々のできるだけ多くの必要に対して社会的、政治的措置によって最大の可能な充足を与えられるような社会が創造されるであろう。それが啓蒙思想、とりわけ功利主義の綱領であった。必要の相対性という枠組の中にあって も、人はいかに生きるべきか、何をなすべきか、正義や平等や幸福とは何かの問題は、まだ事実 の問題であると前提されていた。



「価値の問題――「人は何をなすべきか、あれこれのことが正しいのは何故か、これは善か悪 か、正か偽りか、許されているか禁止されているか」という形式の問題についても、同じこと が想定されていた。道徳や政治や神学の思想史は、敵対する専門家たちの敵対する主張の間に 生じた激烈な対立の歴史である。あるものは神の聖典に記されている神の言葉の中に、あるも のは啓示や信仰や聖なる神秘など、理解できないとしても信じることのできるものの中に、答 えを求めた。またあるものは、公認の神の解釈者――教会と聖職者――の発言の中に答えを求め た。それぞれの教会が同じ答えを出さなかったとしても、あれこれどれかの答えが正しいに違 いないことを疑う人はいなかった。この宗派の答えが間違っていても、別の宗派の答えが正し いと考えられていたのである。あるものは合理的形而上学の中に、あるいは個人の良心の判断 のようなある種の無謬の直感の中に答えを見つけた。さらにあるものは経験的観察、科学の実験室、経験素材への数学的方法の応用の中にそれを発見した。これら困難な問題の真の答えは これであるというさまざまな敵対する主張の間で、絶滅戦争が戦われた。何といっても、誰も が問うているもっとも深遠かつ重要な問題――真の生き方という問題についての答えがかかって いたのである。人々は救済を得るためには死ぬ覚悟でいた。魂は不死で、肉体の死の後で公正 な報いを受けられると信じていたから、なおさらそうであった。しかし、不死や神を信じてい なかったものも、それが真理であると確信できるならば、真理のために苦しみ死ぬ用意があっ た。真理を求めそれに従って生きること、たしかにそれは真理を求めることができる人誰もの 窮極の目標だったからである。これがプラトン派とストア派、キリスト教徒とユダヤ教徒とイ スラム教徒、有神論者と無神論的合理主義者の信じていたことであった。原理と大義――宗教的 なもの、世俗的なものの両方を含めて――のための戦争、さらには人間の生そのものが、この もっとも深い想定がなければ無意味に思われたであろう。  現代の世界観は、この礎石を砕くことによって作り出された。この点をできるだけ単純に言 えばこうである。道徳や政治における客観的真理という観念が懐疑主義や主観主義や相対主義 の登場によって揺るがされたというにとどまらない。万人にとって常にどこでも真である普遍 的な道徳的心理という観念がひっくり返されただけならば、もっと古い体系の中に縫い込める 形で事態を修復できたであろう。人間の必要、人間の性質は風土や土壌や遺伝やさまざまの人 間の制度によって異なっているというふうに言うことができたし、実際にそう言われてきた。 そこでは、各人、各グループ、各人種にそれぞれもっとも必要としているものを与えるような 方程式を作り出すことができた。そして方程式はそれ自体、やはり万人に共通な単一の普遍的 原理から抽出されたのである。必要はさまざまに異なってはいても、すべて人間の必要であ り、環境や事情の差異と変化に対応して同じ人間性が合理的な反応をしているだけであった。 人間と人間にとって必要なことは分析、分類することができ、自然と歴史の知識に照らして互 いに調整、調和させることができ、できるだけ多くの人々のできるだけ多くの必要にたいして 社会的、政治的措置によって最大の可能な充足を与えられるような社会が創造されるであろ う。それが啓蒙思想、とりわけ功利主義の綱領であった。必要の相対性とう枠組の中にあって も、人はいかに生きるべきか、何をなすべきか、正義や平等や幸福とは何かの問題はまだ事実 の問題であると前提されていた。つまり全宇宙の神の御業の観察ではないとしても、人間の本 性の観察によって、心理学、人類学、生理学などの新しい学問によって解決できるものと考え られていたのである。聖職者や形而上学的な賢者に代わって、今では道徳の専門家は科学者、 技術の専門家ということになった。しかし何が正しいかのテストは、やはり合理的人間が自分 で発見できる客観的真理という基準にあった。私が語ろうとしている変化は、これよりはるか に根本的で、すべてを根底からひっくり返すような性質のものであった。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,II,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.210-212,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松 本礼二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




あらゆる人間主義が立脚してきた前提である共通の人間性も、動かし難い客観的な事実のようなものではなく、我々の選択した価値の一つに過ぎないということを、何百万人もの同胞の殺戮という歴史的事実が示した。劣った人々、人種、 文化、民族、階級としての殺戮。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

共通の人間性もまた選択された価値

あらゆる人間主義が立脚してきた前提である共通の人間性も、動かし難い客観的な事実のようなものではなく、我々の選択した価値の一つに過ぎないということを、何百万人もの同胞の殺戮という歴史的事実が示した。劣った人々、人種、 文化、民族、階級としての殺戮。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



人間の永遠の特徴から発生する問題は、各世代で基本的ないし恒久の問題と呼ば れた。
「私はいかに生きるべきか」
「私は何をなすべきか」
「私は何故、そしてどの程度 まで他人に服従すべきか」
「自由、義務、権威とはそれぞれ何か」
「私は幸福、知恵、善良さをそれぞれ求めるべきなのか、それはまた何故か」
「私は私自身の能力を発揮すべきな のか、それとも自分を他者の犠牲にすべきなのか」
「私は自ら統治する権利を持つのか、そ れともうまく統治されることを要求する権利しか持っていないのか」
「権利とは何か、法とは何か、個人、社会、あるいは全宇宙が実現を求めざるを得ない目的といったものがあるのか、そんなものはなくて、食べている食物、育ってきた環境で規定された人間の意志しかない のか」
「集団や社会や民族の意志といったものはあるのか、そこでは個人の世界は一つの断 片にすぎず、その枠組みの中で個人の意志ははじめて何らかの効果や意義を持つのか」



「人類を二つの集団――一方では本来の人間、他方では何か別のより低い人々、劣等の人種、 劣等の文化、人間以下の存在、歴史によって死刑を宣告された民族や階級――に分けることは、 人類史では新しいことである。それは共通の人間性、それ以前の宗教的なものか世俗的なもの かは問わず一切の人間主義が立脚してきた前提を否定することである。この新しい態度から、 人々は自分の同胞の何百万もの人々を完全な人間ではないと見るようになり、彼らを救おうと したり、彼らに警告を与えようとしたりする必要はないと考え、良心の痛みを感じることなく 殺戮できるようになった。そのような行為は通常、野蛮人、未開人――文明の揺籃期によくある 前合理的な精神的態度の人々の行為とされてきた。そのような説明はもはや役に立たない。高 度の知識と技能、さらには一般的教養を身に付けながら、しかも民族、階級、あるいは歴史そ のものの名において他者を容赦なく破滅させることは、明らかに可能なのである。もしこれが 幼児期であるとすれば、いわば高齢化してからの二度目の幼児期、しかもそのもっとも嫌悪す べき形態のものと言わねばならない。人間はいかにしてこのような破目に陥ったのか。   II  現代のこの恐るべき特徴の少なくとも一つの根は、考察に値するであろう。各世代の人々が 問うてきた問題の中には、人間はいかに生きるべきかという根本的な問題があった。この種の 問題は、道徳、政治、社会の問題と呼ばれるが、それは各時代の人々を悩ませ、変わりゆく環 境と思想によって異なった形態を帯び異なった回答を受けてきたが、それでもいくつかはいわ ば一家族の成員たちのように似かよったところがあった。いくつかの問題は他の問題よりも根 強く残った。人間の永遠の特徴から発生する問題は、各世代で基本的ないし恒久の問題と呼ば れた。「私はいかに生きるべきか」、「私は何をなすべきか」、「私は何故、そしてどの程度 まで他人に服従すべきか」、「自由、義務、権威とはそれぞれ何か」、「私は幸福、知恵、善 良さをそれぞれ求めるべきなのか、それはまた何故か」、「私は私自身の能力を発揮すべきな のか、それとも自分を他者の犠牲にすべきなのか」、「私は自ら統治する権利を持つのか、そ れともうまく統治されることを要求する権利しか持っていないのか」、「権利とは何か、法と は何か、個人、社会、あるいは全宇宙が実現を求めざるを得ない目的といったものがあるのか、そんなものはなくて、食べている食物、育ってきた環境で規定された人間の意志しかない のか」、「集団や社会や民族の意志といったものはあるのか、そこでは個人の世界は一つの断 片にすぎず、その枠組みの中で個人の意志ははじめて何らかの効果や意義を持つのか」。国家 (あるいは教会)に対するに個々人と少数者集団、権力や効率や秩序を求める国家の意志に対 するに幸福や身体の自由や道徳原理を求める個人の要求、これらすべては一つには価値の問題 であり、また一つには事実の問題――「すべし」と「である」の問題であった。そして人間は歴 史の記録に残っているかぎり、それらの問題に取りつかれてきたのである。  私は次のように言ってよいと考えている。これら基本問題にたいしてどのような答えが出さ れたにせよ、ともかく18世紀中葉以前にはそれは原理的に答えを出せるものと思われていた。 (たとえあなた自身答えが何かを知らなかったとしても、どのような答えが正しい答えなのか ということまで判らないような問題ならば、それは問題があなたには理解できないということ であり、つまりはそれはもともと問題ではないことを意味した。)価値の問題も事実の問題と 同じような意味で回答できるものと考えられていた。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,I,II,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.208-209,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松本礼二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月9日水曜日

政治的意見を分つ、価値に関する見解の一方は、一切の悪に対する最終的な一つの解決策があり、大多数の人々が有徳で幸福で自由になれるという夢を語る。他方で、人間の気質、才能、ものの見方、願望は永遠に差異を生むので、寛容と均衡によって、人々の間に最大限の共感と理解を促進していくという道を語る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

価値に関する二つの見解

政治的意見を分つ、価値に関する見解の一方は、一切の悪に対する最終的な一つの解決策があり、大多数の人々が有徳で幸福で自由になれるという夢を語る。他方で、人間の気質、才能、ものの見方、願望は永遠に差異を生むので、寛容と均衡によって、人々の間に最大限の共感と理解を促進していくという道を語る。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「現代は、二つの和解させがたい意見の対立を目撃した。一つは、万人に有効な永遠の価値 があることを信じる人々の意見である。すべての人々がまだそれを承認ないし認識していない のは、この最終の目的を理解するだけの道徳的、知的、物質的な能力に欠けているからであ る。歴史の法則そのものの力によって、われわれはその知識にまだ到達していないのかもしれ ない。歴史法則の一つの解釈の仕方によれば、われわれ相互間の関係を歪め、人々を真理にた いして盲目にして、人間生活の合理的組織化を妨げているのは階級闘争である。しかし、いく らかの人々には真理を見抜くだけの進歩は達成された。時が経てば、普遍的解釈がすべての人 にも明らかになるであろう。その時、人類の前史は終わり、真の人間の歴史が始まるであろ う。マルクス主義者と、おそらくはその他の社会主義的で楽観主義的な預言者たちはそう考え ている。人間の気質、才能、ものの見方、願望は永遠に人間の間の差異を生むであろうと断言 する人々は、このような意見を受け容れない。彼らは、画一性は人間を殺し、多様性が許され るだけでなく、むしろ是認され承認されるような開かれた組織の社会でのみ、人間は充実した 生活を送ることができると信じている。広範囲な意見のスペクトラム、J・S・ミルのいう「生 活の実験」という方法がある社会でだけ、人間の可能性がもっとも豊かに展開できる、という のである。そのような社会には、思想と表現の自由があり、見解や意見は互いに衝突する。摩 擦、さらには対立を統制し、破壊と暴力を防ぐための規則があるとしても、その社会では摩擦や対立も許されている。」(中略)  「以上述べた二つの理論は、両立できない。両者は古来の敵対関係にある。両者は、現代的 な装いのもとでは工業組織と人権の対立、官僚的支配と「自分のことは自分でやる」立場の対 立、よい統治と自治の対立、安全と自由の対立として、今日の人類を支配し、一方は他方の抵 抗を受けている。参加的民主主義の要求は、少数派に対する抑圧に転化し、社会的平等を実現 しようとする政策は自己決定の権利を押しつぶし、個人の才能を殺す。しかし、このような価 値の衝突と並んで、古来の夢が根強く生きている。一切の人間の悪にたいする最終的な一つの 解決策があり、ある筈であり、それを発見できるという夢である。革命か平和的な手段かはと もかく、それは確実に到来する。その時には、万人が、あるいは大多数の人々が有徳で幸福、 賢明で善良で自由になるであろう。」(中略)「しかし、究極の価値は互いに両立しないであ ろうし、それが和解させられているような理想の世界という観念が(たんに実践的に不可能と いうだけでなく)観念としても不可能であるという理由で、右の理論は幻想であると信じると すれば、その時には、おそらく人間のなしうる最善のことは、必然的に不安定であるとして も、さまざまな人間集団のさまざまな願望の間に一種の均衡を生み出していくこととなるであ ろう。最小限のところ、その均衡によって人間が互いに他を絶滅させようとするのを阻止し、 できる限り人間が互いに傷つけ合うのを防ぎ、決して完全に実現できないとしても、人間の間 に最大限に実現可能な共感と理解を促進していくことである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『西欧におけるユートピア思想の衰頽』,収録書籍名 『ロマン主義と政治 バーリン選集3』,pp.38-40,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和 (編),河合秀和(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




歴史の各瞬間は充実し、美しく、それぞれの仕方で完結している。すべての時代は新しく、新鮮で、それぞれの希望に満ち、それぞれの喜びと悲しみを内に包み込んでいる。現在は現在のものだ。それなのに人間はこれに満足せず、愚かにも未来をもまた自分のものにしようとする。人生もまた同じ。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

現在は現在のものである

歴史の各瞬間は充実し、美しく、それぞれの仕方で完結している。すべての時代は新しく、新鮮で、それぞれの希望に満ち、それぞれの喜びと悲しみを内に包み込んでいる。現在は現在のものだ。それなのに人間はこれに満足せず、愚かにも未来をもまた自分のものにしようとする。人生もまた同じ。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))


アレクサンドル・ゲルツェン
(1812-1870)














(a) 何でも保存しておきたいという本能的な情熱
 人間には気に入ったものは何でも保存しておきたいという本能的な情熱がある。人は生まれ、それゆえ永遠に生きたいと思う。恋をすれば愛されることを、最初に告白した瞬間と同 じように永遠に愛されることを願う。

(b) 歴史の各瞬間は充実し完結している
 歴史の各瞬間は充実し、美しく、それぞれの仕方で完結している。すべての時代は新しく、新鮮で、それぞれの希望に満ち、それぞれの喜びと悲しみを内に包み込んでいる。現在は現在のものだ。それなのに人間はこれに満足せず、愚かにも未来をもまた自分のものにしようとする。

(c)人生の各瞬間もまた同じ
 我々は、子供が大人になることから、子供の目的は大人になることだと考えていま す。しかし子供の目的は遊ぶことであり、楽しむことであり、子供であることです。もし我々が行き着く先だけに目を向けるならば、生きとし生ける物の目的は死ぬことにあります。



「『人間には気に入ったものは何でも保存しておきたいという本能的な情熱がある。人は生 まれ、それゆえ永遠に生きたいと思う。恋をすれば愛されることを、最初に告白した瞬間と同 じように永遠に愛されることを願う。......しかし生は......何の保証も与えない。生は生存や快楽を 保証することもなければその継続に責任を負うこともない。......歴史の各瞬間は充実し、美し く、それぞれの仕方で完結している。一年一年にそれぞれ春夏秋冬があり、嵐の吹くこともあ れば好天に恵まれることもある。すべての時代は新しく、新鮮で、それぞれの希望に満ち、そ れぞれの喜びと悲しみをうちに包み込んでいる。現在は現在のものだ。それなのに人間はこれに満足せず、愚かにも未来をもまた自分のものにしようとする。......』(中略)  『われわれは、子供が大人になることから、子供の目的は大人になることだと考えていま す。しかし子供の目的は遊ぶことであり、楽しむことであり、子供であることです。もしわれ われが行き着く先だけに目を向けるならば、生きとし生ける物の目的は死ぬことにありま す。』」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『アレクサンドル・ゲルツェン』,収録書籍名『ロマ ン主義と政治 バーリン選集3』,pp.367-368,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),竹 中浩(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




結末だけを見て行為そのものを見ないのは基本的な誤りだ。自然の中には、人間の魂の中と同じように無限の可能性や力が眠っており、自然はあらゆる点で、達成し得ることを全て達成する。歴史も、あらゆる偶然を利用し、一度に何千という扉を叩く。いずれの扉が開かれるかは誰にもわからないのだ。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

自然の中の無限の可能性と力

結末だけを見て行為そのものを見ないのは基本的な誤りだ。自然の中には、人間の魂の中と同じように無限の可能性や力が眠っており、自然はあらゆる点で、達成し得ることを全て達成する。歴史も、あらゆる偶然を利用し、一度に何千という扉を叩く。いずれの扉が開かれるかは誰にもわからないのだ。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))


アレクサンドル・ゲルツェン
(1812-1870)













(a)自然の中の無限の可能性と力
 自然の中には、人間の魂の中と同じように無限の可能性や力が眠っており、適当な条件さえ揃えばそれらは発達する。猛烈に発達するであろう。世界を満たすかも知れない。あるいは路傍に倒れるかもしれない。新しい方向をとるかも知れないし、立ち止まるかも知れな い。崩壊するかも知れない。自然は何が起ころうと全く無関心なのだ。
(b) 自然はあらゆる点で、達成し得ることを全て達成する
 結末だけを見て行為そのものを見ないのは基本的な誤りだ。自然は、はかないもの、今だけのものを軽蔑することもない。花が朝開いて夕べに萎れるからといって、バラやユリが石の硬さを与えられなかったといって、誰が自然を咎めるであろうか。自然はあらゆる点で、達成し得ることを全て達成する。
(c) 歴史はあらゆる偶然を利用し、一度に何千という扉を叩く
 生は空想や観念を実現する義務を負わない。生は新しいものを愛する。歴史が繰り返すことはめったにない。歴史はあらゆる偶然を利用し、一度に何千という扉を叩く。いずれの扉が開かれるかは誰にもわからないのだ。



「『自然の中には、人間の魂の中と同じように無限の可能性や力が眠っており、適当な条件 さえ揃えば......それらは発達する。猛烈に発達するであろう。世界を満たすかも知れない。ある いは路傍に倒れるかもしれない。新しい方向をとるかも知れないし、立ち止まるかも知れな い。崩壊するかも知れない。......自然は何が起ころうと全く無関心なのだ。〔外川訳『向こう岸 から』現代思潮社、1970年、53-54頁〕......〔しかしそこではこのように問われるかも知れな い〕こうしたことすべては何のためなのでしょうか。人々の生活は下らない遊戯になってしま います。......人々は小石や砂で何かを築くけれども、結局それはすべて再び崩れ落ちてしまう。すると人間は廃墟の下から這い出してきて、再びその場所を片づけ始め、苔や板切れや壊れた 柱頭で小屋を立てる。そして何世紀にもわたる際限のない苦労ののち、またしてもそれはすっ かり崩壊するのです。......シェイクスピアは、歴史は白痴によって語られる退屈な話だと言いま したが、もっともなことです。......  〔これに対して私は答える〕君はまるで......「人間は死ぬためにだけ生まれてきた」ことを思 い出すために涙を流す、ひどく感じやすい人々のようだ。結末だけを見て行為そのものを見な いのは基本的な誤りだ。鮮やかに咲く大輪の花は植物にとって何の役に立つだろうか。消え 去ってしまうだけの、あのうっとりするような匂いは何の役に立つだろうか。何の役にも立ち はしない。しかし自然はそれほどけちでもなければ、はかないもの、今だけのものを軽蔑する こともない。自然はあらゆる点で、達成し得ることをすべて達成する。......花が朝開いて夕べに 萎れるからといって、バラやユリが石の硬さを与えられなかったといって、誰が自然を咎める であろうか。このみじめで散文的な原理を、われわれは歴史の世界にも妥当させることを望 む。......生は〔文明の〕空想や観念を実現する義務を負わない。......生は新しいものを愛す る。...... ......歴史が繰り返すことはめったにない。歴史はあらゆる偶然を利用し、一度に何千という扉を 叩く。いずれの扉が開かれるかは......誰にもわからないのだ。〔同書、43-45頁〕』」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『アレクサンドル・ゲルツェン』,収録書籍名『ロマ ン主義と政治 バーリン選集3』,pp.366-367,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),竹中浩(訳)

バーリン選集3 ロマン主義と政治 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月8日火曜日

ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではない。主人が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

鎖を愛する奴隷の自由

ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではない。主人が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではな いということに、注目しておく必要がある。好きなように行動できるとして、願望の途上に心 理的ないしその他の障害がないというだけで、自由になるわけではない。この場合、行動の可 能性を変えずに欲望と意向を変えることによって、自由になることもできるからである。主人 が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。歴史 上、良心に欠けた人間の管理者たちが宗教教育を利用して、野蛮で不法な扱いを人々に甘受させたことがあった。このような政策が成功するとすれば――そしてこれら人間の管理者がそのよ うな手段にしばしば訴えると考えてよい理由もある――、そしてその政策の犠牲者たちが(例え ばもと奴隷の哲学者エピクテートスのように)苦痛と侮辱を気にとめないことを学んだとすれ ば、いくつかの専制体制は自由の創造者と呼んでよいことになるであろう。そのような体制は よそに気を引くような誘惑を排除し、願望と情熱を「奴隷化」することによって、個人の選択 ないし民主的選択の領域を拡大する政治制度よりも(仮定からして)一層大きな自由を作り出 しているからである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,p.290,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和(訳)) 

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




たとえ満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が制限されれば不自由である。特に、困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も同じだ。また、精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は自由の行使に必要だが、また別問題である。自由行使に必要な知識もまた同じ。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

保護主義的不自由、自由と知識

たとえ満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が制限されれば不自由である。特に、困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も同じだ。また、精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は自由の行使に必要だが、また別問題である。自由行使に必要な知識もまた同じ。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)保護主義的な不自由について
(a)満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が少なければ不自由
「物理的」なものであれ「精神的」なものであれ、ある人の選択の領域が狭い場合、その人がその状態に満足しているにせよ、また人が合理的になれば唯一の合理的な道が彼にそれだけ明瞭になり、複数の道の間で動揺しなくなるであろうということがどれだけ真実であるにせよ (私はこの命題は誤っていると思う)、このいずれの状況によっても彼がより広い選択の幅 を持つ人よりも必ずや自由であるということにはならないであろう。

(b)困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も不自由
 障害の横たわっている道 に入りたいという願望を除去することによって障害を除 けば、心の静安、満足、あるいは知恵までもが大きくなるかもしれない。しかし自由は大きくならない。

(2)自由と知識の問題
(a)精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和
 精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は、きわめて望ましい条件であり、この条件はかなりの数の障害を除去する。またこれは、他のすべての自由のための必要条件である。しかし、だからといって問題の自由があるかどうかとは、別問題である。

(b)自由であることを知ること
 どのような道が前にあるか、それがどれだけ開かれているかをよりよく知れば、それだけ自分が自由であることを知るようになるであろう。知らなかったけれども扉は開いていたのだということを後になって発見した人は、無知について後悔しても、自由の欠如について後悔することはないであろう。

(c)自由の行使に必要となる知識
 知識が自由の行使にとって不可欠の条件となることもあろう。その 途上にある障害がそれ自体で自由剥奪、つまり知る自由の剥奪となることもある。無知は道を 閉ざす。知識は道を開く。


「「物理的」なものであれ「精神的」なものであれ、ある人の選択の領域が狭い場合、その 人がその状態に満足しているにせよ、また人が合理的になれば唯一の合理的な道が彼にそれだ け明瞭になり、複数の道の間で動揺しなくなるであろうということがどれだけ真実であるにせ よ(私はこの命題は誤っていると思う)、このいずれの状況によっても彼がより広い選択の幅 を持つ人よりも必ずや自由であるということにはならないであろう。障害の横たわっている道 に入りたいという願望、さらにはその道についての意識さえも除去することによって障害を除 けば、心の静安、満足、あるいは知恵までもが大きくなるかもしれない。しかし自由は大きく ならない。精神の独立――正気と人格の一貫性、健康と内面の調和――は、きわめて望ましい条件 であり、かなりの数の障害を除去することによって、それだけの理由で自由の一種と見なされ る資格を有しているであろう。しかしその自由は、多くの種類の自由の中の一つでしかない。 ある人は、この種の自由は他のすべての自由のための必要条件であるという意味で、少なくと も独自性があるというかもしれない。私が無知で執念にとらわれ非合理的であるならば、私は そのことによって事実にたいして盲目になり、こうして盲目になった人は事実上、可能性が客 観的に閉ざされている人と同様に自由でないことになる、というのである。しかし私には、この種の議論は正しいとは思えない。私が自分の権利に無知であり、あるいは神経症にかかって (あるいは貧乏であるがために)その権利から利益を得られないでいれば、それは私にとって 無用のものとなるであろう。しかし、だからといってその権利が存在しないことにはならな い。他の開かれた扉に連なる路上に、一つの扉が閉ざされているという状態なのである。自由 の条件(例えば知識、金銭)が破壊されている、あるいは不足していることは、自由そのもの が破壊されていることではない。自由の価値は自由の利用可能性にかかっているとしても、自 由の本質は自由の利用可能性に依存していない。より多くの大道を歩むことができ、その大道 がより広く、それぞれの大道がさらに多くの道に向かって開かれていれば、それだけ人は自由 である。どのような道が前にあるか、それがどれだけ開かれているかをよりよく知れば、それ だけ自分が自由であることを知るようになるであろう。自ら知らずして自由であることが、痛 烈な皮肉になる場合もある。しかし、知らなかったけれども扉は開いていたのだということを 後になって発見した人は、無知について後悔しても、自由の欠如について後悔することはない であろう。自由の範囲は行動の可能性にかかっており、その可能性についての知識に依存して はいない。もちろん、その知識が自由の行使にとって不可欠の条件となることもあろう。その 途上にある障害がそれ自体で自由剥奪――つまり知る自由の剥奪となることもある。無知は道を 閉ざす。知識は道を開く。しかしこれが自明の理であるからといって、自由は自由の意識を含 むことにならないし、ましてや自由と自由の意識とが同じであえるということにもならな い。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.288-290,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




新しい知識は我々の合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、我々の力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

知識と自由

新しい知識は我々の合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、我々の力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「知識によってわれわれが一層自由になるのは、現実に選択の自由がある場合である。知識 にもとづいて、その選択の自由がない場合とは別の行動ができる場合である。できるであっ て、しなければならないとか現実にするというのではない。つまり新しい知識を得たことに よって別の行動ができ、そして別の行動をする場合であって、必ずしも別の行動をする必要は ない。まず初めに自由がなければ、そして自由の可能性がなければ、自由を大きくすることは できない。新しい知識はわれわれの合理性、真理を把握する力を強め、理解力を深め、われわ れの力と内的な調和、智慧と効力を大きくするが、必ずしも自由を大きくするわけではない。 選択の自由があるならば、増大した知識によってこの自由の限界が何であるか、何がその自由 を拡大し縮小させるかを知ることができるであろう。しかし私には変えることができない事実 と法則があることを知るだけでは、私が何かを変えることができるようにはならない。そもそ も自由がなければ、知識があっても自由が大きくなるわけではない。すべてが自然法則によっ て支配されているとすれば、知識によってその法則をよりよく「利用」できるといっても無意 味であろう。意味があるとすれば、その「できる」が選択「できる」ことを意味している場合 だけである。つまりさまざまな道の中から私が選ぶことができるといえるような状況、何か一 つの道を選ぶように厳格に決定されていないような状況にだけ適用されるような「できる」の 場合だけである。いいかえれば、もし古典的決定論が正しい見方であるとしても(それが現代 の慣行と合致していないという事実は、それにたいする反論とはなりえない)、それについて 知っても自由は大きくならないであろう――自由が存在していなければ、それが存在していない ということを発見しても自由が作り出されてくることにならない。これは、徹底的に展開され た機械論的-行動論的な決定論についてと同様に、自己決定論にも当てはまることである。」 

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.274-275,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志と逃れ難いもの

真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)私の支配の外にある要因
 真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させ、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、無制限ではない。

(2)逃れ難いもの、自然法則、言語、諸命題で認識できる諸事実、諸法則
 私が合理的で正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。

(3)物質、他者、私自身に関する諸事実、諸法則
 私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう に助けてくれる

(4)真の選択、偽りの選択、逃れ難いもの
 真の選択と偽りの選択とを区別する過程で、それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりなく、私は自分には逃れ難い本性があるのに気づく。


「いわずもがなのことであるが、次のようなことは言っておく必要があると思う。未来につ いて、未来の事実がしっかりと固まってすで形成されたものと見るのは、物の見方として虚偽 である。われわれ自身の行動と他の人々の行動を、全体としてあまりに強くて抵抗しえないよ うな力によって説明しようとするのは、もともと事実によって説明してよいことの範囲を超え ているから、経験的に誤りである。この理論は、極端な形態にまで押しつめれば、決定なるも のを一撃で粉砕してしまう。つまり、私は私自身の選択によって決定されるということになる であろう。そうでないと信じること――例えば決定論、宿命論、偶然論などに立って――は、それ 自体で一つの選択であり、むしろそれ故に一層卑怯な選択である。けれども、このような傾向 はまさしくそれ自身で人間の特性の一つの現れであると論じることも、たしかに可能である。 未来を――過去との対称的な対比で――変更不可能なものと見なすこのような傾向、あるいは言い 訳を求め、逃避主義的な夢想に走り、責任から逃亡しようとするのは、それ自体が心理的な事 実である。自己欺瞞とは、もともと私が意識的に選べないものである。私がこのような結果に なるとは知りつつも、しかしその結果を避けないように行動することもあるであろう。しか し、選択と強制された行動との間には差異がある。強制そのものが、過去の強制されざる選択 の結果であったとしても、両者は別である、私の抱いている幻想が、私の選択の分野を決定す る。己を知ること――幻想を破ることがこの分野を変える。つまり、現実に(いわば)何ものか が私を選択しているにもかかわらず、私は自分がそれを選択したのだと考えるのではなく、私 が真に選ぶことを《より》可能にするのである。しかし、真の選択と偽りの選択とを区別する 過程で(それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりな く)、私は自分にはのがれがたい本性があるのに気づく。私にはできないものが、いくつかあ る。私が(論理的にいって)合理的ないし正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。おそらくある意味では、その両者をそれぞれ同時に 試みることはできるであろうが、それでも、合理的であるということは、私がそれに失敗する ということを意味しているはずである。私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう にたすけてくれる。それは、偽りの主張と言い訳をあばき出す。責任をあるべきところに固定 し、偽りの無実の申し立てと真に無実の人々にたいする偽りの非難をしりぞける。しかしそれ は、真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させるであろう。そして無限の知識は、私を無限に合 理的にしていくことであろう。それは私の力、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、私を無限に自由にすることはできない。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.263-265,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月7日月曜日

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由への障害から自由意志を考える

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)選択における障害、自由の程度
 私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別する基本的な特徴であり、自由には選択行為にたいする障害がないことによって定められる程度があるということが、中心的な想定になっている。
《概念図》
 因果的変化(決定論的)
  状態1→状態2
 因果的変化(非決定論的)
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つに変化
 選択
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つを選択
  ・可能でない状態は障害がある状態
  ・障害は因果的法則の結果である

(2)自由な選択は先行する諸条件によって完全には決定されていない
 選択は、それ自体が先行する諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性、開かれた道を前提としている。


(3)選択肢を制限する障害は、因果的に理解可能
 非決定論的な因果的変化のどの特定部分が人間の自由意志に相当するのかを指し示すことや、またその変化が、なぜ自らの能動、自己決定と考えられるのかの解明が困難であっても、選択肢を制限する障害は、因果的に理解することができ、これは、合理性と知識に緊密に関わる。

(4)障害の例
 障害は多様であり、充分には認識できない。物理的なもの、精神的なもの、社会的要因、個人的要因。地理的条件、牢獄の壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威。心理的であ る場合は、恐怖感、コンプレックス、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神経症、精神病など。

(5)障害からの解放手段
 道徳的自由、合理的な自己統制、すなわち何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること、確かにこれら全ては障害からの解放をもたらすであろう。



「私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別す る基本的な特徴であり、自由には程度――選択行為にたいする障害がないことによって定められ る程度があるということが、中心的な想定になっている。ここでの選択は、それ自体が先行す る諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。他の問題におけると同様、ここでも通常の感覚の方が間違っているのかもしれない。しか しそれに反駁する責任は、それに賛成しない人の側にある。通常感覚が自由の障害がどれだけ 多様であるかを充分に意識していないということもある。障害は物理的でも精神的でもある。 「内的」でもあり、「外的」でもある。あるいは両者の要素の複雑な混合でもある。社会的要 因や個人的要因、あるいはその両者のために解明が困難であり、おそらく解明は概念的に不可 能かもしれない。通常の意見は、この問題を過度に単純化しているのかもしれない。しかし私 の思うに、それは本質については――、自由とは行動にたいする障害がないということにかか わっているという点については正しい。これらの障害は、われわれの意図の実現を妨げる物理 的な力――自然のものか人間によるものかは問わず――から成る場合もある。地理的条件、牢獄の 壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威(意図的に武器として 用いられるか、意図せざるものかにかかわりなく)などがそうである。また障害が心理的であ る場合もある。恐怖感、「コムプレックス」、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神 経症、精神病など、多種多様な非合理的要因である。道徳的自由、合理的な自己統制――何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し 合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること――たしかにこれらすべては障害からの解放をもたらすであろう。その障害の一部 には、人類の進路におかれたものの中でもっとも恐るべき、かつ陰険なものも含まれているで あろう。プラトンからマルクスとショーペンハウエルにかけての道徳論者は、この障害につい て鋭い、しかし散発的な洞察を行ってきた。しかしその力が全体として充分に理解されるよう になったのは、ようやく精神分析学の登場とその哲学的含意が知覚されるようになった今世紀 のことであった。この意味での自由概念の有効性を否定し、それが合理性と知識にたいして緊 密な論理的依存関係にあることを否定するのは、愚かなことであろう。自由がすべてそうであ るように、この自由も障害の除去から成り、あるいはそれに依存している。この場合の障害と は、人間の力の全面的な行使――人がいかなる目的を選ぼうと――にたいする心理的な障害物のこ とである。しかしこの障害は、それがいかに重要で、これまでいかに不充分にしか分析されて こなかったにせよ、障害の一部分でしかない。他の部類の障害、他のよりよく認識されている 形態の自由を無視して、このような障害だけを強調すれば、問題が歪曲されていくことになる であろう。そして私の思うに、ストア派からスピノザ、ブラッドレー、スチュアート・ハムプ シャーにかけて、自由を自己決定にだけ限定してきた人々は、まさにこの歪曲を行ってきたの である。  自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性――少なくとも二つの邪魔のない「開かれた」道を前提としている。それ はまた、いくつかの道を開いておくような外的な状況にかかっているであろう。人や社会が享 受している自由の幅について語る時にわれわれの念頭にあるのは、思いにその人と社会の前に 開かれている道の広さないし幅、いわば開かれている扉の数と、その扉がどれだけ広く開かれ ているかということである。しかしこの譬喩は不完全である。実際には「数」と「幅」だけで は不充分だからである。いくつかの扉が他の扉よりもはるかに重要であることもある。個人と 社会の生活にとって、その扉の奥にある利益の方が、はるかに中心的な関心事であることもあ ろう。ある扉は他の開かれた扉に続き、ある扉は閉ざされた扉へと続いている。現実の自由が あり、また可能性としての自由もある。それは、現存ないし潜在的な力――物理的ないし精神的 な力のもと、いくつかの閉ざされた扉をどれだけ容易に開くことができるかにかかっている。 それにしても、いかにして一つの状況を他の状況に照らして測定できるのであろうか。例えば、物質的な必要と安楽さが充分に保障されているという意味で、他人によっても状況によっ ても妨害されていないが、しかし言論と結社の自由は許されていない人がいるとしよう。他方 でより大きな教育の機会、他の人々との自由な交流と結社の機会を有しているが、例えば政府 の経済政策のためにぎりぎりの生活必要物資しか入手できない人がいるとしよう。この二人の どちらがより大きく自由かをどのようにして決定できるであろうか。この種の問題は常に生じ てくるであろう。それは功利主義の著作で、むしろあらゆる形態での非全体主義的な政治の実 践で充分にお馴染みのことである。しかし、たとえ硬くしっかりした基準を提出できないとし ても、人ないし社会の自由の尺度はもっぱら選択可能な可能性の幅によって決定されていると いうことは、依然として事実である。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.285-288,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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