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2020年4月18日土曜日

各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福の要素としての個性

【各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「自分の計画を自分で選ぶ人は、能力のすべてを使う。現実をみるために観察力を使い、将来を予想するために推理力と判断力を使い、決断をくだすのに必要な材料を集めるために行動力を使い、決定をくだすために識別能力を使う必要があるし、決定をくだした後にも、考え抜いた決定を守るために意志の強さと自制心を発揮する必要がある。自分がとる行動のうち、みずからの判断と感情にしたがって決定する部分の比率が高いほど、これらの能力が必要になり、使われることになる。これらの能力を使わなくても、正しい道を歩めるように、誤った道に陥らないように、導かれることもありうる。だがその場合、その人は人間としての価値が高いといえるのだろうか。ほんとうに重要なのは、人がどのような行動をとるかだけではない。その行動をとる人がどのような人間なのかも重要である。人が一生を使って完成し磨き上げていくのが適切なもののなかで、何よりも重要だといえるのは明らかに自分自身である。機械を使えば、それも人間の形をした自動機械を使えば、家を建て、穀物を栽培し、戦争を行い、訴訟を裁き、さらには教会を建てて神に祈ることすらできると仮定しても、人間をそうした自動機械に置き換えるのは大きな損失であろう。現在の先進的な地域に住んでいる人であっても、自然が生み出しうるし、やがて生み出すとみられる人間と比較すればまったく貧弱だといえるにすぎないのだから。人間は機械と違って、ある設計図にしたがって作られているわけではなく、決められた仕事を正確に行うように作られているわけでもない。樹木に似ており、生命のあるものに特有の内部の力にしたがって、あらゆる方向に成長し発展していくべきものなのである。
 人びとがみずからの理解力を使うのが望ましいこと、理性的な判断に基づいて慣習を取り入れ、ときには理性的な判断に基づいて慣習から逸脱する方が、何も考え得ずに慣習に機械的にしたがうより良いことは、おそらく誰でも認めるだろう。各人の理解力が各人のものでなければならないことは、誰でもある程度まで認めている。だが、各人の欲求と衝動もやはり各人のものでなければならず、自分自身の衝動をもっているとき、その衝動がいかに強いものであっても、危険や落とし穴ではまったくないことは、簡単に認めようとはしない。しかし、欲求と衝動も信念や自制心と同様に、完全な人間に欠くことができないものである。そして、強い衝動が危険なのは、適切な均衡が失われているときだけである。つまり、ある意図と好みとが強くなる一方で、それと併存して均衡をとるべき要素が弱く、不活発なときである。人が間違った行動をとるのは、欲求が強いからではない。良心が弱いからである。衝動が強いことと、良心が弱いこととの間には自然な因果関係はない。自然な因果関係はその逆である。ある人の欲求と感情が他人より強く多様だというのは、その人が人間性の素材を豊富にもっているということなのであり、おそらく悪事をはたらく力が強いのだろうが、良いことを行う力もたしかに強いのである。衝動が強いとは、活力があるということの言い換えにすぎない。活力は悪いことに使われるかもしれないが、無気力で無感動な人より活力のある人の方がつねに、良いことを大量に行えるだろう。自然な感情が強い人は、洗練された感情もとくに強くなりうる。個人の衝動が活発で強力なのは感受性が強いからだが、その感受性の強さが源泉となって、美徳を強く求める感情と厳格に自己を律する自制心とが生まれうる。社会が義務を果たし、その利益を守っているのは、こうした感受性を育むことによってであって、英雄を育てる方法が分からないという理由で英雄の素材を排除することによってではない。欲求と衝動が独自のものである人、つまり、鍛錬を積み重ねて育成し修正してきた自分の本性の現れである人は、独自の性格をもった人物だといわれる。欲求と衝動が独自のものではない人は独自の性格をもっておらず、蒸気機関が独自の性格をもたないのと同様である。衝動が独自のものであるうえに、強い衝動を強い意志で制御している人は、活力のある性格をもっている。欲求と衝動の面で個性を伸ばすのを奨励してはならないと考える人は、社会には強い性格をもつ人は不要であり、強い性格をもつ人が多いのは社会にとって不利な条件であって、人びとの活力が平均して高いのは望ましくないと主張していることになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第3章 幸福の要素としての個性,pp.130-133,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:幸福の要素としての個性,欲求,衝動,感情,個性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月22日金曜日

義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務や正・不正に関する諸個人の感情

【義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)~(3)追記。

(1)諸個人の道徳感情
 (1.1)自分たちの道徳感情
  自分や自分と同じ意見の人たちが、そう行動して欲しいと望むように、全ての人が行動すべきだという感情である。
 (1.2)道徳感情に影響を与える諸要因
  (1.2.1)各人の欲求や恐れ、自己利益
   (a)社会的な感情
   (b)妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情
  (1.2.2)偏見や迷信
   (a)社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。
   (b)世俗の支配者や、信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。
  (1.2.3)理性による判断
   社会全体の利益に関する理性的な判断
(2)個人の独立と社会による管理の均衡
 (2.1)個人の独立
 (2.2)社会による管理
  (2.2.1)法律
   法律によって、何らかの行動の規則が定められる必要がある。
  (2.2.2)世論
   法律で規制するのが適切でない多数の点については、世論によって規則が定められる必要がある。
(3)義務や正・不正に関する判断
 (a)それは「自明なこと」ではない
  異なる時代、異なる国では、様々な考えが存在した。しかし、その時代、その国の人々は、その考えが自明なことであり、説明の必要があるとは考えていない。
 (b)それは人間の本性ではなく習慣である
  その考えは習慣であるが、常に第1の天性、人間の本質とさえ理解されてきた。
 (c)それは「好み」の表明ではない
  その考えが、理由によって裏付けられていないのなら、単なる好みの表明に過ぎないことになる。
 (d)それは多数派の「好み」でもない
  また、多数派に支持されているという理由であれば、多数派の好みに過ぎないことになる。
(4)義務や正・不正の起源と性質
  義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、「義務や正・不正の感覚・感情論」は誤っており「義務や正・不正の理性論」が真実である。
 (4.1)義務や正・不正の感覚・感情論
  私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (b)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (4.2)義務や正・不正の理性論
  道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (4.2.1)理性と計算の問題
   道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (4.2.2)経験的な証拠に基づく理論
   道徳問題は、議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (4.2.3)目的の連鎖と行為の結果
   道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (a)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (b)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (c)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (d)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓↑
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓↑
 行為が生み出す帰結:行為の価値


  (4.2.4)究極的目的(第一原理)の役割
    複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (i)個々の二次的目的については、人々が合意することができても、特異な状況においては異なる複数の二次的目的どうしが、互いに対立する事例が生じる。これが、真の困難であり複雑な点である。
   (ii)二次的目的が対立し合うような状況で、もし、より上位の第一原理が存在しなければ、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張し合うことになり、これ以上は議論が進まないことになる。このような場合に、第一原理に訴える必要がある。
   (iii)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

  (4.2.5)人間事象の複雑性と、意思決定の困難さ。
   (i)行為の規則を、例外を必要としないような形で作ることができない。
   (ii)ある行為を為すべきか、非難されるべきか、決定することが困難な場合もある。
   (iii)特異な状況における意思決定には、ある程度の裁量の余地が残り、行為者の道徳的責任において選択される。
 「個人の独立と社会による管理の均衡をうまくとるにはどうすべきかという実際的な問題になると、解決されている点はほとんどないのが現実である。誰にとっても、自分の生活を生きるに値するものにしようとすると、他人の行動を制限することが不可欠になる。したがって、まずは法律によって、そして法律で規制するのが適切でない多数の点については世論によって、何らかの行動の規則が定められていなければならない。その規則がどのようなものであるべきかは、人びとの生活にとって主要な問題である。しかしこの問題は、いくつかの目立った例外があるが、全体としては理解がとくに遅れている。その理由はいくつもある。どの二つの時代、ほぼどの二つの国でみても、この問題への答えが同じだということはない。ある時代、ある国の答えは他の時代、他の国の人にとって理解しがたいものである。ところがどの時代、どの国の人も自分たちの答えに問題があるなどとは思わず、人類がはるか昔からその答えに同意してきたかのように考えている。自分たちの間で確立した規則は自明だし、根拠を示す必要すらないと思えるのである。ほぼどの時代、どの国でもこのように錯覚されているのは、習慣というものの魔術を示す例のひとつである。習慣は第二の天性だといわれるが、それだけでなく、つねに第一の天性だと誤解されているのだ。以上のように、人々が互いに課している行動の規則は、習慣になっているために疑問が持たれにくいのだが、それだけではない。行動の規則については一般に、他人に対しても自分に対しても理由を示す必要があるとは考えられていないので、習慣の影響がさらに強くなっているのである。人は通常、この種の問題では理性よりも感情の方が重要なので、理性的な判断によって理由を明確にする必要があるわけではないと考えているし、哲学者として認められたいと望む人もこの考えを後押ししている。人が行動の規則に関する意見で実際に指針としているのは、各人の心のなかにある感情、つまり、自分や自分と同じ意見の人たちがそう行動してほしいと望むようにすべての人が行動すべきだという感情である。もちろん、判断の規準が自分の好みだとは、誰も認めようとしない。しかし、行動に関する意見は、しっかりした理由によって裏付けられていないのであれば、その人の好みだといえるにすぎない。そして理由があげられていても、同じような好みをもつ人が多いというにすぎないのであれば、ひとりの好みではなく多数の人の好みだといえるだけである。しかし自分の好みは普通の人にとって、道徳や好き嫌い、礼儀のうち、自分が信じる宗教の信条にはっきりとは書かれていない部分について、完全に満足できる理由だし、それ以外の理由は考えていないのが通常である。信条にはっきりと書かれている点についてすら、自分の好みがそれを解釈する際の最大の指針になっている。このため、称賛すべき点と非難すべき点についての各人の意見は、他人の行動に関する望みを左右するさまざまな要因から影響を受けている。そして、どのような問題でもそうであるように、この問題でも各人の望みに影響を与える要因はきわめて多い。ときには理性による判断であり、ときには偏見や迷信であり、社会的な感情の場合も多いし、妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情の場合も少なくない。だが、もっとも一般的な要因は各人の欲求や恐れ、つまり各人の自己利益であり、これには正当なものと不当なものとがある。支配階級がある国では、その国の社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。古代スパルタの市民と奴隷、アメリカの植民者と黒人、国王と臣民、領主と農奴、男と女などの関係を規定する道徳は大部分、支配階級の利益と感情から生まれたものである。被支配階級との関係によって生み出された道徳感情は、支配階級内部の人間関係を規定する道徳感情にも影響を及ぼす。これに対して、過去の支配階級が支配的な立場を失った社会や、支配階級による支配が嫌われるようになった社会では、支配に対する強い嫌悪がその社会で一般的な道徳観の特徴になっていることが多い。もうひとつ、大きな要因をあげよう。行動すべき点と行動してはならない点の両面にわたって法律や世論によって強制されてきた行動の規則を決める大きな要因に、世俗の支配者や信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。そこからまったく純粋な憎悪の感情が生まれる。魔術師や異端者を焼き殺すほどの憎悪が生まれるのである。以上にあげてきたように、道徳感情にはさまざまな低級な要因が影響を及ぼしており、そのなかでもちろん、社会全体の明らかな利益がひとつの要因、それも大きな要因になっている。だが、社会全体の利益に関する理性的な判断や、社会全体の利益そのものよりも、そこから生じた好悪の感情の方が、大きな影響を与えている。そして、社会の利益とは無関係な好悪の感情が、道徳の確立にあたって社会の利益と変わらないほど大きな影響を与えているのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.17-21,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:義務や正・不正に関する諸個人の感情,欲求,道徳感情,自己利益,感情,偏見,迷信,社会道徳,宗教,理性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月3日土曜日

意志とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。意志は善のための手段であり、目的を実現する傾向があるが、目的が習慣化し、快・不快、欲求、真の善から乖離する場合もある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

意志

【意志とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。意志は善のための手段であり、目的を実現する傾向があるが、目的が習慣化し、快・不快、欲求、真の善から乖離する場合もある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)(3.3)追記。
(4.2)~(4.4)追記。


(1)善とは何か。
 (1.1)それ自体が快楽であるものか、快楽を得たり苦痛を避けるための手段であるものを別にすれば、人間にとって善であるものはない。
 (1.2)例えば、音楽のような何らかの快楽や、健康のように苦痛を回避することは、それ自体として、それ自体のために望まれており、望ましいのである。
 (1.3)上の原理を基礎として、行為として何が「正しい」のかが解明できる。
(2)欲求とは何か。
 (2.1)それ自体が快楽であるものを得ようとする情念、苦痛から逃れようとする情念である。
 (2.2)それ自体が快楽であるものを得るための手段も、それ自体として望まれるようになり、そして、当初の目的以上に、強く望まれるようになる場合がある。次の例がある。
  (a)金銭欲:金銭を所有したいという欲求は、しばしばそれを使用したいという欲求よりも強い。
  (b)権力欲、名誉欲:もともとは、私たちの他の願望を実現するために、計り知れないほど助けとなる手段となるために、強く望まれるようになった。
 (2.3)すべての欲求は、善の源泉である。しかし、欲求の中には、個人を彼の属している社会の他の構成員にとって有害にしかねない場合もあり、「全体の幸福を促進する」という原理から、それらの欲求を制御する必要性が要請される。

(3)目的と意志とは何か。
 当初に欲求された、それ自体が快楽であるものを得ること、または苦痛から逃れることを「目的」として、その手段を熟慮する。「意志」とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。
 (3.1)意志は、善のための手段である。
  意志は、習慣化された作用である。意志は、善のための手段であって、それ自体が善であるわけではない。習慣化によって、人間の感情と行為に確実性がもたらされ、ある人の感情と行為が、他の人にとって信頼のできるものとなる。
 (3.2)目的は、習慣化する場合がある。
  習慣化された場合には、何かを望んでいるからそれを意志するようになるのではなく、しばしば何かを意志するからそれを望むようになる。
 (3.3)目的は、欲求と乖離する場合がある。
  当初に欲求された目的が、自分の性格や感受性が変わって快楽が減退したり、目的を追求しているうちに、苦痛が快楽を大幅に上回ってくるような場合もある。

(4)欲求、意志と行為の関係
 (4.1)徳とは何か。
  「正しい」目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用、すなわち正しい「意志」を持つこと。
  参照:利害関心を離れた徳への欲求は、金銭欲や権力欲、名誉欲と同様に、快楽を追求し苦痛から逃れるという究極目的のための手段が、それ自体として望まれるようになった習慣化された欲求である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)徳は、善のための手段である。
   意志が、善のための手段であるとすれば、徳も善のための手段である。しかも、最も重要な手段である。徳は、個人を社会の他の構成員にとって好ましいものにする。
  (b)利害関心を離れた徳への欲求
   徳それ自体を望む人は、徳を意識することが快楽であるか、徳がないことを意識することが苦痛であるかのいずれか、あるいは両方の理由から、徳を望んでいるのである。仮に、徳が生み出す傾向にあり、それがあるから有徳とされるような望ましい結果を生み出さないとしても、それ自体が望ましいと感じる。
  (c)利害関心から欲求された徳
   徳を快楽、徳の欠如を苦痛と感じない人が、それでも徳を望むとすれば、利害関心から、すなわち自分や大切に思っている人にとって、別の利益があるかもしれないという理由を持っていることも、あり得るだろう。
 (4.2)無意識な行為
  欲求や目的を意識することなく為される行為。行為が終わった後に、はじめて意識されることもある。
 (4.3)意志による悪い習慣的行為
  目的が習慣化しており、欲求からも乖離してしまっている行為。例として、悪質で有害な耽溺という悪弊に陥っている人の例。
 (4.4)意志による善い習慣的行為
  目的は欲求と適合しており、目的を追求するために、熟慮された手段が継続的に遂行されている。
 「ありうる反論は、欲求は究極的には快楽や苦痛の除去以外にも向けられることがあるかというものではなく、意志は欲求とは別のものであるというものだろう。つまり、確固とした徳をもった人間、あるいはその他の目的がしっかりと定められている人は、目的をもくろんでいるときに得られたり目的が成就したときに得られたりするであろう快楽について考えたりすることなく目的を達成するし、性格が変わったり受動的感受性が弱まっていくことによってそれらの快楽が大幅に減退していったり、目的を追求しているうちに苦痛が快楽を大幅に上回るようになっていったりしたとしても、目的に向かって努力を重ねるだろう。これらすべてのことは私は完全に認めているし、このことについて他のところで他の誰にも劣らずはっきりと強く述べている。能動的な現象である意志は受動的な感性の状態である欲求とは別のものであり、もともとは欲求から派生したものであったが、やがて根を生やし、親株から分かれることもある。したがって、習慣となっている目的の場合、何かを望んでいるからそれを意志するようになるのではなく、しばしば何かを意志するからそれを望むようになる。しかし、これは習慣の力というよく知られた事実の一例にすぎず、けっして道徳的な行為の場合に限定されるものではない。人はもともとは何らかの動機から始めた多くのどうでもよいことを習慣で続けている。これは無意識になされ行為が終わった後になってはじめて意識されることもあれば、自覚的な意欲によって始められたが、その意欲が習慣となっていて、悪質で有害な耽溺という悪弊に陥っている人によくあるように、熟慮した上での選好に反しているかもしれないような習慣の力でなされている場合もある。第三の、最後の場合として、確固とした徳をもっている人や熟慮した上で堅実にはっきりした目的を追求しているすべての人々の場合のように、個別事例における意志による習慣的行為が、別の場合に優勢な一般的意図と矛盾することなく、それを実現している場合がある。このように理解される意志と欲求の区別はれっきとしたきわめて重要な心理的事実である。しかし、この事実が意味しているのは、私たちの身体の他のあらゆる器官と同じく、意志は習慣の影響を受けやすいということと、それ自体としてもはや望んでいないことを習慣から意志したり、意志するがゆえにそれを望んだりする場合があるということのみである。とはいえ、意志は当初は完全に欲求によって生み出されたものであるということも真実であり、この欲求という言葉には、快楽を引きつける作用とともに苦痛に抵抗する作用も含まれている。正しいことをしようとする確固とした意志をもっている人についてはこれくらいにして、有徳であろうとする意志がまだ弱く、誘惑に負けがちで、十分に信頼のおけないような人について考察することにしよう。このような意志はどのような手段によって強くすることができるだろうか。有徳でありたいという意志が十分に強くないときに、それはどのようにして教え込んだり呼びおこしたりすることができるだろうか。人に徳を《望ませる》こと――徳について快楽と結びつけて、あるいは徳がないことを苦痛と結びつけて考えさせること――によるしかない。正しいことをおこなうことを快楽と結びつけたり不正なことをおこなうことを苦痛と結びつけることによって、あるいは快楽が一方に、苦痛が他方に自然に伴うということを明らかにして印象づけ、人の経験に刻みこむことによって、有徳でありたいという意志を呼びおこすことが可能になるし、この意志は確立されれば、快楽や苦痛について考えることがなくても働くようになる。意志は欲求の子であるが、親の支配から抜け出ると習慣の支配下に入る。習慣の結果であるものを本質的に善であると推定することはできない。徳が習慣によって支えられるようになるまでは、徳に駆り立てるような快楽や苦痛との連想による作用が的確で一貫した行為にとって十分に頼りにならないというわけではないとしたら、徳という目的が快苦とは独立すべきであると望むことには何の理由もないだろう。感情にとっても行為にとっても習慣こそが確実性をもたらすものであり、正しいことをしようとする意志がこのように習慣的に独立なものになるくらいまで涵養されるべきなのは、ある人の感情や行動を完全に信頼できるということが他の人にとって重要だからである。言い換えれば、意志のこのような状態は善のための手段であって、それ自体は本質的に善ではない。そして、これは、それ自体が快楽であるものか快楽を得たり苦痛を避けるための手段であるものを別にすれば、人間にとって善であるものはないという理論とも矛盾しない。
 この理論が正しいとすれば、功利性の原理は証明されたことになる。そうなのかどうかは、良識ある読者の判定に委ねなければならない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第4章 功利性の原理についてのどのような証明が受け入れ可能か,集録本:『功利主義論集』,pp.309-311,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:意志,目的,手段,欲求,快・不快,善)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月2日金曜日

利害関心を離れた徳への欲求は、金銭欲や権力欲、名誉欲と同様に、快楽を追求し苦痛から逃れるという究極目的のための手段が、それ自体として望まれるようになった習慣化された欲求である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

徳への欲求

【利害関心を離れた徳への欲求は、金銭欲や権力欲、名誉欲と同様に、快楽を追求し苦痛から逃れるという究極目的のための手段が、それ自体として望まれるようになった習慣化された欲求である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)善とは何か。
 (1.1)それ自体が快楽であるものか、快楽を得たり苦痛を避けるための手段であるものを別にすれば、人間にとって善であるものはない。
 (1.2)例えば、音楽のような何らかの快楽や、健康のように苦痛を回避することは、それ自体として、それ自体のために望まれており、望ましいのである。
 (1.3)上の原理を基礎として、行為として何が「正しい」のかが解明できる。
(2)欲求とは何か。
 (2.1)それ自体が快楽であるものを得ようとする情念、苦痛から逃れようとする情念である。
 (2.2)それ自体が快楽であるものを得るための手段も、それ自体として望まれるようになり、そして、当初の目的以上に、強く望まれるようになる場合がある。次の例がある。
  (a)金銭欲:金銭を所有したいという欲求は、しばしばそれを使用したいという欲求よりも強い。
  (b)権力欲、名誉欲:もともとは、私たちの他の願望を実現するために、計り知れないほど助けとなる手段となるために、強く望まれるようになった。
 (2.3)すべての欲求は、善の源泉である。しかし、欲求の中には、個人を彼の属している社会の他の構成員にとって有害にしかねない場合もあり、「全体の幸福を促進する」という原理から、それらの欲求を制御する必要性が要請される。
(3)目的と意志とは何か。
 当初に欲求された、それ自体が快楽であるものを得ること、または苦痛から逃れることを「目的」として、その手段を熟慮する。「意志」とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。
 (3.1)意志は、善のための手段である。
  意志は、習慣化された作用である。意志は、善のための手段であって、それ自体が善であるわけではない。習慣化によって、人間の感情と行為に確実性がもたらされ、ある人の感情と行為が、他の人にとって信頼のできるものとなる。
(4)欲求、意志と行為の関係
 (4.1)徳とは何か。
  「正しい」目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用、すなわち正しい「意志」を持つこと。
  (a)徳は、善のための手段である。
   意志が、善のための手段であるとすれば、徳も善のための手段である。しかも、最も重要な手段である。徳は、個人を社会の他の構成員にとって好ましいものにする。
  (b)利害関心を離れた徳への欲求
   徳それ自体を望む人は、徳を意識することが快楽であるか、徳がないことを意識することが苦痛であるかのいずれか、あるいは両方の理由から、徳を望んでいるのである。仮に、徳が生み出す傾向にあり、それがあるから有徳とされるような望ましい結果を生み出さないとしても、それ自体が望ましいと感じる。
  (c)利害関心から欲求された徳
   徳を快楽、徳の欠如を苦痛と感じない人が、それでも徳を望むとすれば、利害関心から、すなわち自分や大切に思っている人にとって、別の利益があるかもしれないという理由を持っていることも、あり得るだろう。
 「功利主義理論は人々が徳を望むことを否定したり、徳は望まれるべきものではないと主張しているのだろうか。まったく反対である。それは、徳は望まれるべきだけでなく、利害関心を離れてそれ自体として望まれるべきであるとも主張している。何らかの徳を徳たらしめた当初の条件についての功利主義道徳論者の見解がどのようなものであったとしても、そして、行為や性向は徳以外の別の目的を促進するからこそ有徳であるということをどれほど信じていようとも(彼らは実際にそうしているのだが)、このことが認められ、この説明に基づいて何が《有徳》なのか決定されたならば、功利主義道徳論者は、究極目的のための手段として善であるものの筆頭に徳を位置づけるだけでなく、徳以外の目的に注意を向けることがなくても個人にとって徳がそれ自体として善になりうることを心理的事実として認めるだろう。そして、精神がこのように――個々の事例においては、徳が生み出す傾向にあり、それがあるから有徳とされるような望ましい結果を生み出さないとしても、それ自体が望ましいものとして――徳を大事にしていないならば、精神は正しい状態にも、功利性に適合した状態にも、全体の幸福にもっとも資する状態にもないと考えている。この見解は幸福原理から少しも逸脱していない。幸福を構成する要素はきわめて多様であり、それぞれの要素は[幸福の]総量を増すと考えられるときにのみ望ましいのではなく、それ自体として望ましいものである。功利性の原理は、たとえば音楽のような何らかの快楽や、たとえば健康のように苦痛を回避することが、幸福と名づけられた何らかの集合的なもののための手段と見なされるべきだとか、そのような理由によって望まれるべきだとは言っていない。それらはそれ自体として、それ自体のために望まれており、望ましいのである。それらは手段であるだけでなく目的の一部である。功利主義理論にしたがえば、徳は自然的にも本来的にも目的の一部ではないけれども、そうなりうるものである。そして、利害関心を離れてそれを大事にする人にとっては徳はそうなっているのであり、幸福のための手段としてではなく自らの幸福の一部として望まれ大切にされているのである。
 このことをさらに明らかにするためには、他の何かにとっての手段でなかったなら関心をもたれることはなかったが、それを手段とする何かに結びつけられることによって、もともとは手段であったものがそれ自体として望まれるようになり、そしてこの上なく強く望まれるようになるのは徳だけではないということを思い起こすのがよいかもしれない。たとえば、金銭欲についてはどう言えばよいだろうか。金銭はもともとは輝く水晶の塊のように望まれるようなものではなかった。その価値はそれによって買うものの価値しかなく、[金銭欲は]別のものにたいする欲求であり、それ自体はその欲求を満足させる手段である。にもかかわらず、金銭欲は人生においてもっとも強い原動力の一つであるだけでなく、多くの場合、金銭はそれ自体として、そしてそれ自体のために望まれている。金銭を所有したいという欲求はしばしばそれを使用したいという欲求よりも強い。金銭以上の、金銭によって達成される目的に向けられていたあらゆる欲求が減退しても、金銭を所有したいという欲求はさらに強くなっていく。それゆえ、金銭は何らかの目的のために望まれているのではなく目的の一部として望まれているというのが正しいように思われる。幸福のための手段であったものが、それ自体が個々人の幸福についての考えの重要な要素となっているのである。権力や名誉のような人生における重大な目的の大部分についても同じことが言えるだろう。これが言えるのは、直接的な快楽がある程度は付随していて、少なくとも表面的にはそれが内在的なものであると自然に思えるものを別にすればであるが、金銭についてはこれは当てはまらない。とはいえ、権力や名誉の本来的な魅力のうちもっとも強いものは、私たちの他の願望を実現するために計り知れないほど助けとなるということであり、これが権力や名誉とその他のあらゆる欲求の対象との間に生み出された強い連想であり、この連想によって、権力や名誉に対する直接的欲求はしばしば見られるように強いものになり、一部の人々にとっては他のあらゆる欲求をしのぐくらい強いものとなる。この場合には、手段が目的の一部となっており、それが手段であったような他のどの目的よりも重要な目的の一部となっているのである。以前は幸福を獲得するための手段として望まれていたものがそれ自体として望まれるようになったのである。けれども、それ自体として望まれているときには、それは幸福の《一部》として望まれていたのである。人はそれを手に入れるだけで幸福になる、あるいは幸福になれると考えている。そして、それを手に入れることができないと不幸になる。それを望むことは、音楽を愛好したり健康を望むことがそうであるように、幸福を望むことと異なるものではない。それらは幸福に含まれている。それらは幸福への欲求を構成している要素の一部である。幸福は抽象的な観念ではなく具体的なものの集まりであり、これらはその一部なのである。功利主義的基準はこのことを認め同意している。このような自然の配列がなかったとしたら、人生は貧相なものであり、幸福の源泉としてきわめて不十分なものしかもたらさないだろう。自然の配列によって、もともとは私たちの基礎的な欲求を満足させることとは関係なかったけれども、その助けとなったり、そうでなければ関連づけられていたものが、それ自体として、永続性という点でも、それが及びうる人間のあり方の領域という点でも、強さという点ですらも、基礎的な快楽以上に大きな価値をもった快楽の源泉となったりするのである。
 功利主義的な考えにしたがえば、徳はこのような種類の善である。快楽にとって役立つことや、とりわけ苦痛を防ぐことを除けば、それにたいする本来的な欲求や動機はない。しかし、上述のようにしてできた連想によって、それ自体が善であるように思われるようになり、そのようなものとして、他の善と同じように強く望まれるようになる。ただし、徳への欲求と金銭・権力・名誉への欲求の間には、利害関心をはなれた徳への欲求を涵養することほど個人を社会の他の構成員にとって好ましいものにするものはないのに対して、後者の欲求はすべて個人を彼の属している社会の他の構成員にとって有害にしかねないことがあり、しばしばそうしているという違いがある。したがって、功利主義的基準は、全体の幸福を促進するよりも侵害するようにならない程度までそれらの後天的欲求を許容し是認しつつ、徳への欲求を全体の幸福にとって他の何よりも重要なものとして、可能なかぎり涵養することを命じ要求している。
 これまでの考察から、幸福以外に実際に望まれているものはないという結論が引き出される。それ自体ではなく何らかの目的のための手段として、究極的には幸福のための手段として望まれているものは何であっても、それ自体が幸福の一部として望まれており、そうならないかぎり、それ自体が望まれることはない。徳をそれ自体として望む人は、徳を意識することが快楽であるか徳がないことを意識することが苦痛であるかのいずれか、あるいは両方の理由から、徳を望んでいる。実際に快楽と苦痛は別々に存在していることはほとんどなく、ほとんどいつも一緒に存在しているから、同一人物が徳を身につけている程度に応じて快楽を感じながら、徳をそれ以上身につけていないことによって苦痛を感じる。徳を身につけていることが何ら快楽をもたらさず、徳を身につけていないことが何ら苦痛をもたらさないとしたら、人は徳を大事にしたり望んだりしなくなったり、自分や大切に思っている人にとって別の利益があるかもしれないという理由だけから徳を望むようになったりするだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第4章 功利性の原理についてのどのような証明が受け入れ可能か,集録本:『功利主義論集』,pp.304-308,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:徳への欲求,金銭欲,権力欲,名誉欲,善,欲求,目的,意志,徳)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
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2018年6月10日日曜日

1.ホメオスタシス機構の階層:(a)感情、(b)狭義の情動、(c)多数の動因と動機、あるいは欲求、(d)快または苦と結びついている行動、(e)免疫系、(f)基本的な反射、(g)代謝のプロセス(アントニオ・ダマシオ(1944-))

ホメオスタシス機構

【ホメオスタシス機構の階層:(a)感情、(b)狭義の情動、(c)多数の動因と動機、あるいは欲求、(d)快または苦と結びついている行動、(e)免疫系、(f)基本的な反射、(g)代謝のプロセス(アントニオ・ダマシオ(1944-))】
(a)感情
《例》欲望:意識を持つ個体が、自分の欲求やその成就、挫折に関して持つ認識と感情
(b)狭義の情動
《例》喜び、悲しみ、恐れ、プライド、恥、共感など。
(c)多数の動因と動機、あるいは欲求
《例》空腹感、喉の渇き、好奇心、探究心、気晴らし、性欲など。
《定義》欲求:ある特定の動因によって活発化する有機体の行動的状態
(d)快(および報酬)または苦(および罰)と結びついている行動――快楽行動、苦痛行動
《例》自動的な行動であり快や苦の経験が生じるとは限らない。意識される場合は「苦しい、快い、やりがいがある、苦痛を伴う」行動
《定義》特定の対象や状況に対する有機体の接近反応や退避の反応。
《誘発原因》
 ある身体機能の不調
 代謝調整の最適作用
 有機体に損害を与えるような外的事象
 有機体を保護するような外的事象
(e)免疫系
《誘発原因》
 有機体の外部から侵入してくるウイルス、細菌、寄生虫、毒性化学分子など。
 有機体の内部であっても、例えば死滅しつつある細胞から放出される有害な化学分子。
(f)基本的な反射
《例》有機体が音や接触に反応して示す驚愕反射。極端な熱さ、極端な寒さから遠ざけたり、暗いところから明るいところへ向わせたりする、走性、屈性など。
(g)代謝のプロセス
《定義》
・内部の化学的作用のバランスを維持するための、化学的要素(内分泌、ホルモン分泌)と機械的要素(消化と関係する筋肉の収縮など)
《機能》
・体内に適正な血液を分配するための、心拍数や血圧の調整。
・血液中や細胞と細胞の間にある液の酸度とアルカリ度の調整。
・運動、化学酵素の生成、有機体組織の維持と再生に必要なエネルギーを供給するための、タンパク質、脂質、炭水化物の貯蔵と配備の調整。

 「ホメオスタシス機構とは、自動的な生命調整を備えた、多数の枝分かれをもつ、大きな現象の木、と考えることができる。そして多細胞生物の場合、下から上に登っていくと、その立ち木には順に以下のようなものが見えてくるだろう。

 いちばん下の枝にあるのは、
・代謝のプロセス―――この中には、内部の化学的作用のバランスを維持するための化学的要素と機械的要素(たとえば内分泌やホルモン分泌、消化と関係する筋肉の収縮など)が含まれる。これらの作用は、たとえば心拍数や血圧(それにより体内に適正な血液が分配される)、内部環境(血液中や細胞と細胞の間にある液)の酸度とアルカリ度の調整、有機体にエネルギーを供給するために必要なタンパク質、脂質、炭水化物の貯蔵と配備(エネルギーは、運動、化学酵素の生成、有機体組織の維持と再生に必要)などを管理している。

・基本的な反射―――たとえば、有機体が音や接触に反応して示す驚愕反射。あるいは、有機体を極端な熱さや極端な寒さから遠ざけたり、暗いところから明るいところへ向わせたりする、走性、屈性など。

・免疫系―――免疫系は有機体の外部から侵入してくるウイルス、細菌、寄生虫、毒性化学分子などを撃退すべく備えている。興味深いことに、免疫系は、体内の健全な細胞に通常含まれている化学分子でも、それが死滅しつつある細胞から内部環境に放出されると有機体にとって危険であるような場合、そのような化学分子(たとえば、ヒアルロン酸の分解、グルタメート)に対しても備えている。要するに、免疫系は、有機体の完全性が外部からであれ内部からであれ脅かされるときの、第一の防御線である。

 中レベルの枝にあるのは、
・通常、快(および報酬)または苦(および罰)と結びついている行動―――こうしたものには、たとえば、特定の対象や状況に対する有機体の接近反応や退避の反応がある。人間の場合、感じることもできるし何が感じられているかを報告することもできるので、そうした反応は、苦しい、快い、やりがいがある、苦痛を伴うといったように説明される。」

(中略)「苦と快は多くの原因――たとえば、ある身体機能の不調、代謝調整の最適作用、有機体に損害を与えるような、あるいは有機体を保護するような外的事象――によって誘発される。しかし苦や快の〈経験〉は〈苦痛行動や快楽行動の原因ではない〉し、またそうした行動が生じる上で必要なものでもない。次項で述べるように、ひじょうに単純な生物は、たとえそうした行動を感じる可能性が低かったりゼロであったりしても、こうした情動的行動のうちいくつかを実行することができる。

 次に高いレベルにあるのは、
・多数の動因と動機―――主たる例は、空腹感、喉の渇き、好奇心、探究心、気晴らし、性欲、である。スピノザは〈欲求〉というじつに適切な言葉でそれらをひとまとめにし、また意識をもつ個体がそうした〈欲求〉を認識するようになる状況に対して〈欲望〉という言葉を使った。欲求という言葉は、ある特定の動因によって活発化する有機体の行動的状態を意味する。さらに欲望という言葉は、ある欲求をもっていることに対する、そしてその欲求の最終的な成就または挫折に対する意識的感情を意味している。このスピノザの区別は、本章の出発点である情動と感情の区別と、見事に対応している。明らかに人間には欲求と欲望があり、情動と感情がそうであるように、それらはシームレスに結びついている。

 最上部に近いが、最上部ではないレベルにあるのは、
・狭義の情動―――ここには自動化された生命調整のうちのもっとも重要な部分がある。つまり、喜びや悲しみや恐れからプライドや恥や共感まで、狭い意味での情動だ。では、木の最上部には何があるか。答えは単純、感情である。」

(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第2章 欲求と情動について、pp.55-59、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:ホメオスタシス,感情, 情動, 動因, 動機, 欲求, 快, 苦, 免疫系, 反射, 代謝)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

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2018年1月16日火曜日

1.知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求からではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

知識の目的

【知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求からではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求からではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。愛には過ぎることはない。心の楽しみのためとか、争いのためとか、他人を見くだすためとか、利益のためとか、名声のためとか、権力のためとかではない。

 「最後に我々はあらゆる人に全体として忠告したいと欲する。すなわち、知識の真の目的を考えること、知識を心の楽しみのためとか、争いのためとか、他人を見くだすためとか、利益のためとか、名声のためとか、権力のためとか、その他この種の低いことのためにではなく、人生の福祉と有用のために求めること、それを愛のうちに成しとげ支配することである。

それというのも力への欲から天使は堕ち、知識への欲から人は堕ちたのだが、愛には過ぎることはない。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』大革新 序言、p.32、[桂寿一・1978])
(索引:知識の目的)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)



フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
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2017年12月26日火曜日

疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

我思う故に我あり

【疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいうのか。言うまでもなく、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものである。まことにこれは、もし全部が私に属するならば、僅少ではない、しかしなぜ属してはならないであろうか。いま殆ど一切のものについて疑い、しかしいくらかのものは理解し、この一つのことは真であると肯定し、余のことを否定し、一層多くのことを知ろうと欲求し、欺かれることを欲せず、多くのことを意に反してであれ想像し、なおまたいわば感覚からきた多くのものを認めるものは、私そのものではないのか。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察二、p.43、[三木清・1949])

省察 (岩波文庫 青 613-2)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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