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2018年11月27日火曜日

個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の個人に与えるという第2次的ルールが、裁判のルールである。他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含まれる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

裁判のルール

【個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の個人に与えるという第2次的ルールが、裁判のルールである。他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含まれる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 (2.3)ルールの非効率性
  (2.3.1)ルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こり、絶え間なく続く。法の歴史によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如は、最も重大な欠陥であり、他の欠陥より早く矯正される。
  (2.3.2)ルール違反に対する処罰が、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されている。
  (2.3.3)違反者を捕え罰する、集団の非組織的な作用に費やされる時間が浪費される。
  (2.3.4)自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐の連鎖が続く。
  (2.3.5)補われる第2次的ルール:裁判のルール
   個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の個人に与えるというルールを、人々が受け入れている。また、違反の事実を確認した場合、他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含む。
   (a)裁判官、裁判所、管轄権、判決といった概念を定めている。
   (b)裁判のルールが存在するときは、裁判所の決定は何がルールであるかについての権威的な決定であるので、承認のルールにもなっている。
   (c)社会的圧力の集中化、すなわち、私人による物理的処罰や暴力による自力救済の行為を部分的に禁じるとともに、刑罰の適用を命じる排他的権能を定める。

 「第1次的ルールの単純な体制に対する第三の補完は、個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを権威的に決定する権能を個人に与える第2次的ルールからなっているのであって、それは社会的圧力が散漫なため生じるルールの《非効率性》を矯正しようとするものである。裁判の最小限の形態はそのような決定のなかにあり、われわれはそのような決定をする権能を与える第2次的ルールを「裁判のルール」rules of adjudication と呼ぶことにする。このようなルールは、誰が裁判できるかを確認する一方、どういう手続に従うべきかを定めるだろう。他の第2次的ルールと同じように、このルールも第1次的ルールと異なった平面にある。このルールは裁判官に裁判する義務を課すほかのルールによって強化されるかもしれないが、裁判のルールは義務を課すのではなく司法的権能を与えるのであり、責務の違反についての司法的宣言に特別な地位を与えるのである。またこのルールはほかの第2次的ルールと同様に一群の重要な法的概念を定めているのであり、この場合には裁判官、裁判所、管轄権、判決といった概念を定めている。裁判のルールはこのように他の第2次的ルールと類似しているだけでなく、さらに密接な関連をもっている。事実、裁判のルールがある体系は、必然的にまた原初的で不完全な種類のルールにもかかわっているのである。この理由は、もし裁判所がルールが破られたという事実について権威的な決定をなす権能を与えられているならば、この決定は何がルールであるかについての権威的な決定とみなされざるをえないからである。したがって、裁判管轄権を与えているルールは、裁判所の決定によって第1次的ルールを確認する承認のルールにもなるだろうし、こういった判決は法の「法源」となるだろう。裁判管轄権の最小形態と一緒になったこの承認のルールの形態は、たしかに非常に不完全だろう。権威的な原典や法令集と違って、判決は一般的な用語ではあらわされないだろうし、判決をルールへの権威的な指針として用いることは個々の決定からのいくぶん不確実な推論に頼るということであり、そしてその信頼度は解釈者の技術と裁判官の一貫性とに左右されざるをえないのである。
 ほとんどの法体系では司法権能が第1次的ルールの違反の事実についての権威的決定に限られないことは言うまでもない。たいていの体系は、しばらくして社会的圧力の集中化を進めることが有利であると知り、そこで私人による物理的処罰や暴力による自力救済の行為を部分的に禁じたのである。その代わりに、それらの体系は違反に対する刑罰を指定するか少なくとも限定しているより進んだ第2次的ルールで責務の第1次的ルールを補っており、そして裁判官が違反の事実を確認した場合、他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能を裁判官に与えたのである。これらの第2次的ルールが体系の集中化された公的「制裁」sanctions を提供するのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.106-107,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:裁判のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年11月22日木曜日

新しい第1次的ルールを導入、廃止、変更するルールを定める第2次的ルールが、変更のルールである。遺言、契約、財産権の移転など、個人による制限的立法権能も、この変更のルールに基づく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

変更のルール

【新しい第1次的ルールを導入、廃止、変更するルールを定める第2次的ルールが、変更のルールである。遺言、契約、財産権の移転など、個人による制限的立法権能も、この変更のルールに基づく。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.2.5)追加記載。

 (2.2)ルールの静的な性質
  (2.2.1)ルールのゆるやかな成長の過程が存在する。
   (i)ある一連の行為が、最初は任意的と考えられている。
   (ii)その行為が、習慣的またはありふれたものとなる。
   (iii)その行為が、義務的なものとなる。
  (2.2.2)ルールの衰退の過程が存在する。
   (i)ある行為が、最初は厳しく処理されている。
   (ii)その行為への逸脱が、緩やかに扱われるようになる。
   (iii)その行為が、顧みられなくなる。
  (2.2.3)しかし、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しない。
  (2.2.4)また個人は、責務や義務を負うだけで、この責務は、いかなる個人の意識的な選択によっても変えられないし、修正されえない。責務の免除や、権利の移転というような作用も、第1次的ルールの範囲には入っていない。
  (2.2.5)補われる第2次的ルール:変更のルール
   新しい第1次的ルールを導入したり、古いルールを排除する権能を、ある個人または団体に与えるというルールを、人々が受け入れている。このルールは、権能の範囲と手続を含む。
   (a)変更のルールが存在するときは、変更を成立させる諸条件と手続は、変更されたルールを確定させる条件になっているので、承認のルールにもなっている。
    (a.1)例えば、制定法のみがルールを制定・変更できるとするルール
    (a.2)例えば、統治する君主のみがルールを制定・変更できるとするルール
   (b)個人による制限的立法権能の行使も、変更のルールである。すなわち、第1次的ルールに基づいて持っていた最初の地位を、変更する権能を個人に与えるルールである。
    (b.1)「約束」という道徳的な制度の基礎となっているのが、この権能付与のルールである。
    (b.2)例として、遺言、契約、財産権の移転など。

 「第1次的ルールの体制に見られる《静的》な性質に対しては、われわれが「変更のルール」rules of change と呼ぶものを導入することで矯正が行なわれる。そのルールのもっとも単純な形態は、集団あるいはそのなかのある部類の人々の生活における行動を方向づけるために、新しい第1次的ルールを導入し、古いルールを排除する権能を個人または人々の団体に与えるルールである。すでに第4章で論じたように、法の制定、廃止という観念が理解されうるのは威嚇を背景とする一般的命令からではなく、このような変更のルールからである。そのような変更のルールはたいへん単純なものもあれば、たいへん複雑なものもあるだろう。付与される権能は無制限かもしれないし、さまざまま点で制限されているかもしれない。そして、ルールは誰が立法すべきかを明らかにする一方、多少厳密な用語で立法にあたってどういう手続に従うべきかを定めるだろう。明らかに変更のルールと承認のルールとの間には非常に密接な関係があるだろう。というのは、変更のルールが存在するところでは、承認のルールは立法に関係した手続の詳細のすべてにかかわるわけではないが、必然的に立法を、ルールを確認する特徴であると言い及んでいるからである。普通は公的な証明書または公的な謄本があれば、それは承認のルールの下では適正な制定がなされたという十分な証拠とみなされるだろう。もちろん、唯一の「法源」が立法であるような非常に単純な社会構造の下では、承認のルールは、法の制定がルールを確認する唯一のしるし、あるいはその妥当性の唯一の基準であると明記するだけであろう。これに該当するものとして、たとえば第4章で示した想定上のレックス1世の王国があげられるだろう。そこにおいては承認のルールは、およそレックス1世が制定したものは法であるということだけだろう。
 われわれは、個人が第1次的ルールの下でもっていた最初の地位を変更することができるような権能を個人に与えるルールについて、すでにいくらか詳細にのべてきた。私人に権能を付与するそのようなルールがなければ、社会は法によって与えられる主要な快適さをいくぶん欠くだろう。というのは、これらのルールがなしうる作用があってはじめて、法の下での生活を象徴する遺言、契約、財産権の移転をなすこと、そしてその他の多くの任意に設定される権利義務の構造をつくることが可能となるからである。もちろん、こうした権能付与のルールの原初的形態は、また約束という道徳的な制度の基礎ともなっているのであるけれども、これらのルールと立法の観念に含まれている変更のルールは明らかに類似しており、ケルゼンの理論のような最近の理論が示しているとおり、契約や財産権の制度に関してわれわれを悩ましている特徴の多くは、契約の締結、財産権の移転を個人による制限的立法権能の行使として考えれば明らかになるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.105-106,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:変更のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月20日火曜日

第1次的ルールがある特徴を持つが故に、集団のルールであると確定する第2次的ルールが承認のルールである。例として、特別な団体による制定、長い間の慣習、司法的決定の蓄積、権威ある文書への記載等。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルール

【第1次的ルールがある特徴を持つが故に、集団のルールであると確定する第2次的ルールが承認のルールである。例として、特別な団体による制定、長い間の慣習、司法的決定の蓄積、権威ある文書への記載等。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.1.3)追加記載。

 (2.1)ルールの不確定性
  (2.1.1)特定の集団の人々がそのルールを受け入れているという事実の他には、何がルールなのかを確認する標識がない。
  (2.1.2)その結果、何がルールであり、あるルールの正確な範囲が不確定である。
  (2.1.3)補われる第2次的ルール:承認のルール
   第1次的ルールが持つある特徴を明確にし、そのルールが特定の特徴を持てば、集団のルールであることが決定的、肯定的に確定されるようなルールを、人々が受け入れている。
   (a)文書や記念碑(法体系の観念の萌芽)
    (a.1)存在しているルールが、権威的な目録や原典に記載されたり、公の記念碑に刻まれる。
    (a.2)そして、ルールの存在に関する疑いを処理するのに、その文書や記念碑が、権威のあるものとして、人々に受け入れられるようになる。
   (b)ルールの持つ諸特徴(法的妥当性の観念の萌芽)
    (b.1)特別な団体によって制定されたルール(制定法)
    (b.2)長い間の慣習として行なわれてきたルール(慣習)
    (b.3)過去、司法的決定よって蓄積されてきたルール(先例)
    (b.4)ルールの間に起こりうる衝突に対して、どれが優越性を持つかというルール

 「第1次的ルールの体制に見られる《不確定性》を矯正するもっとも単純な形態は、われわれが「承認のルール」rule of recognition と呼ぶものの導入である。これはいくつかの特徴を明確にし、あるルールがこうした特徴をもてば、それは集団が行使する社会的圧力によって支持される集団のルールであることが決定的にまた肯定的に示されるのである。このような承認のルールは非常に多種多様な形態をとって存在し、単純なものもあれば複雑なものもある。多くの社会での初期の法のように、それが存在しているということは、ルールの権威的な目録や原典が文書に見出されるか何か公の記念碑に刻まれているにすぎないだろう。疑いもなく、歴史の問題としては、法以前から法へのこの移行は、それぞれ異なった段階でなし遂げられるだろう。そのうちの最初のものはそれまでに書かれていないルールを単に書きしるすということである。これはたんへん重要な移行であるが、それ自体決定的なものではない。決定的であるのは、文書や碑文を《権威のあるもの》として、すなわちルールの存在に関する疑いを処理するのに《適切な》方法として参照することを認めることである。このようなことが認められているところでは、第2次的ルールの非常に単純な形態がある。つまり責務の第1次的ルールを最終的に確認するためのルールがそれである。
 発達した法体系では、もちろん承認のルールははるかに複雑になる。ルールをもっぱら原典や目録を参照することで確認する代わりに、第1次的ルールがもっているある一般的特徴を参照することによって確認するのである。これはルールが特別な団体によって制定されてきたということ、あるいは長い間の慣習として行なわれてきたこと、または司法的決定に関係してきたということであろう。さらに、二つ以上のそのような一般的特徴がルール確認の基準として取り扱われているところでは、それらの起こりうる衝突に対して優越性という秩序でそれらを配列する用意がなされるだろう。たとえば、慣習や先例は一般に制定法に従属し、そして制定法は法の「優越的源泉」であるといったぐあいにである。このような複雑さがあるために、現代の法体系における承認のルールは一つの権威ある原典を単に受けいれている場合とはたいへん異なったもののように見えてくるだろう。しかし、このもっとも単純な形態においてさえも承認のルールは法に特有な多くの要素をもっているのである。それは権威のしるしを与えることで未発達の形でではあるが法体系の観念を導入するのである。というのは、ルールはいまやばらばらで互いに関連しないセットではなく、単純な方法で統一されているからである。さらに、われわれは、あるルールがルールの権威的な目録にのせられるのに必要な特徴をそなえていると確認するこの単純な取り扱いのなかに、法的妥当性の観念の萌芽を見い出すのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.104-105,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年11月19日月曜日

第1次的ルールは次の欠陥を持つ:(a)不確定性:何がルールかが不確定、(b)静的である:意識的にルールを変更できない、また権利や義務の変更を扱えない、(c)非効率性:ルール違反の判定や、違反の処罰が非効率的である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

第1次的ルールの不確定性、静的な性質、非効率性

【第1次的ルールは次の欠陥を持つ:(a)不確定性:何がルールかが不確定、(b)静的である:意識的にルールを変更できない、また権利や義務の変更を扱えない、(c)非効率性:ルール違反の判定や、違反の処罰が非効率的である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)密接に結びつけられた小さな集団ならば、第1次的ルールのみからなる単純な社会構造でも存続が可能だろう。
 (1.1)血縁によるきずな
 (1.2)共通の心情、信念のきずな
(2)それ以外では、第1次的ルールのみからなる単純な社会統制の形態では、次の欠陥が現れる。
 (2.1)ルールの不確定性
  (2.1.1)特定の集団の人々がそのルールを受け入れているという事実の他には、何がルールなのかを確認する標識がない。
  (2.1.2)その結果、何がルールであり、あるルールの正確な範囲が不確定である。
 (2.2)ルールの静的な性質
  (2.2.1)ルールのゆるやかな成長の過程が存在する。
   (i)ある一連の行為が、最初は任意的と考えられている。
   (ii)その行為が、習慣的またはありふれたものとなる。
   (iii)その行為が、義務的なものとなる。
  (2.2.2)ルールの衰退の過程が存在する。
   (i)ある行為が、最初は厳しく処理されている。
   (ii)その行為への逸脱が、緩やかに扱われるようになる。
   (iii)その行為が、顧みられなくなる。
  (2.2.3)しかし、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しない。
  (2.2.4)また個人は、責務や義務を負うだけで、この責務は、いかなる個人の意識的な選択によっても変えられないし、修正されえない。責務の免除や、権利の移転というような作用も、第1次的ルールの範囲には入っていない。
 (2.3)ルールの非効率性
  (2.3.1)ルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こり、絶え間なく続く。法の歴史によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如は、最も重大な欠陥であり、他の欠陥より早く矯正される。
  (2.3.2)ルール違反に対する処罰が、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されている。
  (2.3.3)違反者を捕え罰する、集団の非組織的な作用に費やされる時間が浪費される。
  (2.3.4)自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐の連鎖が続く。

 「現在の目的にとって以下の考察がより重要である。血縁、共通の心情、信念のきずなで密接に結びつけられており、安定した環境におかれた小さな社会のみが、そのような公的でないルールの制度だけでうまくやっていけることは明らかである。その他の場合では、そのような単純な社会統制の形態は欠陥のあるものにならざるをえず、さまざまな点で補完を必要とするだろう。まず第一に、集団の生活の基礎となっているルールは体系を形づくっていないので、単に別々の基準のセットであり、そこにはもちろん人々の特定の集団が受けいれているルールであるということのほかには、それを確認するまたは共通の標識がないだろう。この点において、それらはわれわれ自身のエチケットのルールに似ている。したがって、何がルールであるかや、あるルールの正確な範囲はどうかについて疑いが生じた場合、権威ある典拠を参照するとか、この点についての言明が権威をもつ公機関に問い合わせるとかによって疑いを解決する手続は存在していないだろう。というのは、明らかに、そのような手続そして権威ある典拠や人を認めるということは、《仮定上》この集団は責務ないしは義務のルールしかもたないにもかかわらず、それとは異なったタイプのルールの存在を前提するからである。第1次的ルールからなる単純な社会構造での欠陥を、その不確定性 uncertainty と呼ぼう。
 第二の欠陥はルールの静的 static 性質である。そのような社会で知られているルールの唯一の変化の形は、成長のゆるやかな過程とそれとは逆の衰退の過程とであろう。前者では、かつて任意的と考えられていた一連の行為がまず習慣的またはありふれたものとなり、ついで義務的となるのであり、後者の場合には、かつてはきびしく処理されていた逸脱がまずゆるやかに扱われ、ついでかえりみられなくなる。そのような社会では、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しないだろう。というのは、ここでもまた、社会生活の唯一の基礎となっている責務の第1次的ルールとは異なるタイプのルールの存在が前提されて、このことは可能になるからである。極端な場合、ルールははるかに強い意味で静的である。このことは、おそらくいかなる現実の社会においても決して完全には実現されないけれども、考慮に値するものであって、これを矯正するのは法にとってたいへん特徴的なものだからである。この極端な場合には、一般的なルールを意識的に変更する手段がないばかりではなく、個々の場合ルールから生じる責務は、いかなる個人の意識的な選択によっても変えられないし、修正されえないだろう。各人はただあることをなしたり、あるいは控えたりする固定した責務や義務を負うだけであろう。なるほど、他人がこれらの責務の履行から利益を得るだろうという場合が非常にしばしばあるかもしれない。しかし、責務の第1次的ルールしかない場合には、彼らは拘束されている人を履行から免除したり、履行から手に入るだろう利益を他人に移転するどんな権能をもたないだろう。というのは、免除や移転というような作用は責務の第1次的ルールでの個人の最初の地位を変化させるからであり、これらの作用が可能であるためには、第1次的ルールと異なった種類のルールが存在しなければならない。
 この単純な社会生活の形態の第三の欠陥は、ルールを維持する社会的圧力が散漫なため生じる《非効率性》inefficiency である。認められているルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こるし、そして最小の社会以外はどこでも、もし違反の事実を最終的にそして権威的に確定する権能を特別に与えられた機関がなければ、それはたえまなく続くだろう。そのような最終的かつ権威的な決定の欠如は、それと結びついたもう一つの弱点から区別されねばならない。これはルール違反に対する処罰そしてそのほかの物理的な作用や力の行使を含む社会的圧力の形態が特別な機関によって管理されないで、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されているという事実である。違反者を捕え罰する集団の非組織的な作用に費やされる時間の浪費、そして「制裁」の公的な独占がないための自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐が重大であるのは明らかである。しかし、法の歴史によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如はより重大な欠陥であることがはっきりと示されている。というのは、多くの社会ではこの欠陥を他の欠陥よりもずっと以前に矯正しているからである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.101-103,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:第1次的ルールの不確定性,静的な性質,非効率性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月18日日曜日

世界と人間に関する最も自明な真理のみから要請される責務の第1次的ルールが存在し、このルールを受け入れる多数派の態度と、逸脱への社会的圧力だけで維持される、肉体的強さが同じ程度の人々から構成される社会が存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

責務の第1次的ルール

【世界と人間に関する最も自明な真理のみから要請される責務の第1次的ルールが存在し、このルールを受け入れる多数派の態度と、逸脱への社会的圧力だけで維持される、肉体的強さが同じ程度の人々から構成される社会が存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)世界についての最も自明な真理
(2)人間の性質に関する最も自明な真理
 (2.1)人間が互いに接近して共存する場合に犯しやすい誤り
  (a)暴力の勝手な行使
  (b)盗み
  (c)欺罔
(3)集団がとる一般的態度だけが、唯一の社会的統制の手段となっているような社会の特徴
 (3.1)責務の第1次的ルールは、人間が犯しやすい誤りを抑制する何らかのルールを含む。
  (a)暴力の勝手な行使の制限
  (b)盗みの制限
  (c)欺罔の制限
 (3.2)ルールを受け入れ内的視点から見られたルールによって生活する人々と、社会的圧力の恐れによって従う以外はルールを拒否する人々との間に緊張が見出される。
 (3.3)非常に緩やかに組織されている社会が存続し得るには、次の条件が必要である。
  (3.3.1)社会が、おおよそ同じような肉体的強さをもつ人々から構成されていること。
  (3.3.2)ルールを受け入れる人々が多数であり、ルールを拒否する人々が恐れる程度の社会的圧力を維持できること。

 「立法機関、裁判所、公機関をまったくもたない社会を想定することはもちろん可能である。事実、原初的社会に関する多くの研究は、このことがありえたと主張するだけでなく、これまでに責務のルールとして特徴づけてきたようなそれ自身の基準的行動様式に対して集団がとる一般的態度だけが、唯一の社会的統制の手段となっているような社会生活を詳細に描写している。この種の社会構造はしばしば「慣習」からなるものだと言われている。しかし、この用語は使わないことにしよう。なぜならば、それは、慣習のルールはたいへん古く、他のルールほど社会的圧力によって支えられていないという含みをしばしばもつからである。これらの含みを避けるために、このような社会構造を責務の第1次的ルール primary rules of obligation からなるものと呼ぼう。社会がそのような第1次的ルールのみで存続していこうとする以上、人間の性質やわれわれの住んでいる世界についていくらかのもっとも自明な真理を認めたならば、必ず満たさなければならない一定の条件がある。これらの条件の第一として、人間が互いにたいへん接近して共存する場合、犯しやすいが一般に抑制しなければならない、暴力の勝手な行使、盗み、欺罔を何らかの形で制限するルールが存在しなければならない。われわれが知っている原初的社会では、共同生活に奉仕し貢献するといういろいろな積極的義務を個人に課しているさまざまな他のルールとともに、そのようなルールは事実いつも見られるものである。第二に、そのような社会にも、既述したようにルールを受けいれる人々と社会的圧力の恐れによって従う以外はルールを拒否する人々との間に緊張が見出されるであろう。しかし、もし社会がおおよそ同じような肉体的強さをもつ人々からなっていて、しかも非常にゆるやかに組織されていても、それが存続しうるには、後者は少数でしかありえないことは明らかである。というのは、そうでなければルールを拒否する人々は恐れるほどの社会的圧力を感じないだろうからである。このこともまた、われわれの原初的社会に関する知識によって確証されるのであって、そこでは意見の一致しない人や悪人がいるが、多数は内的視点から見られたルールによって生活しているのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.100-101,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
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2018年11月15日木曜日

社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))

「責務を負っている」と「せざるを得ない」

【社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

社会には、下記(a)と(b)の人々との間の緊張が存在していることだろう。
(a)「私は責務を負っていた」と語る人々。
 (a.1)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
 (a.2)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
(b)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
 (b.1)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
 (b.2)ルールが存在することを拒否する。

 参照: 「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「外的視点は、集団のある構成員達、すなわちルールを拒否するけれど違反には不快な結果がおそらく生じるだろうと判断するときに、またそう判断するために、ただルールに関心をもつような構成員達の生活でルールが機能する仕方を非常に正確に再現するだろう。彼らの見方を表現するのに必要なのは、「私はそれをせざるをえなかった」、「私は、もし………の場合、そのために害をこうむるだろう」、「あなたは、もし………の場合には、そのためにおそらく害をこうむるだろう」、「彼らは、もし………の場合には、君に対してそれをするだろう」というようなものであろう。しかし、そこには「私は責務を負っていた」、あるいは「君は責務を負っている」というような表現形式は必要とされないだろう。というのは、これらの表現様式は彼ら自身や他の人々の行為を内的視点から見る人々によってのみ必要とされるからである。行動が観察可能な規則性だけにかかわる外的視点は、通常、社会の大多数をなしている人々の生活で、ルールがルールとしてどのように機能しているかを再現することができないのである。彼らは、さまざまな状況において、社会生活での行動の指針として、請求、要求、容認、批判、処罰に対する、つまり、ルールに従った生活でのすべてのありふれた処置の根拠として、ルールを用いる公機関、法律家または私人なのである。彼らにとっては、ルールの違反は、敵対的な反作用を生じるだろうという予測の根拠だけではなく、敵対的行為のための理由なのである。
 法的かどうかを問わず、ルールに頼っているすべての社会の生活においては、いつでも一方はルールを受けいれてその維持に自発的に協力し、したがって、彼ら自身や他人の行動をルールから見る人々と、他方、ルールを拒否し起こりうる処罰のしるしとして外的視点からのみルールに注意する人々との間には緊張が存在しているだろう。事実の複雑性を正しく扱おうとしたすべての法理論が直面した難問の一つは、これら両者の視点を忘れないで、しかもどちらかをないものとして定義しないということであった。おそらく責務の予測理論に対するわれわれのすべての批判の要点は、この理論が責務のルールの内的側面をないものとして定義したことを非難したところにあるといえよう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.99-100,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:責務を負っている,せざるを得ない)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月22日月曜日

5.「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

外的視点、内的視点

【「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 「さらに、ルールの「内的」側面および「外的」側面から以下のような対比をしてみると、これによって法だけでなくどんな社会の構造の理解にとっても、何がこの区別を非常に重要にしているかが明らかにされるであろう。

社会集団に一定の行為のルールがあるという事実は、密接に関係しているが異なった多くの種類の主張をなす機会を与えている。

というのは、ルールにかかわる場合として、自分自身はルールを受けいれないような単なる観察者の場合か、あるいは行為の指針としてルールを受けいれ用いる集団の一員の場合かがありうるからである。そして、これらをそれぞれ「外的視点」、「内的視点」と呼ぶことにしよう。

外的視点からの陳述にはそれ自体さまざまな種類がある。なぜならば、観察者は彼自身ルールを受けいれないでいながら、集団がそれを受けいれていることをのべ、そうして《彼ら》が内的視点に立ってどのようなしかたでルールにかかわるかに外側から言及するだろうからである。

しかし、ルールが、たとえばチェスやクリケットのようなゲームのルールまたは道徳のルールや法のルールのように、どんなものであっても、われわれはもし望むなら集団の内的視点に外側からさえ言及しない観察者という立場もとりうるのである。

このような観察者は、部分的にはルールへの一致が見られる観察可能な行動の規則性、そしてそれに続くルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰という形での規則性を記録するだけで満足する。 
その後、外的観察者は観察された規則性をもとにして、逸脱と敵対的な反作用を関連づけ、そして集団の正常な行動からの逸脱は敵対的な反作用や処罰にあうかもしれない可能性をかなりの成功度で予測し、その可能性を算定できるだろう。そのような知識によって集団について多くの事が明らかにされるだけでなく、観察者はその知識なしに集団のなかで生活しようとすればおそらくこうむるだろう不快な結果を避けて生活できるだろう。

 しかし、もし観察者がこの極端な外的視点を本当に固執して、ルールを受けいれている集団の構成員がどのように彼ら自身の規則だった行動を見ているかについてまったく説明しないならば、彼らの生活についての彼の記述は決してルールに関するものでありえないし、したがってルールに依拠している責務や義務の概念に関するものでありえない。

そうではなくて、彼の記述は行為の観察可能な規則性、予測、蓋然性、しるしに関するものであろう。そのような観察者にとっては、集団の一員が正常な行為から逸脱したことは、敵対的な反作用がおそらく生じるだろうというしるしであってそれ以上のものでないだろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.98-99,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:外的視点,内的視点)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
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