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2021年12月30日木曜日

基本的権利の主張が有意味な主張となるのは、人間の尊厳と政治的平等の目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

権利と人間の尊敬、政治的平等

基本的権利の主張が有意味な主張となるのは、人間の尊厳と政治的平等の目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)人間の尊厳
 人間社会の完全な成員として認めることと矛盾するような人間の扱い方が存在 すると想定され、かかる扱い方は著しく正義に反する。
(b)政治的平等
 政治社会の弱者も、その社会の強者が自らのために獲得したのと同じ配慮と尊重を、公権力から受ける資格がある。その結果、ある者が決定の自由を有している場合には、公益に対する影響がどうであれ、すべての者に同じ自由が認められねばならない。
(c)例として、表現の自由
 表現の自由が基本的権利であると主張される場合、これが有意味な主張となるのは、人間の尊厳、配慮や尊重を平等に受ける資格などの人格的価値を保護する目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。


「権利を深刻に受けとめるべきであると公言し、権利が尊重されていることを理由としてア メリカの統治機構を称賛する者は、その重要な目的が何であるかについてある種の感覚を有し ていなければならない。彼は、少なくとも二つの重要な理念のいずれか一方、または両者を受 け容れなければならない。第一の理念は、人間の尊厳という漠然としてはいるが力強い理念で あり、これはカントを連想させるが、異なった学派の哲学者達によって擁護されている。この 理念によれば、人間社会の完全な成員として認めることと矛盾するような人間の扱い方が存在 すると想定され、かかる扱い方は著しく正義に反するものとされる。  第二の理念は、政治的平等という人口に膾炙した理念である。これは政治社会の弱者も、そ の社会の強者が自らのために獲得したのと同じ配慮と尊重を公権力から受ける資格があること を前提とし、その結果ある者が、公益に対する影響がどうであれ、決定の自由を有している場 合には、すべての者に同じ自由が認められねばならないとされる。私は、これらの理念をここ で擁護したり、詳細に論じるつもりはないが、市民が権利を有していると主張する者は、これ らの理念にきわめて近い考え方を受け容れなければならない、という点だけを主張しておきた い。  人は表現の自由のように強い意味での基本的権利を公権力に対し有する、と主張される場 合、これが有意味な主張となるのは人間の尊厳、配慮や尊重を平等に受ける資格その他同様の 重みをもつ人格的価値を保護するために当の権利が必要である場合であり、そうでない場合に は権利を有するという主張は意味のないものとなる。  そこで、もし権利が意味あるものであるならば、比較的重要な権利の侵害はきわめて重大な ことになるにちがいない。それは人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。権利の制度は、このような扱いが重大な不正義であり、そ れを防止するためには社会政策ないし効率上更に増加コストが必要であるにしても、このよう なコストを支払う価値があるという確信に基づいている。しかしこの場合、権利を拡張するこ とが権利を侵害することと同じ程度に重大である、と考えることは誤りであろう。公権力が個 人に有利な形で誤りを犯す場合には、社会的効率のために本来支払うべきものより若干多くの ものを支払うだけのことである。すなわち公権力としては支出すべきことが既に決定されてい た当の金額に若干プラスしたものを支払うだけのことである。しかし、もし公権力が個人に不 利な形で誤りを犯す場合には、個人に対し侮辱を与えることになり、したがって公権力はそれ を回避するために自らの計算に基づいて多額の経費を費やす必要があるのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第6章 権利の尊重,3 議論の余地ある権 利,木鐸社(2003),pp.264-265,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月29日水曜日

政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるような権利でなければならない。それに競合可能な権利は、他者個人の権利のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政府に対抗する権利

政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるような権利でなければならない。それに競合可能な権利は、他者個人の権利のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)政府に対抗する権利
 政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるよ うな権利でなければならない。
(b)競合可能な権利は他者個人の権利のみ
 社会の一般的利益は、政府に対抗する権利に対抗できない。これらの権利を救うためには、我々は社会の他の成員が個人として有する権利のみを競合的 権利として認めねばならない。つまり社会の多数派自体の権利と多数派に属する各成員の個人 的権利を区別すべきであり、前者は個人の権利を否定する正当事由とはなりえない。



「政府に対抗する権利が認められていても、もし政府が自らの意思を実現しようとする民主 主義的多数派の権利を引き合いにだして、前者の権利を否定しうることになれば、この権利は 危険にさらされることになるだろう。政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正 と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるよ うな権利でなければならない。もしこの場合、社会は一般的利益を生みだすものであればいかなることをも行なう権利があり、また社会の多数派がそのような生活を望むのであれば、いか なる生活環境をも維持する権利があると我々が考え、しかもこの権利を正当事由にして、これと衝突する個々人の政府に対抗する権利を無視しうると考えるのであれば、これは我々が後者 の権利を撤廃したことを意味するのである。これらの権利を救うためには、我々は社会の他の成員が個人として有する権利のみを競合的 権利として認めねばならない。つまり社会の多数派自体の権利と多数派に属する各成員の個人 的権利を区別すべきであり、前者は個人の権利を否定する正当事由とはなりえない。この際、 使用されるべき規準は次のようになる。すなわち、ある行為に対する個人の権利と比較衡量さ れ、この行為からの保護を要求するような競合的権利を他者が有しうるのは、次のような場 合、つまり当の他者が個人として有する一定の権限に基づいて政府の保護を要求することがで き、しかも同胞市民の大多数がこの要求に参加するか否かに関係なく彼がこの保護を要求しう る場合である。  この規準によれば、国家に存在するあらゆる法の強制を要求する権利を誰もが有している、 と考えるのは正しくない。たとえば、ある種の刑法規定が未だ制定されていなかったとき、特 定の個人がこの規定の制定を要求する権利を有していたのであれば、彼にはこの種の刑法規定 の強制のみを要求する権利が認められることになる。人身攻撃を禁止する法規定などは、この タイプの規定に属するだろう。身体の弱い社会の成員――暴力行為に対して警察の保護を必 要とする人々――が単なる少数派であっても、彼らに当該保護を受ける権利を認めることは依然 として可能と思われる。しかしこれに対して、公共の場所で一定の静けさを要求する法規や国 外での戦争を是認し財政援助を与える法規は、個人の権利に基づくものとは考えられない。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第6章 権利の尊重,2 諸権利と法に違反 する権利,木鐸社(2003),pp.258-258,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月28日火曜日

個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較すると、各道徳・正義理論の違いが明確になる。権利に基礎を置く理論は、個人の信念や選択それ自体の価値を認め、義務に基礎をおく理論とは異なり、規範は他者の権利を守るための単なる手段と考える。また特定の社会状態なり、福祉の総量なり、個人の卓越性なりの目標は、恣意的なものであり、諸価値の源泉はただ諸個人のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

各道徳・正義理論の違い

個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較すると、各道徳・正義理論の違いが明確になる。権利に基礎を置く理論は、個人の信念や選択それ自体の価値を認め、義務に基礎をおく理論とは異なり、規範は他者の権利を守るための単なる手段と考える。また特定の社会状態なり、福祉の総量なり、個人の卓越性なりの目標は、恣意的なものであり、諸価値の源泉はただ諸個人のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(3.5.3)目標に基礎をおく理論
(3.5.3.1)全体主義的理論
 (a)特定個人の福祉に関心を払 うが、これは個人の福祉が何らかの事態の形成に寄与するかぎりにおいて認められるにすぎ ず、この事態それ自体は、個人による当該事態の選択とは全く独立に善なるものと予め定めら れている。
 (b)同質的な社会あるいは自 己防衛や経済成長のような緊急に必要とされる支配的目標により少なくも一時的に統合された 社会などに特に適合した理論と考えられる。

(3.5.3.2)功利主義的理論
 (a)政治的決定が個々人の福祉に対して及ぼす効果を考慮し、この意味で個人の福祉に関心を払うが、この効果を全体的な福祉の総量ないし平均量へと融合し、これらの総量ないし平均量の増大を個々人の決定とは全く独立に それ自体で好ましいものと考える。
(3.5.3.3)完成主義的(perfectionist)理論(アリストテレス)
 個人に卓越性の理念を課し、政治の目標をこのような卓越性の要請におく。


(3.5.4)義務に基礎を置く理論
 (a)個人が一定の行為規準に適合しないことをそれ自体で悪と考えるが故 に、個人の行為の倫理的性格に関心を向ける。
 (b)社会 が個人に課する規範であれ個人が自らに課す規範であれ、この種の行為規準を本質的なものと みなし、この理論がその中核に据える人間は、このような規範に従うべき人間、あるいは、もし この規範に従わなければ罰せられるか、堕落した存在として扱われなければならない人間であ る。
 (c)たとえばカントは、嘘言から生ずる結果がどれ ほど有益であれ嘘言を悪と考え、しかもこれは嘘言を禁止する慣行が何らかの目標の実現を促 進するからではなく、端的に嘘言が悪しき行為だからである。

(3.5.5)権利に基礎 を置く理論
 (a)個人の行為が何らかの規範に合致することではなく、むしろその自立性に関心を 払い、個人の信念や選択それ自体の価値を前提として認め、これらを擁護しようとする。
 (b)他者の権利の擁護のために行為規範をおそらく必要とす るであろうが、この規範をそれ自体としては本質的価値をもたない単なる手段として扱い、そ れ故その中核に据えられた人間は、規範に従いつつ有徳な生活を営む人間ではなく、他人の規 範順守から利益を得る人間とされる。








「これらのタイプの各々に属する諸理論は、ごく一般的な特定の性格を共有することにな る。これらのタイプ間の相違を明確にするには、たとえば各々のタイプが個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較するとよい。目標に基礎を置く理論は、特定個人の福祉に関心を払 うが、これは個人の福祉が何らかの事態の形成に寄与するかぎりにおいて認められるにすぎ ず、この事態それ自体は、個人による当該事態の選択とは全く独立に善なるものと予め定めら れている。これはファシズムのようにある政治組織の利益を基本的なものとみなし、特定の目 標に基礎を置く全体主義的理論について明らかにあてはまるであろう。またこれは様々な形態 の功利主義についてもあてはまる。というのも功利主義は、政治的決定が個々人の福祉に対して及ぼす効果を考慮し、この意味で個人の福祉に関心を払うが、この効果を全体的な福祉の総 量ないし平均量へと融合し、これらの総量ないし平均量の増大を個々人の決定とは全く独立に それ自体で好ましいものと考えるからである。更にこれは、アリストテレスにみられるような完成主義的(perfectionist)理論、つまり個人に卓越性の理念を課し、政治の目標をこのような卓越性の要請に置く理論についてもあてはまる。  他方、権利や義務に基礎を置く理論は、個人を中心に据え、個人の決定や行為を根本的なも のと考える。しかし、これら二つのタイプの理論は、個人を異なった視点から捉えている。義務に基礎を置く理論は、個人が一定の行為規準に適合しないことをそれ自体で悪と考えるが故 に、個人の行為の倫理的性格に関心を向ける。たとえばカントは、嘘言から生ずる結果がどれ ほど有益であれ嘘言を悪と考え、しかもこれは嘘言を禁止する慣行が何らかの目標の実現を促 進するからではなく、端的に嘘言が悪しき行為だからである。これとは対照的に、権利に基礎 を置く理論は個人の行為が何らかの規範に合致することではなく、むしろその自立性に関心を 払い、個人の信念や選択それ自体の価値を前提として認め、これらを擁護しようとする。両者 のタイプの理論はともに、私的利益の考慮なしに個々人が個別的状況において従うべき道徳的 ルールや行為規範の観念を使用する点では同じである。しかし義務に基礎を置く理論は、社会 が個人に課する規範であれ個人が自らに課す規範であれ、この種の行為規準を本質的なものと みなし、この理論がその中核に据える人間は、このような規範に従うべき人間、あるいはもし この規範に従わなければ罰せられるか、堕落した存在として扱われなければならない人間であ る。他方、権利に基礎を置く理論は、他者の権利の擁護のために行為規範をおそらく必要とす るであろうが、この規範をそれ自体としては本質的価値をもたない単なる手段として扱い、そ れ故その中核に据えられた人間は、規範に従いつつ有徳な生活を営む人間ではなく、他人の規 範順守から利益を得る人間とされる。  それ故我々は、異なったタイプの理論はそれぞれ異なった形而上学的ないし政治的な気質と 結合しており、更にある種の国民経済においては、これらのタイプの理論のうちどれかが支配 的となる、と予想していいだろう。たとえば目標に基礎を置く理論は同質的な社会あるいは自 己防衛や経済成長のような緊急に必要とされる支配的目標により少なくも一時的に統合された 社会などに特に適合した理論と考えられる。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,B 契約,木鐸社 (2003),pp.226-228,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))


権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

特殊的判断を整合的な行為計画に統合する人間の創造物が、道徳・正義の理論であると考える構成的モデルは、道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象と考える。道徳と正義は、経験と理性による議論の対象であり、矛盾を排除した首尾一貫性が正義観念の本質に属する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道徳・正義の構成的モデル

特殊的判断を整合的な行為計画に統合する人間の創造物が、道徳・正義の理論であると考える構成的モデルは、道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象と考える。道徳と正義は、経験と理性による議論の対象であり、矛盾を排除した首尾一貫性が正義観念の本質に属する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.5.1)道徳・正義の自然的モデル
 (d)矛盾した直感を超える原理の探究
 矛盾した厄介な直感をそのまま認めながら、この厄介な直感を調和さ せるような一層洗練された一群の原理が、未だ発見されていなくとも現実に実在するという信 念の下に、表面的な矛盾をできるだけなくしていくような方法を支持する。
 (e)経験と理性、議論を超えたもの
 倫理的能力の行使によって得られた直接的観察が観察者の説明能力を超え出 たものであるとの想定も十分に意味をもちうるし、また正しい説明原理に到達できなくても、 これが道徳原理のかたちで必ず実在している、と想定することも意味をもつ。

(3.5.2)道徳・正義の構成的モデル
 (c)道徳と正義の理論は、経験と理性による議論の対象である
 正義の名の下になされた諸決定は、これらの決定を正義理論のなかで説明する公務担当者 の能力を超え出たものではないこと、そして、たとえこの種の理論が彼の直感の幾つかと抵触 する場合でさえ、上記の決定が彼の説明能力を超え出たものと考えるべきでないことを要求す る。
 (d)道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象
 このモデルの動力因はある種の責任理論、すなわち人々に対し彼らの諸直感の統合を要求し、必要とあればこの統合化のために、ある特定の直感を軽視することをも要求するような 理論である。すなわち、直感も常に正しいわけではなく、社会状況と歴史によって理解されるべき対象である。
 (e)正義の本質は首尾一貫性
 このモデルの前提にあるのは、明確化された首尾一貫性の観念、つまり公けに提 示され、しかも変更されるまで遵守されうる一定のプログラムに従って決定を下すことが、あ らゆる正義観念の本質に属する、という考え方である。
 (f)矛盾する見解の放棄
 このモデルを指針とする場合、彼は明白に矛盾する自己の見解を放棄せねばならず、これは更なる反省により当初の信念をすべて原則的に有効なものと認めるようなより正しい原理を いつか発見できると彼が期待する場合も、同様である。
 (g)信念ではなく原理
 我々が、信念ではなく原理にそって行動すべきことを要求する。

「公務担当者がこのような状況に置かれたとき、二つのモデルは彼に対し異なった指示を与 える。  まず自然的モデルは、矛盾した厄介な直感をそのまま認めながら、この厄介な直感を調和さ せるような一層洗練された一群の原理が、未だ発見されていなくとも現実に実在するという信 念の下に、表面的な矛盾をできるだけなくしていくような方法を支持する。このモデルによる と、上記の公務担当者の立場は、明確な観察データを得たものの、たとえば太陽系の起源を整 合的に説明するようなかたちでこれらのデータを未だ調和させることのできない天文学者に似 ている。この天文学者はデータを調和させるような説明が未だかつて発見されておらず、また 将来発見される見込みが全くなくとも、このような説明が必ず実在するという信念の下に観察 データを受け容れ利用し続けるのである。  自然的モデルがこのような方法を支持するのは、道徳的直感を観察データに類似のものとみ なすことを勧めるような一定の哲学的立場を当のモデル自体が前提としているからである。こ の前提に立てば、倫理的能力の行使によって得られた直接的観察が観察者の説明能力を超え出 たものであるとの想定も十分に意味をもちうるし、また正しい説明原理に到達できなくても、 これが道徳原理のかたちで必ず実在している、と想定することも意味をもつ。もし直感的な観 察が正しい観察であれば、倫理的世界に実在する事態が現に観察されたごとき事態である理由 を我々は必ず説明しうるはずであり、これは、物理的世界に実在する事態が現に観察されたご とき事態である理由を我々が説明しうるはずであるのと同様である。  しかし、これに対して構成的モデルは、調和原理が必ず実在するという信念の下に表面的な 矛盾を解決していこうとする態度を認めない。逆にこのモデルは次のことを要求する。すなわ ち、正義の名の下になされた諸決定は、これらの決定を正義理論のなかで説明する公務担当者 の能力を超え出たものではないこと、そして、たとえこの種の理論が彼の直感の幾つかと抵触 する場合でさえ、上記の決定が彼の説明能力を超え出たものと考えるべきでないことを要求す る。このモデルは、我々が信念ではなく原理にそって行動すべきことを要求するのである。す なわちこのモデルの動力因はある種の責任理論、すなわち人々に対し彼らの諸直感の統合を要 求し、必要とあればこの統合化のために、ある特定の直感を軽視することをも要求するような 理論である。このモデルの前提にあるのは、明確化された首尾一貫性の観念、つまり公けに提 示され、しかも変更されるまで遵守されうる一定のプログラムに従って決定を下すことが、あ らゆる正義観念の本質に属する、という考え方である。上記のような状況に置かれた公務担当 者がこのモデルを指針とする場合、彼は明白に矛盾する自己の見解を放棄せねばならず、これ は更なる反省により当初の信念をすべて原則的に有効なものと認めるようなより正しい原理を いつか発見できると彼が期待する場合も、同様である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,A 均衡,木鐸社 (2003),pp.212-214,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

道徳的直感は、確実で明白な真理であるように思われるため、直感は真理を直接的に把握できるし、道徳・正義の理論は何らかの実在の記述であると考える自然的モデルがある。一方、構成的モデルでは、特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試みが道徳・正義の理論であり、人間の創造物であると考える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

自然的モデルと構成的モデル

道徳的直感は、確実で明白な真理であるように思われるため、直感は真理を直接的に把握できるし、道徳・正義の理論は何らかの実在の記述であると考える自然的モデルがある。一方、構成的モデルでは、特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試みが道徳・正義の理論であり、人間の創造物であると考える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.5) 憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系の類型
(a)確実と思われる道徳的直感
 我々はすべて正義につき一定の信念を抱いているが、その理由は、これらの信念が端的に 正しいと思われるからであり、他の信念からこれらを演繹したり推論したからではない。
(b)道徳的直感は真理か主観的な好みか
 いかに確実と思われても、真実かどうかは、わからないのではないか。二つの考え方がある。
 (i)直感は真理である
 様々な信念は、自立的かつ客観的なある種の倫理的事実の直接的知覚である。
 (ii)直感は主観的な好みである
 信念は通常の嗜好とそれほど異ならない単なる主観的な好みの問題であり、ただそれらが我々にとって重要と思われることを示すために正義言語 の衣をまとうにすぎない。

(3.5.1)道徳・正義の自然的モデル
 (a)理論は何らかの実在の記述である
 正義理論は、客観的な道徳的実在の記述であり、これらは人間や社会により創造され るのではなく、物理法則と同様に発見されるべきものである。
 (b)道徳的直感は真理をつかむ
 これを発見するための主たる手 段は、少なくともある人間が有している道徳的能力であり、たとえば奴隷制を不正と感ずる直 感のように、特定の状況で政治的倫理に関し具体的な直感を生みだす道徳的能力である。
 (c)倫理的推論や道徳哲学は、具体的判断を 正しい秩序で組み立てることにより基本的原理を再構成する手続である。

(3.5.2)道徳・正義の構成的モデル
 (a)理論は人間の創造物である
 構成的モデルは自然的モデルとは異なり、正義の原理を固定した 何らかの客観的な実在とは考えず、したがって、これらの原理の記述は通常の意味で真ないし 偽でなければならない、とは考えない。
 (b)道徳理論は特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試み
 人々が特殊的判断に基づいて行為する場合、彼らはこれら特殊的判断を一つの整合的な行為計画へと適合させるべき責任を有し、あるいは、少なくと も公務にあたって他者に対し権力を行使する者はこの種の責任を負う、と考える。


「我々はすべて正義につき一定の信念を抱いているが、その理由は、これらの信念が端的に 正しいと思われるからであり、他の信念からこれらを演繹したり推論したからではない。たと えばこのような仕方で我々は奴隷制を不正と信じ、あるいは通常の訴訟形態を公正なものと考 えるのである。  ある哲学者によれば、これら様々な信念は、自立的かつ客観的なある種の倫理的事実の直接 的知覚とされ、他の哲学者の見解ではこの信念は通常の嗜好とそれほど異ならない単なる主観 的な好みの問題であり、ただそれらが我々にとって重要と思われることを示すために正義言語 の衣をまとうにすぎない。しかしいずれにせよ、正義につき自問し他者と議論するとき、我々 はロールズの均衡化の技術が示唆するのとほぼ同様の仕方で――我々が「直感」とか「確信」とか呼ぶ――これら我々になじみ深い信念を使用するのである。つまり我々は正義に関する一般理 論を我々自身の直感と照合することにより検討し、我々と意見を異にする相手方に対しては、 彼らの直感自体が彼ら自身の理論を紛糾させていることを示し、相手の立場を論駁しようと試 みるのである。  さて、道徳理論と道徳的直感の関連について一定の哲学的見解を提示することにより、上記 の過程を我々が正当化しようとする場合を想定しよう。均衡化の技術は、道徳の「整合」理論 とでも呼びうるものを前提としている。しかし整合性を定義し、整合性が要請される理由を説 明しうるモデルとしては二つの一般的なモデルが存在し、我々はこれら二つのどちらかを選択 しなければならない。そして、どちらを選択するかは我々の道徳哲学にとり結果的に重要な意 義をもつことになる。そこでまず、私は二つのモデルを述べ、その後で均衡化の技術が一方の モデルでは意味をもつが、他のモデルでは無意味であることを論証したいと思う。  第一のモデルを「自然的」モデルと呼ぶことにしよう。このモデルは、一定の哲学的立場を 前提としており、これは次のように要約しうる。すなわちロールズの二つの原理に示されてい るような正義理論は、客観的な道徳的実在の記述であり、これらは人間や社会により創造され るのではなく、物理法則と同様に発見されるべきものである。これを発見するための主たる手 段は、少なくともある人間が有している道徳的能力であり、たとえば奴隷制を不正と感ずる直 感のように、特定の状況で政治的倫理に関し具体的な直感を生みだす道徳的能力である。物理 学的な観察が基本的物理法則の存在や性格の手懸りとなるように、これらの直感はより抽象的 で基本的な道徳原理の性格や存在への手懸りとなる。倫理的推論や道徳哲学は、具体的判断を 正しい秩序で組み立てることにより基本的原理を再構成する手続なのであり、これはちょう ど、自然史家が発見された骨の諸断片から、動物全体の骨組を再構成するのと同様である。  第二のモデルはこれとは全く異なる。このモデルは、正義の直感を独立した諸原理の存在の 手懸りとみるのではなく、むしろ、たまたま同時に見つかった骨の集塊にぴったり合う動物を 彫刻家が彫刻しようとする場合のように、直感を構成されるべき一般理論の規約に基づく特徴 とみなすのである。この「構成的」モデルは自然的モデルとは異なり、正義の原理を固定した 何らかの客観的な実在とは考えず、したがって、これらの原理の記述は通常の意味で真ないし 偽でなければならない、とは考えない。このモデルは、骨に適合するように構成された動物 が、現実に存在するとは考えない。しかし、このモデルにはこれとは別の、ある意味ではより 複雑な前提が含まれている。すなわち人々が特殊的判断に基づいて行為する場合、彼らはこれ ら特殊的判断を一つの整合的な行為計画へと適合させるべき責任を有し、あるいは、少なくと も公務にあたって他者に対し権力を行使する者はこの種の責任を負う、という前提である。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,A 均衡,木鐸社 (2003),pp.210-211,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月27日月曜日

国家に対抗する諸権利の主張の中枢は、個人には社会全体の利益を犠牲にしても、多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

国家に対抗する諸権利

国家に対抗する諸権利の主張の中枢は、個人には社会全体の利益を犠牲にしても、多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「バーク及び彼の現代における追従者達が論じているように、おそらく社会というものは、 決して急進的な改革によってではなく、漸進的な変化によってのみそれに最適の諸制度をうみ 出すであろう。しかし国家に対抗する諸権利は、もしそれらが承認されるならば、そう具合よ く社会に適合しないかもしれない諸制度を甘んじて受け容れるよう社会に要求する主張なので ある。権利の主張の中枢は、私が用いている非神話化された権利分析に基づいてさえ、個人に は社会全体の利益を犠牲にしても多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 もちろん多数派が快適であるためには少数派に若干の便宜を図ることが必要となろう。しか し、それは秩序維持に必要な範囲においてのみである。したがって、それは便宜といっても通 常は少数派の諸権利の承認には及ばないものである。  実際、権利が原理に対する訴えによってではなく歴史の一過程によって立証されうると示唆 することは、権利とは何かについて混乱に陥っているか、あるいはそのことについて何ら現実 的な関心を抱いていないかのいずれかであることを示すものである。権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,4,木鐸社 (2003),p.191,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



いかなる争点も、少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正である。これは、事実だろうか。多数派に対抗する諸権利に関する決定は、公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

多数派に対抗する諸権利に関する決定

いかなる争点も、少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正である。これは、事実だろうか。多数派に対抗する諸権利に関する決定は、公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「私は、立法府及び他の民主的機関が、よりよい決定をなしうる能力をもつかどうかは別に して、憲法的決定を行う何らか特別の資格を有する、という第二の論証から検討を始めよう。 いかなる争点も少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正であるから、このような 資格の性質は明白である、と言う者がいるかもしれない。しかし、しばしば指摘されてきた通 り、そのように言うことは、多数派に対抗する諸権利に関する決定は公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない、という事実を無視している。立憲主義――個人的諸権利を保護するために 多数派が制約されなければならないという理論――は、すぐれた政治理論かもしれないし、そう でないかもしれない。しかし、合衆国はその理論を採択したのであり、多数派にそれ自身の利 益に関する事項の判断を委ねることは、首尾一貫せず不当だと思われる。したがって公正の諸 原理は、民主制からの論証を擁護するのではなく、それに反対することになると思われる。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,4,木鐸社 (2003),p.185,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の懐疑主義的理論

司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(5.3.2.2)道徳的懐疑主義による司法的自制
 ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味である。
 例としてラーニド・ハンド裁判官の主張
 (i)道徳的諸権利に関する主張が、話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。
 (ii)もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、道徳的諸権利によって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。
 (iii)何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。 


(5.3.2.3)功利主義的懐疑による司法的自制
 我々がある行為を正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼすインパクトである。
(5.3.2.4)全体主義的懐疑による司法的自制
 この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。


「この種の国家に対する権利の可能性そのものに反論したいと思う懐疑主義者にとって、そ の論証は困難なものとなるであろう。私の考えでは、彼は次の三つの一般的立場の一つに依拠 しなければならない。  (a)彼は、ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味であると主張 する、より徹底した道徳的懐疑主義を表明することができよう。もしいかなる行為も道徳的に 誤りでないとすれば、ノース・キャロライナ州政府は、学童に白黒共学のためのバス通学をさ せることを拒んでも誤っているはずがないのである。  (b)彼は、ある断固たる形態の功利主義をとることもできよう。それは、我々がある行為を 正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼす インパクトであると考える。この理論の下では、たとえ強制バス通学が社会を全体として益す ることはないにせよ、それは道徳的に要求されうる、と言うことは首尾一貫しないことになる であろう。  (c)彼は、何らかの形態の全体主義理論を受け容れることもできよう。この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。  これら三つの根拠のいずれであれ、これを受け容れることのできる政治家はアメリカにはほ とんどいないであろう。」(中略)  「しかしながら、私は、何人もの実際上懐疑主義の根拠に基づいて司法的自制を支持する論 証を行わないであろう、と示唆したのではない。それどころか、最もよく知られた自制論者の 幾人かは、彼らの論証を全面的に懐疑主義的根拠の上に打ちたててきたのである。たとえば 1957年には、偉大な裁判官であるラーニド・ハンドがハーヴァード大学においてオリヴァ・ ウェンデル・ホウムズ講義を行なった。ハンドはサンタヤナに学び、ホウムズに師事した。そ して道徳における懐疑主義は彼の唯一の宗教であった。彼は司法的自制論を説き、最高裁が 「ブラウン」事件において公立学校の人種隔離を違法と宣言したのは不当であると述べた。彼 の語ったところによれば、道徳的諸権利に関する主張が話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、このような主張をなすことによって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。  民主制に対するこの単純な訴えは、もし懐疑主義的前提が受け容れられれば、成功を収め る。もちろん、もし人々が多数派に対していかなる権利も有しないとすれば、またもし政治的 決定が単に、誰の選好が優先すべきかという問題だとすれば、まさに民主制は、その決定を裁 判所より民主的な諸機関に委ねる――たとえこれらの諸機関が裁判官達自身の嫌悪する選択を行 う場合でもそうする――十分な理由を提供することになるでああろう。しかし、もし司法的自制 が懐疑主義ではなく敬譲に基づくのであれば、司法的自制を支持するためには、非常に異なっ た――はるかにより脆弱な――民主制からの論証が必要とされるのである。次に私はこの点を明ら かにしようと思う。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.181-182,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の理論

仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.2.1)司法的自制の政治的懐疑主義の理論
 (a)司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利を有することを前提としている。
 (b)何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。
 (c)ところが、個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  

(5.3.2.2)司法的自制の司法的敬譲理論
 (a)実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有する。
 (b)しかし道徳的諸権利の性格と強さには議論の余地が ある。
 (c)従って、裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う。


「もしニクスンが法理論をもつとすれば、それは決定的に何らかの司法的自制の理論に依拠 すると思われるかもしれない。しかしながら、ここで我々は、二つの形態の司法的自制の間の 区別に注意しなければならない。というのは、司法的自制の政策には二つの相異なる、そして 実際上両立しがたい根拠が存在するからである。  第一は、政治的「懐疑主義」の理論であって、それは次のように記述することができよう。 司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利――たとえば、公教育の平等性や警察による公正な取り扱いに対 する道徳的権利――を有することを前提としている。何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。懐疑主義的理論は、積極主義をその根元において攻撃する。それ は、実際上個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない、と論ずる。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  自制の綱領のいま一つの根拠は、司法的「敬譲」の理論である。懐疑主義的理論と違ってこ の理論は、実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有することを前提とする。しかしそれは、これらの権利の性格と強さには議論の余地が あることを指摘し、かつ裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う、と論ずる。  これは一つの重要な区別である。たとえ憲法の文献が何ら明確にそのような区別をしていな いとしても、そうである。懐疑主義的理論と敬譲の理論は、それらが前提する正当化の種類 において、また、それらを奉ずると公言する人々が抱くより一般的な道徳理論に対してそれら の理論が有する含蓄において、劇的に異なる。これらの理論は非常に異なっており、したがっ て大多数のアメリカの政治家達が一貫して受け容れることができるのは、第一の懐疑主義的理 論ではなく、第二の敬譲の理論である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.179-180,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法積極主義と司法的自制

議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.1)司法積極主義 (judicial activism)の綱領
 裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ、 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。
(5.3.2)司法的自制(judicial restraint)の綱領
 たとえ他の統治部門の諸決定が、広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ。ただし、決定があまりにも 政治道徳に反しており、どのような解釈に基づいても憲法条項に違背するような場合は別である。

「更に、ひとたび問題がこの観点から語られるならば、我々は、「厳格解釈」の通念から生 じる混乱に陥ることなく、これらの競合する政策的主張を評価することができる。これらの目 的のために、私はいまや難解な、あるいは議論の余地ある憲法上の争点を裁判所はいかに決定 すべきかという問題に関する二つの非常に一般的な哲学を比較対照したいと思う。私はこれら 二つの哲学を、法学上の文献においてそれらに与えられている名前――「司法積極主義」 (judicial activism)と「司法的自制」(judicial restraint)の綱領――で呼ぶつも りである。もっとも、これらの名前が幾つかの点で誤解を招きやすいものであることは、やが て明らかになるであろうが。  司法積極主義の綱領は、私が言及した類いの競合する諸理由の存在にもかかわらず、裁判所 は、いわゆる漠然とした憲法条項の指示を、私が記述した精神において受け容れるべきだ、と 主張する。裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。(これは、司法積極主義の綱領をその最も強 い形態において表現するものである。実際にはこの綱領の支持者達は一般的に、若干の点にお いてその綱領を弱めているが、さしあたり私はこれらの点を無視しようと思う。)  これに反して司法的自制の綱領は、たとえ他の統治部門の諸決定が広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ、と主張する。ただし、これらの決定があまりにも 政治道徳に反しており、したがっていかなるもっともらしい解釈に基づいても当該条項に違背 するといわざるをえない場合、あるいは、ことによると反対の趣旨の判決が明瞭な先例によっ て要求されている場合は別である。(これもまた、司法的自制の綱領を純然たる形態において 表現したものである。この政策を信奉する者は、種々の点においてそれを緩和している。)」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.178-178,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


2021年12月26日日曜日

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、法律家によって異なり、個別の制度的倫理の判断に影響を及ぼす。難解な問題において、社会的に認められている判断を採用することは妥当な正当化ではなく、法律家は自ら判断すべきである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法律家の判断

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、法律家によって異なり、個別の制度的倫理の判断に影響を及ぼす。難解な問題において、社会的に認められている判断を採用することは妥当な正当化ではなく、法律家は自ら判断すべきである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


自らが属する社会の制度的倫理を、どのように明らかにするのか。
(i)まず、当該社会の大多数の成員が抱いている判断に従う方法がある。すなわち社会的に存在しているルールである。
 (a)批判:存在するかどうかが事実問題だとしても、それをどうやって知るのか。
 (b)批判:それが知られたとしても、なぜ、それが採用されなくてはならないのか。
(ii)次に、自己自身の判断に従う方法がある。
 (a)批判:仮説的に、個人の能力を超えるような法的、社会的、倫理的な洞察力を有する法学者なら、判断可能かもしれないが、現実的な裁判官の判断に関する理論としては、不適切ではないのか。


「我々が次のようにいうと仮定してみよう。ハーキュリーズは彼の属する社会の制度的倫理を明らかにするに際し、自己自身の判断に従うべきではなく、制度的倫理が何であるかに関し て当該社会の大多数の成員が抱いている判断に従わなければならない、と。この忠告に対して は二つの明白な反論が考えられる。第一に、ハーキュリーズは、何が大多数の成員の支持を受 けた判断であるかをどのようにして認識することができるのか、この点が明らかでない。通常 人が堕胎を承認せず、あるいは堕胎を犯罪とする立法を支持しているからといって、彼らが自 己の政治的立場を反省し、合衆国憲法により前提され、首尾一貫して適用されてきた尊厳の概 念により自己の立場が支持されるか否かを十分に考察してきたとは必ずしも言えないだろう。 それはある種の弁証法的な技術を要する非常に複雑な問題であり、この技術は、通常人が自己 の立場を自覚的に防禦する際には明らかに認められるものの、自覚的な反省なしに投票におい て示される彼の政治的選択がこの種の吟味を経てきたものであると、当然にみなされてよいこ とにはならない。  しかし、人間の尊厳は堕胎の権利を要請しないと通常人が判断したことにハーキュリーズが 納得したとしても、ハーキュリーズがなぜその争点に関し通常人の意見を決定的なものとして 受け容れなければならないか、という疑問が残る。ハーキュリーズが通常人は誤っていると考 えた場合、すなわち社会の概念が要請する内容に関して通常人の哲学的見解が誤っている、と 彼が考えた場合を想定してみよう。もしハーバートがその立場にあったとすれば、彼が通常人 の判断に従うことには十分な理由があるだろ。ハーバートは次のように考える。すなわち実定 法上の法準則が漠然としていたり、不確定な場合には、訴訟当事者はそもそも制度的権利を有 することはなく、それ故自分が到達した判決は一個の新たな立法である、と考えるだろう。彼 がどのような判決を下しても、当事者が現実に権利として有するものを彼が自らの手で奪うよ うなことはなく、したがって彼が立法行為をするときは自己を多数派の代理人とみなすべきで あるという論証は、少なくとも一応適切な論証と思われる。しかしながらハーキュリーズとし ては、この問題に関してかかる見解をとることはできない。彼は、自分が決定しなければなら ない問題が当事者の制度的権利に関する問題であることを了解している。彼が通常人の見解に ならって判決を下しても、もしこれが誤った判決である場合には、彼は当事者から彼らが権利 として有するものを奪うことになる、ということを了解している。ハーキュリーズもハーバー トも、通常の容易な法的問題を一般公衆の意見に付託するようなことはしないであろう。しか し、ハーキュリーズは、容易な事案においてのみならず難解な事案においても当事者は権利を 有していると考え、それ故、難解な事案の場合にも一般公衆の意見に付託することはしないで あろう。  もちろん、難解な事案における当事者の権利に関して裁判官の下す判決が、正しくない場合 があるだろう。そこで、最後のあがきとばかりに、この事実を盾にとり反論が試みられるかも しれない。この反論は、ハーキュリーズの用いるテクニックが、仮説上偉大な倫理的洞察力を 有するハーキュリーズ自身にとっては適切なものであることを「議論上は」認めながらも、同 じテクニックがそのような洞察力を有していない裁判官に対しても一般的に適切であることを 否定するであろう。しかしながら、我々としてはこのチャレンジを評価する際に、他に採りう る道を注意深く考慮に入れなければならない。裁判官が法的権利について過誤を犯した場合、 その過誤が原告に有利に作用したか被告に有利に作用したかを問わず、それ自体、これは不正 義の問題となる。上記の反論は、裁判官も誤りを免れず、いずれにせよしばしば意見を異にす るが故に、彼らが過誤を犯すことを指摘するのであるが、言うまでもなく我々も社会的批評家 として、過誤が犯されうることは承知している。ただ我々は、いつ過誤が犯されたかを知るこ とができない。我々もハーキュリーズではないからである。それ故我々としては、異なった役 割を担いうる人々それぞれがもつ相対的な能力を判断し、このような判断に基づいて、全体的 に過誤の数の減少が期待されるような、判決のテクニックを採り入れなければならないのであ る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,6 政治的反論,木鐸 社(2003),pp.163-164,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


社会倫理とは、法や社会の諸制度を前提とする政治的倫理を意味する。諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。このため、ある種の問題につき、社会一般の倫理との衝突が起こることを認めねば ならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会倫理

社会倫理とは、法や社会の諸制度を前提とする政治的倫理を意味する。諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。このため、ある種の問題につき、社会一般の倫理との衝突が起こることを認めねば ならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「もちろん、ハーキュリーズの技術は、しばしばある種の問題につき、社会一般の倫理に反する判決を要求することもあるだろう。たとえば過去の憲法判例の正当化のどれをとっても、 堕胎支持の判決を要求する程度に十分強力な自由主義原理が常に含まれており、判決の正当化 でこの原理を含まないようなものが全く存在しない場合を考えてみよう。このハーキュリーズ は、社会一般の倫理感がどれほど強く堕胎を非難していようと、堕胎支持の判決を下さなけれ ばならない。この場合、彼は社会の倫理的信念を排除して、彼自身の信念を強要しているわけ ではない。彼はむしろ社会の倫理が当該争点につき矛盾していると判断するのである。つま り裁判官により解釈された憲法規定の正当化として提示されるべき憲法倫理自体が、堕胎とい う一定の争点につき社会が抱くある特定の判断を拒否しているのである。この種の衝突は、個 人道徳の内部ではよく起こることである。そこで、もし我々が政治理論において社会倫理とい う概念を使用しようとするならば、この社会倫理内部にも同様の衝突が起こることを認めねば ならない。もちろん、この種の衝突がいかに解決されるべきかについては疑いの余地がない。 諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。 この制度的権利は、社会の憲法倫理により明確に示されており、それ故、ある見解がどれほど 広く受け容れられていようと、これが憲法倫理と一致しないかぎり、ハーキュリーズはこの見 解に対抗し、上記の制度的権利を擁護しなければならない。  これら仮説的に示された諸事例から明らかなごとく、ハーバートに対し意図された反論は、 ハーキュリーズへの反論としては的はずれなものとなる。ハーキュリーズの裁判理論のどの部 分をとっても、彼自身の政治的信念と、彼が社会全体の政治的信念と考えるものとの間の選択 が問題にされることはない。むしろ逆に、彼の理論は社会倫理についての含まれた一定の観念を法的問 題にとって決定的に重要なものとして、特定化するのである。すなわちこの観念によれば、社 会倫理とは、法や社会の諸制度が前提とする政治的倫理を意味する。もちろん彼は、この倫理 的原理の内実を把握するためには彼自身の判断に依拠しなければならない。しかし、この種の 依拠は、既に区別された第二のタイプの不可避的な依拠であり、彼は何らかの段階で不可避的 に自己の判断に依拠せざるを得ないのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,6 政治的反論,木鐸 社(2003),pp.158-159,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



憲法、制定法、あらゆる先例を整合 的に正当化し得る原理の体系に含まれる過誤の理論は、制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴える論証、あるいは法律家自らの論証による。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

過誤の理論

憲法、制定法、あらゆる先例を整合 的に正当化し得る原理の体系に含まれる過誤の理論は、制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴える論証、あるいは法律家自らの論証による。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.4.3.3)過誤とすることの正当性
 しかし、自らの理論と両立不可能な制度史のいかなる部分をも、自由に過誤 と解してよいわけではない。
(a)当該理論が、いかなる過誤をも認めない理論よりも、強い正当化であることを示すこと。
(b)当該理論が、他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、強い正当化であることを示すこと。
(c) 制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚
 制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、かつての決定を生み出す可能性のないことを示す。
(d)自らの論証による
 政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることとは関係なく、それ自体不正であることを示す。


「以上のことはかなり明快である。しかしハーキュリーズは過誤の理論の第二の論点につい てはもっと苦労しなければならない。彼は先例の一般的慣行に彼が結びつけた正当化によっ て、制定法及びコモン・ロー上の判決全体のために、原理体系の形をとった一層詳細な正当化 を組み立てるように要請される。しかし正当化されるべきものの一部を過誤とか名づけるような 正当化は、一見したところでは、そのようなことを行わない正当化よりも弱いものと思われ る。したがって彼の過誤の理論の第二部では、それにもかかわらず、いかなる過誤をも認め ず、あるいは他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、当の正当化の方が強い正当化である ことが示されねばならない。この証明は理論構成に関する単純な規則を単に演繹することでは ありえない。しかしハーキュリーズが、先例と公正との間に以前確立された関係を念頭に置く ならば、この関係は彼の過誤の理論に対し二つの指針を示唆するであろう。第一に、公正は、単なる歴史としての制度史ではなく、未来へと存続するものとして政府が提示した政治的プロ グラムとしての制度史に関わる。つまりそれは先例のもつ未来向きの意味を捉えているので あって、過去向きの意味を捉えているのではない。もし制定法であれ判決であれ、以前に下さ れた何らかの決定が、今や法曹その他関連分野の広範囲の人々により遺憾の念をもってみられ ていることをハーキュリーズが発見するならば、まさにこの事実によって当該決定は欠陥のあ るものとして他から識別されるのである。第二に彼は、首尾一貫性を要求するような公正の論 証のみが、一般的には公権力、そして特殊的には裁判官が応えねばならない唯一可能な構成の 論証ではない、ということを思いださなければならない。もし彼が首尾一貫性の論証とは全く 別に、特定の制定法あるいは判決が社会自体の公正観念からみて不正なるが故にこれを間違っ たものと信ずるならば、この信念の故に当の決定は、欠陥のあるものとして十分識別されうる のである。もちろん彼は、正当化全体の垂直的構造を顧慮しながら上記の指針を適用しなけれ ばならず、それ故低いレヴェルの決定は高いレヴェルの決定に比べ、より欠陥ありとされやす いことになる。
 したがってハーキュリーズは過誤の理論の第二部において、少なくとも二つの格率を適用す ることになるだろう。もし彼が、制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、立法府や裁判所がある法的決定を採用する際にかつては十分な説得力をも ちえた特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、そのような決定を生み出す可能性 のないことを示すことができるならば、当の原理を支持する公正の論証は根拠を失うことにな る。もし彼が政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることと は関係なく、それ自体不正であることを示しうるならば、当の原理を支持する公正の論証は覆 されたことになる。ハーキュリーズはこれらの区別が他の裁判官の実務においても広く認めら れていることを見出し、満足するであろう。彼の職務の法理論上の重要性は、難解な事案に関 して彼が今や創造した理論の新奇さに存するのではなく、それがまさに広く受け容れられてい る点に存するのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモ ン・ロー,木鐸社(2003),pp.153-154,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]





ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2020年5月30日土曜日

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、過誤の理論を含む。それは、ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、原理の体系の首尾一貫性から、その牽引力を否定する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

過誤の理論

【憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、過誤の理論を含む。それは、ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、原理の体系の首尾一貫性から、その牽引力を否定する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.4.3)追加。

 (3.4)憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系
  憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
  (3.4.1)垂直的な配列関係
   (a)憲法、最高裁判所やその他の裁判所の判決、種々の立法府の制定法といった配列関係である。
   (b)憲法理論は、政治哲学や道徳哲学に関する判断を含む。
   (c)憲法理論は、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断を要求する。
   (d)憲法理論は、裁判官によって不可避的に異なったものになる。
   (e)垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。
  (3.4.2)水平的な配列関係
   単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が、同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。

  (3.4.3)過誤の理論
   (3.4.3.1)以後の論証への影響
    (a)ある制度的出来事に認められる特定の権威と、その牽引力との区別
     (i)ある制度的出来事に認められる特定の権威
      制度的出来事が、特定の制度上の帰結を結果として惹き起こす力である。
     (ii)牽引力
      今後の論証において働く、原理としての力である。
    (b)過誤とは何か
     ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、牽引力は否定されること。
     (i)この牽引性を認めることは、自らの理論における首尾一貫性と矛盾することになる。
     (ii)填め込まれた過誤
      牽引力を失っているが、特定の権威が固定され生き残っている過誤である。
     (iii)訂正しうる過誤
      それに認められた特定の権威が、牽引力消失の後では存続しえないような仕方で牽引力に依存しているような過誤である。
   (3.4.3.2)しかし、自らの理論と両立不可能な制度史のいかなる部分をも、自由に過誤と解してよいわけではない。
    続く。

 「ハーキュリーズは自己の理論を拡張して、制度史の正当化はその歴史のある部分を過誤として指摘することがある、という考えをその中に取り入れなければならない。しかし彼はこの手段を無原則に利用することはできない。なぜならば、もし彼が自分の一般理論に何ら変更を加えることなしに両立不可能な制度史のいかなる部分をも自由に過誤と解して構わないのであれば、首尾一貫性の要請はそもそも真の要請とは言えなくなるからである。そこで、彼は制度上の過誤に関して何らかの理論を発展させなければならず、しかもこの過誤の理論は二つの部分を持たねばならない。第一にこの理論は、何らかの制度的出来事が過誤とされることから、その後の論証にとってどのような帰結が生じるかを示さねばならず、第二に、このようにして処理されうる出来事の数と性格を限定しなければならない。
 ハーキュリーズはこの過誤の理論の第一の部分を、二組の区別によって構成するであろう。彼はまず、ある制度的出来事に認められる特定の権威と、その牽引力とを区別するであろう。前者は、制度的出来事が制度的行為として有する力、すなわち、当の出来事により記述された特定の制度上の帰結を結果として惹き起こす力を意味する。さて、彼が何らかの出来事を過誤として分類する場合、彼はその出来事に認められる特定の権威を否定しているのではなく、その牽引力を否定しているのである。したがって彼は首尾一貫性に違背することなく他の論証においてこの牽引力に訴えることはできない。彼はまた制度の中に填め込まれた過誤と訂正しうる過誤とを区別するであろう。填め込まれた過誤とは、その過誤に認められる特定の権威が固定され、その結果それが牽引力を失った後でも生き残るような過誤である。これに対し訂正しうる過誤とは、それに認められた特定の権威が、牽引力消失の後では存続しえないような仕方で牽引力に依存しているような過誤である。
 彼の憲法的レヴェルでの理論において、どの過誤が填め込まれた過誤かが決定されるであろう。たとえば立法府の優位に関する彼の理論は、過誤として扱われる制定法がその牽引力は失っても特定の権威は失わないことを保証するだろう。たとえ彼が航空機事故責任制限法の牽引力を否定するとしても、その制定法はそれ故に廃止されるわけでない。この過誤は填め込まれた過誤であり、したがってそれに認められた特定の権威は生き残る。彼はこの制定法が賠償責任に対して課する制限を尊重し続けなければならないが、他の事案において、賠償請求権が弱い権利であることを主張するためにこの制定法を用いたりはしないであろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.151-152,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:過誤の理論,法の牽引力)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2020年5月7日木曜日

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

憲法理論

【憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.4)追加。

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
  裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (a)権利は、制定法により創出される。
  (b)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (a)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (b)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (a)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (b)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (c)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (d)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (e)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
    難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
   (i)裁判官たちは、以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。
   (ii)裁判官たちは、新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、次のような比喩で表現する。「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「裁判官は、法それ自体が純粋に作用するための機関である」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」。
  (f)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

立法趣旨  コモン・ロー……政治的権利
 │    の原理      │
 ↓      ↓      │
制定法   判例法上の    │
 │    実定的法準則   │
 ↓      ↓      ↓
個別の権利 個別の判決………法的権利

 (3.4)憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系
  憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。
  (3.4.1)垂直的な配列関係
   (a)憲法、最高裁判所やその他の裁判所の判決、種々の立法府の制定法といった配列関係である。
   (b)憲法理論は、政治哲学や道徳哲学に関する判断を含む。
   (c)憲法理論は、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断を要求する。
   (d)憲法理論は、裁判官によって不可避的に異なったものになる。
   (e)垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。
  (3.4.2)水平的な配列関係
   単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が、同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。

 「いまやなぜ私が、我々の裁判官をハーキュリーズと呼んだかがおわかりであろう。彼はあらゆるコモン・ロー上の先例に対して、そして原理により正当化されうるかぎりで憲法更には制定法上の規定に対しても整合的な正当化を提供する抽象的かつ具体的な原理の体系を構成しなければならない。我々はハーキュリーズが正当化しなければならない判例の膨大な資料の中で、垂直的な配列関係と水平的な配列関係を区別することによって、この企ての大きさを把握することができる。垂直的な配列関係は権限の上下関係、すなわち公的な決定が下級レヴェルでなされた決定に対し規制力を有すると考えられるような上下関係を区別することによって与えられる。アメリカ合衆国においては垂直的な配列関係の大雑把な性格を明白に把握することができる。憲法的構成が最も高いレヴェルを占め、次にはその構造を解釈する最高裁判所やおそらくその他の裁判所の判決、次には種々の立法府の制定法、そしてこの下にコモン・ローを発展させる様々な裁判所の判決がそれぞれ異なったレヴェルを占めることになる。ハーキュリーズはこれらのレヴェルの各々の段階で原理による正当化を組み立てねばならず、しかもこの場合、この正当化は、より高いレヴェルの正当化を与えると解される諸原理と矛盾しないものでなければならない。これに対し、水平的な配列関係は、単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。
 さて、ハーキュリーズが彼の卓越した技量を利用して、予めこの完全な原理の体系を構築することを意図し、もしある特定の判決を正当化するために必要とあれば、この法理論をもって訴訟当事者に立ち向かおうとしたと想定してみよう。彼は垂直的な配列関係に従って、先ず、それまでに彼が用いてきた憲法理論を提示し、それを更に詳述することから始めるであろう。その憲法理論は他の裁判官が展開する理論とは多かれ少なかれ異なっているかもしれない。というのも、憲法理論は政治哲学や道徳哲学に関する判断と同時に、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断をも要求し、したがってハーキュリーズの判断は不可避的に他の裁判官が行う判断とは異なったものになるからである。垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.145-146,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:憲法理論,憲法,先例,制定法,政治哲学,道徳哲学,争点,法理論)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2020年4月27日月曜日

司法過程における原理による論証は、先例を正当化し得る一般的な原理の組合せを抽出し、難解な事例に適用する公正の原理を基礎とする。原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合しなければならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法過程における原理による論証

【司法過程における原理による論証は、先例を正当化し得る一般的な原理の組合せを抽出し、難解な事例に適用する公正の原理を基礎とする。原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合しなければならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(5.4)追加。

(5)原理の問題
  裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 (5.1)政策の論証に優先する
  原理により論証される利益は、より効率的な利益配分を追求する政策の論証を無意味にする。すなわち原理により論証される権利は、政治的多数派の利益よりも優先する。
 (5.2)裁判官の地位について
  多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 (5.3)原理により論証される権利は、新たな法の創造ではない
  原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。
 (5.4)原理による論証
  (a)権利のテーゼ
   コモン・ローの基礎をなし、コモン・ローに埋め込まれている一定の原理という概念は、それ自体権利のテーゼの比喩的な表現である。
  (b)公正の原理
   (i)先例に関する実務を、一般的に正当化する根拠が、公正の原理である。
   (ii)先例を最もよく正当化する一般的な原理の組合せを抽出する。
   (iii)この一般的な原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合する必要がある。
   (iv)この一般的正当化が、特定の難解な事案における判断を導く。

 「判決は政策の論証ではなく原理の論証によって正当化されると考えるべきことが社会において明白に認められていなくても、これが一般的には了解されていることを、ハーキュリーズは前提としなければならない。ハーキュリーズは今や先例からの理由づけを説明するために裁判官が使用する周知の概念、すなわちコモン・ローの基礎をなし、あるいはコモン・ローに埋め込まれている一定の原理という概念が、それ自体権利のテーゼの比喩的な表現にすぎないことに気づくであろう。彼はこれからはコモン・ロー上の難解な事案の判決においてこの概念を用いることができる。この概念は、ゲームの性格に関するチェス審判員の概念及び立法趣旨に関する彼自身の概念と同様、この種の事案を判決するために必要な一般的判断基準を彼に与えてくれる。この概念は一つの問題――どのような原理の組み合わせが先例を最もよく正当化するかという問題――を提示し、この問題は、先例に関する実務を一般的に正当化する根拠――すなわち公正――とこの一般的正当化が特定の難解な事案において何を要求するかに関する彼自身の判断とを架橋することになる。
 いまやハーキュリーズは、関連する先例の各々にその先例の判決内容を正当化する原理の体系をあてがうことによって、コモン・ローの基礎をなす諸原理に関する彼の概念を発展させなければならない。彼は次に、この概念と彼が制定法の解釈で用いた立法趣旨の概念との間にみられる更に重要な差異に気づくであろう。ハーキュリーズは、制定法の場合には、問題になっている特定の制定法の立法趣旨に関して何らかの理論を選択する必要があり、その場合、当該制定法にほぼ同様によく適合する複数の理論の間での選別を容易にするかぎりにおいてのみ、立法府の他の法令にも目を向ける必要があると考えた。しかし先例の牽引力が、公正は権利の一貫した強制を要請するという考えに基づくとすれば、ハーキュリーズはある訴訟当事者が彼に注意を喚起するような特定の先例だけではなく、彼の一般的法域に属する他のあらゆる判決にも一致し、更には制定法――ただし、制定法が政策ではなく原理によって生じたと考えられるべきかぎりにおいて――とも適合する諸原理を発見しなければならない。ハーキュリーズが既に確立されたものとして援用する原理自体が、彼の裁判所が同様に支持しようとする他の判決と矛盾しているのであれば、自己の判決が既に確立された原理に一致し、それ故公正であることを示すべき彼の義務は、果たされていないことになる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.144-145,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:司法過程,原理による論証,先例,公正の原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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