過誤の理論
憲法、制定法、あらゆる先例を整合 的に正当化し得る原理の体系に含まれる過誤の理論は、制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴える論証、あるいは法律家自らの論証による。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
(3.4.3.3)過誤とすることの正当性
しかし、自らの理論と両立不可能な制度史のいかなる部分をも、自由に過誤 と解してよいわけではない。
(a)当該理論が、いかなる過誤をも認めない理論よりも、強い正当化であることを示すこと。
(b)当該理論が、他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、強い正当化であることを示すこと。
(c) 制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚
制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、かつての決定を生み出す可能性のないことを示す。
(d)自らの論証による
政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることとは関係なく、それ自体不正であることを示す。
「以上のことはかなり明快である。しかしハーキュリーズは過誤の理論の第二の論点につい てはもっと苦労しなければならない。彼は先例の一般的慣行に彼が結びつけた正当化によっ て、制定法及びコモン・ロー上の判決全体のために、原理体系の形をとった一層詳細な正当化 を組み立てるように要請される。しかし正当化されるべきものの一部を過誤とか名づけるような 正当化は、一見したところでは、そのようなことを行わない正当化よりも弱いものと思われ る。したがって彼の過誤の理論の第二部では、それにもかかわらず、いかなる過誤をも認め ず、あるいは他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、当の正当化の方が強い正当化である ことが示されねばならない。この証明は理論構成に関する単純な規則を単に演繹することでは ありえない。しかしハーキュリーズが、先例と公正との間に以前確立された関係を念頭に置く ならば、この関係は彼の過誤の理論に対し二つの指針を示唆するであろう。第一に、公正は、単なる歴史としての制度史ではなく、未来へと存続するものとして政府が提示した政治的プロ グラムとしての制度史に関わる。つまりそれは先例のもつ未来向きの意味を捉えているので あって、過去向きの意味を捉えているのではない。もし制定法であれ判決であれ、以前に下さ れた何らかの決定が、今や法曹その他関連分野の広範囲の人々により遺憾の念をもってみられ ていることをハーキュリーズが発見するならば、まさにこの事実によって当該決定は欠陥のあ るものとして他から識別されるのである。第二に彼は、首尾一貫性を要求するような公正の論 証のみが、一般的には公権力、そして特殊的には裁判官が応えねばならない唯一可能な構成の 論証ではない、ということを思いださなければならない。もし彼が首尾一貫性の論証とは全く 別に、特定の制定法あるいは判決が社会自体の公正観念からみて不正なるが故にこれを間違っ たものと信ずるならば、この信念の故に当の決定は、欠陥のあるものとして十分識別されうる のである。もちろん彼は、正当化全体の垂直的構造を顧慮しながら上記の指針を適用しなけれ ばならず、それ故低いレヴェルの決定は高いレヴェルの決定に比べ、より欠陥ありとされやす いことになる。
したがってハーキュリーズは過誤の理論の第二部において、少なくとも二つの格率を適用す ることになるだろう。もし彼が、制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、立法府や裁判所がある法的決定を採用する際にかつては十分な説得力をも ちえた特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、そのような決定を生み出す可能性 のないことを示すことができるならば、当の原理を支持する公正の論証は根拠を失うことにな る。もし彼が政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることと は関係なく、それ自体不正であることを示しうるならば、当の原理を支持する公正の論証は覆 されたことになる。ハーキュリーズはこれらの区別が他の裁判官の実務においても広く認めら れていることを見出し、満足するであろう。彼の職務の法理論上の重要性は、難解な事案に関 して彼が今や創造した理論の新奇さに存するのではなく、それがまさに広く受け容れられてい る点に存するのである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモ ン・ロー,木鐸社(2003),pp.153-154,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
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