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2018年4月11日水曜日

未解決問題:我々の精神が有限であるのに対して、この宇宙を支配する諸法則はあまりに深遠で知りがたく、いかにして人間の自由な行為が、未決定に残されるかを、未だ明快には理解することができていない。しかし、この自由は確かに経験される。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自由意志はなぜ存在するか

【未解決問題:我々の精神が有限であるのに対して、この宇宙を支配する諸法則はあまりに深遠で知りがたく、いかにして人間の自由な行為が、未決定に残されるかを、未だ明快には理解することができていない。しかし、この自由は確かに経験される。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「だが我々はそうした難問からは、次のことを想起すれば免れるであろう。即ち、我々の精神は有限であるのに対して、神の能力は有りとあらゆる一切を、永遠いらい予知していたのみならず、これを意志しかつ予定していたから無限である。従って、なるほど我々はこの能力を、それが神のうちにあることを明晰判明に知るに充分な程度には悟るけれども、しかし充分十全的に把握して、いかにして人間の自由な行為が、未決定に残されるかを知るほどではない。しかるに、我々のうちにあるこの自由および未決定については、それ以上明証的かつ完全に捉えられるものがないほど、我々には意識されているのである。というのは、その本性上我々には十全的に把握できないことがわかっていることを、我々が把握しないからという理由で、我々が内的に把握し我々自らのうちに体験する他のことを、疑うとしたらそれは不合理だろうからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』第一部 四一、pp.62-63、[桂寿一・1964])
(索引:自由意志)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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しかしながら、私が自分の意志により選択するように思えることも、これがこの全宇宙の一部であるのならば、この宇宙を支配する法則によって、あらかじめ予定されていたものに違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

宇宙の法則

【しかしながら、私が自分の意志により選択するように思えることも、これがこの全宇宙の一部であるのならば、この宇宙を支配する法則によって、あらかじめ予定されていたものに違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「しかしながら今は神を知り、そのうちに無辺際の能力があることを認識して、従って、神によって前以って予定されなかったことをも、我々が為し得ると考えることは、不合理だと信じているから、もしも神のこの予定をば我々の意志自由と結びつけ、両者を同時に理解しようとするならば、容易に大きな難問に捲き込まれる可能性もあるわけである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』第一部 四〇、p.62、[桂寿一・1964])
(索引:自由意志)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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意志の自由は、確かにある。これはまさに、完全に確実ではないことを信ずるのを拒み得る自由が、我々のうちにあることを経験したときに、自明かつ判然と示された。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自由意志

【意志の自由は、確かにある。これはまさに、完全に確実ではないことを信ずるのを拒み得る自由が、我々のうちにあることを経験したときに、自明かつ判然と示された。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「だが我々の意志には自由があり、多くのことに任意に或いは同意し、或いは同意しなかったりできることは明白であって、このことは我々に本有的な、最初のそして最も共通的な概念(公理)に数えることができる。そしてこれが最も明らかにされたのは、少し前一切について疑おうと努め、ついには或る最も強力な我々の創造者が、あらゆる仕方で我々を欺こうと試みると、想像するにまで至ったときなのである。何となれば、それにも拘らず我々は、完全に確実ではなかったことを信ずるのを拒み得る自由が、我々のうちにあることを経験したからである。そしてそのとき疑いなく思われたこと以上に、自明かつ判然たることはあり得ないのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』第一部 三九、p.61、[桂寿一・1964])
(索引:自由意志、欺瞞者である神、疑うこと、悪意のある老獪な霊)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
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 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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悟性の及ぶ範囲を広げようとすることも、また、意志に違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と意志

【悟性の及ぶ範囲を広げようとすることも、また、意志に違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 また、そもそも、私が理解すること、理解しようとすること、悟性の及ぶ範囲を広げようとすることも、意志に違いないのである。すなわち、「我々が真理を捉えるとき、我々は意志的にこれを行うのであるから、(単に)捉えざるを得ない場合に比べて、真理を捉える点で遙かに多くを、我々に帰しなければならないのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』第一部 三七、p.60、[桂寿一・1964])
(索引:悟性、真理、意志)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
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 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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人間は、自由意志により自分の行為の創造者となり、賞賛に値するその行為によって、人間における最高の完全性に至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

最高の完全性

【人間は、自由意志により自分の行為の創造者となり、賞賛に値するその行為によって、人間における最高の完全性に至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「意志が遙かに広く及ぶことも、またその本性に合致するのである。人間が意志によって即ち自由に行為し、かようにして或る特別の意味では、自分の行為の創造者であり、またこの行為によって賞賛に値することこそ、人間における最高の完全性なのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』第一部 三七、p.59、[桂寿一・1964])
(索引:自由意志、意志)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月23日火曜日

哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学であり、これら諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳にまで至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

一つの樹木のごとき哲学

【哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学であり、これら諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳にまで至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])
(索引:一つの樹木のごとき哲学、形而上学、自然学、最高かつ最完全な道徳)


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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月22日月曜日

哲学とは知恵の探究、人間の知り得るすべての事物の完全な知識の探究を意味し、生活の思慮、健康の維持、技術の発見にも及ぶ。これは(1)人間精神が把握できる明白かつ自証的な真理と、(2)原因、原理に基づく演繹過程を基礎とし、単なる「処世の才能」ではない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真の哲学とは?

【哲学とは知恵の探究、人間の知り得るすべての事物の完全な知識の探究を意味し、生活の思慮、健康の維持、技術の発見にも及ぶ。これは(1)人間精神が把握できる明白かつ自証的な真理と、(2)原因、原理に基づく演繹過程を基礎とし、単なる「処世の才能」ではない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 哲学とは、知恵の探究を意味し、人間の知り得るすべての事物の、完全な知識の探究を意味する。完全な知識とは、単に「処世の才能」ではなくして、真理である最初の原因、原理から導かれるようなものである。これら真理は、(1)明白かつ自証的でその真理性を疑い得ないほどに、人間の精神が把握できるものと、(2)原理に依存する諸事物の認識を、原理に基づいて演繹する明白な全過程とに、基づいている。これら完全な知識である真理は、生活の思慮についても、健康の維持やあらゆる技術の発見にも及ぶものである。
 「即ち、この哲学なる言葉は知恵の探究を意味し、知恵とは単に処世の才能ではなくして、生活の思慮についても、健康の維持やあらゆる技術の発見についても、人間の知り得るすべての事物の、完全な知識を意味すること、そしてこの知識がかようなものであるためには、それが最初の原因から導き出されることが必要であり、従って、本来の意味で哲学する、と呼ばれることの獲得に努めるためには、これら最初の原因即ち原理の探求から始めねばならぬこと、またこれら原理には二つの条件がなければならぬこと、即ち一つは、それらが明白で自証的であって、人間の精神が注意深くその考察に向けられるときには、その真理性を疑い得ないほどであること、他は、これら原理に他の事物の認識が依存し、従って原理は事物なくしても認識できるが、しかし逆に原理なくして事物は認識され得ないということ、そしてその後に、これらの原理に依存する諸事物の認識を、原理から演繹し、その実際行われる演繹の全過程のうちに、完全に明白でないようなものは、何も残さぬようにしなければならぬ、と言ったことがら(を説きたかったの)であります。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、p.12、[桂寿一・1964])
(索引:哲学、知恵の探究、完全な知識、原因、原理、明白かつ自証的、演繹)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月19日金曜日

3.人間は、原因から結果を生ぜしめる自然の法則を知り、欲する結果のための原因を配置する。そして、あとは自然が自らのうちで成しとげる。このようにして、人間の知識と力とはひとつに合一する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

知は力なり

【人間は、原因から結果を生ぜしめる自然の法則を知り、欲する結果のための原因を配置する。そして、あとは自然が自らのうちで成しとげる。このようにして、人間の知識と力とはひとつに合一する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 「人間の知識と力とはひとつに合一する、原因を知らなくては結果を生ぜしめないから。というのは自然とは、これに従うことによらなくては征服されないからである。そして〔知的な〕考察において原因にあたるものは、〔実地の〕作業ではルールにあたる。」
 「実地の〔作業の〕ためには、人間は自然の物体を合わせたり離したりする以外には何も為し得ない、あとは自然が自らのうちで成しとげるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、三、四、p.70、[桂寿一・1978])
(索引:知は力なり、原因、結果、自然)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)




フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
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2018年1月18日木曜日

2.野心の3つの種類:(1)自己の力を伸ばす、(2)祖国の力を伸ばす、(3)人類の力を伸ばす。より健全で高貴なのは(3)だ。そして、力の伸長に肝要なのは、自然はこれに従うこと(知識)なくしては、命令されない(技術)ということだ。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

野心の3つの種類

【野心の3つの種類:(1)自己の力を伸ばす、(2)祖国の力を伸ばす、(3)人類の力を伸ばす。より健全で高貴なのは(3)だ。そして、力の伸長に肝要なのは、自然はこれに従うこと(知識)なくしては、命令されない(技術)ということだ。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
野心の三つの種類
(1) 自己の力を伸ばそうと欲すること。
(2) 祖国の勢力と支配を人類の間で伸長すること。
(3) 人類の全世界への力と支配とを、革新し伸長すること。
(3)は他のものに比べて、より健全でもあればより高貴でもある。そして、人間の事物への支配は、ただ技術と知識のうちにある。なぜなら自然は、これに従うことなくしては、命令されないからである。

 「人々の野心の三つの種類、いわば程度を区別することも、不適当ではないだろう。第一は、自分の祖国において、自己の力を伸ばそうと欲する人々のそれであって、この類の野心は通俗的で、また変性している。第二は、祖国の勢力と支配とを、人類の間に伸長することに努める人々のそれであって、これは前のより品格はあるが、しかし劣らず欲望に動かされている。

 ところがもしも人が、人類そのものがもつ全世界への力と支配とを、革新し伸長することに努めるとしたならば、疑いもなくその野心こそ(かりにもそう呼んでいいとしたら)は、残余のものに比べて、より健全でもあればより高貴でもある。しかるに人間の事物への支配は、ただ技術と知識のうちにある。自然はこれに従うことなくしては、命令されないからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一二九、pp.195-196、[桂寿一・1978])
(索引:野心の3つの種類、知識と技術)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)




フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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2018年1月16日火曜日

1.知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求からではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

知識の目的

【知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求からではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求からではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。愛には過ぎることはない。心の楽しみのためとか、争いのためとか、他人を見くだすためとか、利益のためとか、名声のためとか、権力のためとかではない。

 「最後に我々はあらゆる人に全体として忠告したいと欲する。

すなわち、知識の真の目的を考えること、知識を心の楽しみのためとか、争いのためとか、他人を見くだすためとか、利益のためとか、名声のためとか、権力のためとか、その他この種の低いことのためにではなく、人生の福祉と有用のために求めること、それを愛のうちに成しとげ支配することである。

それというのも力への欲から天使は堕ち、知識への欲から人は堕ちたのだが、愛には過ぎることはない。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』大革新 序言、p.32、[桂寿一・1978])
(索引:知識の目的)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)



フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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