2018年1月14日日曜日

幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

幾何学の公理

【幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。仮に、これらの公理が、カント Kant のいったように先天的総合判断であるのなら、公理は非常に強い力で我々を束縛するはずだから、我々はこれに反する命題を考えることも、またそういう命題に基づいて理論的な建築を作りあげることもできないに違いない。ロバチェフスキーの幾何学など、ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。ロバチェフスキーによれば、内角の和と二直角との差は三角形の面積に比例する。したがって、もし我々がもっと大きい三角形を取り扱うか、または我々の測定がもっと精密になったとしたらば、その差を実験的に検証できるかもしれない。もしそうなれば、逆にユークリッド幾何学は暫定的な幾何学に過ぎないということになる。
 「数学者の大多数はロバチェフスキーの幾何学を単なる論理上の遊戯としか見なさない。しかしながら数学者のうちにはもっとはるかに進んでいる人々もある。数ある幾何学が可能である以上、真の幾何学は我々の幾何学であるというのは確かだろうか。経験はもちろん三角形の内角の和は二直角に等しいと我々に教えてはいる。しかしそれはなぜかといえば我々が余り小さい三角形しか取り扱わないからである。ロバチェフスキーによれば、内角の和と二直角との差は三角形の面積に比例する。もし我々がもっと大きい三角形を取り扱うか、または我々の測定がもっと精密になったとしたらば、その差を感じ得るようにならないだろうか。そうなればユークリッド幾何学は暫定的な幾何学に過ぎないであろう。
 この説を論議するには、我々はまず幾何学の公理の本性がどんなものかを考えなければならない。
 これらの公理はカント Kant のいったように先天的総合判断であろうか。
 そうだとすると、これらの公理は非常に強い力で我々を束縛するから、我々はこれに反する命題を考えることも、またそういう命題に基づいて理論的な建築を作りあげることもできない。非ユークリッド幾何学というようなものは存在しないはずである。」(中略)
 「それでは幾何学の公理は実験的な真理であると結論すべきであろうか。しかし人は理想的な直線や円などについて実験することはない。ただ物質的な対象について実験し得るに過ぎない。」(中略)
 「だから幾何学の公理は先天的総合判断でもないし、実験的事実でもない。
 それは規約である。我々の選択はあらゆる可能な規約のうちから実験的事実に導かれて行ったのである。しかし選択にはなお自由の余地があって、矛盾は全然避けるという必要はあるが、それ以外には制限はない。公理の採用を決定した実験的法則が近似的なものに過ぎなくても、なお公理は依然として厳密に真であるということを失わないというのはこういうわけである。
 いいかえれば幾何学の公理(私は算術の公理については述べない)は扮装を着けた定義に過ぎない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第3章、pp.74-76、河野伊三郎(訳))
(索引:)

科学と仮説 (岩波文庫)




アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
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数学的帰納法(もしくは、これと同等の公理)は、「任意の特定の正の整数について、必要ならいつでも具体的に推論を展開できる」という、理知の能力を肯定することにほかならない。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

数学的帰納法

【数学的帰納法(もしくは、これと同等の公理)は、「任意の特定の正の整数について、必要ならいつでも具体的に推論を展開できる」という、理知の能力を肯定することにほかならない。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学的帰納法について。「それではなぜこの判断が我々にとって争うことのできない自明なものとして服従を強制するのであろうか。それは一つの作用が一度可能だと認められさえすれば、その作用を際限なく繰り返して考えることができると信ずる理知の能力を肯定することにほかならないからである。理知はこの力については直接の直感を有していて、経験は理知にとっては直感を用い、従ってそれを意識する機会となるに過ぎない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、6、p.35、河野伊三郎(訳))
(索引:数学的帰納法、理知の能力)

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数学において「無限」の推論を支える公理は、経験により検証可能なものではない。そうかと言って、恣意的な規約とも思えず、自明なものとして服従を強制されているかのようである。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

無限とは何か?

【数学において「無限」の推論を支える公理は、経験により検証可能なものではない。そうかと言って、恣意的な規約とも思えず、自明なものとして服従を強制されているかのようである。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の定理に「無限」がかかわってくるときに、数学的帰納法(もしくは、これと同等の、正の整数のどんな集合のうちにも、集合中のほかのどれよりも小さい一数がいつでも存在という公理。)が必要になる。この数学的帰納法による証明は、我々が実際に無限の推論を展開できるわけではないという意味で、経験から真であることが知られるわけではない。またそれが、無限にかかわる限り、争うことのできない自明なものとして服従を強制されているように思われることから、任意に採否が決められる「規約」とも思えない。
 「もしある定理が1なる数について真であって、この定理が n なる数につき真であるかぎり、 n + 1 なる数についても真であることを証明したならば、この定理は正の整数すべてについて真であるとする「出直し法」による推理の根拠となる判断は別の形に直すことができる。たとえば相異なる正の整数の無限集合のうちには、集合中のほかのどれよりも小さい一数がいつでも存在するといえる。一つの命題から別の命題に容易に移れるところをみると、出直し法による推理の正当なことを証明したという幻想を抱く人もあるかもしれない。しかしいつでも途中で障害にあう、いつでも証明し得ない公理に到達する。そうしてこれは根本においては、証明すべき命題を別の言葉に翻訳したものにほかならない。
 だから出直し法による推理の規則は矛盾律に引き直し得ないというその結論からまぬかれることはできない。
 そのうえこの規則は経験から来たのでもない。経験が我々に教え得るのは、ある規則が例えば十までの数についてとか、百までの数についてとか真であるということで、経験は際限のない数の系列に追いつくことはできない。できるのは、ただこの系列のうちの、長くても短くてもとにかく必ず限られた一部分に過ぎない。
 ところでそれだけの話だとすれば、矛盾律だけで十分である。これによると我々はいつでも欲しいだけの三段論法を展開することができる。ところがただ一つの公式に無限のものを含ませる場合、ただ無限に対する場合だけこの原理は効果を失い、またその場合には経験も同様に無効になる。分析的な証明によっても、経験によっても捕えられないこの規則は先天的総合判断の真の典型である。しかもこれを幾何学の要請のあるもののように、一つの規約と認めようとするわけにもいかない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、6、pp.34-35、河野伊三郎(訳))
(索引:公理、先天的総合判断、無限、数学的帰納法、出直し法)


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問題:諸公理と推論規則による演繹体系である数学は、なぜ、大規模な同語反復に帰しないのであろうか。この豊かな諸成果は、何からもたらされるのか?(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

数学の豊かさの由来

【問題:諸公理と推論規則による演繹体系である数学は、なぜ、大規模な同語反復に帰しないのであろうか。この豊かな諸成果は、何からもたらされるのか?(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の豊かな諸成果は、いったい何からもたらされるのだろうか。数学の諸定理が、推論全部の根源にある諸公理をもとにして、形式論理学の規則によって次から次へと引き出すことができるのならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。これら諸公理と推論規則の由来が、仮に実験的事実のようなものとして理解することができたり、あるいは、人間の認識が従わざるを得ない「先天的総合判断」のようなものとして理解することができたとしても、この数学の豊かな生産性は、依然として謎なのである。
 「数学についてはその可能性からしてすでに解けない矛盾であるように思われる。もし数学が演繹的なのはただ見かけに過ぎないならば、だれも夢にも疑おうとしないこの完全な厳密性はどこから来るのか。もし反対に数学で述べられている命題全部が形式論理学の規則によって次から次へ引き出すことができるならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。三段論法は我々に何も本質的に新しいことを教えることはできないし、もしすべてが同一律から出てくるべきものだとすれば、すべてはまたそこに帰着するはずである。それではこんなに多くの書物を満たしている定理の全部の叙述は「AはAである」というのを、まわりくどい方法でいったものに過ぎないということを承認するものがあるだろうか。
 もちろん推論全部の根源にある公理にまでさかのぼることはできる。もし公理を矛盾律に帰着させることができないと判断し、そのうえそれを数学的必然性を持ち得ない実験的事実と認めることを欲しないとしても、なおこれらの公理を[カントのいう]先天的総合判断のうちに入れるというくふうもある。これはその困難を解決するものではなく、ただ名前をつけただけである。そのうえ総合判断の本性が我々にとって少しも神秘的でないとしたところで、矛盾は消滅するわけでなくて、あとじさりさせただけのことになる。三段論法的推論はそこに持ち出された材料に何一つ付け加えることができずにいるし、その材料はいくつかの公理に帰着するのだから、その結論のうちには別のものは何も発見できないはずである。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、1、pp.20-21、河野伊三郎(訳))
(索引:公理、論理学、同語反復、推論規則、先天的総合判断)

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10.ビッグバンに由来する電磁場の「宇宙背景放射」が観測されているように、ビッグバンの直後に発生した原初の「重力波の背景放射」もまた、存在しているはずである。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

重力場の背景輻射

【ビッグバンに由来する電磁場の「宇宙背景放射」が観測されているように、ビッグバンの直後に発生した原初の「重力波の背景放射」もまた、存在しているはずである。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
 ビッグバンに由来する電磁場の「宇宙背景放射」が観測されているように、量子重力理論によると、ビッグバンの直後に発生した原初の「重力波の背景放射」もまた、存在しているはずである。LIGOは、二つのブラックホールの衝突に由来する重力波を、直接に観測している。三つの人工衛星を、地球のまわりではなく太陽のまわりの軌道に投入して、同様に重力波を観測するための、LISA(「発展型のLISA」という意味をこめて、eLISAに改名されている)という構想があり、このような観測が行われることにより、「重力波の背景放射」の検証が行われるだろう。


(レーザー干渉計重力波観測所(LIGO) 出典:wikipedia


((構想段階)宇宙重力波望遠鏡(LISA) 出典:wikipedia


 「重力場もまた、原初のすさまじい熱気の痕跡を帯びているはずである。

重力場、つまり空間それ自体もまた、海面のように震えているはずである。

つまり、「重力場の背景輻射」もまた存在しているはずであり、それは電磁場の「宇宙背景放射」よりも長い歴史をもっているはずである。

なぜなら、重力波は電磁波よりも物質からの干渉を受けにくいと考えられるため、電磁波が自由に行き来できないようなきわめて圧縮された宇宙のなかでも、重力波はほかの物質にじゃまされることなく移動できるからである。

 アメリカのLIGOという観測所の検出器が、すでに重力波を直接に観測している。長さ数キロメートルの二本のアームがL字型に組み合わさって、検出器を形成している。この検出器は、レーザーを利用して、三つの定点の距離を正確に測定する。

重力波が通過するとき、空間はほんのわずかに伸びたり縮んだりする。検出器のレーザーが、このかすかな変化を明るみに出す。

LIGOで観測された重力波は、天体物理学に関連する一事象に由来するものだった。それはつまり、二つのブラックホールの衝突である。

量子重力理論を援用せずとも、一般相対性理論さえあれば、この事象を完全に記述できる。

 もうひとつ、いまだ準備段階ではあるが、より野心的なLISAという試みがある(数年前に、「発展型のLISA」という意味をこめて、eLISAに改名されている)。

これは、LIGOと同じ観測を、はるかに大きなスケールで実現するための計画である。

予定としては、三つの人工衛星を、地球のまわりではなく太陽のまわりの軌道に投入することになっている。人工衛星は、小型の惑星のようにして、地球とある程度の距離を保ちながら、太陽のまわりを回る地球を追いかけていく。

三つの人工衛星は、たがいの距離を計測するレーザー光線によって結びつけられている。

重力波の通過によって、わずかに変化する衛星間の距離を、レーザーが観測する仕組みである。

eLISAの計画が実現すれば、天体やブラックホールから発せられる重力波だけでなく、ビッグバンの直後に発生した原初の重力波の背景放射をも観測できる可能性がある。これらの波が、量子的な「反発」の真相を、わたしたちに伝えてくれるはずである。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第4部 空間と時間を超えて、第9章 実験による裏づけとは?、pp.216-218、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))

9.無限とは、わたしたちがまだ理解し得ていないもの、数え得ていないものに対して、暫定的に与えられた属性にすぎないように思われる。光速度 c、プランク定数 h、プランク長Lp、そして果てはないが有限な大きさを持つ宇宙。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

無限とは何か?

【無限とは、わたしたちがまだ理解し得ていないもの、数え得ていないものに対して、暫定的に与えられた属性にすぎないように思われる。光速度 c、プランク定数 h、プランク長Lp、そして果てはないが有限な大きさを持つ宇宙。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
 「無限」とは何か? 無限とは、わたしたちがまだ理解し得ていないもの、数え得ていないものに対して、わたしたちが与えた名前にすぎない。自然界に存在すると思われていたさまざまな「無限」に、限界があることが分かってきた。自然について多くを学べば学ぶほど、自然はわたしたちに、本当に無限なものなど存在しないと語りかけてくるようである。クオーク、陽子、原子、さまざまな構造をもつ化学物質、山、星、太陽、銀河、銀河の一群、宇宙そのもの。これらは複雑でとてつもなく巨大ではある、しかし「有限」である。例をあげる。
 最大の速さ、光速度 c :特殊相対性理論は「あらゆる物理的な系が共有する最大速度」を発見した。
 プランク定数 h :量子力学は「あらゆる物理的な系が共有する情報の最小単位」を発見した。
 最小の長さ プランク長Lp :量子重力理論は、これよりも小さい長さ(空間)が存在しないことを予測する。
 また、宇宙空間は、一般相対性理論により「果てはないが有限」であることが分かった。現在の計測によれば、宇宙の全長は千億光年を超えるとのことである。これは、プランク長のおよそ1060倍に相当する。
 参考: 検索(光速度)検索(プランク定数)検索(プランク長)検索(宇宙の大きさ)

 「無限に限界を設定することは、現代物理学に繰り返し登場するテーマである。

特殊相対性理論の内容を一言に圧縮するなら、「あらゆる物理的な系が共有する最大速度(つまり光速)の発見」ということになる。

同じように、量子力学は、「あらゆる物理的な系が共有する情報の最小単位の発見」と要約できる(情報は次章のテーマである)。

最小の長さはプランク長Lpであり、最大の速さは光速cであり、情報の最小単位はプランク定数hによって規定される。」
(中略)

「三つの定数をもとに自然を描写することは、たんなる形式上の変化に留まらない深遠な意味をもっている。

これら三つの定数が特定されることによって、それまで自然界に存在すると思われていたさまざまな「無限」に、限界が設定されたからである。

無限であるように見えるものは、実際には、わたしたちがまだ理解していなかった(または数えられていなかった)ものでしかないことを、これらの定数は繰り返し示してきた。

わたしが思うに、これは普遍的な真実である。「無限」とは、つまるところ、未知の事物にわたしたちが与えた名前にすぎない。自然について多くを学べば学ぶほど、自然はわたしたちに、本当に無限なものなど存在しないと語りかけてくるようである。

 もうひとつ、人間の思索をつねに惑乱させてきた「無限」がある。それは、宇宙空間の無限の広がりである。

しかし、第3章で解説したとおり、アインシュタインの理論のおかげで、「果てはないが有限な宇宙」について考えるための方法が明らかになった。

現在の計測によれば、宇宙の全長は千億光年を超えるとのことである。これが、わたしたちの住まう宇宙に存在する最大の長さである。これは、プランク長のおよそ1060倍に相当する。1060とは、1のあとに0が六十個つづく数値である。

プランクのスケールと宇宙のスケールのあいだには、数字にして六十桁もの莫大な開きがある。大変な違いである。それでも、プランク長と宇宙の大きさを比較するのに、「無限」をもち出す必要はない。

 クオークも、陽子も、原子も、さまざまな構造をもつ化学物質も、山も、星も、太陽のような天体が千億個も集まってできる銀河も、銀河の一群も……いまだにわたしたちはその一側面しか理解できていない、目もくらむほどに複雑な宇宙全体が、この大きさのなかに収まっている。

宇宙は巨大であり、しかし同時に、有限である。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第4部 空間と時間を超えて、第11章 無限の終わり、pp.229-231、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))

8.技術的な工夫で回避されている場の量子論における無限発散の困難は、ループ量子重力理論によれば合理的に解決できる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

ループ量子重力理論

【技術的な工夫で回避されている場の量子論における無限発散の困難は、ループ量子重力理論によれば合理的に解決できる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
 場の量子論を使って物理的な過程を計算すると、多くの場合、何の意味も持たない「無限」という解が得られてしまう。こうした解のことを、専門用語では「発散」と呼ぶ。これは、技術的な工夫を導入することで、回避されている。なぜ無限が現われるのか? それはこの理論が、時空が際限なく分割できるという仮定に基づいているからである。例えば、ファインマンの経路積分において、ある過程が生じる確率を計算するには、この過程がたどることのできるあらゆる道筋を足し合わせた。しかし、この「道筋」は無限に存在する。その結果、無限発散の困難が現われることになる。
 量子重力理論によれば、空間は無限に分割することはできず、無限に小さな点は存在しない。その結果、取りうる「道筋」は有限個となり、無限発散の困難は解消する。粒的であり離散的である時空の構造が、場の量子論を苦しめている無限を除去し、この理論が抱えている難題を解決するのだ。
 考えてみれば、一方では、量子力学を考慮に入れることで、アインシュタインの重力理論にもとづく特異点における無限の問題が解消され、他方では、重力を考慮に入れることで、場の量子論から生じる無限の問題が解消されることになる。


 「まったく別の文脈で、量子重力理論が無限に限界を設定した事例がある。それは、電磁力をはじめとする「力」にかかわっている。

ディラックによって創始され、五〇年代にファインマンやその同僚たちが完成させた場の量子論は、これらの力を適切に描写することを可能にした。

ただしこの理論は、数学的に見て不合理としか言いようのない問題を抱えていた。場の量子論を使って物理的な過程を計算すると、多くの場合、何の意味も持たない「無限」という解が得られてしまうのである。こうした解のことを、専門用語では「発散」と呼ぶ。

有限な解が得られるように、技術的な工夫を導入することで、この種の無限は姿を消した。場の量子論はうまく機能するようになり、計算から求められる値と実験による計測値は一致するようになった。

しかし、場の量子論はどういうわけで、適切な数値にたどり着く前に、無限という不合理な解を通過しなければならなかったのか?

 晩年のディラックは、理論にたびたび顔を出す無限という要素に不満を抱いていた。事物の働きを完全に理解するという自身の目的は、結局のところ達成されなかったと感じていた。ディラックは明晰な概念を好む人物だった(もっとも、彼にとって明晰な概念が、ほかの人びとにとっても明晰であったことは少ないが……)。「無限」はけっして、明晰な要素とはいえなかった。

 ところが、場の量子論に登場する無限は、この理論の基礎を成すある前提に由来するものだった。その前提とは、空間の際限のない分割性である。

かつてファインマンが教えてくれたように、ある過程が生じる確率を計算するには、この過程がたどることのできるあらゆる道筋を足し合わせればよい。

しかし、この「道筋」は無限に存在する。なぜなら、計算の対象となっている過程は、連続的な空間に存在する無限個の点のすべてをたどることができるからである。このために、多くの場合、無限という計算結果が導き出される。

 量子重力理論を考慮に入れれば、このような無限もまた姿を消す。理由は明快である。空間を無限に分割することはできず、無限に小さな点は存在しない。したがって、足し合わせるべき「道筋」が無限に存在することもない。

粒的であり離散的である空間の構造が、場の量子論を苦しめている無限を除去し、この理論が抱えている難題を解決する。

 これは目覚ましい成果である。一方では、量子力学を考慮に入れることで、アインシュタインの重力理論にもとづく無限の問題が解消され、他方では、重力を考慮に入れることで、場の量子論から生じる無限の問題(つまり「発散」をめぐる問題)が解消された。

一見したところ矛盾しているように見えた二つの理論が、じつのところは、それぞれが抱えている問題の解決策になっていたのである! このことは、理論の信頼性を大いに補強している。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第4部 空間と時間を超えて、第11章 無限の終わり、pp.227-229、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:場の量子論における無限発散)


すごい物理学講義


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
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2018年1月13日土曜日

外部感覚だけでなく、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、記憶され、想像力の対象となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

共通感覚の記憶

【外部感覚だけでなく、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、記憶され、想像力の対象となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 ある特定の外部感覚の原因となった身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、外部感覚と同じように、身体に印象づけられ、これらの印象は外部感覚がなくても、それら自体だけでも形や観念を生じさせる(想像力)ようなものとして、身体に把持されている(記憶)。
 「第三に、共通感覚もまた、外部感覚からして物体の助けを借らずにただ自体だけで到来するところのこれら形または観念をば、あたかも印章が蝋に印するごとくに、想像または想像力(phantasia vel imaginatio)の中へ印象づける働きをする、と考うべきである。そして、この想像は、現実の身体部分であって、それのさまざまな部分は、互いに区別された多くの形を受け容れるだけの大きさをもっており、通常それらの形を長く把持する――この時それは記憶と呼ばれる――と考うべきである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.75、[野田又夫・1974])
(索引:共通感覚、想像力、記憶)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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ある特定の外部感覚は、その原因となる身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与え、これら身体の能動を精神において受動する共通感覚を生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

共通感覚

【ある特定の外部感覚は、その原因となる身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与え、これら身体の能動を精神において受動する共通感覚を生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「第二に、外部感覚が対象によって動かされる時、それが受け取る形は、身体の或る他の部分すなわち共通感覚(sensus communis)と呼ばれる部分へ、同一瞬間に、かつその際何か実在的なものが一方から他方へ移り行くことなしに、移される、と考うべきである。あたかも、今私が字を書いている時、各々の文字が紙上に記されると同じ瞬間に、ペンの下部が動かされるのみならず、この部分のいかに小さな運動でも必ず同時にペンの全体にも及び、しかして、一端から他端へ何か実在的なものが移り行くのでないことが分かっているにも拘わらず、その運動のすべての差異はペンの上部によってもまた空中に描かれる、ということを私が理解するようなものである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.74、[野田又夫・1974])
(索引:共通感覚、外部感覚)



精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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対象に注意を向けるのは能動であるにしても、外部感覚は精神の受動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

外部感覚

【対象に注意を向けるのは能動であるにしても、外部感覚は精神の受動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「そこで第一にこう考うべきである、あらゆる外部感覚は、それらが身体の部分である限りにおいては、たとえそれらを対象に向けるのは能動(actio)すなわち場所的運動によるにしても、それらが本来の意味で「感覚する」(sentire)のはただ受動(passio)による、しかも蝋が印章から形(figura)を受け取るごとくする、と。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.73、[野田又夫・1974])
(索引:外部感覚)


精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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