数学の豊かさの由来
【問題:諸公理と推論規則による演繹体系である数学は、なぜ、大規模な同語反復に帰しないのであろうか。この豊かな諸成果は、何からもたらされるのか?(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】数学の豊かな諸成果は、いったい何からもたらされるのだろうか。数学の諸定理が、推論全部の根源にある諸公理をもとにして、形式論理学の規則によって次から次へと引き出すことができるのならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。これら諸公理と推論規則の由来が、仮に実験的事実のようなものとして理解することができたり、あるいは、人間の認識が従わざるを得ない「先天的総合判断」のようなものとして理解することができたとしても、この数学の豊かな生産性は、依然として謎なのである。
「数学についてはその可能性からしてすでに解けない矛盾であるように思われる。もし数学が演繹的なのはただ見かけに過ぎないならば、だれも夢にも疑おうとしないこの完全な厳密性はどこから来るのか。もし反対に数学で述べられている命題全部が形式論理学の規則によって次から次へ引き出すことができるならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。三段論法は我々に何も本質的に新しいことを教えることはできないし、もしすべてが同一律から出てくるべきものだとすれば、すべてはまたそこに帰着するはずである。それではこんなに多くの書物を満たしている定理の全部の叙述は「AはAである」というのを、まわりくどい方法でいったものに過ぎないということを承認するものがあるだろうか。
もちろん推論全部の根源にある公理にまでさかのぼることはできる。もし公理を矛盾律に帰着させることができないと判断し、そのうえそれを数学的必然性を持ち得ない実験的事実と認めることを欲しないとしても、なおこれらの公理を[カントのいう]先天的総合判断のうちに入れるというくふうもある。これはその困難を解決するものではなく、ただ名前をつけただけである。そのうえ総合判断の本性が我々にとって少しも神秘的でないとしたところで、矛盾は消滅するわけでなくて、あとじさりさせただけのことになる。三段論法的推論はそこに持ち出された材料に何一つ付け加えることができずにいるし、その材料はいくつかの公理に帰着するのだから、その結論のうちには別のものは何も発見できないはずである。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、1、pp.20-21、河野伊三郎(訳))
(索引:公理、論理学、同語反復、推論規則、先天的総合判断)
(出典:wikipedia) |
アンリ・ポアンカレ(1854-1912)
ポアンカレの関連書籍(amazon)
検索(ポアンカレ)