2024年4月15日月曜日

完全雇用の回復と維持(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

完全雇用の回復と維持(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「完全雇用の回復と維持

 ①完全雇用を平等に維持するための財政政策。」(中略)「

 ②完全雇用を維持するための通貨政策と通貨制度。」(中略)「

 ③貿易不均衡の是正」(中略)「

 ④積極的な労働市場政策と社会保護の改善。

 アメリカの経済は大きな構造転換を遂げようとしている。グローバル化と技術進歩からもたらされた変化が、労働者たちに業種間・職種間の大移動を強いる一方、市場は独力で変化への対応をうまく取り仕切れていない。だから、変化のプロセスから生まれる勝者をできるだけ多くし、敗者をできるだけ少なくするためには、政府が積極的な役割を果たさなければならないだろう。消え去っていく仕事から、新しく生み出される仕事への移動をうながすには、積極的な支援が不可欠であり、少なくとも転職による労働環境の悪化を防ぎたいなら、教育と技術に莫大な投資を行なう必要がある。積極的な労働市場政策が効果をあげうるのは、当然ながら、移動先の雇用が存在する場合に限られる。もしも、わたしたちが金融制度の改革に失敗し、金融セクターを本来の基幹機能へ復帰させられなければ、未来の新ビジネスに対する資金提供という役割も、政府が積極的に担わざるをえなくなるかもしれない。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.400-403,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))


【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】





 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)



富裕層以外の人々を支援する(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

富裕層以外の人々を支援する(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「富裕層以外の人々を支援する

 ①教育へのアクセス権の向上。

 機会の形成を左右する最も大きな要因は、何と言っても教育へのアクセス権だ。わたしたちが進んできた方向(所得層別に分かれた住宅地、高等教育に対する公的支援の急減、公立大学の授業料の高騰、工学などの高需要・高コスト分野における奨学生の制限)は、逆転させることができるものの、それには国を挙げた協調と努力が必要となる。教育へのアクセス権を向上させるための方策、とりわけ公教育の質を向上するための方策について語りはじめたら、一冊の分厚い本ができあがってしまうだろう。

 しかし、すぐに打てる手がひとつある。営利第一主義の学校に対する規制だ。政府融資、政府保証融資、民間融資のいずれを原資とする場合でも、学資ローンを背負わされた若者たちは、ローン債務の免除禁止という枷をはめられる一方、機会の拡大という恩恵にはあずかれなかった。じっさい、営利第一主義の学校は、向上心にあふれる貧しいアメリカ人の足をひっぱる主要因となってきたのだ。良い就職先には決まって卒業できる学生は少数にとどまり、圧倒的大多数は巨額の債務とともに大学から放り出される。そのような略奪的行為の継続をゆるすことは不条理であり、事実上、公的資金で略奪を支えることはなおさら不条理である。公的資金の使いみちとして適切なのは、州もしくは非営利の高等教育制度に対する援助の拡充や、貧困層の教育機会を保証するための奨学金の提供だ。

 ②一般の人々に貯蓄をうながす。」(中略)「

 ③万人のための医療」(中略)「

 ④医療以外の社会保護制度の強化。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.395-398,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】




 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)







税制改革(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 税制改革(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 ①所得税と法人税の累進性を高め、税制の抜け穴を減らす。

 名目上、累進制度をとるアメリカの税制は、見かけよりもずっと累進性が低く、すでに述べたとおり、抜け穴と例外と免除と優遇であふれ返っている。本当の公平な税制というものは、投機の収益に課税をする際、少なくとも労働の報酬と同じ税率を適用するはずであり、上層の所得に課税をする際は、少なくも中下層と同じ税率を確保するはずだ。法人税にかんしては、抜け穴を取り除くとともに、雇用と投資の増加をうながす改革が必要となる。

 4章で説明したとおり、右派の主張とは裏腹に、わたしたちは税制の効率性と累進性を同時に高めることができる。貯蓄と労働力供給への影響を勘案したいくつかの研究によると、適正な最高税率は50パーセントをはるかに超え、70パーセントをも上回るという。しかも、これらの研究には、上層の法外な所得がどれほどレントに依存しているか、という点が充分に反映されていないのだ。

 ②新たな財閥の誕生を阻止するため、現在より実効性の高い相続税制を創設し、実効性の高い運用体制を構築する。

 骨抜きにされた相続税を復活させ、キャピタルゲインの優遇税制を撤廃させれば、新たな財閥や特権階級の誕生を防ぐことにもつながるだろう。それらの措置の副作用は、最小限にとどまる可能性が高い。なぜなら、相続税の対象となる巨額の遺産は、たんなる運や、独占力の行使や、非金銭的なインセンティブによって蓄積されているからだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.394-395,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】





 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)







経済改革の7つの基本方針(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)


 「経済改革の7つの基本方針

 ①金融部門の抑制。

 不平等拡大のかなりの部分は、金融セクターの行き過ぎと関連しているため、改革プログラムに着手する際、金融界から始めるのは自然な流れと言える。ドッド・フランク法は第一歩だが、あくまでも第一歩にすぎない。ここで、6つの緊急課題を述べる。

 (a)行き過ぎたリスクテイクと、“大きすぎて潰せない”もしくは“相互のつながりが強すぎて潰せない”金融機関を制限する。この二つの組み合わせは破滅的な結果を招きかねず、じっさい、過去30年間にわたって金融機関の救済が繰り返されてきた。鍵となる対策は、レバレッジと流動性の制限。なぜなら銀行界はどういうわけか、レバレッジという魔法で無から資源をつくり出せると信じているからだ。そんなことができるはずはない。現実に銀行が生み出すのは、リスクと激しい変動だ。

 (b)銀行の透明性を高める。とりわけデリバティブの店頭取引はもっときびしく制限すべきであり、政府保証のもとにある金融機関がデリバティブを引き受けるべきではない。高リスクの金融商品を保険とみなそうと、ギャンブルとみなそうと、ウォーレン・バフェットのように“金融の大量破壊兵器”とみなそうと、損失補填に納税者を巻き込むべきではない。

 (c)銀行業界とクレジットカード業界の競争力を高め、各企業が競争的な“行動”をとるように仕向ける。アメリカの技術力をもってすれば、21世紀にふさわしい効果的な電子決済システムは実現が可能だ。しかし、既存の決済システムは、クレジットカードとデビットカードの維持に固執し、消費者を搾取するだけでなく、取引ひとつごとに小売商から多額の手数料を徴収している。

 (d)高利貸し(行き過ぎた高金利での貸付)に対するきびしい制限をふくめ、銀行が略奪的貸付と濫用的クレジットカード業務に従事することを難しくする。

 (e)過度のリスクテイクと近視眼的な行動をうながす役員ボーナスを抑制する。

 (f)オフショア・バンキングの拠点(と、それに相当する国内拠点)を閉鎖する。これらの拠点は、規制回避と脱税・節税の両面で大いに役立ってきた。ケイマン諸島でこれほど金融業が栄えることは、合理的に説明できない。ケイマン諸島そのものにも、ケイマン諸島の気候にも、金融をひきつける要素はなく、ひとつだけ考えられる理由は租税回避だ。

 以上の課題の多くは相互に関連している。たとえば、銀行業界の競争力を高めれば、濫用的業務が行なわれる可能性も、レントシーキングが成功する確率も低くなる。銀行は規制逃れを大の得意にしているため、金融セクターを抑え込むことは難しいだろう。銀行の規模に上限を設定――それだけでも厄介な作業だ――したとしても、銀行同士は(デリバティブのような)契約を結び、“相互のつながりが強すぎて潰せない”状態を確実につくり出すはずだ。

 ②競争法とその取り締まりの強化。

 法体系と規制体系はあらゆる側面において、効率性と平等性に影響を与えているが、競争と企業統治と破産にかんする法律はとりわけ影響が大きい。

 独占と不完全な競争市場は、レントの主要供給源だ。本来より競争性が低いセクターは、金融界だけではない。アメリカ経済を見渡してみると、驚くべきことに、2社、3社、4社に牛耳られている部門が非常に多い。それでよいと考えられていたときもあった。技術進歩にもとづく活発な競争が、支配的企業の交代を実現させるはずだ、と。これは市場内の競争ではなく、市場参加をめぐる競争と言ったほうがいいが、わたしたちは今日、その考え方が不充分であることを知っている。支配的企業は競争抑圧のためのツールを持っており、多くの場合、イノベーションの抑圧さえ可能だ。彼らが設定する高い価格は、経済をゆがめるだけでなく、税金のようなふるまいをする。しかし、集められたこの“税金”は、公共の目的に振り向けられず、独占者たちの金庫の中に貯め込まれる。

 ③企業統治の改善――特に制限すべきなのは、CEOが莫大な社内資源を私的に流用する能力。

 企業幹部に与えられる権力と敬意は、所有しているとされる叡智と比較してあまりにも大きすぎる。本書が説明してきたとおり、彼らは権力を濫用し、莫大な社内資源を私的に流用している。役員報酬に対する株主の発言権を法律で保証すれば、大きな変化が生じるだろう。新たな会計基準を設定し、企業幹部の報酬を株主に明示させた場合も、同じような変化が期待できるだろう。

 ④破産法の包括的改革――デリバティブの扱いから、担保割れの住宅、学資ローンまで。

 ゲームの基本ルールが市場の機能を決定づけ、最終的に効率性と所得分配が大きく左右される、という実例は破産法にも見られる。ほかの多くの分野と同様に、破産法が上層を利する度合はどんどん高まってきている。

 すべてのローンは、自発的な貸し手と自発的な借り手との契約だが、一方の市場に対する理解は、もう一方よりはるかに深いと考えられている。要するに、情報と交渉力の面でとてつもない非対称性が存在するわけだ。それゆえに、あやまちの結果をもっぱら引き受けるべきは、貸し手であって借り手ではない。

 債務者が有利になるよう破産法を改正すれば、銀行にはもっと注意深く貸付を行なうインセンティブが与えられるだろう。信用バブルの発生頻度も、多額の負債をかかえる人々も少なくなるはずだ。前にも述べたとおり、最もたちの悪い融資のひとつは、学資ローン制度である。学資ローンの場合、悪質な貸付を助長してきたのは、個人破産をしても債務が免除されないという法律だった。

 つまり、バランスを欠く破産法によって、金融セクターの膨張や、経済の不安定化や、貧しい人々と金融知識に乏しい人々の搾取や、経済上の不平等が促進されてきたわけだ。

 ⑤政府の無償供与の打ち切り――公共資産の譲渡においても物資の調達においても。

 先述した4つの改革の焦点は、金融関係者をふくむ上層の人々が私的取引において、消費者や借り手や株主などを搾取できないようにすることだ。しかし、レントシーキングの多くは、納税者の搾取という形で行なわれる。搾取はさまざまな装いを身にまとっており、たんに無償供与と説明するのがふさわしいものもあれば、企業助成の項目にあてはまるものもある。

 2章で説明したとおり、企業に対する政府の無償供与は莫大な額にのぼる。例として挙げられるのは、薬価交渉を禁止するメディケア改正法の一条項、コストプラス方式で行なわれた〈ハリバートン〉社との防衛契約、お粗末な油田の競売制度、テレビとラジオの周波数帯の無償供与、そして、市場価格を下回る鉱物資源の採掘権料だ。これらは、企業と富裕層に対する残りの階層からの純粋な所得移転とみなせるが、予算に制約がある世界では、悪影響はさらに広がっていく。なぜなら、ハイリターンを望める公共投資が結果的に減少してしまうからだ。

 ⑥企業助成の打ち切り――隠れた補助金をふくむ。

 これまで説明してきたとおり、政府はほとんどの場合、援助が必要な人々に手を差しのべず、貴重な資金を企業助成に振りむけている。補助金の多くは税法の中に埋もれている。すべての抜け穴と例外と免除と優遇は、累進性を低下させてインセンティブをゆがめるが、この傾向は企業助成の領域でとりわけ強くなる。独力でやっていけない企業は退場させるべきだ。労働者に対しては転職の支援が必要となるだろうが、それは企業助成とはまったく別の問題である。

 企業助成の多くは、透明とはほど遠い手法で行なわれる。おそらくは、実際の額があきらかになった場合、市民にゆるしてもらえないだろうからだろう。税法だけでなく、政府の低利融資と融資保証にも企業助成は埋め込まれている。産業界がもたらしうる損害――原子力発電所による損害や石油会社による環境汚染――について、その賠償責任を限定することは、企業助成の最も危険な形のひとつと言える。

 行動の全コストを負担させないのは、暗黙の補助金も同然だ。だから、たとえば環境破壊のコストを他者に転嫁する産業は、事実上、補助金を受け取ってることになる。本項で論じてきた改革案の多くと同じく、企業助成の打ち切りにも3つの利点がある。経済の効率性の向上と、上層の行き過ぎの抑制と、ほかの経済分野の繁栄だ。

 ⑦法制度の改革――司法への門戸を開放し、軍拡競争を緩和する。

 法制度は、富裕層以外の人々を犠牲にして、とほうもない規模のレントを生み出している。現行の制度のもとでは、万人のための正義は行なわれていない。現行の制度のもとでは、軍拡競争が繰り広げられており、最も大きな財布を持つ人々が、最も有利な立場で戦って勝利を収める。アメリカの法制度の改革についてくわしく述べることは、本書の守備範囲を超えると思われるし、ひょっとすると、もっと分厚い本にも収まりきれないかもしれない。ここでは、求められる改革が右派の主張する訴訟改革よりもはるかに広範であり、質的にもまったく異なっているということを指摘するだけで充分だろう。保守的な改革指針を採用すれば、法廷弁護士たちが正しくも指摘するように、一般の人々は保護を受けられなくなる。しかし、説明責任制度や保護制度を発展させてきた国々もある。そのような国では、医療過誤にかかわった医師は説明責任を負わなければならず、障害に苦しむ人々は、医療過誤の結果であれ、単なる不運の結果であれ、適正な補償を受けることができる。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.387-393,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】







 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)






18. われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)

 われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


「われわれが啓示と呼ぶところのものの永遠的な原現象(Urphänomen)、《今》と《ここ》におけるその永遠的な根本現象とは何であろうか? 

それは、あの至高の出会いの時間から出てくるとき、人間はその出会いのなかへはいっていったときの彼とはことなっているということである。

そのような出会いの瞬間とは、敏感な魂のうちで昂揚し完成するひとつの《体験》なのではない。そのときには、人間との関わりにおいて何ごとかが生ずるのだ。それは時としては微風のようなものとして、時としては格闘のようなものとして生ずるが、いずれにしても何ごとかが生ずるのである。

そして純粋なる関係という本質的行為から歩み出る人間の存在のなかには、ひとつの《より以上》(ein Mehr)が、ひとつの新たに発生したものがもたらされているが、それは彼がこれまでは知らなかったもの、またそれがどこから起こったかをあとからただしく言いあらわせないものである。

世界の現象の位置づけを好むような科学的操作は、無欠な因果律をうち立てようとするその権限を行使して、こうした新たなことの由来をも、何らかの因果的構図のなかへ組みいれてしまうことであろう。

だが、現実的なものの現実的な考察を重んずるわれわれには、潜在意識だの、その他の心的からくりによる説明は受けつけられない。

われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。

聖書には語られている、《神を待ち望む者らは、新たなる力によって生かされるであろう》と。またこのような現実を伝えることにかけてやはり誠実であるニーチェは語っている、《人は受け取る、だが誰によってあたえられるかは問わない》と。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.146-147、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






2024年4月14日日曜日

23. 病院の職員は、その人たちの合理的かつ正常な行動を無視して、精神病院に入っている人は精神病に違いないと考えているようだった。ウォルター・ミシェル(1930-2018)

病院の職員は、その人たちの合理的かつ正常な行動を無視して、精神病院に入っている人は精神病に違いないと考えているようだった。ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 「状況と社会的役割の影響力の劇的な描写は、発表時に多数の人にショックを与えた自然実験においてみることができる(Rosenhan,1973)。

その実験では、スタンフォード大学の医者・心理学者・大学院生といった正常な個人が、さまざまな精神病の症状を演じて、地域の精神病院に入院した。その人たちは、収容された後は、ふだんと同じく合理的にふるまった。

ところが、外ではどんな人物なのか知らない精神病院の専門職員によって、入院後、ずっと精神障害がある人として扱われ続け、精神病とラベルづけされていた。

病院の職員は、その人たちの合理的かつ正常な行動を無視して、精神病院に入っている人は精神病に違いないと考えているようだった。職員の目にとって、そこにいることだけで、正常な人が精神病患者のようにみえるのに十分だったのである。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅳ部 行動・条件づけレベル、第10章 行動主義の考え方、p.325、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

【中古】パーソナリティ心理学—全体としての人間の理解 / ミシェル ウォルター ショウダユウイチ アイダック オズレム 黒沢香 原島雅之 / 培風館

23. ヒギンズによれば、行為者は自らの自己概念と彼(彼女)の関連する自己指針の一致を維持しようと動機づけられる。一致が達成できないと、否定的感情が生じる。(E・トリー・ヒギンズ)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

ヒギンズによれば、行為者は自らの自己概念と彼(彼女)の関連する自己指針の一致を維持しようと動機づけられる。一致が達成できないと、否定的感情が生じる。(E・トリー・ヒギンズ)ジョナサン・H・ターナー(1942-)



「自己不一致理論の基礎的な着想は、情動がいずれか一つの自己状態の表象内容の結果であるよりも、むしろ別々の自己状態の表象間の結果であると見なす。

異なる型の自己状態の表象を判別するため、ヒギンズ(1987,1989)は二つの心理的次元を用いる。

(1)自己の領域と、(2)自己に関する異なる見方である。

前者によってヒギンズは三つの領域を識別する。(a)現実の自己(あなた[あるいは他者]が、あなたが現に保有していると考えている属性)、(b)理想的な自己(あなた[あるいは他者]が、あなたが保有したいと欲している(あるいは望んでいる)特定な自己の特徴)、(c)当為としての自己(あなた[あるいは他者]が、あなたがもつことを義務あるいは責務と感じている自己の特徴)。

自己に関する第二の次元、つまり自己に関する異なる見方は、(a)自分自身の見方と、(b)家族や友人など重要な他者の見方をともなう。  

自己の異なる領域が自己についての異なる見方と結びつくと、さまざまな自己状態の表象が現われる。

たとえば現実的/自分自身の自己、現実的/他者の自己、理想的/自分自身の自己、理想的/他者の自己、当為的/自分自身の自己、当為的/他者の自己である。

ヒギンズは最初の二つの「自己」(そしてとくに現実的/自分自身の自己)が個人の自己概念に近似していると主張する。

彼は残りの四つの「自己」を自己の指針と呼んでいる。ヒギンズによれば、行為者は自らの自己概念と彼(彼女)の関連する自己指針の一致を維持しようと動機づけられる。一致が達成できないと、否定的感情が生じる。

この着想がアイデンティティ制御理論や情動制御理論ときわめて近似していることに注意してほしい。」

 
現実的/自分自身の自己 理想的/自分自身の自己 現実-理想の不一致 落胆に関する感情
憂鬱、悲しみ、不満
現実的/自分自身の自己 理想的/他者の自己 現実-理想の不一致 落胆に関する感情
恥、当惑
現実的/自分自身の自己 当為的/自分自身の自己 現実-当為の不一致 動揺に関する感情
不安、罪、自虐
現実的/自分自身の自己 当為的/他者の自己 現実-当為の不一致 動揺に関する感情
恐れ
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第4章 象徴的相互作用論による感情の理論化、pp.267-269、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年4月10日水曜日

10. 言って利益になるか、どうしてもやむにやまれぬものでもないかぎり、人の悪口はぜっていにいってはならない。フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)

 言って利益になるか、どうしてもやむにやまれぬものでもないかぎり、人の悪口はぜっていにいってはならない。フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)


 「君に害を与えるだけで、何の得にもならないことは、どんなこともしないように注意するがよい。

だから当人がいないところであろうと、目の前にいようと、言って利益になるか、どうしてもやむにやまれぬものでもないかぎり、人の悪口はぜっていにいってはならない。

それはいわれもなく敵をつくるばかげたふるまいだからである。

このことは記憶しておくがよい。なぜなら、ほとんど誰しもがこのような軽はずみで失敗するものだから。」

(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)、『リコルディ』B、八八 他人への非難、フィレンツェ名門貴族の処世術、pp.220-221、[永井三明・1998])



フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



2024年4月9日火曜日

15. 機械同士や、機械と人間の間に相互作用が生じるという事情が、事態をより深刻化する(高木仁三郎(1938-2000)

機械同士や、機械と人間の間に相互作用が生じるという事情が、事態をより深刻化する(高木仁三郎(1938-2000)



「これに加えて、機械同士や、機械と人間の間に相互作用が生じるという事情が、事態をより深刻化する。エール大学のペロウ教授がその著『Normal Accident』の中で interactiveness (相互作用性)と呼んだ現象である。」(中略)

 「人為的要素もまた、最も相互作用を起こしやすいことの一つである。ランチョセコの事故で、制御室への電源が断たれて混乱状態となり、手作業で弁を開けようと奮闘した年配の運転員が倒れてしまったのなどは、典型的なことだ。

デービス・ベッセの事故でも運転員の操作ミスがからんだが、これも混乱の結果であろう。チェルノブイリの信じがたいような異常事象の重なりも、強い相互作用を示唆している。

 こういう連鎖が起こりうるとすると、大事故の起こる確率は、個々の事象が独立に起こる確率を掛け合わせた総合の事故確率、
 P = P1 × P2 × P3 × ………
よりはるかに大きくなる。ラスムッセン報告流の事故確率論が、現実的でない理由がここにある。」
 「この相互作用性ということを考えると、原発の安全審査の重要な指針となっている「単一故障指針」の妥当性は大いに疑問となる。

安全審査で事故を考える時に、安全系の機能別に最も厳しい結果を与える単一の故障を考えて、それに対処できるように安全設計をする(装置の多様性や冗長性を考える)というのが、安全審査の際の基本となっている約束事である。

 「日本の原発は、絶対に事故を起こさない」などと言うのは、みなこの単一故障指針に基づいての話で、「いかなる単一の厳しい故障にも耐えられるように設計されている」という意味にすぎない。

したがって、この単一故障指針が成立しないとすると、「大事故は起こらない」保障はなくなり、また安全審査の事故解析や災害評価、さらに防災対策といったことのいっさいの前提は崩れ去る。

 ところが明らかに、システムの構成要素の間に相互作用が存在するとなると、単一故障指針は怪しくなる(火災などで多くの機器が一気に止まってしまう共通要因故障も、「相互作用」の中に含めておく)。

単一故障指針は明らかに、二つの重要な故障が重なる確率は、もともと小さい確率を二つ三つ掛け合わせるから無視しうるほど小さくなる、という暗黙の了解に立っている。相互作用を考慮すると、この了解は成り立たないのである。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』チェルノブイリ――最後の警告 第Ⅱ章 原発事故を考える、pp.213-215)



2024年4月8日月曜日

17. ミルトン・フリードマンの研究(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 ミルトン・フリードマンの研究(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「本書の主要なテーマはふたつある。ひとつは、これまで思想の戦い――ほとんどの国民にとってどのような社会、どのような政策が最善なのかをめぐる――が続いてきたということで、

ふたつめは、その戦いにおいて、上位1パーセントにとって好ましいもの、すなわち最上層の関心や願望の対象――最上層の税率の引き下げ、赤字の削減、政府規模の縮小――は誰にとっても好ましいものであると、すべての人に信じ込ませようとする試みがなされてきたということだ。

 現在流行の通貨経済学・マクロ経済学の起源が、強い影響力を持つシカゴ学派の経済学者ミルトン・フリードマンの研究にあることは偶然ではない。

フリードマンはいわゆる自由市場経済学の強力な支持者で、外部性の重要度を控えめに見て、情報の不完全性などの“エージェンシー”問題

(訳注:プリンシパル(委託者)の委託を受けたエージェント(代理人)が、委託者の利益のために行動しないことによる取引の失敗のこと。エージェントとプリンシパルのあいだに利害対立と情報の非対称性があることによって起こる)を無視する。

消費の決定要因にかんするフリードマンの先駆的な研究はノーベル賞を受賞するにふさわしいものだったが、自由市場にかんする所見は、経済分析ではなくイデオロギー的確信にもとづいていた。

不完全な情報や不完全なリスク市場がもたらす帰結について、フリードマンと長時間議論したのを覚えている。

 わたし自身の研究と、ほかの数多くの同僚の研究では、これらの条件下で市場は通常うまく機能しないという結果が示されていた。フリードマンはそういう結果をまったく把握できなかったか、把握しようとしなかった。反論もできなかった。

たんに、そういう研究がまちがいでなければならないことはわかっていると、返答するだけだった。

フリードマンをはじめとする自由市場経済学者の返答は、あとふたつあった。理論的帰結が正しくても、それらは“珍しい事象”、つまりルールを証明する例外にすぎないというものと、問題が広範囲にわたるものであったとしても、その問題を修復するのに政府をあてにすることはできないというものだ。

 フリードマンの通貨理論・通貨政策には、政府の規模を小さくし、その決定権を制限することに注力する姿勢が反映されている。

フリードマンが広めた学説は、通貨管理経済政策(マネタリズム)と呼ばれるもので、政府は一定の割合(生産の増加率、これは労働力の増加率と生産性の増加率を足したものにひとしい)で通貨供給量を増やすだけでよいとする。

現実の経済を安定させる――つまり、完全雇用を確保するという目的で通貨政策を使うことはできないという点は、あまり重要視されなかった。フリードマンは、経済がひとりでに完全雇用状態かそれに近い状態にとどまるだろうと思い込んでいた。政府が台無しにしないかぎり、どれほど逸脱してもすぐに修正されるだろう、と。」(中略)

「フリードマンは銀行経営規制についても持論があった。ほかの大半の規制と同じように、経済効率の妨げになっていると考えていたのだ。」(中略)

 「金融市場は独力でうまく機能するから政府は干渉すべきではないという見解は、過去四半世紀のあいだに最も有力なテーマとなり、すでに見てきたように、グリーンスパンFRB議長と歴代財務長官によって強力に推し進められた。

そして、これもすでに触れたように、その見解は金融部門など最上層の人々の利益には大いにかなうものだったが、経済全体をゆがめてしまった。

さらに、金融システムの崩壊はFRBを驚かせたようだが、それはしかるべき結果だった。バブルは西欧資本主義が始まって以来、ずっとついてまわったきた。1637年のチューリップ球根熱から、2003年~2007年の住宅バブルまで。

経済的安定の維持において通貨当局が果たすべき責任のひとつは、そういうバブルの形成をはばむことなのだ。

 マネタリズムの基礎には、貨幣の流通速度――1ドル紙幣が1年間に受けわたしされる回数――は一定であるという仮定があった。一部の国や一部の場所に限ればそのとおりだったが、20世紀末の急速に変化する世界経済においては、それは事実ではなかった。

この理論は、中央銀行の理事たちのあいだで大流行してからほんの数年で、根本から疑われることになった。理事たちはただちにマネタリズムを捨て去ると、市場への干渉は最小限にするべきだという教義と矛盾しない新しい信条を探した。

そして、インフレ・ターゲット論を見つけた。このスキームでは、中央銀行は目標インフレ率を選定して(2パーセントが好まれる)、実際のインフレがその数字を上回ると必ず金利を上げなくてはならない。金利が上がると成長が鈍り、それによってインフレが鎮まることになる。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第9章 上位1%による上位1%のためのマクロ経済政策と中央銀行,pp.370-374,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】







 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


17. 神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


 「《宗教的な》人間とは、単独者として、唯一者として、孤立者として神の前に歩んでゆく者だというようなことが語られている。

なぜなら彼は、この世界の義務と負い目になおも服しているような《倫理的》(sittlich)な人間の段階をも通りこえてしまっているからである、と。

倫理的な人間はまだ、行為者としての自分の行為にたいする責任という重荷を明らかに背負っているが、それは彼が存在と当為のあいだの緊張によって全く規定されているからで、だから彼はこの両者のあいだの埋められぬ深淵のなかへグロテスクにも絶望的な犠牲心から、自分の心の切れはしを次々に投げいれる、……

《宗教的な人間》はしかし、そうした緊張を脱して、世界と神とのあいだの緊張のなかへふみこんでいる、というわけである。」(中略)  

「だがこれは、神が世界を仮象たるために、そして人間を酩酊者たるために創造したと思い誤っているものである。

たしかに神の顔前に歩みよる者は、犠牲や負い目を通りこえてはいる、――しかしそれは、彼が世界から遠ざかったからではなくて、彼が世界に真に近づいたからである。

われわれが世界に義務と負い目を感ずるのは、世界が疎遠なものである限りにおいてであって、親密なものである世界にはわれわれは、ただ愛によってのぞむのだ。

神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。そのとき世界と神とのあいだにはもはや緊張は存在せず、ただ《唯一》の現実だけが存在するのだ。

といっても、このとき人間は責任から解除されているわけではない。ただ彼は、限定された、おのれの効果を気がかりに追跡するような責任がもたらす苦痛を、無限なる責任というものの振動力と取り替え、またそれを、感取し得ぬ世界現象全体にたいする愛にみちた責任の力と取り替え、神の顔前において世界のなかへ深く引きいれられるということと取り替えてしまったのである。

たしかに彼は、倫理的判断なるものを永遠に廃棄してしまったのだ。

このとき彼にとって《悪しき人間》とは、より深くそのひとにたいする責任が彼に託されているところの人間、よりいっそう愛を受けることを必要としているところの人間にほかならない。

だが、彼は彼の自発性の深みにおいて、正しき行為への決断を死にいたるまでなし続けねばならないであろう。正しき行為にたいする、ゆとりのあるたえず新たな決断を。

ここでは行為は無意味なのではない。それは求められ、使命としてあたえられ、役立てられ、創造のわざにその一部分としてつらなっている。だが、こうした行為はもはや世界にたいする義務として課されているのではなく、世界との触れあいから、あたかも無為であるかのように生じてくるのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.143-146、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話








2024年4月6日土曜日

22. 行動は、その結果によって変容させられるウォルター・ミシェル(1930-2018)

行動は、その結果によって変容させられるウォルター・ミシェル(1930-2018)

 「行動は、その結果によって変容させられる。生物が何らかの反応(あるいは環境に対して「働きかける」(operate)のでオペラントとよばれる反応パターン)をした際にその結果として起こることは、類似した反応を将来にも行うことがどれくらい好ましいかを決定する。

もしその反応が好ましい、すなわち強化になる結果をもたらしたなら、その生物は類似した状況下で再びその行動をしやすくなる。

一般に広まった誤解とは逆に、「強化子」あるいは好ましい結果は、食べ物や性的満足のような原始的な強化子とは限らない。情報のような認知的な喜び(Jones,1966)、や有能感や達成のようなものを含むたいていの事象は、強化子として機能する。

このような反応によって引き起こされた結果をもとにした学習は、心理学の初期のころには試行錯誤学習あるいは道具的学習とよばれたが、いまはオペラント条件づけとよばれている。

 ある反応パターンが引き起こす結果が変わったとき、その反応パターンが再び起こる確率も、類似した反応パターンが起こる確率も変化する(Nemeroff & Karoly,1991)。

もし小さな少年が、哀れっぽい声を出してしがみついたとき、母親がすべてのものを後回しにして、その子どもをなだめようとしたら、その子が将来、同じようにふるまう可能性が高くなる。しかし、もし母親が一貫してこの行動を無視して、相手にしなかったら、その子が同じようにふるまい続ける可能性は下がるであろう。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅳ部 行動・条件づけレベル、第10章 行動主義の考え方、p.323、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

【中古】パーソナリティ心理学—全体としての人間の理解 / ミシェル ウォルター ショウダユウイチ アイダック オズレム 黒沢香 原島雅之 / 培風館

2024年4月5日金曜日

22. 感情は、(1)文化的価値、信念や規範、(2)文化的要素の外的象徴による対象化、(3)こうした文化の象徴化を強化するその時々に適当な儀礼、(4)身体運動と発話のリズミカルな共時化、(5)文化の指令に同調しそこねた人たちに対する儀礼化した裁可付与と密接に関係している(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 感情は、(1)文化的価値、信念や規範、(2)文化的要素の外的象徴による対象化、(3)こうした文化の象徴化を強化するその時々に適当な儀礼、(4)身体運動と発話のリズミカルな共時化、(5)文化の指令に同調しそこねた人たちに対する儀礼化した裁可付与と密接に関係している(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

エミール・デュルケム

 「たとえば、神々を崇敬する先住民たちは、実際には彼ら自身と共に彼らの社会を崇拝しているのだ。

なぜなら興奮とマナに顕現する神々の力は、彼ら自身の相互作用から生起した力であるにちがいない。

宗教の起源、したがって社会連帯のもっとも原基的な形態は、人びとの相互作用と超自然力として表現される高揚した感情の覚醒に由来する。

宗教の起源に関するデュルケムの推測の功績がいかなるものであれ、彼が感情理論家にいくつかの決定的な力を与えたことは確かである。

 第一に、デュルケムは文化的象徴に「神聖な」品格を授けることの意義を強調した。神聖な象徴は個人間に激しい感情を喚起する力をもっている。

その後における理論家たちは、文化的象徴が宗教である必要はなく、実際に、すべての文化要素が個人の行動を制約し、そして感情を喚起する力をもっていると認識した。

この感情喚起には二種がある。文化指令への同調は個人を肯定的な感情経験へ導く。これに反して、文化指令に同調しそこなうと、否定的な感情喚起と裁可を呼び込むことになる。したがって象徴の力は「道徳的な」品格を内具しており、これによって人びとは象徴に同調すると道義的であると実感し、象徴に違反すると憤慨する。これによって人びとは道徳規則をおおむね堅守すると確信する。

 第二に、文化はトーテムなどの「神聖な」対象によって、さらに象徴化される程度に応じて道徳的な品格を帯びる。こうした「神聖な」対象が(..)物理的対象である必要のないことが、後の理論家によって明白にされた。つまり文化にとって必要であるのは、何らかの外的な方法――目視できる対象によってだけでなく、重要な単語や語句や考えなど、文化的象徴をとおして――で表象されうるということだ。

たとえば「わたしはアメリカを愛している」という表現は、アメリカ社会において認知される一連の美徳についての信念を象徴するため、アメリカ国旗などの物理的トーテムと同様に強力な作用をはたす。

文化がこの種の再帰性――一組の価値、信念や規範が別の集合の象徴によって表象されること――を帯びると、文化はますます道徳性を帯びることになり、感情を喚起することができる。

たとえば誰かがアメリカ社会の美徳についてあざ笑うような声明に反応して、道義的に憤激したと仮定してみよう。その反応は、その人があたかも先住民の物的トーテムを斧で叩き壊したり、あるいはアメリカ国旗を焼き払ったりするときと同じく激しいものだろう。

だから、象徴の表象化は文化をさらに重要なものにし、道徳的に投企され、そして感情的なものにさせる、ある種の圧力過給器の働きをする。

 第三に、外的対象によって表象化された文化の要素に向けられる儀礼は、感情を喚起し、そして個人に連帯感を経験させる。

ここでもまた、アーヴィング・ゴッフマン(1967)のような後の理論家は、あらゆる対人的行動が注意と関連する文化台本や枠組の定まっている儀礼によって区切られていることを認識するにいたった。たとえば宗教儀礼は個人が相互作用するときいつも起こる特殊例にほかならない。

 第四に、個々人が自らの身体をいっせいに動かすと、儀礼はある種のリズムを表し、そして言語による発言に集合的に関わる。このリズミカルな性質は興奮の原因でも、また結果でもある。個人が相互作用を行うと、彼らはいっそう活気づけられ、そして彼らの互いのジェスチャーはますます共時化したリズムを表す。このリズミカルな共時化が興奮を高め、相互作用の焦点を定め、そして感情を沸騰させる。

したがってもっと最近の理論家たちは、相互作用が感情を生成するためには、それがリズミカルなジェスチャーの交換を行うことが必須であると認識している。

 だから、デュルケムは自分が社会連帯の原基的な基盤を発見したと感得したのに対して、後の理論家たちは、彼が対人的なすべての行動を導く機構の主要な集合――外的事物によって象徴される信念に向けられる儀礼――の正体を明らかにしたと認識した。

したがって感情は、(1)文化的価値、信念や規範、(2)文化的要素の外的象徴による対象化、(3)こうした文化の象徴化を強化するその時々に適当な儀礼、(4)身体運動と発話のリズミカルな共時化、(5)文化の指令に同調しそこねた人たちに対する儀礼化した裁可付与と密接に関係している。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第3章 儀礼による感情の理論化、pp.148-150、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]




2024年4月1日月曜日

14. 原子炉の暴走事故(高木仁三郎(1938-2000)

原子炉の暴走事故(高木仁三郎(1938-2000)


「さて、二番目は、今度のチェルノブイリ事故で一躍脚光を浴びた原子炉の暴走事故です。

いままでこうした事故の想定は原子炉の事故解析や安全審査などでまともにやられてきたことはないのです。事故の形態としては、「反応度事故」という形態に属しますが、ここまでいくとは考えていなかった。
 
反応度事故というのは、簡単にいえば、冷却材喪失事故が、原子炉の制御そのものはできるけれども、なおかつ冷却に失敗して放射能漏れが起こる事故とすれば、反応度事故は、原子炉をうまく止められないとか、出力の調節に失敗するといった、制御そのものにかかわる事故のことです。

出力というのは、中性子の数といってもいいのですが、その調節に失敗する。その中性子の数の増減の割合反応度といっていますので、反応度事故という言い方をするのです。

制御に失敗しての暴走という事故の性格からして、冷却材喪失事故より一層す速く事故が進行するのは明らかです。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』原発事故―――日本では? 第3章 原発事故の二つの形、p.289)

16.より多くの資金を集めて効率性と平等性を高めるような税制(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

より多くの資金を集めて効率性と平等性を高めるような税制(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「もし真剣に赤字を削減しようと思うのなら、次の方法で今後10年間に数兆ドルを簡単に集めることができるだろう。その方法とは、

(a)最上層に属する人々の税率を上げること――これらの人々は国家経済の分け前をたっぷりもらっているから、税率を少し上げただけでかなりの歳入をもたらしてくれる。

(b)最上層にかたよっている種類の収入に対する抜け穴や特別待遇を排除すること――投機による収入や配当への低い税率から地方債利子の税額控除まで――。

(c)企業に補助金を与えることになる個人税制と法人税制の抜け穴や特別条項を排除すること。

(d)レントにいまより高率の税金を課すこと。

(e)汚染に税金を課すこと。

(f)金融セクターに課税して、少なくとも経済全体に繰り返し押しつけてきたコストの一部を反映させること。そして、

(g)この国の資源――本来ならすべての国民に帰属する資源――を利用ないし不当に使用するようになった者に対価を全額支払わせることだ。

 これらの歳入増加策はより効率的な経済を生み出して、かなりの額の赤字を減らすだけでなく、不平等を緩和してくれる。だからこそ、これらの簡単なアイデアは予算論争の中心テーマにはならなかった。上位1パーセントの大多数が収入の大半を、先に挙げた提案の対象となる諸部門――石油、ガスなどの形態の環境汚染活動、税法に隠された補助金、この国の資源を安価で取得できる制度、金融セクターに与えられた無数の特別な恩恵――から引き出していたからだ。

 より多くの資金を集めて効率性と平等性を高めるような税制を設計できる一方で、歳出についてもまったく同じことができる。2章で、最上層の収入を高める際の超過利潤(レント)の役割を見て、一部の超過利潤がまさに政府からの贈り物であることに触れた。 

ここまでの各章で、政府が果たすべき重要な機能について述べてきた。それらの機能のひとつは社会的保護だ。貧しい人々を援助し、民間部門では手頃な条件で保険を提供できない場合に、すべてのアメリカ人に保険を提供することだ。しかし、貧しい人々の福祉プログラムの一部が近年削減されてきた一方で、6章で企業助成と名付けた企業への補助金は増加した。

 もちろん、(隠れた補助金であれ公然の補助金であれ)補助金を減額したり削除したりする提案が切り出されると、それらの受給者が、補助金は公益にかなうと擁護しようとする。

この擁護には皮肉な側面がある。政府から施し物を受け取る企業や人物の多くは、同時に政府支出に異を唱えている――つまり小さな政府に賛成しているのだ。

私欲によって公平さの判断が左右されるのは人間の性だ。実は、私欲は無意識のうちに影響をふるってしまう。しかし、繰り返し検討してきたように、これらの補助金とそれを得ようとする努力が、この国の経済と政治制度をゆがめているのだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第8章 緊縮財政という名の神話,pp.316-318,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))


【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】






 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)



2024年3月31日日曜日

16. 純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。(マルティン・ブーバー(1878-1965)





「神との関係における本質的な要素は感情であると見なされがちで、それは、依存感情(Abhängigkeitsgefühl)と名づけられたり、最近ではより正確に、被造物感情(Kreaturgefühl)と名づけられたりしている。

が、このような要素の摘出・定立が正当であるだけに、それを不均衡に強調すればするほど、完全なる関係というものの本質は誤解されてしまうのである。

 愛についてすでに私が語ったことは、この場合には一層よくあてはまる。すなわち感情とはただ関係的事実に、しかも心のうちにではなく、《我》と《汝》とのあいだに生ずる関係の事実に付随するにすぎない。

感情はいかに重要なものとして理解されていようとも、心の力学の支配下におかれているのであって、そこではひとつの感情は他の感情によって追い越されたり、凌駕されたり、消去されたりするのである。感情は――関係とは異なって――ひとつの階列のうちにおかれているのである。

だが、あらゆる感情は何よりも先ず、一種の両極的な緊張の内部に位置していて、その色調や意味をみずからのうちからのみではなく、自己の対極からも引き出すのだ。あらゆる感情はそれぞれ対立するものによって限定されているわけである。

したがって、絶対的関係という、あの、あらゆる相対的関係を自己の現実性のうちに包括していて、それらと同様な部分的な出来事ではなく、それらを完成し合一する全体であるものでさえ、心理学の手にかかると相対化されて、一種の孤立的に摘出され限定された感情に還元されてしまうのである。

 心情という次元からみるなら、完全なる関係というものは、ただ両極的に、反対の一致(coincidentia oppositorum)として、すなわち対立しあう感情の一致としてのみとらえられる。

たしかに、その一方の極はしばしば――人間の宗教的な根本態度によって下方に押しかくされて――反省的意識の表層からは消え去り、そしてただ、このうえなく純粋で、何ものにも惑わされぬ静観の深みにおいてのみ想起され得るのだが。

 そうだ、純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。

きみはそのとき自己を被造的な――しかも同時に創造的な生命として感じていた。きみにはそのときもはや、他方によって制限されたそのどちらか一方ではなくて、両方が無制限に、両方が相い共に存在していたのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.107-108、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話







2024年3月30日土曜日

21. 人は、酸素を含まない大気の中で肉体的に生きることができないのと同様に、自分に対して共感的に反応してくれない心理的環境では、心理的に生存できないのである(Kohut,1)ウォルター・ミシェル(1930-2018),


人は、酸素を含まない大気の中で肉体的に生きることができないのと同様に、自分に対して共感的に反応してくれない心理的環境では、心理的に生存できないのである(Kohut,1)ウォルター・ミシェル(1930-2018),


 『……人は、酸素を含まない大気の中で肉体的に生きることができないのと同様に、自分に対して共感的に反応してくれない心理的環境では、心理的に生存できないのである。』(Kohut,1977,p.85)

 「コフートの思考は、新しい精神分析的関心それ自体や自己の障害のような問題への治療のための方法を提案することになった。

無意識の葛藤や衝動によって駆り立てられるというよりも、コフートは今日の患者を、共感的学習や同化のための理想的「対象」つまり重要な他者が奪われたとみなしている。

両親は、情動的に壁の向こう側に行ってしまい、両親自身の自己愛的欲求を求めすぎているため、子どもの自己の健康的な発達や成人期の意味ある応答的な関係の形成のために必要なモデルがいないのである。

 人生や生活における重要な他者、つまり「自己にとっての対象」から共感的な反応が感じられないとき、人々は自己の破壊を恐れる。

コフートは、この状態を心理的酸素が奪われた状態にたとえている。自己にとっての対象からの共感的反応の有効性は、酸素の存在が肉体の生存に対するのと同じくらい、自己の生存にとって不可欠である。人間の自己の破壊を導くのは、冷淡さにさらされる、無関心な、共感的反応のない世界である(Kohut,1984,p.18)。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅲ部 精神力動的・動機づけレベル、第9章 フロイト後の精神力動論、pp.292-293、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))


【中古】パーソナリティ心理学—全体としての人間の理解 / ミシェル ウォルター ショウダユウイチ アイダック オズレム 黒沢香 原島雅之 / 培風館

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