2018年5月29日火曜日

実在的定義と名目的定義の違いは? 因果的定義とは? ア・プリオリな真なる観念とは? ア・ポステリオリな真なる観念とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

実在的定義と名目的定義

【実在的定義と名目的定義の違いは? 因果的定義とは? ア・プリオリな真なる観念とは? ア・ポステリオリな真なる観念とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(1)ア・ポステリオリな真なる観念
 事物が現実に存在することを経験によって知るとき、その現実存在するもの、現実存在したものは、確かに可能的なのだから、真なる観念と言ってよい。
(2)ア・プリオリな真なる観念
 ある概念を分析して、可能性の既に知られている他の諸概念に分解し、その内に非両立的なものが何も無いとき、この定義が「実在的定義」であり、観念は「真なる観念」である。矛盾を含む定義は「偽なる観念」である。また特に、事物が生産され得る仕方をわれわれが知解できるような定義の場合、それを「因果的定義」と呼び、特に有益である。
 十全な認識を持っているとき、すなわち、分析が第一原因、事物の究極理由、これ以上分解できない第一の可能なものへと還元できたときは、可能性のア・プリオリな認識を持っていると言ってよい。なぜなら、分析が究極にまで行き着いて、いかなる矛盾も現われないなら、その概念は確かに可能だからである。
(3)実在的定義
 以上のように、当の事物が可能的であることがそこから確知される定義。
(4)名目的定義
 ある事物を他の諸事物から識別するためだけの徴を含む定義。この場合、定義されている事物が可能的であることを、他の所で確定しておく必要がある。

(補足説明)

これ以上分解できない第一の可能なもの
(第一原因、事物の究極理由)
  │
  ↓
可能性の既に知られている他の諸概念
  │
  ↓
「ア・プリオリな真なる観念」の実在的定義、因果的定義

事物が現実に存在することを経験によって知る
「ア・ポステリオリな真なる観念」の実在的定義

 「このようにしてまたわれわれは名目的定義と実在的定義の相違、即ち、ただ或る事物を他の諸事物から識別するためだけの徴を含む定義と、当の事物が可能的であることがそこから確知される定義との相違が分かる。そしてこの理由を聞けばホッブズも満足するだろう。彼は真理というものは任意なものだと言いたがっていた。真理は名目的定義に基づくからという訳だ。その際、彼は、定義の実在性が任意でないということも、どんな諸概念もが互いに結合され得るのではないことも、考察していないのである。名目的定義は、定義されている事物が可能的であると他の所で確定しておくのでなければ、完全な学知のためには十分ではない。さらに、一体、真なる観念とは何であり、偽なる観念とは何であるかも明らかである。言うなら、概念が可能的な時に真であり、矛盾を含む時に偽なのだ。ところで、われわれは事物の可能性をア・プリオリにか、ア・ポステリオリに知る。ア・プリオリにというのは、概念をその要件に、あるいは可能性の知られている他の諸概念にわれわれが分解し、その内に非両立的なものが何も無いと知っている時である。とりわけそういう事が起こっているのは、事物が生産され得る仕方をわれわれが知解している場合であり、だからこそ特に因果的定義が有益なのである。他方、ア・ポステリオリにというのは、事物が現実に存在することを経験によって知る時のことである。というのも、現実存在するか、現実存在したものは、確かに可能なのだから。そして十全な認識を持っている時はいつでも可能性のア・プリオリな認識も持っている。なぜなら、分析が究極にまで行き着いて、いかなる矛盾も現われないなら、その概念は確かに可能だからである。しかし、概念の完全な分析がいつか人間にできるかどうか、第一の可能なもの即ち分解できない概念へ、あるいは(結局同じことだが)神の絶対的属性そのもの、つまり第一原因とか事物の究極理由へと自分の思惟を還元できるかどうか、今のところはあえて決定しないでおく。大抵の場合、若干の概念の実在性を経験から学ぶことでわれわれは満足し、さらにそこから他の諸概念を自然を手本にして構成している。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『認識、真理、観念についての省察』ライプニッツ著作集8、pp.30-31、[米山優・1990])
(索引:実在的定義、名目的定義、因果的定義、ア・ポステリオリな真なる観念、ア・プリオリな真なる観念、偽の観念)

前期哲学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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論理的な項を数で表現することにより、推論の代わりに計算によって、証明されるべき命題を発見したり、証明したりすることができる。数の有用さは絶大である。確実で扱い易い。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

記号数

【論理的な項を数で表現することにより、推論の代わりに計算によって、証明されるべき命題を発見したり、証明したりすることができる。数の有用さは絶大である。確実で扱い易い。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 世界の構成要素を項で表現し、推論規則によって論理的な項を操作する代わりに、項を数で表現することにより、推論の代わりに計算によって、証明されるべき命題を発見したり、証明したりすることができる。数の有用さは絶大である。確実で扱い易い。
(1)任意の項に、その「記号数」を指定する。
(2)合成された項の記号数は、その項の概念を合成する項の記号数をかけ合わせることにより作られる。
 例えば、”動物”の数aが2、”理性的”の数rが3のとき、人間の数hはar、この例では6となる。
(3)構成部分をあげることが困難な場合には、暫定的にその事物にある素数を指定する。
「三――任意の項にその記号数(numerus characteristicus)を指定することにする。それは、項自身が推論において働くのと同じように、計算において働く。私は記述において数を選ぶ。他の記号は時に応じて数と言葉のために用いよう。しかし数の有用さは絶大である。確実で扱い易い。そして概念におけるすべては数の形で確実となり、決定されることが明らかである。
 四――適切な記号数を発見するための規則は次の規則だけである:与えられた項の概念が直格において(in casu recto)二つあるいはより多くの他の項の概念から合成されている時は、与えられた項の記号数はその項の概念を合成する項の記号数をかけ合わせることにより作られる。例えば人間は理性的動物である故(金は最も重い金属である故)”動物”の数aが2(”金属”の数mが3)、”理性的”の数rが3(”最も重い”の数pが5)とすれば、人間の数hはar、この例では2、3即ち6にほかならないであろう(金即ち太陽の数sはmp、この例では3、5即ち15にほかならない)。」(中略)
「六――のみならず4で述べられた規則は、われわれの計算によって全世界のすべての事物を捉えるのに十分である。ただしそれらについてわれわれが判明な概念を持つ、即ち、それらの構成部分を認識し、その構成部分を一つずつ検査することによって、概念を他の概念から区別することができるか、あるいはそれらの概念の定義を与えることができる限りにおいてである。実際、これらの構成部分は項にほかならず、その概念が、事物についてわれわれの所有する概念を構成するのである。さらにわれわれは多くの事物を他の事物から構成部分によって区別することができる。そして、構成部分をあげることが困難な場合には、暫定的にその事物にある素数を指定することにする、われわれはその事物によって他の事物を表示するために素数を使用するのである。このようにして少なくとも差当り原初的なものと考えられた事物の分解なしで証明されるすべての命題を計算によって発見したり、証明したりすることができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『計算の原理(一六七九)』三、四、六、ライプニッツ著作集1、pp.63-65、[澤口昭聿・1988])
(索引:記号数)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年5月28日月曜日

新しい記述言語が必要だ。なぜなら、(a)日常言語の曖昧さ、(b)論理の複雑さ、(c)想像力、習慣の影響、(d)詭弁と華麗な装飾。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

新しい記述言語

【新しい記述言語が必要だ。なぜなら、(a)日常言語の曖昧さ、(b)論理の複雑さ、(c)想像力、習慣の影響、(d)詭弁と華麗な装飾。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 概念あるいは思想を正確に表現する適切な記号を考案して、新しい記述言語を作る必要がある。なぜなら、人々は、多くの場合、以下のような理由により、また、性急さ、軽率な検討、また外見や、快適な会話によって欺かれるからだ。
(a)人間は言葉を使用するが、明らかにその意味は僅かしか確定していない。
(b)日常会話と筆記法では、しばしば唯一つの完結文すら、もし人が論理学の厳密さの尺度で検討するならば、十個の単純三段論法を含む。
(c)人は、想像力を用い、話法の習慣により、また扱う内容の理解を通じて論理学の欠陥を補う。
(d)または、誤った推論が、華麗に飾り立てられる。
 「論理学者には多くの推論規則が伝えられている。記憶の容易のためにある図式が考え出された。それは「ロバの橋」[虎の巻]と呼ばれ、標語が使われている。
 これらすべては、学校において称揚されているだけで、日常生活では無視されている。多くの理由によるが、特に学校ではほとんど単純三段論法即ち三つの命題から成り立つ推論だけを考察するのが普通だからである。これに反して日常会話と筆記法では、しばしば唯一つの完結文すら、もし人が論理学の厳密さの尺度で検討するならば、十個の単純三段論法を含むのである。従って人は、想像力を用い、話法の習慣により、また扱う内容の理解を通じて論理学の欠陥を補うのが普通である。
 しかし性急さ、軽率な検討、また外見によってしばしば人々が欺かれることを認めなければならない。特に目で識別し、手で触れ、また経験によって確かめることができない対象においては、損害を通じて後で真の認識にいたることがまれではないとはいえるが、これを今までに知られた方法で免れることは困難である。何故ならば、人間は言葉を使用するが明らかにその意味は僅かしか確定しておらず、また言いまわしと不変詞を種々に使用して誤った推論を華麗に飾り立てることができ、誤謬の在り場所はほとんどわからない位だからである。自然の秩序が人工的な、耳を楽しませる繊細さによって驚くほど攪乱されることもしばしばである。そして人々は、多くの場合、冗長拙劣な言い方で教えられるよりもむしろ快適な会話によって欺かれることを好む結果となる。
 私は問題を熟考して次の点に唯一の解決策を見出した。即ち概念あるいは思想を正確に表現する適切な記号を考案して新しい記述言語を作るのである。この問題に対する真なる方法は私の知る限り今まで誰の心にも浮かばなかった。かつてこのようなものを求めた人々は目的から遙かに離れたところを長い間さまよっていたのである。しかしいつか、私が考えた通りにこれが実現されるならば、その効果は驚異的で、また用途は限りないであろう。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『数によって推論を検査する方法(一六七九)』ライプニッツ著作集1、pp.93-94、[澤口昭聿・1988])
(索引:新しい記述言語)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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不可分の実体は、人間の精神のみではない。精神以外にも数々の形相が存在し、想念によらない他の数々の表出があり、いろいろな差異、程度が見られるにちがいない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

さまざまな表出

【不可分の実体は、人間の精神のみではない。精神以外にも数々の形相が存在し、想念によらない他の数々の表出があり、いろいろな差異、程度が見られるにちがいない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 「不可分の実体」は、みな精神であって思惟するものでなければならないというのは、誤りである。可分的な現象ないしは多くの存在中に拡がっている現象も、ただ一個の不可分の存在において表出ないし表現される。したがって、思惟をむねとする形相以外にも、数々の形相が存在し、想念をもたない他の数々の表出があるはずであり、いろいろな差異、程度が見られるにちがいない。もし、これらが解明されれば、単純な物体的実体、生命体、動物の区別も、可能になるのではないか。
 「およそ分割不可能な実体(つまり私にいわせれば、おしなべて実体一般)は、みな精神であって、思惟するものでなければならないと、大見得をお切りになる。が、さあてこれは、なんともかんともきついばかりか、根も葉もないことに思われますね。形相の保持云々のほうが、ずっとましです。われわれの知っている感官といえば、五つしかない。たとえばそれから、若干の金属です。それなのに、世界にはもう他に、金属がないと結論してよろしいものか。自然がヴァラエティを好むものなら、思惟をむねとする形相以外にも、形相を数々つくりだしたとするほうが、よっぽどもっともらしいでしょう。なるほど私は、円錐曲線を除いては、二次の図形は存在しないと証明することはできましょう。がそれは私が、これらの線について判明な認識を具えているからで、判明なるがゆえに、厳密な分類にまで至ることを可能にしてくれるのです。しかし想念については、われわれは判明な観念をもたない。加うるに、不可分の実体の概念が、考える実体の概念と同一であるむねを示すことはできないのですから、この点についてきっぱりと断言するわけには、どうにもまいらないのです。想念についての観念は明晰である。そりゃあ、おっしゃるとおりです。しかし明晰なるもの、かならずしも判明ならず。われわれが想念を知るのは、もっぱら内部の感覚によるしかない(これはつとにマルブランシュ師が指摘したところ)。しかし感覚によって知ることができるのは、自分が経験した事柄だけでしょう。しかもわれわれは、他の形相のはたらきについて、身をもって経験したわけではない。ですから、これについて明晰な観念をもっていないからといって、なにもショックを受ける必要はない。実際、たとえ仮にそういった形相の類が認められたとしても、われわれはこれについて明晰な観念をもてるわけがないからでしょう。あるものが存在し得ないことを証明するのに、いくら明晰だからといって、明晰でない観念をダシにして、やろうというのは無茶というもの。逆に、判明な観念だけを相手にするなら、こう申せるのではありませんか。すなわち、可分的な現象ないしは多くの存在中に拡がっている現象も、ただ一個の不可分の存在において表出ないし表現される。そしてこれだけで十分であって、実体的形相なるものを考えるのに、なにもその表現に、想念だの反省だのをひっつけるにはおよばないと、こんなふうに考えることができる、と。いやまったくできようものなら、非物質的ではあるが想念をもたない他の数々の表出に関しても、その差異やら、程度やらを解き明かしてみたいものです。そうすれば、単純な物体的実体、生命体、動物の区別が、可能なかぎりはつくのではないか。でも私はまだ、この点について十分思いをめぐらせておりません。また十分に、自然を吟味いたしてもおりませんので、前記のものの器官やはたらきやらを比較して、形相のさまざまを判断することもいたしかねます。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『アルノーとの往復書簡』ハノーファーから、一六八七年一〇月九日、四、ライプニッツ著作集8、pp.375-376、[竹田篤司・1990])
(索引:表出)

前期哲学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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全宇宙を表出する魂は、その襞が無限に及んでおり、自分の襞を一挙にすっかり開いてみることはできない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

無限の襞

【全宇宙を表出する魂は、その襞が無限に及んでおり、自分の襞を一挙にすっかり開いてみることはできない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 どの物体も、宇宙の中で起こることすべてを、時間的、場所的に遠くはなれているものをも、何らかの観点からすべて現在において感知し表出する。しかし魂は、自分の襞を一挙にすっかり開いてみることはできない。なぜなら、その襞は無限に及んでおり、魂が自分自身のうちに読み取ることができるのは、そこに判明に表現されているものだけだからである。
 「そこで、どの物体も宇宙の中で起こることをすべて感知するから、なんでも見える人があれば、どの物体の中にもあらゆる所でいま起こっていることだけではなく、いままでに起こったことやこれから起こるであろうことさえも、読み取ることができるであろう。つまり、時間的、場所的に遠くはなれているものを、現在の中に認めることができることになろう。「スベテガ共ニ呼吸ヲシテイル」とヒポクラテスは言った。しかし、魂が自分自身のうちに読み取ることができるのは、そこに判明に表現されているものだけである。魂は自分の襞を一挙にすっかり開いてみることはできない。その襞は無限に及んでいるからである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『モナドロジー』六一、ライプニッツ著作集9、pp.231-232、[西谷裕作・1989])
(索引:表出、魂、無限の襞の喩え)

ライプニッツ著作集 (9)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年5月27日日曜日

表出とは、表出される事物の内にある諸関係に対応する諸関係を、自分のうちに持つことである。機械の模型が機械を表出する、代数方程式が図形を表出する等。そして、すべての実体は全宇宙を表出する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

表出

【表出とは、表出される事物の内にある諸関係に対応する諸関係を、自分のうちに持つことである。機械の模型が機械を表出する、代数方程式が図形を表出する等。そして、すべての実体は全宇宙を表出する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 表出とは、表出される事物の内にある諸関係に対応する諸関係を、自分のうちに持つことである。そして、表出するものが表出される事物と類似していることは必要でなく、ただ関係の或る種の類比が維持されるだけでよい。また、ある表出はその基礎を本性の内に持っているし、また或るものは、音声や文字から成る表出のように、少なくとも部分的には自由裁量によって基礎づけられている。さらにまた、同じ原因に由来するものが相互に表出しあうこともあり得る。以下、表出の例である。機械の模型が機械を、平面上の射影図が立体を、発言が思惟と真理を、数字が数を、代数の方程式が円や他の図形を,結果の全体が十全な原因を、行為が人の心を、世界が神を、表出する。

(補足説明)
 表出される事物:A ⇒ 表出する事物:B
 機械        ⇒ 機械の模型
 立体        ⇒ 平面上の事物の射影図
 思惟や真理     ⇒ 発言
 数         ⇒ 数字
 円、その他の図形  ⇒ 代数方程式
 十全な原因     ⇒ 結果の全体
 その人の心     ⇒ 各々の行為
 全宇宙       ⇒ 実体
 神         ⇒ 世界そのもの

 表出される事物:A  表出する事物:B
 最も広義な(一般的な)〈表出〉の定義
  集合Aから集合Bの上への写像(全射)が存在するとき、BをAの〈表出〉と定義する。
  すなわち、ある写像fを定義することができて、いかなるBの要素bを選んだとしても、f(a) = b となるようなAの要素aが存在する。(ただし、要素aは一つに決まるとは限らない。)
 基本的な性質
  ・何らかの表出される事物の表出でないような事物は、表出する事物の要素には存在しない。
  ・Aの表出がBであるとき、Bの任意の要素bに対して、その表出がbになるようなAの要素aを対応させるBからAへの写像gが必ず存在することは、証明できない。(選択公理)
  ・表出される事物の濃度は、表出する事物の濃度以上である。
 「何か或るものを表出するとは、表出されるべき事物の内にある諸関係(habitudines)に対応する諸関係を自分のうちに持っているものについて言われることである。だが表出は様々である。例えば機械の模型は機械そのものを表出しているし、平面上の事物の射影図は立体を、発言は思惟や真理を、数字は数を、代数の方程式は円や他の図形を、表出している。そして、これら諸表出に共通なのは、表出しつつあるものの持つ諸関係を観察するだけで、表出されるべき事物の持つ対応する固有性の認識へ到達できるということである。したがって、表出するものが表出される事物と類似していることは必要でなく、ただ関係の或る種の類比が維持されるだけでよいことは明らかである。
 さらに、ある表出はその基礎を[事物の]本性の内に持っているし、また或るものは、音声や文字から成る表出のように、少なくとも部分的には自由裁量によって基礎づけられていることも明白である。」(中略)「同様にして、結果の全体は十全な原因(causa plena)を表現する。というのも、このような結果の認識から常にわれわれはその原因の認識へと到達することができるからである。このように、各々の行為はその人の心(animus)を表現しているのであり、そして世界そのものも或る仕方で神を表現している。さらにまた、同じ原因に由来するものが相互に表出しあうこともあり得る。例えば身振りと言葉(sermo)のように。そのような訳で、耳の聞こえない或る人々は、声ではなく口の動きから、話していることを理解するのである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『観念とは何か』ライプニッツ著作集8、pp.20-21、[米山優・1990])
(索引:表出)

前期哲学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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説得方法:(a)否定的な発言はしない、(b)相手の恥はもみ消す、(c)直接評価は控える、(d)全てを相手の手柄にする、(e)私的な欲望を暴かない、(f)進言は立派な大義名分を立て、利害は軽く添える。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

説得方法

【説得方法:(a)否定的な発言はしない、(b)相手の恥はもみ消す、(c)直接評価は控える、(d)全てを相手の手柄にする、(e)私的な欲望を暴かない、(f)進言は立派な大義名分を立て、利害は軽く添える。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
 君主の意向に逆らうところがなく、説く者の言葉づかいも相手の心に抵抗するところがなくなって始めて、知恵と弁舌を思いのままにふるうことができる。これこそ、君主と親しい関係になって、もはや疑われることがなく、言いたいことを存分に言えるための方法である。
(a)相手が自らを肯定的に評価しているとき、否定的な発言はしてはならない。
 ・相手が自分の力を自慢にしているとき、その困難なところを取りあげて水を差さない。
 ・自分の決断を自分で勇敢だと思っているとき、その過失を言いたてて怒らせたりしない。
 ・自分の計画を自分で賢明だと思っているとき、その欠点をあげて窮地に追いこんだりしない。
(b)相手が恥ずかしいと思っていることは、もみ消してやる。
 ・相手が心のなかで卑下しながら、それをやめられないという場合、そのまま美点を飾りたて、それをやめたところで別に大したことでもないとする。
 ・相手が心のなかであこがれながら、実際にはそれを行えないでいる場合、その欠点をあげてだめなことを明らかにし、それを行わないのを誉めあげる。
(c)君主の行為に対して、直接発言することは控えること。
 ・君主の行動を誉めたいときは、君主と同じ行動をした別人を誉める。
 ・君主の事業を正したいときは、君主と同じ計画の別の事業を正す。
 ・君主と同じ欠点を持つ者に関して、それが別に害にならないとして、大いに飾りたてる。
 ・君主と同じ失敗をした者に関して、それが別に落ち度にはならないとして、はっきり飾りたてる。
(d)仮に、自分の意見を採用させる場合にも、それを君主に気づかれてはならない。
 ・相手が事を起こして自分の知恵を自慢したいと思っている場合、別の類似した事を取り上げて十分な下地を作ってやり、自分の説を採らせながら、知らぬふりをして相手の知識を助けてやる。
(e)仮に、君主に私的な強い欲望があるような場合にも、それを暴いてはならない。
 ・公けの正義にかなっているとしてその実行を勧める。
(f)君主に、自分の意見を進言するには、立派な大義名分を掲げ、君主の個人的な利害を暗示する。
 ・外国との共存の意見を進めたいと思うとき、立派な大義名分をかかげて説明したうえで、それが君主自身の個人的な利益にもかなっていることを、それとなく示す。
 ・国家に危害が及ぶ事件を陳述したいと思うとき、それが当然の非難を受けることを明らかにしたうえで、また君主自身の個人的な害にもなることを、それとなく示す。
 「およそ君主に説くうえで心がけるべきことは、説得しようとする相手が誇りとしていることを飾りたて、恥ずかしいと思っていることをもみ消してやるのを、わきまえることである。相手に私的な強い欲望があれば、必ず公けの正義にかなっているとしてその実行を勧めるのがよい。相手が心のなかで卑下しながら、それをやめられないという場合には、説く者はそのまま美点を飾りたて、それをやめたところで別に大したことでもないとすることだ。相手が心のなかであこがれながら、実際にはそれを行えないでいる場合には、説く者はそのためにその欠点をあげてだめなことを明らかにし、それを行わないのを誉めあげることだ。相手が〔事を起こして〕自分の知恵を自慢したいと思っている場合には、そのために別の類似した事をとりあげてじゅうぶんな下地を作ってやり、こちらの説を採らせながら、知らぬふりをして相手の知識を助けてやることだ。
 説く者が外国との共存の意見を進めたいと思うときは、必ず立派な大義名分をかかげて説明したうえで、それが君主自身の個人的な利益にもかなっていることを、それとなく示すのがよい。また国家に危害が及ぶ事件を陳述したいと思うときは、それが当然の非難を受けることを明らかにしたうえで、また君主自身の個人的な害にもなることを、それとなく示すのがよい。〔君主の行動を誉めたいときは、〕君主と同じ行動をした別人を誉めることだ。〔君主の事業を正したいときは、〕君主と同じ計画の別の事業を正すことだ。君主と同じ欠点を持つものがいたなら、必ずそれが別に害にならないということを大いに飾りたててやることだ。君主と同じ失敗をしたものがいたなら、必ずそれが別に落ち度にはならないということをはっきり飾りたててやることだ。説得しようとする相手が自分の力を自慢にしているときは、その困難なところを取りあげて水をさしたりしてはならない。自分の決断を自分で勇敢だと思っているときは、その過失を言いたてて怒らせたりしてはならない。自分の計画を自分で賢明だと思っているときは、その欠点をあげて窮地に追いこんだりしてはならない。説くことの大意は相手の君主の意向に逆らうところがなく、説く者の言葉づかいも相手の心に抵抗するところがなくなって、そうして始めて知恵と弁舌を思いのままにふるうのだ。これこそ、君主と親しい関係になってもはや疑われることがなく、言いたいことを存分に言えるための方法である。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』説難 第十二、(第1冊)pp.236-238、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:説得方法)
(原文:12.説難韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)



(出典:twwiki
韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

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ものごとの道理と正義に従い行動するということ自体には、上手も下手もなく失敗もないので、いかなる困難にあったとしても、この道に進むことを楽しむことができ、ことの成否や自分の死生も気にならなくなる。(西郷隆盛(1828-1877))

道を行う

【ものごとの道理と正義に従い行動するということ自体には、上手も下手もなく失敗もないので、いかなる困難にあったとしても、この道に進むことを楽しむことができ、ことの成否や自分の死生も気にならなくなる。(西郷隆盛(1828-1877))】
 普通は、行動の仕方の上手や下手、事の成り行きの成功と失敗を心配して、動揺してしまうものだ。しかし、ものごとの道理と正義に従い行動するということ自体には、上手も下手もなく、また失敗ということもない。このように行動する者は、ただひたすら、ものごとの道理と正義の道を楽しみ、また、このような道は、もとより困難にあうことが多いことも知っているので、いかなる困難にあったとしても、益々その道に進むことを楽しむことができ、ことの成否や自分の死生など、少しも気にすることはないのである。
 「二九 道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔に、少しも關係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出來る人出來ざる人有るより、自然心を動す人も有れ共、人は道を行ふものゆゑ、道を蹈むには上手下手も無く、出來ざる人も無し。故に只管(ひたす)ら道を行ひ道を樂み、若し艱難に逢うて之を凌んとならば、彌々(いよ/\)道を行ひ道を樂む可し。予壯年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出會ふ共、動搖は致すまじ、夫れだけは仕合せなり。」
(西郷隆盛(1828-1877)『遺訓』29(集録本『西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文』)pp.14-15、岩波文庫 (1939)、山田済斎(編))
(索引:道)
『遺訓』西郷隆盛(1828-1877)青空文庫

西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫)


(出典:wikipedia
西郷隆盛(1828-1877)(Collection of propositions of great philosophers)  「事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀(さぼう)を用ふ可からず。人多くは事の指支(さしつか)ゆる時に臨み、作略(さりやく)を用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜(じぎ)次第工夫の出來る樣に思へ共、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗るゝものぞ。正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる樣なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。」
(西郷隆盛(1828-1877)『遺訓』7(集録本『西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文』)p.7、岩波文庫 (1939)、山田済斎(編))
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次のことを、よく考えよ。〈天何の故にか我が身を生み出だし、我をして果して何の用にか供せしむる〉。自分の天職もわからず、ただうかうかと生きていているだけで良いのか。(佐藤一斎(1772-1859))

天職

【次のことを、よく考えよ。〈天何の故にか我が身を生み出だし、我をして果して何の用にか供せしむる〉。自分の天職もわからず、ただうかうかと生きていているだけで良いのか。(佐藤一斎(1772-1859))】
 「人間にはだれでも、次の事を反省し考察してみる必要がある。「天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか〈天何の故にか我が身を生み出だし、我をして果して何の用にか供せしむる〉。自分は天(神)の物であるから、必ず天職がある。この天職を果たさなければ、天罰を必ずうける」と。ここまで反省、考察してくると、自分はただうかうかとこの世に生きているだけではすまされないことがわかる。」
(佐藤一斎(1772-1859)『言志録』10(集録本『言志四録(1)言志録』)pp.35-36、講談社学術文庫(1979)、川上正光(訳注))
(索引:天、天職)

言志四録(1) 言志録 (講談社学術文庫)


(出典:wikipedia
佐藤一斎(1772-1859)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「天地間に起こる事がらは、昔から今まで、陰あり、陽あり、昼あり、夜あり、また太陽と月とが交互に世を照らし、四季が互いにめぐるなど、条理がすべて前から定まっている〈其の数皆な前に定れり〉。また人が富み栄えたり、貧乏したり、死んだり、生まれたり、長生きしたり、早死にしたり、もうけたり、損したり、栄誉をうけたり、はずかしめられたり、集まったり、ばらばらになったり、これらは皆、定まった運命でないものはない〈一定の数に非ざるは莫し〉。ただ、これを前もって知らないだけなのだ〈殊に未だ之れを前知せざるのみ〉。たとえば、あやつり人形の芝居のからくりはちゃんと具わっているのに、これを見る人が知らないようなものだ〈譬えば猶お傀儡の戯の機関已に具れども、而も観る者知らざるがごときなり〉。世間の人々はこのようなことを知らないで、自分の知恵力量は十分たのむに足りるものだとして、一生涯せっせと、きのうは東、今日は西と、栄誉・功名を探し求め、ついにやつれつかれて倒れてしまう。これはなんと、まどえるもはなはだしいといわざるを得ないのではないか。」
(佐藤一斎(1772-1859)『言志録』1(集録本『言志四録(1)言志録』)p.24、講談社学術文庫(1979)、川上正光(訳注))

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