2018年11月19日月曜日

互いに抵触しあう諸原理が並立し得るのに対して、例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法準則と原理

【互いに抵触しあう諸原理が並立し得るのに対して、例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(2.2)追記

 参照: 見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1)原理には、重みとか重要性といった特性がみられ、それを有意味に問題にし得る。
 (1.1)複数の原理が抵触しあうとき、相対的な重みを考慮に入れる必要がある。
 (1.2)ただし重みには、精確な測定などあり得ず、特定の原理や政策が他より重要であるという判断は、しばしば議論の余地あるものとなる。
(2)これに対して、二つの法準則が抵触することはあり得ない。
 (2.1)見掛け上抵触する場合にも、法体系にはこの種の抵触を規律する別種のルールが存在する。
  (a)高次の権威が制定した法準則の優先
  (b)後に確立された法準則の優先
  (c)あるいは、より特殊な法準則の優先
  (d)その他の類いの法準則の優先
  (e)法体系によっては、より重要な原理に支持された法準則を優先
 (2.2)例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。法準則が、ある例外的事案と抵触しあっているように見えるとき、例外的準則を含まない法準則は、不完全なのである。

 「私の主張は、ある法準則の「完全な」陳述には当該準則に対する例外的準則も含まれるということ、そしてこのような例外的準則を無視した法準則の陳述は「不完全」である、ということであった。もし私がラズの反論に予め気づいていれば、このようなかたちで私の見解を提示することはなかっただろう。すなわち私は、例外的法準則は本来の法準則を修正したかたちで提示されることも、また自己防衛に関する法準則のように別個の法準則として提示されることもありうると、明言していただろう。しかしたとえそうだとしても、同時に私は両者の相違が主として記述の問題にすぎないことをも明言したはずである。したがって法準則と原理の区別は損なわれることなく維持されることになる。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,5 法準則は本当に原理とは別のものか,木鐸社(2003),pp.90-91,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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行為遂行的発言は、参与者によって聞かれ、誤解なく正しく理解されなければならない。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

誤解から生ずる不適切性

【行為遂行的発言は、参与者によって聞かれ、誤解なく正しく理解されなければならない。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(3)追加記載

(1)行為が、強制や錯誤、意図せずになされた偶然のものではないこと。
  行為遂行的発言は、行為であるが故に、いかなる行為も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。強制による行為、錯誤による行為、意図することのない行為、偶然の行為等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(2)発言は、虚構や詩の中での語りや、独り言ではないこと。
  行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。役者によって語られる場合、詩の中で語られる場合、独り言として語られる場合等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(3)発言は、参与者によって聞かれ、誤解なく正しく理解されなければならない。
 行為遂行的発言は、発言であるからには、次の条件が満たされなければならない。
 (a)発言者の言ったことが、参与者によって聞かれなければならない。
 (b)参与者は、発言者の発言の内容を、正しく理解しなければならない。
(4)(1)~(3)が全て適切であるという前提条件の下、行為遂行的発言に固有の不適切性が存在する。
 (A1)慣習存在せず・誤発動・不発、(A2)誤適用・誤発動・不発、(B1)欠陥手続き・誤執行・不発、(B2)障害あり・誤執行・不発、(Γ1)不誠実・濫用、(Γ2)行為不適合・濫用。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

 「ここで私が、「誤解」(misunderstanding)から生ずるような種類の「不適切性」(infelicity)――それは実際にこのことばで呼ばれるかもしれない――に言及しなかったのは、一面において今述べたような特殊の場合の考察を当面排除しておきたかったからである。たとえば、約束をしたと言うためには、通常、
 (A)私の言ったことが誰かによって、おそらく約束相手によって、《聞かれ》なければならないし、また同時に、
 (B)その人物によって私の言ったことが約束として理解されていなければならない
という二つのことが明らかに必要である。
 この二つの条件がいずれか一つでも満たされない場合には、私が本当に約束をしたのか否かという点について疑義が生じ、その結果、あるいは私の行為は未遂、または無効とみなされることになる。法律については、この種の不適切さを避けるために、令状や召喚状の執行に際して特別に注意が払われている。この特殊ではあるが、重大な意義をもつ問題の考察は、後で再び別の問題との関連で行なわれることになるであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,pp.37-38,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言の不適切性の理論,誤解)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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22.第1次的ルールは次の欠陥を持つ:(a)不確定性:何がルールかが不確定、(b)静的である:意識的にルールを変更できない、また権利や義務の変更を扱えない、(c)非効率性:ルール違反の判定や、違反の処罰が非効率的である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

第1次的ルールの不確定性、静的な性質、非効率性

【第1次的ルールは次の欠陥を持つ:(a)不確定性:何がルールかが不確定、(b)静的である:意識的にルールを変更できない、また権利や義務の変更を扱えない、(c)非効率性:ルール違反の判定や、違反の処罰が非効率的である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)密接に結びつけられた小さな集団ならば、第1次的ルールのみからなる単純な社会構造でも存続が可能だろう。
 (1.1)血縁によるきずな
 (1.2)共通の心情、信念のきずな
(2)それ以外では、第1次的ルールのみからなる単純な社会統制の形態では、次の欠陥が現れる。
 (2.1)ルールの不確定性
  (2.1.1)特定の集団の人々がそのルールを受け入れているという事実の他には、何がルールなのかを確認する標識がない。
  (2.1.2)その結果、何がルールであり、あるルールの正確な範囲が不確定である。
 (2.2)ルールの静的な性質
  (2.2.1)ルールのゆるやかな成長の過程が存在する。
   (i)ある一連の行為が、最初は任意的と考えられている。
   (ii)その行為が、習慣的またはありふれたものとなる。
   (iii)その行為が、義務的なものとなる。
  (2.2.2)ルールの衰退の過程が存在する。
   (i)ある行為が、最初は厳しく処理されている。
   (ii)その行為への逸脱が、緩やかに扱われるようになる。
   (iii)その行為が、顧みられなくなる。
  (2.2.3)しかし、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しない。
  (2.2.4)また個人は、責務や義務を負うだけで、この責務は、いかなる個人の意識的な選択によっても変えられないし、修正されえない。責務の免除や、権利の移転というような作用も、第1次的ルールの範囲には入っていない。
 (2.3)ルールの非効率性
  (2.3.1)ルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こり、絶え間なく続く。法の歴史によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如は、最も重大な欠陥であり、他の欠陥より早く矯正される。
  (2.3.2)ルール違反に対する処罰が、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されている。
  (2.3.3)違反者を捕え罰する、集団の非組織的な作用に費やされる時間が浪費される。
  (2.3.4)自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐の連鎖が続く。

 「現在の目的にとって以下の考察がより重要である。

血縁、共通の心情、信念のきずなで密接に結びつけられており、安定した環境におかれた小さな社会のみが、そのような公的でないルールの制度だけでうまくやっていけることは明らかである。

その他の場合では、そのような単純な社会統制の形態は欠陥のあるものにならざるをえず、さまざまな点で補完を必要とするだろう。

まず第一に、集団の生活の基礎となっているルールは体系を形づくっていないので、単に別々の基準のセットであり、そこにはもちろん人々の特定の集団が受けいれているルールであるということのほかには、それを確認するまたは共通の標識がないだろう。

この点において、それらはわれわれ自身のエチケットのルールに似ている。したがって、何がルールであるかや、あるルールの正確な範囲はどうかについて疑いが生じた場合、権威ある典拠を参照するとか、この点についての言明が権威をもつ公機関に問い合わせるとかによって疑いを解決する手続は存在していないだろう。

というのは、明らかに、そのような手続そして権威ある典拠や人を認めるということは、《仮定上》この集団は責務ないしは義務のルールしかもたないにもかかわらず、それとは異なったタイプのルールの存在を前提するからである。第1次的ルールからなる単純な社会構造での欠陥を、その不確定性 uncertainty と呼ぼう。

 第二の欠陥はルールの静的 static 性質である。そのような社会で知られているルールの唯一の変化の形は、成長のゆるやかな過程とそれとは逆の衰退の過程とであろう。

前者では、かつて任意的と考えられていた一連の行為がまず習慣的またはありふれたものとなり、ついで義務的となるのであり、後者の場合には、かつてはきびしく処理されていた逸脱がまずゆるやかに扱われ、ついでかえりみられなくなる。

そのような社会では、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しないだろう。

というのは、ここでもまた、社会生活の唯一の基礎となっている責務の第1次的ルールとは異なるタイプのルールの存在が前提されて、このことは可能になるからである。

極端な場合、ルールははるかに強い意味で静的である。このことは、おそらくいかなる現実の社会においても決して完全には実現されないけれども、考慮に値するものであって、これを矯正するのは法にとってたいへん特徴的なものだからである。

この極端な場合には、一般的なルールを意識的に変更する手段がないばかりではなく、個々の場合ルールから生じる責務は、いかなる個人の意識的な選択によっても変えられないし、修正されえないだろう。各人はただあることをなしたり、あるいは控えたりする固定した責務や義務を負うだけであろう。

なるほど、他人がこれらの責務の履行から利益を得るだろうという場合が非常にしばしばあるかもしれない。しかし、責務の第1次的ルールしかない場合には、彼らは拘束されている人を履行から免除したり、履行から手に入るだろう利益を他人に移転するどんな権能をもたないだろう。

というのは、免除や移転というような作用は責務の第1次的ルールでの個人の最初の地位を変化させるからであり、これらの作用が可能であるためには、第1次的ルールと異なった種類のルールが存在しなければならない。

 この単純な社会生活の形態の第三の欠陥は、ルールを維持する社会的圧力が散漫なため生じる《非効率性》inefficiency である。認められているルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こるし、そして最小の社会以外はどこでも、もし違反の事実を最終的にそして権威的に確定する権能を特別に与えられた機関がなければ、それはたえまなく続くだろう。

そのような最終的かつ権威的な決定の欠如は、それと結びついたもう一つの弱点から区別されねばならない。これはルール違反に対する処罰そしてそのほかの物理的な作用や力の行使を含む社会的圧力の形態が特別な機関によって管理されないで、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されているという事実である。

違反者を捕え罰する集団の非組織的な作用に費やされる時間の浪費、そして「制裁」の公的な独占がないための自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐が重大であるのは明らかである。

しかし、法の歴史によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如はより重大な欠陥であることがはっきりと示されている。というのは、多くの社会ではこの欠陥を他の欠陥よりもずっと以前に矯正しているからである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.101-103,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:第1次的ルールの不確定性,静的な性質,非効率性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月18日日曜日

仮説:この宇宙は、今の宇宙のビッグバンの前に「前の宇宙相」の未来の果てが存在し、この宇宙のはるか未来の時空の「向こう側」に「次の宇宙相」のビッグバンが存在するような、無限に連なる構造なのではないか。(ロジャー・ペンローズ(1931-))

共形サイクリック宇宙論

【仮説:この宇宙は、今の宇宙のビッグバンの前に「前の宇宙相」の未来の果てが存在し、この宇宙のはるか未来の時空の「向こう側」に「次の宇宙相」のビッグバンが存在するような、無限に連なる構造なのではないか。(ロジャー・ペンローズ(1931-))】

(4)追加記載。

(1)ビッグバン直後の宇宙の状態
  ビッグバンの直後は極めて高温で、すべての粒子が事実上、光子のように質量がゼロと考えてもいいような時空構造であったと考えられる。この構造では、局所的なスケール変化の影響を受けない。(ロジャー・ペンローズ(1931-))

 ビッグバンの直後、恐らくビッグバンの瞬間から10-12秒後あたりまで遡ると、温度は約1016Kを超えていて、物理学はスケール因子Ωをまったく気にしないものになり、共形幾何学が、その物理過程に適した時空構造になると考えられる。そのため、当時の物理的活動のすべては、局所的なスケール変化の影響を受けなかったと考えられる。

(2)はるか未来の宇宙の状態
  指数関数的な膨張が続く宇宙の未来は、宇宙マイクロ波背景放射とホーキング放射による光子、重力子、そして恐らく大量の「ダークマター」から構成され、局所的なスケール変化の影響を受けない構造となる。(ロジャー・ペンローズ(1931-))

 正の宇宙定数Λをもつ宇宙モデルによれば、われわれの宇宙は最終的には指数関数的な膨張に落ち着くはずだ。それは、なめらかで空間的な未来の共形境界I+をもつだろう。その構成は、
 (a)非常に強く赤方遷移した星の光、宇宙マイクロ波背景放射
 (b)無数の巨大ブラックホールの質量エネルギーのほとんどすべてを、非常に低エネルギーの光子の形で運び去ってしまうホーキング放射
 (参照: ブラックホールは非常に小さな温度を持つ。宇宙の指数関数的な膨張が続くと、やがて宇宙の温度があらゆるブラックホールの温度より低くなる。ブラックホールはエネルギーを放射するようになり、最後は消滅する。(ロジャー・ペンローズ(1931-)))
 (c)重力子(グラビトン)
 (d)おそらく大量の「ダークマター」

(3)ビッグバン直後の宇宙の状態と、はるか未来の宇宙の状態に共通する性質
  宇宙の始めと遥か未来の状態の共通点:(1)質量のない粒子のみ存在する、(2)粒子にとって時間経過が無限に遅くなる、(3)局所的なスケール変化の影響を受けない、(4)始めと無限の未来の「向こう側」への時空の拡張可能性。(ロジャー・ペンローズ(1931-))
 (3.1)宇宙には、質量のない粒子しか存在しなくなる。
 (3.2)時間の経過が意味を持つためには、静止質量をもつ粒子が必要である。質量のない粒子にとっては、時間の経過が無限に遅くなる。すなわち、質量のない粒子は、その内なる時計が最初の時を刻む前に、宇宙においては永遠の時間が経過する。「永遠なんて、たいしたことじゃない」のである!
 (3.3)質量ゼロの粒子は、時空の計量がどのようなものであるかにあまり関心がなく、局所的なスケール変化の影響を受けない構造となる。
 (3.4)理論的には、ビッグバン超曲面をビッグバンの前、「向こう側」までなめらかに拡張することを許容しているように思われる。また、正の宇宙定数Λがあるときには、はるか未来の宇宙の時空を、無限の「向こう側」の未来方向に拡張できることが、数学的に強く支持されている。

(4)宇宙の構造についての、一つの可能性。
 (4.1)はるか未来の宇宙の時空を、無限の「向こう側」の未来方向に拡張した先に、「この」宇宙のビッグバン超曲面が「ぐるりと輪になって」存在しているのではないだろうか。しかし、このような時空には閉じた時間的曲線があるため、因果関係にパラドックスが生じるために、これは除外される。
 (4.2)はるか未来の宇宙の時空を、無限の「向こう側」の未来方向に拡張した先が、「次の宇宙相」の〈ビッグバン〉につながり、この宇宙のビッグバン超曲面をビッグバンの前の「向こう側」までなめらかに拡張したところには、「前の宇宙相」の未来の果てが存在しているのではないだろうか。そして、恐らく宇宙全体は、このようなビッグバンから指数関数的な果てしない膨張までのサイクルが、無限個連続した時空として存在しているのではないだろうか。

 「この点で、一つの可能性が立ち現われてくる。I+とB-が同じ一つのものである可能性はないのだろうか? ひょっとすると、われわれの宇宙は、共形多様体として単純に「ぐるりと輪になって」いるのではないだろうか? I+の先にはまたビッグバンから始まるわれわれの宇宙があって、トッドの提案にしたがい、共形的に引き延ばされてB-となるのではないだろうか? このアイディアの魅力は、その経済性にある。けれども私は個人的に、この提案には一貫性の点で深刻な問題があるため成り立たないと考えている。基本的に、そのような時空には閉じた時間的曲線があるため、因果関係にパラドックスが生じたり、少なくとも、行動に不愉快な制約を課したりするからだ。こうしたパラドックスや制約は、一貫性のある情報がI+/B-超曲面を横切れるかどうかにかかっている。第18章では、私がここで提案するような体系のなかで、このようなことが現実になる可能性があり、また、閉じた時間的曲線が本当に深刻な矛盾を引き起こすおそれがあることを見ていく。このような理由から、私はI+とB-が同じ一つのものであるとは考えない。」
(ロジャー・ペンローズ(1931-),『時間のサイクル』(日本語名『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』),第3部 共形サイクリック宇宙論,第13章 無限とつながる,新潮社(2014),p.173,竹内薫(訳))
(索引:)
 「だから私は次善の策を提案したい。B-の前には「前の宇宙相」の未来の果てにあたる物理的にリアルな時空領域があり、I+の先にも物理的にリアルな時空領域があって、「次の宇宙相」の〈ビッグバン〉が起こると考えるのだ。この提案に合わせて、われわれのB-から始まりI+まで続く宇宙相を「現イーオン〔訳注=aeonとは、はかり知れないほど長い年月のことである〕と呼び、宇宙全体は(おそらく無限に)連続するイーオンからなる、拡張された共形多様体として理解できると考えよう。図3-3を参照されたい。各イーオンの「I+」を次のイーオンの「B-」と同一視することで、前のイーオンと次のイーオンとの連続性が確保され、両者の結合は共形時空構造として完全になめらかなものとなる。
 読者諸氏は、未来の果てと〈ビッグバン〉の爆発を同一視することを不安に思われるかもしれない。未来の果てでは、放射の温度が下がってゼロとなり、膨張により宇宙の密度もゼロになるのに対して、〈ビッグバン〉では、放射の温度も密度も無限大であるからだ。けれども、〈ビッグバン〉での共形的な「引き伸ばし」は、無限大の密度と温度を有限の値まで引き下げ、無限遠の未来での共形的な「押しつぶし」は、ゼロだった密度と温度を有限の値まで引き上げる。これらは両者を一致させるための再スケーリングにすぎず、引き伸ばしも押しつぶしも、両側の物理学に対してなんの影響も及ぼさない。もう一つ言っておくべきことがある。クロスオーバー〔訳注=イーオンとイーオンが重なる部分〕の両側の物理的活動がとりうるすべての状態を記述する位相空間Pは(第3章参照)、共形不変な体積をもつ。その基本的な理由は、距離が減少するときには対応する運動量が増加し、距離が増加するときには対応する運動量が減少して、距離と運動量の積が再スケーリングによって完全に不変になっているからだ。この事実は、第16章で決定的に重要になる。私は、この宇宙論の体系を共形サイクリック宇宙論(conformal cyclic cosmology、CCC)と呼んでいる。」
(ロジャー・ペンローズ(1931-),『時間のサイクル』(日本語名『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』),第3部 共形サイクリック宇宙論,第13章 無限とつながる,新潮社(2014),pp.173-174,竹内薫(訳))
(索引:共形サイクリック宇宙論)

宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか


(出典:wikipedia
ロジャー・ペンローズ(1931-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「さらには、こうしたことがらを人間が理解する可能性があるというそのこと自体が、意識がわれわれにもたらしてくれる能力について何らかのことを語っているのだ。」(中略)「「自然」の働きとの一体性は、潜在的にはわれわれすべての中に存在しており、いかなるレヴェルにおいてであれ、われわれが意識的に理解し感じるという能力を発動するとき、その姿を現すのである。意識を備えたわれわれの脳は、いずれも、精緻な物理的構成要素で織り上げられたものであり、数学に支えられたこの宇宙の深淵な組織をわれわれが利用するのを可能ならしめている――だからこそ、われわれは、プラトン的な「理解」という能力を介して、この宇宙がさまざまなレヴェルでどのように振る舞っているかを直接知ることができるのだ。
 これらは重大な問題であり、われわれはまだその説明からはほど遠いところにいる。これらの世界《すべて》を相互に結びつける性質の役割が明らかにならないかぎり明白な答えは現れてこないだろう、と私は主張する。これらの問題は互いに切り離し、個々に解決することはできないだろう。私は、三つの世界とそれらを互いに関連づけるミステリーを言ってきた。だが、三つの世界ではなく、《一つの》世界であることに疑いはない。その真の性質を現在のわれわれは垣間見ることさえできないのである。」

    プラトン的
    /世界\
   /    \
  3      1
 /        \
心的───2────物理的
世界         世界


(ロジャー・ペンローズ(1931-),『心の影』,第2部 心を理解するのにどんな新しい物理学が必要なのか,8 含意は?,8.7 三つの世界と三つのミステリー,みすず書房(2001),(2),pp.235-236,林一(訳))

ロジャー・ペンローズ(1931-)
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精神とは、主観的な意識経験と、無意識の心理的機能の両方を含んだ、脳の全体的な特性であるという定義が有効である。無意識機能も、意識と類似の記述によって、臨床上の経験とも整合的な理論記述が可能となる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

無意識は精神事象か?

【精神とは、主観的な意識経験と、無意識の心理的機能の両方を含んだ、脳の全体的な特性であるという定義が有効である。無意識機能も、意識と類似の記述によって、臨床上の経験とも整合的な理論記述が可能となる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(1)無意識的な「精神事象」は、存在しないという考え方。
 (1.1)無意識的な機能は、特定のニューロン活動だけを伴うと考える。
 (1.2)ただしニューロン活動は、別の意識的な考えや感情に影響を与えることができる。
(2)無意識的な「精神事象」も、存在するという考え方。
 (2.1)無意識のニューロン活動
  アウェアネスがない以外は、質的に意識プロセスによく似ており、精神的特性と見てもよい機能属性を持ったニューロン活動が存在する。また、皮質活動の持続時間が最大0.5秒間ほど長引けば、無意識機能にアウェアネスを付加することができる。
 (2.2)無意識の機能
  無意識は、意識機能と基本的なところが似通って見える方法で、心理学的な課題を処理する。例えば、無意識ではあっても、経験を表象していると考えられる事象がある。また例えば、認知的で想像力に富んだ意思決定的なプロセスが、意識的である機能よりも、しばしばより独創的に、無意識的に進行する。
 (2.3)意識過程の機能の言語で記述された無意識理論の有効性
  機能的な記述をする場合にも、より単純で、生産的な記述が可能で、より想像力に富んだ予測も可能となり、臨床上の経験とも整合性があるように見える。

 「ここまでの中で、何が「心」であり、何が「精神的」なプロセスであるのかという議論を私は避けてきました。この話題についての非常に込み入った議論を、多くの場合哲学者の文献で見つけることができるでしょう。一介の実験神経学者として、私はこうした概念についての私たちの報告可能な見方や感情とも一致した、シンプルで直接的なアプローチをとることにしています。辞書を引くと、「心」の定義には人間の知性だけではなく、性癖や衝動といった情動プロセスの意味合いも含まれていることがわかります。
 かたや、「精神的」とは単に「心」の機能を示す形容詞であるとされています。このように、「心」の意味には意識経験も含まれますが、この定義にあてはまる無意識の機能もそこから除外することはできません。すると、「心」というのは、主観的な意識経験と無意識の心理的機能の両方を含んだ、脳の全体的な特性であるという定義が有効だと考えられます。
 しかし、このような意見に強く反対する者もいます。哲学者であるジョン・サール(1993年、156頁)は、「精神」は主観的な意識経験にのみあてはめるべきだ、と主張しています。無意識的な機能は他の何か、つまり無意識の精神事象を誘発する必要性なしに、特定のニューロン活動だけを伴うものであると彼は主張しています。その一方で彼は、このような活動が、それに続く意識的な考え、感情、そして行動に影響を与えることができることを認めています。
 それならばなぜ、私たちは無意識の心理的に重大なプロセスを、「精神的」プロセスと考えなければならないのでしょうか? そうした考えを受け入れる場合、私たちは、アウェアネスがない以外はある意味、質的に意識プロセスによく似た属性を、無意識プロセスに分け与えていることになります。(精神的または非精神的に無意識であるという)どちらの意見も、まだ立証されていない仮説です。しかし、無意識を精神的な特性と見る、それも無意識的機能のよく知られている特性を最も十分に説明できるような精神的特性と見るべき根拠がいくつかあるのです。また、こうした機能を扱うための、憶測にすぎないかもしれないがより想像力に富んだ予想図も得られるのです。
 無意識の機能は、アウェアネスがないこと以外は、意識機能と基本的なところが似通って見える方法で心理学的な課題を処理します。無意識の機能は、経験を表象し得るのです(キールストローム(1993年))。認知的で想像力に富んだ、そして意思決定的なプロセスはすべて、意識的である機能よりもしばしばより独創的に、無意識的に進行することができるのです。サールの意見とは反対に、こうした種類の無意識の心理的に重要な機能は、意識機能と同様に、ニューロンプロセスの《先験的な》知識によって説明、または予言することができません。さらに、無意識のプロセスを「精神機能」と考え、意識ある精神機能と関連はあるけれども、アウェアネスを伴わない現象であるとみなしたほうが、より単純、かつ生産的で、臨床上の経験とも、よりつじつまが合っているように見えます。(結局のところ、定義というのは、当該の問題について生産的な思考を推進するという限りにおいてのみ有益なのです。)皮質活動の持続時間が最大0.5秒間ほど長引けば、無意識機能にアウェアネスを付加することができるのです(次の節を参照)。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.115-117,下條信輔(訳))
(索引:無意識,精神,意識)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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22.先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))

「真理らしさ」の増大

【先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))】

(3.1.3.1)(6.3.1)~(6.3.3)(7)追加記載。

(1)真理の探究には、何ものにも勝る重要性があり、われわれの目的であり続ける。
(2)理論は、実践的な科学と理論科学にとって至高の重要性を持つ。
(3)しかし、真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。
 参照: ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
  (3.1.1)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、および、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。
  (3.1.2)したがって、理論を信じる実証的理由は、決して得られない。
  (3.1.3)したがって、理論は当て推量、推測である。
   (3.1.3.1)科学も、人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している。
(4)経験主義の原理
 (4.1)科学理論の採否は、観察と実験の結果に依拠すべきである。
(5)帰納の論理的問題
 参照: 帰納の非妥当性の原理と、経験主義の原理とが衝突し、そこに帰納の論理的問題があると、かつて考えられたが、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。批判的合理主義の原理が、解答を与える。(カール・ポパー(1902-1994))
 (5.1)かつて、(3.1)と(4)が衝突するように考えられたことがある。
 (5.2)この問題から、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。
(6)批判的合理主義の原理
 (6.1)科学理論の採否は、批判的推論に依拠すべきである。
 (6.2)観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることができる。
 (6.3)理論は、合理的批判の結果に照らして他の既知の理論よりもよりよい、あるいはより悪い理論として、暫定的に、拒否されたり、受け容れられたりする。
  (6.3.1)新しい仮説に要請される、後退を防ぐ保守的な条件。
   (a)新しい仮説は、先行仮説が解決した問題を、同じ程度にうまく解決せねばならない。
  (6.3.2)新しい仮説に望まれる、革命的な条件。
   (a)新しい仮説は、先行仮説からは導出されない予測を演繹する。
   (b)新しい仮説は、先行仮説と新しい仮説のいずれを支持するかの、決め手となる実験を構成する。
  (6.3.3)もし、決め手となる実験が新しい仮説に有利に決まるなら、より「真理らしさ」が増大した、科学理論は「進歩した」と言うことができる。
(7)科学理論は、理論や仮説に固有の傾向として、真理らしさの増大に「向かう」と言うべきではない。科学の進歩は、誤謬消去を基礎とした科学の方法と、我々の批判的で能動的な行為により支えられている。

 「一般に人間の思考というもの、そして特に科学というものは、人間の歴史の所産である。それゆえ、それらは多くの偶然に依存している。つまり、われわれの歴史が異なっていたならば、われわれの現在の考え方と現在の科学もまた(もしあったとすれば)異なっていたことであろう。


 多くの人はこのような論証によって相対主義的または懐疑論的な結論を出してきたが、この結論は避けられないものではけっしてない。

われわれは事実として、思考には偶然的(そしてもちろん非合理的)要素があることを容認できる。だが、われわれは相対主義的な結論を自滅的で、敗北主義的なものとして拒否できる。

なぜなら、これはしばしば行なっていることだが、われわれは自身の誤りから学ぶことができ、これが科学の進歩の仕方であると指摘できるからである。われわれの出発点がいかに誤っていようと、それらを訂正し、したがって超えることができるのである。科学において行なわれるように、われわれが意識的な批判によって誤りをつきとめようとする場合は特にそうである。

したがって、科学的思考は多少とも偶然的な出発点をもつにもかかわらず、(合理的な観点からは)進歩的であり得る。

そしてわれわれは、批判することによって科学の前進を能動的に助けることができ、そのため真理に近づくことができる。

目下の科学理論は、多少とも偶然的な(またおそらく歴史的に決定された)われわれの偏見《と》批判的な誤謬消去の共通の所産である。批判と誤謬消去という刺激の下で科学理論の真理らしさは増大に向うのである。

 おそらく私は《向う》と言うべきではないだろう。

というのは、より真理らしくなるのはわれわれの理論や仮説に固有の傾向ではないからである。それはむしろ、新しい仮説が以前の仮説に比べて改良されているようにみえる時に限ってその仮説を承認するという、われわれの批判的態度からの結果なのである。

われわれが新しい仮説に対して、それを以前のものと置き換えることを承認する前に要求するのは次のことである。
 (1) それは先行仮説が解決した問題を、少なくとも先行仮説が行なったと同じ程度にうまく解決せねばならない。
 (2) それは古い理論からは出てこない予測の演繹を許すものでなければならない。望ましくは、古い理論に矛盾する予測を認め、決め手となる実験の構成を許すものでなければならない。

もし新理論が(1)と(2)を満足するなら、それは進歩が可能なことを示している。もし決め手となる実験が新理論に有利に決まるなら、進歩は現実のものとなるだろう。

 (1)は必要な要請であり、かつ保守的な要請である。それは後退を防ぐ。(2)は選択的で、望ましいものである。それは革命的である。科学におけるすべての重要な成功は革命的であるが、科学のすべての進歩が革命的性格をもっているわけではない。二つの要請がいっしょになり、科学の進歩の合理性、すなわち真理らしさ(verisimilitude)の増大を保証するのである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P5章 心身問題についての歴史的批評、43――われわれの宇宙像の歴史(上)pp.231-232、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:真理らしさ)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道徳や倫理的規準と、ルールと原理

【道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。

参照: 論証における原理の作用の特徴:(a)特定の決定を必然的に導くことはない、(b)論証を一定方向へ導く根拠を提供する、(c)互いに逆方向の論証へと導くような諸原理が、相互に作用しあう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
参照: 見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「確かに道徳的な人間は、嘘をつくか約束を破るかを選択しなければならない場合、困難な状況に置かれることになるだろう。だからといって、当該問題に関し衝突するに到った両者をルールとして彼が容認していたことにはならない。単に彼は嘘言と約束違反を両者とも原則として不正なものとみなしたにすぎない、と考えられるのである。
 もちろん我々は、彼が置かれている状況を二つの倫理的規準のいずれかを選択せざるを得ない状況として記述し、たとえ彼自身は当該状況をこのように表現しなくとも我々はこれを正しい記述と考えるかもしれない。しかしむしろこの場合、既に私が使用した区別を用いれば、彼は競合する二つのルールではなく、二つの原理について解決を見出すように迫られていると考えるべきなのである。何故ならば、この法が彼の状況をより正確な仕方で記述していると考えられるからである。彼はいかなる倫理的考慮もそれ自体では圧倒的に優勢な効力をもちえないこと、そしてある行為を禁ずるいかなる根拠も状況によってはこれと競合する別の考慮に屈せざるをえないことを認めている。それ故、彼の倫理的実践を社会規準のコードを用いて説明しようとする哲学者や社会学者は、彼にとり道徳がルールの問題ではなく原理の問題であることを認めざるをえないのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,5 法準則は本当に原理とは別のものか,木鐸社(2003),p.86,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:道徳,倫理的規準,ルール,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。役者によって語られる場合、詩の中で語られる場合、独り言として語られる場合等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

言語褪化の理論

【行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。役者によって語られる場合、詩の中で語られる場合、独り言として語られる場合等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

 行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つことがある。この場合、発言は特殊な状況において、大きくその相貌を変化させ、発言は実質のないものとなったり、無効なものとなったりする。これらは「言語褪化の理論」と呼ばれるものの中で、論じられる。
(a)発言が、舞台の上で役者によって語られる。
(b)発言が、詩の中で用いられる。
(c)発言が、独り言の中で述べられる。

(再掲)

(A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
 行為は企図されたが、慣習的な手続きが存在せず、行為は許されず無効である。
(慣習存在せず・誤発動・不発)
(A・2)発言者、状況の手続的適合性
 行為は企図されたが、発言者、状況が不適合のため、行為は許されず無効である。
(誤適用・誤発動・不発)
(B・1)手続きの適正な実行
 行為は企図されたが、手続きが適正に実行されず、行為は実効を失い無効である。
(欠陥手続き・誤執行・不発)
(B・2)完全な実行
 行為は企図されたが、手続きが完全に実行されず、行為は実効を失い無効である。
(障害あり・誤執行・不発)
(Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
 発言者の考え、感情、参与者の意図に適合性がなく、言葉だけで実質がない。
(不誠実・濫用)
(Γ・2)参与者の行為の適合性
 参与者の行為に適合性がなく、実質がない。
(行為不適合・濫用)

 「第二に、他方、問題の行為遂行的発言は、まさに《発言》であるが故に《すべての》発言を汚染する別種の災禍を《もまた》被ることになる。そして、この災禍についても同様に、より一般的な説明が存在するかもしれない。しかし、われわれは当面、意図的にこの問題に立ち入ることを避けておきたい。この災禍という語で、私は、たとえば、次のようなことを考えているのである。すなわち、ある種の遂行的発言は、たとえば、舞台の上で役者によって語られたり、詩の中で用いられたり、独り言の中で述べられたりしたときに、《独特の仕方で》実質のないものとなったり、あるいは、無効なものとなったりするというような種類のことがらである。このことはおよそ発言といえるもののすべてについて同様な意味で妥当する。すなわち、発言はそれぞれの特殊な状況においては大きくその相貌を変化させるのである。そのような状況において言語は、独特な仕方で――すなわち、それとわかるような仕方で――、まじめにではなく、しかし正常の用法に《寄生》する仕方で使用されている。この種の仕方は言語《褪化》(etiolation of the language)の理論というべきものの範囲の中で扱われる種類のものであろう。われわれは、これらのすべてを一応考察の対象から除外する。われわれの遂行的発言とは、それが適切なものであれ、不適切なものであれ、すべて通常の状況で行なわれたものであると理解することにしたい。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,pp.37-38,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:言語褪化の理論,行為遂行的発言の不適切性の理論)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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