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2022年2月6日日曜日

外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志に関する諸問題

外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)外的世界、他者、自己に関する事実
 重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。
 (a)基本的な想定
   (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。


(2)外的世界
 人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か。
 (a)外的世界が必要との主張
  例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。
 (b)内なる砦への退避
  ストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。

(3)どこまでが私の意志なのか
 事物と非合理的な生物から成る 外的世界と、主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのか。

(4)目的とは何なのか
 一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか。
 (a)客観的な目的があるとの主張
  ある者は、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張した。
 (b)目的は主観的であるとの主張
  目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されている。
 (c)目的はいかに知られるのか
  この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあるもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの か。




「つまり重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去するという結論である。哲学者(そして神学 者、劇作家、詩人)は、それぞれ人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か、そのような一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか、そして事物と非合理的な生物から成る 外的世界と主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのかについて、大きく意見を異 にしている。ある思想家は、本性の達成はこの地上において可能である(あるいはかつて可能 であったか、いつの日にかは可能であろう)と考え、また他の思想家は可能ではないと考え た。あるものは、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張したが、この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推 論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあ るもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの かについては、意見が異なっていた。また他のものは、その目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されていると信じていた。さらにいえ ば、例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば――人がいわばトロイ最後の王 プリアモスの不運に苦しめられるならば――、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。それにたいしてストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。彼らはさらにこれに加えて、意識的に独立と自立を求める人々、つまり 自分には支配できない外的な力の《おもちゃ》になることからの逃避を求める人々には、誰で も原則としてこの自己達成に必要な距離をおくことができるという、客観的な信念を抱いてい た。これらすべての見解に共通する想定として、次の点を挙げることができよう。  (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。そしてそ の知識は自動的に、暗闇でつまずかないように、そして所与の事実――事物と人の本性、それを 支配する法則――からして失敗を運命づけられている方針に努力を浪費しないですむようにして くれる。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.255-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

真の自由とは何か

真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)麻薬、催眠術
 自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である。行動主体がどのような説明や正当化を試 みるかにはかかわりなく、何か隠された心理的、生理的条件によって自分には統制できない力の手中に握られていれば、自由ではない。

(2)根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶
 人間の行動が方向を誤った感情、例えば、存在していないものに対する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪などを原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。
(3)合理化、イデオロギー
 合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、あるいは真の根源を無視ないし誤解している偽りの行動の説明である。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。

(4)意識的な意図と動機、目的
 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるのかが問題である。ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。



「この理論によると、人間の行動が方向を誤った感情――例えば、存在していないものにたい する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪など――を原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。この見解では、合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、ある いはそれを無視ないし誤解している偽りの行動の説明ということになるであろう。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。したがって 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるか、逆にいえば、同じ効果、つまり(行動主体がどのような説明ないし正当化を試 みるかにかかわりなく)選択の結果であるかのように装って同じ行動を生み出すとしても、ど の程度まで何か隠された心理的、生理的条件によっていないかによって、人間は自由である。 ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。つまり、このような意 図と目的を持っていることが、彼の行動の充分条件ではないが、必要条件であるといってよい 場合である。自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である――彼が自分の行動をどう説明しようと、彼の表面の明白な動機と方針がいかに変化 しようとも、その事実には変わりはない。彼がどのような理由を挙げるにせよ、彼の行動が明 白に同じと予言できる時には、彼は自分には統制できない力の手中に握られており、したがっ て自由でないと、われわれは考える。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.256-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月2日水曜日

無限の彼方にある目標は、目標ではないのです。目標はもっと近いものでなければなりません、少なくとも労働者の労働の報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

現実の真の目標

無限の彼方にある目標は、目標ではないのです。目標はもっと近いものでなければなりません、少なくとも労働者の労働の報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))















「さらに、「進歩」を語ったり、現在を未来への犠牲にしたり、遠い未来の子孫たちが幸福 であり得るために今日の人々を苦しめる用意をしている人々がいる。そして、彼らは野蛮な犯 罪や人間の堕落をそれがある保障された未来の幸福に向けての不可避的方途であるからといっ て許している。反動的ヘーゲル派や革命的共産主義者たち、純理的功利主義者たちと教皇至上 主義の熱狂的信者たち、および高貴だが遠い将来の目的の名において嫌悪すべき方法を正当化 するすべての人々のまさに等しくわかちもつこのような態度をゲルツェンはもっとも激しく軽 蔑し、嘲笑した。彼は一八四八年のうちくだかれた幻想への挽歌として書いた彼の政治的信条 告白(profession de foi)――『向こう岸から』の最も多くのページをこの問題 に捧げている。  『もし進歩がその目標ならば、われわれは一体誰のために働いているのでしょうか? 勤勉 な労働者たちが近づいてきた時に、彼らに褒美を与えるかわりにあとずさりして、「われら死 せんとする者君に礼す(morituri te salutant)」と叫びながら疲れ果てて死ぬ 運命にある群衆への慰めとして、お前たちの死んだあとの地上はすべてが素晴らしくなるのだ と嘲笑的に答えることしかせぬこのモロク神は、いったい誰なのでしょうか? はたしてあな たは現在生きている人びとに、いつかその上で他人が踊りを踊る床を支えている女神像柱とい う悲しい役割......あるいは膝まで泥につかりながら、「未来の進歩」というあわれな言葉をその 旗に書いた《はしけ》を曳く不幸な船漕ぎ奴隷たちの悲しい役割を与えることを、ほんとうに 望んでいるのでしょうか? ......無限の彼方にある目標は、目標ではないのです、単なる......まや かしにすぎません。目標はもっと近いものでなければなりません――少なくとも労働者の労働の 報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。そして、その途中 で新しい要求や、新しい経験や、新しい方法が発達するのです。......  それぞれの世代の目的は、それ自身です。自然は決してある世代をある未来の目標を達成す るための手段として作るのでもなければ、未来について配慮しているわけでもありませ ん。』」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.220-222,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

バーリン選集1 思想と思想家 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド

アイザイア・バーリン
(1909-1997)





社会の真の現実の構成分子である個人は、真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって、何か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印によって犠牲とされてきた。すべては狂った知性の 結果である。歴史、進歩、国民の安全、社会的平等、社会、国民、人間性など。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

狂った知性による想像上の利益

社会の真の現実の構成分子である個人は、真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって、何か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印によって犠牲とされてきた。すべては狂った知性の 結果である。歴史、進歩、国民の安全、社会的平等、社会、国民、人間性など。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))















「これらの公式は、狂信的な空論家たちの手中にあっては恐るべき武器になってゆくのであ る。彼らはなにか絶対的な理想のために、もし必要ならば狂暴な生体解剖も辞せずにこれらの 公式を人間に押しつけようとしている。その絶対的理想の証明は批判もなされず、また批判も できない――形而上的で、宗教的で、美学的で、いずれにせよ現実の人間の現実的な必要に無関 係なある種の世界観に依拠している。その世界観の名において、革命的指導者たちは良心に苦 痛を感ぜずに人を殺し、拷問する。なぜなら、彼らはこの絶対的理想が、またはこの絶対的理 想のみが、社会的、政治的、個人的なあらゆる病の解決をもたらすか、またはもたらすに違い ないと考えていたからである。そして、ゲルツェンはこのテーゼを、大衆は才人を嫌い、すべ ての人間が彼らと同じように考えることを望み、また、思想や行動の独立にひどく懐疑的であ ると指摘して、トックヴィルやその他の民主主義の批判者たちによってわれわれが知っている 線にそって批判を発展させている。  『社会、国民、人間性、思想への個人の従属は、人身供養の継続です。......無実の者を有罪者 の代わりにはりつけ刑にすることです。......社会の真の現実の構成分子である個人は、常になに か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印、その他の犠牲とされてきました。何の目的で の......犠牲なのか、決して問われることはなかったのです。』  これらの抽象語――歴史、進歩、国民の安全、社会的平等――は注目に値する。なぜならそれら はすべて無実の人々が仮借なく犠牲に供されてきた非情な祭壇だからである。ゲルツェンはそ れらを順次検討する。  もし、歴史がゆるぎない方向性と合理的構造とひとつの目的(多分、有益な目的)を持って いるならば、われわれはそれらに合わせるか、あるいは逆らって滅びなければならない。しか し、この合理的目的とは何か。ゲルツェンはそれを認識できない。彼は歴史のなかに意味を見 ず、ただ「代々の慢性的狂気の」物語を見るだけである。  『事例を引用することは必要ないように思われます。数百万の例があるからです。あなたの お好きな歴史書をひもといてみなさい。すると驚くべきことには......真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって占められています。血が流されたり、人々がひどい苦難を負 わされた理由を見つめなさい。何が称賛され、何が罰せられるかを見つめなさい。そうすれば あなたは、最初は悲しく見え、思い直せば慰めに充ちている真理――すべてこれは狂った知性の 結果であるという確信をもつでしょう。古代世界を見る時、あなたはいたるところで、現代に おけるのとほとんど同じように狂気がくりひろげられているのを見出すでしょう。』」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.216-217,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




自然は計画に従わない。また、個人あるいは社会の問題を解決できる公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的な目標は決して真の目標ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値であり、一般的な目標のための抑圧は誤りである。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

一般的、普遍的なものは現実ではない

自然は計画に従わない。また、個人あるいは社会の問題を解決できる公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的な目標は決して真の目標ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値であり、一般的な目標のための抑圧は誤りである。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

















(a)自然は計画に従わない。
 自然は計画に従わない。原則として個人あるいは社会の問題を解決できる鍵はひとつもないし、公式もない。
(b)一般的な解決は解決ではない。
 単純化や一般化は経験の代用品ではない。
(c)普遍的な目標は決して真の目標ではない。
 すべての時代がそれ自身の性格と自己の課題をもってい る。
(d) 絶対的価値としての個人の自由
 特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値である。自由な行為のための最小限度の余地をもつことは、すべての人々にとっての道徳的必要であり、それらは永遠の救済とか歴史とか人間性とか進歩とか、ましてや、国家とか 教会とかプロレタリアートなどといった抽象語もしくは一般的な原理の名において抑圧されるべきでない。


「この偉大な専制的ヴィジョン――時代の知的栄光――はドイツの形而上学的天才によって顕さ れ、礼賛され、無数の比喩や言葉のあやで美化され、フランス、イタリア、ロシアの深遠で、 もっとも尊敬された思想家たちによって喝采された。しかし、ゲルツェンはこれに対して激し く反逆した。彼はその基本的諸理念を拒否し、その結論を否定した。その理由は、それが彼に とって(彼の友人のベリンスキーにとってもそうであったように)道徳的に我慢ならないとい うだけでなく、それが知的な見かけだおしであり、審美的にけばけばしく、また自然をドイツ の俗物たちや学者ぶる連中の貧弱きわまりない空想の拘束用上着に無理におしこむ試みと思わ れたからであった。「フランスおよびイタリアからの手紙」『向こう岸から』「古い同志への 手紙」のなかで、ミシュレ、W・リントン、マッツィーニへの公開書簡のなかで、もちろん 『過去と思索』を通じて、彼は彼自身の倫理的および哲学的信念を宣伝した。それらのなかで もっとも重要なことは次のことである。自然は計画に従わない。原則として個人あるいは社会 の問題を解決できる鍵はひとつもないし、公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的 な目標は決して真の目標ではない。すべての時代がそれ自身の性格と自己の課題をもってい る。単純化や一般化は経験の代用品ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対 的な価値である。自由な行為のための最小限度の余地をもつことはすべての人々にとっての道 徳的必要であり、それらは永遠の救済とか歴史とか人間性とか進歩とか、ましてや、国家とか 教会とかプロレタリアートなどといった抽象語もしくは一般的な原理の名において抑圧される べきでない。現代あるいは他のあらゆる時代において偉大な思想家たちによってかくも自由に 言いふらされたこれらの偉大な名目は、憎むべき残酷さや専制主義の諸行為を正当化するため にもち出されたものであり人間の感情や良心の声を窒息させるようにもくろまれた魔術的なき まり文句なのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.211-212,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




どんな知識でも、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらし得るものではない。フランス啓蒙主義の指導者たちの科学への素朴な楽観主義に対して、モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、 人間の能力の限界にたいする鋭い感覚は、今日非常に有益である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

モンテスキューの思想の意義

どんな知識でも、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらし得るものではない。フランス啓蒙主義の指導者たちの科学への素朴な楽観主義に対して、モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、 人間の能力の限界にたいする鋭い感覚は、今日非常に有益である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)無知、蒙昧、野蛮、愚昧、真実の隠蔽、冷笑、人権の無視に対する闘い
 フランス啓蒙主義の指導者たち、科学を広めた偉大な人たちは、あらゆる種類の無知と蒙昧、とくに、野蛮、愚昧、 真実の隠蔽、冷笑、人権の無視にたいして公然の戦いをいどみ、人類に大きな貢献をしてき た。

(2)科学への素朴な楽観主義とその誤り
 どんな知識でも、技能でも、論理力で も、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらしうるものではないという事実 を、モンテスキューが非常にはっきりとみてとっていた。
 人間と社会に対する不十分な理論の典型的な考え方は、次のようなものだ。
 (a)人間についての科学
  事物の運動にかんする科学があるように、人間の行動にかんする 科学もありうるはずだ。
 (b)科学的方法への楽観主義
  科学の諸原理をつ かんだ者は誰でも、それを適用することにより、彼らが一致して目指していた全ての目標を 実現することができる。
 (c)統一的、一元主義的な世界観
  真理、正義、幸福、自由、知識、徳性、繁栄、 肉体的力と精神的力は、コンドルセが言ったように、互いに「ひとつの分かちがたい鎖 に」つながっている。少なくとも、互いに矛盾するものではない、そして社会生活 について新たに発見された科学的真理の絶対確実な諸原理に一致するよう社会を変えたなら、 これらすべての目標を実現することができる。
 (d)フランス革命の失敗の原因
  (i)理解不足か?
   新しい原理が正確に理解されていなかったか、その適用 が不十分であったかのいずれかだったからだ。
  (ii) 社会的、経済的原因か?
   別の原理が問 題解決の真の鍵である。例えば、ジャコバン派の純粋に政治的な解決は、問題を過度に単純化 しすぎている点が致命的であり、社会的経済的原因がもっと考慮されるべきであった。
  (iii)他の原理か?
   科学的解決を信じる人々は、何か他のもの、例えば階級闘争とか、コント的進化の原理とか、他のある種の本質的要素が無視されたのが理由であると考えた。

(3)モンテスキューの思想
 (a)用心深い経験主義
 「物事の結果のほとんどは、あまりにも不思議な方法で生じたり、知覚できない、遠い原因によっていたりするので、それをあらか じめ見通すことは、ほとんど無理である」。
 (b)法律を普遍的に適用することへの不信
  人々の「性向や性 癖」に最もよく適した政体が最良である。
 (c)人間の能力の限界に対する鋭い感覚
  我々にできることはただ、その目的が 何であれ、人間をできるだけ失望させないよう努力することである。
 (d)「恐るべき単純化をする人々」は知的に明晰であり道徳的に心が純潔であるからこそ、この誤りに陥ったように思われる。


「今日、明らかとなり、とくに有益と思えるのは、どんな知識でも、技能でも、論理力で も、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらしうるものではないという事実 を、モンテスキューが非常にはっきりとみてとっていたことである。フランス啓蒙主義の指導 者たち、科学を広めた偉大なひとたちは、あらゆる種類の無知と蒙昧、とくに、野蛮、愚昧、 真実の隠蔽、冷笑、人権の無視にたいして公然の戦いをいどみ、人類に大きな貢献をしてき た。彼らの自由と正義のための戦いは、彼らが自分たちの教義を完全には理解していない時でさえも、非常に多くのひとびとが、今日そのおかげで生きてゆけ、自由でいられるひとつの伝 統をつくりあげた。これら指導者たちの大多数(彼らの告発の論拠はそれほど反駁の余地のな いものであったが)はまた、事物の運動にかんする科学があるように、人間の行動にかんする 科学もありうるはずだ、と信じていた。そして、この人間の行動についての科学の諸原理をつ かんだ者は誰でも、それを適用することにより、彼らが一致して目指していたすべての目標を 実現することができる、これらすべての目標――真理、正義、幸福、自由、知識、徳性、繁栄、 肉体的力と精神的力――は、コンドルセが言ったように、たがいに「ひとつの分かちがたい鎖 に」つながっている、あるいはすくなくとも、互いに矛盾するものではない、そして社会生活 について新たに発見された科学的真理の絶対確実な諸原理に一致するよう社会を変えたなら、 これらすべての目標を実現することができる、と信じていた。  フランス大革命が、一夜にしてひとびとを幸福にそして有徳にすることができなかった時、 革命を支持した者の中には、それは、新しい原理が正確に理解されていなかったか、その適用 が不十分であったかのいずれだったからだと主張したり、これらの原理ではなく別の原理が問 題解決の真の鍵である、例えば、ジャコバン派の純粋に政治的な解決は、問題を過度に単純化 しすぎている点が致命的であり、社会的経済的原因がもっと考慮されるべきであった、と主張 したりする者もいた。一八四八年から四九年にかけて、これらの要素が十分考慮され、それで もやはり、結果は満足すべきでなかった時、科学的解決を信じるひとびとは、何か他のもの―― 例えば階級闘争とか、コント的進化の原理とか、他のある種の本質的要素――が無視されたから だと断言した。モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、 人間の能力の限界にたいする鋭い感覚といったものが、敢然と立ち向かっていくのは、まさに この種の「恐るべき単純化をするひとびと」にたいしてであって、彼らが知的に明晰であり、 道徳的に心が純潔であるからこそ、人間の行動にかんして彼らが想定した科学によって祭壇に 供えられた巨大な抽象の名において、彼らはますます容易に人類を幾度となく犠牲に供したよ うに思われたのである。もし、急進的な改革や反乱や革命が主張されるとすれば、それは、社 会体制のもたらす不正があまりにもたえがたきものとなり、それにたいして「自然が反対の叫 びをあげる」時である。しかしこうしたなりゆきは、つねに危険を伴うし、社会的結果を計算 にいれた絶対確実な方法により、物質的にも精神的にも安全を保証してもらうわけには決して いかない。人類の歴史は、とりわけフランスにおいて幾多の高邁な思想家たちを深く魅了した ような単純な法則によって影響されうるものではない。「物事の結果のほとんどは、あまりに も不思議な方法で生じたり、知覚できない、遠い原因によっていたりするので、それをあらか じめ見通すことはほとんど無理である」。だから、われわれにできることはただ、その目的が 何であれ、人間をできるだけ失望させないよう努力することである。ひとびとの「性向や性 癖」に最もよく適した政体が最良である。立法に際しては、なによりも、何がどういう結果を もたらすかについての判断が必要であり、この判断力は、経験もしくは歴史によってのみみが くことができる。なぜなら、法律と、人間性および人間の意識と相互作用をもつ人間の諸制度 との関係は、きわめて複雑であって、単純で小ぎれいな体系でははかり切れないからである。 時代を無視した規則をきびしく押しつければ、結果はつねに流血に終わるものである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『モンテスキュー』,収録書籍名『思想と思想家  バーリン選集1』,pp.195-198,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),三辺博之(訳)) 

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月31日月曜日

価値の一元主義的信念は誤りであるだけでなく、熱狂主義、強制、迫害を正当化しやすい。価値多元主義が現実の真実である。マキアヴェッリの所説の意義は、この真実を示したことにある。価値多元主義は、経験主義、寛容、妥協へ の道の拓く。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

マキアヴェッリの所説の意義

価値の一元主義的信念は誤りであるだけでなく、熱狂主義、強制、迫害を正当化しやすい。価値多元主義が現実の真実である。マキアヴェッリの所説の意義は、この真実を示したことにある。価値多元主義は、経験主義、寛容、妥協へ の道の拓く。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)一元主義的信念は熱狂主義、強制、迫害を正当化する
 一つの理想が真の目的 である限り、常にいかなる手段も困難すぎることはなく、いかなる犠牲も高すぎることはない ように思われ、人間は究極的目的の実現のために必要なあらゆることをすると考えられる。
(b)以下のような一元主義的信念は誤り
 (i)われわれの病弊に対する最終的回答があり、それに至る道があるはずだ。
 (ii)われわれの信念や習慣の形作る断片 ははめ絵の一片であり、従ってそれは原則的に解決可能である。
 (iii)全ての利益の調和が実現する回答を発見するのに成功していないのは、技 術が乏しいか、愚かであるか、不運であるためである。
(c)価値多元主義が現実の真実である
 (i)全ての価値が互い一致することなく、それぞれの価値のあるがままの姿に基づいて選択しなければならない。
 (ii)ある生活を 信ずるが故にそうした生活様式を選び、またそれを当然と考えるが故に、あるいは吟味の結果、われわれは他の形の生き方をする道徳的心構えができていないことがわかったが故にこうした生き方を選ぶとしよう。 
(d)経験主義、寛容、妥協へ の道
 同じような独断的信仰が和解できないこと、一方の他 方に対する完全な勝利が実際上あり得ない。


「マキアヴェッリ以後、全ての一元主義的思想建築物は疑いの目をのがれることはできなく なった。どこかに隠れた宝――われわれの病弊に対する最終的回答――があり、それに至る道があ るはずだ(それというのも、こうした答は原則として発見可能であるはずであるから)といっ た確実性の意識、それと違ったイメージを用いていえば、われわれの信念や習慣の形作る断片 ははめ絵の一片であり、従ってそれは原則的に解決可能であり(そのことはア・プリオリに保 証されているので)、全ての利益の調和が実現する回答を発見するのに成功していないのは技 術が乏しいか、愚かであるか、不運であるためであるという信念、こうした西欧政治思想の基 本的な信念は激しく動揺するに至った。確実性を求める時代にあって、『君主論』と『論考』 を説明しよう、あるいは釈明しようとする無限の試み――それはかつてよりも今日の方が多い―― が確かに見られるが、その理由はこれで十分説明されるであろう。  これはマキアヴェッリの所説に含まれる消極的な帰結である。しかし実は積極的帰結、マキ アヴェッリを驚かせ、恐らく不愉快にする積極的帰結も存在している。一つの理想が真の目的 である限り、常にいかなる手段も困難すぎることはなく、いかなる犠牲も高すぎることはない ように思われ、人間は究極的目的の実現のために必要なあらゆることをすると考えられる。こ うした確実性の意識こそ、熱狂主義、強制、迫害を正当化するのに与かって力のあるものの一 つである。しかももし全ての価値が互い一致することなく、それぞれの価値のあるがままの姿に基づいて選択しなければならず、ある価値を選ぶのはそれがある単一の基準との関連でより 高次のものとされるからではなく、そのあるがままの姿の故であるとしよう。またある生活を 信ずるが故にそうした生活様式を選び、またそれを当然と考えるが故に、あるいは吟味の結 果、われわれは他の形の生き方をする道徳的心構えができていないことがわかった(他の人々 は違った選択をするとしても)が故にこうした生き方を選ぶとしよう。合理性や計算が適用さ れうるのは手段や従属的目的についてであって、決して究極目的についてではない、としよ う。ここの現れてくるのは、人間にとって唯一の善があるという古い原理の下に構築された世 界とは全く違った世界である。  もしパズルの答えが一つだけしかないならば、そこで問題になるのは、第一にそれをどのよ うにして見い出し、次にどのような形で実現し、最後に説得や力によっていかに他の人々がそ の答えを信奉するようにするか、だけである。しかしもしパズルの答えが一つでないならば (マキアヴェッリは二つの生き方を対比したが、しかし狂信的一元主義者を除けば、二つ以上 の生き方があり得るし、かつあることは明らかである)、経験主義、多元主義、寛容、妥協へ の道が開かれる。寛容は歴史的に見て、同じような独断的信仰が和解できないこと、一方の他 方に対する完全な勝利が実際上あり得ないことが意識された結果として生じた。生き延びよう と欲する人々は誤りを寛容しなければならないことを知った。彼らは徐々に多様性に価値を認 めるようになり、人間の世界の事柄について確定的な解決があるという立場に対して懐疑的と なった。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『マキアヴェッリの独創性』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.81-83,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),佐々木毅 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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