2018年1月15日月曜日

情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念と身体

【情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「しかも、精神がその情念を速やかに変えたり止めたりできない特殊な理由がある。そのゆえにわたしは上述の情念の定義において、情念が精気のある特殊な運動によって、生じるだけでなく、維持され強められる、としたのだ。その理由はこうである。情念はほぼすべて、心臓のうちに、したがってまた血液全体と精気のうちに、なんらかの興奮の生起をともなっており、そのために、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。感覚対象がわたしたちの感覚器官に働きかけている間は、その対象がわたしたちの思考に現前しているのと同じである。そして、精神は、何か他のことに大きく注意を向けることで、小さな音を聞かなかったり、小さな痛みを感じなかったりはできるが、同じやり方で雷の音を聞かなかったり、手を焼く火を感じなかったりはできない。これと同様に、精神はほんの小さな情念はたやすく抑えるが、きわめて激しい強大な情念は、血液と精気の興奮が鎮まるまで、抑えることができない。この興奮が活性しているあいだ意志のなしうるのはせいぜい、この興奮の及ぼす結果に同意しないで、興奮が身体に促す運動のいくつかを制止することである。たとえば、怒りが、殴る手を振りあげさせるとき、意志はふつうこの手を制止することができる。また恐怖の情念が、脚を逃げるようにさせるとき、意志は脚をとどめることができる、など。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 四六、pp.43-44、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念)

情念論 (岩波文庫)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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意志の作用によって直接、情念を制御することはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に制御することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

意志と情念

【意志の作用によって直接、情念を制御することはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に制御することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「わたしたちの情念も、意志の作用によって直接的に引き起こしたり取り去ったりはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に、引き起こしたり取り去ったりできるのだ。たとえば、自分のうちに大胆さを引き起こし恐怖を取り去るためには、その意志を持つだけでは不十分である。危険が大きくないとか、逃げるよりも防ぐほうがつねに安全であるとか、勝てば誇りと喜びを得るだろうが逃げれば心残りと恥しか残らないとか、そう得心させる理由、対象、実例を、懸命に考える必要がある。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 四五、pp.42-43、[谷川多佳子・2008])

情念論 (岩波文庫)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月14日日曜日

精神の受動のひとつ、精神だけに関係づけられる知覚として、喜び、怒り、その他同種の感覚がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念とは何か?

【精神の受動のひとつ、精神だけに関係づけられる知覚として、喜び、怒り、その他同種の感覚がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「精神だけに関係づけられる知覚は、その効果が精神そのもののうちに感じられ、しかもその効果を関係づけうる最も近い原因が通常何も知られていない知覚である。これが、喜び、怒り、その他同種の感覚であり、時に神経を動かす対象によっても、また時に別の原因によっても、わたしたちのうちに引き起こされることがある。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二五、p.25、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念)

情念論 (岩波文庫)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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精神の受動のひとつ、身体によって起こる知覚として、意志によらない想像がある。夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想も、これである。これらは、飢え、渇き、痛みとは異なり、精神に関連づけられており、これらが情念である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

広義の情念

【精神の受動のひとつ、身体によって起こる知覚として、意志によらない想像がある。夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想も、これである。これらは、飢え、渇き、痛みとは異なり、精神に関連づけられており、これらが情念である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「身体によって起こる知覚は、大部分が神経に依存しているが、神経に依存しないものもいくらかあり、今述べたものと同じく想像とよばれる。しかし、その形成に意志が働いていないことで異なる。そのためこれらの知覚は、精神の能動のうちには数えられない。精気が、多様に動かされて脳内に先在するさまざまな刻印[印象]の痕跡にぶつかって、偶然的にある特定の孔を通ることによる。夢の中の幻覚や、目覚めていても思考がみずから何かに向かうことなく無頓着にさまようようなときによく起こる夢想も、これである。さて、これらの想像のうちのいくつかは、情念[受動]という語を最も本来的な固有の意味にとっても、精神の情念[受動]だし、この語をもっと一般的な意味にとってもすべて情念[受動]とよばれうる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二一、pp.22-23、[谷川多佳子・2008])
(索引:意志によらない想像、幻覚、夢想、情念)

情念論 (岩波文庫)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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精神の受動のひとつ、身体ないしその一部に関係づける知覚として、飢え、渇き、その他の自然的欲求、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自然的欲求

【精神の受動のひとつ、身体ないしその一部に関係づける知覚として、飢え、渇き、その他の自然的欲求、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「わたしたちが身体ないしその一部に関係づける知覚は、飢え、渇き、その他の自然的欲求についての知覚である。これに、わたしたちが外部の対象のなかではなくて、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様を加えることができる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二四、p.24、[谷川多佳子・2008])
(索引:飢え、渇き、自然的欲求、痛み、熱さ)

情念論 (岩波文庫)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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数学の定理を真に理解するには、その定理や証明の論理的骨組みだけではなく、その定理が意味する直感的概念や、創案者や証明者を導いた奥深い理由をも知る必要がある。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

数学を理解するとは?

【数学の定理を真に理解するには、その定理や証明の論理的骨組みだけではなく、その定理が意味する直感的概念や、創案者や証明者を導いた奥深い理由をも知る必要がある。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の定理を真に理解するには、その定理や証明の論理的骨組みだけではなく、その定理が意味する直感的概念や、創案者や証明者を導いた奥深い理由をも知る必要がある。これは例えば、将棋の勝負において次々に指される一連の指し手の全体を貫いている奥深い思い、あるいは、ある種の海綿の珪石からなる繊細な骨格を形づくった今はない生身の海綿、これらを理解することに譬えられる。
 「将棋の勝負の場に居合わせたとき、その勝負を理解するためには、駒の動きに関する規則を知っているだけでは十分ではない。そういう規則を知っていれば、それぞれの手を規則に従って指したのだということを認め得るようになるだけのことであって、それができたからといって、ほんとうのところ大した値打ちはない。ところが、数学の本を読む人が単なる論理型に過ぎないとすると、そういう読者のなすところは、まさに、いま言ったようなことに異ならないのである。勝負を理解するというのはこれとはまったくちがう。勝負を理解するというのは、将棋を指している人が、勝負の規則を破ることなしに駒を動かしてもよかりそうな手がほかにもあるのに、その手を使わないで駒を進めたのはどういうわけかを知ることなのである。それは次々に指される一連の手を全体として、一種の有機体ならしめるような奥深い理由を見てとることなのである。将棋を指す人自身、いいかえると創案者にとって、この能力が必要であるのはなおさらのことである。」
 「おそらくは、たとえ話を乱用すると思われるかもしれないが、もう一つだけたとえ話をすることを許されたい。読者はおそらく、ある種の海綿の骨格を形づくる珪石の針からなる、あの繊細な集落を見たことがあるだろう。有機物質が消えてなくなってしまうと、もろい優美な珪石しか残らない。なるほど、そこには珪石しかないには違いない。が、大切なのはこの珪石がもっている形である。われわれはこの形をまさにこの珪石に刻みつけた生身の海綿を知らなかったならば、この形を理解することはできない。先人たちのかつての直感的概念は、われわれがそれを棄て去ってしまったのちとはいえ、われわれがその代りに設置した論理的骨組みになおもその形を刻みつけているのである。このように全体を見渡すことが、創案者には必要なのである。これはまた創案者を真に理解しようと思う者にとっても同様に必要である。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学の価値』第1部、第1章、Ⅴ、pp.38-40、吉田洋一(訳))
(索引:海綿の珪石の喩え、将棋の指し手の喩え)

科学の価値 (岩波文庫 青 902-3)


アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

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我々の感覚は、三次元に制限されてはいるが、多次元幾何学においても、なお、感覚を用いて知性の助けとすることが可能である。解析の問題も、幾何学に引きなおすことによって、簡潔な表現を可能にし、進むべき道を発見させてくれる。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

多次元幾何学

【我々の感覚は、三次元に制限されてはいるが、多次元幾何学においても、なお、感覚を用いて知性の助けとすることが可能である。解析の問題も、幾何学に引きなおすことによって、簡潔な表現を可能にし、進むべき道を発見させてくれる。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 幾何学において我々の感覚が役だつ範囲は、三次元空間までに制限されてはいるが、これを超える多次元幾何学においても、なお、感覚を用いて知性を援助せしむることが大切である。たとえ像としては、もとより不完全ではあっても、可視空間を心にうかべることにより、複雑なことを理解せしめ、簡潔な表現を可能にし、進むべき道を発見せしめる点において、役にたつのである。例えば、解析の問題も、幾何学的の形に引きなおすことによって、解析の言語をもってしては冗長な文章で述べなければならないことを、きわめて簡潔な用語で表現できるようになる。
 「幾何学の大きな特長は、感覚が知性を援助して、進むべき道を発見せしめる点に正に存するのであって、多くの人々は解析の問題を幾何学的の形に引きなおすことを選ぶのである。不幸にして感覚の役だつ範囲はあまりひろくなく、ひとたび吾々が伝統的の三次元の外へ飛び出ようとすれば、感覚はたちまち吾々を見捨ててしまう。それでは、吾々は感覚が吾々を閉じ込めようと欲するように見えるこの狭い領域を出ずれば、もはや純粋解析のみにたよらなければならず、三次元以上の幾何学はすべて空虚にして対象なきものであるということになるのであろうか。吾々に先だつ時代に於ては、もっとも偉大な数学の巨匠も、「然り。」と答えたであろうが、吾々は今やこの概念によく親しんだので、大学の過程に於てすらこれについて語っても、何等過大な驚異を起こさしめないに至った。
 しかしながら、この多次元幾何学は何の役にたつであろうか、これは容易に解することができる。第一に、きわめて便利な言語を吾々に供して、通常の解析の言語を以ってしては冗長な文章で述べなければならないことを、きわめて簡潔な用語を以って言表すことを得しめる。その上、この言語は吾々をして相似たものを同じ名で呼ばしめ、類似を強調して、今後忘れることのできないようにしてしまう。なおまたこれにより、吾人は絶えず可視空間を心にうかべつつ、あまりに偉大に過ぎて我々の見るを得ない彼の高次空間に向かうことが可能になる。この可視空間は、高次空間の像としてはもとより不完全ではあるが、しかもその像たることには相違がない。この場合にもまた、前の例に於ける如く、複雑なことを理解せしめるものは単純なものとの類似にほかならないのである。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と方法』第1篇、第2章、pp.46-47、吉田洋一(訳))
(索引:多次元幾何学、可視空間、感覚、解析)

科学と方法―改訳 (岩波文庫 青 902-2)


アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

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幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

幾何学の公理

【幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。仮に、これらの公理が、カント Kant のいったように先天的総合判断であるのなら、公理は非常に強い力で我々を束縛するはずだから、我々はこれに反する命題を考えることも、またそういう命題に基づいて理論的な建築を作りあげることもできないに違いない。ロバチェフスキーの幾何学など、ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。ロバチェフスキーによれば、内角の和と二直角との差は三角形の面積に比例する。したがって、もし我々がもっと大きい三角形を取り扱うか、または我々の測定がもっと精密になったとしたらば、その差を実験的に検証できるかもしれない。もしそうなれば、逆にユークリッド幾何学は暫定的な幾何学に過ぎないということになる。
 「数学者の大多数はロバチェフスキーの幾何学を単なる論理上の遊戯としか見なさない。しかしながら数学者のうちにはもっとはるかに進んでいる人々もある。数ある幾何学が可能である以上、真の幾何学は我々の幾何学であるというのは確かだろうか。経験はもちろん三角形の内角の和は二直角に等しいと我々に教えてはいる。しかしそれはなぜかといえば我々が余り小さい三角形しか取り扱わないからである。ロバチェフスキーによれば、内角の和と二直角との差は三角形の面積に比例する。もし我々がもっと大きい三角形を取り扱うか、または我々の測定がもっと精密になったとしたらば、その差を感じ得るようにならないだろうか。そうなればユークリッド幾何学は暫定的な幾何学に過ぎないであろう。
 この説を論議するには、我々はまず幾何学の公理の本性がどんなものかを考えなければならない。
 これらの公理はカント Kant のいったように先天的総合判断であろうか。
 そうだとすると、これらの公理は非常に強い力で我々を束縛するから、我々はこれに反する命題を考えることも、またそういう命題に基づいて理論的な建築を作りあげることもできない。非ユークリッド幾何学というようなものは存在しないはずである。」(中略)
 「それでは幾何学の公理は実験的な真理であると結論すべきであろうか。しかし人は理想的な直線や円などについて実験することはない。ただ物質的な対象について実験し得るに過ぎない。」(中略)
 「だから幾何学の公理は先天的総合判断でもないし、実験的事実でもない。
 それは規約である。我々の選択はあらゆる可能な規約のうちから実験的事実に導かれて行ったのである。しかし選択にはなお自由の余地があって、矛盾は全然避けるという必要はあるが、それ以外には制限はない。公理の採用を決定した実験的法則が近似的なものに過ぎなくても、なお公理は依然として厳密に真であるということを失わないというのはこういうわけである。
 いいかえれば幾何学の公理(私は算術の公理については述べない)は扮装を着けた定義に過ぎない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第3章、pp.74-76、河野伊三郎(訳))
(索引:)

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数学的帰納法(もしくは、これと同等の公理)は、「任意の特定の正の整数について、必要ならいつでも具体的に推論を展開できる」という、理知の能力を肯定することにほかならない。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

数学的帰納法

【数学的帰納法(もしくは、これと同等の公理)は、「任意の特定の正の整数について、必要ならいつでも具体的に推論を展開できる」という、理知の能力を肯定することにほかならない。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学的帰納法について。「それではなぜこの判断が我々にとって争うことのできない自明なものとして服従を強制するのであろうか。それは一つの作用が一度可能だと認められさえすれば、その作用を際限なく繰り返して考えることができると信ずる理知の能力を肯定することにほかならないからである。理知はこの力については直接の直感を有していて、経験は理知にとっては直感を用い、従ってそれを意識する機会となるに過ぎない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、6、p.35、河野伊三郎(訳))
(索引:数学的帰納法、理知の能力)

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数学において「無限」の推論を支える公理は、経験により検証可能なものではない。そうかと言って、恣意的な規約とも思えず、自明なものとして服従を強制されているかのようである。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

無限とは何か?

【数学において「無限」の推論を支える公理は、経験により検証可能なものではない。そうかと言って、恣意的な規約とも思えず、自明なものとして服従を強制されているかのようである。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の定理に「無限」がかかわってくるときに、数学的帰納法(もしくは、これと同等の、正の整数のどんな集合のうちにも、集合中のほかのどれよりも小さい一数がいつでも存在という公理。)が必要になる。この数学的帰納法による証明は、我々が実際に無限の推論を展開できるわけではないという意味で、経験から真であることが知られるわけではない。またそれが、無限にかかわる限り、争うことのできない自明なものとして服従を強制されているように思われることから、任意に採否が決められる「規約」とも思えない。
 「もしある定理が1なる数について真であって、この定理が n なる数につき真であるかぎり、 n + 1 なる数についても真であることを証明したならば、この定理は正の整数すべてについて真であるとする「出直し法」による推理の根拠となる判断は別の形に直すことができる。たとえば相異なる正の整数の無限集合のうちには、集合中のほかのどれよりも小さい一数がいつでも存在するといえる。一つの命題から別の命題に容易に移れるところをみると、出直し法による推理の正当なことを証明したという幻想を抱く人もあるかもしれない。しかしいつでも途中で障害にあう、いつでも証明し得ない公理に到達する。そうしてこれは根本においては、証明すべき命題を別の言葉に翻訳したものにほかならない。
 だから出直し法による推理の規則は矛盾律に引き直し得ないというその結論からまぬかれることはできない。
 そのうえこの規則は経験から来たのでもない。経験が我々に教え得るのは、ある規則が例えば十までの数についてとか、百までの数についてとか真であるということで、経験は際限のない数の系列に追いつくことはできない。できるのは、ただこの系列のうちの、長くても短くてもとにかく必ず限られた一部分に過ぎない。
 ところでそれだけの話だとすれば、矛盾律だけで十分である。これによると我々はいつでも欲しいだけの三段論法を展開することができる。ところがただ一つの公式に無限のものを含ませる場合、ただ無限に対する場合だけこの原理は効果を失い、またその場合には経験も同様に無効になる。分析的な証明によっても、経験によっても捕えられないこの規則は先天的総合判断の真の典型である。しかもこれを幾何学の要請のあるもののように、一つの規約と認めようとするわけにもいかない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、6、pp.34-35、河野伊三郎(訳))
(索引:公理、先天的総合判断、無限、数学的帰納法、出直し法)


科学と仮説 (岩波文庫)





アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

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