幾何学の公理
【幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。仮に、これらの公理が、カント Kant のいったように先天的総合判断であるのなら、公理は非常に強い力で我々を束縛するはずだから、我々はこれに反する命題を考えることも、またそういう命題に基づいて理論的な建築を作りあげることもできないに違いない。ロバチェフスキーの幾何学など、ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。ロバチェフスキーによれば、内角の和と二直角との差は三角形の面積に比例する。したがって、もし我々がもっと大きい三角形を取り扱うか、または我々の測定がもっと精密になったとしたらば、その差を実験的に検証できるかもしれない。もしそうなれば、逆にユークリッド幾何学は暫定的な幾何学に過ぎないということになる。
「数学者の大多数はロバチェフスキーの幾何学を単なる論理上の遊戯としか見なさない。しかしながら数学者のうちにはもっとはるかに進んでいる人々もある。数ある幾何学が可能である以上、真の幾何学は我々の幾何学であるというのは確かだろうか。経験はもちろん三角形の内角の和は二直角に等しいと我々に教えてはいる。しかしそれはなぜかといえば我々が余り小さい三角形しか取り扱わないからである。ロバチェフスキーによれば、内角の和と二直角との差は三角形の面積に比例する。もし我々がもっと大きい三角形を取り扱うか、または我々の測定がもっと精密になったとしたらば、その差を感じ得るようにならないだろうか。そうなればユークリッド幾何学は暫定的な幾何学に過ぎないであろう。
この説を論議するには、我々はまず幾何学の公理の本性がどんなものかを考えなければならない。
これらの公理はカント Kant のいったように先天的総合判断であろうか。
そうだとすると、これらの公理は非常に強い力で我々を束縛するから、我々はこれに反する命題を考えることも、またそういう命題に基づいて理論的な建築を作りあげることもできない。非ユークリッド幾何学というようなものは存在しないはずである。」(中略)
「それでは幾何学の公理は実験的な真理であると結論すべきであろうか。しかし人は理想的な直線や円などについて実験することはない。ただ物質的な対象について実験し得るに過ぎない。」(中略)
「だから幾何学の公理は先天的総合判断でもないし、実験的事実でもない。
それは規約である。我々の選択はあらゆる可能な規約のうちから実験的事実に導かれて行ったのである。しかし選択にはなお自由の余地があって、矛盾は全然避けるという必要はあるが、それ以外には制限はない。公理の採用を決定した実験的法則が近似的なものに過ぎなくても、なお公理は依然として厳密に真であるということを失わないというのはこういうわけである。
いいかえれば幾何学の公理(私は算術の公理については述べない)は扮装を着けた定義に過ぎない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第3章、pp.74-76、河野伊三郎(訳))
(索引:)
(出典:wikipedia) |
アンリ・ポアンカレ(1854-1912)
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