2019年4月14日日曜日

真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言を超えるもの

【真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1)行為遂行的発言「私はそこに行くと約束する」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「約束する」という言葉を発することが、権利と義務を発生させるような慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、そこに行く意図を持っている。
  (ii)私は、そこに行くことが可能であると思っている。
  (iii)このとき、「私はそこに行くと約束する」は、この意味で「真」であるとも言い得る。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性
(2)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 「次の両者の間、すなわち、
(a)発言を行うことが何ごとかを行うことであるということ、と、
(b)その発言が真偽いずれかであるということ、
との間には必然的な対立は一切ない。その点に関して、たとえば、「私はあなたに、それが突きかかろうとしていると警告する」という発言をこれを比較されたい。ここでは、それが突きかかろうとしているということは、同時に警告であり、かつ、真偽のいずれかである。しかもこのことは、この警告の評価に際して、まったく同じ仕方でというわけにはいかないが陳述の評価の際のそれと同じ程度には問題になることである。
 一見したところ、「私は………と陳述する」は、「私は………と主張する」(このように言うことは、………と主張することにほかならない)や、「私はあなたに、………と伝達する」や、「私は………と証言する」等と本質的な点では一切相異しないように思われる。あるいは、これらの動詞の間の「本質的な」差異というようなものが将来確立されることになるかもしれない。しかし、いまのところこの方向で何ごとかがなされたということはない。
(2)さらに、そこで成立すると主張された第二番目の対照、すなわち、遂行的発言は適切か不適切かであり、陳述は真か偽かであるということを再びまた、明白に陳述であるとみなされるいわゆる事実確認的発言の側から考察してみるならば、われわれは直ちに陳述なるものにおいても、およそ遂行的発言に関して起こり得るあらゆる種類の不適切性がここでも起こり得るので《ある》ということを理解するであろう。ここで再び振り返って、陳述なるものは、われわれがたとえば警告などの場合において、「不適切性」と名づけた欠陥(disabilities)と正確に同一の欠陥を持つことがはたしてないものであるか否かを考察してみよう。ここでいう不適切性とは、発言の真偽のいずれともすることなくただ不適切なものとする、さまざまな欠陥のことにほかならない。
 われわれは、すでに、「猫がマットの上にいる」と言うこと、またそう陳述することが同時に、私がその猫がそのマットの上にいると信じていることを含意(imply)しているということの意味を明らかにした。この意味は、「私はそこに行くと約束する」が、私がそこに行く意図を持ち、かつまた、私がそこに行くことが可能であると思っているという二つのことを含意するということに対応する意味――あるいはそれと同じ意味である。したがって、この陳述は《不誠実》という形の不適切行為となり得る。また、猫がマットの上にいると言ったり陳述したりすることによって、これ以降、私は「マットは猫の下にある」と言ったり陳述したりしなければならなくなるということが起こるが、これはちょうど、(たとえば法令において用いられている場合のように)「私はXをYと定義する」という遂行的発言によって、私が将来その語をある特別の仕方で用いなければならなくなると同様であるという意味において、《違反》(breach)という形式の不適切行為ともなり得る。また、このことが約束などの行為といかに関係しているかを理解することも容易であろう。以上のことが意味していることは、陳述がまさにΓの種類に属する二種の不適切性を生み出し得るということである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.226-228,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:真偽値を持つ陳述,行為遂行的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

論理的に単一の法体系が存在するための条件

【論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3.1)に追記。
(3.3.3)追記。
(3.3.4)追記。

(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
   「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.1)「せざるを得ない」
  (a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
  (b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
  (c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
 (3.2)「責務を負っている」
  (a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
  (b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
  (c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。
 (3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
  社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
   (a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
   (b)ルールが存在することを拒否する。
   (c)この人々は、ルールに「服従」している。
   (d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含まれている必要がない。
   (e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
  (3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
   (a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
   (b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
  (3.3.3)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
   (a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社会。
   (b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
    「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
  (3.3.4)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
   (a)公機関
    法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱は義務からの違反として、批判される。
   (b)一般の私人
    これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

 「立法者が自分に権能を与えているルールと一致して行なうことを、裁判所が容認された究極の承認ルールを適用するときに行なうことを「服従」という言葉で記述しようとするとき、どうして誤解を生じるのかというと、それはルール(あるいは命令)に従うということは従う人の側の考え、つまり自分の行なうことは彼自身にとっても他人にとってもそうするのが正しいという考えが必ずしも含まれている《必要》がないからである。彼は自分の行なうことがその社会集団の他の人々にとっての行動の基準を実現することであると考える必要はない。彼はルールに従った自分の行動を「正しい」、「適切だ」、「義務である」と考える必要はないのである。言いかえれば、彼の態度は社会的ルールが容認され、行為の諸類型が一般的基準として扱われるときに常に見られる批判的な性格をもつ必要がないのである。彼はルールをその適用を受けるすべての人に対する基準として容認する内的視点を彼らとともにもっているかもしれないが、そうする必要はないのである。その代わりに、彼はそのルールが刑罰の威嚇によって《彼》にその行為を要求するものであるとしか考えていないかもしれない。彼は結果を恐れて、あるいは惰性からそのルールに服従するかもしれないのであって、そのとき彼は自分自身も他人もそうする責務があると考えていないのであり、また逸脱したからといって自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。しかしルールに対するこのような単なる個人的な関与の仕方は、すべての一般人がルールに従うときに見られるものである《かもしれない》が、それは裁判所を裁判所として活動させるルールに対する裁判所の態度を特徴づけることができないのである。このことは、他のルールの妥当性を評価する究極の承認のルールについて、もっとも明らかに当てはまる。究極の承認のルールがいやしくも存在するとすれば、それは内的視点から正しい判決の公的で共通な基準であるとみなされなければならないのであって、それぞれの裁判官が自分なりに従うにすぎないものであるとみなされてはならないのである。体系のそれぞれの裁判官は場合によっては、これらのルールから逸脱するかもしれないが、一般的には裁判所はそのような逸脱を基本的に公的であり共通のものである基準の違反として、批判的に関与しなければならない。これは単に法体系の効率ないし健全さの問題ではなく、論理的には単一の法体系があると言えるための必要条件である。単に何人かの裁判官が、議会における女王の制定するものが法であるということにかこつけて「自分のためにだけ」行動し、そしてこの承認のルールを尊重しない人々を批判しないならば、法体系の特徴ある統一性と継続性は失われるであろう。なぜならそれらはこの決定的な点において、法的妥当性の共通の基準の容認にもとづいているからである。裁判所の行動のこういった気まぐれさと、一般人が裁判所の矛盾した命令に出会ったときに生じる混乱との間で、われわれはその状況をどのように記述するのかと迷うであろう。われわれは《造化の戯れ》lusus naturae に直面しているのであり、それはあまりに明白なのでしばしば注目されないものについてのわれわれの意識を鋭くするという理由だけからも考察に値するのである。
 したがって、法体系の存在にとって必要で十分な二つの最低条件がある。一方において、その体系妥当性の究極的基準に一致して妥当しているこれらの行動のルールは、一般的に従われていなければならない。他方において、法的妥当性の基準を明記する承認のルールおよび変更のルールと裁判のルールは、公機関の活動に関する共通の公的基準として公機関によって有効に容認されていなければならない。第一の条件が私人が満たす《必要のある》唯一のものであって、彼らはそれぞれ「自分なりに」服従しているだろうし、またその服従の動機はどのようなものでもよいということである。しかし健全な社会では、彼らは実際それらのルールをしばしば行動の共通な基準として受けいれ、またそれらのルールに従う責務を認め、あるいはこの責務をたどっていって、憲法を尊重するというさらに一般的な責務に至ることさえあるのである。第二の条件は、体系の公機関によって満たされなければならない。彼らはこれらのルールを公機関の行動に関する共通の基準とみなし、そしてそれぞれ自分自身や他人の逸脱を違反として批判的に評価しなければならない。もちろん、これらのルールのほかに、単なる個人的な資格における公機関に適用される多くの第1次的ルールがあることもたしかであり、彼らはそれらに従うだけでよいのである。」(中略)「法体系を考察するもっとも実りのある方法であるとわれわれがのべた、第1次的ルールと第2次的ルールの結合があるところでは、ルールをその集団にとっての共通の基準として容認することは、一般人が自分なりにルールに従うことによってそのルールを黙って受けいれているという相対的に受動的な状態とは違ってくるだろう。極端な場合(「これが有効なルールだ」という)法的言語の特徴ある規範的使用を伴った内的視点は公機関の世界に限られるかもしれない。この一層複雑な体系においては、公機関だけが法の妥当性に関する体系の基準を容認し、用いるかもしれない。このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。しかし、そのような社会が存在しえないと考えたり、それを法体系と呼ぶのを拒否する理由はほとんどないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第2節 新しい諸問題,pp.125-127,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:せざるを得ない,責務を負っている,法体系)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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7.民主主義的な制度は、次の二つの感情を維持し強化し得るものであること。(a)個人の人格に対する配慮、(b)教養ある知性に対する敬意。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

個人の人格に対する配慮と教養ある知性に対する敬意

【民主主義的な制度は、次の二つの感情を維持し強化し得るものであること。(a)個人の人格に対する配慮、(b)教養ある知性に対する敬意。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1.3)追記。
(2.1)追記。
(3.2)追記。

(1)多数派が、政治的権力の担い手であることは、概して正しい。
  多数派による政治的権力の行使は、概して正しい。ただし、様々な少数派の意見を反映し得る制度が必要だ。思想の自由、個性的な性格、たとえ多数派に嫌悪を抱かせる道徳的・社会的要素も、保護されるべきである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 (1.1)ただし、このこと自体が正しいわけではない。
 (1.2)少数派による支配や、他のどのような状態よりも、不正の程度が低い。
 (1.3)多数派は、次の二つの感情を持つ必要がある。
  (a)個人の人格に対する配慮
  (b)教養ある知性に対する敬意
(2)多数派に、絶対的権力を与えることの弊害
 (2.1)どのような社会においても数の上での多数派は同じような社会的境遇のもとにあり、同じような偏見や情念や先入見を持っているだろう。
  (a)利益に根ざした偏見
   (a.1)自らの私的利益を追求することは、人間の生来の傾向である。
   (a.2)利己的な性向に自分が屈している時に、「これは義務であり、徳である」と、そうしていないかのように自分を納得させる。
  (b)階級利益に基づく階級道徳(これは、ベンサムが解明した)
   (b.1)ともに交流し合い共通の利害を持っている人々の集団が、その共通の利益を基準に、自分たちの道徳を形成している。
   (b.2)歴史において、もっとも英雄的で公平無私な行為と思われたものが、このような階級道徳に導かれている。

 (2.2)仮に、多数派に絶対的権力を与えるならば、多数派の偏見、情念、先入見の欠点を是正することができなくなる。その結果、人間の知的・道徳的性質をさらに改善することができなくなり、社会は不可避的に停滞、衰退、あるいは崩壊していくだろう。
(3)社会の中に、様々な少数派の人びとが存在することの必要性
 (3.1)少数派の存在が、多数派の偏見、情念、先入見を是正する契機にし得るような制度が必要である。
 (3.2)それは、思想の自由と個性的な性格の避難場所になり得ること。
  民主主義的な制度は、次の二つの感情を維持し強化できるようなものでなければならない。
   (a)個人の人格に対する配慮
   (b)教養ある知性に対する敬意
 (3.3)仮に、支配的権力が嫌悪の目で見るような道徳的・社会的要素であったとしても、それが消滅させられないよう、守られる必要がある。
 (3.4)かつて存在していた偉大な人のほとんどすべては、このような少数派であった。

 「これらのことを考慮すると、国王や貴族院を排除し普通選挙によって多数派を主権者の座に就かせることだけで満足せず、すべての公吏の首の周りを世論の軛で縛り上げる方法を工夫したり、少数派や公吏自身の正義についての考えかたがわずかでも、あるいはほんの一時であっても影響を与えるあらゆる可能性を排除するための方法を工夫したりするために、彼のあらゆる創意が傾けられていたときに、私たちはベンサムが自らの卓越した能力を用いてもっとも有用な仕事を成し遂げたと考えることはできない。

たしかに、何らかの力を最強の力とした時点で、その力のために十分なことをしたのである。

それ以降は、最強の力が他のすべてを併呑してしまわないようにするための配慮がむしろ必要となる。

社会におけるあらゆる力が一つの方向のみに向かって働いているときにはいつでも、個々の人間の権利は深刻な危機にさらされている。

多数派の力は《攻撃的》にではなく《防御的》に用いられているかぎり――すなわち、その行使が個人の人格に対する配慮と、教養ある知性に対する敬意によって和らげられているときには――有益なものである。

もしベンサムが、本質的に民主主義的な制度をこれら二つの感情を維持し強化するのにもっとも適したものにするための方策を明らかにすることに従事していたならば、彼はより永続的な価値があることや彼の卓越した知性によりふさわしいことを成し遂げていただろう。

モンテスキューが現代を知っていたならこのことを成し遂げただろう。私たちは、私たちの時代のモンテスキューであるド・トクヴィル氏からこのような恩恵を受け取ることになるだろう。

 それでは、私たちはベンサムの政治理論を無用のものと考えているのだろうか。そのようなことは断じてない。私たちはそれが一面的であると考えているだけである。

彼は完全な統治がもつべき理想的条件のうちのひとつ――受託者たちの利益と彼らに権力を信託している共同体の利益が一致すること――をはっきりと明るみにだし、無数の混乱と誤解を取り除き、それを発展させる最良の方法を見事なほど巧みに明らかにした。

この条件はその理想的完全の域には到達できないものであるうえに、他のあらゆる要件についても絶えず考えながら追求されなければならない。

しかし、他の要件を追求するためには、この条件を見失わないでいることがなおいっそう必要となる。この条件が他のものよりもわずかでも後回しにされるときには、その犠牲はしばしば不可欠なものであるけれども、つねに害悪を伴うことになる。

ベンサムは現代ヨーロッパ社会においてこの犠牲がいかに全面的なものになってきているかを明らかにし、そこでは一部の邪悪な利益が世論によってなされるような抑制を受けているのみで、支配的権力をどれほど独占しているかを明らかにした。

そして、世論はこのようにして現存の秩序においてつねに善の源泉であるように思われたので、彼は生来の偏見によってその内在的な優越性を誇張するようになった。

ベンサムは邪悪な利益を、あらゆる偽装を見破りながら、とりわけそれによって影響を受ける人々から隠蔽するための偽装を見破りながら探し出した。

普遍的な人間本性の哲学に対する彼の最大の貢献はおそらく彼が「利益に根ざした偏見(interest-begotten prejudice)」と呼んだもの――自らの私的利益を追求することを義務であり徳であるとみなす人間の生来の傾向――を例証したことだろう。

たしかに、この考えはけっしてベンサムに固有のものではなかった。利己的な性向に自分が屈している時にそうしていないかのように自分を納得させるずる賢さはあらゆる道徳論者の注意をひいてきたし、宗教的著述家は人間の心の深遠さや屈曲についてベンサムよりすぐれた知識をもっていたために、このことについてベンサムよりも深く調べていた。

しかし、ベンサムが例証したのは、階級利益の形をとった利己的な利害関心であり、それに基づいた階級道徳である。

彼が例証したのは、ともに交流しあい共通の利益をもっている人々の集団がその共通の利益を自分たちの徳の基準にしがちであることや、そこから歴史において頻繁に実証されているような、もっとも英雄的な公平無私ともっとも醜悪な階級利益との間の結びつきが生じてくるということである。

これがベンサムの主要な考えのひとつであったし、彼が歴史の解明に貢献したほとんど唯一のものであった。これによって説明されるものを除けば、歴史の大部分は彼にとってまったく不可解なものであった。

このような考えを彼に与えたのはエルヴェシウスであり、彼の著作『精神論』ではこの考えについて全体にわたってこの上なく鋭い解説がなされている。

この考えは、エルヴェシウスによる別の重要な考えである性格に対する環境の影響という考えとあいまって、他のすべての18世紀の哲学者が文学史の中にのみ名をとどめるようになるときにも、彼の名をルソーとともに後世に残すことになるだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.149-151,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:個人の人格に対する配慮,教養ある知性に対する敬意)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月13日土曜日

3.人間は全知全能ではあり得ず、必ず間違いや事故の可能性がある。従って、試行錯誤や、やり直しが許されないような技術は、廃棄すべきである。宇宙開発、化学物質の製造、遺伝子組換えも、同様の観点での検証が必要だ。(高木仁三郎(1938-2000))

やり直し可能性

【人間は全知全能ではあり得ず、必ず間違いや事故の可能性がある。従って、試行錯誤や、やり直しが許されないような技術は、廃棄すべきである。宇宙開発、化学物質の製造、遺伝子組換えも、同様の観点での検証が必要だ。(高木仁三郎(1938-2000))】

民主的な社会が、巨大事故を考慮して技術システムの選択を行なう場合、最低限どんなことを考えなくてはならないか。
(1)人間はそんなに全知全能ではあり得ない。すなわち、間違いや事故の可能性は、常に存在する。
(2)したがって、試行錯誤的に進んでいくしかない。すなわち、結果が不都合と出た場合は、修正をしていく。そのためには、
 (2.1)プロセスが公開されていること。
 (2.2)試行錯誤(やり直し)が常に十分に保障されることが、科学的に検証できること。
(3)したがって、試行錯誤が許されないような、壊滅的な事故の起こる可能性のある技術は、放棄する必要がある。
 (3.1)たとえば、ひとつの事故が、地上の生命と環境に長期的に修復不可能な全面的な損失をもたらすような可能性を否定できないような技術は、放棄する必要がある。
 (3.2)核技術以外にも、宇宙開発、化学物質の製造、遺伝子組換えでも、やり直し可能性の検証が必要な技術があり得るだろう。
 (3.3)仮にその技術が、我々の日常生活にさまざまな利便を与え、大きな産業につながるとしても、ある一部の国の人々に、そのような技術を維持する権利は存在しない。

 「民主的な社会が、巨大事故を考慮して技術システムの選択を行なう場合、最低限どんなことを考えなくてはならないだろうか。

私は人間はそんなに全知全能ではあり得ないから、試行錯誤的に進んでいくしかないと思う。

技術の選択はいつも絶対的であり得ず、ひとつの試行(トライアル)にすぎない。そして、その結果が不都合と出た場合は、常に修正が可能であるような、しかもそのようなプロセスが公開のもとに進行していけるような、そんなやり方が最も望ましいと思う。

 このやり方は、間違いや事故の可能性を封じるものではなく、むしろ我々は誤った選択の結果、被害を受けたり困難に直面したりするかもしれない。

そういう可能性は小さいに越したことはないが、ゼロにはできない。しかし、民主的な社会は結局、そういう試行錯誤で軌道修正しながら進んでいくしかないし、その選択の結果はお互いに耐えていくしかない。

 しかし、この時に、どうしても必要な条件がある。それは、他でもない、このような試行錯誤(やり直し)が常に十分に保障されるということである。

 そして、そのためには、破滅的な事故の起こる可能性のある技術は、放棄することが、どうしても必要な前提である。そのような技術では、試行錯誤が許されないからである。

 仮にその技術が我々の日常生活にさまざまな利便を与え、大きな産業につながるとしても、ひとつの事故が、地上の生命と環境に長期的に修復不可能な全面的な損失をもたらすような可能性を否定できないのであれば、やり直しができないわけだから、その技術は放棄すべきである。

そんな技術を維持する権利は、ある一国の人々、あるいは人類全体(そのある世代)にもないというべきであろう。」(中略)

 「核(核兵器・原発)については、その放棄は、ペロウと同じで私には当然のことと思えるが、その他の事柄については、最大限想定についての材料が私の手元に十分でない。

しかし、宇宙開発でも化学物質の製造遺伝子組換えでも、今後の技術の進展次第では、破滅を導く事故の可能性も考えられるのではないだろうか。

たとえば、地上の生物の遺伝的条件をすっかり変えてしまって、元に戻れないような遺伝物質の浸透が起こりうるとしたら、それは私の条件では放棄の対象となる。

 最低限、この「やり直し可能性」を条件とすることが、私の提案である。そして、この条件が十分に確かな科学的やり方で検証できることもどうしても必要である。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第九巻 市民科学者として生きるⅢ』巨大事故の時代 第九章 巨大事故をどうするか、pp.149-151)

(索引:試行錯誤,やり直し可能性,宇宙開発,化学物質の製造,遺伝子組換え)

市民科学者として生きる〈3〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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ニュース(原子力市民委員会)

第1次世界大戦までオスマン帝国内のクルディスタンにいたクルド人は、大戦後、トルコやイラン、イラク、シリアなどに分断され、各国の中では少数民族となった。彼らは、祖国を持たない世界最大の民族と呼ばれ、推定3000万人である。(池上彰(1950-))

クルド人

【第1次世界大戦までオスマン帝国内のクルディスタンにいたクルド人は、大戦後、トルコやイラン、イラク、シリアなどに分断され、各国の中では少数民族となった。彼らは、祖国を持たない世界最大の民族と呼ばれ、推定3000万人である。(池上彰(1950-))】

 「クルド人は、祖国を持たない世界最大の民族と呼ばれます。クルド語を話す民族で、推定で3000万人がいると見られています。
 第一次世界大戦までは、オスマン帝国内のクルディスタン(クルド人の土地)と呼ばれる地域にまとまって住んでいましたが、戦争でオスマン帝国が敗れると、トルコやイラン、イラク、シリアなどに分断されます。3000万人いても、それぞれの国の中では少数民族となり、差別されたり、抑圧されたりする状況が続き、各国で分離独立運動が活発になります。それがまた弾圧の引き金になるという悪循環でした。
 「クルドの友は山ばかり」という表現があります。独立を支援してくれる国はなく、山岳地帯で孤立感を深める民族を、こう呼んだのです。
 このうちイラクでは、フセイン政権時代、厳しい弾圧を受けていましたが、アメリカがイラクを攻撃する際には、米軍に協力。フセイン政権追い落としに力を発揮して、新政権の下では「クルド人自治区」を確立しました。現在では、イラクの中央政権の統治が及ばない、事実上の独立国の地位を確保しました。
 一方、トルコでは、人口の2割近くを占めますが、歴代のトルコ政府はクルド人の存在を認めず、クルド語の使用も禁止。「山岳トルコ人」と呼んできました。トルコ南東部の山岳地帯に住んでいるからです。
 こうした状況下で、クルド人は、武装闘争で独立を勝ち取ろうという過激派と、トルコ国内での平和的な活動で政治的地位を獲得しようという勢力に分裂しました。過激組織の「クルド労働者党」(PKK)は、1984年からトルコ政府に対して武装闘争を展開。2013年に和平交渉が始まるまでに4万人以上が犠牲になりました。
 トルコは長年、EU(欧州連合)への加盟を目指してきましたが、EU側は、トルコ政府がクルド人の存在を認めない方針を取っていることを批判。これを受けて、トルコ政府は、クルド語の使用を認めました。クルド人の存在が認められるようになり、クルド系の「人民民主党」(HDP)が、政界で一定の影響力を確保するようになっていました。
 それでも、トルコのクルド人たちの中には、現在のトルコの与党である「公正発展党」(AKP)を支持する人も多かったのです。」(後略)
(池上彰(1950-),『これが「世界を動かすパワー」だ!』POWER3 中東,トルコ内での対立が日本にまで,pp.121-125,文藝春秋(2016))
(索引:クルド人,クルディスタン)

池上彰のこれが「世界を動かすパワー」だ! (文春e-book)


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
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8.所得分配の平等性は、経済成長と強い関連性があり、政府の適切な政策が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

所得分配の平等性と経済成長

【所得分配の平等性は、経済成長と強い関連性があり、政府の適切な政策が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(3.2)追記。

(3)政府の役割
 全体の社会的利益を最大化させ、経済を繁栄させるには、政府の適切な矯正作業が必要である。
 (3.1)市場の失敗の矯正
  (a)市場における公正な競争を維持する。
  (b)市場における透明性を高める。
  (c)そのために政府は、税金と規制にかんする制度設計を通じて、個人のインセンティブと、社会的利益を同調させる必要がある。
 (3.2)所得分配の平等性は、経済成長と強い関連性があり、政府の適切な政策が必要である。
  (a)所得分配の不平等の拡大は、総需要の不足を招く。
  (b)総需要の不足に対して、規制緩和とバブルで対応する政策は、経済の不安定性を増大する。
  (c)経済の不安定性の増大は、企業に投資を控えさせ、結果として経済成長は鈍化する。
  (e)安定性の欠如は、不平等を拡大させる。(悪循環)

 「規制とは、システムをより良く機能させるために設計されたルールであり、具体的には、競争を担保したり、影響力の濫用を防いだり、自分で身を守れない人々を保護したりする。

何らかの抑えがなければ、前章で説明したような市場の欠陥は、手に負えないほどの猛威をふるうこととなる。

たとえば、金融セクターでは将来、利害の衝突や、過剰な信用や、過剰なレバレッジや、過剰なリスクテークや、バブルなどが問題となるだろう。

しかし、実業界の人々は別の視点を持っており、規制がなければもっと利益を稼ぎ出せると考える。彼らの念頭にあるのは、社会と経済に対する幅広い長期的な影響ではなく、いますぐ手に入る限定的かつ短期的な自己利益なのだ。
 
 同じような“過剰”によって引き起こされた1929年の世界大恐慌のあと、アメリカは1933年のグラス・スティーガル法に代表される強力な金融規制を導入した。これらの法律の実効的な運用は、国家に大きな恩恵をもたらした。大恐慌以前のアメリカ(と、ほかの国々)を何度も苦しめた破滅的な金融危機は、規制の導入後、数十年間にわたって鳴りをひそめてきたのだ。

しかし、1999年に規制の解体が始まると、過去をしのぐ勢いで“過剰”がよみがえった。銀行はすぐさま最新の技術と金融論と経済論をとり入れた。彼らはイノベーションを駆使して、略奪的貸付を行なう新しい方法や、無知なクレジットカード利用者をあざむく新しい方法を編み出した。レバレッジを高める方法については、まだ残っている規制をかいくぐる場合もあれば、規制当局が理解できないほど仕組みを複雑化させる場合もあった。」(中略)

 「前述したとおり、不平等の拡大は、規制を緩和する政策と、総需要の不足にバブルで対応する政策を導入しやすくするため、結果として経済の安定性を低下させる。

しかし、不平等が“必ず”二つの政策に結びつくわけではない。民主主義がもっとうまく機能していれば、政府は規制緩和の政治圧力を退けるかもしれないし、総需要の不足に取り組む際も、バブルをつくり出すことではなく、持続可能な経済成長を強化することを選ぶかもしれないのだ。


 こうやって生み出された経済の不安定性は、さらにリスクの増大という悪影響をもたらす。企業はリスクを嫌う傾向があり、リスクテークに際しては見返りを要求する。だから、思ったような見返りが得られなければ、企業は投資を控え、結果として経済成長は鈍化するだろう。


 平等性の欠如が安定性を低下させる一方で、安定性の欠如は不平等を拡大させる。これも本章が指摘する悪循環のひとつだ。

1章で指摘したとおり、世界大不況はとりわけ下層の人々に大打撃を与え、打撃は中層にも及んだ。一般の労働者はおおむね、失業率の上昇と、賃金の下落と、住宅価格の低下と、富の大幅な縮小に見舞われている。他方、リスク許容度の高い富裕層の人々は、大きなリスクをとった見返りを社会全体から収穫している。

いつもどおり、金持ちによって支持される政策は、支持してくれる人々に勝利を与え、残りの人々に高いコストを押しつけているように見える。
 2008年の世界金融危機の余波が続く現在、不平等が不安定をもたらして不安定が不平等をうながす、という世界的なコンセンサスが広がっている。

国際通貨基金(IMF)は世界経済の安定維持に責任を負う国際機関だが、みずからの政策が貧困層にどう影響するかを熟慮しておらず、この点をわたしはきびしく批判してきた。しかし、不平等を無視していては使命が達成できないことを、IMFは遅ればせながら認識し、2011年の研究報告では次のように結論づけた。

 『成長期間の長さと、所得分配の平等性のあいだに、強い関連性があることをわれわれは発見した。長い目で見た場合、不平等是正と成長持続は、コインの表と裏の関係になるだろう』

 同年4月、IMFの前専務理事ドミニク・ストロス=カーンは、次のように強調した。

 『結局のところ、雇用と平等というレンガがなければ、経済の安定と繁栄、政治の安定と平和という建物を築き上げることはできない。IMFの使命の中核にかかわるこの考え方を、政策課題の中核に据える必要がある』」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第4章 アメリカ経済は長期低迷する,pp.150-153,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:所得分配の平等性,経済成長)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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2019年4月11日木曜日

7.グローバル化の影響:(a)賃金下落と労働条件悪化への圧力、(b)法人税率低下への圧力、(c)資本市場、コモディティ市場の不安定化、(d)非効率な産業からの転換による失業者の増加。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

グローバル化の影響

【グローバル化の影響:(a)賃金下落と労働条件悪化への圧力、(b)法人税率低下への圧力、(c)資本市場、コモディティ市場の不安定化、(d)非効率な産業からの転換による失業者の増加。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(1)グローバル化を推進する際に主張される理念
 (1.1)グローバル化は、国全体の産出量、たとえばGDPを上昇させる。
 (1.2)グローバル化の利益が、トリクルダウン効果で国民全体に行きわたる。
(2)グローバル化に伴い、実際に発生する事象
 (2.1)資本が自由に移動できることにより、労働者と政府に対する交渉力が強まる。
  (a)賃金が低く、労働条件が悪い国へ工場を移転させることができる。この結果、国内においても、労働者に対する交渉力が強まり、賃金を引き下げることができる。
  (b)法人税率が低い国へ事業所を移転させることができる。この結果、国内においても、政府に対する交渉力が強まり、法人税率を引き下げることができる。
  (c)仮に、労働力の移動が自由化され、資本の移動が禁止された場合には、各国は労働者を惹きつけるために、良い住環境、良い教育環境、労働者に対する低い税率を競うことだろう。
 (2.2)資本市場、コモディティ市場の変動性が高まる。
 (2.3)輸入増によって失業した人々は、次の仕事にありつけない確率が高く、失業者となる。
  (a)政府は、マクロ経済政策と雇用政策によって、失業率が跳ね上がらないようにする必要がある。
  (b)金融セクターは、破壊された古いビジネスの代わりに、新しいビジネスを創造するという本来の役割を果たす必要がある。
 「グローバル化の管理に用いられた手法は、それ自体が賃金を押し下げる効果を発揮してきた。

グローバル化の過程で、労働者の交渉力が骨抜きにされたのだ。

 資本の移動性が高くて関税率が低い場合、企業は労働者にこう言うだけでいい。賃金や労働条件の引き下げを呑まなければ、工場をどこかへ移転させる、と。

ここでは、労働力の移動が自由化され、資本の移動が禁止された世界を想定し、非対称的なグローバル化が交渉力にどのような影響を及ぼすかを見ていこう。

まず、各国は労働者をひきつけるために競い合うだろう。彼らは良い住環境や、良い教育環境や、労働者に対する低い税率を約束するだろう。そして、これらの財源を確保するため、資本に対して高い税率を課すだろう。

残念ながら、わたしたちが住む世界はそうなっていない。原因のひとつは、上位1パーセントの人々がそう望まないからだ。


 労働者の交渉力を弱める方向で、政府にグローバル化のルールを設定させたあと、企業はさらに政治のテコを使って、法人税率の引き下げを要求することができる。具体的に言えば、税金を下げてくれないなら、もっと税率の低い国に会社を移転させる、と国家に脅しをかけるのだ。

彼らは特定の政治課題を推し進めることで、自分たちに都合よく市場の力を形成してきたが、当然ながら、そのプロセスで真の目的を明かしてはいない。

企業はグローバル化――資本の自由な移動と投資の保護――を議論する際、結果として自分たちが利益にあずかり、結果として残りがツケを払うことを伏せ、社会全体が恩恵を受けるというまことしやかな主張に終始するのである。


 この主張には二つの穴がある。第一に、グローバル化は国全体の産出量、たとえばGDPを上昇させるという点。第二に、グローバル化の利益がトリクルダウン効果で国民全体に行きわたるという点だ。二つの議論はいずれも正しくない。

市場が完璧に機能する環境下で、自由貿易を実現するのであれば、労働者は保護された非効率的なセクターから、保護されていない効率的な輸出関連セクターへ移動できる。結果として、GDPが上昇する”可能性”もあるだろう。

しかし、多くの場合、市場はそれほどうまく機能しない。たとえば、輸入増によって失業した人々は、次の仕事にありつけない確率が高く、彼らは失業者となる。

保護された非効率的なセクターの労働者が、失業者層へ移動してしまえば、GDPは低下をまぬがれない。アメリカではまさにこのような事態が起こってきたのである。

このような事態が起こるのは、政府がマクロ経済の舵取りを誤り、国内の失業率が跳ね上がったときと、金融セクターが本来の仕事を怠り、破壊された古いビジネスの代わりに新しいビジネスを創造できなかったときだ。

 グローバル化がGDPを低下させるもうひとつの理由としては、リスクの増加が挙げられる。

開放性を高めた国家は、資本市場の不安定化からコモディティ市場の不安定化まで、あらゆる種類のリスクにさらされる可能性がある。

市場の変動性が大きくなればなるほど、企業は事業上のリスクを縮小させる方向へ動くと予想されるが、リスクの低い事業はえてして収益性も低い。このリスク回避の効果がふくらんだ場合、全国民の暮らし向きが悪化するような事態も起こりうる。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第3章 政治と私欲がゆがめた市場,pp.114-116,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:グローバル化の影響,賃金下落,労働条件悪化,法人税率低下,市場の不安定化)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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2.何十億年とかかって豊かな共生を達成してきた地上のあらゆる生の営み、それはすべて化学反応の世界だ。核反応は化学反応より100万倍も強く、一歩間違えれば、もはややり直しがきかないような事故のリスクを抱えている。(高木仁三郎(1938-2000))

核技術の特殊性

【何十億年とかかって豊かな共生を達成してきた地上のあらゆる生の営み、それはすべて化学反応の世界だ。核反応は化学反応より100万倍も強く、一歩間違えれば、もはややり直しがきかないような事故のリスクを抱えている。(高木仁三郎(1938-2000))】

 「私たちの地上の世界は、生物界も含めて基本的に化学物質によって構成されている世界である。



 このことの恐ろしさの一端を、我々はチェルノブイリ原発の事故によって目のあたりにすることになった。

一瞬の爆発によって、世界中が放射能の恐怖に見舞われた。この出来事は、何十億年とかかって豊かな共生を達成してきた地上のあらゆる生の営みが、ヒトという生物のちょっとしたボタンの押し間違いといったことによっても、一瞬にして灰と化しうることを、あらためて私たちに悟らせた。

この破局の一瞬はいつ訪れるかしれない―――チェルノブイリがそうであったように。

そして、その一瞬がひとたび訪れた以上、もはややり直しはきかないのである。


 核文明は、そのように破滅の一瞬を、いつも時限爆弾のように、その胎内に宿しながら、存在している。

この危機は明らかにこれまでのものとまったく異質のものではないだろうか。

そして今、その時限爆弾がカチカチと時を刻む音が、いよいよ大きく、私たちの耳に入ってこないだろうか。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』チェルノブイリ――最後の警告 第Ⅲ章 ポスト・チェルノブイリに向けて、pp.242-243)
(索引:核技術の特殊性,核反応,化学反応)

脱原発へ歩みだす〈1〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
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1860年リンカーンが大統領に当選。50万人近い死者を出した南北戦争(1861~65)で奴隷制が廃止されたが、南部諸州では根強い差別が今も残る。先祖の功績を称える「南軍旗」は、今も黒人差別の象徴でもある。(池上彰(1950-))

「南軍旗」

【1860年リンカーンが大統領に当選。50万人近い死者を出した南北戦争(1861~65)で奴隷制が廃止されたが、南部諸州では根強い差別が今も残る。先祖の功績を称える「南軍旗」は、今も黒人差別の象徴でもある。(池上彰(1950-))】
 「アメリカの黒人教会で発生した銃の乱射事件は、いまだにアメリカに残る黒人差別を象徴するものでした。この事件をきっかけに、アメリカ国内では、グーグルやアマゾンが動き出すなど思わぬ影響が広がりました。
 事件が起きたのは2015年6月17日の夜のこと。アメリカ南部のサウスカロライナ州チャールストン市の黒人教会で白人男性が銃を乱射。教会で聖書の勉強会に参加していた黒人12人のうち9人が死亡しました。犠牲者の中には州の上院議員を務めていた教会の牧師も含まれています。
 アメリカには、俗に黒人教会と呼ばれる教会が存在します。自らをそう名乗るわけではなく、宗派もさまざまですが、集まる信者はほとんどが黒人。ゴスペルを歌って踊るなど、独特の文化を持っています。
 襲撃された教会は、エマニュエル・アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会。1816年創設といいますから、200年の歴史を持つ由緒あるものです。
 黒人の地位向上運動に取り組んだキング牧師も、1962年にこの教会で演説しています。
 事件が起きたチャールストン市の隣の市では、2015年4月、逃げる黒人男性を白人警察官が背後から射殺する事件が起き、警察官は殺人の罪で起訴されました。黒人は、黒人であるだけで白人警察官から不審者として職務質問されることが多く、その過程でトラブルになることがしばしばあります。
 こんな雰囲気は、アメリカ南部に行くと、至るところで感じます。私がとりわけ違和感を覚えるのは、アメリカ南部の州の公共施設に、その州の旗と共に「南軍旗」が掲げられていることです。20年以上前になりますが、始めて見たときには、「南北戦争が終わって100年以上経つのに、まだ南部連合の旗を掲げているのか」と仰天したことを思い出します。
 この南軍旗が、今回の事件で槍玉に上がりました。事件を起こした黒人差別主義者の21歳の男が、南軍旗を持っている写真を事件前にインターネットに投稿していたことがわかったからです。
 南軍旗は、赤地に青い対角線が描かれ、青い対角線の中に13個の白い星が交差しています。13個の星は、7つずつ交差し、中央の星はひとつ。これは、南部の州がアメリカからの離脱を宣言したときに同調した7つの州と、最終的にアメリカ連合国に参加したとされる13の州の数を象徴しています。
 アメリカの南北戦争は、1861年から65年まで戦われました。1860年、奴隷制に反対するエイブラハム・リンカーンが大統領に当選すると、奴隷制を維持していた南部の諸州が反発。真っ先にサウスカロライナがアメリカ合衆国から離脱を宣言。計7州が脱退して、アメリカ連合国を結成しました。
 その後4州が合流して計11州となりますが、さらに2州内の反対派が加わったことから、アメリカ連合国を13と数えることもあり、星の数の13は、これを意味しています。
 アメリカ連合国と、アメリカ合衆国からの離脱を認めない北部の州は戦争に突入。これが南北戦争です。投入された兵士は、北軍が156万人、南軍が90万人という総力戦となり、両軍合わせて50万人近い死者を出しました。
 結局は北軍の勝利に終わり、これをきっかけに、アメリカでは奴隷制が廃止されることになりますが、南部では根強い黒人差別が続いています。
 また、負けた南部諸州には、南軍に対するノスタルジーが残ります。英雄的に戦った先祖の功績を称えようという意識もあり、これが、南軍旗の掲揚につながります。州の施設に、アメリカの国旗と州の旗、それに南軍旗を並列して掲揚する州があるのです。サウスカロライナも、そのひとつです。
 州の旗も、ミシシッピ、アラバマ、フロリダについては、現在も南軍旗のデザインが一部に取り入れられています。
 しかし、黒人奴隷制を守ろうとした南部を象徴する旗は、そのまま黒人差別の象徴にもなります。」(後略)
(池上彰(1950-),『これが「世界を動かすパワー」だ!』POWER1 アメリカ,「南軍旗」を知っていますか?,pp.58-61,文藝春秋(2016))
(索引:南軍旗,南北戦争,黒人差別)

池上彰のこれが「世界を動かすパワー」だ! (文春e-book)


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
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2019年4月10日水曜日

6.レントシーキングに都合の悪い規制の廃止、緩和方法:(a)規制の取り込み(規制対象セクターへの天下り)、(b)認知の取り込み(ロビー活動、規制当局の人事への影響力の行使)。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

レントシーキングに都合の悪い規制の廃止、緩和方法

【レントシーキングに都合の悪い規制の廃止、緩和方法:(a)規制の取り込み(規制対象セクターへの天下り)、(b)認知の取り込み(ロビー活動、規制当局の人事への影響力の行使)。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(4.3)(a)追記

 (4.3)都合の悪い規制の廃止、緩和
  レントシーキングに都合の悪い法律が作られないようにする。政府の規制は少ない方がいい。
  (a)ロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投資することで、政策決定に影響力を行使する。
   (a.1)規制の取り込み
    (i)政治的影響力を使って、自分の意見に近い人々を規制当局へ送り込む。
    (ii)規制当局者が退任した後、規制対象のセクターへ天下りさせ、太っ腹な報酬で迎える。
   (a.2)認知の取り込み
    (i)大量のロビイストを送り込む。
    (ii)何らかの方法で“取り込み済み”の人々が規制当局者に任命されるよう、政府に対して働きかける。
    (iii)逆に「市場には自らを規制する能力があり、銀行には自らのリスクを管理する能力がある」という業界の綱領を踏みはずす候補者が現れれば、途方もなく大きな抗議の声によって、人事案を葬り去る。
  (b)反競争的行為が法律で禁止されないようにする。
  (c)仮に法律が存在する場合は、実効的な取り締まりが行なわれないようする。
  (d)法律家たちのインセンティブ。
   法律は複雑な方が、都合がよい。顧客に法律の回避方法を指南し、また法律の抜け穴を利用した複雑な取引を組み立て、合法的に見える契約をお膳立てし、レントシーキングと独占力を維持することが可能となる。

 「認知の取り込み
 “公正な”ゲームに勝利する能力と、ゲームのルールを設定する能力は、まったく別のものだ。

特定の人々の勝率が上がるようルールを設定する能力も別物であり、参加者が審判を選べれば、状況はもっと悪くなる。

現在、多くのセクターで規制当局が監督の任(ルールと規制の設定および執行)に就いている。たとえば、電気通信セクターでは連邦通信委員会(FCC)、証券セクターでは証券取引委員会(SEC)、銀行セクターのさまざまな分野では連邦準備銀行。

ここで問題となるのは、各セクターの有力者たちが政治的影響力を使って、自分の意見に近い人々を規制当局へ送り込んでしまうことだ。

 経済学者はこれを“規制の取り込み”と呼ぶ。

規制当局者が取り込まれる背景には、金銭的インセンティブが存在する場合もある。

なぜなら、彼らは規制対象のセクターから選ばれ、やがては規制対象のセクターへ戻っていくからだ。彼らのインセンティブは、残りの社会のインセンティブより、古巣のインセンティブのほうと一致している。規制当局者がセクターのために尽力すれば、退任後には太っ腹な報酬が待ち受けているのだ。

 しかし、取り込ま
れる動機が金だけとは限らない。規制当局者の思考様式が、規制対象者の思考様式に取り込まれてしまう場合もある。これは社会学的な現象で、“認知の取り込み”と呼ばれる。

アラン・グリーンスパンもティム・ガイトナーも大銀行で働いた経験はないが、連銀に来て以降、銀行業界に対して自然な親近感を抱いていった。ひょっとすると、同じ考え方を共有していたかもしれない。

銀行家たちはみずから大混乱を招いておきながら、政府救済のひきかえとして銀行にきびしい条件を課すべきでないと考えていた。

 規制に何らかの役割を果たしている人々全員に、銀行を規制するべきではないという主張を受け入れさせるため、これまで銀行業界は大量のロビイストを送り込んできた(推定では連邦議員1人あたり2.5人)。

しかし、ターゲットが初めから業界寄りの意見を持っていれば、説得の作業はたやすくなる。だからこそ銀行業界とそのロビイストたちは、何らかの方法で“取り込み済み”の人々が規制当局者に任命されるよう、政府に対して猛烈な働きかけを行なっているのだ。

逆に、考えのちがう人々が任命されそうになると、候補者が同じ業界の出身者であろうと、銀行家たちは拒否権を発動しようとする。

FRBの人事案が漏れるたびに繰り返されるこの動きを、わたしが初めて目の当たりにしたのはクリントン政権時代だった。

現在でも、市場にはみずからを規制する能力があり、銀行にはみずからのリスクを管理する能力がある、という業界の綱領を踏みはずす候補者が現れれば、途方もなく大きな抗議の声によって、人事案の提出は見送られるだろう。たとえ提出されても、議会の承認は決して得られないだろう。」 

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方,pp.96-98,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:レントシーキング,規制の取り込み,認知の取り込み)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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1.46億年の地球の歴史を経て、過剰な有害放射能が消え去り生命が育まれた。これが、93番以降の超ウラン元素が天然に存在しない理由だ。核技術は、この46億年の歴史に取り返しのつかない影響を及ぼす可能性がある。(高木仁三郎(1938-2000))

核技術の特殊性

【46億年の地球の歴史を経て、過剰な有害放射能が消え去り生命が育まれた。これが、93番以降の超ウラン元素が天然に存在しない理由だ。核技術は、この46億年の歴史に取り返しのつかない影響を及ぼす可能性がある。(高木仁三郎(1938-2000))】

地球の歴史
生命の誕生
人類の進化
物理学の歴史
アインシュタイン
核分裂の発見

 「さて、原子番号の大きい「重い」元素は、みな不安定で、放射性である。原子番号八四番の ポロニウム とそれより重い元素は、天然に存在するものもすべて放射性である。

そんななかで、九二番の ウラン までが天然に存在し、それより重い九三番以降のもの(「超ウラン元素」と呼ぶ)が天然に存在しないのは、どういうわけだろうか。

実は、地球ができた頃、あるいはそれよりももっと昔には、もっともっと多くの元素があったと考えられる。しかし、地球が生まれてからでもすでに四六億年もの年月がたっているので、それから現在までの間に、寿命の短い不安定な元素はみな死に絶えてしまったのである。

 ウランが残ったのは、その寿命が充分に長かったからだ。ウランの仲間のなかで最も長生きなのは、半減期が四五億年のウラン-二三八である。これだけ寿命が長かったからこそ、今も生き残り、私たちはその存在を天然に見出すわけだが、超ウラン元素はすべてもっと不安定で、天然には存在せず、人工的に作りだすよりほかにそれを手にする手段はない。

 したがって、原初の地球は放射能で満ち満ちていたといっても過言ではない。ウラン-二三八も現在量のちょうと二倍あったはずである。

私たちが今日あるのも、四六億年という地球の歴史の過程で、過剰な有害放射能が死に絶え、生命の条件が整ったということにも大いによっているという事実は、心に留めておくべきことである。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』プルトニウムの恐怖 第1章 パンドラの筐は開かれた、pp.127-128)
(索引:核技術の特殊性,地球の歴史,生命の誕生,人類の歴史)

プルートーンの火 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
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国会議員に当選するには、地盤(後援会)、看板(知名度)、鞄(資金)の「三バン」が必要とされている。政治を変えるには、情熱のある人が誰でも立候補でき、落選したら以前の生活に戻れるような制度が必要だ。(池上彰(1950-))

地盤(後援会)、看板(知名度)、鞄(資金)

【国会議員に当選するには、地盤(後援会)、看板(知名度)、鞄(資金)の「三バン」が必要とされている。政治を変えるには、情熱のある人が誰でも立候補でき、落選したら以前の生活に戻れるような制度が必要だ。(池上彰(1950-))】
 「一般の人が国会議員になるのは大変です。最近は候補者公募をしている政党もあるので、そこに応募するという手もあります。
 こうしたしくみを通じて、会社でバリバリ働いていたエリート社員や、国際組織で働いていた人、ボランティア活動に従事していた若者など、候補者の多様化が進みました。
 しかし、候補者になれても、当選までの道のりは遠くて険しい。当選するためには、「三バン」が必要とされています。「ジバン」「カンバン」「カバン」です。
 「ジバン」とは、地盤のこと。支持者も後援会もない地域で立候補しても、誰も応援してくれませんよね。しかし、地元にゆかりの人なら、小・中学校や高校時代の同級生たちが、「あいつのためなら一肌脱ぐか」と言って応援してくれることもあるでしょう。
 自分が立候補を宣言したとき、どれだけの人が応援してくれるのか。それによって、人徳レベルがわかってしまいます。
 「カンバン」とは、看板。つまり候補者の知名度です。その地域で名の知られた人が有利です。地元で市議会議員や県議会議員として活躍してきた実績があれば、地域内でよく知られていますから、有権者も投票用紙に名前を書きやすいですよね。その地域に古くから伝わる名家の出という人も、知名度の点では有利になったりします。
 投票用紙に自分の名前を書いてもらえるようにするためには、知名度が必要です。地元に縁が薄くても、テレビで名や顔を売った人は有利でしょう。
 そして「カバン」とは、鞄のこと。政界の隠語で、資金のことです。資金のたっぷり入ったカバンが必要だ、という意味です。
 政治にはお金がかかります。選挙運動にも資金が必要です。それがないと選挙に勝てない、という意味なのです。
 これら三つを合わせて「三バン」といいます。単なる語呂合わせのような表現ですが、この「三バン」を持っていないと選挙で当選できないというわけです。
 でもこれだけのものを持っている人は少ないですよね。一般庶民はとても立候補できなくなってしまいます。
 政治を変えるには、「世の中を変えたい」という情熱がある人は誰でも気軽に立候補できるしくみが必要です。「とても当選は無理」とみんながしり込みをしていては、いつまでも同じ政治家が当選し続けることになり、政治を変えることができないからです。
 「よし、では頑張って立候補しよう!」と決意しても、落選したときのことを考えると、決意も鈍ります。
 一般のサラリーマンが選挙に立候補しようとすると、会社を辞めなければならないのが普通です。選挙に落ちたときに「復職させてください」と言っても、「選挙に出た特別な人」という色眼鏡で見られてしまい、もとの職場に戻ることは難しくなります。
 誰でも気軽に立候補できて、落選したら、以前の生活にすぐ戻れる。政治を変えるためには、まずはこんな社会にすることも大切なのです。」
(池上彰(1950-),『イラスト図解 社会人として必要な経済と政治のことが5時間でざっと学べる』PART2 政治,第1章 「国会議員」はどんなことをしている?,06 国会議員になるには「三バン」が必要?,pp.202-205,KADOKAWA(2018))
(索引:地盤(後援会),看板(知名度),鞄(資金))

イラスト図解 社会人として必要な経済と政治のことが5時間でざっと学べる


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

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2019年4月9日火曜日

ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルールの存在

【ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3.1)追記。

 (3.3)法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されている。

 (i)究極の承認のルールの適用……事実
 (ii)裁判所を含む一般的な諸活動での容認・使用……事実として確証可能
   ↓
 特定の法体系の妥当性

  (3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題である。
   (a)承認のルールは、裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認する際、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。
   (b)ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。
  (3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
   (a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
   (b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
   (c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
   (d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。

 「一層重要な異議は、究極の承認のルールが妥当するという「想定」について語ることは妥当性に関する法律家の陳述の背後にある第二の前提のもつ基本的に事実的な性質を隠すことになる、というものである。承認のルールが実際に存在しているのは、裁判官、公機関、その他の人々の実際の活動においてではあるが、その活動は明らかに複雑な事柄である。のちに見るように、この種のルールの正確な内容と範囲について、またその存在についてさえ生じてくる疑問には明確なあるいは確定的な答ができないような状況がたしかにある。それにもかかわらず、「妥当性を想定すること」をそのようなルールの「存在を前提すること」から区別することは重要であって、そのような区別をしないとそういったルールが《存在する》という主張の意味が曖昧になるという理由からだけでも重要なのである。
 前章で素描した責務の第1次的ルールの単純な体系においては、あるルールが存在するという主張はそのルールを容認していない観察者が行なうような事実に関する外的陳述でありうるだけであって、この場合その検証は観察者が事実の問題として、ある行動様式が一般に基準として容認されているかどうか、またその様式が単なる一定方向に向かう単なる習慣から社会的ルールを区別する上述の特徴を伴っているかどうかを確認することでなされる。イギリスでは教会に入るときには帽子を取らなければならないという、法的なものではないが、あるルールが存在するという主張を解釈し検証する場合もこの方法によるべきなのである。もしこのようなルールが社会集団の実際の活動のなかに存在していることがわかれば、それらのルールの価値や望ましさはもちろん問題になるけれども、それらの妥当性について別個に議論すべき問題はないのである。一度それらのルールの存在が事実として確証されてしまうと、それらが妥当していることを肯定したり否定したりするならば、あるいはそれらの妥当性を「想定する」が示すことはできないと言ったりするならば、われわれは事態を混乱させるだけであろう。他方、成熟した法体系におけるように承認のルールを含むルールの体系が存在し、したがってルールがその体系の一部であるということが、今や承認のルールの与える一定の基準を満足させているかどうかにかかっているところにおいては、「存在する」という言葉は新しい用い方をされるのである。ルールが存在するという陳述は、それが慣習的ルールの単純な場合におけるように、一定の行動様式が実際の活動のなかで基準として一般的に容認されているという《事実》に関する外的陳述ではもはやないのである。それは、現在容認されてはいるがのべられていない承認のルールを適用し、また(おおざっぱに言えば)「体系に妥当性の基準があるところでは妥当する」ことを単に意味する内的陳述なのである。しかし、他の点と同様にこの点においても承認のルールは体系のその他のルールと異なっている。それが存在するという主張は、事実に関する外的陳述でありうるのみである。というのは体系の下位のルールはたとえ一般的に無視されているとしても妥当するだろうし、その意味で「存在する」だろうが、それに対して、承認のルールは裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認するさいの、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在するからである。その存在は事実の問題なのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.119-120,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:法的妥当性,承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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