人間の未来は予測できない
【人間の歴史の道筋を予測することはできない。なぜなら、未来は人間の知識の成長に強く影響されるが、知識が自らの将来の成長について自己予測することは矛盾であり、不可能だからである。(カール・ポパー(1902-1994))】(1)個々の社会理論(たとえば経済理論)は、ある特定の条件のもとで、社会にどのような発展が生じるかという予測を導き出すだろうし、それが正しいかどうかテストすることもできる。
(2)しかし社会科学は、人間の歴史の道筋を予測することはできない。少なくとも、未来の道筋のうち、知識の成長によって強く影響される側面は予測できない。
(2.1)なぜなら、知識が自らの将来の成長について自己予測をすることは矛盾であり、不可能だからだ。予測者がいかに複雑であったとしても、明日初めて知り得ることを今日予測することはできない。
(2.2)結果として、相互に行為しあう予測者からなる「社会」は、この社会自体の将来における知識のありさまを予測することはできない。
(2.3)人間の歴史の道筋は、人間の知識の成長によって強く影響される。よって、社会科学は、人間の歴史の道筋を予測することはできない。
「この議論は、《ヒストリシズムの説》――社会科学の課題は人間の歴史の道筋を予測することであるという説――《を論駁する》ために利用することができる。なぜなら、つぎのように論じることができるだろうから。
(1)予測者の複雑さがどうであれ、完璧な自己予測が不可能であることが示せれば、それは、相互に行為しあう予測者からなるどんな「社会」についても成り立つはずである。
結果として、相互に行為しあう予測者からなる「社会」は、この社会自体の将来における知識のありさまを予測することはできない。
(2)人間の歴史の道筋は、人間の知識の成長によって強く影響される。
(この前提が真であることは、マルクス主義のように科学的観念も含めてわれわれの観念をさまざまな種類の物質的発展がもたらす副産物としか見ない者でさえ、認めざるをえない。)
(3)したがって、将来における人間の歴史の道筋は予測できない。
いずれにせよ、未来の道筋のうち、知識の成長によって強く影響される側面は予測できない。
この議論は、もちろん、個々の社会的予測の可能性を否定するものではない。それどころか、社会理論――たとえば経済理論(もっとも、「歴史的理論」ではない)――をテストする可能性と完全に両立する。
つまり、そうした理論からある条件のもとではある発展が生じるだろうと主張する予測を導き出し、それをテストすることによって理論の方をテストするという可能性と完全に両立する。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた宇宙―非決定論の擁護』,第3章 非決定論の申し立て,20 歴史的予測と知識の成長,p.80,岩波書店(1999),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:人間の未来は予測できない)
(出典:wikipedia)
「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
カール・ポパー(1902-1994)
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