2024年3月17日日曜日

14. 真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)


真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)


 「組織が公的生活を生み出すものでないことは、ますます多くのひとびとが、しかもますます募る苦悩をもって感じ取っている。

これが、何とかして活路を見いだそうとする切実な時代的要求の出発点である。

感情が個人生活を生み出すものではないということはしかし、ごく少数のひとびとしか、まだ理解していない。むしろ、ここにこそもっとも個人的なものがやどっているようにみえるわけである。

そして、近代人はおおむねそうなのだが、やたらに自分自身の感情と関わりあうようになって、そのあげく、感情の非現実性に絶望しても、ひとびとはその絶望によってすら容易には蒙をひらかれることがない。なぜなら、絶望もまたひとつの感情、興味ぶかい対象だからである。 

 組織が公的生活を生み出すものでないということに苦しむひとびとは、ひとつの解決手段を思いついた、……すなわち、それを他ならぬ感情によって、ゆるめたり、溶かすなり、うち破るなりせねばならないというのだ。組織のなかへ《感情の自由》をみちびきいれることによって、まさに感情の面からそれを革新せねばならないというわけである。

たとえば、国家が自動機械じみたものに化されてしまって、たがいに心の触れあいのない市民をただともかく繋ぎあわせているにすぎず、彼らのあいだに何らの共同的なつながりをもうち立てたり推し進めたりしていないからには、このような国家は愛の共同体(Liebengemeinde)によって取りかえられるべきだというのが、このひとびとの考えなのだ。

そして愛の共同体とは、民衆が自由な、熱烈な感情にうながされて集いあい、たがいに生活を共にしようと欲するときにこそ成り立つというのである。

だが、事実はそうではない。真の共同体(Gemeinde)とは、ひとびとがたがいにあたたかな感情をもちあうことによって成り立つのではない(むろんこのことなしには成り立たないとはいえ)。

真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立するのである。


この後者は前者から生ずるのであるが、しかしこれが前者とともにのみ存在したためしはまだない。共同体は生ける相互関係をもとにして築きあげられる、しかし、その建築師はあの生きて働きかけてくる中心なのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.60-61、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話







2024年3月14日木曜日

19. 感情文化(スティーブン・ゴードン)

 感情文化(スティーブン・ゴードン)

 「ゴードン(1990)は感情を、(1)身体感覚、(2)表出ジェスチャー、(3)社会状況もしくは社会関係、(4)社会の感情文化によって構成されると見なしている。

ゴードンの見解によれば、第一の要素、すなわち身体感覚は文化の台本が誘導する行動に表現される場合にのみ重要である。

だから感情を表わす顔面表情、言語表現や身体ジェスチャーは先天的な生物的衝動の結果であるよりも、むしろ他者や状況にどのように反応するかを制約する文化力の産物である。文化力は感情を指示する語彙、人びとが感情について抱いている信念、および人びとが感情をどのように感じるべきかについてと、また感情がいつ、またどのように表現されるべきかの規則においてとくに明白であるとゴードンは論じる。

社会メンバーは、すべての感情語彙(感情を表わす単語)、感情信念(たとえば幸せは自由に表現されるべきだが、怒りは弱められるべきであること)、そして感情規範(われわれは争いに悲しみを、そしてパーティーでは幸せを感じるべきであること)を学習する。ゴードン(1989a,1989b,1990)はこうした複合的な感情語彙、信念、規範を社会の感情文化と呼んでいる。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第2章 感情のドラマツルギー的、文化的な理論化、p.78、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))


感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]

 

2024年2月3日土曜日

13.組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)


組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)




「経験と利用の機能の向上は、たいていの場合、人間の関係能力の低下と引きかえに起こる。

 精神を自分のための享受手段に仕立てあげてしまった人間……このような人間は、自分のまわりに生きている存在といったいどのように関わりあうのであろうか?

 このような人間は、《我》と《それ》とを相いへだてる分離の根元語のもとに立って、《共に在る人間》(Mitmensch)との共同生活を判然と区画された二つの管区に、つまり組織と感情とに、《それ》の管区(Es-Revier)と《我》の管区(Ich-Revier)とに分割してしまうのである。 

 組織とは《外部》のことであって、ここでは
ひとは、ありとあらゆる目的事にかかずりあっている。労働し、取り引きし、影響をおよぼし、企業し、競争し、編成し、経営し、執務し、説教することによって。この《外部》とはいちおう秩序づけられた、また、いささか調和もとれている機構であって、そこではさまざまな要件が、人智と構成人員との多様な参与によって推進されているのである。 

 感情とは、ひとがそこで自分だけの生活をいとなみ、組織の束縛からはなれて休養するところの《内部》のことである。ここでは情緒のスペクトルが興味ぶかく眺める眼のまえで揺れ動き、愛好や、憎悪や、快楽や、そして、それがひどすぎるものでなければ、悲しみすらも享受されるのだ。ここではひとはくつろいで、そして揺り椅子のなかで身を伸ばすのである。 

 組織は厄介の多い集会場であり、感情は変化にみちた古城の私室である。 

 むろんこの両者の境界はたえずおびやかされている。なぜなら、気まぐれな感情は時としては、いかに即物的な組織のなかへも闖入するからだ。しかし、いささかそのつもりになれば、この境界はふたたびきちんと画されるのである。

 いわゆる個人生活の諸領域の内部でこのような境界を確実に画することは、もっとも困難である。たとえば結婚生活においては、これはそう簡単にはおこなわれないことがある。だが、ここにもやはりその種の境界は存在しているのだ。

いわゆる公的生活の諸領域においては、その種の境界はきっぱりと画されている、たとえば、諸政党や、あるいはまた、超党派性を標榜する諸団体の年間の明け暮れや《活動》をながめてみるがよい、ここでは天を衝くばかりのはげしいやりとりが交わされる会合と、そして――機械的に一様な、といってもあるいは有機的にだらけた、といっても同じことだが――地を這うような実務とが、見事に分離しているのである。

 だが、組織の場における分離された《それ》は、一種のゴーレムであり、感情の場における分離された《我》は、飛びさまよう一種の魂の鳥である。 

この両者とも、真の人間というものを知らないのだ。前者はただ規範を、後者はただ《対象物》を知っているにすぎず、いずれも人格たる人間を、共同性を知らない。いずれも現在を知らないのである。
 
組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》(das Nochnichtsein)を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。組織は公的生活を生み出さず、感情は個人生活を生み出さないのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.58-60、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話








2024年1月30日火曜日

18. 対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある。(1)関連する資源の報酬交換の欲求(2)自己確認の欲求(3)知覚を中心に展開する信頼(4)予測可能性(5)間主観性の欲求(6)集団への包摂の欲求がある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある。(1)関連する資源の報酬交換の欲求(2)自己確認の欲求(3)知覚を中心に展開する信頼(4)予測可能性(5)間主観性の欲求(6)集団への包摂の欲求がある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 「もちろん、対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある(Turner 1987)。

こうした処理欲求ははるかに包括的であり、そして特定の個人の具体的また特異な欲求を処理する前にまず実現されなければならない。こうした処理欲求はいくつかの次元に沿って働く。

第一に、関連する資源の報酬交換の欲求があり、そしてこうした報酬は状況への費用と投資を超えていなければならない。

第二に、個人である自己がその人の自己評価と一貫する仕方で他者によって評価される自己確認の欲求がある。

第三に、知覚を中心に展開する信頼がある。信頼の知覚とは、他者が行うと述べたこと、あるいは彼らに期待されていることを彼らが履行することである。

第四に、予測可能性がある。これによって他者の行為が予測できる。

第五に、間主観性の欲求がある。これによって個人は、相互作用のために、彼らが共通の経験を共有することを(正しくあるいは誤解して)感知する。

そして、第六に、人が相互作用のフローの一部という感覚を中心に展開する集団への包摂の欲求がある。相互作用が順調に進行し、また適切な感情が喚起するためには、これらの欲求が適えられなければならない。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.216-217、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳)



2024年1月23日火曜日

17.  社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。ジョナサン・H・ターナー(1942-)


「社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。

相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。

第一に、出会いの人口統計学に関しては、(1)現前する人びとの数量、(2)人びとの社会的カテゴリー(たとえば、年齢、ジェンダー、民族)、(3)カテゴリーを異にする人びとの、時間の経過にともなう出会いへの流入と出会いからの流出、そして、(4)空間上における異なるカテゴリーの人びとの分布である。

第二に、地位の次元がある。これは、(1)種々な地位の威信と権威の水準(Kemper 1984)、そして、(2)こうした地位を占める個人の属性(たとえば、地位特性の拡散、態度のスタイル、自己の知覚など)を中心にして展開する。

そして、第三に、こうした結合の属性を中心にして動くネットワークの次元がある。これは、(1)数量、(2)方向性、(3)相補性、(4)推移性、(5)密度、(6)強度、(7)仲立ち、そして、(8)斡旋である。対面的相互作用の性質をふまえるとき、これら属性のすべてが対人的な出会いにおいて明らかである。結合の数量、相補性、そして密度は出会いにおける感情のフローを形成する際にもっとも重要であろう。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、p.216、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))



2024年1月18日木曜日

16.文化とは、人間が知識の貯蔵庫に運び入れ、そして人間が出会いにおいて反応を秩序づけるために使用する象徴体系と定義できる。ジョナサン・H・ターナー(1942-)

文化とは、人間が知識の貯蔵庫に運び入れ、そして人間が出会いにおいて反応を秩序づけるために使用する象徴体系と定義できる。ジョナサン・H・ターナー(1942-)


「文化とは、人間が知識の貯蔵庫に運び入れ、そして人間が出会いにおいて反応を秩序づけるために使用する象徴体系と定義できる。

こうした文化的知識の貯蔵庫はいくつかの基本的次元に沿って配列されている。

第一に、高度に抽象的で一般的な善悪の基準が自己および他者を評価するために用いられる価値の次元がある。

第二に、一般的価値を特定する評価的な指令(自己および他者が特定の状況においていかに行動すべきか、またしなければならないかということに関する指令)に変換する信念とイデオロギーの次元がある。

第三に、いくつかの領域に沿う規範の次元がある。(1)一定タイプ(たとえば、職業、遊戯、社交、家族など)の活動のために適当な行動の輪郭を指示する制度規範、(2)特定の状況で行動するための適当な方法を具体化している制度規範、そして、(3)広範な制度的舞台上の具体的状況において活性化する感情的構成を特定する感情規則(Hochschild 1975,1979,1983)

第四に、状況の物理的な小道具をどのようにうまく操作するかについての技能もしくは知識がある。

第五に、出会いにおいて用いられる表象の適切なテクストもしくは言語学的様相(たとえば、ジャンル、話し方、言説の様式など)がある。これらは図5-1に概説されている。」

 文化シンボルの貯蔵
  │
 言語────────────────┬─┬──────┐
  │           │ │     │
 価値          伝統 テクスト 技術
 (高度に抽象的で     │   │                   │
 一般的な善悪の基準)   └─┼───────┘
    ↓↑           │
 信念とイデオロギー ←──────┤
 (いかに行動すべきか     │
 に関する指令)        │
    ↓↑           │
   制度規範 ←──────────┤
 (適当な行動の輪郭を指示   │
    ↓↑           │
   組織規範 ←──────────┤
 (行動するための       │
 適当な方法を具体化)     │
    ↓↑           │
   対人規範 ←──────────┘
 (具体的状況における感情規則)

 「そして第六に、価値、信念や規範にしたがって、相互作用の過程になにが含まれ、なにが排除されるべきかについての指示を行うフレームがある。そしてそれらは図5-2にしめしたいくつかの基礎次元ごとに異なる。

だから、これは文化の力が状況における感情のフローを制約し、また文化の力からの明快な指針がなければ、臆病さと絶え間ない違反(当惑、恥、怒り、悲しみ他の離反的感情を生成する)のゆえに、相互作用を維持することが難しい。」

 知識の貯蔵
  └フレームの発明
    ├身体フレーム
    │├身体間の受けいれられる距離
    │├身体アクセスの許容度
    │└身体に関する部位
    ├人口統計学的フレーム
    │├個人の適切な人数
    │├個人の適切な密度
    │└個人の適切な移住
    ├物理的距離フレーム
    │├妥当な小道具
    │├妥当な舞台
    │└妥当な物理的境界
    ├組織フレーム
    │├妥当な組織領域
    │├妥当な組織状況
    │└妥当な準拠集団
    ├文化フレーム
    │├妥当な価値前提
    │├妥当な信念体系
    │└妥当な規範
    └個人フレーム
     ├妥当な人生史の部分
     ├妥当な親密性の水準
     └妥当な自己包絡の水準

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.213-216、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))

2024年1月14日日曜日

15. 人間はすべての出会いにおいて文化的制約、地位のネットワークとこれらの地位の占有者の性質、そしてすべての出会いにおける他者の処理欲求を理解できるよう偏向させられている。われわれの脳はこうした情報を探索している。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

人間はすべての出会いにおいて文化的制約、地位のネットワークとこれらの地位の占有者の性質、そしてすべての出会いにおける他者の処理欲求を理解できるよう偏向させられている。われわれの脳はこうした情報を探索している。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 「これらすべての諸力――文化的、構造的、および対人関係的――には、固く配線された基盤があるとわたしは確信している。

どの出会いにおいても、人間は文化、構造、そして処理欲求(自らのそれであれ、他者のそれであれ)に注意を向けるよう偏向させられている。なぜなら、これらは対面的相互作用を継続させるからである。

妥当な文化的象徴、社会構造的人口統計学についての理解、そして処理欲求を適えることに関して不一致があるならば、相互作用はほどなく不統合になり、そして怒り、恐れ、悲しみなどの離反的感情を喚起するかもしれない。

こうした諸力に関する合意、あるいは少なくとも感知される合意がある場合、より結合的な感情が満足-幸せの変種と精巧化を中心に展開し、活性化する。

したがって人間はすべての出会いにおいて文化的制約、地位のネットワークとこれらの地位の占有者の性質、そしてすべての出会いにおける他者の処理欲求を理解できるよう偏向させられている。われわれの脳はこうした情報を探索している。

そして感情ごとに配列されたわれわれの感情の貯蔵庫が出会いの経験を通して構築されるにつれて、われわれは必要な情報を確保し、そして次に、われわれの神経的特徴である感情統語法によって、またわれわれの神経学的特徴が知識の貯蔵庫に蓄えている方法によって、さらにこうした貯蔵庫が、相互作用において使用するために抽出され、利用できるような形で秩序づけられた適切な反応を活性化するために、他者の感情を帯びた合図を読み解くことに熟達することになる。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.217-218、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))




2024年1月11日木曜日

14. 自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

 「人間に特有な能力の一つは、自分をある状況において対象とみなすだけでなく、ある一定種類の存在としての持続的な概念化と自らのアイデンティティを自らの内面にもちつづけうる力である。

自己言及活動(self-referential behavior)を行うことができるという人間の能力は、相互作用に新たな次元を付け加えるが、この能力は人間の感情装置を抜きにしては成り立たない。

確かに、一定水準の新皮質の発達が自己の中程度の期間にわたる記憶保持にとっての基本であるが、しかし自己認知は古生的な皮質下辺縁系の過程に起因する感情標識と感情価によってのみ可能である。

感情を抜きにして人間はワーキング・メモリー内にわずか数秒間しか自己イメージを維持できず、あるいはより安定し、一貫したアイデンティティを保持できないことが認識できると、われわれはヒト科の感情能力と自己に関わる能力とが互いに他者を情報源として利用するように紡ぎあわされていることを知ることになる。

自己を評価するために、より多くの感情が利用できるようになると、行動反応を組織するための自己の重要性がますます拡張することになった。

そして自己が相互作用にとって基本的であるほど、感情の精巧化は自己に媒介された対人関係によってますます制約されていった。

 感情の精巧化が社会性の低い類人猿の集団連帯を増加するための基盤であったとすれば、こうした感情は自己意識的な個人をめざす必要があったはずである。

いっそう感情的に適応した動物にあって、道徳記号、肯定的ならびに否定的裁可の使用、協同的交換、および意思決定に向けて感情を動員し、また経路づけることは、感情価によって自分自身と他者をみつめ、評価できる能力なくして起きるはずはない。

社会統制と、こうした統制によって可能になる調整は、個人による自己制御によってもっともよく達成される。こうした個人は自分を対象とみなし、また道徳記号と他者の期待に応答する自己評価を介して一つづきの行動について意思決定を行う。

自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.190-192、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))




2024年1月2日火曜日

13.選択は、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整を強化した。行動水準においては、その証拠は明白である。儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

選択は、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整を強化した。行動水準においては、その証拠は明白である。儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))


 「選択が神経学的水準において、脳にどのように働いたかをある程度知ることができる。

つまり、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整の強化である。

行動水準においては、その証拠や人間が相互作用するときはいつでも、またすべての相互作用においてそれは明白である。

儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。

これらの信号のいずれかが失われ、あるいは不適当なやり方で生産されると、たとえ手段的な音声によるお喋りの流れはつづいているとしても、相互作用は緊張を帯びることになる。

なぜなら、われわれのヒト科の祖先が社会結合を強化するために最初に用いた非音声的で感情的な一連の合図をともなわなければ、言語だけで相互作用の流れを維持することはできないからである。

もっと原基的で、視覚に基づく感情言語をともなわなければ、相互作用はいくつかの側面で問題を発生させる。

個人はその出会いになにが含まれ、またなにが排除されるべきかという点に関して、どのように枠組みを設定すればよいかに確信がもてない(Goffman 1974;Turner 1995,1997a)。

個人は使用すべき妥当な規範や他の文化システムに確信がもてない。

個人はどのような資源、とくに相互作用にとって基本である内面的な資源のうちなにが交換されるべきかということに確信がもてない。

個人が進行中の相互作用のフローの一部分をなしているかどうかについて確信がもてない。

他者が行うものと想定されていることがらを確かにその人たちが行うと信用できるかどうか確信がもてない。

他者の反応を予測できるかどうかに確信がもてない。

そして個人が他者と同じ仕方で他者との状況を主観的に経験していると想定することができるかどうか確信がもてない。

ハロルド・ガーフィンケル(Garfinkel 1966)が初期に実施した「日常的な秩序を破壊する実験」は、対面的相互作用がとても脆弱であることを検証している。そして相互作用がいとも簡単に壊れてしまうことも検証している。

われわれの相互作用がとても壊れやすいのは、生物学的プログラムとしてのわれわれの遺伝子に、高水準の社会連帯に向う傾向がないからである。

だから、われわれは相互作用をぎこちなくしないために、精妙で複雑な感情コミュニケーションを用いなければならないのである。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.172-173、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))


2023年12月28日木曜日

12.意識的情動の性質は皮質下と皮質の水準における視床経由による辺縁系への現在の刺激と、過去に指標を与えられ、表象された記憶を、適当な感覚皮質と身体系を活性化するコード化された指示の集合として海馬による再刺激と組み合わされた複雑な混合物である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

 意識的情動の性質は皮質下と皮質の水準における視床経由による辺縁系への現在の刺激と、過去に指標を与えられ、表象された記憶を、適当な感覚皮質と身体系を活性化するコード化された指示の集合として海馬による再刺激と組み合わされた複雑な混合物である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))


 「記憶は、海馬を介して記号化された指令を遷移性皮質と前頭葉から引きだすことに関係し、そして次に、それを適当な感覚皮質に放出する。

したがって、記憶の想起は、新皮質に貯蔵されすでにできあがった、また完全に発達した画像もしくはイメージを引きだすことに関係しているのではなく、むしろ、これは新皮質に、あるいはより中間的に遷移性皮質に貯蔵されている、急場しのぎの伝達法、記号化された指令の活性化をともなっている。

遷移性皮質は、記憶に記号化された経験を大ざっぱな形で再生産するために、感覚皮質と適切な身体系を再活性化させる(Damasio 1994)。 

この経験が重い感情的内容をもつならば、この記憶の再生は、その記憶に元の経験と同じくらい多くの感情内容を与える四つの身体系を作動させるであろう。

 なぜ社会学者は意識的情動を生産するこうした力学に関心をもつのだろうか。わたしの答えはこうだ。

意識的情動を生産する力学は、われわれが社会的相互作用を分析する際に、意識的情動をどのように概念化するかという点に大きな影響を与えるからだ。ある人が恥、罪、幸せ、怒り、あるいはどのような感情であれそれを感じるとき、こうした意識的情動は四つの身体系の――現時点における視床の直接の刺激からの、そして過去において活性化された関連する身体系を再度刺激するために感覚皮質に再発火することからの――動員をともなう。

したがって、意識的情動の性質は皮質下と皮質の水準における視床経由による辺縁系への現在の刺激と、過去に指標を与えられ、表象された記憶を、適当な感覚皮質と身体系を活性化するコード化された指示の集合として海馬による再刺激と組み合わされた複雑な混合物である。

しかししばしば、人が自らある感情を認知するずっと以前に、その人の周りにいる他者は、身体系を通して皮質下で表現され、そしてときに意識的情動として意識に浸透している基礎的な感情をみることができる。

われわれはそうすることができるようになったのだ。それは、視覚様相を介して感情を帯びた結合を形成することのできる動物を生みだすため、われわれヒト科の祖先に働いた自然選択の作用の結果なのである。

それゆえ、意識的情動の社会学(sociology of feelings)は感情的身体系のより一般的な、そして、進化の用語を用いるならば、より原基的な動員の特別なケースでしかない、あるいはたぶん、あまり重要ではないケースでしかないのである。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第4章 人間感情の神経学、p.149,p.152、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))


2023年12月23日土曜日

11,意識はほとんどいつも辺縁系――辺縁系から直接に、あるいは辺縁系からの感情的入力をもって視床下部によって過去に付け加えられた中間的ならびに長期的記憶を介して間接に――からの入力情報と関係している。ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 意識はほとんどいつも辺縁系――辺縁系から直接に、あるいは辺縁系からの感情的入力をもって視床下部によって過去に付け加えられた中間的ならびに長期的記憶を介して間接に――からの入力情報と関係している。ジョナサン・H・ターナー(1942-)


 「意識に関係する脳の重要な構造は前頭前皮質であり、これが事実上、脳のすべての部位――新皮質、辺縁系、および他の皮質下系――と連動している(MacLean 1990,Damasio 1994)。


刺激の意識化は感覚の様相――視覚、聴覚、嗅覚、触覚――を通じて入力情報を受け取り、そして次に、視床の特化した感覚領野へとすすむ。

そしてそこから、感覚入力は皮質下辺縁系および新皮質の適当な脳葉の両方――すなわち、視覚は後頭、聴覚は側頭、触覚は頭頂、臭いは嗅球――に移動する(後者は直接にさまざまな辺縁系、とくに扁頭体を収容している皮質下領野に伝えることに注意を払わなければならない。そのため、臭いはしばしば感情を急速に高める)(Le Doux 1996)。

新皮質のかなりの部分を構成し、また感覚入力を統合することに関係する連合皮質はあるイメージを生成し、そしてそれを一時的に緩衝器に貯蔵する(Geschwind 1965a,1965b)。

そのあと、海馬傍皮質、嗅周野皮質および嗅内野皮質からなる遷移性皮質がそのイメージを貯え、そしてそれらを海馬に送る。

次に、海馬は一つの表象を作り、それを中間的な貯蔵のための記憶として遷移性皮質に送る(Heimer 1995;Gloor 1997)。

最近の研究では、海馬傍皮質は、前頭前皮質の背外側部と相互作用して、記憶が継続するかどうかを決める際にとくに重要であることが示唆されている(Rugg 1998,Brewer et al.1998)。

もしあるイメージが、数年後に、経験もしくは思考によって再活性化されると、組み立てられたイメージは長期にわたる記憶として貯蔵するするために新皮質、とりわけ前頭葉に送られる(Damasio 1994;Echenbaum 1997;Vargha-Khadem et al.1997)。

 皮質下の記憶システムはこの過程に強く関係しており、視床、海馬、扁頭体、および前帯状回を介して情報を視床下部および前頭前皮質に伝える。次に、これがその情報を遷移性皮質に貯留し、そして視床下部によって表わされる一時的な緩衝器に位置づけられる。

意識はほとんどいつも辺縁系――辺縁系から直接に、あるいは辺縁系からの感情的入力をもって視床下部によって過去に付け加えられた中間的ならびに長期的記憶を介して間接に――からの入力情報と関係している。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第4章 人間感情の神経学、pp.148-150、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))




2023年12月15日金曜日

10.人間は精神分析理論が示唆しているほどに感情反応を抑制することに関わっていないということである。むしろ人間は皮質下に貯蔵されている感情記憶を意識していない。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))


人間は精神分析理論が示唆しているほどに感情反応を抑制することに関わっていないということである。むしろ人間は皮質下に貯蔵されている感情記憶を意識していない。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

「感情記憶システムの存在は、ある人によって表現され、他者によって読まれる感情信号が、その人の意識的思考から取り外されたままであることを確証している(Bowers and Mechenbaum 1984)。

それは意識的情動(feeling)でなく、感情(emotion)であろう。ここでもまた、こうした無意識の感情記憶が多くの点で意識的な記憶よりも役割取得にとってはるかに基本的であることが想定されている。

事実、もし他人から、今ある感情反応が起きていることがわかると言われたら、あるいはもし身体的なフィードバックが感情的実感として意識に浸透していくほどに強かったら、その人が一定の感情(emotion)を放出し、あるいは経験することにそれでもなお驚き――そして驚くだけでなく――、その感情的反応の源泉に関して確信をもつこともできない。

この無意識的な記憶システムのもう一つの含意といえるのは、人間は精神分析理論が示唆しているほどに感情反応を抑制することに関わっていないということである。むしろ人間は皮質下に貯蔵されている感情記憶を意識していないのである。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第4章 人間感情の神経学、p.144,pp.146-147、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))





2023年5月29日月曜日

言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言語ゲームは生活様式の一部

言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


(a)記号、語句、文を使ったあらゆる活動を含む。
(b)もちろん、数学のあらゆる分野も、言語ゲームの一種である。
(c)命令、記述、構成、報告、推測、仮説、検証、表や図による表現、物語の創作、演劇、輪唱する、謎をとく、冗談、噂、算術、翻訳、乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る。


「二三 
 しかし、文章にはどのくらい種類があるのか。陳述文、疑問文、それに命令文といった種類だろうか。―――そのような種類なら無数にある。すなわち、われわれが「記号」「語句」「文章」と呼んでいるものすべての使いかたには、無数の異なった種類がある。しかも、こうした多様さは、固定したものでも一遍に与えられるものでもなく、新しいタイプの言語、新しい言語ゲームが、いわば発生し、他のものがすたれ、忘れられていく、と言うことができよう。(この点の《おおよその映像》を、数学の諸変化が与えてくれよう。) 
 「言語《ゲーム》」ということばは、ここでは、言語を《話す》ということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることを、はっきりさせるのでなくてはならない。
  言語ゲームの多様性を次のような諸例、その他に即して思い描いてみよ。
命令する、そして、命令にしたがって行為する――― 
ある対象を熟視し、あるいは計量したとおりに、記述する―――
 ある対象をある記述(素描)によって構成する―――
 ある出来事を報告する―――
 その出来事について推測を行なう―――
 ある仮説を立て、検証する――― 
ある実験の諸結果を表や図によって表現する―――
 物語を創作し、読む―――
 劇を演ずる――― 
輪唱する―――
 謎をとく―――
 冗談を言い、噂をする―――
 算術の応用問題を解く――― 
ある言語を他の言語へ翻訳する―――
 乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る。 ―――
 言語という道具とその使いかたの多様性、語や文章の種類の多様性を、論理学者が言語の構造について述べていることと比較するのは、興味ぶかいことである。(さらにまた『論理哲学論考』の著者が述べていることとも。)」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学探究』二三、全集8、p.215、藤本隆志)

2023年5月28日日曜日

言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言語ゲーム( language game )

 言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「思考とは本質的には記号を操作することだと言うとき、君の最初の質問は、「では記号とは何か」であるかもしれない。―――この質問に何らかの一般的な答をする代りに、「記号を操作する」と言いうる具体的ケースのあれこれを君に注意深く観察することを求めたい。言葉[という記号]を操作する簡単な一例をみてみよう。私が誰かに「八百屋からリンゴを六つ買ってきてくれ」と命じる。このような命令を[実地に]果たす仕方の一つを描写してみよう。「リンゴ六つ」という字句が紙切れに書かれていて、その紙が八百屋に手渡される、八百屋は「リンゴ」という語をいろんな棚の貼札とくらべる。彼はそれが貼札の一つと一致するのを見つけ、一から始めてその紙片に書かれた数まで数える、そして数を一つ数える毎に一個の果物を棚から取って袋に入れる。―――これは言葉が使われる一つの仕方である。以後たびたび私が言語ゲーム( language game )と呼ぶものに君の注意をひくことになろう。それらは、我々の高度に複雑化した日常言語の記号を使う仕方よりも単純な、記号を使う仕方である。言語ゲームは、子供が言葉を使い始めるときの言語の形態である。言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態すなわち原初的言語の研究である。我々が真偽の問題、[すなわち]命題と事実との一致不一致の問題、肯定、仮定、問の本性の問題、を研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。これらの[問題での]思考の諸形態がそこでは、高度に複雑な思考過程の背景に混乱させられることなく現われるからである。言語のかような単純な形態を観察するときには、通常の言語使用を蔽っているかにみえるあの心的な[ものの]霧は消失する。明確に区分された、くもりのない働きや反応が見られる。それにもかかわらず、それらの単純な過程の中に、もっと複雑な[通常の]言語形態に連続している言語形態をみてとれる。この原初的形態に漸次新しい形態を付け加えてゆけば、複雑な形態を作り上げられることがわかる。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.45、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]



考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

表現する過程

 考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「そこでの私の意図のすべては、考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在しなければ《ならぬ》と考える誘惑を取除くことであった。 
 諸君に要領を一つ教えたい。君が、思考、信念、知識等の本性に困惑している場合には、思想の代りに思想の表現を置き換えてみること。この置き換えで厄介なところ、同時にまたそれがこの置き換えの狙いでもあるが、それは信念や思想その他の表現は或る文(センテンス)に過ぎないということである。―――その文は或る言語体系に属するものとしてのみ、すなわち或る記号系の中の一つの表現としてのみ、意味を持ちうる。そこで、この記号系を我々が述べる文のすべてに対するいわば恒久的な背景だと考え、紙の上に書かれ声に出された文こそ独立してはいるものの、心の考える働きの中には記号系が全部ひっくるめて存在している、と思いたくなるのだ。この心の働きは、記号のどんな手動操作にもできないことを奇跡的な方法でやってのけるように見える。しかし、何らかの意味で全記号系が同時に現在していなければならなぬという考えの誘惑が消えた時には、もはや表現と並んでそれらとは別な奇妙な心の働きの存在を《想定する》意味もなくなる。しかしこれはもちろん、特有の意識の働きが思想の表現には一切伴わない!ことを示したというのではない。ただ、前者が後者に伴わねば《ならぬ》、ともはや言わないだけなのである。
  「しかし、思想の表現は常に偽でもありうる。或ることを言い別のことを意味できるからである。」だが、或ることを言い別のことを意味する時におこる、場合場合で違うさまざまなことを考えてみ給え。―――次の実験をしてみ給え。「この部屋は暑い」という文を口にしながら「寒い」を意味してみる。そして何をやっているかを精しく観察してみ給え。
  こういう生き物を想像するのはたやすい。その生き物はプライベートな思考を「傍白」の形でする、そして嘘をつくには一つのことを正面きって話しついでその逆のことを傍白する。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.83-84、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]





思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考とは表現する行為そのもの

 思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


(a)「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。
(b)声にも出さず、内語もしないで、「明日は多分雨だろう」と考えることができるか。
(c)少なくとも、考えること抜きで話すことはできないだろうか。もちろんできる。
(d)掛算 7 × 5 = 35 を言うと共に、それを考える。
(e)今度は、考えることなしに言ってみる。


「次の実験をしてみ給え。或る文、例えば、「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。つぎに、同じことを考え、今意味したことをもう一度意味してみる、しかし今度は何も言わない(声にもださず、内語もしない)。つまり、明日は雨だろうと考えることが明日は雨だろうと言うことに伴う[それとは別の]ことならば、始めのことだけをやって二番目の行動を差控えてみよ、ということである。―――考えることと話すこととが歌の歌詞とメロディの関係にあるならば、丁度歌詞抜きで節だけを歌えるように、話すことをしないで考えることだけをやれよう。
  だが少なくとも、考えること抜きで話すことはできはすまいか。もちろんできる―――しかし、君が考えることなく話す場合、どんな種類のことを君はしているのかよくみてみ給え。まっさきに注目してほしいのは、「話し且つその中味を意味する」と呼びたい過程と、考えなしに話すと呼びたい過程とを区別するものは必ずしも、《話している時点で》起きることではない、ということである。この二つを区別するものが、話しの以前と以後に起きることである場合も十分にありうる。
  私が今慎重に、考えることなしに話すことをやってみるとしよう―――実際私はどういうことをするだろう。例えば、或る本から一つの文を読み上げる、だが自動的に読もうとする、すなわち、他の場合なら読むことで生まれてくるイメージや感情と一緒にその文を読まないように極力つとめる。その一つの方法は、朗読している間何か他のことに注意を集中する、例えば、朗読の間皮膚を強くつねることであろう。―――次のように言おう。考えることなしに文を話すとは、話にスイッチを入れ、話に伴うものごとの方のスイッチを切ることである。では、考えてほしい。その文を言うことなしに考えることはこのスイッチを逆にすることであろうか(前には切ったスイッチを入れ、入れたものを切る)、と。つまり、その文を言うことなしに考えるとは、今度は単に、言葉に伴ったものごとの方を留めて言葉の方を取り除くことか、と。或る文の思想をその文なしで考えようと実際に試みて、そしてこれが現に起きることかどうかをみてみ給え。 
 要約してみよう。「考える」「意味する」「願う」等のような言葉の使い方を吟味するならば、この吟味を経過することによって、思想を表現する行為とは別に何か奇妙な媒体の中にしまいこまれた奇妙な思考作用を探し求めたい誘惑から解放される。また、もはや既成の表現形式には妨げられることなく、思考の経験とは単に言表の経験である場合も《ありうるし》、言表の経験プラスそれに伴う他の経験からなっている場合もあることを認めることができる。(また次の場合を検討するのも有益である。掛算が文の一部である場合。例えば、掛算 7 × 5 = 35 を言うと共にそれを考える、今度は考えることなしに言ってみる、これらがどういったものであるか考えて見給え。)語の文法を吟味することで、偏りのない眼で事実を見ることを妨げていたその表現の固定化したしきたりが弱められる。我々の探究はこの偏りを取り去ろうとしてきたのである。この偏りが、我々の言語に埋めこまれている或る挿し画に事実の方が合わねば《ならぬ》という考えを強いるのである。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.84-86、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




2023年5月27日土曜日

思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考とは記号操作

思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「こうして、思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合には心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君は隠喩を使っている、[君の言い方で]心が主体であるのは、書く場合の主体は手だと言える場合とは違った意味である、ということに注意を向けてもらうだけだ。
  更にもし、思考がおこなわれる場合を云々するなら、その場所は書いている紙、喋っている口だと言う権利がある。ここでもし、頭や脳を思想の場所だと言うとすれば、それは「思考の場所」という表現を違った意味で使っているのである。頭を思考の場所と呼ぶ理由は何であるか検討してみよう。そういう表現の形を批判したり適切でないことを示すのがその意図ではない。なすべきことは、その表現の働き、その表現の文法を理解することである。例えば、その文法が、「口で考える」また、「紙上の鉛筆で考える」という表現とどういう関係にあるかをみることである。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.30、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]





記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

記号の意味とは何か

 記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。  (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用( use )であると言うべきであろう。 
 仮に記号の意味(簡単に言えば、記号で大切なもの)が、記号を見聞きするとき我々の心の中に作り上げられるイメージであるとしても、先に述べたやり方で、この心的イメージを我々の眼に見える外的事物、例えば描かれたイメージ[つまり画]や模造されたイメージ[つまり模型]で置き換えてみよう。すると、書かれている[無機的な]記号がそれだけでは死んでいると言うのであれば、それに描かれたイメージをつけ加えたところでそれらが一緒になったものが生きる道理はない。
 ―――事実、君が心的イメージを例えば描かれたイメージで置換えて見たとたん、またそれによってイメージが神秘的性格を失ったとたん、そのイメージは文にいかなるものであれ命を附与するとは思えなくなるのである。(実のところ、君が自分の目的に必要としたのはまさにこの心的イメージの神秘的性格だったのである。)
  我々のおちいりやすい誤りを次のようにも言えよう。我々の探しているのは記号の使用であるが、それを何か記号と《並んで存在》しているもののように考えて探すのだ、と。(この誤りのもとの一つはまたしても、「名詞に対応する物」を求める、ということである。)
 記号(文)はその意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。簡単に言えば、文を理解することは言語を理解することである。 
 文は言語体系の部分としてのみ命をもつ、とも言えよう。だのに人は、文に命を与えるものはその文に随伴する、神秘的な領域にある何かであると想像する誘惑に負けるのである。しかし、たとえ文に随伴するものがありとしても、すべてそれは我々にとってまた一つの記号にすぎぬであろう。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.27-28、大森荘蔵)

思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考過程を可視化する

 思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「思考過程のこの神秘的な外見の少なくとも一部を避ける方法がある。それは、これらの過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみるのである。例えば、「赤」という語を聞いて理解するときに、少なくともある種の場合には、心眼の前に赤いイメージがあることが不可欠のように思えよう。だが、赤の斑点を想像することを、赤い紙切れを見ることで置き換えてもいいではないか。[違いは]目で見る[赤紙の]像(イメージ)の方がずっと生き生きしていようだけのことである。色名が色斑と対応付けられている紙をいつもポケットに持ち歩いている男を想像してほしい。君は、そんな色サンプルの表を持ちまわるのはさぞ面倒だろう、連想機構こそその代りにいつも我々が使っているものだ、と言うかもしれない。しかしそういうのは見当違いだ、また、それは真実でない場合すら多くある。例えば、君が「プルシャン ブルー」という特定の色合いの青を塗るように命じられたとしたら、表を使って「プルシャン ブルー」の語から或る色サンプルに導かれ、それを君の色見本にする、ということをやらなければならない場合もあるだろう。
  我々の目的にとっては、想像の過程をすべて、物を目で見る過程、絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換えるのは一向に差支えない、また、内語を声を出して喋ることや書くことで置き換えるのも。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.26、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

線で描かれた絵

 何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))



「一二五 こんな種類の判じ絵のことを考えてみよう。そこで見いだすべきなのは、何か《一つの》特定の対象なのではない。そうではなくて、最初に見たときはその全体が、何のことかわからない線のもつれとみえるのだが、しばらく探っているうちに、例えば一つの風景画として現われてくるのである。―――この解がえられる前と後とで、この画像の眺めの相違はどこにあるのか。その二つの場合においてわれわれが画像を違ったふうに見ることは明らかである。しかし、解がえられた後で、今はこの画像はわれわれにあることを語るが、以前には何も語りはしなかった、と言いうるのは、どの範囲でのことか。
 この問を次のように立てることもできる。解が見いだされたということの一般的な特徴は何か。
 その判じ絵が解かれたときには、私はそのなかのある線を強くなぞり、いわば明暗の度合いを導入することによって、その解がわかるようにする、と、こう考えたい。では君は、君が描き入れた像を何故に解とよぶのか。
(a)それは一群の空間的諸対象を明らかにあらわしているから。
(b)それはある規則的な形の物体をあらわしているから。
(c)それは左右対称の形状だから。
(d)それは私に装飾的な印象をあたえる形状だから。
(e)それは私にとって既知のものと思われる物体をあらわしているから。
(f)いろんな解の目録があり、この形状(ないしこの物体)がそこに載っているから。
(g)それは私がよく知っている種類の対象をあらわしているから。すなわち、その対象は一瞬にして私に熟知のものだという印象をあたえる。私は一瞬のうちにあらゆる可能な連想をそれに結びつける。私はその対象が何というものか知っている。私はそれをしばしば見かけたことを知っている。私はそれが何のために使われるかを知っている、等々。
(h)それは私にとって既知のものと思われる顔をあらわしているから。
(i)それは私がそれとして認知する顔をあらわしているから。(α)それは私の友人某氏の顔である。(β)それは私がしばしば肖像で見たことのある顔である、等々。
(j)それは私がかつて見たことがあるのを覚えている対象をあらわしているから。
(k)それは私が(どこで見たかはわからないが)よく知っている装飾模様だから。
(l)それは、私がよく知っており、その名も、どこで前に見たかもわかっている装飾模様だから。
(m)それは私の部屋の調度をあらわしているから。
(n)私は本能的にこの線をなぞり、それで安定した感じをもつから。
(o)私はこの対象について話してきかされたことがあるのを覚えているから。
(p)私はその対象をよく知っているように思われるから。すなわち、ある言葉がそれの名前としてただちに私の心に浮んでくる。(ただしその言葉は既存の言語のどれにも属してはいない。)私は心のなかで言う、「そうだとも。それは甲であって、いくども乙で見たものだ。人はそれで丙を丁して、戊にするのだ」と。こうしたことは例えば夢のなかでおこる。等々。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』一二五、全集3、pp.240-242、山本信)
(索引:)



ウィトゲンシュタイン全集(3) 哲学的文法 1 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




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