2018年5月4日金曜日

6.現在の状況が感じさせる「落胆および不満」と「罪悪感および自己卑下」が、理想自己、あるべき自己を暗示する。「恥および当惑」と「恐れおよび危機感」が、特定の重要他者が考えると想定している理想自己、あるべき自己を暗示する。(E・トーリー・ヒギンズ(1946-))

理想自己とあるべき自己

【現在の状況が感じさせる「落胆および不満」と「罪悪感および自己卑下」が、理想自己、あるべき自己を暗示する。「恥および当惑」と「恐れおよび危機感」が、特定の重要他者が考えると想定している理想自己、あるべき自己を暗示する。(E・トーリー・ヒギンズ(1946-))】
自己不一致の例。
 わたしたちの現在の状況が「悲しみ」を感じさせるとき、その程度により「落胆および不満」と「罪悪感および自己卑下」とが区別される。「落胆および不満」は、現実自己と理想自己の信念の不一致を示し、「罪悪感および自己卑下」は、現実自己とあるべき自己の信念の不一致を示す。
 わたしたち自身によって過去なされたことについての、または現在のわたしたち自身についての、他の人たちが持ちうる意見を考えるときに「恥」を感じさせるとき、その程度により「恥および当惑」と「恐れおよび危機感」とが区別される。「恥および当惑」は、現実自己の信念と、特定の重要他者が考えると想定している理想自己との不一致を示し、「恐れおよび危機感」は、現実自己の信念と、特定の重要他者が考えると想定しているあるべき自己との不一致を示す。

(出典:Social Psychology Network
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「注:「自身」はその人自身の視点を、「他者」は重要他者(例:父親)の視点をさす。 [出典:Higgins(1987)に基づいて作成]」
自己不一致 誘発される感情
現実/自身 と 理想/自身 落胆および不満 私は、自分がなりたいほどには魅力的でないので、がっかりしてしまう。
現実/自身 と 理想/他者 恥および当惑 私は、両親が「こうあってほしい」と願うほど親切な人間ではないので、恥ずかしい。
現実/自身 と あるべき/自身 罪悪感および自己卑下 私は自分が嫌いだ。もっと強い意志をもたなければならないのに。
現実/自身 と あるべき/他者 恐れおよび危機感 私は、父が期待するほどには試験でがんばらなかった。父が怒るのではないかと心配だ。
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅴ部 現象学的・人間性レベル、第13章 内面へのまなざし、p.405、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:現実自己、理想自己、あるべき自己)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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5.自己に関する概念のタイプ:現実自己、理想自己、あるべき自己に関する信念。特定の重要他者が考えているであろう現実自己、理想自己、あるべき自己に関する自分自身の想定。(E・トーリー・ヒギンズ(1946-))

現実自己、理想自己、あるべき自己

【自己に関する概念のタイプ:現実自己、理想自己、あるべき自己に関する信念。特定の重要他者が考えているであろう現実自己、理想自己、あるべき自己に関する自分自身の想定。(E・トーリー・ヒギンズ(1946-))】
自己に関する概念のタイプ
(a) 現実自己/自身:自分が実際に持っている属性に関する信念。
(b) 理想自己/自身:自分が理想として持ちたい属性に関する信念。
(c) あるべき自己/自身:自分が持つべき属性に関する信念。
(d) 現実自己/他者:特定の重要他者が考える、自分が実際に持っている属性に関する想定。
(e) 理想自己/他者:特定の重要他者が考える、自分が理想として持ちたい属性に関する想定。
(f) あるべき自己/他者:特定の重要他者が考える、自分が持つべき属性に関する想定。

(出典:Social Psychology Network
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「注:各概念の表象には自分自身の観点だけでなく、重要他者の視点からの表象も含まれる。例えば、あなたの父親が考える「あるべきあなた」についての、あなたの知覚(例:やさしいよりも強くあれ)は、自己の「あるべき/他者」表象である。
[出典:Higgins(1987)に基づいて作成]」
自己概念 定義
現実自己 自分自身による自分の表象。自分が実際にもっている属性に関する信念。 私は、思いやりがあり、温かく、スポーツが得意で、魅力的な人間だ。
理想自己 こうありたいと希望し願う自分自身の表象。理想としてもちたい属性に関する信念。 私がぜひなりたいのは、気前がよく、寛容で、やり手で、人気があり、才気にあふれた、愛される人間だ。
あるべき自己 あるべき自分、あるべきだと感じる自分の表象。自分がもつべき属性に関する信念。つまり、もつべき義務があるもの。 私はもっと、野心的で、強く、よく働き、自分に厳しい人間であるべきだ。
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅴ部 現象学的・人間性レベル、第13章 内面へのまなざし、p.404、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:現実自己、理想自己、あるべき自己)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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4.脅威を無視することができない状況にならない限り、否定的な自己関連情報の選択的注意により、肯定的で社会的に望ましい自己像を一貫して維持し、自己高揚的な肯定バイアスを持つことは、きわめて適応的で精神的に健康なパーソナリティである。(ウォルター・ミシェル(1930-))

否定的な自己関連情報への選択的注意

【脅威を無視することができない状況にならない限り、否定的な自己関連情報の選択的注意により、肯定的で社会的に望ましい自己像を一貫して維持し、自己高揚的な肯定バイアスを持つことは、きわめて適応的で精神的に健康なパーソナリティである。(ウォルター・ミシェル(1930-))】
 次のようなパーソナリティ次元が存在する。
(a) 否定的な自己関連情報は避け、日常的なストレスや不安に対してあまり敏感ではなく、自分には問題や困難がほとんどないと考える。肯定的で社会的に望ましい用語で、自分自身のより好ましい点を一貫して表現するように記述する。ただし、脅威を単に無視することが許されない状況になると、それに注意を向け始め、ひどく心配する。
(b) 否定的な自己関連情報に注意を向ける傾向があり、より批判的で否定的な自己像を描く。
 精神力動論は、(a)のような否定的な情報や脅威の抑圧と認知的回避を「抑圧性」と記述し、脆弱で傷つきやすいパーソナリティの顕著な特徴であり、(b)のような正確な自覚と、自己の限界・不安・欠点への気づきは、「鋭敏性」と記述し、健康なパーソナリティの重要な構成要素であると考えてきた。
 しかし、自己高揚的な肯定バイアスを持ち、多くの状況下で脅威となる情報を意図的に避ける情動的鈍感さという態度は、洞察に欠けている脆弱なパーソナリティというより、きわめて適応的で精神的に健康なパーソナリティなのである。 

 「抑圧性 - 鋭敏性における個人差はしばしば自己報告式質問紙(Byrne,1964)によって測定されてきた。

この尺度において、抑圧者とは自分には問題や困難がほとんどないと記述する人のことである。その人たちは日常的なストレスや不安に対してあまり敏感ではないと報告するが、一方、正反対のパターンの人は鋭敏者とよばれている。

この尺度が測定する個人差は、重要な個人情報に対する選択的注意を予測することができる。」(中略)

一般的に、鋭敏者は否定的な自己関連情報に注意を向ける傾向があるが、抑圧者はそれを避け、より楽しいことだけを考えることを好む傾向がある。そして、脅威を単に無視することが許されない状況になると、抑圧者はそれに注意を向け始め、そのことをひどく心配する(Baumeister & Cairns,1992)ようである。

 抑圧者と鋭敏者は、自己記述においても異なっていた。

すなわち、抑圧者は肯定的で社会的に望ましい用語で、自分自身のより好ましい点を一貫して表現するように記述するのに対し、鋭敏者はより批判的で否定的な自己像を描いた(Alicke,1985; Joy,1963)。

しかし最も興味深いことは、その後の良好な精神的、身体的な健康を予測できる、楽観的なパーソナリティ像とより適合しているのは、鋭敏者ではなく抑圧者であるということである。


 これは精神力動論にとって驚くべきことである。

正確な自覚と、自己の限界・不安・欠点への気づき、すなわち鋭敏であることは、健康なパーソナリティの重要な構成要素であると仮定してきたからである。

対照的に、否定的な情報や脅威の抑圧と認知的回避は、脆弱で傷つきやすいパーソナリティの顕著な特徴であった。

もちろん、フロイト派が考えてきた強力な情動的抑圧は、この尺度で見いだされた抑圧者を特徴づけるような自己高揚的な肯定バイアスとはまったく異なっているであろう。同様に、精神力動論が考えてきた自覚の強化や個人的不安への気づきはまた、この尺度における「鋭敏性」とはまったく異なっているであろう。

しかし次の節でも述べるように(Miller,1987)、また他の多くの研究が示すように(Bonanno,2001; Seligman,1990; Tayler & Brown,1988)、多くの状況下で脅威となる情報を意図的に避ける情動的鈍感さという態度は、洞察に欠けている脆弱なパーソナリティというより、きわめて適応的で精神的に健康なパーソナリティなのである。」

(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅲ部 精神力動的・動機づけレベル、第8章 精神力動論の適用と過程、pp.259-261、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:否定的な自己関連情報への選択的注意)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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3.有能性への欲望:私たちには、活動それ自体を楽しみ、その効力感を感じ、有能性を獲得し効果的に機能すること、課題に習熟することへの欲求がある。例として、好奇心、刺激への欲求、遊び、冒険への欲求。(ロバート・W・ホワイト(1904-2001))

有能性への欲望

【有能性への欲望:私たちには、活動それ自体を楽しみ、その効力感を感じ、有能性を獲得し効果的に機能すること、課題に習熟することへの欲求がある。例として、好奇心、刺激への欲求、遊び、冒険への欲求。(ロバート・W・ホワイト(1904-2001))】
 好奇心や刺激への欲求、遊びや冒険への欲求は、活動それ自体を楽しむ自発的、積極的で創造的な活動であり、このとき感じる快は、能動的主体として生きているという効力感からもたらされる。この傾向は、生物が本来的に生きて活動しているという観点からは、有能性を獲得し効果的に機能すること、課題に習熟することへの欲求ともいえる。動機付けという観点からは、この欲求は内発的であり、賞賛などの外的報酬によるものではない。
検索(Robert W. White)
検索(ロバート・W・ホワイト)

 「好奇心や刺激への欲求、遊びや冒険への欲求などのさまざまな高次の動機は、すべて基本的な動機、有能性への欲望の一部とみなされる(White,1959)。

マレーとともに研究していたハーバード派人格学者ホワイトによると、日々の活動、例えば子どもの探究や遊び、会話、ハイハイや歩行でさえも、習熟や効果的に機能するための欲望を反映している。日々の活動はそれ自体で、内発的に満足し、効力感を生みだすのである。ホワイトはこれらの言葉で要点を論じている。

 『動機について考えるとき、積極的対応という、この総合的な傾向を考慮しないなら、恐怖、動因、情熱に支配され何もできない無力な生物という見方をせざるとえなくなる。文明の創造者どころか、生き延びることさえできないほど無力な存在である。

有能性を獲得するための奮闘努力が、生物が本来的に生きて活動しているということの最も明確な表象となっている。

それは、自分自身の人生と生活を能動的主体として生きている感覚を経験するときの自発性とがんばりの力である。この経験は効力感とよぶことができる。』(White,1972,p.209)

 有能性への動機づけは、課題の習熟それ自体への欲望であり、ランニング、ピアノの演奏、手品、チェス、新しい外科手術の手続きのような多様な課題に適用される。

ホワイトによると、習熟への欲望は飢えや性のような生物学的動因とは無関係に生じ、それらに由来するものではない。さらに、人々は、例えば賞賛や、注意、金のような外的報酬のためではなく、活動自体のための有能性への欲求を満足させる活動に従事する。

有能性への動機づけの概念は、人間が追い求め、それ自体を楽しむ膨大な範囲の創造的活動を強調する点において価値があり、動機づけや適応的な問題解決の研究に主要な役割を果たす(例:Dweck,1990)。

しかし、それは人間の行動に影響を及ぼす多くの動機の一つにしかすぎない。」

(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅲ部 精神力動的・動機づけレベル、第8章 精神力動論の適用と過程、pp.240-241、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:有能性への欲望、好奇心、遊び、刺激への欲求、冒険への欲求)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

ウォルター・ミシェル(1930-)
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2.生物的準備性の例:ヘビ、クモ、血、嵐、高所、暗闇、見知らぬ人への恐怖、言語の獲得、数学的な技能、音楽の観賞、空間知覚。(スティーブン・ピンカー(1954-))

生物的準備性

【生物的準備性の例:ヘビ、クモ、血、嵐、高所、暗闇、見知らぬ人への恐怖、言語の獲得、数学的な技能、音楽の観賞、空間知覚。(スティーブン・ピンカー(1954-))】
 何の条件づけも行われないうちから存在するしているような恐怖の対象がある。ヘビ、クモ、血、嵐、高所、暗闇、そして見知らぬ人に対する恐怖症はその典型的なものだ。これらは、進化過程において人類の生存の脅威であったようなものである。恐怖だけではなく、言語の獲得、数学的な技能、音楽の観賞、空間知覚などの高次精神活動においても、ある事柄は容易であるけれども他のことはそれほどでもないというように、生物的準備性をもたらしている(Pinker,1997)。

(出典:wikipedia
検索(スティーブン・ピンカー)
 「進化的アプローチはまた、人々が生物的に、進化過程において人類の生存の脅威であったようなものを恐れる傾向にあると主張している(Buss,1997; Seligman,1971)。あまり多くはないが、多くの人に共通した恐怖症は、実質的に普遍的なものと考えられる。ヘビ、クモ、血、嵐、高所、暗闇、そして見知らぬ人に対する恐怖症はその典型的なもので、それらには同一のテーマがある。進化過程の祖先を危険にさらしたものであり、それらを怖がるよう、私たちはあらかじめプログラムされているようである。ピンカー(Pinker,1997,p.387)は次のように述べている。「子どもはラットを恐がり、ラットは明るい部屋を恐がる。これらの恐怖は何の条件づけも行われないうちから存在し、子どももラットも、危険とそれらを容易に連合させる」。

このような知見は、進化の過程で形成され、脳内にあるとされる、あらかじめプログラムされている傾向として、近年になって議論されることが増えた広範なデータの一部にすぎない。

そして、これらの性質は、あるものに対してはそれほどでもないが他のものを強く恐れるというように、恐怖に関して人々を独特の形に準備しているだけでなく、言語の獲得から数学的な技能、音楽の観賞から空間知覚まで、すべての種類の高次精神活動においても、ある事柄は容易であるけれども他のことはそれほどでもないというように、生物的準備性をもたらしている(Pinker,1997)というのである。」

(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅱ部 生物学・生理レベル、第6章 脳、進化、パーソナリティ、pp.185-186、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:生物的準備性)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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1.不確かさへの志向:次のようなパーソナリティ次元が存在する。不確実さを正面から受けとめ新しい情報を求めて解決しようとする。逆に、不確実さに不快を感じて状況を回避し、新しい情報も求めない。(リチャード・M・ソレンティーノ(1943-)

不確かさへの志向

【不確かさへの志向:次のようなパーソナリティ次元が存在する。不確実さを正面から受けとめ新しい情報を求めて解決しようとする。逆に、不確実さに不快を感じて状況を回避し、新しい情報も求めない。(リチャード・M・ソレンティーノ(1943-)】
 次のようなパーソナリティ次元が存在する。
(a) 不確実さを扱うことに比較的自信があり、それを正面から解決しようとする傾向。
(b) 不確かさに不快になり、不確かさの主観的感覚が増加する状況を回避しようとする傾向。
 結果についてコントロールできない状況を経験した後、(a)の傾向の強い人は、その状況に関連する新しい情報を求めるのに対して、(b)の傾向の強い人は新しい情報を回避する。
 特殊例として、(a)の傾向の強い人は、「あるテストが重要な能力を診断する」と言われた方が、良い成績をとり、(b)の傾向の強い人は「テストが重要な能力を診断するものではない」と伝えられた方がが、よりよい成績をとる。(リチャード・M・ソレンティーノ(1943-))

(出典:Western University



 「人と状況の相互作用の例における個人差の次元として、不確かさへの志向の研究をみてみよう。このパーソナリティ次元は、不確実さを扱うことに比較的自信があり、それを正面から解決しようとする個人の極と、不確かさに不快になり、不確かさの主観的感覚が増加する状況を回避しようとする個人の極で定義される(Sorrentino & Roney,1986,2000)。

さて、次の問題を考えてみよう。結果についてコントロールできない状況を経験した人は、その後で新しい情報を回避するのか、それとも接近するのか。

あるテストが重要な能力を診断すると言われたなら、学生は成績がよくなるのだろうか。

これらの質問に対する回答は、個人の不確かさへの志向によって違ってくる。不確かさへの志向が高い人、すなわち不確かさに自信をもち、それをどうにかしようとする人にとって、二つの質問への回答はイエスである。しかし、不確かさが不快な人の答えは非常に異なったものとなる(Huber,Sorrentino,Davidson & Epplier,1992)。例えば、テストが重要な能力を診断するものではないと伝えられたほうが、よりよい成績をとる(Sorrentino & Roney,1986)。さらに、不確かさへの志向が低い人が制御不能状態を経験したとき、そして特に中程度に抑うつ的であったなら、新しい情報を回避する(Walker & Sorrentino,2000)。

そのため、すべては人のタイプと状況のタイプの相互作用によって決まってくる。そして、ある人にとって性格にあっている状況というのは、他の人にとっては苦痛かもしれない。」

(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅰ部 特性・性質レベル、第4章 性質の表出、p.107、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:不確かさへの志向、パーソナリティ次元)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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2018年5月3日木曜日

命題集 ルネ・デカルト(1596-1650) (3)情念論

命題集 ルネ・デカルト(1596-1650) (3)情念論


7.情念論
わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい。(ルネ・デカルト(1596-1650))
情念は、わたしたちを害したり益したりしうる対象の多様なしかたを反映している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

《目次》
7.1〈驚き〉
 7.1.1〈驚き〉の過剰としての〈恐怖〉
 7.1.2 大きいものへの〈驚き〉:〈重視〉
 7.1.3 小さいものへの〈驚き〉:〈軽視〉
 7.1.4 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈重視〉:〈崇敬〉
 7.1.5 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈軽視〉:〈軽蔑〉
   ※ 〈善〉〈悪〉については、後述する。
7.2〈快〉〈嫌悪〉
 7.2.1〈美〉〈美への愛〉(快)
 7.2.2〈醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 7.2.3〈広義の美〉〈美への愛〉(快)
 7.2.4〈広義の醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 7.2.5〈善〉〈善への愛〉
 7.2.6〈悪〉〈悪への憎しみ〉
7.3 わたしたちの状況・行為、他の人たちの状況・行為による〈善〉〈悪〉の感受
 7.3.1 わたしたちの現在の状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈悲しみ〉
 7.3.2 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉
 7.3.3 わたしたち自身によって過去なされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈内的自己満足〉〈後悔〉
 7.3.4 わたしたち自身によって過去なされた行為や現在のわたしたちに関する、他の人たちの意見による〈善〉と〈悪〉の感受:〈誇り〉〈恥〉
 7.3.5 他の人たちによってなされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈好意〉〈感謝〉〈憤慨〉〈怒り〉
 7.3.6 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈うらやみ〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉
 7.3.7 その他の〈善〉と〈悪〉の感受:〈倦怠〉〈いやけ〉〈心残り〉〈爽快〉
7.4 〈善〉〈悪〉〈美〉〈醜〉と、情念の関係
7.5 真なる〈善〉〈悪〉、偽なる〈善〉〈悪〉にもとづく情念
7.6 さまざまな〈愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受
 7.6.1 〈美〉と〈美への愛〉(快) (再掲)
 7.6.2 〈広義の美〉と〈美への愛〉(快) (再掲)
 7.6.3 〈善〉と〈善への愛〉 (再掲)
 7.6.4〈欲情の愛〉〈好意の愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
 7.6.5〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
 7.6.6〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
7.7 欲望論
 7.7.1 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉   (再掲)
 7.7.2〈欲望〉の種類
 7.7.3 〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉〈恐怖〉
7.8 自由意志論
7.9 徳
 7.9.1 欲望は、真なる認識に従っているか
 7.9.2 私たちに依存しないもの
 7.9.3 私たちにのみ依存するもの、自由意志
 7.9.4 意思決定に付随する情念:〈不決断〉〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉
 7.9.5 過去の意思決定に付随する情念:〈良心の悔恨〉
 7.9.6 徳とは何か?
 7.9.7 徳に伴う情念、知的な〈喜び〉〈高邁〉
 7.9.8 〈高邁〉の情念をもつ人々の関係
 7.9.9 〈高邁〉とは異なる〈高慢〉、正反対の〈卑屈〉

7.1〈驚き〉
「驚き」に不意を打たれ、激しく揺り動かさるとき、そこには既知ではない、想定外の、初めて出会う新しい対象が存在する。驚きが、知らなかったことを学ばせ、記憶にとどめさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
7.1.1〈驚き〉の過剰としての〈恐怖〉
7.1.2 大きいものへの〈驚き〉:〈重視〉
7.1.3 小さいものへの〈驚き〉:〈軽視〉
〈重視〉と〈軽視〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
7.1.4 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈重視〉:〈崇敬〉
7.1.5 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈軽視〉:〈軽蔑〉
〈崇敬〉と〈軽蔑〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ※ 〈善〉〈悪〉については、後述する。
崇敬とは、愛や献身とは異なり、善または悪をなしうる驚くべき大きな自由原因に対し、その対象から好意を得ようと努め何らかの不安を持って、その対象に服従しようとする、精神の傾向だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ※ 〈愛〉〈献身〉については、後述する。

7.2〈快〉〈嫌悪〉
美、広義の美、美への愛(快)、醜、広義の醜、醜への憎しみ(嫌悪)、善、善への愛、悪、悪への憎しみ。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であり、また欺くこともある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.2.1〈美〉〈美への愛〉(快)
 視覚で与えられた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈美〉であり、この快の情動を、〈美への愛〉という。快を感じさせるすべてのものが〈美〉であるわけではない。「それらはふつう、真理性がより少ない。したがって、あらゆる情念のうちで、最も欺くもの、最も注意深く控えるべきものは、これらの情念である。」情動と〈美〉とのこの関係性は、以下、情動と〈醜〉、〈善〉、〈悪〉との関係においても同様である。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であることだ。なぜなら、感覚が表象して精神にやってくるものは、理性が表象するものよりも強く精神を刺激するからである。

7.2.2〈醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 視覚で与えられた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。

7.2.3〈広義の美〉〈美への愛〉(快)
 ※〈特殊感覚〉のうち聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚、〈表在性感覚〉(皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚)、〈深部感覚〉(筋、腱、骨膜、関節の感覚)、〈内臓感覚〉(空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など)、「精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想」によって、快の情動がもたらされる場合。

7.2.4〈広義の醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 ※7.2.3と同様。

7.2.5〈善〉〈善への愛〉
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈善〉であり、この快の情動を、〈善への愛〉という。快を感じさせるすべてのものが〈善〉であるわけではない。

7.2.6〈悪〉〈悪への憎しみ〉
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。

7.3わたしたちの状況・行為、他の人たちの状況・行為による〈善〉〈悪〉の感受
7.3.1 わたしたちの現在の状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈悲しみ〉
〈喜び〉〈悲しみ〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたちの現在の状況が「喜び」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、「悲しみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。

7.3.2 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉
〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたち自身の現在の状況が、「喜び」を感じさせるとき、未来においてもそれを保存しようと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の保存の欲望
 わたしたち自身の現在の状況が、「悲しみ」を感じさせるとき、未来においてはそれを無くそうと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の不在の欲望、改善の欲望
 わたしたち自身の予測される未来が、避けるべき未来として「欲望」されるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の回避の欲望
 わたしたち自身のめざすべき未来が、新たな未来の獲得として「欲望」されるとき、このめざすべき未来には私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の獲得の欲望

7.3.3 わたしたち自身によって過去なされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈内的自己満足〉〈後悔〉
〈内的自己満足〉〈後悔〉、後悔の効用(ルネ・デカルト(1596-1650))
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、わたしたち自身によって過去なされたことが、「内的自己満足」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、わたしたち自身によって過去なされたことが、「後悔」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。

7.3.4 わたしたち自身によって過去なされた行為や現在のわたしたちに関する、他の人たちの意見による〈善〉と〈悪〉の感受:〈誇り〉〈恥〉
〈誇り〉〈恥〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたち自身によって過去なされたことについての、または現在のわたしたち自身についての、他の人たちが持ちうる意見を考えるときに「誇り」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、他の人たちが持ちうる意見を考えるときに「恥」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。
誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。また仮に、真の善・悪でなくとも、世間の人たちの非難、賞賛は十分に考慮すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.3.5 他の人たちによってなされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈好意〉〈感謝〉〈憤慨〉〈怒り〉
〈好意〉〈感謝〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
〈憤慨〉〈怒り〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、他の人たちによってなされた行為が、「好意」を感じさせるとき、またその行為がわたしたちに対してなされ「感謝」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、他の人たちによってなされた行為が、「憤慨」を感じさせるとき、またその行為がわたしたちに対してなされ「怒り」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。
怒りの効用、および怒りの治療法(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.3.6 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈うらやみ〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉
〈喜び〉〈うらやみ〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況が「喜び」や「うらやみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。この〈善〉が、その人たちにふさわしいか、ふさわしくないかに応じて、「喜び」または「うらやみ」を感じる。
 また、「笑いと嘲り」や「憐れみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。この〈悪〉が、その人たちにふさわしいか、ふさわしくないかに応じて、「笑いと嘲り」または「憐れみ」を感じる。

7.3.7 その他の〈善〉と〈悪〉の感受:〈倦怠〉〈いやけ〉〈心残り〉〈爽快〉
〈倦怠〉〈いやけ〉〈心残り〉〈爽快〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.4〈善〉〈悪〉〈美〉〈醜〉と、情念の関係
善・悪、美・醜には真・偽の区別があり、経験と理性を用いて認識することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

問題:(1)善を完全に知るには、無限といえるほどの知識が必要ではないか。(2)善の評価には、他の人の有益性も考慮すべきか。(3)他人の有益性の考慮がその人の性向だとしたら、違う人には違う「善」が完全だと承認させるのではないか。(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680))

(出典:wikipedia
解答:(1)自己の傾向性に多くを任せ、自己の良心を満足させれば十分である。(2)この世界と個人の真実を知れば、全体の共通の善も認識できる。(3)仮に自己利益の考慮のみでも、思慮を用いて行為すれば共通の善も実現される。但し、道徳が腐敗していない時代に限る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5 真なる〈善〉〈悪〉、偽なる〈善〉〈悪〉にもとづく情念
自分に欠けている真理を知ることが、悲しみをもたらし不利益であったとしても、それを知らないことよりもより大きな完全性である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5.1 真なる〈善〉への〈愛〉〈喜び〉〈欲望〉〈内的自己満足〉〈誇り〉〈好意〉〈感謝〉〈喜び〉〈うらやみ〉、真なる〈美〉による〈快〉
善への愛と悪への憎しみが、真の認識にもとづくとき、愛は憎しみよりも比較にならないほど善い。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5.2 真なる〈悪〉への〈憎しみ〉〈悲しみ〉〈欲望〉〈後悔〉〈恥〉〈憤慨〉〈怒り〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉、真なる〈醜〉による〈嫌悪〉
悲しみと憎しみは、喜びと愛よりも不可欠である。なぜなら、害を斥けるほうが、より完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
悪への憎しみは、真の認識に基づくときでも、やはり必ず有害である。なぜなら、この場合でも善への愛より行為することがつねに可能であるし、人における悪は善と結合しているからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5.3 偽なる〈善〉への〈愛〉〈喜び〉〈欲望〉〈内的自己満足〉〈誇り〉〈好意〉〈感謝〉〈喜び〉〈うらやみ〉、偽なる〈美〉による〈快〉
不十分な根拠にもとづく場合であっても、喜びや愛は、悲しみや憎しみよりも望ましい。しかし、偽なる善への愛は、害をなしうるものへ、わたしたちを結びつけてしまう。(ルネ・デカルト(1596-1650))
情念が、欲望を介して行動や生活態度を導く場合には、原因が誤りである情念はすべて有害である。特に、偽なる喜びは、偽なる悲しみよりも有害である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.5.4 偽なる〈悪〉への〈憎しみ〉〈悲しみ〉〈欲望〉〈後悔〉〈恥〉〈憤慨〉〈怒り〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉、偽なる〈醜〉による〈嫌悪〉

7.6 さまざまな〈愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受
7.6.1〈美〉〈美への愛〉(快) (再掲)
 視覚で与えられた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈美〉であり、この快の情動を、〈美への愛〉という。

7.6.2〈広義の美〉〈美への愛〉(快) (再掲)
 ※〈特殊感覚〉のうち聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚、〈表在性感覚〉(皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚)、〈深部感覚〉(筋、腱、骨膜、関節の感覚)、〈内臓感覚〉(空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など)、「精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想」によって、快の情動がもたらされる場合。

7.6.3〈善〉〈善への愛〉 (再掲)
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈善〉であり、この快の情動を、〈善への愛〉という。

7.6.4〈欲情の愛〉〈好意の愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
〈欲情の愛〉〈好意の愛〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ある対象に「欲望」を感じるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。
 ある対象に「好意」を感じ、その対象のために〈善〉を意志することを促されるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。

7.6.5〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ある対象を「所有したい」と感じるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、野心家が求める栄誉、主銭奴が求める金銭、酒飲みが求める酒、獣的な者が求める女。
 ある対象を第二の自己自身と考えて、その対象にとっての〈善〉を自分の〈善〉のごとく求めるとき、あるいはそれ以上の気遣いをもって求めるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、有徳な人にとっての友人、よき父にとっての子供たち。

7.6.6〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ある対象に「愛着」を感じるとき、それは、自分以下に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、一つの花、一羽の鳥、一頭の馬。
 ある対象に「友愛」を感じるとき、それは、自分と同等に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、自分が真にけだかく高邁な精神を持つと考え、また仮に、相手が不完全であると考えても、その相手に対してきわめて完全な友愛を持ちえないことはない。
 ある対象に「献身」を感じるとき、それは、自分よりも高く評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、神に対して、ある国に対して、ある個人に対して、ある君主に対して、ある都市に対して。

7.7 欲望論
7.7.1 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉   (再掲)
〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたち自身の現在の状況が、「喜び」を感じさせるとき、未来においてもそれを保存しようと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の保存の欲望
 わたしたち自身の現在の状況が、「悲しみ」を感じさせるとき、未来においてはそれを無くそうと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の不在の欲望、改善の欲望
 わたしたち自身の予測される未来が、避けるべき未来として「欲望」されるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の回避の欲望
 わたしたち自身のめざすべき未来が、新たな未来の獲得として「欲望」されるとき、このめざすべき未来には私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の獲得の欲望

7.7.2 〈欲望〉の種類
〈欲望〉の種類は、〈愛〉や〈憎しみ〉の種類の数だけある。そして最も注目すべき最強の〈欲望〉は、〈快〉と〈嫌悪〉から生じる〈欲望〉である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.7.3 〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉〈恐怖〉
善の獲得、悪の回避等が可能であると考えただけで、〈欲望〉がそそられる。そして、実現の見込みの大きさに応じて、次の情動が生じる:〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉。(ルネ・デカルト(1596-1650))
・不安の過剰が〈恐怖〉の一種

7.8 自由意志論
認識の欠陥による不決定な状態は、程度の低い自由である。また、真と善を明晰に見たときの躊躇のない判断・選択は自由を減少させるものではない。悟性には到達し難い一層広い範囲にまで、意志は及び得る。これが自由意志であり、誤りと罪の原因でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
悟性の及ぶ範囲を広げようとすることも、また、意志に違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
意志の自由は、確かにある。これはまさに、完全に確実ではないことを信ずるのを拒み得る自由が、我々のうちにあることを経験したときに、自明かつ判然と示された。(ルネ・デカルト(1596-1650))
しかしながら、私が自分の意志により選択するように思えることも、これがこの全宇宙の一部であるのならば、この宇宙を支配する法則によって、あらかじめ予定されていたものに違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
未解決問題:我々の精神が有限であるのに対して、この宇宙を支配する諸法則はあまりに深遠で知りがたく、いかにして人間の自由な行為が、未決定に残されるかを、未だ明快には理解することができていない。しかし、この自由は確かに経験される。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9
7.9.1 欲望は、真なる認識に従っているか
欲望の統御:欲望は、真なる認識に従っているか。また、私たちに依存しているものと、依存していないものが、よく区別できているか。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.2 私たちに依存しないもの
まったく私たちに依存しないものについては、それれがいかに善くても、情熱的に欲してはならない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.3 私たちにのみ依存するもの、自由意志
永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.4 意思決定に付随する情念:〈不決断〉〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉
わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉、実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉の情念が生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
不決断の効用、および過剰な不決断に対する治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))
臆病の効用、および臆病の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))
恐怖の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.5 過去の意思決定に付随する情念:〈良心の悔恨〉
〈不決断〉が取り除かれないうちに何かの行動を決した場合、そこから〈良心の悔恨〉が生まれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.6 徳とは何か?
自由意志にのみ依存する善きことをなすのが、徳という欲望である。これは、私たちに依存するものであるゆえに、必ず成果をもたらす。(ルネ・デカルト(1596-1650))
人間は、自由意志により自分の行為の創造者となり、賞賛に値するその行為によって、人間における最高の完全性に至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))
わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
徳とは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。この習性は、思考や教育から生み出される。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.7 徳に伴う情念、知的な〈喜び〉〈高邁〉
不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするときに感じるさまざまな情念は、私たちに、知的な喜びともいえる快感を経験させる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))
自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.8 〈高邁〉の情念をもつ人々の関係
高邁の情念をもつ人々は、善き意志という点で等しく、それ以外の美点で異なっていても過大に劣っているとか優れていると考えることはない。また、犯された過ちも認識の欠如によると考えて許そうとする。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.9.9 〈高邁〉とは異なる〈高慢〉、正反対の〈卑屈〉
自由意志以外のすべての善、例えば才能、美、富、名誉などによって、自分自身を過分に評価してうぬぼれる人たちは、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。(ルネ・デカルト(1596-1650))
自分は決断力がなく、自由意志の全面的な行使能力がないと考えるのが、卑屈すなわち悪しき謙虚であり、高邁の正反対である。(ルネ・デカルト(1596-1650))


(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (3)情念論
 7.情念論
 7.1〈驚き〉
 7.2〈快〉と〈嫌悪〉
 7.3 わたしたちの状況・行為、他の人たちの状況・行為による〈善〉〈悪〉の感受
 7.4 〈善〉〈悪〉〈美〉〈醜〉と、情念の関係
 7.5 真なる〈善〉〈悪〉、偽なる〈善〉〈悪〉にもとづく情念
 7.6 さまざまな〈愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受
 7.7 欲望論
 7.8 自由意志論
 7.9 徳

ルネ・デカルト(1596-1650)
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