2018年2月27日火曜日

情念は、わたしたちを害したり益したりしうる対象の多様なしかたを反映している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念と利害

【情念は、わたしたちを害したり益したりしうる対象の多様なしかたを反映している。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 情念を引き起こすのは、対象のうちにあるいろいろな性質すべてによるのではない。ただ、対象がわたしたちを害したり益したりしうる多様なしかた、あるいは、一般にそれら対象がわたしたちに重要となる多様なしかたによる。
 「感覚を動かす対象がわたしたちのうちにいろいろな情念を引き起こすのは、対象のうちにあるいろいろな性質すべてによるのではない。ただ、対象がわたしたちを害したり益したりしうる多様なしかた、あるいは、一般にそれら対象がわたしたちに重要となる多様なしかたによる。そして、あらゆる情念の効用は、自然がわたしたちに有用だと定めているものを、精神が意志しその意志を持ちつづけるようしむけること、ただこのことのみにある。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五一、p.52、[谷川多佳子・2008])
(索引:)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念は善い

【情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「わたしたちはいま、情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい、と知っているからだ。そして、悪用法や過剰を防ぐには、わたしが説明した治療法を、各人が注意深く実行すれば、それで十分だろうからだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 二一一、p.178、[谷川多佳子・2008])

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念から喜びを引き出す

【わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 精神は精神独自の快楽を持ちうる。だが、精神が身体と共有する快楽については、まったく情念に依存する。わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。このようにして、情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができるようになる。
 「精神は精神独自の快楽を持ちうる。だが、精神が身体と共有する快楽については、まったく情念に依存するものであり、したがって、情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができる。たしかに、かれらは、情念をよく用いることを心得ておらず、偶然的運にも恵まれない場合には、人生においてまた最大の辛さを見出すかもしれない。けれども、知恵の主要な有用性は、次のことにある。すなわち、みずからを情念の主人となして、情念を巧みに操縦することを教え、かくして、情念の引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、さらには、それらすべてから喜びを引き出すようにするのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 二一二、pp.180-181、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念)

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 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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デカルトの第三格率:運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

デカルトの第三格率

【デカルトの第三格率:運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めること。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めること。なぜなら、絶対的に私どもの手のおよばぬものも確かに存在するからである。この世界の秩序のなかで、私どもの権力の埒内にそっくり有るものは私どもの思想だけなのであり、自分にうち勝ち、最善を尽くしたことをもって、良しとすること。
 「私の第三の格率は、運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めることであった。一般的にいえば、私どもの権力の埒内にそっくり有るものは私どもの思想だけである。従って、私どもの外なるものについては最善を尽くしたのち、なお私どもの成功を妨げるものがあれば、私どもとの関係上、そのものはすべて絶対的に私どもの手のおよばぬものであると信ずるように自分を仕つけること。この格率はただこれだけで、自分には得らるまじきものを未来に得ようなどと、空しい欲望をおこさないために、つまり足ることを知れと戒めるために、十分であると私には思われた。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第三部、p.37、[落合太郎・1967])
(索引:デカルトの第三格率)

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 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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デカルトの第二格率:日常の生活行動において最も真実な意見が分からないときには、蓋然性の最も高い意見に従うこと。そして、薄弱な理由のゆえに自らのこの決定を変えてはならない。志を貫き行動することによって、真偽の見極めと軌道修正も可能となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

デカルトの第二格率

【デカルトの第二格率:日常の生活行動において最も真実な意見が分からないときには、蓋然性の最も高い意見に従うこと。そして、薄弱な理由のゆえに自らのこの決定を変えてはならない。志を貫き行動することによって、真偽の見極めと軌道修正も可能となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
日常の生活行動というものは、多くの場合すこしの猶予もゆるさぬから、どれが最も真実な意見であるかを識別する力が私どもに無いときには、蓋然性の最も高い意見に従わねばならぬ。そして、ひとたび自らそれを決定した以上は、どこまでも志を堅くして、薄弱な理由のゆえにこれを変えてはならない。なぜなら、森の中で迷ったならば、その場にたたずむよりも、またあちらこちら迷い歩くよりも、たとえ望む地点ではないにせよ、どこかにたどり着けるからだ。そうすれば、より正しい良い道を知り、また出直すことができる。
 「私の第二の格率は、私の平生の行動の上では私に可能であるかぎり、どこまでも志を堅くして、断じて迷わぬこと、そうしていかに疑わしい意見であるにせよ一たびそれとみずから決定した以上は、それがきわめて確実なものであったかのように、どこまでも忠実にそれに従うということであった。このことを私は旅人になぞらえたのであった。かれらが森の中で道に迷ったならば、もちろん一か所に立ちどまっていてはならないばかりでなく、あちらこちらとさまよい歩いてはならぬ、絶えず同じ方角へとできるだけ真直ぐに歩くべきである。たとえ最初にかれらをしてこの方角を択ぶに至らしめたものがおそらく偶然のみであったにもせよ、薄弱な理由のゆえにこれを変えてはならない。なぜなら、このようにするならば、かれらの望む地点にうまく出られぬにしても、ついには少なくともどこかにたどりつくであろうし、それはたしかに森の中にたたずむよりもよかろうから。さてこれとおなじで、日常の生活行動というものは多くの場合すこしの猶予もゆるさぬから、どれが最も真実な意見であるかを識別する力が私どもに無いときには、蓋然性の最も多い意見に従わねばならぬということがきわめて確かな筋道である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第三部、p.36、[落合太郎・1967])
(索引:デカルトの第二格率、森の中の旅人の喩え)

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 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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デカルトの第一格率:理性による判断が決意を鈍らせ不決断に陥らせるような場合には、私を育ててきた宗教、聡明な人たちの穏健な意見、国の法律、慣習に服従することで、日々の生活をできるだけ幸福に維持すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

デカルトの第一格率

【デカルトの第一格率:理性による判断が決意を鈍らせ不決断に陥らせるような場合には、私を育ててきた宗教、聡明な人たちの穏健な意見、国の法律、慣習に服従することで、日々の生活をできるだけ幸福に維持すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
私のさまざまの判断において、理性が決意を鈍らせているあいだにも、生活はできるだけ幸福につづけてゆき、自分の日々の行動にかぎっては不決断におちいらぬようにしなければならない。そのためには、私を幼時から育ててきた宗教をつねに守りながら、またその他のすべての事においては、最も聡明な人たちが実践上では一般に承認する最も穏健な意見に従って自分の舵を取りながら、国の法律および慣習に服従してゆくのがよい。
 「ところで、自分の住居を改築しはじめるより前に、これを取り払い、多くの材料と建築家を用意し、あるいはみずから建築術を習得し、なおまた綿密にその設計図を作成したりするだけでは十分でなく、その上さらに別の家を準備し、そこで仕事をするあいだも、気持ちよく暮らせることも必要であると同じように、私のさまざまの判断において理性が決意を鈍らせているあいだも、生活はできるだけ幸福につづけてゆき、自分の日々の行動にかぎっては不決断におちいらぬようにと、三、四の格率から成るにすぎないが、私は自分のために当座の準則を作ったのである。私はそれを諸君に伝えたい。
 第一の格率は、神の恵をもって私を幼時から育ててきた宗教をつねに守りながら、またその他のすべての事においては、私がともどもに生きてゆかねばならぬ人々のうちの、最も聡明な人たちが実践上では一般に承認する最も穏健な、極端からは最も遠い意見に従って自分の舵を取りながら、国の法律および慣習に服従してゆこうということであった。なぜというに、その当時から自分自身の意見などはこれをすっかり再検討したかったし、そういうものはいわば無視してかかったようなものであってみれば、最も聡明な人々の意見に従うに越したことはないと私は確信していたからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第三部、p.34、[落合太郎・1967])
(索引:デカルトの第一格率、宗教、法律、慣習、意見)

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 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月23日火曜日

哲学とは、真偽を識別し、この人生を導いてくれるようなものだ。自分の人生に大きな影響をもつ、この世間という大きな書物のうちで経験する様々な事物や事件のなかでこそ、私は、多くの真理に出会うことができよう。(ルネ・デカルト(1596-1650))

世間という大きな書物

【哲学とは、真偽を識別し、この人生を導いてくれるようなものだ。自分の人生に大きな影響をもつ、この世間という大きな書物のうちで経験する様々な事物や事件のなかでこそ、私は、多くの真理に出会うことができよう。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 哲学とは、真偽を識別し、自分の行く道をあきらかに見えるようにし、この人生を導いてくれるようなものだ。おのれに何の影響も与えぬような常識を遠ざかった空理を、真実らしいものに見せようと多くの才智や作為を労する学者たちが書斎であやつる推論よりも、一つ判断をあやまればすぐにも処罰されねばならぬ結果をきたすような、おのれにとって重大な事のために各人がこころみる推論においてこそ、はるかに多くの真理に出会うことができよう。そこで私は、(1)私自身のうちと、(2)世間という大きな書物のうちで探究を続けることにした。この中で、さまざまの経験を重ね、運命のさし出す偶然の事件でおのれを鍛錬し、眼の前に現れてくる物事については、そのものから何か利益を引き出せるような反省を加える。
 「この故に、先生たちの監督を離れてもいい年齢に達するやいなや、私は書物による学問を全くやめてしまった。そうして私自身のうちにか、あるいは世間という大きな書物のうちに見いだされうるであろう学問のほかは、どのような学問にしろもはや求めまいと決心し、旅行するために、宮廷と軍隊とを見るために、さまざまの気質や境遇を有する人々を尋ねるために、さまざまの経験を重ねるために、運命のさし出す偶然の事件でおのれを鍛錬するために、また到るところで眼の前に現れてくる物事については、そのものから何か利益を引き出せるような反省を加えるためにも、私は残りの青年時代を用いたのであった。いったい空理を真実らしいものに見せようと労すれば労するほど、いよいよますます多くの才智や作為を用いねばならなくなり、常識を遠ざかれば遠ざかるだけそれだけまた多くの空なるものをそこに見いだすであろうし、それ以外には何ひとつ実現するところなく、おのれに何の影響も与えぬ空理のために、学者たちが書斎であやつる推論においてよりは、一つ判断をあやまればすぐにも処罰されねばならぬ結果をきたすような、おのれにとって重大な事のために各人がこころみる推論においてこそ、はるかに多くの真理に出会うことができようと思われたからである。自分の行く道があきらかに見えるように、この人生において安全に歩けるように、真偽を識別することを学ぼうという、ぎりぎりの欲望を私はつねに持ちつづけた。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第一部、pp.19-20、[落合太郎・1967])
(索引:世間という大きな書物、書物による学問)

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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学であり、これら諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳にまで至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

一つの樹木のごとき哲学

【哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学であり、これら諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳にまで至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])
(索引:一つの樹木のごとき哲学、形而上学、自然学、最高かつ最完全な道徳)


哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)



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 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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すべての学問は相互に結合し、互いに他に依存しているから、事物の真理を探究しようと欲するなら、どれかただ一つの学問を選んではならない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真の哲学とは?

【すべての学問は相互に結合し、互いに他に依存しているから、事物の真理を探究しようと欲するなら、どれかただ一つの学問を選んではならない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「そこで、すべての学問が相互に結合していて、一を他から分離するよりも、すべてを一度に学ぶ方が、遙かに容易であることを、よく心得ねばならない。従って、何びとでも真面目に事物の真理を探究しようと欲するなら、どれかただ一つの学問を選んではならない。すべての学問は相互に結合し、互いに他に依存しているからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一、p.11、[野田又夫・1974])

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月22日月曜日

あらゆる学問は人間的知恵にほかならず、対象の相違によって諸々の学問に細分化して研究すべきだと思い込んだのは誤りである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真の哲学とは?

【あらゆる学問は人間的知恵にほかならず、対象の相違によって諸々の学問に細分化して研究すべきだと思い込んだのは誤りである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 あらゆる学問は人間的知恵にほかならず、このものはいかに異なった事象に向けられても、常に同一であることを失わない。諸々の学問を対象の相違によって互いに区別し、一つ一つ別々に、他のすべてと切り離して研究すべきだと思い込んだのは誤りである。精神を何らかの限界に閉じ込める必要はないのであり、事実、一つの真理の認識は、他の真理の発見を妨げることがなく、むしろかえって助けるのだからである。
 「人々は、もっぱら精神のもつ認識によって成り立つ学問(scientiae)と、身体の或る種の活動や素質を必要とする技術(artes)とを混同し、さらに、すべての技術が同時に同一人によっては学ばれえず、ただ一つの技術のみを練習する者の方が容易に優秀な技術家となること―――なぜなら同じ手が田畑の耕作と琴の弾奏とに、或いは同様な多くの異なる仕事に、習熟することは、それらの一つに習熟するほどたやすくはできぬから―――を見て、学問も同じであると信じた。そして諸々の学問を対象の相違によって互いに区別し、一つ一つ別々に、他のすべてと切り離して、研究すべきだと思い込んだのである。これは明らかにかれらの誤りである。何となれば、あらゆる学問は人間的知恵(humana sapientia)にほかならず、このものはいかに異なった事象に向けられても常に同一であることを失わず、またそれら事象から差別を受けとらぬことあたかも太陽がその照らす事物の多様から何の差別も受けとらぬのと同じである以上、精神を何らかの限界に閉じ込める必要はないのであり、事実、一つの真理の認識は、一技術の練習が他の技術の獲得を妨げるように、他の真理の発見を妨げることがなく、むしろかえって助けるのだからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一、pp.9-10、[野田又夫・1974])
(索引:人間的知恵、学問の細分化)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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