2018年4月21日土曜日

自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

高邁とは何か

【自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 自己を重視するようにさせる真の高邁とは、ただ次の二つにおいて成り立つ。真に自己に属しているものは、自由な意志決定のみであり、これのみが正当な賞賛・非難の理由であると知ること。そして、みずから最善と判断するすべてを、企て実行する意志をけっして捨てまいという、確固不変の決意を持つこと。
 「かくして、人間が正当になしうる限りの極点にまで自己を重視するようにさせる真の高邁とは、ただ次の二つにおいて成り立つ、とわたしは思う。一つは、上述の自由な意志決定のほかには真に自己に属しているものは何もないこと、しかもこの自由意志の善用・悪用のほかには正当な賞賛または非難の理由は何もないのを認識すること。もう一つは、みずから最善と判断するすべてを企て実行するために、自由意志を善く用いる、すなわち、意志をけっして捨てまい、という確固不変の決意を、自分自身のうちに感得すること。これは、完全に徳に従うことだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五三、p.134、[谷川多佳子・2008])
(索引:高邁、自由意志、賞賛、非難)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自由意志

【わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「そして、知恵の主要な部分の一つは、どんなやり方、どんな理由で、各人が自分を重視または軽視すべきかを知ることであるから、ここでそれについてわたしの意見を述べてみたい。わたしは、自分を重視する正しい理由となりうるものを、わたしたちのうちにただ一つしか認めない。すなわち、わたしたちの自由意志の行使、わたしたちの意志に対して持つ支配である。というのも、わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、また、わたしたちはこの自由意志の与える権利を臆病のせいで失わない限り、自由意志はわたしたちを自身の主人たらしめ、そうしてわたしたちをある意味で神に似たものとするからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五二、pp.133-134、[谷川多佳子・2008])
(索引:自由意志、賞賛、非難)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念が経験される知的な喜び

【私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 私たちが精神の内奥で、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足をつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱とそれに伴う情念のいかに激しい衝撃も、精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。なぜなら、不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえるのと同じように、共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れる喜びが、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼしているからである。精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識させられ、かえって、その混乱は精神の喜びを増すのに役だつであろう。
 不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえる。
 「これら内的情動が、それとは異なっているが共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れ、したがって、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼすものであるからには、次のことは確かである。つまり、わたしたちの精神が内奥にみずから満足するものをつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ、精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識できるようにさせられるので、これらの混乱はかえって、精神の喜びを増すのに役だつ。そして、わたしたちの精神がこのように満足するものをもつためには、ていねいに徳に従いさえすればよいのだ。というのも、自分が最善と判断したすべてを実行すること(徳に従う、とわたしが言うのは、このことだ)において、欠けることがあったと良心にとがめられないように生きてきた人は誰も、そのことからある満足を感得する。この満足は、その人を幸福にするきわめて強い力を持つので、情念のいかに激しい衝撃も、彼の精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四八、pp.128-129、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念が経験させる知的な喜び)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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3,人を使う技術:人は一般に恐怖よりも希望によって動かされる。従って、気前良くするよりは出し惜しみし、また使用人の中に良い待遇の実例をつくって見せ、希望をかきたてその心をつなぎとめておくこと。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

人を使う技術

【人を使う技術:人は一般に恐怖よりも希望によって動かされる。従って、気前良くするよりは出し惜しみし、また使用人の中に良い待遇の実例をつくって見せ、希望をかきたてその心をつなぎとめておくこと。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
(1) 自分の利益を守ろうとする主人は、けちけちしなければならない。また気前よくするよりはむしろ出し惜しみするようにしなければならない。その理由は、
(1.1) 使用人というものは、充分なものを受け取るやいなや主人を見捨てるものだ。
(1.2) また、これまで主人から受けていた手厚い取り扱いを、もう主人からしてもらえないようになると、たちどころに主人を見捨てる。
(1.3) 人間の性格は、一般に恐怖よりはむしろ希望によって動かされる。そこで、使用人の望みをかなえてやるよりは、むしろ希望を抱かせることによって、その心をつなぎとめておくべきなのである。
(2) 希望を抱かせる方法。
 折にふれて、使用人のうちの一人にだけ気前よくふるまうこと。一人の人間が、良い待遇を受けている実例を示す。これは、多くの人間がろくにかまってもらえないのを見てぞっとさせられるよりも、はるかに人々の希望をかきたてて満足を与える。

 「もし部下が、あたうかぎり節度をまもり感謝の気持ちを抱いているとすれば、主人たるものはあらゆる機会に応じて、できるだけのことをして彼らに報いてやらなければならない。
 けれども経験に照らしてみるに、以下のことが明らかである。実は私自身の使用人を観察していてわかったことなのだが、使用人というものは充分なものをうけとるやいなや、または、これまで主人からうけていた手あついとりあつかいを、もう主人からしてもらえないようになると、たちどころに主人をみすてるものなのである。

だから自分の利益をまもろうとする主人は、けちけちしなければならない。また気前よくするよりはむしろ出し惜しみするようにしなければならない。

そして使用人の望みをかなえてやるよりはむしろ希望を抱かせることによって、その心をつなぎとめておくべきなのである。

さらに、このやり方を成功させるためには、以下のようにしたらよろしい。つまり折にふれて使用人のうちの一人にだけ気前よくふるまうことである。本当にこれだけでよいのだ。

その理由は、人間の性格などというものは、一般に恐怖よりはむしろ希望によって動かされるものだからである。

また一人の人間が良い待遇を受けている実例を見せつけられることは、多くの人間がろくにかまってもらえないのを見てぞっとさせられるよりも、はるかに人々の希望をかきたてて満足を与えるものだからである。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、5 人を使う技術、pp.50-51、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:人を使う技術、恐怖、希望)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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機会から大きな利益を得る取引を引き出す情報の重要性:秘匿情報はその存在さえも悟られてはならない、目論見に反しない情報提供で相手の信頼を獲得する、話したい欲望や見栄による発言を自制する、腹を立て自説を根拠づけようと発言するなど危険きわまりない。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))

交渉における情報の重要性

【機会から大きな利益を得る取引を引き出す情報の重要性:秘匿情報はその存在さえも悟られてはならない、目論見に反しない情報提供で相手の信頼を獲得する、話したい欲望や見栄による発言を自制する、腹を立て自説を根拠づけようと発言するなど危険きわまりない。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))】
 交渉において、訪れる機会を一層上手に利用し、取引からいちばん大きな利益を得るのに最も重要なのは、相手よりも限界が広い情報である。交渉家相互の間では、情報の交換が行われ、情報を貰いたければ、与えざるをえない。このような状況で大切なことは、以下のことである。
 (1) 洩らして然るべき時機までは、秘密を見抜かれるようなことをしない。そればかりではなく、何かを隠しているということを、交渉相手に悟られてはならない。
 (2) 秘密を守ってくれる相手だという信頼をおいていることを示し、その確かな証拠として、こちらの目論見に反しない程度の事柄を、交渉相手に打ち明けるべきである。そうすると、向こうもこちらを信頼している証拠として、いろいろなことを、しばしば、こちらが洩らしたことよりもっと重要な事柄を、お返しに教えようという気持ちになるものである。
 (3) しゃべりたくてむずむずしても、その欲望に抵抗できるような自制心を持つ。相手の提案に対して、即座に、よく考えもしないで、返答をしようと見栄を張らないことである。
 (4) ましてや、相手の反駁に対して腹を立て、自説を根拠づけようとして、大切な秘密を話してしまうなどの失敗は、もってのほかである。
「立派な交渉家にとって、就中、必要なことは、何をいうべきかをよく自分で検討してみない中は、しゃべりたくてむずむずしても、その欲望に抵抗できるような自制心を持つことである。相手の提案に対して、即座に、よく考えもしないで、返答をしようと見栄を張らないことである。現代のあるよその国の有名な大使は、議論の最中に腹を立てやすい人で、相手が反駁して彼を怒らせると、自説を根拠づけようとして、しばしば大切な秘密をしゃべってしまったが、この大使のような過ちを犯さないように気をつけることである。」(中略)
「腕利きの交渉家は、洩らして然るべき時機までは、秘密を見抜かれるようなことをしない。そればかりではない。何か隠しているということを、交渉相手に悟られてはならない。秘密を守ってくれる相手だという信頼をおいていることを示し、その確かな証拠として、こちらのもくろみに反しない程度の事柄を、打ち明けるべきである。そうすると、向こうもこちらを信頼している証拠として、いろいろなことを、しばしば、こちらが洩らしたことよりもっと重要な事柄を、お返しに教えようという気持ちになるものである。交渉家相互の間では、情報の交換が行われる。情報を貰いたければ、与えざるをえない。この取引からいちばん大きな利益を得るのは、相手よりも限界が広いので、訪れる機会を一層上手に利用できる人である。この人こそ、最も敏腕な交渉家である。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第3章 交渉家の資質と行状について、pp.21-22、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))
(索引:交渉における情報の重要性)

外交談判法 (岩波文庫 白 19-1)




(出典:wikipedia
「こうしたいろいろな交渉の仕方のいずれの場合にも、彼は、とりわけ、公明正大で礼儀にかなったやり方で成功を収めるようにするべきである。もし、細かい駆け引きを用い、相手よりもすぐれているつもりのおのれの才智にたよって、成功しようなどと思うならば、それはまず思い違いというものである。みずからの本当の利益を知る能力をそなえた顧問会議をもたないような君主や国家はない。いちばん粗野なようにみえる国民こそが、実は、自分の利益を最もよく理解して、ひとよりも一層粘り強くこれを追求する国民であることがしばしばある。であるから、どんなに有能な交渉家でも、そうした国民を、この点で欺こうなどと思ってはいけない。むしろ、彼が役目柄提案している事柄の中には、彼らにとって本当に有利な点がいろいろあることを分かってもらえるように、おのが知識と知力の限りを尽くして努力すべきである。人と人の間の友情とは、各人が自分の利益を追求する取引にほかならない、と昔のある哲人が言ったが、主権者相互の間に結ばれる関係や条約については、なおさら同じことが言える。相互的な利益を基礎においていない関係や条約は、存在しない。各主権者が相互に利益を見出さない場合には、条約は効力をほとんど持ち続けないで、自壊する。従って、交渉のいちばんの秘訣はかかる共通の諸利益を共存させ、できれば変わらぬ足どりで、前進させるための方法を見つけることである。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第8章 交渉家の職務について、pp.58-59、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))

フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)
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君主の心得:自分の目的をしっかり守る、賞罰権を慎重に保持する、自分の知恵・才能に頼らない、自分の望み・考え・行動を秘匿する、臣下の知恵・才能を最大限発揮させる、臣下の意見と仕事の実績を査定し賞罰を与える。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

君主の心得

【君主の心得:自分の目的をしっかり守る、賞罰権を慎重に保持する、自分の知恵・才能に頼らない、自分の望み・考え・行動を秘匿する、臣下の知恵・才能を最大限発揮させる、臣下の意見と仕事の実績を査定し賞罰を与える。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
(1) 自分の目的とするところをしっかり守って、臣下の言動と実績を考えあわせ、君主としての賞罰権を慎重にわが手に持ってそれを固く握りしめ、臣下の野望、陰謀、邪心を起こさせないようにする。
(2) あなたに知恵があっても、それによって思慮をめぐらしたりはせず、すぐれた才能を備えていても、それによって自分で仕事をしたりはせず、勇気があっても、それによって自分で奮いたったりはしない。
(3) 君主が自分の行ったことを秘密にし、自分の心の端を見せないようにしたなら、臣下は君主の実情をはかりかねるだろう。
(3.1) 自分の望むことを外に出してはいけない。それを人に知らせると、臣下はきっとそれに合わせて自分を飾りたてるだろう。
(3.2) 自分の意向を外に出してはいけない。それを人に知らせると、臣下はきっとそれに合わせて自分の特技を見せびらかすだろう。
(3.3) こうして初めて、臣下の方ではありのままの生地をあらわす。
(4) 知恵者たちにその知恵を出しつくさせたうえで、君としてそれをふまえて物事を裁断する。賢者たちにその才能を発揮させたうえで、君としてそれをふまえて仕事をまかせてゆく。群臣にその武勇のありたけをつくさせ、苦労なことをひき受けさせ、主君は仕事の成果をわが物とする。こうすれば、功績があがれば君主が優秀だからだとし、過失があれば臣下の責任だとし、自分の名誉を守ることもできる。
(4.1) 意見のある者には自分から進んで言論を述べさせる。
(4.2) 君主はその意見によってそれに見あう仕事を与え、その仕事によってそれに応じた実績を要求する。
(4.3) 実績がその仕事にかなっており、仕事の内容がさきの意見どおりであれば賞を与えるが、実績がその仕事に相応せず、仕事の内容がさきの意見と違っておれば罰を与える。名君の道としては、臣下が意見を述べながら、その仕事がそれに相応しないということは、許されない。
「虚心であるから周囲の本当の情況がわかり、静かであるから周囲の行動の中心となるのである。意見のある者は自分から進んで言論をのべ、仕事をしようとする者も自分から進んで実績をあらわすようになるから、そこでその実績と言論とをつきあわせて一致するかどうかを調べることにすれば、君主自身は格別なことをしないでいて、その実情にまかせていけるのである。そこで、「君主は自分の望むことを外に出してはいけない。君主が自分の望むことを人に知らせると、臣下はきっとそれに合わせて自分を飾りたてるだろう。君主は自分の意向を外に出してはいけない。君主が自分の意向を人に知らせると、臣下はきっとそれに合わせて自分の特技を見せびらかすだろう」と言われる。だから、「君主が好き嫌いを外に出さないでいると、臣下の方ではありのままの生地をあらわし、君主が知恵の働きを外に出さないでいると、臣下の方では自分で慎重にふるまうことになる」とも言われる。そこで、名君は知恵があっても、それによって思慮をめぐらしたりはせず、万物がそれぞれのあり方をわきまえて落ちつくようにする。すぐれた才能を備えていても、それによって自分で仕事をしたりはせず、臣下に仕事をさせてその拠り所を観察する。勇気があっても、それによって自分で奮いたったりはせず、群臣にその武勇のありたけをつくさせる。それゆえ、名君は知恵を捨て去ることによってかえって明知を得、すぐれた才能を捨て去ることによってかえって功績があがり、勇気を捨て去ることによってかえって強さが得られるのである。」(中略)
「名君のやり方は、知恵者たちにその知恵を出しつくさせたうえで、君としてそれをふまえて物事を裁断するから、君として知恵にゆきづまることがない。また賢者たちにその才能を発揮させたうえで、君としてそれをふまえて仕事をまかせてゆくから、君として才能にゆきづまることがない。そして、功績があがれば君主が優秀だからだとし、過失があれば臣下の責任だとするから、君として名誉にゆきづまることがない。こうしたわけで、君主は賢者でなくても賢者たちの先生となり、知者でなくても知者たちの中心となるのである。臣下は苦労なことをひき受け、主君は仕事の成果をわが物とする、これをすぐれた君主の常法というのである。」(中略)
「君主が自分の行ったことを秘密にし、自分の心の端を見せないようにしたなら、臣下は君主の実情をはかりかねるだろう。君主が自分の知恵を棄て去り、自分の才能を無くして働かさないようにしたなら、臣下は君主の実情を推測しかねるだろう。自分の目的とするところをしっかり守って、臣下の言動と実績を考えあわせ、君主としての賞罰権を慎重にわが手に持ってそれを固く握りしめ、臣下の野望を断ちきり、臣下の陰謀をうちくだいて、君主の地位を望むような邪心を起こさせないようにするのだ。」(中略)
「だから、群臣がそれぞれの意見を述べると、君主はその意見によってそれに見あう仕事を与え、その仕事によってそれに応じた実績を要求する。実績がその仕事にかなっており、仕事の内容がさきの意見どおりであれば賞を与えるが、実績がその仕事に相応せず、仕事の内容がさきの意見と違っておれば罰を与える。名君の道としては、臣下が意見を述べながら、その仕事がそれに相応しないということは、許されない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』主道 第五、(第1冊)pp.80-81,84,88-89、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:)
(原文:5.主道韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)



韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:twwiki
「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非(B.C.280頃-B.C.233)
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2018年4月20日金曜日

交渉家の資質:注意深さと勤勉さ、物事の本質を把握し的確に目的達成する判断力、物静かで忍耐強い傾聴の力、相手から好かれるような性格、相手の心理への洞察力、障害を除去する機略縦横な能力、不意打ち状況でも的確に応答できる沈着さ。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))

交渉家の資質

【交渉家の資質:注意深さと勤勉さ、物事の本質を把握し的確に目的達成する判断力、物静かで忍耐強い傾聴の力、相手から好かれるような性格、相手の心理への洞察力、障害を除去する機略縦横な能力、不意打ち状況でも的確に応答できる沈着さ。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))】
(1) 浮薄な快楽や慰みごとに気を散らすことの決してなく、注意深く勤勉であること。
(2) 物事をあるがままにずばりと把握し、いちばん近道で無理のない方法で目標を達成する判断力をもつこと。洗練の度がすぎたり、意味のない細かな手立てにおぼれないこと。
(3) 気分にむらがなく、物静かで忍耐強く、相手の言うことに、何時でも気を散らさずに耳を傾けられること。
(4) 人との応対がいつも開けっぱなしで、おだやかで、ていねいで、気持ちがよく、また、物腰が気どらないでさりげなく、そのためにうまく相手から好かれること。
(5) 人の心の中で起こっていることを見破り、相手の感情をうまく利用できるような洞察力をもつこと。
(6) 利害の調整に当たって出くわす障害を、たやすくとり除いてしまうような機略縦横な才をもつこと。
(7) 思いがけぬ問題に不意打ちされても、うまく受け答えができ、分別のある答弁でその場を切りぬけられるような沈着さをもつこと。
「そのような資質とは、浮薄な快楽や慰みごとに気を散らすことの決してない注意深く勤勉な精神である。物事をあるがままにずばりと把握し、いちばん近道で無理のない方法で目標に進み、洗練の度がすぎたり、意味のない細かな手立てにおぼれて、よくありがちなことながら、交渉相手を尻込みさせるというような間違いを犯さない正しい判断力である。ひとの心の中で起こっていることを見破ることができ、どんなにおとぼけの上手な人でも感情を抑えきれないで、それが顔の表情などにちょっとでも出るのをすぐうまく利用できるような洞察力である。任務である利害の調整に当たって出くわす障害を、たやすくとり除いてしまうような機略縦横の才である。思いがけぬ問題に不意打ちされても、うまく受け答えができ、足をすべらしそうになっても、分別のある答弁でその場を切りぬけられるような沈着さである。気分にむらがなく、物静かで忍耐強く、相手のいうことに、何時でも気を散らさずに耳を傾けられるということである。人との応対がいつも開けっぱなしで、おだやかで、ていねいで、気持ちがよく、また、物腰が気どらないでさりげなく、そのためにうまく相手から好かれるということである(その反対は、重々しく冷たいそぶりや、陰鬱でむっとしたような顔つきで、これでは相手を尻込みさせるし、反発を招くのが普通である)。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第3章 交渉家の資質と行状について、pp.20-21、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))
(索引:交渉家の資質)

外交談判法 (岩波文庫 白 19-1)




(出典:wikipedia
「こうしたいろいろな交渉の仕方のいずれの場合にも、彼は、とりわけ、公明正大で礼儀にかなったやり方で成功を収めるようにするべきである。もし、細かい駆け引きを用い、相手よりもすぐれているつもりのおのれの才智にたよって、成功しようなどと思うならば、それはまず思い違いというものである。みずからの本当の利益を知る能力をそなえた顧問会議をもたないような君主や国家はない。いちばん粗野なようにみえる国民こそが、実は、自分の利益を最もよく理解して、ひとよりも一層粘り強くこれを追求する国民であることがしばしばある。であるから、どんなに有能な交渉家でも、そうした国民を、この点で欺こうなどと思ってはいけない。むしろ、彼が役目柄提案している事柄の中には、彼らにとって本当に有利な点がいろいろあることを分かってもらえるように、おのが知識と知力の限りを尽くして努力すべきである。人と人の間の友情とは、各人が自分の利益を追求する取引にほかならない、と昔のある哲人が言ったが、主権者相互の間に結ばれる関係や条約については、なおさら同じことが言える。相互的な利益を基礎においていない関係や条約は、存在しない。各主権者が相互に利益を見出さない場合には、条約は効力をほとんど持ち続けないで、自壊する。従って、交渉のいちばんの秘訣はかかる共通の諸利益を共存させ、できれば変わらぬ足どりで、前進させるための方法を見つけることである。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第8章 交渉家の職務について、pp.58-59、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))

フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)
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2.交渉者に秘かな意図を伝えるべきか。誠実で非常に優秀な者でなければ、交渉相手に信じ込ませたいことのみを伝えること。なぜなら、目的が明確であり折衝が心底からのものでなければ、効果的な交渉はできないからだ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

隠された意図

【交渉者に秘かな意図を伝えるべきか。誠実で非常に優秀な者でなければ、交渉相手に信じ込ませたいことのみを伝えること。なぜなら、目的が明確であり折衝が心底からのものでなければ、効果的な交渉はできないからだ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
 大使に自分の秘かな意図を伝えておくべきかどうか。
(1) 慎重で誠実で、主君にたいしては敬愛を感じ、他の君主に色目を使うなど思いにもよらぬほど、自分の主君に心服しているような大使の場合。派遣する大使に、自分の秘かな意図、相手方との折衝における企みを教え込むのが良策である。ただし、次のデメリットがある。
(1.1) もし大使が、その折衝が心底からのもので、見せかけのものではないと信じこんでいるばあいに演ずるような、大胆で効果的で真に迫った言動を、とることはむずかしくなる。
(1.2) また、どんな事態にも対処できるような細かい指示を大使に与えておくことは、ほとんどできない相談なので、大まかな目標にたいしてどう対処したらよいかを、自らの意志どおりに裁量できるようにしむけてやらなければならない。けれども、もし大使が、その目的を充分に理解していなければ、彼は目的を遂行しえない。このために、数かぎりないあやまちを犯しやすくなるのである。
(2) 君主が、自分の大使が完全に(1)のような条件をみたしているという確信がもてないときには、君主にとって最も安全な道は、大使に自分の心のなかを漏らさないようにしておくことである。そして、その君主が、外国の君主に信じこませようとしている同じことがらを、自分の大使にも植えつけておくことである。もし相手の君主をたぶらかそうとすれば、まず第一に自分自身の大使から、だましてかからなければならないと考えるからである。次のメリットがある。
(2.1) 大使が、それを本当のことだと思いこんでいるばあいには、事態が要求している以上に真に迫った行動をとることが多い。そしてもし大使が、自分の君主がある特定の目標を成就しようと本当に心を砕いているのだと信じきっているなら、その大使は、そのからくりを見抜いているばあいの行動にくらべて、折衝にあたって、より思いきったふるまいにでるものなのである。

 「君主の中には、大使を派遣するにあたって、その人物に自分のひそかな意図をあらいざらいうちあけて、相手方の君主との折衝で、もっていこうとしているたくらみまでも教えこむ人がいる。

また一方、別の君主の中には、相手方の君主に思いこませようとしていることだけを自分の大使に言っておくほうが良策だと考えている人がいる。

というのも、もし相手の君主をたぶらかそうとすれば、まず第一に自分自身の大使から、だましてかからなければならないと考えるからである。そしてこの大使が、相手の君主と折衝してあることを思いこませる役目を果たすことになるわけだ。

 両者いずれの考えにしても、それぞれの言い分がある。

というのは、前者のばあい、自分の主君が相手の君主に一杯くわそうとしているその意図をのみこんでいる大使は、もし彼がその折衝が心底からのもので見せかけのものではないと信じこんでいるばあいに演ずるような、大胆で効果的で真に迫った言動をとることはむずかしいと思われるからである。

すなわち偶然か故意かのどちらかで、君主の本心を知ってしまった大使なら、君主の本心を知らないままに行動するばあいのようには、とてもふるまえないのである。

 他方、大使がうそを吹きこまれて、しかも、それを本当のことだと思いこんでいるばあいには、事態が要求している以上に真に迫った行動をとることが多い。

そしてもし大使が、自分の君主がある特定の目標を成就しようと本当に心を砕いているのだと信じきっているなら、その大使は、そのからくりを見抜いているばあいの行動にくらべて、折衝にあたって、より思いきったふるまいにでるものなのである。

 また、どんな事態にも対処できるような細かい指示を大使に与えておくことは、ほとんどできない相談なので、大まかな目標にたいしてどう対処したらよいかを自らの意志どおりに裁量できるようにしむけてやらなければならない。

けれども、もし大使が、その目的を充分に理解していなければ、彼は目的を遂行しえない。このために数かぎりないあやまちを犯しやすくなるのである。

 私の考えによれば、慎重で誠実で、主君にたいしては敬愛を感じ、他の君主に色目を使うなど思いにもよらぬほど自分の主君に心服しているような大使を召し抱えている君主は、自分の考えをその大使にうちあけるのが良策であろう。

けれども、君主が、自分の大使が完全にこのような条件をみたしているという確信がもてないときには、君主にとって最も安全な道は、大使に心のなかをもらさないようにしておくことである。

そして、その君主が外国の君主に信じこませようとしている同じことがらを、自分の大使にも植えつけておくことである。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、2 君主と大使、pp.45-46、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

(索引:交渉家)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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あなたの意見が合理的で正しく、またあなたが、いかに誠実善良な人であったとしても、相手を説得するのは難しいということを覚えておくこと。相手が、よほどの聖人・賢者でもなければ、あなたの意見は悪口や非難だと見なされてしまうだろう。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

説得の困難さ

【あなたの意見が合理的で正しく、またあなたが、いかに誠実善良な人であったとしても、相手を説得するのは難しいということを覚えておくこと。相手が、よほどの聖人・賢者でもなければ、あなたの意見は悪口や非難だと見なされてしまうだろう。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
 あなたが、いかに仁徳のある賢者で、また誠実善良な人であったとしても、また、あなたの意見が、筋道がたっていて正しいとしても、あなたが説得の相手に信用されており、また相手が賢者でない限りは、相手を説得するのは難しいだろう。説得の相手が力のある者の場合、あなたには禍いや災難がふりかかってくるだろう。過去、多くの聖人・賢者が、道に外れた暗愚な君主によって辱めを受けたり命を落としたりしてきた。
 なぜなのか。すばらしい最高の言葉であっても、愚かな者には、耳に逆らい心にそむくものに聞こえ、その人に対する悪口や非難だと見なされてしまうからだ。このような言葉は、聖人・賢者でなければなかなか聞きいれることができないものなのだ。
 相手の好みに合わせて美辞麗句で説得すれば「うわべの華やかさだけで実がない」、逆に、まじめ一方で慎み深く、手堅くて落ち度のないように説得すると「話し方が拙くて筋が通っていない」。喩えをあげ、例を引き雄弁に説得し過ぎると「内容がなくて無益」、逆に、飾り気なく要点を簡略に述べると「暗愚で弁が立たない」。激しく迫った調子で説得すると「僭越で無遠慮」、大きく話をひろげて説得をすると「おおげさで派手なだけで無益」、逆に、日常生活の細かいことで計算ずくの話をすると「下品」。世俗にあわせて無難な話をしていると「生命大事にとお上にへつらっている」、逆に、変わったことで世間の目を引こうとすると「でたらめだ」。機敏で口達者に、飾りたてて説得すると「ただの文章家」、逆に、生地のまごころで話をすると「下賤」、古い歴史を規準にしたりすると「暗記のくりかえし」。
「私め韓非は、申しあげることをためらってしぶっているわけではありませんが、申しあげるのがはばかられる理由は、こういうことです。ものの言い方を、殿さまの好みに合わせて美しくなめらかにし、のびのびと広がってつづいていくようにすると、殿さまからはうわべの華やかさだけで実がないと思われるでしょう。まじめ一方で慎み深く、手堅くて落ち度のないようにすると、殿さまからは話し方が拙くて筋が通っていないと思われるでしょう。そこで雄弁になってしゃべりたて、喩えをあげて例を引くようにすると、殿さまからは内容がなくて無益だと思われるでしょう。要点をまとめてあらましを説き、まっ直ぐ簡略に述べて飾り気がないと、殿さまからは暗愚で弁が立たないと思われるでしょう。激しく迫った調子で人の腹をさぐるようなことをすると、殿さまからは僭越で無遠慮だと思われるでしょう。広々と大きく話をひろげて、はかり知れないほど高遠にすると、殿さまからはおおげさで派手なだけで無益だと思われるでしょう。そこで、日常生活のこまかいことで計算ずくの話をしたりすると、殿さまからは下品だと思われるでしょう。世俗にあわせてことばで人に逆らわない話をしていると、殿さまからは生命大事にとお上にへつらっていると思われるでしょう。そこで俗な話はやめて、変わったことで世間の目を引こうとすると、殿さまからはでたらめだと思われるでしょう。機敏で口達者に、飾りたてたことばをたくさん使うと、殿さまからはただの文章家と思われるでしょう。そこで、文章学問をきっぱり棄て去って、生地のまごころで話をすると、殿さまからは下賤だと思われるでしょう。『詩経』や『書経』を時どき取りあげ、古い歴史を規準にしたりすると、殿さまからはまる暗記のくりかえしと思われるでしょう。以上が、この私め韓非が殿さまに事を申しあげるのをはばかって、深く心を傷めている理由なのです。」
「そこで、規準にかなって正しいからといって、申しあげたことが必ず受けいれられるとは限りません。筋道がたって完璧だからといって、申しあげたことが必ず用いられるとは限りません。大王がもし前に述べたようなことで信用してくださらないとなると、軽くても悪口か非難だと見なされ、重い場合は禍いや災難がふりかかって、死罪で命を失うことにもなりましょう。」(中略)
「以上の十数人の人々は、みな世間の認める仁徳の賢者で誠実善良な人であり、道術を身につけた士人ばかりです。ところが、不幸なことには道に外れた暗愚な君主に出あって命を落としました。してみると、たとえ聖人・賢者であっても、殺されたり辱めを受けたりすることを避けられないというのは、どうしてでしょうか。つまりは、愚かな者には説得するのが難しいからです。そこで、君子は申しあげるのをためらうのです。それに、すばらしい最高の言葉というものは、耳に逆らい心にそむくものですから、聖人・賢者でなければなかなか聞きいれることができません。大王さま、どうかここのところをよくよくお考えください。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』難言 第三、(第1冊)pp.64-65,67,71、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:説得の困難さ)
(原文:3.難言韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)



韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:twwiki
「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非(B.C.280頃-B.C.233)
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2018年4月19日木曜日

国家にとって、腕利きの交渉家の交渉技術ほど重要なものはない。それは、無数の権利主張や紛争を、自国の利益にかなう協定で解決する。また、安全保障においても、自国の安全と利益にかなう状況工作により、しばしば軍隊を維持するにも劣らぬ効果を上げる。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))

国家と交渉技術

【国家にとって、腕利きの交渉家の交渉技術ほど重要なものはない。それは、無数の権利主張や紛争を、自国の利益にかなう協定で解決する。また、安全保障においても、自国の安全と利益にかなう状況工作により、しばしば軍隊を維持するにも劣らぬ効果を上げる。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))】
 交渉技術は、人間が考え出したすべての法律よりも、一層大きな影響力を人間の行動に及ぼす。なぜなら法律は、紛争やきまりのつかない権利主張を無数にもらたし、これは協定を結ぶことによってのみ解決しうるからである。そしてその成果は、かかる任務を与えられる交渉家の行状と資質の如何によって左右される。
 利害の相対立する政府の間での条約の締結、条約の解消は言うに及ばず、交渉家は、しばしば軍隊を維持するにも劣らぬ効果を、わずかな費用であげる。慎重で腕利きの交渉家を、世界の諸国に常時駐在させ、諸国において選り抜きの友人と情報源を大切にしている君主は、彼自身の利益に従って、隣接諸国の運命を左右し、平和を維持し、あるいは戦争を続けさせることが可能である。
 例えば、任国の軍隊を、自国の利益になるように行動させる。憎悪をかき立たせ、嫉妬心を燃え上がらせることで、反乱をけしかけ、突如として政変を起こさせる。あるいは、己の利益に反するにもかかわらず、君主たちや諸国民をして武器を取らせる。
 もちろん、他の主権者たちの間に起こる紛争に対して、交渉家を使って調停を申し入れ、こちらの仲立ちによって平和を回復させることもまた、大国の君主にとって利益となる。けだし、これほどに、彼の勢力の評判を広め、彼の勢力をすべての国の国民に重んじさせるものはないからである。
「交渉によって何が可能であるかを知るためには、なにも過去の例を引き合いに出すまでもない。交渉がもたらす眼に見える効果を、われわれは毎日のように見ている。交渉は、大国に突如として政変を起こさせる。交渉は、君主たちや諸国民をして、おのれの利益に反するにもかかわらず、国全体をこぞって武器をとらせる。交渉は反乱をけしかける。憎悪をかき立たせる。また、嫉妬心を燃え上がらせる。交渉は、利害の相対立する君主や政府の間に同盟条約またはその他の種類の条約を結ばせる。交渉は、そうした条約を破壊し、最も緊密な結合をも解消させる。交渉技術の上手下手によって、政治全般のあり方も、無数の個々の問題の様子も、その善し悪しが左右されるといえる。また、交渉技術は、人間が考え出したすべての法律よりも、一層大きな影響力を人間の行動に及ぼすといえる。何故ならば、人間が現在以上に法律を守ることに細心であったとしても、法律は紛争やきまりのつかない権利主張を無数にもらたし、これは協定を結ぶことによってのみ解決しうるからである。そして、このような協定は、一般的な性質のものも、特殊的なものも、その締結にあたる交渉家の手腕のほどに応じて、各当事者にとって、有利なものとも、不利なものとも、なるのである。
 従って、次のような結論をたやすく引き出すことができる。ヨーロッパ諸国に配置されたえりぬきの少数の交渉家は、彼らを派遣する君主ないしは政府に対して大いに役立つことができる。彼らは、しばしば軍隊を維持するにも劣らぬ効果を、わずかな費用であげる。何故ならば、彼らは任国の軍隊を主君の利益になるように行動させるすべを心得ているからであって、近くや遠くの同盟国がちょうどうまい時機に牽制作戦をしてくれるほど有益なことはないのである。
 他の主権者たちの間に起こる紛争に対して、交渉家を使って調停を申し入れ、こちらの仲立ちによって平和を回復させることもまた、大国の君主にとって利益となる。けだし、これほどに、彼の勢力の評判を広め、彼の勢力をすべての国の国民に重んじさせるものはない。
 慎重で腕利きの交渉家をヨーロッパの諸国に常時駐在させ、諸国においてえりぬきの友人と情報源を大切にしている強大な君主は、彼自身の利益に従って、隣接諸国の運命を左右し、平和を維持し、あるいは戦争をつづけさせることが可能である。ところで、このような偉大な効果があるか否かは、とりわけ、かかる任務を与えられる交渉家の行状と資質の如何によって左右されるから、この種の仕事につかせるにあたっては、その人材に必要な資質を詳細に検討することが適当である。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第2章 交渉の効用について、pp.18-19、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))
(索引:交渉技術、交渉家、法律、安全保障)

外交談判法 (岩波文庫 白 19-1)




(出典:wikipedia
「こうしたいろいろな交渉の仕方のいずれの場合にも、彼は、とりわけ、公明正大で礼儀にかなったやり方で成功を収めるようにするべきである。もし、細かい駆け引きを用い、相手よりもすぐれているつもりのおのれの才智にたよって、成功しようなどと思うならば、それはまず思い違いというものである。みずからの本当の利益を知る能力をそなえた顧問会議をもたないような君主や国家はない。いちばん粗野なようにみえる国民こそが、実は、自分の利益を最もよく理解して、ひとよりも一層粘り強くこれを追求する国民であることがしばしばある。であるから、どんなに有能な交渉家でも、そうした国民を、この点で欺こうなどと思ってはいけない。むしろ、彼が役目柄提案している事柄の中には、彼らにとって本当に有利な点がいろいろあることを分かってもらえるように、おのが知識と知力の限りを尽くして努力すべきである。人と人の間の友情とは、各人が自分の利益を追求する取引にほかならない、と昔のある哲人が言ったが、主権者相互の間に結ばれる関係や条約については、なおさら同じことが言える。相互的な利益を基礎においていない関係や条約は、存在しない。各主権者が相互に利益を見出さない場合には、条約は効力をほとんど持ち続けないで、自壊する。従って、交渉のいちばんの秘訣はかかる共通の諸利益を共存させ、できれば変わらぬ足どりで、前進させるための方法を見つけることである。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第8章 交渉家の職務について、pp.58-59、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))

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