2018年5月2日水曜日

わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉、実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉の情念が生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

勇気と臆病

【わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉、実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉の情念が生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉の情念が生じ、この情念は意思決定において熟考を促す。わたしたちに依存する行為の実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、次の情動が生じる。勇気の過剰としての〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉、勇気の反対である〈臆病〉、過剰な臆病は〈恐怖〉となる。
 「わたしたちの期待するものの成り行きが、わたしたちにまったく依存しなくても、このような希望や不安を持ちうる。しかしそれが、わたしたちに依存すると示されると、それを得るための手段選択、その実現において、いくらかの困難がありうる。前者の手段選択の困難から不決断は生じるが、わたしたちの熟考のうえ決意するよう促す。後者の実現困難には、勇気あるいは大胆が対置され、対抗心はその一種だ。また臆病は勇気の反対であり、恐怖や激しい恐れは大胆の反対である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五九、p.56、[谷川多佳子・2008])
(索引:不決断、大胆、勇気、対抗心、臆病、恐怖)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2018年4月30日月曜日

自分は決断力がなく、自由意志の全面的な行使能力がないと考えるのが、卑屈すなわち悪しき謙虚であり、高邁の正反対である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

卑屈

【自分は決断力がなく、自由意志の全面的な行使能力がないと考えるのが、卑屈すなわち悪しき謙虚であり、高邁の正反対である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 卑屈すなわち悪しき謙虚は高邁の正反対である。自分を弱く、決断力がないと感じること、そして自由意志の全面的な行使能力を持たないかのごとくに、あとで後悔することがわかっていることをなさずにいられないこと。さらにまた、自分だけでは生きていけない、他人にたよってのみ獲得できる多くのものがなければやっていけない、と思うこと。
 「卑屈すなわち悪しき謙虚は、主につぎのことにおいて成り立つ。自分を弱く、決断力がないと感じること、そして自由意志の全面的な行使能力を持たないかのごとくに、あとで後悔することがわかっていることをなさずにいられないこと。さらにまた、自分だけでは生きていけない、他人にたよってのみ獲得できる多くのものがなければやっていけない、と思うこと。こうして、卑屈すなわち悪しき謙虚は高邁の正反対である。」(中略)「弱く劣った精神を持つ人たちは偶然的運のみによって導かれ、逆境では卑屈になり、それと同じに順境では高ぶる。さらに、この人たちは、しばしば見られるように、何らかの利益が期待できる相手や、自分に損害を与える恐れのある相手に対しては、恥ずかしげもなく卑屈になり、何も期待できず、恐れることのない相手に対しては、横柄に傲然となるのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五九、pp.138-139、[谷川多佳子・2008])
(索引:卑屈、悪しき謙虚、横柄、傲然)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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自由意志以外のすべての善、例えば才能、美、富、名誉などによって、自分自身を過分に評価してうぬぼれる人たちは、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。(ルネ・デカルト(1596-1650))

高慢

【自由意志以外のすべての善、例えば才能、美、富、名誉などによって、自分自身を過分に評価してうぬぼれる人たちは、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「何にせよ、他のなんらかの理由で自分自身に過分の評価をしてうぬぼれる人たちはすべて、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。自分を評価する理由が不当であればあるほど、それだけいっそう悪いということになるが。そして、すべてのうちで最も不当な理由は、なんの根拠もないのに高慢である場合だ。」(中略)「たしかに、才能、美、富、名誉などのような自由意志以外のすべての善は通常、それを持つ人の数が少なければ少ないほど重く見られ、しかも、大部分、多数の人に伝え移すことのできない性質のものだから、高慢の人たちは、他の人々すべてを低めることに努めるようになり、かつ、自分の欲望の奴隷となって、その精神は絶えず、憎しみ、うらやみ、執着、怒りにかきたてられることになる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五七、一五八、pp.137-138、[谷川多佳子・2008])
(索引:高慢)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年4月24日火曜日

政治腐敗の8原因:(1)夫人・愛妾・愛人、(2)権力にすり寄る俳優・道化者、近習、(3)権力者の親戚筋、爵位や俸禄に誘惑された重臣・内官、(4)重税、欲望・浪費の権力者(5)財貨のばらまきによる民衆の機嫌取り、(6)誰かの私益のために巧妙に飾りたてた言葉で嘘をたれ流す雄弁家、(7)恐怖で私欲を遂げるテロリスト、(8)外国の威勢を利用し、権力に影響を及ぼし国益を害する者。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

政治腐敗の8原因

【政治腐敗の8原因:(1)夫人・愛妾・愛人、(2)権力にすり寄る俳優・道化者、近習、(3)権力者の親戚筋、爵位や俸禄に誘惑された重臣・内官、(4)重税、欲望・浪費の権力者(5)財貨のばらまきによる民衆の機嫌取り、(6)誰かの私益のために巧妙に飾りたてた言葉で嘘をたれ流す雄弁家、(7)恐怖で私欲を遂げるテロリスト、(8)外国の威勢を利用し、権力に影響を及ぼし国益を害する者。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
(1) 夫人・愛妾・お気に入りの美女に黄金宝玉を贈りとどけて、主君の心を惑わすようにさせる。
(2) 君主のお側近くにいるもの、俳優や侏儒のような滑稽な道化者、君主の身のまわりの近習に、秘かに黄金宝玉や愛玩物を贈りとどけ、また、外では彼らのために不法なこともしてやって、主君の心が変わるようにさせる。彼らは、主君の意向を先取りしてその意図をうけつぎ、主君の容貌からその心を予測する。
(3) 君主の親戚、兄弟など君主が親愛する人々に歌舞や美女を贈りとどけ、また、君主がともに事を画策する重臣や宮廷の内官には甘い言葉で取り入り、爵位や俸禄を重くして彼らの心をはげまし、君主に約束どおりのことを進言させる。
(4) 人民からは重税を取り立てて労力を使い果たし、政治とは関係のない主君の壮麗な宮殿や庭園造りなどにお金を使い、主君を喜ばせてその心を乱し、主君の欲望を広げさせて、一方で私利をはかる。
(5) 公けの財貨をばらまいて人民たちを悦ばせ、私恩を施して民衆をなつける。それによって主君と民衆の間を閉じてしまって、自分の望みをとげる。
(6) 諸国の雄弁家を探したり、国内のうまい話し手を養ったりして、彼らにおのれの利益になることを話させ、巧妙に飾りたてた言葉や流暢な弁舌を振るわせて、利のある形勢を見せ、害になる心配ごとで脅しつけ、嘘っぱちを並べたててその主君をだめにしてしまう。
(7) 刀剣を帯びた侠客を集め、命知らずの武士を養って、おのれの威勢を輝かせ、自分のために働く者は必ず利益があり、自分のために働かない者は必ず殺されるということを世間に知らせ、それによって群臣や万民を恐れさせて、自分の私欲を遂げてゆく。
(8) 重税を取り立てながら国力を使い果たし、大国に貢いでお仕えし、その大国の威勢を利用して主君を思いどおりにあやつろうと望む。大国の使者をたびたび引き入れて、その主君に脅しをかける。
 「すべて、人臣が君主に対して悪事をはたらく手段としては、八つの方法がある。第一は同床、〔すなわち君主と添い寝をするものを利用することである。〕何を同床というのか。身分の高い夫人・愛妾・お気にいりの美女のことであって、これは君主が心を惑わされるものである。くつろいだ寝室の楽しみにことよせ、飲み食いに満ちたりたときにつけこんで、自分の欲しいものをねだるのは、これは必ず聞きいれられる方法である。そこで人臣たる者、ひそかにこれらの人に黄金宝玉を贈りとどけて、主君の心を惑わすようにさせる、これが同床というものである。第二は在傍、〔すなわち君主のお側近くにいるものを利用することである。〕何を在傍というのか。俳優や侏儒のような滑稽な道化者、君主の身のまわりの近習のことであって、彼らは主君が命令も出さないうちから「はい、はい」と答え、使役もしていないうちから「へい、へい」と従い、主君の意向を先取りしてその意図をうけつぎ、主君の容貌を見てとってその心を予測するものである。彼らはみな歩調をあわせて進退し、口をあわせて応答し、言葉づかいを一つにし、行動の規準を同じにして、それによって主君の心を動かすものである。そこで人臣たる者、ひそかにこれらの人に黄金宝玉や愛玩物を贈りとどけ、外では彼らのために不法なこともしてやって、主君の心が変わるようにさせる、これが在傍というものである。
 第三は父兄、〔すなわち君主のおじたちや兄弟すじを利用することである。〕何を父兄というのか。傍系のおじや公子たちのことであって、君主が親愛する人々である。また重臣や宮廷の内官のことであって、君主がともに事を画策する人々である。彼らがみな極力議論を尽くしたなら、君主は必ずそれを聞きいれるものである。そこで人臣たるもの、公子やおじたちに歌舞や美女を贈りとどけ、重臣や内官に甘いことばでとりいり、約束どおり君主に進言させて、それが成功すると爵位や俸禄を重くして彼らの心をはげまし、主君の地位を侵害させる、これが父兄というものである。第四は養殃、〔すなわち君主の災いを助長することである。〕何を養殃というのか。君主が宮殿や庭園を壮麗に造ることを楽しみ、美女や犬馬を美しく飾りたてることを好んで、それによって自分の心の喜びとするのは、これは君主にとっての災いである。そこで人臣たる者、人民の労力を使いはたして主君の宮殿や庭園をりっぱに造りあげ、重税をとりたてて美女や犬馬を美しく飾りたて、それによって主君を喜ばせてその心を乱し、主君の欲望をひろげさせて、その間で私利をはかる、これが養殃――災いを養う――というものである。第五は民萌、〔すなわち民衆の機嫌とりをすることである。〕何を民萌というのか。人臣たる者が公けの財貨をばらまいて人民たちを悦ばせ、いささかの私恩を施して民衆をなつけ、朝廷から町なかまですべての人々に自分をほめあげさせて、それによって主君と民衆の間を閉じてしまって、自分の望みをとげる、これが民萌というものである。
 第六は流行、〔すなわち流れるような弁舌を利用することである。〕何を流行というのか。君主というものは、もともと臣下との自由な談話をとめられていて、人の議論を聞く機会も少ないから、弁舌によって動かされやすいものである。そこで人臣たる者は、諸国の雄弁家をさがしたり、国内のうまい話し手を養ったりして、彼らにおのれの利益になることを話させ、巧妙に飾りたてた言葉や流暢な弁舌を振るわせて、利のある形勢を見せ、害になる心配ごとで脅しつけ、嘘っぱちを並べたててその主君をだめにしてしまう。これが流行というものである。第七は威強、〔すなわち威勢の力を利用することである。〕何を威強というのか。人君というものは、群臣や万民に頼って威勢の力を立てるものである。群臣や万民が善いとすることは君主も善いとし、群臣や万民が善いとすることでなければ、君主も善いとはしない。そこで人臣たる者は、刀剣を帯びた侠客を集め、命知らずの武士を養って、おのれの威勢を輝かせ、自分のために働く者は必ず利益があり、自分のために働かない者は必ず殺されるということを世間に知らせ、それによって群臣や万民を恐れさせて、自分の私欲を遂げてゆく。これが威強というものである。第八は四方、〔すなわち外国の力を利用することである。〕何を四方というのか。人君というものは、この国が小さければ大国に仕え、軍隊が弱ければ強い軍隊を恐れるもので、大国が要求することは小国では必ず聞き従い、強い軍隊の圧迫には弱い軍隊は必ず屈服する。そこで人臣たる者、重税をとりたてながら、お上の倉をからにし、国力を使いはたして大国に貢いでお仕えし、その大国の威勢を利用して主君を思いどおりにあやつろうと望む。はなはだしい場合は、自分で軍を起こして辺境に集め、それによって国内を制覇するが、それほどでない場合でも、大国の使者をたびたびひき入れて、その主君におどしをかけ、ふるえあがらせる。これが四方というものである。
 すべて以上の八つのことは、人臣が君主に対して悪事をはたらく手段であり、世の君主が情報を閉ざされ脅迫されて、その所有物を失うに至る理由である。よくよく考えなければならないことだ。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』八姦 第九、(第1冊)pp.144-147,149-150、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:政治腐敗の8原因)
(原文:9.八姦韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)



(出典:twwiki
韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

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2018年4月22日日曜日

人の君主というものは、刑と徳とによって臣下を制御するものである。賞罰権を手放してはならない。また注意すべきは、言うことが小さいのに実際の業績は大きいという者も罰する必要があるということだ。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

賞罰権

【人の君主というものは、刑と徳とによって臣下を制御するものである。賞罰権を手放してはならない。また注意すべきは、言うことが小さいのに実際の業績は大きいという者も罰する必要があるということだ。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
1.5 臣下の知恵・才能を最大限発揮させる
 知恵者たちにその知恵を出しつくさせたうえで、君としてそれをふまえて物事を裁断する。賢者たちにその才能を発揮させたうえで、君としてそれをふまえて仕事をまかせてゆく。群臣にその武勇のありたけをつくさせ、苦労なことをひき受けさせ、主君は仕事の成果をわが物とする。こうすれば、功績があがれば君主が優秀だからだとし、過失があれば臣下の責任だとし、自分の名誉を守ることもできる。
1.6 臣下の意見と仕事の実績を査定し賞罰を与える
 人の君主というものは、刑と徳とによって臣下を制御するものである。賞罰権を手放してはならない。
1.6.1 意見のある者には自分から進んで言論を述べさせる。
1.6.2 君主はその意見によってそれに見あう仕事を与え、その仕事によってそれに応じた実績を要求する。
1.6.3 実績がその仕事にかなっており、仕事の内容がさきの意見どおりであれば賞を与えるが、実績がその仕事に相応せず、仕事の内容がさきの意見と違っておれば罰を与える。名君の道としては、臣下が意見を述べながら、その仕事がそれに相応しないということは、許されない。
1.6.3.1 言うことは大きいくせに実際の業績は小さいという者は処罰するが、これは業績があがらないことを罰するのではない。実際の実績が進言したことばと一致しないことを罰するのである。
1.6.3.2 言うことが小さいのに実際の業績は大きいという者もまた罰するが、これは大きな業績を歓迎しないというわけではない。進言したことばと実際の業績とが一致しないというその害の方が、大きな業績があがったことよりも重大だと考えるから、そこで罰するのである。
1.6.3.2.1 害悪その1:意見によってそれに見あう仕事を与える際に、もし臣下の言うことが小さすぎるならば、知恵者たちにその知恵を出しつくさせて、最適な判断を下すことができなくなる。
1.6.3.2.2 害悪その2:もし大きい業績を無条件に賞賛すれば、自分の職務をこえる者も出てくるだろう。これは決して許されることではなく、職分をこえれば死刑にされてもおかしくはない。
1.6.3.2.3 害悪その3:もし大きい業績を無条件に賞賛すれば、群臣たちは私的な党派を組んで助けあうというようなこともでてくるだろう。
 「そもそも、虎が犬に勝てるわけは、虎に爪と牙があるためである。もし虎からその爪と牙とを取り去って、犬の方にそれを使わせたなら、虎はかえって犬に負かされるであろう。人の君主というものは、刑と徳とによって臣下を制御するものである。ところが、もし人の上に立つ君主が、その刑と徳との二つの柄を捨て去って臣下にそれを勝手に使わせたなら、君主はかえって臣下に制御されることになるであろう。」(中略)
 「君主が臣下の悪事を止めたいと思えば、臣下の実績と名目とをつきあわせてよく調べよ、というのは、その進言したことばと実際に行った仕事とのことである。人の臣たる者がその意見を述べると、君主はその意見によってそれに見あう仕事を与え、専らその仕事についてそれに応じた実績を要求する。そして、実績がその仕事にかなっており、仕事の内容がさきに述べた意見どおりであれば賞を与えるが、実績がその仕事に相応せず、仕事の内容がさきの意見どおりでなければ罰を与える。だから、群臣のなかで、言うことは大きいくせに実際の業績は小さいという者は処罰するが、これは業績があがらないことを罰するのではない。実際の実績が進言したことばと一致しないことを罰するのである。群臣のなかで、言うことが小さいのに実際の業績は大きいという者もまた罰するが、これは大きな業績を歓迎しないというわけではない。進言したことばと実際の業績とが一致しないというその害の方が、大きな業績があがったことよりも重大だと考えるから、そこで罰するのである。」(中略)「だから、賢明な君主が臣下を養うばあいには、臣下は自分の職務をこえて業績をあげることは許されず、意見を進言してそれが実際の仕事に一致しないということも許されない。職分をこえれば死刑にされ、ことばと仕事が一致しなければ罪になる。それぞれの官職ごとに職分が守られ、進言したことがぴったり行われるということなら、群臣たちは私的な党派を組んで助けあうということもできないのである。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』二柄 第七、(第1冊)p.114,117-118、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:賞罰権、刑、徳)
(原文:7.二柄韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)



韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:twwiki
「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

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2018年4月21日土曜日

高邁の情念をもつ人々は、善き意志という点で等しく、それ以外の美点で異なっていても過大に劣っているとか優れていると考えることはない。また、犯された過ちも認識の欠如によると考えて許そうとする。(ルネ・デカルト(1596-1650))

高邁な人々

【高邁の情念をもつ人々は、善き意志という点で等しく、それ以外の美点で異なっていても過大に劣っているとか優れていると考えることはない。また、犯された過ちも認識の欠如によると考えて許そうとする。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 真に自己に属しているものは善き意志のみであり、またそれを実行しようとする確固不変の決意を持っているような人々は、お互いを、そのよう人たちであり得ると確信する。そのため、お互いに軽視することもなく、犯された過ちも善き意志の欠如というよりも認識の欠如によると考えて許そうとする。そして、財産、名誉、才能、知識、美しさの点で違いがあっても、善き意志に比べれば、まことにとるにたらないと思われるので、お互いに、過大に劣っているとか優れていると考えることもない。
 「自己自身をこう認識し感得する人たちは、他の人間たち一人ひとりも、自分をこのように認識しこのように感得できると、容易に確信する。なぜなら、これにおいては他人に依存するものは何もないからだ。ゆえに、この人たちは、誰をもけっして軽視しない。そして、たとえ、他の人たちが弱点を顕わしてしまうような過ちを犯すのをしばしば見ても、責めるよりも許そうとし、かれらが過ちを犯すのは、善き意志の欠如というよりも認識の欠如によると考えようとする。そして、この人たちは、自分よりも財産や名誉を持つ人々、さらには自分よりも才能、知識、美しさを持つ人々、また一般に他の何らかの美点で自分よりすぐれている人々に対して、自分がはるかに劣っているとは考えないが、同時にまた、自分より劣っている人々に対して、自分がはるかに上だとも考えない。なぜなら、この人たちにとってこれらすべては、善き意志に比べれば、まことにとるにたらないと思われるからだ。善き意志こそ、この人たちが自己を重んじる唯一の理由であり、また、他の人間たち一人ひとりのなかにもある、少なくともありうる、とみなすものなのだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五四、pp.134-135、[谷川多佳子・2008])
(検索:高邁の情念をもつ人々の関係、善き意志、認識の欠如)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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徳とは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。この習性は、思考や教育から生み出される。(ルネ・デカルト(1596-1650))

徳とは何か

【徳とは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。この習性は、思考や教育から生み出される。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 一般に徳とよばれるものは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。習性は思考を生みだし、逆に思考が習性を生みだす。さらに、良い教育が生まれながらの欠陥を正すのに、大いに役立つことも確かである。
 「一般に徳とよばれるものは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。したがって、これらの習性は、思考とは異なるのだが、そうした思考を生みだしうるし、また逆に、そうした思考によって生みだされうる。」(中略)「しかしながら、次のこともまた、確かである。良い教育は、生まれながらの欠陥を正すのに大いに役立つこと。自由意志とは何か、自由意志を善く用いようとする確固たる決意を持つことから生じる利益がいかに大きいか、また他方、野心家たちを悩ませる心労がすべていかに空しく無益であるか、の考察にしばしば専心するならば、自己のうちに高邁の情念を起こし、ついで高邁の徳を獲得できること。そしてこの高邁の徳は、いわば他のあらゆる徳の鍵であり、情念の乱れすべてに対する全体的な治療法であるから、この考察は注目する値打ちが大いにある、と思われる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一六一、p.142、[谷川多佳子・2008])
(検索:徳、習性、高邁、教育)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

高邁とは何か

【自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 自己を重視するようにさせる真の高邁とは、ただ次の二つにおいて成り立つ。真に自己に属しているものは、自由な意志決定のみであり、これのみが正当な賞賛・非難の理由であると知ること。そして、みずから最善と判断するすべてを、企て実行する意志をけっして捨てまいという、確固不変の決意を持つこと。
 「かくして、人間が正当になしうる限りの極点にまで自己を重視するようにさせる真の高邁とは、ただ次の二つにおいて成り立つ、とわたしは思う。一つは、上述の自由な意志決定のほかには真に自己に属しているものは何もないこと、しかもこの自由意志の善用・悪用のほかには正当な賞賛または非難の理由は何もないのを認識すること。もう一つは、みずから最善と判断するすべてを企て実行するために、自由意志を善く用いる、すなわち、意志をけっして捨てまい、という確固不変の決意を、自分自身のうちに感得すること。これは、完全に徳に従うことだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五三、p.134、[谷川多佳子・2008])
(索引:高邁、自由意志、賞賛、非難)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自由意志

【わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「そして、知恵の主要な部分の一つは、どんなやり方、どんな理由で、各人が自分を重視または軽視すべきかを知ることであるから、ここでそれについてわたしの意見を述べてみたい。わたしは、自分を重視する正しい理由となりうるものを、わたしたちのうちにただ一つしか認めない。すなわち、わたしたちの自由意志の行使、わたしたちの意志に対して持つ支配である。というのも、わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、また、わたしたちはこの自由意志の与える権利を臆病のせいで失わない限り、自由意志はわたしたちを自身の主人たらしめ、そうしてわたしたちをある意味で神に似たものとするからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五二、pp.133-134、[谷川多佳子・2008])
(索引:自由意志、賞賛、非難)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念が経験される知的な喜び

【私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 私たちが精神の内奥で、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足をつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱とそれに伴う情念のいかに激しい衝撃も、精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。なぜなら、不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえるのと同じように、共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れる喜びが、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼしているからである。精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識させられ、かえって、その混乱は精神の喜びを増すのに役だつであろう。
 不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえる。
 「これら内的情動が、それとは異なっているが共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れ、したがって、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼすものであるからには、次のことは確かである。つまり、わたしたちの精神が内奥にみずから満足するものをつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ、精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識できるようにさせられるので、これらの混乱はかえって、精神の喜びを増すのに役だつ。そして、わたしたちの精神がこのように満足するものをもつためには、ていねいに徳に従いさえすればよいのだ。というのも、自分が最善と判断したすべてを実行すること(徳に従う、とわたしが言うのは、このことだ)において、欠けることがあったと良心にとがめられないように生きてきた人は誰も、そのことからある満足を感得する。この満足は、その人を幸福にするきわめて強い力を持つので、情念のいかに激しい衝撃も、彼の精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四八、pp.128-129、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念が経験させる知的な喜び)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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