2018年6月3日日曜日

問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

排中律について

【問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 「{問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか? 真なるものも偽なるものも少なくとも無限な分解によって常に証明されるというべきである。しかしこの場合命題は偶然的である、即ち真であることまたは偽であることが可能である。そして概念についても同じであって、無限な分解において真であるか偽であるか、即ち現実存在を許容されるべきであるかそうでないか明らかとなる。注意:同じようにして、真なる概念は現実存在であるか、偽なる概念は非現実存在であるか。すべての不可能な概念は偽である。しかし可能な概念のすべてが真であるわけではない。従って存在せず、また存在しないであろうような概念は偽であろう、その種の命題も偽であるのと同じである、etc.もちろん、概念においては現実存在をいっさい考慮しなく、真なる概念は可能な概念と同じであり、偽なる概念は不可能な概念と同じである―――例えば現実に存在するペガサスは語らずともよい―――という決心をすれば話は別となる。}」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』六六、ライプニッツ著作集1、p.175、[澤口昭聿・1988])
(索引:排中律)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)
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人生の時は一瞬にすぎず、その運命ははかり難い。人は、この宇宙の真理を深く自覚し、与えられた運命をいつくしみ、自分の内なる真実の声に従うことができる。これこそ最善の人生であり、死さえ克服される。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

哲学とは何か

【人生の時は一瞬にすぎず、その運命ははかり難い。人は、この宇宙の真理を深く自覚し、与えられた運命をいつくしみ、自分の内なる真実の声に従うことができる。これこそ最善の人生であり、死さえ克服される。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
(1) 人生の時は一瞬にすぎず、人の実質は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体は腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、すべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、その運命ははかりがたく、死後の名声は忘却にすぎない。
(2) 我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。この宇宙を支配している真理を深く自覚し、自分自身の内に与えられた最善の真理を守り、これが損なわれぬように、傷つけられぬように、生きることである。
(2.1) あらゆる出来事や、自己に与えられている分は、この宇宙の永遠の運命により与えられているのであって、喜んでこれを受け入れること。
(2.2) 他人が何をしようとしまいと、我々は、何ごともでたらめに行わず、何ごとも偽りや偽善をもってなさず、自分自身の内なる真実の声に従って生きることができる。これによって、快楽と苦痛を統御し得るように保つことができるであろう。
(2.3) 万物は変化し解体する。もし、個々のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素にとって少しも恐るべきことでないならば、人にとっての死もまた、安らかな心で待つことができるだろう。「それは自然によることなのだ。自然によることには悪いことは一つもないのである。」
 「人生の時は一瞬にすぎず、人の実質(ウーシアー)は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体全体の組合せは腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。
 一言にしていえば、肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。それはすなわち内なるダイモーンを守り、これの損なわれぬように、傷つけられぬように、また快楽と苦痛を統御しうるように保つことにある。またなにごともでたらめにおこなわず、なにごとも偽りや偽善を以てなさず、他人がなにをしようとしまいとかまわぬよう、あらゆる出来事や自己に与えられている分は、自分自身の由来するのと同じところから来るものとして、喜んでこれを受け入れるよう、なににもまして死を安らかな心で待ち、これは各生物を構成する要素が解体するにすぎないものと見なすように保つことにある。もし個々のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素にとって少しも恐るべきことでないならば、なぜ我々が万物の変化と解体とを恐れようか。それは自然によることなのだ。自然によることには悪いことは一つもないのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第二巻、一七、pp.33-34、[神谷美恵子・2007])
(索引:哲学、ダイモーン、死、ウーシアー)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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2018年6月2日土曜日

自分の力を頼りとして、いざというときには実力を行使できなければ、困難な仕事を成し遂げることはできない。(制度の改革に伴う困難の諸原因に関連して)(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))

実力の行使

【自分の力を頼りとして、いざというときには実力を行使できなければ、困難な仕事を成し遂げることはできない。(制度の改革に伴う困難の諸原因に関連して)(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))】
 全く新しい制度を導入すること以上に、実施に困難が伴い、成功が疑わしく、実行に危険が付きまとうものはない。このようなとき改革者は、自分の力を頼りとして自分の力で立っているのか、それとも他者の力に依存しているのか、すなわち、自分たちの事業の遂行に際していざというときには実力を行使できるのか、それとも単に「祈っているだけなのか」を、仔細に検討しておかなければならない。「軍備ある預言者はみな勝利したが、軍備なき預言者は滅びてきた。」
 改革に伴う困難の原因は、次のとおりである。
(1) 旧制度の恩恵に浴していたすべての人びとを、敵に回さなければならない。しかも彼らは、いついかなる時にも隙を窺って、徒党を組んで激しく襲ってくる。
(2) それに比べ、新制度によって恩恵を受けるはずのすべての人びとは生温い味方にすぎない。
(2.1) 旧来の法を握っている対立者たちへの恐怖心のため。
(2.2) 新しい事態が確かな形をとって姿を見せない限り、真実のものとは信じられない猜疑心のため。
(3) 人びとの意見は、本性において変わりやすい。すなわち、彼らに一つのことを説得するのは容易だが、彼らを説得した状態に留めておくのは困難である。
 「力量のみちを経て君主になった者たちには、君主政体の獲得に困難を伴うが、その維持は容易である。そして君主政体の獲得に伴った困難は、彼らの政権を確立し彼らの身の安全を確保するために新しい制度や施行方法を導入せざるを得なかったことから生じた。ここで考慮すべきは、みずから先頭に立って新しい制度を導入すること以上に、実施に困難が伴い、成功が疑わしく、実行に危険が付きまとうものはないということである。なぜならば、新制度の導入者は旧制度の恩恵に浴していたすべての人びとを敵にまわさなければならないから、そして新制度によって恩恵を受けるはずのすべての人びとは生温い味方にすぎないから。この生温さが出てくる原因は、ひとつには旧来の法を握っている対立者たちへの恐怖心のためであり、いまひとつには確かな形をとって経験が目のまえに姿を見せないかぎり、新しい事態を真実のものとは信じられない、人間の猜疑心のためである。ここから、いついかなる時にも隙を窺って敵対者たちが襲ってくるのに、そして徒党を組んで激しく立ち向かってくるのに、防御する味方の側の生温い態度が生じてくるのだ。その結果、彼らと共に、危機へ追い込まれてしまう。
 この部分をさらに論じようとするならば、したがって、これら改革の側に付く者たちが自分の力で立っているのか、それとも他者の力に依存しているのかを、すなわち自分たちの事業の遂行にさいして、彼らが祈っているだけなのか、それとも実力を行使できるのか、仔細に検討しておかなければならない。第一の場合には、必ず弊害が生じて何事も達成できない。だが、自分の力を頼りとして、いざというとき実力を行使できるならば、その場合には、危機に瀕することは滅多にない。ここから生まれてきた事実によれば、軍備ある預言者はみな勝利したが、軍備なき預言者は滅びてきた。なぜならば、いま述べたことのほかに、人民は本性において変わりやすいので、彼らに一つのことを説得するのは容易だが、彼らを説得した状態に留めておくのは困難であるから。それゆえ、彼らが信じなくなったときには、力づくで彼らを信じさせておく手段が整っていなければならない。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第6章 自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について、pp.46-47、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))
(索引:実力の行使)

君主論 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「私の意図は一貫して、耳を傾ける者には役立ちそうな事態を書き記すことであったから、事態をめぐる想像よりも、その実際の真実に則して書き進めてゆくほうが、より適切であろうと私には思われた。そして多数の人びとがいままでに見た例もなく真に存在すると知っていたわけでもない共和政体や君主政体のことを、想像して論じてきた。なぜならば、いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、みずからの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての面において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。そこで必要なのは、君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第15章 人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて、pp.115-116、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))

ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)
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2018年6月1日金曜日

5.将来については悲観的によりも、むしろ楽観的に考えよ。なぜなら、全く不確実な未来のために、現在の幸運を逃すことが多いから。暗い見通しの実現性、切迫度、良い面と悪い面を見極めよ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

将来の見通し

【将来については悲観的によりも、むしろ楽観的に考えよ。なぜなら、全く不確実な未来のために、現在の幸運を逃すことが多いから。暗い見通しの実現性、切迫度、良い面と悪い面を見極めよ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
(1) 将来については悲観的によりも、むしろ楽観的に考えよ。
(2) なぜなら、将来の暗い見通しを恐れるあまり、現在うまく運んでいることを投げ出してしまうことは、たいていの場合、愚かしいことである。ものごとを悲観的に見るばかりに、君が当然手に入れてしかるべき幸運を逃してしまうことが、実によくあるものだ。
(3) また、そもそも将来の事柄というのは、まことに当てにならぬものであり、また多くの思いがけないできごとに左右されるものなので、あなたの見通しも実現するかどうかわからない。
(4) ただし、見通しが暗いということが動かせぬ事実である場合とか、あるいはそれが切迫している場合、または良い面よりも悲観的な面がはるかに大きいことが明確なら、話は別である。

 「将来のことがらというのは、まことに当てにならぬものであり、また多くの思いがけないできごとに左右されるものなので、すばらしく賢明な人間でも、将来の見通しで誤りを犯すことは非常に多いものだ。

賢人たちの見通し、とくに細かい点についての見通しを観察する人は(それらは一般に推測しやすいものだ)、それらの見通しは賢明とはいえないほかの人々の見通しと大差がないものであることに気がつくだろう。

だから、将来の暗い見通しをおそれるあまり、現在うまく運んでいることを投げ出してしまうことは、たいていのばあい愚かしいことである。

ただし、見通しが暗いということが動かせぬ事実であるばあいとか、あるいはそれが切迫しているばあい、または良い面よりも悲観的な面がはるかに大きいということが判りきっている時には、話は別なのだが。


 以上のような立場にたたずに、将来は悪くなっていくだろうと、ものごとを悲観的に見るばかりに、君が当然手に入れてしかるべき幸運を逃してしまうことが、実によくあるものだ。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、23 運命の力、p.62、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:将来の見通し)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)




フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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政治においては、人々の愛情を頼みとするのでなく、人と社会の諸法則を基礎とすること。例えば不正や功績がはっきり見える仕組み、賞罰の仕組み、人々が自ら不正や邪悪を見つける仕組み等。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

社会の諸法則

【政治においては、人々の愛情を頼みとするのでなく、人と社会の諸法則を基礎とすること。例えば不正や功績がはっきり見える仕組み、賞罰の仕組み、人々が自ら不正や邪悪を見つける仕組み等。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
 政治と社会の仕組みは、人と社会を動かしている法則と、その実際の動き方を基礎として作らなければならない。逆に、人々の愛情などの気持ちだけを頼みとしてはいけない。例えば、
(a)もともと人々が、国や他の人のために働かないではおられないような方法を用いる必要があるのであって、人々がその愛情に基づいて国や他の人のために働くようなことを、頼みとはしていない。人々が愛情を頼みとするのは、危険である。
(b)正しく正義にかなった行いをして身の安泰が得られるなら、臣下は力を尽くして主君に仕えるだろうが、それで身の安泰が得られないとなれば、私欲にまかせて不正に走るだろう。だからこそ、利益になる道(賞)と損害になる道(罰)とをはっきり立てる必要がある。
(c)多くの官吏に教え諭して、何かを徹底させることには限界がある。不正と功績が、はっきりと見えるような仕組みと、賞罰の仕組みがなければ、正しい政治を行うことはできない。
(d)自分の目や耳で、すべての事実を見抜こうと思っても、実際に見聞きできることは限られている。そうではなくて、世の中の人々がお互いに自分たちの目と耳で、観察し聞かないではおれないような仕組みを作れば、不正をおかす者や邪悪な者から国を守ることができるだろう。
 「こうしたことから考えてみると、聖人が国を治める場合には、もともと人々がこちらのために働かないではおられないような方法を用いるのであって、人々がその愛情にもとづいてこちらのために働くようなことを頼みとはしていない。人々が愛情にもとづいてこちらのために働くのを頼みとするのは、危険である。こちらのために働かずにおれない方法をこちらで備えてそれを頼みとするのが、安全である。そもそも君臣の間には肉親のような親しみがあるわけではない。正しくまっ直ぐな道を行って、それで身の安泰が得られるなら、臣下は力をつくして主君にお仕えするが、正しくまっ直ぐな道を行って、それで身の安泰が得られないとなれば、臣下は私欲にまかせて上の者にとりいるものだ。名君はそれがわかっている。だからこそ利益になる道(賞)と損害になる道(罰)とをはっきり立てて、それを世界じゅうに示すのである。
 そもそもこうしたわけで、君主は自分の口で多くの官吏に教えたり、自分の目で邪悪な者をさがしたりしなくとも、国はうまく治まるものである。君主は離婁(りろう)のようなよい目を持って、それによってよく見ぬくと言われるのではなく、師曠(しこう)のようなよい耳を持って、それによって耳がさといと言われるのでもない。目については必ずそのきまった法則にまかせず、自分の目で見たものだけでよく見ぬくと言おうとすれば、実際に見えるものはわずかであって、これでは悪い臣下に目をくらまされない方策にはならない。耳についても必ずそのきまった態勢に従わず、自分の耳で聞いたものだけで耳がさといと言おうとすれば、実際に聞こえるものはわずかであって、これでは悪い臣下にだまされない方法とはならない。名君は、世界じゅうの人がこちらの目に代わって観察しないではおれないようにさせ、世界じゅうの人がこちらの耳に代わって聞かないではおれないようにさせる。そこで、その身は奥深い宮殿の中におりながら、四海の内をくまなく見ぬくのであって、しかも世界じゅうがその目をくらますこともできなければ、あざむくこともできない。それはどうしてであろう。君主がくらまされ乱されるような道が除かれて、耳さとく目のよく見える聡明の態勢が作りあげられたからである。だから、うまく態勢にまかせてゆけば国は安泰であるが、その態勢に従うことを知らないでいると国は危険なのである。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』姦劫しい臣 第十四、(第1冊)pp.264-266、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:社会の諸法則)
(原文:14.姦劫しい臣韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)



(出典:twwiki
韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

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経験的事実を表すどの命題も、理性によっては完全には証明され得ない。理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

経験的事実

【経験的事実を表すどの命題も、理性によっては完全には証明され得ない。理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a) 公理:それ自身で認識される経験的事実。
(b) それ自身で把握される項。
(c) 経験的事実を、他の事実から基礎づけるという考え方をするならば、経験的事実は、公理、それ自身で把握される項と経験的事実に分解され、これらから証明される必要がある。
(d) そうすると経験的事実は、他の経験的事実へ無限に分解されることになるのではないか?

(限りがない?)
   ↓
 経験的事実、公理、それ自身で把握される項
   ↓
 経験的事実

あるいは、
 他の命題(公理でも定義でもない)
(これ自身、証明を必要とする)
   ↓
 経験的事実
(e) 経験的事実を、他の事実から基礎づけるという考え方をする限り、到達された知識の状態は、事実とわかったものへの分解が完了した状態ということになる。

 公理、それ自身で把握される項
(潜勢的一致が形相的または表現的となる)
   ↓
 経験的事実

(f) しかし、それ自身で把握されまた判明に捉えられるような概念が、全くないか、もしくはただ一つ、すなわち、存在の概念だけだとしたら、どうだろう。どの命題も、理性によっては完全には証明され得ないことが、結論する。

    それ自身で把握される項
     または
    経験において発見された項
     ↓
 公理、仮定された定義
   │(項の定義は可能性を前提とする)
   ↓
 経験的事実

(g) 理性が把握できる経験的事実とは、真なる偶然的命題である。

(再掲)
可能な命題:それから決して分解において矛盾が生じないであろうことが証明され得る命題。

真なる偶然的命題:無限に継続される分解を必要とする命題。
 しかし、真なる偶然的命題は、経験によって、この命題が真であることがあり得ないと証明される可能性がつねに存在する。これが「偶然的」の意味である。

偽なる偶然的命題:偽なることが証明されるのは、その真である証明があり得ないということによってのみであるような命題。

 「六二――しかしすべての真なる命題は証明される。従って経験的事実もまた真なる命題である故に、いま述べた証明法と別のものが存在しないならば、それも再び公理、それ自身で把握される項と経験的事実に分解されることが帰結する。しかしそれ自身で認識されるもの即ち公理以外第一の経験的事実はない。
 六三――経験的事実が他の経験的事実へ無限に分解されるかどうか問題となる。経験に言及しなくとも、ある証明があって、そこでは命題の証明が常にほかの命題の証明を前提としており、これは公理でも、定義でもなくて、さらに自身証明を必要とすることが分かるというようなことが可能であるかどうか問題となる。この場合には必ずある非複合項は連続的に分解され、決してそれ自身で把握される項に到達しないのである。しからざれば分解の完了により潜勢的一致が形相的または表現的となるか、即ちすべてが自同命題に帰するか明らかとなるであろう。
 六四――従って、非複合項の分解がある場合には無限に継続して、それ自身で把握される項に決して達しないことが可能であるか問題である。われわれにはそれ自身で把握されまた判明に捉えられるような概念が全くないか、またはただ一つである(例えば存在の概念)ならば、確かにどの命題も理性によっては完全には証明され得ないことが帰結する。何故ならば、仮定された定義と公理からは完全に経験なしで証明されるとしても、定義は項の可能性を前提し、従ってそれ自身で把握される項への分解か、または経験において発見された項への分解を前提する、よって経験的命題、その他の命題に戻ることになるからである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』六二~六四、ライプニッツ著作集1、pp.173-174、[澤口昭聿・1988])
(索引:経験的事実)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年5月31日木曜日

完備な項、完備でない項とは? 完備でない項の相似とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

完備な項

【完備な項、完備でない項とは? 完備でない項の相似とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
これ以上分解できない第一の可能なもの
(第一原因、事物の究極理由)
  ↓
可能性の既に知られている他の諸概念
  ↓
「ア・プリオリな真なる観念」の実在的定義、因果的定義

事物が現実に存在することを経験によって知る
「ア・ポステリオリな真なる観念」の実在的定義
定義には、それが可能であることが証明されていることが必要であるが、可能であることの証明(検証)は、経験以外では認識されない。つまり、それが現実に存在すること、あるいは現実に存在したこと。

完備な項:これ以上の分解ができない項。
完備な項の相似:このような場合は、恐らく起らない。何故ならば、二つの完備なものは決して相似ではないからである。
完備な項が可能であることの証明:経験以外では認識されない。つまり、それが現実に存在すること、あるいは現実に存在したこと。

完備でない項:分析により、さらに分解ができる項。
完備でない項の相似:異なる対象A、Bにおいて、それを定義する項が、定義において等しいとき、AとBは、この定義において「相似」であるという。このとき、AとBは「共通な名称」を持つ。
完備でない項が可能であることの証明:完備でないものが可能といわれるためには、二つの相似な事物の一つが現実に存在し、あるいは現実に存在したものであれば、十分である。

 「しかしさらに議論を進めるならば、定義には、それが可能であることが要求される。即ち、Aが可能であることが証明されていることつまりEFGが矛盾を含まない、即ち X non X を含まないことが証明されていることが必要である。このことは経験以外では認識されない、つまりAが現実に存在するあるいは現実に存在した、従って可能であることが確定している場合のみ認識される。(少なくともAに相似なものが現実に存在したこと。しかし事実はこのような場合は恐らく起らない、何故ならば二つの完備(completum)なものは決して相似ではないからである。完備でない項については、完備でないもの即ち共通な名称が可能といわれるためには二つの相似な事物の一つが存在すれば十分である。(しかしこれはなかなか有用であると思われる。即ち一つの球が存在すれば、任意の球が可能であると正当にいうことができるのである。)){それに相似なものが可能ならば、それ自身も可能である。}」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』六一、ライプニッツ著作集1、p.172、[澤口昭聿・1988])
(索引:完備な項、完備でない項、完備でない項の相似)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年5月29日火曜日

必然的命題と偶然的命題の違いは? 可能な命題とは? 真なる偶然的命題、偽なる偶然的命題とは? (ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

必然的命題と偶然的命題

【必然的命題と偶然的命題の違いは? 可能な命題とは? 真なる偶然的命題、偽なる偶然的命題とは? (ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
真なる必然的命題:自同命題に還元される命題、あるいはその対立命題が矛盾命題に還元される命題。
不可能な命題:矛盾命題に還元される命題、あるいはその対立命題が自同命題に還元されるような命題。
 以上は、数学の命題についての真偽である。この世界についての命題については、以下のとおり。

可能な命題:それから決して分解において矛盾が生じないであろうことが証明され得る命題。
 しかし、分解を継続して、いかなる矛盾も生じないであろうことが確実であるだけで、真理性を証明するのに十分であるか疑問であると思われる。何故ならばそこから、すべての可能なものは真であることが帰結するからである。したがって、私たちはこの命題を真なる必然的命題と呼ぶことはできない。

真なる偶然的命題:無限に継続される分解を必要とする命題。
 しかし、真なる偶然的命題は、経験によって、この命題が真であることがあり得ないと証明される可能性がつねに存在する。これが「偶然的」の意味である。

偽なる偶然的命題:偽なることが証明されるのは、その真である証明があり得ないということによってのみであるような命題。
 「六〇――またここから必然的真理と他の真理の区分を論ずることができると考えられる。即ち必然的な真なる命題は自同命題に還元される命題、あるいはその対立命題が矛盾命題に還元される命題である。不可能な命題は矛盾命題に還元される命題、あるいはその対立命題が自同命題に還元されるような命題である。
 六一――可能な命題は、それから決して分解において矛盾が生じないであろうことが証明され得る命題である。真なる偶然的命題は無限に継続される分解を必要とする命題である。偽なる偶然的命題は、その偽なることが証明されるのはその真である証明があり得ないということによってのみであるような命題である。真理性を証明するのに、分解を継続して、いかなる矛盾も生じないであろうことが確実であるだけで十分であるか疑問であると思われる。何故ならばそこから、すべての可能なものは真であることが帰結するからである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』六〇~六一、ライプニッツ著作集1、pp.171-172、[澤口昭聿・1988])
(索引:必然的命題、偶然的命題、可能な命題、不可能な命題)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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実在的定義と名目的定義の違いは? 因果的定義とは? ア・プリオリな真なる観念とは? ア・ポステリオリな真なる観念とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

実在的定義と名目的定義

【実在的定義と名目的定義の違いは? 因果的定義とは? ア・プリオリな真なる観念とは? ア・ポステリオリな真なる観念とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(1)ア・ポステリオリな真なる観念
 事物が現実に存在することを経験によって知るとき、その現実存在するもの、現実存在したものは、確かに可能的なのだから、真なる観念と言ってよい。
(2)ア・プリオリな真なる観念
 ある概念を分析して、可能性の既に知られている他の諸概念に分解し、その内に非両立的なものが何も無いとき、この定義が「実在的定義」であり、観念は「真なる観念」である。矛盾を含む定義は「偽なる観念」である。また特に、事物が生産され得る仕方をわれわれが知解できるような定義の場合、それを「因果的定義」と呼び、特に有益である。
 十全な認識を持っているとき、すなわち、分析が第一原因、事物の究極理由、これ以上分解できない第一の可能なものへと還元できたときは、可能性のア・プリオリな認識を持っていると言ってよい。なぜなら、分析が究極にまで行き着いて、いかなる矛盾も現われないなら、その概念は確かに可能だからである。
(3)実在的定義
 以上のように、当の事物が可能的であることがそこから確知される定義。
(4)名目的定義
 ある事物を他の諸事物から識別するためだけの徴を含む定義。この場合、定義されている事物が可能的であることを、他の所で確定しておく必要がある。

(補足説明)

これ以上分解できない第一の可能なもの
(第一原因、事物の究極理由)
  │
  ↓
可能性の既に知られている他の諸概念
  │
  ↓
「ア・プリオリな真なる観念」の実在的定義、因果的定義

事物が現実に存在することを経験によって知る
「ア・ポステリオリな真なる観念」の実在的定義

 「このようにしてまたわれわれは名目的定義と実在的定義の相違、即ち、ただ或る事物を他の諸事物から識別するためだけの徴を含む定義と、当の事物が可能的であることがそこから確知される定義との相違が分かる。そしてこの理由を聞けばホッブズも満足するだろう。彼は真理というものは任意なものだと言いたがっていた。真理は名目的定義に基づくからという訳だ。その際、彼は、定義の実在性が任意でないということも、どんな諸概念もが互いに結合され得るのではないことも、考察していないのである。名目的定義は、定義されている事物が可能的であると他の所で確定しておくのでなければ、完全な学知のためには十分ではない。さらに、一体、真なる観念とは何であり、偽なる観念とは何であるかも明らかである。言うなら、概念が可能的な時に真であり、矛盾を含む時に偽なのだ。ところで、われわれは事物の可能性をア・プリオリにか、ア・ポステリオリに知る。ア・プリオリにというのは、概念をその要件に、あるいは可能性の知られている他の諸概念にわれわれが分解し、その内に非両立的なものが何も無いと知っている時である。とりわけそういう事が起こっているのは、事物が生産され得る仕方をわれわれが知解している場合であり、だからこそ特に因果的定義が有益なのである。他方、ア・ポステリオリにというのは、事物が現実に存在することを経験によって知る時のことである。というのも、現実存在するか、現実存在したものは、確かに可能なのだから。そして十全な認識を持っている時はいつでも可能性のア・プリオリな認識も持っている。なぜなら、分析が究極にまで行き着いて、いかなる矛盾も現われないなら、その概念は確かに可能だからである。しかし、概念の完全な分析がいつか人間にできるかどうか、第一の可能なもの即ち分解できない概念へ、あるいは(結局同じことだが)神の絶対的属性そのもの、つまり第一原因とか事物の究極理由へと自分の思惟を還元できるかどうか、今のところはあえて決定しないでおく。大抵の場合、若干の概念の実在性を経験から学ぶことでわれわれは満足し、さらにそこから他の諸概念を自然を手本にして構成している。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『認識、真理、観念についての省察』ライプニッツ著作集8、pp.30-31、[米山優・1990])
(索引:実在的定義、名目的定義、因果的定義、ア・ポステリオリな真なる観念、ア・プリオリな真なる観念、偽の観念)

前期哲学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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