2020年5月30日土曜日

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、過誤の理論を含む。それは、ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、原理の体系の首尾一貫性から、その牽引力を否定する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

過誤の理論

【憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、過誤の理論を含む。それは、ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、原理の体系の首尾一貫性から、その牽引力を否定する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.4.3)追加。

 (3.4)憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系
  憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
  (3.4.1)垂直的な配列関係
   (a)憲法、最高裁判所やその他の裁判所の判決、種々の立法府の制定法といった配列関係である。
   (b)憲法理論は、政治哲学や道徳哲学に関する判断を含む。
   (c)憲法理論は、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断を要求する。
   (d)憲法理論は、裁判官によって不可避的に異なったものになる。
   (e)垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。
  (3.4.2)水平的な配列関係
   単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が、同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。

  (3.4.3)過誤の理論
   (3.4.3.1)以後の論証への影響
    (a)ある制度的出来事に認められる特定の権威と、その牽引力との区別
     (i)ある制度的出来事に認められる特定の権威
      制度的出来事が、特定の制度上の帰結を結果として惹き起こす力である。
     (ii)牽引力
      今後の論証において働く、原理としての力である。
    (b)過誤とは何か
     ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、牽引力は否定されること。
     (i)この牽引性を認めることは、自らの理論における首尾一貫性と矛盾することになる。
     (ii)填め込まれた過誤
      牽引力を失っているが、特定の権威が固定され生き残っている過誤である。
     (iii)訂正しうる過誤
      それに認められた特定の権威が、牽引力消失の後では存続しえないような仕方で牽引力に依存しているような過誤である。
   (3.4.3.2)しかし、自らの理論と両立不可能な制度史のいかなる部分をも、自由に過誤と解してよいわけではない。
    続く。

 「ハーキュリーズは自己の理論を拡張して、制度史の正当化はその歴史のある部分を過誤として指摘することがある、という考えをその中に取り入れなければならない。しかし彼はこの手段を無原則に利用することはできない。なぜならば、もし彼が自分の一般理論に何ら変更を加えることなしに両立不可能な制度史のいかなる部分をも自由に過誤と解して構わないのであれば、首尾一貫性の要請はそもそも真の要請とは言えなくなるからである。そこで、彼は制度上の過誤に関して何らかの理論を発展させなければならず、しかもこの過誤の理論は二つの部分を持たねばならない。第一にこの理論は、何らかの制度的出来事が過誤とされることから、その後の論証にとってどのような帰結が生じるかを示さねばならず、第二に、このようにして処理されうる出来事の数と性格を限定しなければならない。
 ハーキュリーズはこの過誤の理論の第一の部分を、二組の区別によって構成するであろう。彼はまず、ある制度的出来事に認められる特定の権威と、その牽引力とを区別するであろう。前者は、制度的出来事が制度的行為として有する力、すなわち、当の出来事により記述された特定の制度上の帰結を結果として惹き起こす力を意味する。さて、彼が何らかの出来事を過誤として分類する場合、彼はその出来事に認められる特定の権威を否定しているのではなく、その牽引力を否定しているのである。したがって彼は首尾一貫性に違背することなく他の論証においてこの牽引力に訴えることはできない。彼はまた制度の中に填め込まれた過誤と訂正しうる過誤とを区別するであろう。填め込まれた過誤とは、その過誤に認められる特定の権威が固定され、その結果それが牽引力を失った後でも生き残るような過誤である。これに対し訂正しうる過誤とは、それに認められた特定の権威が、牽引力消失の後では存続しえないような仕方で牽引力に依存しているような過誤である。
 彼の憲法的レヴェルでの理論において、どの過誤が填め込まれた過誤かが決定されるであろう。たとえば立法府の優位に関する彼の理論は、過誤として扱われる制定法がその牽引力は失っても特定の権威は失わないことを保証するだろう。たとえ彼が航空機事故責任制限法の牽引力を否定するとしても、その制定法はそれ故に廃止されるわけでない。この過誤は填め込まれた過誤であり、したがってそれに認められた特定の権威は生き残る。彼はこの制定法が賠償責任に対して課する制限を尊重し続けなければならないが、他の事案において、賠償請求権が弱い権利であることを主張するためにこの制定法を用いたりはしないであろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.151-152,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:過誤の理論,法の牽引力)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2020年5月28日木曜日

他の人々と共有された日常的な諸活動が課す様々な実践的な選択肢の比較衡量の中で,自己の認識の真偽,感情と暗黙の諸規範の妥当性の検証を介し,真なる個人的な善と共通善とを学び,自己と社会の変革の契機が生まれる.(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

真なる個人的な善と共通善とを学ぶ方法

【他の人々と共有された日常的な諸活動が課す様々な実践的な選択肢の比較衡量の中で,自己の認識の真偽,感情と暗黙の諸規範の妥当性の検証を介し,真なる個人的な善と共通善とを学び,自己と社会の変革の契機が生まれる.(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

いかにして自身の個人的な善と、共通善とを学ぶのか
 (1)理論的な内省か?
  理論的な内省によって学ぶのが、主ではない。
 (2)実践的な選択肢の比較衡量
  他の人々と共有された日常的な諸活動の中で、また、そうした諸活動が課してくるさまざまな実践的な選択肢を比較衡量する中で学ぶことになる。
 (3)事例
  体の一部の表面が腫れていたり、炎症を起こしていたり、傷跡があったり、膿んでいたりすることでその美観がひどく損なわれている点にその本質が存する障碍について考えてみよう。
  (3.1)二つの過ち
   (a)自分自身の感情、認識を、事実として受け入れないこと
    その患者は、実際のところ、恐れを抱かせるような外見を示していないと強弁する。
   (b)違和感を感じながらも、現状維持すること
    その患者の外見に気をとられるあまり、その人に不合理なしかたで接してしまう。
  (3.2)考えるべきこと
   (a)自分のこれまでの感情、認識を、ありのまま事実として認識すること。
   (b)認識に誤りはなかったのか、学ぶこと。
   (c)感情は妥当なものだったのか、学ぶこと。
   (d)なぜそのような認識、感情に導かれていたのか、学ぶこと。
   (e)感情を導いていた、暗黙の価値判断、諸規範が何なのか、学ぶこと。
 (4)個人的な善、共通善を捉えそこなう3つの失敗
  (a)自分自身の欲求から身を引き離すことができず、その欲求について判断する位置に立てないこと
  (b)適切な自己認識の欠如
  (c)私たちの他者への依存の本性を認識しそこなうこと
 (5)社会において支配的な諸規範に疑念がある場合の処方
  それら実践的推論の誤謬の原因が、私たちの社会環境においてこれまで支配的であった諸規範に由来するものである限りにおいて、私たちが自分たちの共有された熟議による推論においてそうした誤謬から解放されるためには、私たちは自己を変革するのみならず、そのような社会環境をも変革する必要がある、ということになるだろう。

 「〈私たちの共通善とは何かを学ぶ〉という場合に私が意味しているのは、これまで同様、そうした善についての実践的知識を私たちがどのようにして得るかということである。つまり、それについてのある一連の理論的公式をマスターすることではなく、むしろ、日常的な実践の中に具体的なかたちで示されるそうした善へと方向づけられた態度を身につけることである。すでに強調してきたように、私たちが共通善とは何かということを学ぶのは、否それどころか、私たち自身の個人的な善とは何かということをも学ぶのは、主として理論的な内省によってではないし、ひとえに理論的な反省によってではまったくない。私たちはそれらを、〔他の人々と〕共有された日常的な諸活動の中で、また、そうした諸活動が課してくるさまざまな選択肢を比較衡量する中で学ぶのである。また、これもすでに強調してきたことだが、私たちは、〔共通善や自身の個人的な善について〕学ぶ必要のあることがらを学びそこなうこともある。そして、そうした事態は、私が挙げた三つの失敗――すなわち、
 (1)自分自身の欲求から身を引き離すことができず、その欲求について判断する位置に立てないこと、
 (2)適切な自己認識の欠如、
 (3)私たちの他者への依存の本性を認識しそこなうこと
――をはじめとする、いくつかのタイプの失敗に起因するものである。以下において私は、障碍をもつ人々との関係を通じて学ばれうる、もしくは、概して障碍をもつ人々との関係を通じてしか学ばれえないことがらの一例について考察したいと思う。そのような学びを通じて私たちは、一連の間違った実践的判断や人を誤りに導く実践的判断をその帰結として伴う、上記三つの誤謬の原因のいずれかをみずからのうちに発見することがある。
 体の一部の表面が腫れていたり、炎症を起こしていたり、傷跡があったり、膿んでいたりすることでその美観がひどく損なわれている点にその本質が存する障碍について考えてみよう。そのような障碍に苦しむ患者の、恐れや嫌悪を抱かせる外見は、〔周囲の人々にとって〕一人のヒトとしての彼女や彼に接することを困難にする一因である。患者のそうした外見を肉体のより奥深いところで生じている現象の一連の徴候として理解することを仕事とする看護師や医師の場合、おそらく私たちほどそのような困難を感じないだろう。だが、看護師や医師ではない私たちは、次のような二つの〔両極端の〕過ちのいずれをも回避する道を探りあてる必要がある。すなわち、〈その患者は、実際のところ、おそれを抱かせるような外見を示していない〉と強弁する場合に犯すことになる過ちと、その患者の外見に気をとられるあまり、その人に不合理なしかたで接してしまう場合に犯すことになる過ちである。そして、そのような困難な課題に取り組むことを通じて、おそらく私たちは自分自身に関して、少なくとも次のようなことを学ぶだろう。すなわち、自分はこれまで他人の見栄えのよさや自分自身の見栄えのよさにどのような価値をどの程度見出していたのかということを学ぶだろうし、同時に、そうした従来の価値判断が犯していた誤りについて学ぶだろう。
 この点、社会心理学の諸研究は、日常の観察が示唆していること、すなわち、私たちが多くのさまざまな場面で、顔をはじめとする人間の外見からあまりにしばしば影響を受けているということを裏づけている。また、より一般的な事実として、他人の表明した意見を私たちがどの程度重く受けとめるかは、その意見を述べたのが誰であり、その人間はどのような声や表情でその意見を述べたかによってある程度左右されがちである。それゆえ私たちは、誰かの人柄やその誰かの表明した意見を、その人の容姿や話しかたから切り離して評価する術を学ぶ必要がある。そして、そうした術を学ぶ過程において、私たちはそれまでの自分が考えてもみなかったことに気づくかもしれない。すなわち、自分がいままで、あるタイプの容貌をもつ他者と接する際に、〔その他者の容貌によって引き起こされる〕不快感や嫌悪感や、ときには恐怖感といった感情から自分自身を切り離すことができずにいたこと。そして、それゆえに、そのような感情に対して批判的判断をくだすことができずにいたことに気づくかもしれない。また、自分自身のくだすさまざまな判断がそのような感情から不当な影響をこうむっていたことに気づいていなかった点で、自分がこれまで適切な自己認識を欠いていたことに気づくかもしれない。また、これまでの自分が、その外見が私たちの気分を害するような人々に応答する際に、自分には少なくとも《彼ら》から学びうることは何もないと決めてかかっていたことに気づくかもしれない。つまり私たちは、そのような障碍をもつ人々との出会いにおいて、これまで認識されずにいた、みずからの実践的推論の誤謬の原因を発見するのである。そして、それら実践的推論の誤謬の原因が、私たちの社会環境においてこれまで支配的であった諸規範に由来するものであるかぎりにおいて、私たちが自分たちの共有された熟議による推論においてそうした誤謬から解放されるためには、私たちは自己を変革するのみならず、そのような社会環境をも変革する必要がある、ということになるだろう。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第11章 共通善の政治的・社会的構造,pp.195-198,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:個人的な善,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

言語の唯一現実的な現象は,全体的言語行為である. この視点は以下の正しい理解へと導く. (a)陳述とそれ以外の行為遂行的発言とは何か,(b)真偽値とは何か,(c)事実的な言明と規範的な言明とは何か,(d)言語の意味とは何か.(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

現実的な現象としての全体的言語行為

【言語の唯一現実的な現象は,全体的言語行為である. この視点は以下の正しい理解へと導く. (a)陳述とそれ以外の行為遂行的発言とは何か,(b)真偽値とは何か,(c)事実的な言明と規範的な言明とは何か,(d)言語の意味とは何か.(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(a)現実的な現象としての全体的言語行為
 全体的な言語的な状況における全体的言語行為というものが、究極的にわれわれがその解明に専念すべき唯一の現実的な現象である。
(b)陳述、記述は特別な言語現象ではない
 陳述、記述などというものは、数多くの他の発語内行為に対して与えられた名称の中の単なる二つのものであるにすぎない。これらは、唯一独特な位置を持つものではまったくない。
(c)真偽値も全体的言語現象として理解される(ただし人工的な言語で定義された場合を除く)
 ことに、これらは、真であるとか偽であるとか呼ばれる唯一独特な仕方で事実と関係しているという種類の事柄に関しても、なんら唯一独特な位置をもつものではない。なぜならば、真とか偽とかいうことは(一定の目的に限定すれば常に可能でしかも合法的なある種の人工的な抽象化による以外は)関係や性質等の名称ではなく、むしろ、言葉がそれの言及している事実、事件、状況等に関していかに満足すべきものであるかということに対する評価の一つの観点の名称だからである。
(d)事実的なものと規範的、評価的なものの正しい理解
 まったく同じ理由によって、事実的なものに対立するものとして「規範的ないし評価的なるもの」を対照させるというよく見られる方法は、他の多くの二分法と同様に、消去する必要がある。
(e)言語の「意味」についての正しい理解
 「意味と言及対象」に等しいものと考えられる「意味」の理論は、発語行為と発語内行為との区別という手段によるある種の淘汰と再構成とを確実に必要としているのではないかと考えられる。(もちろん、これらの概念が健全なものであればである。もっとも、この点に関しては、単に予告がなされたに過ぎない。)
 「私はそのなかでとくに以下の教訓を指摘、提示したいと思う。
(A)全体的な言語的な状況における全体的言語行為というものが、究極的にわれわれがその解明に専念すべき《唯一の現実的な》(the only actual)現象である。
(B)陳述、記述などというものは、数多くの他の発語内行為に対して与えられた名称の中の《単なる二つのもの》であるにすぎない。これらは、唯一独特な位置を持つものではまったくない。
(C)ことに、これらは、真であるとか偽であるとか呼ばれる唯一独特な仕方で事実と関係しているという種類の事柄に関しても、なんら唯一独特な位置をもつものではない。なぜならば、真とか偽とかいうことは(一定の目的に限定すれば常に可能でしかも合法的なある種の人工的な抽象化による以外は)関係や性質等の名称ではなく、むしろ、言葉がそれの言及している事実、事件、状況等に関していかに満足すべきものであるかということに対する評価の一つの観点の名称だからである。
(D)まったく同じ理由によって、事実的なものに対立するものとして「規範的(normative)ないし評価的(evaluative)なるもの」を対照させるというよく見られる方法は、他の多くの二分法と同様に、消去する必要がある。
(E)「意味(sense)と言及対象」に等しいものと考えられる「意味」(meaning)の理論は、発語行為と発語内行為との区別という手段によるある種の淘汰と再構成とを確実に必要としているのではないかと考えられる。(もちろん、《これらの概念が健全なものであれば》である。もっとも、この点に関しては、単に予告がなされたに過ぎない。)」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第12講 言語行為の一般理論Ⅵ,pp.248-250,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:全体的言語行為,陳述,記述,真偽値,行為遂行的発言,事実と規範,事実と評価,言語の意味)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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2020年5月27日水曜日

(a)成長欲求(a1)自己実現欲求(真,善,美,躍動,必然,秩序,個性,完成,単純,完全,正義,豊富,自己充実,無礙,楽しみ,意味)(b)基本的欲求(b1)自尊心,他者による尊厳の欲求(b2)愛と集団帰属の欲求(b3)安全と安定の欲求(b4)生理的欲求(アブラハム・マズロー(1908-1970))

マズローの欲求の階層

【(a)成長欲求(a1)自己実現欲求(真,善,美,躍動,必然,秩序,個性,完成,単純,完全,正義,豊富,自己充実,無礙,楽しみ,意味)(b)基本的欲求(b1)自尊心,他者による尊厳の欲求(b2)愛と集団帰属の欲求(b3)安全と安定の欲求(b4)生理的欲求(アブラハム・マズロー(1908-1970))】

(1)成長欲求(存在価値)
 (1.1)自己実現欲求
  (a)自己の人生の最大の希望がかなえられ,自己の可能性が最高に発揮できる。
  (b)「成長欲求はすべて同等の重要さをもつ(階層的ではない)」(マズロー)
  (c)自己実現を達するための存在価値(成長欲求)のリスト
   真、善、美
   躍動、必然、秩序
   個性、完成、単純
   完全、正義、豊富
   自己充実、無礙、楽しみ
   意味
  (d)審美的欲求(ヒルガードの心理学)
    調和、秩序、美しさ
  (e)認知の欲求(ヒルガードの心理学)
    知ること、理解すること、探究すること
(2)基本的欲求(欠乏欲求)
 「成長欲求と欠乏欲求は質的相違があり,欠乏欲求が成長欲求の必要条件となる」
 (2.1)自尊心・他者による尊厳の欲求
  (a)自尊心
   自己尊重の欲求
  (b)他者による尊厳
   承認の欲求(ヒルガードの心理学)
    価値ある人間として認められたいという欲求
 (2.2)愛と集団帰属の欲求
  受け入れられること。所属すること。
 (2.3)安全と安定の欲求
  危険から保護され安全でなければならず
 (2.4)生理的欲求
  空気、水、食物、庇護、睡眠、性
(3)以下は、マズローが抽出した欲求の分類の提案である。分類は、以下の仮説に従っている。すなわち、欲求とは、想起、想像、理解された対象や、言語などで表現された予測としての未来、または構想としての未来が、快または不快の情動を喚起する状態のことである。欲求の実体は、情動である。なお、人間の場合には、情動喚起刺激の種類によって、以下のような幾つかの特徴的な情動が生じる。
 (3.1)驚き、恐怖の様相
  帰属価値:意味、真、必然、単純
  認知の欲求
  安全と安定の欲求
 (3.2)快、不快の様相
  (a)外的対象、快、嫌悪
   帰属価値:美、秩序、完全、豊富
   審美的欲求
  (b)自己状態、喜び、悲しみ
   帰属価値:善、無礙、楽しみ
   安全と安定の欲求
  (c)自己行為の自己評価、内的自己満足、後悔
   帰属価値:正義、善、自己充実、躍動、完成、個性
   自己尊重の欲求
  (d)自己行為の他者評価、誇り、恥
   帰属価値:正義、善
   承認の欲求
  (e)他者状態、喜び、憐れみ
   帰属価値:善
  (f)他者行為、好意、憤慨
   帰属価値:正義、善
  (g)自己向け他者行為、感謝、怒り
   帰属価値:正義、善
   愛と集団帰属の欲求
  (h)身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
   生理的欲求:空気、水、食物、庇護、睡眠、性
 (3.3)マズローの欲求の階層の新解釈
  基礎的な欲求の対象(情動の対象)から順に列挙すると、以下の通りである。
  (a)自己の身体が感知する快・不快(生理的欲求)
  (b)対象の新奇性(驚き、恐怖)と自己状態の快・不快(安全と安定の欲求)
  (c)自己向け他者行為の快・不快(愛と集団帰属の欲求)
  (d)自己行為の他者評価の快・不快(承認の欲求)
  (e)自己行為の自己評価の快・不快(自己尊重の欲求)
  (f)外的対象、他者状態、他者行為を含むすべての対象の快・不快(自己実現欲求)

(出典:wikipedia
アブラハム・マズロー(1908-1970)の命題集(Propositions of great philosophers)
 「沢は,基本的欲求の階層を 5 段階と説明したが,なぜかその階層図は 6 段階に描かれていた。すなわち,この階層図においては,自己実現の欲求が長方形で囲まれ 6段階目に位置づけられていた。このため,このモデルは初学者にとって分かりにくいものになってしまった。その基本的欲求の階層図をもとに,沢は概ね次の説明を加えた(図4)。
「マズローは,人間の欲求を 5 つに分類し,それらを段階的に並べ,より上位の欲求が満たされるためにはあらかじめその下段に位置する欲求が満たされていなければならないと述べている。第一段の生理的欲求は,生存するために必須の条件であるので,他の条件より先行している。次に必要とされるのは生命の安全と保障と保護である。私たちは生活のなかで常に危険から保護され安全でなければならず,そのことを実感している必要がある。次は愛と帰属(所属)の欲求である。どんなに衣食住の生理的欲求が満たされ安全が保障されていても,愛もしくは愛情が注がれていなければ人間は安定して平和に生活できない。次の段階の欲求は尊敬(尊重)である。私たちは家庭においても社会においても価値ある人間として認められたいという「自己尊重」もしくは「尊敬されること」を欲求しているはずである。そして,最上位の欲求として自己実現があり,これは自己の人生の最大の希望がかなえられ,自己の可能性が最高に発揮できる段階である。この段階は生涯の最大の幸せなる愛を感じ,知識に満たされることも含んでいる」16)。」
マズローの基本的欲求の階層図への原典からの新解釈(廣瀨清人,菱沼典子,印東桂子)2008年11月5日 受理 28 聖路加看護大学紀要 No.35 2009. 3.

「7 段階の階層図は『ヒルガードの心理学』に掲載されている 18)(図5)。この著作は “Atkinson & Hilgard's Introduction to Psychology”であり,初版が 1953 年に出版されて以降,現在まで 14 版を重ねており,心理学の入門書として,もっとも権威がある。原典は 2 段組で 700 ページを越える大著であるにもかかわらず,第 13 版(2002)17)と第 14 版(2005)18)がそれぞれ邦訳されている。ここでは,後者の記述に基づいて,基本的欲求の階層図を確認しておきたい。
基本的欲求の階層は,低次から高次の順に生理的欲求,安全の欲求,愛情と所属の欲求,承認の欲求,認知の欲求,審美的欲求そして自己実現欲求であった。その基本的欲求の階層図をもとに,Smith らは次の説明を加えた。
「基本的欲求の階層図は,基本的な生理的欲求から,より複雑な高次の心理的動機づけに至り,それらの高次の欲求は,より低次の欲求が満たされてはじめて重要性を持つ。ある階層の欲求が,少なくとも部分的に満足されて,はじめて,その次の階層の欲求が行動の動機づけとして意味を持つようになる。食料や安全の確保が困難な場合,それらの欲求を満たそうとする努力が,人の行動を支配して,より高次の動機は重要でなくなる。基本的欲求を容易に満足させられる場合にのみ,美的・知的欲求を満たすために,時間と努力を費やすことができる。したがって,食料,家屋や安全を確保することに人々が苦労している社会では,芸術や科学はさかんではない。もっとも高次の動機である自己実現欲求は,ほかのすべての欲求が満たされてはじめて満足できる状態になる」18)。」
マズローの基本的欲求の階層図への原典からの新解釈(廣瀨清人,菱沼典子,印東桂子)2008年11月5日 受理 28 聖路加看護大学紀要 No.35 2009. 3.

『マズローの心理学』において,基本的欲求の階層図は 5 つの欲求を含んでいた。それらは低次から高次の順に生理的(空気・水・食物・庇護・睡眠・性),安全と安定,愛・集団所属,自尊心・他者による尊厳(承認),そして自己実現であった 24)(対応する英語は順に“Physiological Air, Water, Food, Shelter, Sleep, Sex” “Safety and Security” “Love & Belongingness” “Self Esteem/Esteem by Others” “Self Actualization”であった 23)。そして,その自己実現を達するための存在価値(成長欲求)のリストが「意味」「自己充実」「無礙」「楽しみ」「豊富」「単純」「秩序」「正義」「完成」「必然」「完全」「個性」「躍動」「美」「善」「真」であった。これらの徳目は相互に分節化されないで,基本的欲求の階層図の一番上の区切りの内側に大きなスペースを与えて配置されていた(図6)。
さらに,台形の下底の外側には,基本的欲求の充足の前提条件が明記されていた。興味深いことは,基本的欲求の階層図の欄外には「成長欲求はすべて同等の重要さをもつ(階層的ではない)」24)という注が記されていた点であり,そこではマズローが発見した成長欲求のリストの間には階層関係がないことが指摘されていた。ゴーブルの著作から基本的欲求の階層のみを抜き出して要約すると次のようになる。
基本的欲求は階層をなしており,低次の欲求から高次の欲求に向かう順番に生理的欲求,安全の欲求,所属と愛の欲求,承認の欲求,そして自己実現の欲求である。原則として,より高次の欲求は,低次の欲求が満たされてはじめて重要性を持つが,しかしながら多くの例外がある。たとえば,ある人々は,他人からの愛よりも自己承認を求めようとするかもしれない。あるいは,長期にわたり失業していた人は,食料だけを探していた歳月が経過した後では,高次の欲求を喪失あるいは鈍磨されてしまっているかもしれない。そして,このような個人の動機づけと深く関連しているのは,ある個人が生きている社会のなかの環境あるいは社会的な諸条件である。マズローは,話す自由,他者に害を及ぼさないかぎりやりたいことができる自由,探 求の自由,自分自身を弁護する自由,正義,正直,公平,そして秩序を基本的欲求の満足の前提条件と当初考えていたが,その後,前提条件をもう一つ追加した。この条件が外的環境における挑戦(刺激)であった。これらの前提条件が満たされており,かつ愛と承認の欲求がある程度満たされた後に,自己実現の欲求は発生する24)。」
マズローの基本的欲求の階層図への原典からの新解釈(廣瀨清人,菱沼典子,印東桂子)2008年11月5日 受理 28 聖路加看護大学紀要 No.35 2009. 3.

まず,本図の形については,前述したように,マズローが承認したゴーブルの基本的欲求の階層図(図6)に依拠し,台形とした。
次に,基本的欲求の階層図の階層部分について,以下のように考える。マズローの欲求の階層論によると,その階層は生理的欲求,安全と安心の欲求,所属と愛の欲求,承認の欲求,自己実現の欲求から構成される。このことから,階層数を 5 つとした。その階層の面積については,高次欲求論から,この図を見ると 5 つの階層の面積に大きく差をつけることが正しいが,この図では欲求の階層理論を検討したためそれらに大きな差をつけず,自己実現の欲求のリストを階層図の右側に記した。その階層間の境界線を破線で示した理由は,これら 5 つの階層間に厳密な階層性が仮定できないことであった。そして,各階層の網掛けの意味は,「生理的欲求は 85%,安全の欲求は 70%,愛の欲求は 50%,自尊心の欲求は 40%,自己実現の欲求は 10%が充足されているのが普通の人間ではないか」9)というマズローの主張と対応したもので,図7では,その割合を各階層に網掛けで示した。高次欲求論によると,自己実現の欲求を成長欲求として,生理的欲求,安全と安心の欲求,所属と愛の欲求,承認の欲求を欠乏欲求として区別し,「成長欲求と欠乏欲求は質的相違があり,欠乏欲求が成長欲求の必要条件となる」26)と述べていることから,図7においてそれらの区別を明示した。また,ゴーブルの階層図では「成長欲求はすべて同等の重要さを持つ」24)という注記をしたが,この発言は重要と考えられるため,図7では右上に注記した。
最後に,看護学で用いられた多くの階層図で明記していなかったもので重要と考えられる基本的欲求充分の前提条件について,「自由,正義,秩序」,行動を決定する要因の「外的環境」あるいはゴーブルの著作からマズローが後に追加したとされる「外的環境の予備条件としての挑戦(刺激)」,そしてゴーブルの階層図に記された「外的環境,欲求充足の前提条件,自由・正義・秩序,挑戦(刺激)」を基に文章化し,本図では階層図の底辺の外側に記した。
マズローの基本的欲求の階層図への原典からの新解釈(廣瀨清人,菱沼典子,印東桂子)2008年11月5日 受理 28 聖路加看護大学紀要 No.35 2009. 3.

(索引:マズローの欲求の階層)

19.高次の動機:秩序、理解、感覚、優越、被害回避、遊び、自律、達成、反動、支配、顕示、屈辱回避、屈服、服従、愛育、性愛、親和、拒否、隔離、援助、防衛、攻撃(ヘンリー・マレー(1893-1988))

高次の動機

【高次の動機:秩序、理解、感覚、優越、被害回避、遊び、自律、達成、反動、支配、顕示、屈辱回避、屈服、服従、愛育、性愛、親和、拒否、隔離、援助、防衛、攻撃(ヘンリー・マレー(1893-1988))】

(1)マレーの列挙した、高次の動機の一覧
屈服:罰に従い、受け入れること
達成:目標に向けて、すばやく、うまく努力し、到達すること
親和:友情を形成すること
攻撃:他者を傷つけること
自律:独立に向けて努力すること
反動:挫折に打ち克つこと
防衛:防衛し、正当化すること
服従:喜んで仕えること
支配:他者を支配し、影響を与えること
顕示:興奮させ、衝撃を与え、自己脚色すること
被害回避:苦痛と傷害を避ける
屈辱回避:屈辱を避ける
愛育:無力な子どもを助け、あるいは守ること
秩序:秩序と清潔さを達成すること
遊び:リラックスすること
拒否:嫌いな人を拒絶すること
隔離:他者と離れたところにいること
感覚:感覚的満足を得ること
性愛:性愛関係をつくること
援助:栄養、愛情、援助を求めること
優越:障害物を乗り越えること
理解:疑問をもち、考えること

(2)以下は、マレーが抽出した欲求の分類の提案である。分類は、以下の仮説に従っている。すなわち、欲求とは、想起、想像、理解された対象や、言語などで表現された予測としての未来、または構想としての未来が、快または不快の情動を喚起する状態のことである。欲求の実体は、情動である。なお、人間の場合には、情動喚起刺激の種類によって、以下のような幾つかの特徴的な情動が生じる。
 (2.1)驚き、恐怖の様相
  秩序、理解
  驚き、恐怖を回避する未来が指向される(秩序、理解欲求)
   秩序:秩序と清潔さを達成すること
   理解:疑問をもち、考えること
 (2.2)快、不快の様相
  (a)外的対象、快、嫌悪
   感覚
   外的対象が快となる未来が指向される(感覚欲求)
    感覚:感覚的満足を得ること
  (b)自己状態、喜び、悲しみ
   優越、被害回避
   不快な自己状態を回避する未来が指向される(優越、被害回避欲求)
    優越:障害物を乗り越えること
    被害回避:苦痛と傷害を避ける
  (c)自己行為の自己評価、内的自己満足、後悔
   遊び、自律、達成、反動
   自己行為の自己評価が快となる未来が指向される(遊び、自律、達成欲求)
    遊び:リラックスすること
    自律:独立に向けて努力すること
    達成:目標に向けて、すばやく、うまく努力し、到達すること
   不快な自己行為の自己評価を回避する未来が指向される(反動欲求)
    反動:挫折に打ち克つこと
  (d)自己行為の他者評価、誇り、恥
   支配、顕示、屈辱回避、屈服、服従
   自己行為の他者評価が快となる未来が指向される(支配、顕示、屈辱回避欲求)
    顕示:興奮させ、衝撃を与え、自己脚色すること
    支配:他者を支配し、影響を与えること
    屈辱回避:屈辱を避ける
   不快な自己行為の他者評価を回避する未来が指向される(屈服、服従欲求)
    屈服:罰に従い、受け入れること
    服従:喜んで仕えること
  (e)他者状態、喜び、憐れみ
   愛育、性愛
   他者状態が快となる未来が指向される(愛育、性愛欲求)
    愛育:無力な子どもを助け、あるいは守ること
    性愛:性愛関係をつくること
  (f)他者行為、好意、憤慨
   親和、拒否、隔離
   他者行為が快となる未来が指向される(親和欲求)
    親和:友情を形成すること
   不快な他者行為を回避する未来が指向される(拒否、隔離欲求)
    拒否:嫌いな人を拒絶すること
    隔離:他者と離れたところにいること
  (g)自己向け他者行為、感謝、怒り
   援助、防衛、攻撃
   自己向け他者行為が快となる未来が指向される(援助欲求)
    援助:栄養、愛情、援助を求めること
   不快な自己向け他者行為を回避する未来が指向される(防衛、攻撃欲求)
    防衛:防衛し、正当化すること
    攻撃:他者を傷つけること

(出典:wikipedia
ヘンリー・マレー(1893-1988)の命題集(Propositions of great philosophers)
「マレーのグループが見つけた動機は、高次の動機とよばれる。

飢えや渇きや性のような基本的な生理学的欲求とは異なり、唾液の分泌や胃の収縮の増加などの特定の生理学的変化を含まないため、その名前を用いた。

代わりに、高次の動機は、人が価値をおく特定の目標や結果に対する心理的欲望あるいは願望である。表8.2は、古典的なリストにおけるマレーと共同研究者ら(Murray et al.,1938)が推察した多様な欲求の例を示している。これらの動機の多くは詳細に調査された(例:Emmons,1997; Koestner & McClelland,1990)。」

表8.2 ヘンリー・マレーによって仮定された人間の非生理学的欲求
屈服:罰に従い、受け入れること
達成:目標に向けて、すばやく、うまく努力し、到達すること
親和:友情を形成すること
攻撃:他者を傷つけること
自律:独立に向けて努力すること
反動:挫折に打ち克つこと
防衛:防衛し、正当化すること
服従:喜んで仕えること
支配:他者を支配し、影響を与えること
顕示:興奮させ、衝撃を与え、自己脚色すること
被害回避:苦痛と傷害を避ける
屈辱回避:屈辱を避ける
愛育:無力な子どもを助け、あるいは守ること
秩序:秩序と清潔さを達成すること
遊び:リラックスすること
拒否:嫌いな人を拒絶すること
隔離:他者と離れたところにいること
感覚:感覚的満足を得ること
性愛:性愛関係をつくること
援助:栄養、愛情、援助を求めること
優越:障害物を乗り越えること
理解:疑問をもち、考えること
(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅲ部 精神力動的・動機づけレベル、第8章 精神力動論の適用と過程、pp.239-240、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:高次の動機)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-2018)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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2020年5月26日火曜日

15.ベンサムの主張。いかに理性的要求を満足し、それ以外にはあり得ないように思えても、法律の仕事は解放ではなく拘束であり、自由を侵犯する。悪を為す自由も、自由である。法律は、悪人から自由を奪いとる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

【ベンサムの主張。いかに理性的要求を満足し、それ以外にはあり得ないように思えても、法律の仕事は解放ではなく拘束であり、自由を侵犯する。悪を為す自由も、自由である。法律は、悪人から自由を奪いとる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(b)(vii)追記。


 (2.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  欲望、情念、偏見、神話、幻想の心理学的・社会学的原因の理解はよい。しかし“合理的な”諸価値や事実が、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、まさに積極的自由が歪曲される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は、外的な法則への服従である。
   (ii)情念、偏見、恐怖、神経症等は、無知から生まれる。
   (iii)社会的な諸価値の体系も、外部の権威によって押しつけられるときは、異物として存在している。意識的で欺瞞的な空想からか、あるいは心理学的ないし社会学的な原因から生まれた神話、幻想は、他律の一形態である。
   (iv)知識は、非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にする。規則は、自分で自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、自律である。
   (v)社会的な諸価値も、理性によってそれ以外ではあり得ないと理解できたとき、自律と考えられる。自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、抑圧し隷従させるものではない。
   (vi)理解を超えて、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
   (vii)ベンサムの主張。いかに理性的要求を満足し、それ以外にはあり得ないように思えても、法律の仕事は解放ではなく拘束であり、自由を侵犯する。悪を為す自由も、自由である。法律は、悪人から自由を奪いとる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性は、何が必然的で何が偶然的かを理解させてくれる。
   (ii)自由とは、選択し得るより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからである。
   (iii)必然的でないものが、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。 

 
 「自由はかくして、権威と両立しがたいどころではなく、実質的にそれを同一のものとなる。これが18世紀におけるすべての人権宣言の思想・言葉であり、また社会を賢明なる立法者の、自然の、歴史の、あるいは神の理性的な法によって構成・設計されたものとみなすすべてのひとびとの思想・言葉なのである。

ほとんどただひとりベンタムだけが、法律の仕事は解放ではなく拘束である、「いかなる法律も自由の侵犯である」と、頑強に言いつづけたのであった。

 * この点に関しては、ベンタムの吐いた次の言葉が決定的なものであるように思われる。

「悪をなす自由は自由ではないのか。もしそうだとすれば、それはなんなのか。愚者や悪人はそれを悪用するから、かれらから自由を奪いとる必要がある、とわれわれはいわないだろうか。」

この言葉と、同じ時期にひとりのジャコバン党員が行った次のような典型的な声明とを比較してみられよ。「なんぴとも悪をなす自由はない。かれ〔が悪を行うの〕を妨げることこそ、かれを自由にすることである。」」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),5 サラストロの神殿,pp.54-55,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

実定法と自然法

【法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.4.2)追記。

 (4.4)在る法と在るべき法の区別
  それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
   仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (4.4.1)在る法
   ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
  (4.4.2)道徳的な原則
   法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。
 「ベンサムは、自然権の観念を二つの主要な仕方で攻撃したのである。第一に、彼は以下のように主張した。実定法により創造されない権利の観念は「冷たい熱」とか「輝く闇」のような用語矛盾である。つまり、権利とは、彼の主張によれば、すべて実定法の産物にすぎないし、また、人為法に先立ちそれから独立した権利が存在するという主張は、人びとが誤解して自然法を自然権の淵源だと語ってきたから、明らかに不条理だとして即座に摘発されるのを免れたにすぎない。しかし、これら(自然法と自然権)はともに、次のような事実に示されているように、実在しないものであった。すなわち、ある人が何らかの法的権利を有しているかどうか、その範囲はどのくらいか、ということに関して論争があるとすれば、これは確証可能な客観的事実に関する問題であって、関連する実定法の文言を引証することによって、あるいは、それがない場合には法廷に委ねることによって合理的に解決できる、という事実である。〔しかし〕このような合理的な解決や客観的な判決手続は、ある人が非実定法的な自然権たとえば言論や集会の自由への権利を持っているかどうかという問題を解決するのに、まったく役立たない。自然権の存否を立証するこれと同種の承認されたテストは存在しないし、それを知りうるための確定された法も存在しないのである。それゆえ、ベンサムは、「《法》の観念を問題にしなければ、《権利》という言葉で言われるものは反駁されるべきものとなる」と述べたのである。法に先行する権利も法に反する権利も存在しない。そのために、自然権の教義は話し手の感情、欲求、偏見を表出するかもしれないが、法が正当に行なったり要求したりすることに対する、合理的に識別し論議しうる客観的な制限として、それは功利主義のようには役立ちえないのである。人びとが彼ら自身の自然権について語るのは、思い通りにしたい理由を示さずにそうしたいときである、とベンサムは述べた。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利主義と自然権,pp.213-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))
(索引:実定法,自然法,自然権)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年5月25日月曜日

23.時間の2つの起源:(a)量子的な相互作用(測定)の結果が測定の順序に依存し(変数の非可換性),部分的に自然な順序づけを持つ.(b)私たちには識別できないマクロ状態に含まれるミクロ状態の数の増加という順序.(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

時間の2つの起源

【時間の2つの起源:(a)量子的な相互作用(測定)の結果が測定の順序に依存し(変数の非可換性),部分的に自然な順序づけを持つ.(b)私たちには識別できないマクロ状態に含まれるミクロ状態の数の増加という順序.(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

 「フランスの偉大な数学者アラン・コンヌは、時間の源において量子の相互作用が果たす深い役割を指摘した。

 ある相互作用によって粒子の位置が具体化すると、粒子の状態が変わる。また、速度が具体化する場合も、粒子の状態が変わる。しかも、速度が具体化してから位置が具体化したときの状態の変化は、その逆の順序で具体化したときの状態の変化とは異なる。つまり順序が問題で、電子の位置を測ってから速度を測ると、速度を測ってから位置を測ったときとは違う状態に変化するのだ。

 これを、量子変数の「非可換性」という。なぜなら位置と速度の順序は「交換できない」からで、順序を換えると、ただではすまなくなる。

この非可換性は、量子力学の特徴となる現象の一つであり、それによって二つの物理変数が確定する際の順序が決まり、その結果、時間の芽が生まれる。

物理的な変数の確定は孤立した行為ではなく相互作用であって、これらの相互作用の結果はその順序によって定まる。そしてその順序が、時間的な順序の原始形態なのである。

 おそらく相互作用の結果がその順序に左右されるという事実こそが、この世界における時間の順序の一つの根っこなのだろう。コンヌが提唱するこの魅力的な着想によると、基本的な量子遷移における時間の最初の萌芽は、これらの相互作用が(部分的に)自然に順序づけられているという事実のなかに潜んでいる。

 コンヌはこの着想を、優美な数学として提示した。物理的な変数の非可換性によって、暗黙のうちにある種の時間的な流れが定義されることを示したのだ。

この非可換性のゆえに、系に含まれる物理変数全体が「非可換フォン・ノイマン環」という数学的な構造を定義する。そしてコンヌは、これらの構造自体のなかに内在的に定義された流れが存在することを示した。

 驚いたことに、コンヌが定義した量子系に付随する流れとわたしが論じてきた熱時間には、きわめて密接な関係がある。

というのもコンヌが示したのは、ある量子系において異なるマクロ状態によって定まる熱流が、いくつかの内部対称性の自由度を別にして等価であり、まさしくコンヌ・フローを形成するという事実だったからだ。

もっと簡単な言葉でいうと、マクロな状態によって定められる時間と、量子の非可換性によって定められる時間は、同じ現象の別の側面なのだ。

 思うにこの熱的にして量子的な時間こそが、この現実の宇宙――根本的なレベルでは時間変数が存在しない宇宙――でわたしたちが「時間」と呼ぶ変数なのだ。

 量子の世界に固有の事物の不確定性は、ぼやけを生む。そしてボルツマンのぼやけゆえに、この世界は古典力学が指し示していそうなこととはまったく逆に、たとえ測定可能なものをすべて測定できたとしても、予測不能になる。

 時間の核には、この二つのぼやけの起源――物理系がおびただしい数の粒子からなっているという事実と、量子的な不確定性――がある。時間の存在は、ぼやけと深く結びついているのだ。

そしてそのようなぼやけが生じるのは、わたしたちがこの世界のミクロな詳細を知らないからだ。物理学における「時間」はけっきょくのところ、わたしたちがこの世界について無知であることの表われなのである。時とは無知なり。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第3部 時間の源へ,第9章 時とは無知なり,pp.137-139,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:)

時間は存在しない


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956-)
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22.「Aから見て本当に存在するB、Bから見て本当に存在するCは、Aから見ても本当に存在する」という命題は、存在するものに関する素朴な直感にすぎず、正しいとは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

4次元時空で本当に存在するものとは?

【「Aから見て本当に存在するB、Bから見て本当に存在するCは、Aから見ても本当に存在する」という命題は、存在するものに関する素朴な直感にすぎず、正しいとは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

(a)「現在」と同時刻の時空領域
 出来事Aから見て同時刻の出来事Bについて(これをA->Bと表す)、Bから見てAは同時刻とは限らない。従って、 A->B でも、B->A とは限らない。時刻によって共通の「現在」を定めることはできない。
(b)因果的な影響が及び得ない時空領域
 (i)出来事Aから見て因果的な影響が及び得ない出来事Bについて(これをA~Bと表す)、Bから見てAは因果的な影響が及び得ない。従って、A~B ならば B~A も成り立つ。
 (ii)互いに因果的な影響が及び得ない出来事A、B(A~B)、Bと互いに因果的な影響が及び得ない出来事C(B~C)を考える。A~B かつ B~C から、必ずしも A~C が結論できない。従って、仮に、因果的な影響が及び得ない領域を「現在」と定めても、ある出来事の「現在」が、別の出来事の過去や未来の領域でもあり得る。
(c)「本当に存在する」ものは何か
 「現在」に影響を与え得た領域を過去、「現在」が影響を与え得る領域を未来とする。過去と未来は、「本当には存在しない」とする。世界に何かが「本当に存在する」のなら、残りは、互いに因果的な影響が及び得ない領域である。そこで、これが「本当に存在する」としてみる。
 互いに因果的な影響が及び得ない出来事A、B(A~B)、Bと互いに因果的な影響が及び得ない出来事C(B~C)を考える。「現在」Aにおいて、「本当に存在する」Bから見て「本当に存在する」Cは、Aにとっても「本当に存在する」。これは、どこが間違っているだろうか。
(d)「Aから見て本当に存在するB、Bから見て本当に存在するCは、Aから見ても本当に存在する」という命題は、存在するものに関する素朴な直感にすぎず、正しいとは限らない。実際、存在するということを、時空内において互いに因果的な影響を与え得ない関係と定義しており、この関係には推移律は成立しない。

 「ブロック宇宙を擁護する古典的な議論は、1967年にヒラリー・パトナムの有名な論文で示された。H.Putnam,'Time and Physical Geometry(時間と物理的幾何学)',Journal of Philosophy 64,pp.240-47,

パトナムが用いたのはアインシュタインの同時性の定義である。第3章の注7で見たように、もしも地球とプロキシマ・ケンタウリbが遠ざかっているとすると、地球における出来事Aは(地球の人にとっては)プロキシマ上の出来事Bと同時になるが、その出来事は(プロキシマの上にいる人にとって)地球上の出来事Cと同時になり、しかもこの出来事CはAの未来に存在する。

パトナムは「同時である」ということが「本物の今である」と仮定して、演繹により(Cのような)未来の出来事が本物の「今」であるという結論に達した。

この論の間違いは、アインシュタインの同時性の定義に存在論的な価値があると仮定したところにある。

アインシュタインの定義は、じつは便宜上の定義でしかない。近似によって相対論的でないものに還元されるであろう相対論的な概念を確認するためのものなのだ。

ところが、相対論的でない同時性が再帰的推移的な概念であるのに対して、アインシュタインの概念は再帰的推移的ではない。したがって、この二つが近似以外の場合にも存在論的に同じ意味を持つと考えるのはナンセンスなのだ。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第2部 時間のない世界,第7章 語法がうまく合っていない,註4,pp.228-229,NHK出版(2019),冨永星(訳))

2020年5月24日日曜日

任意の時刻において,それより大きい部分系の状態とは量子力学的な相関を持たないという意味で自己充足的な最小の部分系における,特別な状態の選択が,あるものが意識化される本質であるように思われる.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))

意識とは?

【任意の時刻において,それより大きい部分系の状態とは量子力学的な相関を持たないという意味で自己充足的な最小の部分系における,特別な状態の選択が,あるものが意識化される本質であるように思われる.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))】

 「この時点で、私がここで擁護しようとしている立場を簡単に要約しておくと役にたつだろう。非相対論的に考えると、宇宙はシュレーディンガー方程式にしたがってなめらかに決定論的に発展していく継目のない全体であると考えられる。この発展系は、無数のさまざまな仕方で部分系に分けることができる。部分系のあいだに相関があるかぎり、どんな部分系も、ある時刻になんらかの決定的な量子状態にあると考えることはできない。しかしながら、もし、特定の部分系を選んで、その系のある可能な状態を選ぶならば――くり返すが、「本当に」その状態にあるわけではない、というのは、相関があるとそのような状態は存在しないからである――そのときには、ほかの部分系に決まった量子状態、もとの部分系の選ばれた状態に呼応した状態を割り当てることができる。意識をもった主体にとって、意識的である任意の時刻において、それはいつも決まって、特別の部分系の特別の状態が選ばれた《かのように》みえる。つまり、主体の脳の内部にあるどんな物理系の状態も、じかに主体の意識の流れをささえているのである。私は、この状態を意識によって《指示された》状態と呼ぶ。関与している脳系のどんな状態も指示されるのにふさわしいというのではなく、ただ、関与している脳系のオブザーバブルのうちの特別な集合の共有された固有状態だけが選ばれるに値するのである。任意の時刻において、意識をもった主体は、宇宙ののこり全体をはじめとして他のどんな部分系をも、この指示された状態に呼応する決まった量子状態をもつものと考える資格をもっているのである。ひとがふつう、ある時刻の、なにものかの状態と考えるものは、本当はその人自身のある指示された状態に単に呼応した状態と考えるべきである。そして、これは、全体としての宇宙の状態についても通用するのである。
 私は、脳オブザーバブルのつくる優先集合の共有された固有状態だけが、指示されるに値すると言った。もう少しだけはっきりさせたい。全宇宙の状態が複数の状態の重ね合わせとしてあらわされていると仮定しよう。状態のおのおのは、部分系の状態のテンソル積であり、適切に分割された部分系のもと、その表現は適切に選ばれているとしよう。私は、《全》宇宙と言っている。しかし、実際は、関与している脳系を部分系としてふくんでいる宇宙の部分系のうち、その状態が宇宙の他の部分系(全部であれ一部であれ、すでにふくまれているものは別として)の状態と、量子力学的な意味で相関していないという意味で《自己充足的》であるような、最小のものを考えれば十分である。というのも、そうした条件を満たす部分系は――関与している脳系はそうではないだろうが――決定論的で意味のある客観的な量子状態をもっているはずだからである。(この最小の自己充足的な部分系は、残りと決して相互作用しない部分系が宇宙にないとすると(そんなことはありそうにないが)全宇宙と一致する。)
 さらに、私の意識をささえている脳部分系はその部分系のひとつで、選ばれた表現は、いま論じている脳オブザーバブルのつくる特別な集合によって定義されているとしよう。すると、任意の時刻で、オブザーバブルのつくる特別な集合の特別な共有されている固有状態が指示される必要条件は、宇宙の重ね合わせにあらわれるテンソル積のひとつにふくまれていることである。あるいは、もっと正確に言うと、ゼロでない係数をもった重ね合わせの要素のなかにあらわれていることである。これを、関与している脳系の状態が指示されるための必要条件と言おう。しかし、それは《十分条件》でもある。この条件を満たすすべての状態は、同時に指示することができ、したがって、すべておなじように私のものである並列現象的パースペクティブを生成している。それが、観測という文脈において、「精神」あるいは分離した観測者について語ることにあたえるべき文字どおりの意味である。」
(マイケル・ロックウッド(1933-2018)『心、脳、量子』(日本語名『心身問題と量子力学』)第13章 量子力学と意識的観測者、pp.326-328、産業図書(1992)、奥田栄(訳))
(索引:意識)

心身問題と量子力学


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意識は仮像,現象であり,実在は科学的方法によって捉えられるという考えは,外的対象については正しい. しかし,意識そのものを対象にした場合,意識に現われるものは実在そのもの,少なくとも実在の一面である.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))

意識とは何か

【意識は仮像,現象であり,実在は科学的方法によって捉えられるという考えは,外的対象については正しい. しかし,意識そのものを対象にした場合,意識に現われるものは実在そのもの,少なくとも実在の一面である.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))】

 「要するに、私は、内省的な心理学が基本的な物理学に貢献するかもしれないということを遠まわしに言っているのである。もし心的状態が脳の状態であるならば、内省はすでに、脳物質には、物理学者の哲学のなかで現在容れられている以上のものが存在することを教えているように私には思えるのである。
 おなじくらい重要な、第二の点は、ラッセルのもともとの観点からは何か逸脱したものを述べているかも知れない。しかし、もしそうだとしても、それは、ラッセルの観点よりもっともらしくすると同時に、物理学内部におけるとともに哲学内部における現在の思考の線にそれをもっと密着させるものである。私は、意識にあきらかになるものに還元できないような《視角による》特性があることを認めなければならないと思う。なお、われわれは、意識をある脳状態の固有の性質をつたえるものと考えるべきなのである、と私は提案する。しかし、その知識は、ある観点に逃れようもなくむすびついているものである。われわれがここで抵抗しなければならないのは、ある観点から何かを知るということは、ともかく、それによってとらえられるものの客観性と相反するというあやまった考えなのである。現象的性質を感知するときにわれわれの感知しているものは、《実在にそのように埋めこまれたものとして意識にのぼるような》脳状態の属性であるけれども、見かけと実在のあいだにギャップは存在しない、ということを私は示唆している。意識にあらわれるものは実在《である》、少なくとも、実在の一部あるいは一面なのである。」
(マイケル・ロックウッド(1933-2018)『心、脳、量子』(日本語名『心身問題と量子力学』)第11章 状態とオブザーバブル、p.257、産業図書(1992)、奥田栄(訳))
(索引:)

心身問題と量子力学

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2020年5月22日金曜日

他人に直接的損害を与えない自由な行為でも,間接的な影響はあり,別評価が必要だ. たとえそれが"よい行為"とされても,間接的な損害の危険が明確なときは,特段の事情がない限り,他人への配慮が道徳や法の対象となり得る.(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

他人へ間接的に及ぼす影響

【他人に直接的損害を与えない自由な行為でも,間接的な影響はあり,別評価が必要だ. たとえそれが"よい行為"とされても,間接的な損害の危険が明確なときは,特段の事情がない限り,他人への配慮が道徳や法の対象となり得る.(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
(2.3.4)追記。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
    (b.1)自分の財産の浪費自体は、非難や処罰の対象ではない。
    (b.2)その結果、人に打撃を与えたこと自体は、非難や処罰の対象になり得る。これは、浪費が悪い目的のためか、良い目的のためかには拠らない。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
   (e)本人を社会が保護すべきではないのか?
    直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
    子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。
   (f)明らかに社会にとって不都合と思われること
    賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。
   (a)本人の行為と、その結果を分けて考えること
    直接には他の人々に影響がない行為は、本人の自由の領域である。しかし、間接的に他の人々に損害を与えるなら、その結果に対しては道徳や法の問題となる。これは、原則的には分けて考える必要がある。特に、他人に直接影響がないとされる行為が、良い行為だと見なされている場合も、結果の責任については、分けて考える必要がある。
   (b)間接的な影響とはいえ、損害を及ぼす明らかな危険がある場合
    他人や社会へ損害を与える危険が明らかにあった場合には、それを配慮しないことは、自由の領域での問題ではなくなり、道徳か法の領域の問題になる。
   (c)自己の緊急の義務あるいは自由が許容される特別な事情
    他人の利益と感情に対して通常払うべき配慮を怠った人は、もっと緊急の義務を果たすためか、許容される範囲で自分の好みを優先したという事情がない限り、配慮を怠ったという点で道徳という観点からの非難の対象になる。

 「以上のような主張に対して、わたしはこう答える。ある人の行動によって本人が深刻な打撃を受けたとき、同情心と利害とによって周囲の人たちも深刻な影響を受ける場合があるし、社会全体もある程度の影響を受ける場合があることは十分に認める。この種の行動の結果、その人が他人に対する明確で具体的な義務を怠った場合、その事例は個人のみに関係する問題ではなくなり、言葉の本来の意味での道徳の問題、つまり社会道徳の問題になり、道徳に基づく非難の対象になる。たとえば、酒におぼれるか浪費にふけったために借金を返せなくなるか、家族に対する責任があるのに、家族を養い教育することができなくなれば、その人は非難を受けて当然であり、さらに、処罰を受けて当然だという場合もあるだろう。だが、非難や処罰は家族や貸し手に対する義務を怠ったことに対するものであって、浪費に対するものではない。家族や貸し手への義務を果たすために使うべきだった資金を、とりわけ賢明な投資に流用したとしても、道徳に反する行動であることには変わりはない。ジョージ・リローの戯曲『ロンドンの商人』で、主人公のジョージ・バーンウェルは愛人のための金が欲しくて叔父を殺したが、事業をはじめる資金が欲しかったのだとしても、やはり絞首刑になったはずだ。悪習に夢中になって家族が苦しむというのはよくあることだが、この場合にも非難されるべきは家族を大切にせず、親の恩を忘れている点である。そして、夢中になっているのがとくに悪い習慣ではなくても、そのために生活している家族や、個人的につながりがあってその人に頼って生活している人が苦しむのであれば、やはり非難されるべきである。他人の利益と感情に対して通常払うべき配慮を怠った人は、もっと緊急の義務を果たすためか、許容される範囲で自分の好みを優先したという事情がないかぎり、配慮を怠ったという点で道徳という観点からの非難の対象になる。だが、配慮を怠る原因となった点や、本人のみに関係する誤りで、配慮を怠る遠因になった可能性があるにすぎない点は、非難の対象にはならない。同様に、純粋に個人のみに関係する行動のために、社会に対して負っている具体的な義務を果たせなくなった場合、その人物は社会に対して罪をおかしたことになる。酔っぱらったというだけの理由では、誰も処罰されるべきではない。だが、兵士か警官が勤務中に酔っぱらったのであれば、処罰されるべきである。要するに、他人か社会に明らかな損害を与えたか、損害を与える危険が明らかにあった場合には、自由の領域での問題ではなくなり、道徳か法の領域の問題になるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.178-180,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:他人へ間接的に及ぼす影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2020年5月21日木曜日

社会の陰謀理論は,現象の科学的解明を阻害する. 陰謀理論はそれが喚起する恐怖を介し戦争の原因でもあった. また,人の意見が利害関心の表明だという理論は,真理のための合理的な討論を無力化してしまう.(カール・ポパー(1902-1994))

人々を真理から遠ざけてしまう典型的な理論

【社会の陰謀理論は,現象の科学的解明を阻害する. 陰謀理論はそれが喚起する恐怖を介し戦争の原因でもあった. また,人の意見が利害関心の表明だという理論は,真理のための合理的な討論を無力化してしまう.(カール・ポパー(1902-1994))】

人々を真理から遠ざけてしまう典型的な理論  (1)社会の陰謀理論
  戦争や貧困や失業は、悪意や腹黒い計画の結果であるという理論は、次の点で注意が必要である。
  (a)社会現象の科学的な解明を阻害する
   社会現象を説明するにあたって、われわれの行動の意図されなかった帰結を説明することが、理論的社会科学の課題である。ところが、陰謀理論はこのような解明の前に止まってしまい、科学的な解明を妨げてしまう。
  (b)陰謀家の陰謀を呼び込んでしまう効果
   過去、すべての陰謀家は、無批判に社会の陰謀理論を信じた。すなわち、社会が陰謀によって動かせるという理論は、現実の陰謀を勇気づけてしまうという効果がある。
  (c)例として、陰謀理論によって喚起された恐怖が戦争の原因
   例として、近代のたいていの戦争は、陰謀に対する恐怖から起きたイデオロギー的な戦争であったか、あるいは、だれも望んでいなかったにもかかわらず、ある特定の状況下でそのような恐怖の結果としてただ単純に勃発した戦争であったか、であった。
 (2)人の意見は利害関心に規定されるとする理論
  人の意見は常にその利害関心によって規定されるという先入見は、次の点で注意が必要である。
  (a)何が真理かという問いが、君の利害関心は何かに置き換わる
  「このことがらについての真理は何か」という重要な問いが、「君の利害関心は何か、君の意見はどのような動機によって影響されているのか」というそれほど重要でもない問いに置き換えられてしまう。
  (b)寛大さが失われる
   しかしこれでは、新しい見解に寛大に耳を傾け、真剣に受けとることの妨げになろう。なぜなら、その新しい見解をその人の「利害関心」によって説明し去ってしまうことができるからである。
  (c)異なる意見から学ぶことがなくなる
  こうなってしまうと、合理的な議論は不可能になる。われわれの自然な知識欲、ものごとの真理に対するわれわれの興味関心が萎縮してしまう。かくしてわれわれは、われわれとは異なる意見をもつ人びとから学ぶことができなくなる。

 「戦争や貧困や失業は悪意や腹黒い計画の結果であるという理論は、常識の一部であるが、批判的ではない。わたくしは、常識の一部となっているこの批判的でない理論を、社会の陰謀理論〔社会は陰謀によって動かせるという理論〕と名づけた。(より一般的に、宇宙の陰謀理論も考えることができる。電光を投げつけるゼウスを考えてみよ。)この理論は、広く行きわたっている。それは、罪をあがなう子羊を探し求めて、迫害と恐ろしい苦悩を引き起こした。
 社会の陰謀理論の重大な特性は、それが現実の陰謀を勇気づけてしまうという点にある。しかしながら批判的に調べてみると、陰謀はほとんどその目的を達成していないことがわかる。陰謀理論を主張したレーニンは、陰謀家であった。ムッソリーニやヒトラーもそうであった。しかしムッソリーニやヒトラーの目的がイタリアやドイツで達成されなかったように、レーニンの目的もロシアでは達成されなかった。
 彼らすべてが陰謀家になったのは、無批判に社会の陰謀理論を信じたからである。
 社会の陰謀理論の欠点を明らかにすることは、哲学に対して、控えめではあるが、おそらく決して些細ではない貢献をおこなうことになる。そればかりでなく、その貢献は、人間の行動の意図されなかった帰結が社会に対してもつ大きな意味の発見につながるであろうし、社会現象を説明するにあたって、われわれの行動の意図されなかった帰結を説明することが理論的社会科学の課題であるとする見解を促進することになろう。
 戦争の問題を取り上げてみよう。バートランド・ラッセルほどの批判的な哲学者でさえ、戦争は心理的な動機――人間の攻撃性――によって説明されなければならないと信じていた。攻撃性が存在することは否定しないが、ラッセルが、近代のたいていの戦争は、攻撃性そのものによってよりもむしろ、《攻撃に対する恐れ》によって勃発したという点を見過ごしていたことには驚きを覚える。それは、陰謀に対する恐怖から起きたイデオロギー的な戦争であったか、あるいは、だれも望んでいなかったにもかかわらず、ある特定の状況下でそのような恐怖の結果としてただ単純に勃発した戦争であったか、なのである。」(中略)
 「哲学的な先入見のもうひとつの例は、人の意見は常にその利害関心(Interesse)によって規定されるという先入見である。この理論は(理性は情念の奴隷であり、またそうであるべきであるというヒュームの学説の退化した形態であると診断することができるだろうが)、原則として自分自身には適応されないのである(われわれの理性にかんして謙虚さと懐疑を教えたヒュームは、彼自身の理性を含めてこれを適用したのだが)。むしろそれは、ふつうはほかの人に、とくにわれわれと意見を異にする人たちに対してのみ適用される。しかしこれでは、新しい見解に寛大に耳を傾け、真剣に受けとることの妨げになろう。なぜなら、その新しい見解をその人の「利害関心」によって説明し去ってしまうことができるからである。
 しかし、こうなってしまうと、合理的な議論は不可能になる。われわれの自然な知識欲、ものごとの真理に対するわれわれの興味関心(Interesse)が萎縮してしまう。「このことがらについての真理は何か」という重要な問いが、「君の利害関心は何か、君の意見はどのような動機によって影響されているのか」というそれほど重要でもない問いに置き換えられてしまう。かくしてわれわれは、われわれとは異なる意見をもつ人びとから学ぶことができなくなる。われわれの共通の合理性にもとづく、国家を超えた人間理性の統一が壊れてしまうのである。
 これと似たような哲学的先入見に、現代では異常に影響力の強いテーゼがある。この有害な理論によれば、根本〔前提〕についての合理的かつ批判的な議論は不可能であるとされる。ここから、以前に論評された理論と同じように、望ましくないニヒリスティックな帰結が生じてこよう。この理論は、多くの人によって主張されている。それを批判することは、多くの職業的哲学者にとっての主要な領域のひとつとなっている、認識論という哲学の領域に属する。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから――これやあれ、さまざまなものから摘みとられた,第13章 わたくしは哲学をどのように見ているか(フリッツ・ヴァイスマンと最初の月旅行者からとられた,pp.284-286,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:陰謀理論,戦争,貧困,失業,利害関心)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020年5月19日火曜日

17.言葉の使用は,意味の揺らぎを観察しながら,それを固定することである.その言葉を合成している非常に多くの互いに類似しているゲームの中から,自分の目的のために,ある一定の規則を構成し,その言葉に適用する.(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言葉の使用

【言葉の使用は,意味の揺らぎを観察しながら,それを固定することである.その言葉を合成している非常に多くの互いに類似しているゲームの中から,自分の目的のために,ある一定の規則を構成し,その言葉に適用する.(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 「三六 ひとつの語が実際にどう使われているかを観察すると、ゆらぎが見られる。
 われわれはこのゆらいでいるものに対し、それを観察しながら、より固定したものを設定する。ちょうど、像としてそれ自身は絶えず変化している風景について、静止した写像を描くように。
 われわれは言語を、明確な規則にしたがったゲームという《観点から》考察する。われわれは言語をそのようなゲームとくらべ、それと照合する。
 自分なりの目的のために、ある語の使用を一定の規則のもとにおこうとすることは、ゆらぎのあるその語の使い方に対し、それの一つの特徴的な様相を規則にまとめて、一つの別の使い方を並べて立てることなのである。
 そこで例えば、(倫理的な意味における)「よい」という語の使い方は、非常に多くの、たがいに同類関係のあるゲームから合成されている、と言ってよかろう。

それらはそれぞれこの語の使用の、いわば切り子面のようなものである。そしてここで《一つの》概念をなりたたせているものは、まさにそれら切り子面のあいだの連関、それらの同類関係にほかならない。

 しかしその際、物理学において副次的な影響を無視することによって自然現象の記述が単純化されるような、そうしたことが行なわれているわけではない。論理学は理想化された現実を描出するとか、厳密にはただ理想的言語にとってのみ妥当する、などと言ってはいけない。

なぜといって、この理想なるものの概念をわれわれはどこから手に入れるというのか。せいぜいのところ、いわゆる日常言語との対比において「理想的言語を《構成する》」とは言ってよかろう。

しかし、理想的言語についてのみ妥当するような何かを、われわれは《言う》のではない。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』三六、全集3、pp.96-97、山本信)
(索引:言葉の使用)

ウィトゲンシュタイン全集 3 哲学的文法 1


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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