2023年3月23日木曜日

フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集

フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集


「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑 をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべ ての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑 のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかで
ある。 というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千 五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と 都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿 は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのであ る。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精 神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむ からである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域 をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考え られたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。 学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎ と、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部 英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)

《目次》
(1)イドラ論
(2)知識の探究法
(3)技術論
(4)自由意志論
(5)悪を理解することの重要性
(6)反乱の防止法



(1)イドラ論

 今、あなたが、この文を読んでいる。この事実だけから、明らかになる真理がある。以下、読者であるあなたを、一人称「私」で記述する。最も基本的な真理は、私が存在するということ、私が私以外の人たちから様々なことを学んできたということ、この世界には人間以外の様々な動物や植物が存在するということ、真理とはこの宇宙すべてに関するものであることである。
 真理は、人間がとらえた真理であり、ここには人間としての何らかの制約があるはずである(種族のイドラ)。また、真理とは過去から現在までの人々の行為に関わるものであり、新たな真理の発見や、その技術的な応用の担い手は間違いなく諸個人に他ならないにも関わらず、諸個人は間違えることがあり(洞窟のイドラ)、真理とは諸個人を超えて人々に共有される何らかの遺産である。
 諸個人を超えて引き継がれる真理の獲得のためには、言語の果たす役割が決定的に重要であるが、言語は同時に、誤謬の最大の原因でもある(市場のイドラ)。過去、様々な誤った学説が「真理」として唱えられてきた(劇場のイドラ)。
 誤りは、ずるさや意図的な騙しによって混入する(詭弁的哲学)だけではない。私たちは、様々な真理を他者から引き継ぐのであって、もともと他者の言葉を信じやすく、学説の創始者への過度の信用から誤る場合もある。変革を憎む保守的な考えも、古いものを抹殺しようする革新的な考えも、ともに不健康な状態である。また、経験的な技術への過信から誤りが混入したり(経験的哲学)、言葉を使うことによる誤りの混入(衒った学問迷信的哲学論争的な学問)は、最もありふれたものである。





(b)人の信じやすい傾向

(c)他愛のないお喋り、詮索、噂
 言語を媒介としていることによる。



(d)技術に対する過度の信頼

(e)学説の創始者への過度の信用








(2)知識の探究法
 観察や実験の結果を集めるだけ(経験派)では、知識は得られない。

 
(2)経験派(蟻の流儀)
()世界の分析と解剖

()過度の一般化に注意せよ

(2)合理派(蜘蛛のやり方)
()精神と知性に対する過度の尊敬

()独断的な哲学


(3)蜜蜂のやり方

()普遍的認識を扱う第一哲学の必要性


()異常で驚異的な現象による理論の是正
 異常な自然の歴史や驚異的な現象を発見、収集し、研究することは、次の点で効用がある。 (1)熟知な例に基づいた一般的命題や学説の偏見を是正する。(2)驚異的な現象を人工的に実 演する技術を発見する。なお、魔術、妖術、夢、占いなど迷信的で超自然的なものも、無意味 ではなかろう。(フランシス・ベーコン(1561-1626))
(a)一般的命題は、ありふれた熟知の例のみに基づいて打ちたてられるのがつねであるが、そ の偏見を是正するのに異常で驚異的な現象が役立つ。
(b)人工的に驚異的な現象を実演する技術を見つけるためには、自然の驚異を研究して、それ がどのような仕組みで起こっているのかを研究するのが、一番の近道である。
(c)なお、魔術や妖術や夢や占いなどに関する迷信的で超自然力のせいにされている結果も、 どのような場合に、どの程度まで自然的原因に関係があるのかがまだわかっていないので、事 実や証拠に基づいて、研究することにも意義があろう。

()発見の方法そのものの改善
 発見の技術は、発見とともに成長しうるものである。(フランシス・ベーコン(1561- 1626))


()質問や疑問の一覧表
 質問や疑問の一覧表の効用は、(1)誤りをもとに誤りを積み重ねてしまうことを防止する、 (2)不用意に見逃されてしまいやすい問題へ注意を喚起し、解決を促す。(フランシス・ ベーコン(1561-1626))
()誤りの一覧表
 言葉として、また意見としては通用しているが、それにもかかわらず、嘘であるとはっきり看 破され確認されているような誤りは、一覧にしておく必要がある。(フランシス・ベーコ ン(1561-1626))
()記憶術の目的
 記憶術の意図は次の通り。(1)目的の記憶を想起するための範囲を「予知」すること、(2)知 的な想念を記憶しやすいように、感覚的な映像で「象徴」すること。(フランシス・ベー コン(1561-1626))
()知識の伝達方法
 二つの方法:(1)教え込むことで、伝達された知識を利用させる方法、(2)発見された方法 や、基礎的な考え方や、証明の仕方を学ばせ、伝達された知識を成長させられるような根を移 植する方法。(フランシス・ベーコン(1561-1626))



(3)技術論

(1)目的と手段

(3)原因から結果を生ぜしめる自然の法則を知る
(4)欲する結果のための原因を配置する
 人間は、原因から結果を生ぜしめる自然の法則を知り、欲する結果のための原因を配置する。 そして、あとは自然が自らのうちで成しとげる。このようにして、人間の知識と力とはひとつ に合一する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))
(5)あとは自然が自らのうちで成しとげる



(6)知識を求める真の目的

(a)愛(人生の福祉と有用 )
(a.1)人類の利益になり役に立つよう、誠実に立派に使うため。創造主を賛美し人間のみじめさを救うために、豊かな倉庫を求めているようである。


(b)野心
(b.1)自分の祖国において、自己の力を伸ばそうと欲する。
(b.2)祖国の勢力と支配とを、人類の間に伸長することに努める。
(b.3)もしも人が、人類そのものがもつ全世界への力と支配とを、革新し伸長することに努めるとしたならば、疑いもなくその野心こそは、残余のものに比べて、より健全でもあればより高貴でもある。


(c)力への欲求
(c.1)金儲けと生活の資のため。
 利得や販売のための店を、求めているようである。
(c.2)知恵で勝って相手をやっつけることができるため。戦い争うための砦や展望のきく陣地を求めているようである。
(c.3)装飾と名声のため。高慢な精神が、その上に登るための高い塔を求めているようである。

(d)知識への欲求
(d.1)自然な好奇心と探求の欲求のため。さ迷い歩く移り気な精神が、美しい景色を見ながらあちこちと歩くためのテラスを求めて いるようである。
(d.2)様々な喜びで心を楽しませるため。探し求めて落ち着かない精神を休ませるための臥床を求めているようである。

(e)不死の欲求
 不死への欲求が、名声を求めさせ、建築物と記念碑を作らせてきたが、学問こそ永続するだろ う。それは、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、人々の 精神に種をまき、意見と行動を通じて、知恵と知識と発明の分け前を取らせる。(フラン シス・ベーコン(1561-1626))
(e.1)子をうみ、家名をあげ、不死を得る。
(e.2)遺名と名声と令名を求め、不死を得る。
(e.3)建築物と記念の施設と記念碑をたて、不死を得る。
(e.4)知力と学問の記念碑により、不死を得る。
 人びとの知力と知識の似姿は、書物の中にいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新さ れることができる。それはつねに子を産み、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代 に、果てしなく行動を引き起こし意見を生む。「学問は、さながら船のように、時という広大 な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるの である。」



(4)自由意志論
《目次》

(1)理性による支配から、理性を妨害する3つのもの
(2)理性を助けるための方法
(2.1) 巧妙な詭弁への対策(論理学)
(2.2) 激烈な情念と感情への対策(道徳哲学)
(2.3) しつこい想像、印象への対策(弁論術)
(2.3.1)想像力の大きな力、信仰の力
(2.3.2)想像力と感情の制御(道徳学、政治学)

参考:意志において理性の力を助ける方法:(1)巧妙な詭弁を、論理学の力で見破る。(2)激烈な感 情に十分に対抗できるような想像、印象を、弁論術の力で理性の判断から仕立てる。(フ ランシス・ベーコン(1561-1626))
(1)理性による支配から、理性を妨害する3つのもの
(a1) 巧妙な詭弁:論理学に関係のある罠で、まちがった推論によって理性は罠をかけられ る。
(b1) 激烈な情念と感情:道徳哲学に関係し、我を忘れさせられる。
(c1) しつこい想像、印象:弁論術に関係のある罠で、印象あるいは所見にまといつかれる。 

(2)理性を助けるための方法
 意志を、理性の命ずる方向に動かすにあたっては、どうすれば良いか。すなわち理性の命令 を、想像力に受け入れさせるには、どうすれば良いか。
(2.1) 巧妙な詭弁への対策(論理学)
 論理学の力をかりて巧妙な詭弁を見破り、理性を確実にする。理性は未来と時間の全体とを見るという点で、情念とは異なる。
(2.2) 激烈な情念と感情への対策(道徳哲学)
 (a)感情そのものにも、つねに、善への欲求がある。
 (b)ところが、感情は現在だけを見るので、未来と時間の全体とを見る理性よりも、いっそ う多く想像力をかきたて、理性はふつう負かされてしまう。
そこで、
(2.3) しつこい想像、印象への対策(弁論術)
 弁論術の力をかりて雄弁と説得とで、理性が命ずるもの、例えば未来の遠いものを現在 のように見えさせてしまえば、そのときは想像力が、現在だけを見ている感情から、理性のほ うへ寝がえり、理性が勝つ。
(2.3.1)想像力の大きな力、信仰の力
参考:想像力は、感官や理性の代理人となり真の判定、善の実行を助けるが、想像力自身に真や善の 権威が付与されるか、それを僭称している。信仰の問題で、想像力は理性の及ばないところま で高まる。比喩と象徴、たとえ話、まぼろし、夢。(フランシス・ベーコン(1561- 1626))
(a) 悟性と理性は、決定と判定を生む。
(b) 意志と欲望と感情は、行動と実行を生む。
(c) 想像力は、感官と理性の代理人あるいは「使者」の役割をつとめる。
・感官が、想像力に映像を送ってはじめて、理性が「真」であると判定を下す。
・理性が、想像力に映像を送ってはじめて、理性の判定「善」が実行に移される。すなわち、 想像はつねに意志の運動に先だつ。能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがた を色どり偽装するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として 想像力に訴えることによるのである。
(d) 想像力は、感官や理性からの「真」や「善」の伝言の使者に過ぎないのではなく、それ 自身決して小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称している。すなわ ち、感官や理性の伝言を超えて、自ら「真」や「善」の権威を僭称する。
(e) 信仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるので あって、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づ こうとした理由なのである。
(2.3.2)想像力と感情の制御(道徳学、政治学)
参考:ある感情を、他の感情によってどう制御し変化させるかについての研究は、道徳と政治に関す ることがらに特別に役だつ。想像力により感情が静められ、あるいは燃え立たされ、行動が抑 制され、あるいは発動する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))
(a) 想像力により、どのように感情が燃え立たされ、かき立てられるか。抑えられていた感情 が、どのようにして外に出るか、それがどう活動するか。
(b) 想像力により、感情がどのように静められ、抑えられるか。感情が行動に発展するのをど う抑制されるか。
(c) それらの感情がどのように重なりあうか、どのようにたがいに戦い対立し合うか。ある感 情が、他の感情によってどのように制されるか。どう変化するか。






(5)悪を理解することの重要性
 
 悪のすべての種類と本性を心得ていなければ、ヘビの賢さとハトの素直さを兼ねそなえること はできない。なぜなら、悪を見破ることなくしては悪に勝つことはできず、邪悪な人たちを改 悛させることもできないから。(フランシス・ベーコン(1561-1626))
悪に対して、どう対処するか。
(1)無防備にも、ぺてんと邪悪な手管に先手を取られれば、あなたの生命が危うくされるが、 逆に、あなたが先に悪を見破れば、悪はその効力を失う。
(2)あなたが悪を知っているということを認めさせることができなくては、卑劣で精神の腐敗 した人たちは、一切の道徳を軽蔑することになる。また、正直な人も、悪の知識の助け無くし ては、邪な人たちを改悛させることができない。
(3)従って、人間は何をなすべきかとは別に、人間は実際に何をなしているか、すなわち悪の すべての種類と本性を心得ていなければ、ヘビの賢さとハトの素直さを兼ねそなえることはで きない。

狡猾の一覧表(フランシス・ベーコン(1561-1626))
(1)相手を用心深く見る。
(2)別の話しで喜ばせ、油断に乗じて提案する。
(3)相手が考えるゆとりがない時に、不意打ちで提案する。
(4)成功を願っているふりをして、失敗する要素を提案する。
(5)言い出したことを途中で打ち切り、知りたいという欲望を掻き立てる。
(6)いつもと違う様子や顔つきを見せて、相手に尋ねさせる。
(7)ほかの誰かに口火を切ってもらい、もっと発言力のある人が、その人の質問に答えるよう なかたちで、言い(8)「世間の噂では」とか「こんな話が広がっている」とか。
(9)最も重要なことを、付けたりであるかのように追伸で書く。
(10)最も話したいことを、ほとんど忘れていたことのように話す。
(11)偶然を装って、相手に見せたい行動を、相手に見せる。
(12)相手に使わせようとする言葉を、ふと漏らしておき、相手が使ったら、それにつけこむ。
(13)自分が他の人に言ったことを、まるで他の人が自分に言ったことのように、他の人のせい にする。
(14)「私はこういうことはしない」。
(15)むきつけに言わず、噂話や物語を使って間接的に言う。
(16)もらいたいと思う返事を、あらかじめ自分の言葉や提案でまとめておく。
(17)自分の言いたいことは隠して、多くの別のことを持ち出しまわり道し、忍耐強く長い間待 つ。
(18)不意の、無遠慮な、思いがけない問い。

(6)反乱の防止法
 反乱の防止法:(a)既得権益の維持(b)上層階級取り込み(c)大きすぎない貧富の差(d)適度の 自由(e)希望を抱かせる(f)政策の真の意図秘匿(g)反対派リーダー籠絡(h)反対派分裂(i)反 対派分断化(j)実力行使(フランシス・ベーコン(1561-1626))

一般に、国民を怒らせて政権に反対する共通の目的のために団結させるようなことが起こら ない限り、政権交代は起らない。注意すべき政策は、
(1)既得権益の維持、重税には注意すること。
(2)上層階級の取り込み
(a)しかし一般に、多数派である貧しい人たちが不満を抱えていても、彼らはやっと生活す るのに忙しく、政治的意識にも乏しく、余裕も知識もある恵まれている人たちによって扇動さ れない限り政治的な動きは概してにぶい。そこで、大切なことは次のことである。
(b)上層階級と一般大衆の両方に不満を抱かせないこと。とくに、上層階級の人たちの不満 が危険である。
(3)貧富の差を大きくし過ぎないこと。
貧富の差や不公平があったとしても、ある程度の生活水準が確保できていれば、政権は維持 できる。その際、考慮すべきは次のことである。
(4)国民に適度の自由を与えること。
(5)国民に希望を抱かせ続けること。
(6)政策の真の意図秘匿
秘密にしておくべき政策の真の意図を、ふとした「失言」によって漏らさないこと。
また、不満を持つ人たちや反対派の人たちを団結させないように、しっかり手を打つこと。
(7)反対派リーダー籠絡
反対派のリーダーを国家の側に引き入れること。
(8)反対派分裂
反対派にもう一人のリーダーを立て、反対派を分裂させること。
(9)反対派分断化
反対派を分裂、分断し、お互いに反目させること。
(10)実力による担保も必要だ。



「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑 をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべ ての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑 のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかで

ある。 というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千 五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と 都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿 は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのであ る。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精 神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむ からである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域 をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考え られたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。 学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎ と、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部 英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)



2022年7月20日水曜日

精神と身体は同一のものであり、身体の能動と受動の秩序、精神の能動と受動の秩序は、同時に生じている。建築や絵画、人間の技術などが、自然法則のみから演繹されるとは思えない一方で、身体自身は自らの法則に従って、精神でさえ驚くようなことを行っている。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2の注解)

心身問題

精神と身体は同一のものであり、身体の能動と受動の秩序、精神の能動と受動の秩序は、同時に生じている。建築や絵画、人間の技術などが、自然法則のみから演繹されるとは思えない一方で、身体自身は自らの法則に従って、精神でさえ驚くようなことを行っている。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2の注解)









(a)精神と身体

 精神と身体は同一のものであり、あるときは思惟の属性のもとで、またあるときは延長の属性のもとで把握される。身体の能動と受動の秩序、精神の能動と受動の秩序は、同時に生じている。

(b)身体の能動

 精神でさえ驚くような多くのことを身体自身が自己の本性の法則のみに従って行っている。そもそも、身体の複雑で精巧な構造は、人間の精神が作り上げたものではない。

(c)精神の能動

 建築や絵画、その他人間の技術によってのみ実現されるようなものは、自然法則のみから演繹されるだろうか。ここに、精神の能動があるのではないだろうか。

 



























(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2の注解,中央公論社,世界の名著25,pp.189-191,1969年,工藤喜作,斎藤博(訳))

2022年7月18日月曜日

身体には、精神の思索活動を制限する能力はないし、また精神にも身体の運動や静止、あるいは他のものを(もしそのようなものがあるとしても)制限する能力はない。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2)

心身問題

身体には、精神の思索活動を制限する能力はないし、また精神にも身体の運動や静止、あるいは他のものを(もしそのようなものがあるとしても)制限する能力はない。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2)















(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2,中央公論社,世界の名著25,p.188,1969年,工藤喜作,斎藤博(訳))





2022年7月8日金曜日

人間は、自らの在り方を選択できる自由意志を持っており、道徳哲学により欲望や情念を離れ、弁証法により理性を用い、自然哲学と神学により真理に近づく。過去さまざまな哲学や宗教が生み出されたが、そのなかには同一の真理が象徴的に表現されている。(ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494))

人間の尊厳について

人間は、自らの在り方を選択できる自由意志を持っており、道徳哲学により欲望や情念を離れ、弁証法により理性を用い、自然哲学と神学により真理に近づく。過去さまざまな哲学や宗教が生み出されたが、そのなかには同一の真理が象徴的に表現されている。(ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)『人間の尊厳について』 ) 


https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000864834-00










2022年6月29日水曜日

時間的な構造において予測可能でなかったり、未来が一つに決定されていなくても、過去から未来までの全存在が決定されていると思われるのは、我々自身が時間的な存在であることによる認識上の限界である。なぜなら、決定性の概念が時間の存在を前提にしているからである。(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』)

決定性は、時間的な概念である

時間的な構造において予測可能でなかったり、未来が一つに決定されていなくても、過去から未来までの全存在が決定されていると思われるのは、我々自身が時間的な存在であることによる認識上の限界である。なぜなら、決定性の概念が時間の存在を前提にしているからである。(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』)


 (a)決定性は時間的な概念である
  未来が決定されているかどうかという概念自体が、時間の存在を前提にしている。一つの存在として存在している全存在は、時間を超えており、決定されているかどうかを問うことは無意味である。(持続的な概念と永遠的な概念)
 (b)認識は、我々の限界に服する
  我々自身が時間的な存在なので、時間の存在を前提にした決定性の概念は理解することができる。しかし、時間を超えた概念はたとえ理解できなくとも、それは我々の存在の限界なのであって、全宇宙の存在の真の姿は同じ概念で理解可能とは限らない。


(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』,第5部,6,pp.229-235,岩波文庫,1950,畠中尚志(訳),https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000871187-00 )


















































2022年6月23日木曜日

たとえ出来事がどのように生起していようとも、過去から未来までの全存在は、確かに何らかの存在として一つ存在しており、それでもなお、自由意志がいかなる意味で存在し得るのかが問題である。(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』)

自由意志

たとえ出来事がどのように生起していようとも、過去から未来までの全存在は、確かに何らかの存在として一つ存在しており、それでもなお、自由意志がいかなる意味で存在し得るのかが問題である。(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』)



(a)予見には2つの概念が区別されるとの考え
 (i)予測可能性
  現在の状態を知って、未来の状態を予測できるという意味での予見の概念がある。しかし、予測可能だとしても、未来の状態は一つに決定されているとは限らない。
 (ii)過去から未来までの全存在
  予測可能かどうか、また予測可能だとしても未来が一つに決まっているかどうかが分からなくても、未来はある姿で存在する。この過去から未来に至る全ての存在は、全宇宙の全てを知ることが可能だとしたら、一つの存在として存在していると思われる。
(b)予見とは過去から未来までの全存在を知ることであるとの考え
 いま現に、ある人が座っていると知ることは、それが確かに存在していることを示している。過去のことも未来のことも、それが確かに存在しているのなら、その存在そのものは、一つに決まっているものと思われる。



(ボエティウス(480-524)『哲学の慰め』,第5部,2,pp.210-213,岩波文庫,1950,畠中尚志(訳),https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000871187-00 )































2022年5月21日土曜日

「私はAをする意図を完全に固めている」と「私はAをすることを約束する」とは、自らの発言権限の根拠を保証し、他者に対して自己に義務を課す点で、異なる行為である。同様に「SはPであると完全に確信している」と「私はSがPであることを知っている」も異なる行為である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言の事例による説明

「私はAをする意図を完全に固めている」と「私はAをすることを約束する」とは、自らの発言権限の根拠を保証し、他者に対して自己に義務を課す点で、異なる行為である。同様に「SはPであると完全に確信している」と「私はSがPであることを知っている」も異なる行為である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))


(a)「私はAをする」
 (i)それができるという期待を少しも持たず、そうする意図をまったく持っていないならば、私は故意に欺いていることになります。
 (ii)そうしようという意図を完全にはかためておらずにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるが、故意に欺いていることにはならない。
(b)「私はAをする意図を固めている」
(c)「私はAをする意図を完全に固めている」

(d)「約束します(I promise)」 
 (i)単に自分の意図を公言したのみにとどまるのではなく、この定型表現を使うことによって、ある新たな仕方において他者に対する義務を自分に課し、自分の信望を賭けたことになる。
 (ii)私が約束すると言った場合には、あなたには自分の行動を私の言葉に基づける権利がある。
 (iii)私が「私は知っている」とか「私は約束する」とかと言った場合には、それを受け入れることを拒むならば、あなたは特殊な仕方で私を侮辱することになる。
 (iv)もし誰かが私にAをすることを約束するならば、私はその約束をあてにする権利があり、それに基づいて自分でも別の約束をすることができる。
 (v)あなたは「自分が約束できる立場にある」ということ、すなわち、そのことがあなたの力の及ぶ範囲にあるということをも示すことを引き受けなければならない。

(e)「SはPである」
 (i)信じていないのに言うならば、嘘をついていることになる。
 (ii)信じてはいるものの確信してはいないのにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるかもしれませんが、厳密には嘘をついたことにはならない。
(f)「SはPであると信じている」
(g)「SはPであると確信している」
(h)「SはPであると完全に確信している」
 (i)私が確信するのは私の側の事柄であり、あなたはそれを受け入れることも、受け入れないままでいることもできる。

(i)「私は知っているのです(I know)」
 (i)「知っている」と言う時、私は《自分の名誉にかけて相手に請け合っている》のであり、「SはPである」と《言う権限を私の名で授与している》のです。 
 (ii)私が知っている場合には、それは「私の側の事柄」ではなく、私が「私は知っている」と言う時も、私はあなたがそれを受け入れることも受け入れないままでいることもできるということを意味しない。 
 (iii)誰かが「私は知っている」と私に言った場合にも、私には、人づてにではあるが、自分もまた知っていると言う権利が生ずる。「私は知っている」と言う権利は、他の権限が分与可能であるのと同じ仕方で分与可能である。
 (iv)あなたがあることを知っていると言った場合、それに対するもっとも直接的な疑問提起は、「知ることのできる立場にいるのか(あるいは、いたのか)」を問うという形態を取る。

 


 「もし私が信じてもいないにもかかわらず「SはPである」と言うならば、私は嘘をついていることになります。もし私が信じてはいるものの確信してはいないのにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるかもしれませんが、厳密には嘘をついたことにはなりません。もし私が「私はAをする」と言いつつ、それができるという期待を少しも持たず、そうする意図をまったく持っていないならば、私は故意に欺いていることになります。もし私がそうしようという意図を完全にはかためておらずにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなりますが、先ほどと同じ仕方で故意に欺いていることにはなりません。  さてしかし、私が「約束します(I promise)」と言う場合には、新たな一歩が踏み出されることになります。私は、単に自分の意図を公言したのみにとどまるのではなく、この定型表現を使うこと(この儀式を遂行すること)によって、ある新たな仕方において他者に対する義務を自分に課し、自分の信望を賭けたことになるのです。同様に、「私は知っているのです(I know)」と言うこともまた、新たな一歩を踏み出すことであります。しかしそれは、「私は、信じることや確信することと同一の評価次元に属してはいるが、単に完全に確信することにさえも優ると評価される、特にきわだった認知上の偉業を達成した」と言うということでは《ありません》。なぜなら、この評価次元の上には完全に確信することに優るものなど何も《存在し》ないからです。それはちょうど、約束することが、期待することや意図することと同じ評価次元に属してはいるが、単に完全に意図を固めていることにさえも優るような何事かであるのではなく、しかもその理由がこの評価次元の上には完全に意図することに優るものなど何も《存在》しないからであるというのとまったく同様です。「知っている」と言う時、私は《自分の名誉にかけて相手に請け合っている》のであり、「SはPである」と《言う権限を私の名で授与している》のです。  私が「私は確信している」としか言っていない場合には、間違っていることが判明したとしても、「私は知っている」と言った場合と同じ仕方で他人から非難される謂われはありません。私が確信するのは私の側の事柄であり、あなたはそれを受け入れることも、受け入れないままでいることもできます。もし私が鋭敏で注意深い人間であると思うならば、それを受け入れればよいのであって、それはあなたの責任で決める事柄です。しかし、私が知っている場合には、それは「私の側の事柄」ではありませんし、私が「私は知っている」と言う時も、私はあなたがそれを受け入れることも受け入れないままでいることもできるということを意味してはいません(もちろん、あなたは実際には受け入れることも受け入れないでいることも《できはする》のですが)。同様にして、自分が完全にそうする意図を固めていると私が言うとき、私がそういう意図をもつことは私の側の事柄であり、あなたは、あなたが私の決意と運勢をどう評価するかに応じて、自分の行動を私の言葉に基づけるかどうかを決定することでしょう。しかし私が約束すると言った場合には、あなたには自分の行動を私の言葉に基づける権利があります(あなたがそうすることを選ぶかどうかは別の問題です)。私が「私は知っている」とか「私は約束する」とかと言った場合には、それを受け入れることを拒むならば、あなたは特殊な仕方で私を侮辱することになります。われわれは皆「知っている」と言うことと「《絶対の》確信がある」と言うこととの間にさえもきわめて大きな相異を《感じとります》。それは、「約束する」と言うことと「堅固かつ決定的な意図を固めている」と言うこととの間にある相異と似ています。もし誰かが私にAをすることを約束するならば、私はその約束をあてにする権利がありますし、それに基づいて自分でも別の約束をすることができます。またそれゆえ、誰かが「私は知っている」と私に言った場合にも、私には、人づてにではありますが自分もまた知っていると言う権利が生じます。「私は知っている」と言う権利は、他の権限が分与可能であるのと同じ仕方で分与可能です。だからこそ、私が軽々しくそう言ったりすれば、《あなたを》トラブルに巻き込んだことの責任を取らなければならなくなることもありうるのです。  あなたが《あること》を知っていると言った場合、それに対するもっとも直接的な疑問提起は、「知ることのできる立場にいるのか(あるいは、いたのか)」を問うという形態をとります。すなわち、あなたは単にあなた自身がそのことを確信しているということのみではなく、そのことがあなたの知識の及ぶ範囲にあるということを示すことを引き受けなければならないのです。同様の形態の疑問提起は約束の場合にもあります。完全に意図を固めているということだけでは十分ではありません。あなたは「自分が約束できる立場にある」ということ、すなわち、そのことがあなたの力の及ぶ範囲にあるということをも示すことを引き受けなければならないのです。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,4 他人の心,pp.146-148,勁草書房(1991),山田友幸,坂本百大(監訳))
(索引:)

オースティン哲学論文集 (双書プロブレーマタ)











(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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