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2020年8月29日土曜日

「君の感情を信頼せよ!」は正しいか? 感情は、諸体験による形成物であり、その背後には、受け継がれた諸価値、判断、評価が隠されている。それは、自身の理性と経験に従う以上に、自分の祖父母等の判断に従うことを意味する。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

感情に従うということ

【「君の感情を信頼せよ!」は正しいか? 感情は、諸体験による形成物であり、その背後には、受け継がれた諸価値、判断、評価が隠されている。それは、自身の理性と経験に従う以上に、自分の祖父母等の判断に従うことを意味する。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

「君の感情を信頼せよ!」は正しいのか
 (1)感情は、諸体験から形成されたものである
   快と不快、愛着、反感等々の諸感情は、記憶による諸体験の形成物である。記憶は、強調し省略し、単純化し、圧縮し、対立(格闘)させ、相互形成し、秩序付け、統一体への変形する。諸思想は、最も表面的なものである。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (2)感情が、判断より根源的というわけではない
   原因と徴候の取り違いによせて。快と不快とはすべての価値判断の最古の徴候である。だが価値判断の原因ではない。それゆえ、快と不快とは、道徳的および美的な判断が帰属しているのと、同一の範疇に帰属している。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (3)感情の背後には、目標、状況判断、価値判断がある
   ある対象や諸変化の状況が、意欲されている目標との関連で判断され、激情的な所有欲や拒絶へと簡約化され、総体的価値へと固定される。これが快と不快であり、同時に、目標や知性における判断への逆作用を持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (4)感情の背後の目標、状況判断、価値判断は誤っているかもしれない
  (a)感情の背後には判断と評価があり、しかもしばしば、それらは、われわれの理性とわれわれの経験に従うより以上に、自分の祖父と祖母、さらにその祖父母に従うことを意味する。
  (b)その判断は、自分自身の判断ではなく、しかもしばしば誤った判断である。

 「《感情とその判断からの由来》。―――「君の感情を信頼せよ!」―――しかし感情は最後のものでも、最初のものでもない。感情の背後には判断と評価があり、それらは感情(傾向、嫌悪)の形をとってわれわれに遺伝している。感情に基づく霊感は、判断の―――しかもしばしば誤った判断の! ―――そしていずれにもせよ君自身のものでない判断の! 幼い孫である。自分の感情を信頼する―――それは、《われわれ》の内部にある神々、すなわち、われわれの理性とわれわれの経験に従うより以上に、自分の祖父と祖母、さらにその祖父母に従うことを意味する。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『曙光 道徳的な偏見に関する思想』第一書、三五、ニーチェ全集7 曙光、p.52、[茅野良男・1994])
(索引:感情,価値,判断,価値評価)

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2020年5月4日月曜日

22.衝動の制御:(a)機会を避け、衝動を弱める,(b)厳しい規則を衝動に植えこむ,(c)衝動に身を任せ飽満と嫌悪を獲得する,(d)全身的な衰弱と虚脱で衝動を弱める,(e)苦痛を与える連想を衝動に結びつける,(f)力を他の衝動に転移する(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

衝動を制御する方法

【衝動の制御:(a)機会を避け、衝動を弱める,(b)厳しい規則を衝動に植えこむ,(c)衝動に身を任せ飽満と嫌悪を獲得する,(d)全身的な衰弱と虚脱で衝動を弱める,(e)苦痛を与える連想を衝動に結びつける,(f)力を他の衝動に転移する(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

衝動
(1)別の衝動の存在
 衝動の激しさに対して苦しみを認めるということは、さらに激しい別な衝動が存在することを示している。それは、安息への衝動、恥辱や別の悪い結果への恐怖、愛などである。
(2)知性の発動
  あるいは、また、われわれの知性が味方しなければならない、ひとつの戦いがさし迫っていることを示している。
(3)衝動の激しさを押さえるための、本質的に異なった6つの方法
 (a)機会を避け、衝動を弱める
  衝動を満足させる機会を避け、衝動を弱め、乾涸びるようにする。
 (b)厳しい規則を衝動に植えこむ
  衝動を満足させるときの厳しい規則的な秩序を法則にする。
 (c)衝動に身を任せ飽満と嫌悪を獲得する
  わざと衝動の荒々しい奔放な満足に身を委ね、それで嫌悪を収穫し、この嫌悪によって衝動に打ち勝つ力を手に入れる。
 (d)全身的な衰弱と虚脱で衝動を弱める
  肉体と精神の組織全体を、弱め抑制することに耐え、激しい衝動を弱める。
 (e)苦痛を与える連想を衝動に結びつける
  知的な戦略がある。何らかの非常に苦痛を与える考え、たとえば恥辱や悪い結果などを、満足とかたく結びつける練習をし、連想を完成させる。たとえば、個々の興奮が全体的な態度と理性の秩序よりも優勢になることを、侮辱を感じるようにさせる。
 (f)力を他の衝動に転移する
  何らかのとくに骨の折れる仕事を自分に課すか、あるいはわざと新しい刺戟と楽しみに服従し、思想や肉体の力の働きを別な軌道に導く。すなわち、力の転位。知っている他のすべての衝動に、一時的な鼓舞と祝祭期を与える方法もある。

 「《自制と節制とその究極の動機》。―――衝動の激しさを押さえるのに、本質的に異なった六つの方法より以上は見つからない。 

第一に、衝動を満足させる機会を避け、不満足が長く、だんだん長く続くことによって、衝動を弱め、乾涸びるようにすることができる。

第二に、衝動を満足させるときの厳しい規則的な秩序を法則にすることができる。こういう風にして、衝動そのものの中に規則を持ち込み、衝動の干満を確実な時間的限界の中に閉じこめることによって、もはや衝動からわずらわされることのない中間時が獲得される。―――そしてそこからおそらく第一の方法に移ってゆくことができるであろう。

第三に、わざと衝動の荒々しい奔放な満足に身を委ね、それで嫌悪を収穫し、この嫌悪によって衝動に打ち勝つ力を手に入れることができる。馬を追いつめて殺し、そのとき自分も首の骨を折るような―――残念ながらこうした試みにおいてはこれが通例である―――騎手と競争しないことが前提であるが。  
 
第四に、知的な戦略がある。つまり、何らかの非常に苦痛を与える考えを一般に満足とかたく結びつけ、若干練習したあとで、満足したという考えがいつも直ちにそれ自身非常に苦痛を与えるものとして感じられるようにすることである(たとえばキリスト教徒が、性的享楽にあたって悪魔の接近と嘲笑を、復讐心からの殺人に対して永遠の地獄の罰を、またたとえば、金銭の窃盗犯に対して彼から最も尊敬される人間たちの眼にうかぶ軽蔑だけを考えることに馴れている場合。

あるいは多くの者がすでに百回も、自殺への激しい欲望に対して親類や友人が悲嘆し自責するという考えを対立させ、それによって浮動する人生に身を支えて来た場合。―――今やこれらの考えが彼の心の中で次々に原因と結果のように相次いで起こる)。
 
たとえばバイロン卿や、ナポレオンのように人間の誇りが激昂し、ひとつひとつの興奮が全体的な態度と理性の秩序よりも優勢になることを侮辱を感じるときもまた、これに属する。

ここからさらに、衝動を専制君主化させて、それをいわば軋らせる習慣と楽しみが生じる。(「私は何らかの食欲の奴隷になることを望まない」―――とバイロンは日記に記した。)

第五に、何らかのとくに骨の折れる仕事を自分に課すか、あるいはわざと新しい刺戟と楽しみに服従し、こうして思想や肉体の力の働きを別な軌道に導くことによって、多くの力の転位が行なわれる。

他の衝動を一時的に奨励し、それが満足する機会を多く与え、こうしてそれを、そうでないなら激しさが重荷になった衝動が意のままにするであろうあの力の濫費者にするときも、やはり結果は全く同じことになる。
  
いろいろな人はまた、彼が知っている他のすべての衝動に一時的な鼓舞と祝祭期を与え、専制君主が自分ひとり占めにしようと思う飼料を食いつくせと命じることによって、専制君主を演じたいと思うひとつひとつの衝動を抑制することもよく心得ている。  

最後に第六として、肉体と精神の組織《全体》を弱め抑制することに耐え、それを合理的と思う者は、ひとつひとつの激しい衝動を弱める目標にもとよりこれと同様にして到達する。
 
たとえば苦行者のように、その感覚を飢え疲れさせ、しかも同時にもちろんその強壮さも時折はその知性も一緒に飢え疲れさせて駄目にする人のやり口のように。  

―――したがって、機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと。苦悩を与える思想(恥辱や悪い結果や、あるいは侮辱された誇りのような)の連想を完成すること。次に力の転位。最後に全身的な衰弱と虚脱。

―――これが六つの方法である。しかし一般に衝動の激しさに打ち勝とうと《望むということ》は、われわれの力の及ぶところではない。

同様に、どんな方法を思いつくか、またこの方法で効果があがるかどうかということも、やはりわれわれの力の及ぶところではない。

むしろわれわれの知性は、この全過程において明白に、或る《別の衝動》の盲目的な道具であるにすぎない。この別の衝動は、安息への衝動であれ、恥辱や別の悪い結果への恐怖であれ、愛であれ、われわれをその激しさによって苦しませるものの《競争者》の一つなのである。

「われわれ」がそれゆえある衝動の激しさについて嘆いていると思っているのに、根柢においては、《ある別の衝動について嘆いている》衝動がある。すなわちそのような《激しさ》に対して苦しみを認めることは、同様に激しい衝動、あるいはさらに激しい別な衝動が存在することを、またわれわれの知性が味方しなければならないひとつの《戦い》がさし迫っていることを前提としている。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『曙光 道徳的な偏見に関する思想』第二書、一〇九、ニーチェ全集7 曙光、pp.123-125、[茅野良男・1994])
(索引:衝動)

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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