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2019年4月29日月曜日

14.人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

法や社会制度、教育と世論の重要性

【人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3) 追記。

《目次》
(1)人間の行為の究極的目的
 (1.1)苦痛と快楽
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
 (1.3)幸福とは何か
 (1.4)平穏と興奮
 (1.5)人類全体への愛情
 (1.6)精神的涵養
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則


(1)人間の行為の究極的目的
 (a)行為の人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)苦痛と快楽
  できる限り苦痛を免れ、できる限り快楽を豊かに享受する。
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
  苦痛と快楽は、量と質の両方が考慮される。
 (1.3)幸福とは何か
  幸福とは何か。それは、到達できない目的なのではないか。
  (a)幸福が強い快楽による興奮状態の継続であるとすれば、それは達成不可能である。
  (b)仮にそうだとしても、不幸を避けたり軽減したりすることができる。
  (c)幸福とは、苦痛があっても一時的なものであり、快楽が多く様々にあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、現に生きられている人生以上のものを、もはや期待しないような状態である。

 (1.4)平穏と興奮
  平穏と興奮は、より控えめな幸福の要素の一つである。
  (a)平穏に恵まれていれば、大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。
  (b)多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。
  (c)そして、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激される。
  (d)怠惰が高じて悪習となっている人、また逆に、病的に興奮を求めるようになってしまっている人も、存在はするだろう。

 (1.5)人類全体への愛情
  自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
   この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
   (b.1)この世界には、さらに是正し改善すべきものが多くある。
    (b.1.1)貧困、病気など、避け難く、未然に防ぐこともできず、緩和することもできないと思われるような、様々な肉体的・精神的苦悩の源泉が存在する。
   (b.2)運命の変転や自分の境遇について失望してしまう原因。
    (b.2.1)甚だしく慎慮が欠けていること。
    (b.2.2)欲が大き過ぎること。
    (b.2.3)悪い、不完全な社会制度のために、自由が認められていないこと。
   (b.3)改善への希望。
    (b.3.1)これら苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろう。
    (b.3.2)貧困は、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって、完全に絶つことができるだろう。
    (b.3.3)病気は、科学の進歩と優れた肉体的・道徳的教育によって、有害な影響を限りなく縮小できるだろう。
   (b.4)自己犠牲とは何か。
    (b.4.1)なぜ、自らの幸福を犠牲にし得るのか。それは、他者の幸福や、世界の幸福の総量を増大、あるいは幸福の何らかの手段への献身だと信じるからである。
    (b.4.2)「目的は、幸福ではなく徳である」は、正しいだろうか。しかし、自らの犠牲によって、他の人々も同じような犠牲を免れ得ると信じていなかったとしたら、その犠牲は払われたであろうか。
    (b.4.3)誰かが、自らの幸福を完全に犠牲にすることによってしか、他の人々の幸福に貢献できないというのは、世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけである。

 (1.6)精神的涵養
  精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
  (a)意識的に、幸福なしにやっていくことが、到達可能な幸福を実現することについての、最良の見通しを与えてくれる場合がある。「目的は、幸福ではなく徳である」。
  (b)それは、宿命や運命が最悪であっても、それが人を屈服させる力を持っていないと感じさせてくれる。
  (c)その結果、人は人生における災難について、過剰に不安を抱くことがなくなる。
  (d)また、手の届くところにある満足の源泉を、平穏のうちに涵養することができるようになる。
  (e)それは、死をも超越する。

(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。


 「功利主義を攻撃する人がめったに正しく認めようとしてくれないことを私は再び繰り返して言っておくが、何が正しい行為なのかを決める功利主義的基準を構成している幸福とは、行為者自身の幸福ではなく関係者すべての幸福である。

自分自身の幸福か他の人々の幸福かを選ぶときには、功利主義は利害関係にない善意ある観察者のように厳密に公平であることを当事者に要求している。

ナザレのイエスの黄金律に、私たちは功利性の倫理の完全な精神を読み取る。人にしてもらいたいと思うことを人にしなさいというのと、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいというのは、功利主義道徳の理想的極致である。

その理想にもっとも早く近づく手段として功利性は次のことを求めるだろう。

第一に、法や社会制度があらゆる個人の幸福や(あるいは実際的に言えば)利害をできるかぎり全体の利害と一致させるようなものであること、

第二に、人間の性格にたいして大きな力をもっている教育や世論が、自らの幸福と全体の善の間には、とりわけ全体の幸福が求めるような行為を消極的にでも積極的にでも実行することと自らの幸福の間には切ることのできない結びつきがあるということを各人の心に抱かせるためにその力をもちいることである。

そうすれば、全体の善に反するような行為を押し通して自らの幸福を得ようと考えることはできなくなるだけでなく、全体の善を増進するという直接的な衝動があらゆる個人にとって行為の習慣的な動機のひとつとなり、それに伴う感情が各人の感情のなかで大きく重要な位置を占めるようになるだろう。

功利主義道徳論を非難する人がこのような正しい特徴によってそれを心に思い描くならば、彼らが支持するであろう他の道徳論がもっている長所のうち功利主義道徳論に欠けているものが何なのか、他の倫理体系が促すと考えられている、より美しくより賞賛すべき形での人間本性の発展というのはどのようなものなのか、そして、その体系は功利主義者が利用できないどのような行為の動機にもとづいて指令を実行させるのか、私には分からない。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.279-280,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:法,社会制度,教育,世論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2018年10月29日月曜日

10.14.人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))

人道主義的道徳と法

【人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))】

(3.4.1)~(3.4.3)追記

 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。
  (3.4.1)「無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。」(ジョン・オースティン(1790-1859))
  (3.4.2)もし法が、一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じる。(ジョン・オースティン(1790-1859)、ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
  (3.4.3)人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))
(出典:wikipedia
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)
検索(ラートブルフ)

 「この訴えは、ナチ体制の下で生き、その体制が邪悪な法体系を生みだしたことについて反省したドイツの思想家たちによる訴えである。

その中の一人、ラートブルフは、ナチの専制までは「実証主義的」原理を支持していたが、ナチの専制を経験して転向した人であるから、彼が法と道徳の分離という原理を捨てるように他の人に訴える様子には、自説を変更するという特殊な痛烈さがある。

この批判に関して重要であるのは、在る法と在るべき法との分離を力説するときにベンサムとオースティンが念頭においていた主張に、この批判が対決しているということである。

これらのドイツの思想家たちは、功利主義者が分離したものを、功利主義者の目にはこの分離が最も重要であるちょうどその場面で、結合させることが必要だという主張をした。

彼らは道徳的な悪法の存在という問題に関心をよせたのである。

 ラートブルフは、転向する以前には、法への抵抗は個人の良心の問題で、個人によって道徳的な問題として考えられるべきであるとし、法の要求するところが道徳的に悪であることを示したとしても、さらに、法への服従のもたらす結果が法への不服従のもたらす結果よりも悪いことを示したとしても、法の妥当性は否定されるものではないという意見を持っていた。

ここでオースティンを思い起こしてもらいたい。オースティンは、もし人の法が道徳の基本的な原則と衝突するならばそれは法ではないと言う者に対して、「全くナンセンスなこと」を語っていると強い非難をあびせている。

 『最も邪悪な法、したがって最も神の意志とは対立する法が、司法裁定機関によって、法として強行されてきたし、また強行され続けている。

無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。

もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。

そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。

神の法に基づいた異議申し立てや妨訴抗弁や抗弁は、天地創造の時から現在に至るまで、正義の法廷で聞き入れられたことはない。』

 これはたいへん頑固な、暴力的なとさえ言える発言であるが、――オースティンの場合、そして、もちろん、ベンサムの場合も――もし法が一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じるという確信とともにこれらの言葉を語っていることに注意しなくてはならない。

人間が陥るかもしれないディレンマをこのように率直に表現する以外に方策はないのかと思案してみてもらいたい。

この率直な表現がどれほど崩しにくいものであるかがわかるだろう。

 しかし、ラートブルフは、たんなる法規への隷従――彼によれば、「法は法だ」(Gesetz ist Gesetz)という「実証主義的」スローガンによって表現される――をナチの体制が容易に利用したということから、また、ドイツの法曹界が、法の名の下に行なうことを要求された極悪な行為に対して抵抗することができなかったということから、いとも簡単に「実証主義」(ここでは、在る法と在るべき法との分離の主張を意味している)はこの惨事の発生に積極的に加担したと結論している。

彼は熟慮反省して、人道主義的道徳は法 Recht とか合法性という概念自体の一部であり、どのような実定的立法も制定法も、いかに明確な表現を持っていても、また、いかに既存の法体系の持つ妥当性の形式的基準に合致していても、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば妥当性を持たないという原理に到達した。

この原理は、Recht というドイツ語の帯びているニュアンスが把握できなければ完全に理解することはできない。

しかし、この原理が、すべての法律家と裁判官は、基本的な原則の範囲から逸脱した制定法を、不道徳で間違ったものとしてだけでなく法的性格を持たないものとして糾弾すべきであり、また、基本的な原則の範囲から逸脱していることで法である性質を欠く立法は、個別具体的な状況下にあるどのような個人についてであれ、その法的立場を決定する際に考慮されるべきものではない、という意味であるのは明らかである。

ラートブルフが彼のそれまで支持していた原理を衝撃的に変更した様子は、残念なことに、彼の著作の翻訳では省かれているが、法と道徳の相互連関の問題を新しく考え直そうとする者すべての読むべきものである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.80-82,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:人道主義的道徳,法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年10月26日金曜日

法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.c.1)~(1.c.2)追記。

 (1.c)難解な事案において、法的権利義務は判決以前にも所与として既に存在しているはずであり、裁判官は拘束力ある法的規準を適用して、その権利義務を明らかにする。
  (1.c.1)まず、次の事実が存在する。上級裁判所は、既存の法準則を否定することもある。法準則は、時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて根本的に修正されていく。いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。
  (1.c.2)諸原理が「法」であるならば、法準則と諸原理の総体的な体系の中で、当該の法準則の変更が、他の原理に比較して一層重要なある原理を促進すると判断されたと考えることができる。これは、無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定し得ることとは異なる。

 「アメリカの多くの法域において、また現在ではイギリスにおいても、上級裁判所が既存の法準則を否定することは決して稀なことではない。コモン・ローの法準則――これらは過去の裁判所の判決を通じて発展したものであるが――は、しばしば端的に否定され、あるいは更なる発展を通じて根本的に修正されていくことがある。また制定法上の法準則も解釈、再解釈をうけ、場合によっては解釈が結果的にはいわゆる「立法者意思」を無視する場合でも、これは認められている。もし裁判所が既存の法準則を修正する裁量を有するのであれば、当然これらの法準則は裁判所を拘束していないことになり、実証主義モデルでいう法とは言えなくなるだろう。それ故実証主義者は、裁判官をそれ自体で拘束するある種の規準の存在、つまりいかなる場合に裁判官は既存の法準則を否定ないし修正しえて、いかなる場合にこれが不可能かを規定する規準の存在を論証しなければならない。
 それでは、いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。この問いへの返答において、原理が二つの仕方で登場してくる。第一に、裁判官は法準則の変更がある原理を促進すると判断することが必要――十分とは言えないまでも――であり、この場合、当の原理は法準則の変更を正当化することになる。リッグス事件における法準則の変更(遺言規定の新解釈)は、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、という原理によって正当化され、ヘニングセン事件においては、自動車製造業者の責任に関し従来まで認められていた法準則が、裁判所の意見の中から私が引用した上記の諸原理を正当根拠として、修正されたのである。
 しかし、どのような原理でも法準則の変更を正当化しうるわけではない。さもなければ、あらゆる法準則が常に変更されうるという不安定な状態におかれてしまうだろう。法準則を変更しうるほど重要な原理とそうでない原理があるはずであり、更に前者の原理でも、他の原理に比べて一層重要なある種の原理が存在するはずである。しかしこれは、基本的にはいずれも採用される資格があり考慮に値する無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定しうることではない。もしそうだとすれば、いかなる法準則も拘束力を有するとは言えなくなるからであり、裁判官が法外在的な規準を選択する仕方によっては、最も確固とした法準則に関してでさえ、修正や根本的再解釈が正当化されてしまうことが常に予想しうるからである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.35-36,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2018年10月25日木曜日

(a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【(a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.b.1)~(1.b.4)追記

 (1.a)原理は、法としての拘束力を有する。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、この原理は顧慮されるべきである。
 (1.b)したがって、ある原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。
  (1.b.1)例えば、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が、当該事案の裁判官により無視された場合、「慣行が無視された」と指摘することが妥当であろうか。
  (1.b.2)特定の原理の顧慮は単に「道徳的」な義務にすぎないとか、司法の「職業倫理上」の拘束であり、法としての拘束力は有しないなど言えるだろうか。
  (1.b.3)原理の権威や、原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。このことをもって、原理は法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。
  (1.b.4)拘束力のある法には、承認のルールのような「テスト」するルールがあり、原理にはこのようなテストが存在しないので、法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。

 「(1)まず実証主義者は、原理というものはそもそも拘束したり義務づけることはありえない、と主張するかもしれない。しかしこれは間違いだろう。特定の原理が「事実として」法適用の任務に当たる人々を拘束しているかという問題はもちろん常に提起しうる。しかし原理の論理的性格の中には、それが裁判官を拘束することを不可能にするようなものは含まれていない。ヘニングセン事件において、自動車製造業者は消費者に対し特別の義務を負うという原理や、裁判所は取り引き上弱い立場にある者を保護するという原理を裁判官が顧慮せずに、ただ契約自由の原理のみを援用し被告に有利な判決を下した場合を想定してみよう。これを批判する者は、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が当該事案の裁判官により無視された事実を指摘するだけでは満足しないだろう。ほとんどの批判者は、上記の原理を顧慮することは当該裁判官の義務であり、原告は裁判官に対しこれを要求する権利があると答えるだろう。ある「ルール」が裁判官を拘束すると言われる場合、その意味するところは、ルールが当該事案に適用可能であれば裁判官はこれに従う義務があり、従わなければこのことにより誤りを犯したことになる、ということに他ならない。
 ヘニングセン事件のごとき事案では、裁判所は特定の原理を顧慮すべく単に「道徳的」に義務づけられるにすぎないとか、「制度的に」義務づけられるにすぎないとか、あるいは司法の「職業倫理上」拘束されるとか、その他この種の主張を行なっても問題の解決にはならない。というのも、何故この種の義務(この義務を何と呼ぼうと)と、法準則が裁判官に課する義務とを相互に異質のものと考えねばならないのか、そして何故原理や政策が法の一部分ではなく、単に「裁判所が特徴的な仕方で用いている」法外在的な規準にすぎないと断言しうるのか、といった問題が以前として未解決のまま残るからである。
 (2)次に実証主義者は、ある種の原理は、裁判官がこれを顧慮すべきだという意味で拘束力をもつことを認めた上で、原理が特定の結論へと裁判官を決定づけることはありえない、と主張する。」(中略)「これは原理が法準則ではないことを別の表現で述べているにすぎない。結論が何であろうと、特定の結論を導出すべく適用者に命令するのは法準則だけである。法準則が指示するものと反対の結論が導出されれば、これは法準則が放棄されたか修正されたからである。しかし原理はこのようには作用しない。」(中略)「
 (3)更にある実証主義者は次のように論じるだろう。すなわち原理の権威や、ましてや原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、したがって原理を法とみなすことはできない、と。確かにしばしば我々は国会の決議や権威ある裁判所の意見の中に法準則を位置づけることにより、その妥当性を証明するが、これと同様の仕方で特定の原理の権威や重みを「証明」することは一般的にいって不可能である。むしろ、原理や原理の重みの根拠を提示しようとする場合、我々が援用するのは、立法過程や司法過程において以前から暗黙裡に前提されてきた慣行や他の原理の複合体、及び社会一般の慣行や了解などである。この種の事柄においては、ことの是非を確証するようなリトマス試験紙は存在しない――これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。しかし繰り返しになるが、このような実証主義者の主張が正しいからといって、裁判官が裁量をもたない他のタイプの裁定者と異なっていることにはならない。」(中略)
 「もちろん、法実証主義にはもう一つ別の理論――すなわち各々の法体系にはハート教授のいう承認のルールのごとき、拘束力のある法を窮極的に「テスト」するルールがあるという理論――が存在し、もし実証主義者のこの理論が正しいとすれば、原理は拘束力のある法ではないことになる。しかし原理が実証主義理論と両立しないからといって、原理を法とは異なる何か特別なものと考えるべき理由にはならない。これは問題とされていることを既に真と仮定しての議論に過ぎない。我々は実証主義的な法モデルが果たして適切か否かを評価しようとしているのであり、それ故にこそ原理の性格に関心を向けているのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.31-34,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月21日日曜日

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か否か

【諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 諸原理を「法」と考えるかどうかにより、重要な違いが生ずる。これは、「法」という言葉の定義の問題と考えることは誤りである。
(1)「法」には、法準則の他に、ある原理も含まれる。
 (1.a)原理は、法としての拘束力を有する。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、この原理は顧慮されるべきである。
 (1.b)したがって、ある原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。
 (1.c)難解な事例において、法的権利義務は判決以前にも所与として既に存在しているはずであり、裁判官は拘束力ある法的規準を適用して、その権利義務を明らかにする。
 (1.d)もし判決が上記のようなものなら、正しい判決、誤った判決という言葉は意味を持つ。
(2)「法」には、原理は含まれない。
 (2.a)原理は、法としての拘束力を有しない。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、「法」の領域の外に出て、諸原理を任意に自由に採用することができる。
 (2.b)したがって、裁判官がある原理を用いる場合には、ほとんどの裁判官が原則的に「慣行としている」ようなことの要約として、原理を理解している。
 (2.c)難解な事例において、法的権利義務は既存の法によっては決着がつくことはなく、裁判官は、事後的に適用される司法的裁量行為により、新たな権利義務を確定しなければならない。
 (2.d)もし判決が上記のようなものなら、正しい判決、誤った判決という言葉は無意味である。

 「法的義務という概念を分析するには、特定の法的決定に至る際に原理が演ずる重要な役割を顧慮しなければならない。この場合我々は二つの非常に異なった態度をとることができる。
 (a)我々は法的原理を法準則と同じ仕方で扱いある原理は法として拘束力を有し法的義務について判断を下す裁判官や弁護士により顧慮されるべきものとみなす。もし我々がこの態度をとれば、少なくとも合衆国に関しては「法」には法準則と同様に原理も含まれると考えるべきである。
 (b)他方我々は、原理がある種の法準則と同じような仕方で拘束力をもちいることを否定することもできる。したがって、リッグスやヘニングセンのような事案では、裁判官はむしろ彼らが適用すべく義務づけられた法準則の外に出て(つまり「法」の領域の外に出て)、法の外にある諸原理を任意に自由に採用する、と考えることができよう。
 これら二つの相反する主張の間にはそうたいした相違はなく、これは「法」という用語をいかなる意味で使うかに関する言葉の問題にすぎない、と考える人もいるであろう。しかしこれは誤りである。というのも、これら二つの説明のうちどちらを選ぶかは、法的義務の分析にとりきわめて重大な帰結を含むからである。これは法的原理に関する二つの「概念」のうちどちらを選択するかの問題であり、この選択の意味を明確にするには、我々が法準則に関する二つの概念について行なう選択と上記の選択を対比するとよい。」(中略)
 「原理をめぐる前述の相反する二つの見解は、法準則に関するこれら二つの説明とパラレルな関係にある。第一の立場は裁判官を義務づけるものとして原理を捉えており、したがって原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。これに対し第二の立場は、彼らを拘束する諸規準以外のものに依拠せざるをえないときに、ほとんどの裁判官が原則的に「慣行としている」ようなことの要約として、原理を理解するのである。リッグスやヘニングセンのごとき難解な事案においても、法的権利義務は判決以前に所与として既に存在しており、裁判官はこの権利義務に効力を認めようとしているのか否かが問題となるとき、この問題への回答は、原理に関する上記二つのアプローチのうちどちらを選択するかに影響をうけ、あるいはむしろ、これが決定的なものとなると言ってもよかろう。もし第一の立場をとれば、裁判官は拘束力ある法的規準を適用しており、それ故既存の法的権利義務に効果を認めているのである、といった議論は依然として可能であるが、第二の立場をとれば、当該問題はいわば既存の法により決着がつくことはなく、リッグス事件の殺人犯である甥やヘニングセン事件の製造業者は、「事後的に」適用される司法的裁量行為により彼らの財産を剥奪されたことを我々は認めねばならない。こう述べても多くの読者は別に驚かないかもしれない――司法的裁量という観念は当たり前のこととして法社会の隅々まで浸透しているからである――。しかし、今述べたことは、最も厄介な難題の一つの例証となるものであり、法的義務につき何かと哲学者に懸念を抱かせることになるのもこの難題なのである。上記の事例において、財産の剥奪が既存の義務へと訴えることにより正当化されないとすれば、他の正当化が発見されねばならない。しかし今のところ、満足のいく解答は提示されていない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,4 原理と法概念,木鐸社(2003),pp.23-26,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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