ラベル 1907-1992_ハーバート・ハート の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 1907-1992_ハーバート・ハート の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年12月24日金曜日

ハーバート・ハート (1907-1992)の命題集


ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集

ハーバート・ハート
(1907-1992)








第1部 在る法と在るべき法
第2部 目的と手段による説明の予備考察
第3部 様々な法の概念&自然法とは何か
第4部 社会的ルールとは何か
第5部 在るべき法の源泉としての道徳
第6部 法の発展、第1次的ルールから国際法まで
第7部 半影の問題



第1部 在る法と在るべき法
《目次》
(1)在る法
(2)在るべき法
(3)在る法と在るべき法の区別
(3.1)在る法を遵守し、在るべき法の観点から批判する
(3.2)法秩序の権威の特徴
(3.2.1)在る法の遵守
(3.2.2)在る法の自由な批判
(3.3)道徳的悪法の問題
(3.3.1)道徳的二律背反
(3.3.2)事例
(3.4)悪法と抵抗の問題
(3.4.1)悪法
(3.4.2)抵抗と不服従の道徳的義務
(3.4.3)在る法の成立要件としての道徳性
(4)在るべき法の根拠
(4.1)人間が感知、選択したもの
(4.1.1)感情や態度などの主観的選好
(4.1.2)直感により感知される諸原則
(4.1.3)意志の命令、感情や態度などが与える目的
(4.1.4)議論と検討と反省が可能かどうか
(4.2)何らかの普遍的な根拠がある
(4.2.1)実証可能な功利に関する命題
(4.2.2)啓示によって与えられる命題
(4.2.3)公平の原理

(4.3)事実として存在している特定の社会的ルール
(4.3.1)社会的ルールの存在が感情を生じさせる
(4.3.2)少数の違反者の存在
(4.4)在る法と在るべき法の区別
(4.4.1)在る法
(4.4.2)道徳的な原則


第2部 目的と手段による説明の予備考察

(1)考察するための事例
(2)目的と手段による説明
(2.1)目的
(2.1.1)生存するという目的
(2.1.2)生存以外の諸目的
(2.2)目的を実現する手段
(2.2.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
(2.2.2)良い、悪い
(2.2.3)必要と機能


第3部 様々な法の概念&自然法とは何か

(1)定義による法の概念
(2)実証主義
(3)目的と手段による説明
(3.1)自然法の基礎づけ
(3.2)自然権批判(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(4)原因と結果による説明
(5)人間に関する自然的事実
(5.1)人間の傷つきやすさ
(5.2)人間の諸能力のおおよその平等性
(5.3)限られた利他主義
(5.4)限られた資源
(5.5)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.1)事実とルールの明白性
(5.5.2)多数者による自発的な服従
(5.5.3)ルールを守る諸動機
(5.5.4)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.5)制裁の必要性


第4部 社会的ルールとは何か
《目次》
(1)習慣
(2)社会的ルール
(2.1)ルールの存在は事実の問題
(2.2)外的視点
(2.3)内的視点
(2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
(2.5)感情
(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
(3.1)「せざるを得ない」
(3.2)「責務を負っている」
(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
(4)「すべきである」と「責務を負っている」の違い
(4.1)概要
(4.2)外的視点
(4.3)内的視点
(4.4)心理的経験


第5部 在るべき法の源泉としての道徳

(1)一般の行動規則
(1.1)ルールの諸属性
(2)道徳的な原則
(2.1)在るべき法の源泉としての道徳
(2.2)道徳的な原則の4つの特徴
(2.3)重要性
(2.3.1)基準が遵守されない場合の影響力が大きい
(2.3.2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求される
(2.3.3)遵守のための社会的圧力が大きい
(2.3.4)事例
(2.4)意図的な変更を受けないこと
(2.5)道徳的犯罪の自発的な性格
(2.5.1)身体的・精神的能力
(2.5.2)行為基準の自明性
(2.5.3)自己コントロール可能性
(2.5.4)故意または過失による基準からの逸脱
(2.5.5)考察するための事例
(2.6)道徳的圧力の形態
(2.6.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
(2.6.2)違反者自身による罰(良心の感情)
(2.6.3)敵対的な社会的反作用
(2.6.4)刑罰による不愉快な結果による威嚇
(2.6.5)個人的利益
(3)正義の原則
(4)法:実際に在る法
(5)道徳的な原則と在る法との相互作用 


第6部 法の発展、第1次的ルールから国際法まで


(1)世界についての最も自明な真理
(2)人間の性質に関する最も自明な真理
(2.1)犯しやすい誤り
(3)社会的統制の手段
(3.1) 責務の第1次的ルール
(3.2)2種類の人びと
(3.3)社会の存続条件
(4)第1次的ルールと第2次的ルール
(4.1)第1次的ルール(基本的ルール)
(4.2)第2次的ルール
(5) 第1次的ルールのみの欠陥
(5.1)ルールの不確定性
(5.2)補われる第2次的ルール:承認のルール
(5.3)ルールの静的な性質
(5.4)補われる第2次的ルール:変更のルール
(5.5)ルールの非効率性
(5.6)補われる第2次的ルール:裁判のルール

(6)主権的立法権
(6.1)主権的立法権は絶対なのか
(6.2)問題: 究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか

(7)国際法 
(7.1)国際法の意思主義、自己制限論
(7.2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
(7.3)第1次的ルールとしての国際法


第7部 半影の問題

《目次》

(0)半影の問題 
(1)何らかの「べき」観点の必要性
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
(1.2)批判の基準の存在
(1.3)基準は、どのようなものか
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
(3)難解な事例の解決は、在る法の自然な精密化、明確化である
(3.1)難解な事例の解決は、既に存在している法の発見である
(3.2)難解な事例の解決は、新たな法の創造ではない
(3.3)最高裁判所の決定の最終性は無謬性とは異なる
(3.4)日常言語における事例
(4)難解な事例における決定の本質
(4.1)法の不完全性
(4.2)法の中核の存在
(4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
(4.3.1)人間の不完全性と選択の必要性
(4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
(4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
(4.4)選択肢の非一意性
(4.4.1)選択肢の非一意性
(4.4.2)形式主義、概念主義の誤り
(4.5)決定は強制されず、一つの選択である

(5)先例から一般的原理を抽出すること
(5.1)記述的理論と指図的理論
(5.2)先例からルールを発見する方法




────────────────────

第1部 在る法と在るべき法

《目次》
(1)在る法
(2)在るべき法
(3)在る法と在るべき法の区別
(3.1)在る法を遵守し、在るべき法の観点から批判する
(3.2)法秩序の権威の特徴
(3.2.1)在る法の遵守
(3.2.2)在る法の自由な批判
(3.3)道徳的悪法の問題
(3.3.1)道徳的二律背反
(3.3.2)事例
(3.4)悪法と抵抗の問題
(3.4.1)悪法
(3.4.2)抵抗と不服従の道徳的義務
(3.4.3)在る法の成立要件としての道徳性
(4)在るべき法の根拠
(4.1)人間が感知、選択したもの
(4.1.1)感情や態度などの主観的選好
(4.1.2)直感により感知される諸原則
(4.1.3)意志の命令、感情や態度などが与える目的
(4.1.4)議論と検討と反省が可能かどうか
(4.2)何らかの普遍的な根拠がある
(4.2.1)実証可能な功利に関する命題
(4.2.2)啓示によって与えられる命題
(4.2.3)公平の原理

(4.3)事実として存在している特定の社会的ルール
(4.3.1)社会的ルールの存在が感情を生じさせる
(4.3.2)少数の違反者の存在
(4.4)在る法と在るべき法の区別
(4.4.1)在る法
(4.4.2)道徳的な原則

(1)在る法
 法が存在しているか存在していないかが問題である。好きか嫌いか、是認するか否認するか にかかわらず、現実に存在していれば、それは法である。
(2)在るべき法
例えば、
(a)道徳の根本的な原則が要求する命令
(b)あるいは、その命令の「指標」である「功利」
(c)あるいは、社会集団によって現実に受け入れられている道徳
(3)在る法と在るべき法の区別
 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤り である。
参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要 である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批 判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))





参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りで ある。(ジョン・オースティン(1790-1859))













(3.1)在る法を遵守し、在るべき法の観点から批判する
 法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する こと」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしま う。
(3.2)法秩序の権威の特徴
 在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要であ る。
(3.2.1)在る法の遵守
 各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険があ る。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明する だけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
(3.2.2)在る法の自由な批判
 存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなく なる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法 に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。

(3.3)道徳的悪法の問題
 在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な批判的分析に必要で ある。
参照: 困難な、道徳の二律背反的な状況を、あるがままに認識し対処すること。明快に語る手段がた くさんあるとき、「道徳的批判」で表現しないこと。それは、分析を混濁させ議論を混乱させ てしまう。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(3.3.1)道徳的二律背反
 道徳の歴史から学ぶものがあるとすれば、それは、道徳的二律背反を処理するには、そ れを隠さないということである。困難と戦うときと同様に、二つの悪のうちましな方を選ばざ るを得ない状況に至った際には、状況をあるがままに自覚して対処しなければならない。
(a)困難な状況、道徳的二律背反的な状況を、議論の余地のある「道徳的批判」で表現 してはならない。それは、膨大な哲学的問題を呼び起こしてしまう。明快に語る手段がたくさ んあるときには、明快に語ること。
(b)「すべての不調和は、知られざる調和なり」「すべての部分悪は、普遍的善なり」 は、誤りであろう。私たちが賞賛する諸価値が、互いに衝突し合ったり、犠牲にされたりせず 統合され得るというのは、ロマンティックな楽観であろう。
(3.3.2)事例
 例として、言語道断なほど不道徳的な行為をした人がいたとする。しかし、当時それは 適法とされた行為に基づいていたとしよう。
(a)当時その行為を適法とした制定法が、醜悪な法であり「法たり得ない」ゆえに、そ の人の不道徳的な行為の故に、その人を罰する。これは、正しいだろうか。
(b)いかに言語道断だとは言え、当時違法ではなかったので、その人を罰しない。これ は、正しいだろうか。
(c)罰しないことは、悪だと思われる。一方、罰することは、事後的な法を導入して罰 することになり、別の非常に重要な道徳原則を犠牲にすることになる。それでも、その人を罰 するとしたら、どのような理由によって、正当化できるのか。当時の制定法が、醜悪な法であ り「法たり得ない」としてしまうことは、問題の本質を覆い隠してしまう。

(3.4)悪法と抵抗の問題
 法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得な い時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、在る法と在るべき法の区別が 必要である。
(3.4.1)悪法
「無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止さ れているとしよう。もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。 そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷 は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して 私を絞首することで実証してみせるだろう。」(ジョン・オースティン(1790-1859))
(3.4.2)抵抗と不服従の道徳的義務
 もし法が、一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをや める道徳的義務が生じる。(ジョン・オースティン(1790-1859)、ジェレミ・ベンサム (1748-1832))
(3.4.3)在る法の成立要件としての道徳性
 人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法 も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタ フ・ラートブルフ(1878-1949))















(4)在るべき法の根拠
 在るべき法の根拠:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則 か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示による か、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(4.1)人間が感知、選択したもの
 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らか の根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明) は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられ た。
(4.1.1)感情や態度などの主観的選好
 ある哲学は、価値言明が感覚や感情や態度などの主観的選好の表現であると考えた。
(4.1.2)直感により感知される諸原則
 ある哲学は、価値言明というものは、ある個別具体的なケースが、行為の一般的な原則 や方針の下に包摂されることを示すものであると考えた。そして、この一般的な原則や方針 は、人間に対して何かしら一種の普遍的な命令として直感されるようなものとして理解され た。
(4.1.3)意志の命令、感情や態度などが与える目的
 ある哲学は、価値言明というものが、ある特定の目的を促進するものであると理解す る。そして、私たちは、その目的のために何が適切な手段であるかを合理的に議論したり発見 したりできる。しかし、目指される目的自体は、意志の命令あるいは感情や選好や態度の表現 であるとされる。
(4.1.4)議論と検討と反省が可能かどうか
 存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の区別が、議論と検討と反省 が無駄だという根拠として使われるとき、この区別は有害なものとなる。個別具体的なものに ついての争いに関し、当事者が議論し詳細に検討し反省してみることによって、当初は曖昧な まま感知されていた諸原則が、当事者双方が合理的に受け容れられるような明確なものとし て、理解できるようになる。
(4.2)何らかの普遍的な根拠がある
 人間の感覚や感情、態度の主観的選好は何に由来するのか。何かしら命令的なものとして 与えられる一般的な原則や方針は、何に由来するのか。目指されるものとして感知される目的 は、何に由来するのか。
(4.2.1)実証可能な功利に関する命題
 道徳原則は、功利に関する実証可能な命題である。(ジェレミ・ベンサム(1748- 1832))













(a) 法に服従する責務に関する純粋に功利主義的な理論
 (i)この理論は、法に服従する義務を、幸福を促進する責務の特殊事 例にすぎないものと見なす。
 (ii)この理論は、悪法に対する不服従は、も しも不服従の結果が服従の結果よりも功利主義的に見て一層ましであるならばそれは正当化され る、という当然の帰結を伴っている。不服従の害悪には、法体系の権威を弱めることを通じて他の人びとに加えられるどのような害 悪をも含む。

(4.2.2)啓示によって与えられる命題
 究極的な道徳原則は、啓示によって、またその指標としての功利を通して知ることがで きる。(ジョン・オースティン(1790-1859))
(4.2.3)公平の原理


(b) 社会の成員として負う義務
 法に服従する責務とは、 市民が同じ社会の一員としての相互的関係によって自分自身の社会の成員に対し特別に負って いると考えられる責務であって、たんに、危害、損害、苦痛を与えてはならないという人びと一般に対する責務の一例として理解されるものではない、
(c)公平の原理
 多数の人び とが、他の方法では得られない諸利益を獲得するために一定のルールによって自分たちの自由 に制約を加える時、他の人びとによるそのルールへの服従から利益を得た人びとは、今度は自分 たちがそのルールに服従する責務を負う。



(4.3)事実として存在している特定の社会的ルール
 規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在する か否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断 される。
(4.3.1)社会的ルールの存在が感情を生じさせる
 注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではな く、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるという ことである。
(4.3.2)少数の違反者の存在
 また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在する ことは何ら矛盾したことではない。
参照:特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求 を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社 会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907- 1992))
参照:「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルー ルからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視 点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907- 1992))

(4.4)在る法と在るべき法の区別
 それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
 仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また、在るべき法が客観 的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、ま た区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4.4.1)在る法
 ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを 示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、 なお法であり続ける。
(4.4.2)道徳的な原則
 法であるべき全ての道徳的資格を備えていなが ら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批 判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート (1907-1992))





────────────────────

第2部 目的と手段による説明の予備考察

(1)考察するための事例
(2)目的と手段による説明
(2.1)目的
(2.1.1)生存するという目的
(2.1.2)生存以外の諸目的
(2.2)目的を実現する手段
(2.2.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
(2.2.2)良い、悪い
(2.2.3)必要と機能


(1)考察するための事例
(a)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
(b)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
(c)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
(d)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
(e)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
(i)目的と機能
 時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。

(ii)目的は人間が導入した
(f)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
(g)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
 人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言 葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の 諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(i)目的と機能
 成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良 い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための 「機能」として説明することもできる。
(ii)目的は人間が導入した。
(iii)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
 人間が、説明したらのために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している 諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味に おいて、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
(h)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
(i)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。

(i)目的と機能
 人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身 体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
(ii)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
 人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則 に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間 であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。
(2)目的と手段による説明
(2.1)目的
 法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。こ の目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸 目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(2.1.1)生存するという目的
(a)事実
 たいていの人間は、通常生き続けることを望むという事実がある。しかし、これは単 なる偶然的な事実であると反論することができる。
(b)仮定としての目的
 人間の法や道徳、すなわち人間が共同していかに生きるべきかを解明するためには、 生存することを目的として仮定して理論を構築する。なぜなら、「ここでの問題は生き続ける ための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである」。
(2.1.2)生存以外の諸目的
 生存すること以外の目的、人間にとっての善、人間にとっての特定の良き生き方といっ たものには、様々な意見があり、意見の深い不一致も存在する。
(a)人間が作った、単なる慣習である規則や目的。
 個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなもの がたくさん見られる。
(b)人によって異なる特定の目的。

(2.2)目的を実現する手段
(2.2.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
 生存という目的を阻害するか、促進するか。生存することが、他の諸目的とは異なる特 別な地位にあることは、生存することが、世界や人間相互のことを記述するのに用いる、思考 や言語の構造全体に反映されていることから実証できる。
(2.2.2)良い、悪い
 生存以外の目的に対しても、目的に役立つかどうかで良い、悪いと語ることができる。
(2.2.3)必要と機能
 生存という目的のために「必要」なもの。例えば、食物や休息。目的を実現するための 「機能」による説明が可能である。例えば、血液を循環させるのが心臓の機能である。これ は、単なる因果的説明とは異なる。




────────────────────


第3部 様々な法の概念&自然法とは何か

(1)定義による法の概念
(2)実証主義
(3)目的と手段による説明
(3.1)自然法の基礎づけ
(3.2)自然権批判(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(4)原因と結果による説明
(5)人間に関する自然的事実
(5.1)人間の傷つきやすさ
(5.2)人間の諸能力のおおよその平等性
(5.3)限られた利他主義
(5.4)限られた資源
(5.5)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.1)事実とルールの明白性
(5.5.2)多数者による自発的な服従
(5.5.3)ルールを守る諸動機
(5.5.4)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.5)制裁の必要性

(1)定義による法の概念
(a)例えば、法体系は制裁の規定を備えていなければならないとするもの。
(2)実証主義
 法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に 関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳 の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)法は、事実として存在するルールであり、いかなる内容でも持つことができる。
(b)たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは、単に一つの事実にすぎない。

(3)目的と手段による説明
(3.1)自然法の基礎づけ
 人間に関する単純で自明な諸事実から導出可能な法の諸特性(自然法の基礎づけ)
 人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。こ れは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因 果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)生存する目的を前提として仮定する。
(b)自然的事実:人間に関する、ある単純で自明な諸事実が幾つか存在する。
(c)法と道徳は、自然的事実に対応する、ある特定の内容を含まなければならない。
 その特定の内容を含まなければ、生存という目的を達成することができないため、その ルールに自発的に服従する人々が存在することになり、彼らは、自発的に服従しようとしない 他の人にも、強制して服従させようとする。
(3.2)自然権批判(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

 

(4)原因と結果による因果的説明
(a)心理学や社会学における説明のように、人間の成長過程において、身体的、心理的、経 済的な条件のもとにおいて、どのようなルール体系が獲得されていくかを、原因と結果の関係 として解明する。
(b)因果的な説明は、人々がなぜ、そのような諸目的やルール体系を持つのかも、解明しよ うとする。
(c)他の科学と同様、観察や実験と、一般化と理論という方式を用いて確立するものであ る。

(5)人間に関する自然的事実
(5.1)人間の傷つきやすさ
 人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいとい う事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要 請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきや すいという事実が存在する。
(b)法と道徳は、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するルールを含まなけ ればならない。

(5.2)人間の諸能力のおおよその平等性
 人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実 が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請され る。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人間の諸能力の差異
 人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互 いに異なる。
(b)人間の諸能力のおおよその平等性
 それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほ ど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的 にその優位性を失う。
(c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
 人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分 やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多く のものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであ ろう。
(d)相互の自制と妥協の体系
 法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明 らかになる。
(e)違反者の存在
 そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約 を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
(f)国際法の特異な性質
 強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間 のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強 制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。
(f.1)国家間に巨大な不均衡が存在する場合、制裁はうまく機能しない。
(f.2)このような場合、秩序の維持は、実質的に相互自制に基づいている。
(f.3)その結果、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られて いた。
(f.3)弱い国は強国に精一杯の条件を付けて服従し、その保護の下で安全を保障すると いうのが、唯一可能な体系であろう。
(f.4)その結果、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる、多くのあい争う 力の中心が出てくることになろう。

(5.3)限られた利他主義
 人間の利他主義が限定的で断続的なものだという事実が、相互自制の体系を要請する。また同 時に人間には、仲間の生存や幸福に関心を持つ傾向性があるという事実が、相互自制の体系を 可能なものとする。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人間は、天使ではない。
 人間の利他主義は、目下のところ限られたものであって、断続的なものであるから、攻 撃したいという傾向は、もし統制されなかった場合、ときには社会生活に致命的な打撃を与え るほどのものとなることもある。
(b)人間は、悪魔ではない。
 人間は非常に利己的で、仲間の生存や幸福に関心を持つのは、何か下心があるからだと いうのは、誤った見解である。
(c)相互自制の体系の必要性と可能性
 以上の事実から、相互自制の体系は、必要であるとともに、可能でもあることが示され る。相互自制の体系は、天使には不要で、悪魔には不可能である。

(5.4)限られた資源
 生存のための資源が限られているという事実が、何らかの財産制度を要請し、分業の必要性 が、譲渡、交換、売買のルールを要請し、協力に不可欠な他人の行動の予測可能性を得るため に、約束を守るルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)限られた資源
 人間が食物や衣服や住居を必要とするのに、それらが手近に無尽蔵にあるのではなく乏 しいので、人間労働によって栽培したり自然から獲得したり、あるいは建設しなければならな い。
(b)財産制度
 以上の事実から、何か最小限の形態の財産制度、およびそれを尊重するように求める特 別な種類のルールが不可欠となる。
(c)分業の必要性
 人間は、十分な供給を得るために、分業を発展させなくてはならなくなる。
(d)譲渡、交換、売買のルール
 以上の事実から、自分の生産物を譲渡、交換、売買することを可能にするルールが必要 となる。
(e)他人の行動の予測可能性の必要性
 分業が不可避であり、また協力がたえず必要となる。そのためには、他人の将来の行動 に対して最小限の形態の信頼を持つため、また協力に必要な予測可能性を確保する必要があ る。
(f)約束を守るというルール
 以上の事実から、約束することが責務の源であるというルールが作られる。この工夫に より、個人は、一定の定められた方法で行動しなかった場合に、口頭あるいは書面の約束に よって、自らを非難あるいは罰の下におくことが可能となるのである。

(5.5)限られた理解力と意思の強さ
 事実とルールの明白性により、多数者は自発的にルールに服従する。しかし、ルールを守る諸 動機の多様性と、人間の理解力と意思の強さの限界から、少数の違反者が存在しうる。この事 実が、制裁の制度を要請する。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(5.5.1)事実とルールの明白性
 以下の事実は単純であり、ルールを守ることによる利益も明白である。
(a)人間の傷つきやすさと、殺人や暴力の行使の制限
(b)人間の諸能力のおおよその平等性と、相互の自制の必要性
(c)限られた利他主義と、相互の自制の必要性と可能性
(d)限られた資源と、財産制度、譲渡、交換、売買、約束のルールの必要性

(5.5.2)多数者による自発的な服従
 大抵の人は、理解することができ、ルールに従うため、自分自身の目前の利益を犠牲に することもできる。

(5.5.3)ルールを守る諸動機
(a)他人の幸福を私心なく考慮して従う者。
(b)ルールをそれ自体尊重する価値があるとみなし、それに従うことにみずからの理想 を見い出す者。
(c)得るところが大きいという慎重な計算から従う者。

(5.5.4)限られた理解力と意思の強さ
 しかし、ルールに従う諸動機の様々であり、全ての人が、善良であり、ルールを守る強 い意思を持ち、守ることによる長期的な利益を理解しているとは限らない。
(a)ときには、自分自身の当面の利益を選びたい気になるだろう。
(b)調査し罰するような特別の組織がない場合には、多くの者は負けてしまうだろう。

(5.5.5)制裁の必要性
 体系の責務には従わないで、体系の利益を得ようとする者がいる場合、自発的に服従し ようとする者が、服従しようとしない者の犠牲にならない保障として、制裁が必要となる。な ぜなら、服従することが不利になる危険をおかすことになってしまうからである。

────────────────────
第4部 社会的ルールとは何か
《目次》
(1)習慣
(2)社会的ルール
(2.1)ルールの存在は事実の問題
(2.2)外的視点
(2.3)内的視点
(2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
(2.5)感情
(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
(3.1)「せざるを得ない」
(3.2)「責務を負っている」
(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
(4)「すべきである」と「責務を負っている」の違い
(4.1)概要
(4.2)外的視点
(4.3)内的視点
(4.4)心理的経験




(1)習慣
 ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返され る。

(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。
 人が、あるルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更され えないものとしてこれを受けいれているとは、どのようなことか。
参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け 容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な 言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(2.1)ルールの存在は事実の問題
 ルールが存在するかどうかは、ある状況における行為の仕方、心理的な思考過程に関す る、ある事実が存在するかどうかの問題であり、証拠によって裏付けられるようなものであ る。

(2.2)外的視点
(a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況におい ては、特定の行動が繰り返される。
(b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
(c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。
 なぜ、その行為が正しいのかと理由が求められ たとき、そのルールが参照される。また、行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当 化される。
(c)批判的態度
 基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十 分な理由として受け容れられている。
(d)反省的態度
 批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
(e)一致への要求
 逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられてい る。
(f)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
(f.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
(f.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろ う。
(f.3)恥、自責の念、罪の意識という個人の感情の働きに、任されている場合もあるだ ろう。
(f.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もある だろう。
(g)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
 批判、是認、要求を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例え ば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っ ている」。

(2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
 社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能な ルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識的、直感的な、行為自体が示すルールもあり 得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)ルールについて、行為者が意識的に考慮すること、またルールの容認を表明すること とは、必ずしもルールの存在の要件ではない。
(b)状況に応じた無意識的、直感的な行為が、あるルールの存在を示している場合もあり 得るだろう。
(c)別のルールに動かされている人が、見せかけやごまかしで、あるルールの容認を表明 する場合もあり得るだろう。
(d)事実として存在し、また同時に明確な基準として意識されているルールに、一致しよ うとする真の努力によって、行為が導かれている場合もあり得るだろう。
(e)一般的でしかも仮定的な用語で記述され得るルールも存在するし、記述するのが難し いルールも存在し得るだろう。

(2.5)感情
(a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験す る。
(b)社会的ルールと感情との関係
 感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、 ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受 け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。


(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
 「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。そ れは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する 事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(3.1)「せざるを得ない」
(a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
(b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避 けるためそうしたということを意味する。
(c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合 や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないことも あろう。

(3.2)「責務を負っている」
(a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
(b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
(c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促す ことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。

(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
 社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語 る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持 つ。
(b)ルールが存在することを拒否する。
(c)この人々は、ルールに「服従」している。
(d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含ま れている必要がない。
(e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
(b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。

(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
 論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を 負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責 務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(a)人間の歴史の痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員のいくらかの 者に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要は ないということを十分に示している。
(b)公機関
 法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関 の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱 は義務からの違反として、批判される。
(c)一般の私人
 これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに 「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
 単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは 例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自 制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハー バート・ハート(1907-1992))
(a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社 会。
 (i)体系が公正であり、服従を要求される全ての人々の非常に重要な要求を満たして いるならば、このような社会が実現し、その社会は安定しているだろう。
 (ii)このような社会で、強制的な制裁が加えられるのは、ルールの保護を受けている のに、利己的にルールを破る例外的な人びとに対してだけであろう。
(b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠 殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
 (i)支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用 できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能 であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられ るかもしれない。
 (ii)このような社会で圧迫される人々にとっては、この体系には忠誠を命じるものは 何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。

(4)「すべきである」と「責務を負っている」の違い
 「すべきである」と「責務を負っている」は、共に社会的ルールの存在を前提とするが、ルー ルの重要さ、逸脱の重大さ、社会的圧力の強さの点で本質的に異なる。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(4.1)概要
 エチケットや正しい話し方のルールは、「すべきである」社会的ルールである。しかし、 「責務を負っている」社会的ルールには、さらに追加の特性が必要である。
社会的圧力の種類によって、「道徳的責務」や「法」の始原的形態を分類、区別したくなる かもしれない。しかし、同一の社会的ルールの背後には、異なるタイプの社会的圧力が並存す ることもあるだろう。より重要な分類は、「すべきである」と「責務を負っている」の区別な のである。

(4.2)外的視点
(a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況におい ては、特定の行動が繰り返される。
(b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
(c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。

(4.3)内的視点
(a)行動様式に関する共通の基準が存在する。
(a.1)「すべきである」に比べ、「責務を負っている」は、ルールに従うことが重要な ことであり、一般に強く求められている。
(b)批判的態度:基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十 分な理由として受け容れられている。
(b.1)「責務を負っている」社会的ルールは、社会生活そのものを維持し、その社会に おいて非常に重んじられているものを維持するのに、必要なルールであると思われている。例 えば、
(i)暴力の自由な行使を制限するルール
(ii)社会集団の中である一定の役割や役目を果たす人が、何をなすべきかを定めてい るルール
(iii)正直であること、誠実であること、約束を守ることを求めるルール
(b.2)「責務を負っている」社会的ルールは、人々の互いに衝突する利害に関わる。
(i)責務は、他人に利益を与える。
(ii)責務を負っている人は、自己が望んでいることを自制し、利益を犠牲にする側面 がある。
参照:「責務を負っている」ルールは、社会生活の維持や、 社会にとって非常に重要なものの維持に必要だと考えられており、また人々の互いに衝突する 利害に関わる点で、「すべきである」ルールは異なる。(ハーバート・ハート(1907- 1992))
(c)反省的態度:批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
(d)逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられてい る。
(e)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
「責務を負っている」ルールは、逸脱は重大なことであり、一般的に社会的圧力は大き い。
(e.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
(e.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろ う。
(e.3)個人の、恥、自責の念、罪の意識という感情の働きに、任されている場合もある だろう。
(e.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もある だろう。
(f)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
 批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例え ば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っ ている」。

(4.4)心理的経験
(a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験す る。
(b)社会的ルールと心理的経験の関係




────────────────────


第5部 在るべき法の源泉としての道徳

(1)一般の行動規則
(1.1)ルールの諸属性
(2)道徳的な原則
(2.1)在るべき法の源泉としての道徳
(2.2)道徳的な原則の4つの特徴
(2.3)重要性
(2.3.1)基準が遵守されない場合の影響力が大きい
(2.3.2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求される
(2.3.3)遵守のための社会的圧力が大きい
(2.3.4)事例
(2.4)意図的な変更を受けないこと
(2.5)道徳的犯罪の自発的な性格
(2.5.1)身体的・精神的能力
(2.5.2)行為基準の自明性
(2.5.3)自己コントロール可能性
(2.5.4)故意または過失による基準からの逸脱
(2.5.5)考察するための事例
(2.6)道徳的圧力の形態
(2.6.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
(2.6.2)違反者自身による罰(良心の感情)
(2.6.3)敵対的な社会的反作用
(2.6.4)刑罰による不愉快な結果による威嚇
(2.6.5)個人的利益
(3)正義の原則
(4)法:実際に在る法
(5)道徳的な原則と在る法との相互作用 


(1)一般の行動規則
 個人の行動に関する一定のルールや原則

(1.1)ルールの諸属性
 一般のルールが持つ諸属性:(a)重要性、(b)意図的な変 更を受けるか否か、(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件、(d)社会的圧力の形態、(e) ルールが適用される集団の範囲。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(a)重要性
(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
(a.2)社会的圧力の大きさの程度
 (i)例えば、違反に対して当然なすべき「正しい」ことを主張し、それを思い出させ る。
 (ii)例えば、違反に対して厳しい非難や侮辱、関連団体からの除名を伴う。
(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
 (i)集団の安全や存続、集団の健康のために必要なルール。
 (ii)ときには、誤った迷信や無知から生じた信念が反映されたルール。
 (iii)ルールは、社会ごとに異なるであろうし、一つの社会においても時代とともに変 わるであろう。

(b)意図的な変更を受けるか否か
 (i)例えば、合意や意図的な選択に由来するものではなく、意図的には変更できない。 
 (ii)例えば、合意によって拘束力が生じ、自主的な脱退を許す。
 (iii)法的ルールは、承認、裁判、変更のルールを含む。

(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件
(c.1)自明なルールか、理解を要するルールか
 (i)例えば、判断する能力があれば、誰でも「正しい」行為が分かると見なされるよう な、社会において広範に容認されている慣習的なルール。正常な大人なら誰でも行ない得る、 単純な差し控えか、活動である。
 (ii)例えば、理解していなければ遵守できないような、多くの人々に共有されているわ けではない、理想的なルール。特別な熟練や知性を必要とする。
(c.2)故意または不注意が犯罪とされるか、結果責任か
 (i)自己をコントロールして正しい行為をすることが可能だったにもかかわらず、違反 したことによって犯罪とされるようなルール。すなわち、善良な意思、正しい意図または動機 があれば、違反とはされないようなルール。
 (ii)自己をコントロール可能だったか否かにかかわらず、違反した行為の結果から犯罪 だとされるようなルール。

(d)社会的圧力の形態
 (i)例えば、ルールに対する尊敬、罪の意識、自責の念によって維持されるルール。
 (ii)例えば、刑罰の威嚇によって主として維持されるルール。
 (iii)例えば、違反は厳しい非難を招く。しかしルールを守ることは、例外的な誠実さ、 忍耐、特別な誘惑への抵抗により特徴づけられるとき以外、称賛されることはない。

(e)ルールが適用される集団の範囲
 (i)例えば、社会集団一般に適用されるルール。
 (ii)例えば、社会階層のような一定の特質によって区分される、特別な下位集団に適用さ れるルール。
 (iii)例えば、特定の目的のため結成された集団に適用されるルール。

(f)ルールが適用される行為の範囲
 (i)例えば、集団生活の中で絶え間なく起こる状況において、行われるべきこと、行われ るべきでないことを定める、一般的なルール。
 (ii)例えば、特殊な種類の行為におけるルール。

(2)道徳的な原則
 個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
(2.1)在るべき法の源泉としての道徳
 在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則 も、在る法を批判する根拠の一つである。
(2.2)道徳的な原則の4つの特徴
参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴が ある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道 徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(2.3)重要性
 道徳的な原則は、(1)基準が遵守されない場合の影響が大 きいため、(2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求され、また(3)遵守のための 社会的圧力が大きい。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(2.3.1)基準が遵守されない場合の影響力が大きい
大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。
(2.3.2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求される
大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。 
小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
(2.3.3)遵守のための社会的圧力が大きい
大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え 込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
小さい:大きな圧力は加えられない。
(2.3.4)事例
 発展した法体系をもつ全ての社会において、法的ルールでないにもかかわらず、法的 ルールと多くの類似点をもつ、最高の重要性を与えられているルールが存在する。それが、道徳的責務 である。
道徳的責務の例。
(i)暴力の自由な使用の禁止
(ii)有体物の破壊、あるいはそれを他人から奪うことを禁止するルール
(iii)他人とかかわる際に、一定の形態の誠実さと正直さを要求するルール
(iv)他人と特別な関係に入ることによって受ける特別な責務。例えば、約束を守ると か、利益を受けたらそのお返しをする責務。ある役割を持った地位にあることによって生じる 義務。

(2.4)意図的な変更を受けないこと
 一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴が ある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。 しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート (1907-1992))
(a)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
(a.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、 道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異 なるという性質のものではない。
(b)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生 成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによって それを失う。
 道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な 変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消 滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート (1907-1992))
(b.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相 容れない法と道徳が併存する場合もある。
(b.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更し たり、高めたりすることもある。
(b.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅 することもある。
(b.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統 を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
(c)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様で ある。
(d)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。

(2.5)道徳的犯罪の自発的な性格
 できる限りの注意と自己コントロールによって、正し い行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異 なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(2.5.1)身体的・精神的能力
 道徳的な原則、法的ルールに従うことが可能な肉体的、精神的能力を持っている。
基礎的な能力を欠く人は、道徳的にも法的にも免責される。
(2.5.2)行為基準の自明性
 何が正しい行動なのかを知っている。
(a)道徳:仮に、何が正しいかを知らなったとき、道徳的責務はあるのか、ないのか? 
(b)法:個人が現に持っている心理的状態を客観的に究明することには困難があり、法 的責任においては、自制の能力、注意能力を持つ人は、正しいことを判断できるとみなす。 
(2.5.3)自己コントロール可能性
 できる限りの注意をすれば、自己をコントロールして、正しい行動を取ることができ る。
(a)道徳:道徳的責任が生じるための一つの必要条件である。できる限りの注意をして も、その行動が避けられないときには、免責される。すなわち、道徳的な原則においては、 「せざるを得なかった」は一つの弁解になる。
(b)法:法的責任は「せざるを得なかった」場合でも、除かれるとは限らない。すなわ ち、故意でなく、注意も怠らなったとしても、「厳格な責任」を負う場合もある。ただし、身 体的に正しい行動を取り得ないという最低要件は別である。
(2.5.4)故意または過失による基準からの逸脱
 判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能で あるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする。この場合、道徳的にも法的にも責任は逃れられない。
(2.5.5)考察するための事例
(a)正当防衛上必要な措置としてなされた殺人
(b)正当防衛以外の理由で、正しいと誤認された殺人
(c)あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤ってなされた殺人
(d)不注意や過失による殺人
(e)故意の殺人
(2.6)道徳的圧力の形態
 ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑 罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反 者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(2.6.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
 判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能で あるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする場合、それは「悪」で あり行為者が責任を負わなければならない。例えば、「それでは嘘になるだろう」とか、「そ れでは約束を破ることになるだろう」など。
参照:できる限りの注意と自己コントロールによって、正し い行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異 なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(2.6.2)違反者自身による罰(良心の感情)
 仮に、違反に対する敵対的な社会的反作用、刑罰による威嚇、遵守することによる個人 的利益がなかった場合であっても、違反することによって恥辱の感情、罪の意識、自責の念が 生じる。
(2.6.3)敵対的な社会的反作用
 軽蔑、社会関係の断絶、社会からの追放などの例。
(2.6.4)刑罰による不愉快な結果による威嚇
(2.6.5)個人的利益

(3)正義の原則
 個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部 である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法

(5)道徳的な原則と在る法との相互作用 



────────────────────

第6部 法の発展、第1次的ルールから国際法まで


(1)世界についての最も自明な真理
(2)人間の性質に関する最も自明な真理
(2.1)犯しやすい誤り
(3)社会的統制の手段
(3.1) 責務の第1次的ルール
(3.2)2種類の人びと
(3.3)社会の存続条件
(4)第1次的ルールと第2次的ルール
(4.1)第1次的ルール(基本的ルール)
(4.2)第2次的ルール
(5) 第1次的ルールのみの欠陥
(5.1)ルールの不確定性
(5.2)補われる第2次的ルール:承認のルール
(5.3)ルールの静的な性質
(5.4)補われる第2次的ルール:変更のルール
(5.5)ルールの非効率性
(5.6)補われる第2次的ルール:裁判のルール

(6)主権的立法権
(6.1)主権的立法権は絶対なのか
(6.2)問題: 究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか

(7)国際法 
(7.1)国際法の意思主義、自己制限論
(7.2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
(7.3)第1次的ルールとしての国際法



 人間が互いに接近して共存する場合に犯しやすい誤り
(a)暴力の勝手な行使
(b)盗み
(c)欺罔
(3)社会的統制の手段
 集団がとる一般的態度だけが、唯一の社会的統制の手段となっているような社会の特徴
(3.1) 責務の第1次的ルール
 責務の第1次的ルールは、人間が犯しやすい誤りを抑制する何らかのルールを含む。
(a)暴力の勝手な行使の制限
(b)盗みの制限
(c)欺罔の制限
(3.2)2種類の人びと
 ルールを受け入れ内的視点から見られたルールによって生活する人々と、社会的圧力 の恐れによって従う以外はルールを拒否する人々との間に緊張が見出される。
(3.3)社会の存続条件
 非常に緩やかに組織されている社会が存続し得るには、次の条件が必要である。
(a)社会が、おおよそ同じような肉体的強さをもつ人々から構成されていること。
(b)ルールを受け入れる人々が多数であり、ルールを拒否する人々が恐れる程度の社 会的圧力を維持できること。
(c)次のような、密接に結びつけられた小さな集団の場合。
 (i)血縁によるきずな
 (ii)共通の心情、信念のきずな


(4)第1次的ルールと第2次的ルール

 社会的ルールには、義務を要求する第1次的ルールと、ある行為や発話によって第1次的ルール を創設したり変動させたりする第2次的ルールがある。(ハーバート・ハート(1907- 1992))


(4.1)第1次的ルール(基本的ルール)
(a)ルールは、義務を課する。人々はある行為を為したり、差し控えることを要求され る。
(b)ルールは、物理的動きや変化を含む行動に関係する。
(4.2)第2次的ルール
(a)人々がある事を行なったり述べることによって、第1次的タイプの新しいルールを導 入し、古いルールを廃棄、あるいは修正したり、様々なやり方でその範囲を決定したり、それ らの作用を統制することができるように定める。
(b)ルールは、公的または私的な権能を付与する。
(c)物理的動きや変化だけでなく、義務や責務の創設や変動のきっかけとなる作用を用意 する。
(d)行為遂行的言語
 言葉は、世界の記述のために用いられるだけでなく、社会的な慣行の存在を背景として、責務を創造したり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させることもできる。法律行為の一般的性質は、言語の遂行的用法として理解できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))



(5) 第1次的ルールのみの欠陥
 それ以外では、第1次的ルールのみからなる単純な社会統制の形態では、次の欠陥が現れ る。

 第1次的ルールは次の欠陥を持つ:(a)不確定性:何がルールかが不確定、(b)静的である:意識 的にルールを変更できない、また権利や義務の変更を扱えない、(c)非効率性:ルール違反の判 定や、違反の処罰が非効率的である。(ハーバート・ハート(1907-1992))。

(5.1)ルールの不確定性
(a)特定の集団の人々がそのルールを受け入れているという事実の他には、何がルー ルなのかを確認する標識がない。
(b)その結果、何がルールであり、あるルールの正確な範囲が不確定である。
(5.2)補われる第2次的ルール:承認のルール
 第1次的ルールがある特徴を持つが故に、集団のルールであると確定する第2次的ルールが承認 のルールである。例として、特別な団体による制定、長い間の慣習、司法的決定の蓄積、権威 ある文書への記載等。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 第1次的ルールが持つある特徴を明確にし、そのルールが特定の特徴を持てば、集団の ルールであることが決定的、肯定的に確定されるようなルールを、人々が受け入れている。
(a)文書や記念碑(法体系の観念の萌芽)
(a.1)存在しているルールが、権威的な目録や原典に記載されたり、公の記念碑に刻 まれる。
(a.2)そして、ルールの存在に関する疑いを処理するのに、その文書や記念碑が、権 威のあるものとして、人々に受け入れられるようになる。
(b)ルールの持つ諸特徴(法的妥当性の観念の萌芽)
(b.1)特別な団体によって制定されたルール(制定法)
(b.2)長い間の慣習として行なわれてきたルール(慣習)
(b.3)過去、司法的決定よって蓄積されてきたルール(先例)
(b.4)ルールの間に起こりうる衝突に対して、どれが優越性を持つかというルール


(5.3)ルールの静的な性質
(a)ルールのゆるやかな成長の過程が存在する。
(i)ある一連の行為が、最初は任意的と考えられている。
(ii)その行為が、習慣的またはありふれたものとなる。
(iii)その行為が、義務的なものとなる。

(b)ルールの衰退の過程が存在する。
(i)ある行為が、最初は厳しく処理されている。
(ii)その行為への逸脱が、緩やかに扱われるようになる。
(iii)その行為が、顧みられなくなる。

(c)しかし、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、 変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しない。

(d)また個人は、責務や義務を負うだけで、この責務は、いかなる個人の意識的な選 択によっても変えられないし、修正されえない。責務の免除や、権利の移転というような作用 も、第1次的ルールの範囲には入っていない。

(5.4)補われる第2次的ルール:変更のルール
 新しい第1次的ルールを導入、廃止、変更するルール を定める第2次的ルールが、変更のルールである。遺言、契約、財産権の移転など、個人によ る制限的立法権能も、この変更のルールに基づく。(ハーバート・ハート(1907-1992)) 
 新しい第1次的ルールを導入したり、古いルールを排除する権能を、ある個人または団 体に与えるというルールを、人々が受け入れている。このルールは、権能の範囲と手続を含 む。
(a)変更のルールが存在するときは、変更を成立させる諸条件と手続は、変更された ルールを確定させる条件になっているので、承認のルールにもなっている。
(a.1)例えば、制定法のみがルールを制定・変更できるとするルール
(a.2)例えば、統治する君主のみがルールを制定・変更できるとするルール
(b)個人による制限的立法権能の行使も、変更のルールである。すなわち、第1次的ルー ルに基づいて持っていた最初の地位を、変更する権能を個人に与えるルールである。
(b.1)「約束」という道徳的な制度の基礎となっているのが、この権能付与のルール である。
(b.2)例として、遺言、契約、財産権の移転など。

(5.5)ルールの非効率性
(a)ルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こり、絶え間なく続く。法の歴史 によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如は、最も重大な欠陥であり、他 の欠陥より早く矯正される。
(b)ルール違反に対する処罰が、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されてい る。
(c)違反者を捕え罰する、集団の非組織的な作用に費やされる時間が浪費される。 
(d)自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐の連鎖が続く。

(5.6)補われる第2次的ルール:裁判のルール
 個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の 個人に与えるという第2次的ルールが、裁判のルールである。他の公機関による刑罰の適用を 命じる排他的権能も含まれる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、 特定の個人に与えるというルールを、人々が受け入れている。また、違反の事実を確認した場 合、他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含む。
(a)裁判官、裁判所、管轄権、判決といった概念を定めている。
(b)裁判のルールが存在するときは、裁判所の決定は何がルールであるかについての権 威的な決定であるので、承認のルールにもなっている。
(c)社会的圧力の集中化、すなわち、私人による物理的処罰や暴力による自力救済の行 為を部分的に禁じるとともに、刑罰の適用を命じる排他的権能を定める。





(6)主権的立法権
 主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違え てはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバー ト・ハート(1907-1992))


(6.1)主権的立法権は絶対なのか

(1)法的妥当性の基準、法源が「最高」であるとは、
(a)ある承認のルール:最高の承認のルール、究極のルール
(b)別の承認のルール
(a)の基準に照らして確認されたルールが、他の諸基準(b)に照らして確認されたルールと 衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認される。逆に、(a)以外の諸基準に照ら して確認されたルールは、(a)の基準に照らして確認されたルールと衝突すれば、承認されな い。
(2)「最高」と「無制限」は混同されやすいが、別の概念である。
(2.1)憲法の条項のなかに、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、その最高性が 直ちに無制限な立法権を意味するものではない。
(2.2)憲法が、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、特定の条項を改正権の範囲 外におくことによって、明示的に、立法権限を制限している場合もある。
(2.3)従って、「すべての法体系は、法的に無制限な主権的立法権の存在を前提としてい る」という理論は、誤りである。


(6.2)問題: 究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか

(1)法的妥当性についての内的陳述
「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
(2)事実についての外的陳述
「あるルールが表現されている法体系は、裁判所や公機関や私人によって用いられている究 極の承認のルールによって、承認されている。」

究極の承認のルール
 ↓
特定の法体系の妥当性

(3)では、究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか
(3.1)承認のルールの妥当性は証明不能であり、ひとつの仮説なのか?

 ?
 ↓
究極の承認のルール......仮説
 ↓
特定の法体系の妥当性

(3.2)価値についての陳述なのか?
「あるルールが表現されている法体系の承認のルールは優れたものであって、それに基づく 体系は支持するに値する。」

究極の承認のルール.....価値についての陳述
 ↓
特定の法体系の妥当性

(3.3)解答:法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示してい る。
 法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルール の存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基 礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であ るとして単に容認されている。

(i)究極の承認のルールの適用......事実
(ii)裁判所を含む一般的な諸活動での
  │容認・使用......事実として確証可能
  ↓
 特定の法体系の妥当性

(3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題であ る。
 ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習 慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そ のものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハー ト(1907-1992))

(a)承認のルールは、裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認する際、 複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。
(b)ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答 えができないような状況も存在し得る。

(3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
(a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
(b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
(c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
(d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。


(7)国際法 
(7.1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。 
(7.2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。 なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課し た責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバー ト・ハート(1907-1992))
(2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
(2.2)論理的に首尾一貫していない。
(a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
(b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣 言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫す る。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
(c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条 約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじ めから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したもの ではなく、矛盾している。

(2.3)国際法の事実にあっていない。
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。 体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明の みが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907- 1992))
(a)体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的 な究明のみが明らかにし得る。
(b)実際は、これは事実ではなく、理論上、合意が黙示的に存在すると推定されたりす る。
(c)また、新しい国家が成立した場合や、以前には適応対象とならなかった領域におい て、国家がその領域に該当することになった場合を考えると、合意のみによって成立するとい うのは、事実に反することが分かる。

(7.3)第1次的ルールとしての国際法


────────────────────
第7部 半影の問題

《目次》

(0)半影の問題 
(1)何らかの「べき」観点の必要性
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
(1.2)批判の基準の存在
(1.3)基準は、どのようなものか
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
(3)難解な事例の解決は、在る法の自然な精密化、明確化である
(3.1)難解な事例の解決は、既に存在している法の発見である
(3.2)難解な事例の解決は、新たな法の創造ではない
(3.3)最高裁判所の決定の最終性は無謬性とは異なる
(3.4)日常言語における事例
(4)難解な事例における決定の本質
(4.1)法の不完全性
(4.2)法の中核の存在
(4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
(4.3.1)人間の不完全性と選択の必要性
(4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
(4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
(4.4)選択肢の非一意性
(4.4.1)選択肢の非一意性
(4.4.2)形式主義、概念主義の誤り
(4.5)決定は強制されず、一つの選択である

(5)先例から一般的原理を抽出すること
(5.1)記述的理論と指図的理論
(5.2)先例からルールを発見する方法



(1)何らかの「べき」観点の存在
┌──┘
│┌法──────┐
││                          │(4.1)法の不完全性
││法の中核          │(4.2)法の中核の存在
││想定された範例│(4.3)事実認識の不完全性/予知不可能性
││ 事実、目的 │(4.3)上記に起因する目的の不確定性
│└─────┬─┘
└─────┐│
    ↓↓
新たな事件、問題の解決、目的の明確化
┌────┐   ┌────┐             ┌────┐
│目的1 │   │目的2 │              │目的n │
│解決策1││解決策2│・・│解決策n│
└────┘   └────┘              └────┘
(4.4)選択肢の非一意性
(4.5)決定は強制されず、一つの選択である




(0)半影の問題 
 問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定す る責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにする のは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))

(0.1)法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれている。
(0.1.1)特定の種類の行為が、ルールによって規制されるべきだという意志を表明するには、 ルールの中で使用する言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例 を持っていなければならない。
(0.1.2)それにもかかわらず、言葉が明らかに適用できるとも適用できないとも言えないよう な議論の余地を持ったケースという半影の部分が存在する。
(0.2)半影の部分は、論理的演繹の問題ではなく、誰かが決定しなければならない。言葉が当面 のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に 対する責任とともに、誰かが負わなければならない。
(0.3)このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものより は良いものになるのであろうか。

 半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)それに もかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必 要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))


(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきも の」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
 在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
(1.2)批判の基準の存在
「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
 たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核 は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分 確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような 限界があることを示している。
(b)司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルール は、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、 存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(i)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
(ii)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言え ない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破る ことができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違 いである。
(iii)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀であ る。
(iv)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象 として、しかも悪として扱われる。

(c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしてい る。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定 しているのである。

(1.3)基準は、どのようなものか
(a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、 ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われ る。
(b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
(c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないよ うなものである。理由は、以下の通りである。
 半影的問題における司法的決定を導く法以外の 「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾し ないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハー バート・ハート(1907-1992))
(i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、その ルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて 行なわれる。
(ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
(d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選 択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
(e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
 (i)選択肢を考慮するさいの不偏性中立性
 (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
 (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとす る関心
(f)司法的決定を導く道徳的基準は、それに 法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏 性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。 (ハーバート・ハート(1907-1992))

(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りで ある。(ジョン・オースティン(1790-1859))
参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要 である。さもなければ、(a)法秩序の権威の正しい理解を欠いて、悪法を無視するアナーキス トか、(b)在る法の批判的分析を許さない反動家になるだろう。(ジェレミ・ベンサム (1748-1832))

(3)難解な事例の解決は、在る法の自然な精密化、明確化である
(3.1)難解な事例の解決は、既に存在している法の発見である
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在 する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすれば その中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。

(3.2)難解な事例の解決は、新たな法の創造ではない
 難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在 るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然 な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))




(a)持続的同一的な目的の明確化とルールの自然な精密化
 ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すな わち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。 それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化する ようなものである。
(b)在る法を超えた新たな法を創造することではない
 このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在 るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」と見なすことは、少なくと も「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。

(3.3)最高裁判所の決定の最終性は無謬性とは異なる
 最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る 法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化から逸脱していると思われる場合がある。す なわち、決定の最終性は無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(3.4)日常言語における事例
(a)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言う のかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
(b)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いた かったことだ。」というようなケースがある。
(c)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現 するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を 「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであ ろう。

(4)難解な事例における決定の本質
 半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の 中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、 一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以 下の諸事実を考慮することが重要である。
(4.1)法の不完全性
 法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
(4.2)法の中核の存在
 法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不 完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
(4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
 法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性 に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とと もに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(4.3.1)人間の不完全性と選択の必要性
 むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神では なくて人間だから、このような「選択の必要性」を負わされているのである。
(4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
 この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生 じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
(4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
(a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定 めている。
(b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となってい る論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定した ものにされていく。
(4.4)選択肢の非一意性
 選択肢の非一意性と選択の必要性の認識は、以下の目的にとって重要である。(a)想定され得 なかった事実の構造の解明、(b)用語の新たな解釈、より正確な概念の解明、(c)新たな問題 の解決と目的の明確化。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(4.4.1)選択肢の非一意性
 在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得る のだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っている のではないだろうか。
(4.4.2)形式主義、概念主義の誤り
 ルールの意味を凍結して、選択の必要性を認識しないことは、形式主義、概念主義、法 律家の「概念の天国」の誤りに導かれる。
(a)事実に関する不完全な認識と、予知不可能性から不可避的に生じてくる全く想定し ていなかった事件、問題に関して、未知の構造を解明しようとする努力がなされず、既存の枠 組みへのあてはめが行われる。
(b)一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体 系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる。その結果、様々な事 件で問題となっている論点の違いに照らして、その用語を解釈しようとするような努力が行わ れない。
(c)新たな事実の構造の中で解明されるべき概念が固定され、新たな問題の解決の中で 明確にされるべき目的が固定されることで、概念の一部が不正確になり、もたらされる社会的 結果の評価が不十分なものになる。

(4.5)決定は強制されず、一つの選択である
 存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するもので はないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないの ではないか。



(5)先例から一般的原理を抽出すること
(5.1)記述的理論と指図的理論

 科学における仮説的推理に類似している司法過程の 解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技 術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ ハート(1907-1992))

(1)裁判官が実際にその決定に到達する際の、通常の思考過程とか思考習慣についてなされる主張
 これは、心理学の経験的一般命題ないし法則である。すなわち、裁判官が実際にその決定に到達している仕方である。
(2)従われるべき思考過程についての提言
 司法判断の技法ないし技巧に関わっており、この分野の一般命題は司法的技術の諸原理である。裁判官が決定を正当化する際に考慮する諸基準に関わっている。決定が熟慮によって到達されようと、直感的なひらめきによって到達されようと、その決定の評価において、どのような論理が用いられているかどうかという問題である。
(3)司法的決定が評価されるべき基準
 これは、決定の評価ないし正当化に関係している。



(5.2)先例からルールを発見する方法
 先例が関わるある事実の言明と、あるルールとから、先例の決定が導出可能であるような一般 的ルールを発見できたとしても、同様に導出可能なルールは一意には決まらない。あるルール の選択には、別の諸基準が必要となる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)関連のある先例から、一般的ルールを発見して定式化する。
(b)その一般的ルールが、その先例によって正当化されるための必要条件は、その事件の事 実の言明と、抽出された一般的ルールとから、先例における決定が導き出されることである。

《説明図》
先例が関わる         ある一般的
ある事実の言明       ルール
│                ┌──────┘
↓                 ↓
先例の決定a

(2)一般的ルールは、一意には決まらない
(a)一般的に、ある先例の決定を導く一般的ルールは、他にも無数に存在している。その一 般的ルールが唯一のものとして選択されるためには、その選択を制約する別の諸基準が存在す るはずである。
(b)一般的ルールを正当化する諸基準とは何だろうか。
 (i)ある理論は、その事件にとって重要なものとして扱われるべき諸事実の選択基準が、 そのような諸基準だと考える。
 (ii)他の理論によれば、その先例を検討する後の裁判所が、論理上可能な諸ルールのなか から通常の道徳的、社会的諸要因を比較考量した後で選択するであろうルールである。

《説明図》
どの事実が         通常の道徳的、社会的
重要か                 諸要因を比較考量
 ↓                           ↓
先例が関わる     ある一般的
ある事実の  言明 ルールn n=1,2,3...
 │      ┌──────┘
 │      │
 ↓        ↓
先例の決定a


なぜ法に服従する責務があるのか。(a)功利主義による基礎づけ、(b)社会の成員として負う義務、(c)公平の原理。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法に服従する責務の説明

なぜ法に服従する責務があるのか。(a)功利主義による基礎づけ、(b)社会の成員として負う義務、(c)公平の原理。(ハーバート・ハート(1907-1992))


(a) 法に服従する責務に関する純粋に功利主義的な理論
 (i)この理論は、法に服従する義務を、幸福を促進する責務の特殊事 例にすぎないものと見なす。
 (ii)この理論は、悪法に対する不服従は、も しも不服従の結果が服従の結果よりも功利主義的に見て一層ましであるならばそれは正当化され る、という当然の帰結を伴っている。不服従の害悪には、法体系の権威を弱めることを通じて他の人びとに加えられるどのような害 悪をも含む。
(b) 社会の成員として負う義務
 法に服従する責務とは、 市民が同じ社会の一員としての相互的関係によって自分自身の社会の成員に対し特別に負って いると考えられる責務であって、たんに、危害、損害、苦痛を与えてはならないという人びと一般に対する責務の一例として理解されるものではない、
(c)公平の原理
 多数の人び とが、他の方法では得られない諸利益を獲得するために一定のルールによって自分たちの自由 に制約を加える時、他の人びとによるそのルールへの服従から利益を得た人びとは、今度は自分 たちがそのルールに服従する責務を負う。

法に服従する責務
 法に服従する責務に関する哲学的探求にとっては、この主題 の功利主義的な側面と他の道徳的側面との間の区別――正義のところで説明した区別に類似した もの――が必要とされる。ある人が法律の要求することを道徳上行なうべきことであることを立 証するためには、どのような明解な道徳理論においても、ただたんに法体系が、その法律の性 質如何を問わず、存在しているというだけでは不十分であることは明白なように思われる。し かしながら、法に服従する責務に関する純粋に功利主義的な理論に対してもまた、強力な反論 が存在している。その功利主義的な理論とは、この責務をたんに幸福を促進する責務の特殊事 例にすぎないものと見なす理論であり、したがって、この理論は、悪法に対する不服従は、も しも不服従の結果(法体系の権威を弱めることを通じて他の人びとに加えられるどのような害 悪をも含む)が服従の結果よりも功利主義的に見て一層ましであるならばそれは正当化され る、という当然の帰結を伴っている。この功利主義的な理論が説明することのできない道徳的 状況の特徴には、特に重要な二つのものがある。その最初のものは、法に服従する責務とは、 市民が同じ社会の一員としての相互的関係によって自分自身の社会の成員に対し特別に負って いると考えられる責務であって、たんに、危害、損害、苦痛を与えてはならないという人びと一般に対する責務の一例として理解されるものではない、というものである。二番目のもの は、法に服従しない人びとが自ら進んで処罰に服する場合(たとえば、良心的徴兵忌避者の場 合)のように、たとえそれらの人びとの不服従によって法体系の権威がほとんど、あるいは まったく傷つけられないことが明白であっても、人びとは法に服する責務の下にあるとしばし ば考えられている、というものである。
 社会契約の理論は、法に服従する責務のこれら二つの側面に焦点を合わせたものである。そ して、法への服従の責務は、他の人びとに対して公正であること――功利とは別のものであり、 功利と衝突する可能性のあるもの――の責務であると見なされうることを示す一定の考慮を、契 約論における神秘的なもの、あるいは他の是認し難いものから切り離すことは可能である。そ こに含まれている原理は、最も単純な形にして述べれば次のようになる。つまり、多数の人び とが、他の方法では得られない諸利益を獲得するために一定のルールによって自分たちの自由 に制約を加える時、他の人びとによるそのルールへの服従から利益を得た人びとは今度は自分 たちがそのルールに服従する責務を負う、ということである。この原理と功利の原理とが衝突 することはありうることである。なぜなら、たとえかなりの数の人びとが自分の番になっても 協力をせずルールに従わなくても、そのような制約によって獲得される諸利益はしばしば生じ てくるからである。功利主義者にとっては、もしも彼の協力がその体系の諸利益を獲得するた めに必要でないならば、彼がルールに従うべき理由は存在しえないであろう。実際に、その場 合、もしもある個人が協力したとすれば、彼は幸福の総量を最大化しそこなうという過ちを犯 したことになるだろう。というのは、もしも彼がその体系の制約に従うことなく体系の諸利益 を得るとすれば、幸福の総量は最大となるであろうからである。もしもすべての人びとがその 協力を拒否するとすればその体系は期待されている諸利益を生み出さないであろう、あるいは 崩壊してしまうであろうという憂慮は、そのようなすべての人びとによる協力拒否は起こらな いだろうということが知られている場合には――たいていの場合そうなのだが――、功利主義計算 においては重要性を持たないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問 題,pp.135-136,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb



ハーバート・ハート
(1907-1992)




言葉は、世界の記述のために用いられるだけでなく、社会的な慣行の存在を背景として、責務を創造したり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させることもできる。法律行為の一般的性質は、言語の遂行的用法として理解できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

行為遂行的言語

言葉は、世界の記述のために用いられるだけでなく、社会的な慣行の存在を背景として、責務を創造したり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させることもできる。法律行為の一般的性質は、言語の遂行的用法として理解できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))



「新しい分析法学の第二の特徴は、まったく異なった仕方で現代分析哲学に結び付いてい る。ウィトゲンシュタインは、どこかで言葉はまた行為でもあると述べていた。オースティン 教授の最も独創的な業績は、彼の死後出版された『言葉によって、いかに行為するか』の中に 見ることができる。その中で彼は、言葉が果たす多様な機能のうちには哲学者によって非常に 頻繁に見落とされているにもかかわらず、社会生活とりわけ法における一定の行為を理解しよ うとするときに最も重要なものとなる機能があると論じている。洗礼式を例にあげよう。式の 重要な時点において、ある文が語られる(「私はここにこの子をXと命名する」)。これらの 言葉を言った効果として、それまで存在していた社会状況が変化させられ、その子をXという 名で呼ぶことが「正しい」とされるようになる。ここでは、言葉は最も普通の用法である世界 の《記述のため》に用いられているのではなく、社会的な慣行を背景として《一定の変化を引 き起こすため》に用いられている。約束の言葉を述べるということについても同じことがあて はまる。「私の車で駅までお送りすることをお約束します」は事柄の《記述》ではなく、それ はその言葉を話した人に道徳的な責務を創造する効果を持つ発話である。それは話した人を拘 束する。言葉のこの用法が法においてたいへんな重要性をもつことは明らかである。それは、 「私はここに私の金時計を友人Xに遺贈します」と遺言者によって書かれた遺言書や、立法者 によって用いられた法の文言、たとえば「ここに、......法を制定する」を見れば明らかである。 法においては、正当な資格を備えた人によって、適切な状況の下で述べられた言葉は法的効果 を持っている。  イギリスの法律家はこのような仕方で用いられる言葉をときどき「効果発生」 語"operative" words と呼ぶが、法以外の分野にも広く見られるこの言語機能は、イギリ スの多くの哲学者には「遂行的言明」として知られている。法の内外における言語の遂行的用 法は多くの興味ある特殊な特徴を備えていて、その点で世界を記述する言明が真であるか偽で あるかに関心を抱くときにわれわれが使う言語の用法とは異なっている。法律行為 Rechtsgeschäfte の一般的性質は、言語の遂行的用法というこの考えをぬきにして は理解できないように思われる。何人かの法哲学者は、たんに言葉を使うだけで責務を創造し たり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させたりできるという事実にたいへん当惑 した。その中でも有名なのはヘーゲルストレームである。彼にとっては、それは魔術や法的 錬金術の一種に思えたのである。しかし、それが言語の特別な機能であることを認識するだけ でそれをちゃんと理解できることは明らかである。つまり、ある人がある言葉を話すときには 一定のルールが機能し始めるべし、ということを定めるルールまたは慣行が背景として与えら れると、それによって当該言葉の機能そして広義においてその言葉の意味が決定されるのであ る。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第5部 四人の法理論家たち,12 イェーリングの概念の天国と現代分析法理学,pp.313-314,みすず書房(1990),矢崎光圀(監 訳),松浦好治(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb


ハーバート・ハート
(1907-1992)




2021年12月23日木曜日

政治的論議や社会的諸制度の批判の場にお いて、非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的になるか、もしくは、総じて無意味ないし瑣末なものになる。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

自然権批判

政治的論議や社会的諸制度の批判の場にお いて、非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的になるか、もしくは、総じて無意味ないし瑣末なものになる。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))














(a)もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のであり、いかなる例外も、あるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは危険なほど無政府主義的になる。不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、確立された法を「無効」にし、法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するようなものと理解されることになる。
(b)逆に、一 般的な例外を承認するならばたとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針となる。




 「ベンサムの第二の批判は、政治的論議や確立された法および社会的諸制度の批判の場にお いて非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的であるにちがいないか、もしくは、総じて無意味ないし瑣 末なものであるだろう、というものである。もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のでありいかなる例外もあるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは前者であろ う。ある何らかの確立された法に対して強い反発感情を抱く人びとは、不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、このような感情を何かより以上のものとして、つまり 確立された法を「無効」にし法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するよう な、何か確立された法に優位するものの要求として表わすことができるであろう。そうする代 わりに、自然権が形式上絶対的なものとして表わされず(フランス「人権宣言」のように)一 般的な例外を承認するならば――たとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば――、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針なのである。かくして、新しいアメリカ諸 州のいくつかでは、憲法上、明文によって自然的自由が宣言されたにもかかわらず、それは奴 隷所有者の奴隷を所有する権利に影響を与えないとされたことで、自然権は瑣末なものとなっ たのである。このように、自然権は、政府の権力行使が常に自由や所有に対する何らかの制限 を伴っているがゆえに、整序だった政府と両立しえないか、それとも瑣末で空虚で役立たない かのどちらかである、とベンサムは結論づけたのである。」
 (ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利 主義と自然権,pp.214-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb


ハーバート・ハート
(1907-1992)




2020年5月26日火曜日

法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

実定法と自然法

【法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.4.2)追記。

 (4.4)在る法と在るべき法の区別
  それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
   仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (4.4.1)在る法
   ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
  (4.4.2)道徳的な原則
   法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。
 「ベンサムは、自然権の観念を二つの主要な仕方で攻撃したのである。第一に、彼は以下のように主張した。実定法により創造されない権利の観念は「冷たい熱」とか「輝く闇」のような用語矛盾である。つまり、権利とは、彼の主張によれば、すべて実定法の産物にすぎないし、また、人為法に先立ちそれから独立した権利が存在するという主張は、人びとが誤解して自然法を自然権の淵源だと語ってきたから、明らかに不条理だとして即座に摘発されるのを免れたにすぎない。しかし、これら(自然法と自然権)はともに、次のような事実に示されているように、実在しないものであった。すなわち、ある人が何らかの法的権利を有しているかどうか、その範囲はどのくらいか、ということに関して論争があるとすれば、これは確証可能な客観的事実に関する問題であって、関連する実定法の文言を引証することによって、あるいは、それがない場合には法廷に委ねることによって合理的に解決できる、という事実である。〔しかし〕このような合理的な解決や客観的な判決手続は、ある人が非実定法的な自然権たとえば言論や集会の自由への権利を持っているかどうかという問題を解決するのに、まったく役立たない。自然権の存否を立証するこれと同種の承認されたテストは存在しないし、それを知りうるための確定された法も存在しないのである。それゆえ、ベンサムは、「《法》の観念を問題にしなければ、《権利》という言葉で言われるものは反駁されるべきものとなる」と述べたのである。法に先行する権利も法に反する権利も存在しない。そのために、自然権の教義は話し手の感情、欲求、偏見を表出するかもしれないが、法が正当に行なったり要求したりすることに対する、合理的に識別し論議しうる客観的な制限として、それは功利主義のようには役立ちえないのである。人びとが彼ら自身の自然権について語るのは、思い通りにしたい理由を示さずにそうしたいときである、とベンサムは述べた。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利主義と自然権,pp.213-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))
(索引:実定法,自然法,自然権)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
ハーバート・ハートの関連書籍(amazon)
検索(ハーバート・ハート)

2020年5月6日水曜日

科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))

心理学的な事実と諸原理、評価基準

【科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 参考:正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 参考:司法過程は、科学における仮説的推理に類似しているとはいえ、その方法の客観的な記述(記述的理論)とは別に、その方法がいかにあるべきかを指図する理論(指図的理論)も存在しており、別の評価が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「発見の方法と評価の基準 司法的推論に関する記述的理論と指図的理論の両方を考察する場合に、次のものを区別することが重要である。つまり、
(1)裁判官が実際にその決定に到達する際の、通常の思考過程とか思考習慣についてなされる主張、
(2)従われるべき思考過程についての提言、
(3)司法的決定が評価されるべき基準、
である。これらのなかで、(1)は記述心理学の問題に関わっている。そしてこの分野の主張は、そられが検討されている事例の記述を超え出ている限りにおいて、心理学の経験的一般命題ないし法則なのである。(2)は司法判断の技法ないし技巧に関わっており、この分野の一般命題は司法的技術の諸原理である。(3)は決定の評価ないし正当化に関係している。
 これらの区別は重要である。なぜなら、裁判官はしばしば、法的ルールないし先例の関与するいかなる熟考ないし推理の過程も経ることなく決定に到達しているから、決定において法的ルールからの演繹が何らかの役割を果たしているとする主張は誤りである、と時折論じられてきたからである。この議論は混乱している。というのは、一般的にいって、そこで争われているのは、裁判官が実際にその決定に到達している仕方、あるいは到達すべき仕方に関わる問題ではないからである。それはむしろ、裁判官が決定――それがどのようにして到達されようとも――を正当化する際に考慮する諸基準に関わっているのである。決定が熟慮によって到達されようと、直感的なひらめきによって到達されようと、その決定の評価において論理が用いられているかどうかということこそが真の問題であろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,p.121,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:仮説的推理,司法過程,思考過程,心理学的事実,原理,基準,評価)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
ハーバート・ハートの関連書籍(amazon)
検索(ハーバート・ハート)

2020年4月26日日曜日

司法過程は、科学における仮説的推理に類似しているとはいえ、その方法の客観的な記述(記述的理論)とは別に、その方法がいかにあるべきかを指図する理論(指図的理論)も存在しており、別の評価が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

記述的理論と指図的理論

【司法過程は、科学における仮説的推理に類似しているとはいえ、その方法の客観的な記述(記述的理論)とは別に、その方法がいかにあるべきかを指図する理論(指図的理論)も存在しており、別の評価が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「これらの類似性にもかかわらず、数々の事例を確証することによって蓋然性を高めながらも、将来の経験によって依然として反証される可能性のある一般的な事実命題の探究と、事件の決定において用いられるルールの探究との間には決定的な差異が残されている。司法過程を対象とする経験科学はもちろん可能である。それは裁判所の決定に関する一般的な事実命題からなるだろうし、重要な予測の手段にもなるだろう。けれども、そのような経験科学の一般的命題を、裁判所によって定式化され使用される諸ルールから区別することが重要である。
 記述的理論と指図的理論 論理は事件の決定において副次的な役割しか果たしていないという主張は、司法過程に関する誤った記述を正すものとして考えられていることもあるが、それはまた、裁判所の用いる「過度に論理的」、「形式的」、「機械的」、「自動的」であると烙印を押されている方法に対する批判として意図されていることもある。裁判所が実際に用いている方法に関する記述は、それに代わる方法についての指図からは区別されるだろうし、またそれとは別に評価されなければならない。」(中略)「特に権力の分立が尊重されている区域においては、法学者と裁判官はともに、決定過程における法的ルールや先例の用法を説明する際に、それらの不確定性をしばしば隠蔽したり、軽視してきたことは事実である。他方、同じ著述家たちによってしばしば表明されているもう一つの不満、つまり司法過程には過度の論理偏重とか形式主義が存在しているという不満は、それほど理解しやすいものではないし、また立証しやすいものでもない。批評家たちがこれらの言葉で批判しようとしているのは、裁判所が法的ルールとか先例を適用する時に、社会的目的、政策、価値を実現するためにルールや先例の相対的な不確定性を利用しないでいるという点である。」(中略)「法的ルールの不確定性をこのように認識しないこと(これはしばしば誤って分析法学のせいにされ、概念主義として非難された)は、それが確実性や決定の予測可能性を最大化するという理由で時には擁護されてきた。それはまた、整合的でないルールや分類カテゴリーを最小限度に押さえるという法体系の理想を促進するものとして、時折歓迎されてきたのである。」(中略)「法的ルールの解釈や個々の事例の分類において、重要な社会的諸価値や区別が無視される時、そこで得られた決定が、これらの要素を正当に考慮した決定よりも一層論理的であるというわけではないからである。つまり、論理は、言葉の解釈とか分類の枠を決定しはしないのである。確かなことは、そのような厳格な解釈方法が一般に行なわれている法体系では、裁判官があらかじめ意味の確定されたルールをつきつけられていると考えることができる機会が一層多いであろうということである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,pp.118-121,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:記述的理論,指図的理論,仮説的推理)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
ハーバート・ハートの関連書籍(amazon)
検索(ハーバート・ハート)

2020年4月24日金曜日

正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法と仮説-演繹法推理

【正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(再掲)

(1)先例からルールを発見する帰納的方法
  先例が関わるある事実の言明と、あるルールとから、先例の決定が導出可能であるような一般的ルールを発見できたとしても、同様に導出可能なルールは一意には決まらない。あるルールの選択には、別の諸基準が必要となる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (a)関連のある先例から、一般的ルールを発見して定式化する。
 (b)その一般的ルールが、その先例によって正当化されるための必要条件は、その事件の事実の言明と、抽出された一般的ルールとから、先例における決定が導き出されることである。
(2)一般的ルールは、一意には決まらない
 (a)しかし一般的に、ある先例の決定を導く一般的ルールは、他にも無数に存在している。その一般的ルールが唯一のものとして選択されるためには、その選択を制約する別の諸基準が存在するはずである。
 (b)一般的ルールを正当化する諸基準とは何だろうか。
  (i)ある理論は、その事件にとって重要なものとして扱われるべき諸事実の選択基準が、そのような諸基準だと考える。
  (ii)他の理論によれば、その先例を検討する後の裁判所が、論理上可能な諸ルールのなかから通常の道徳的、社会的諸要因を比較考量した後で選択するであろうルールである。
(3)別の理論は、一般的ルールを経由せずに、先例を利用する。
 (2.1)今回の事例と重要な点で十分に類似している先例を推論する。
 (2.2)その先例を典型例として、今回の事例も同じように決定する。

《説明図》
(1)
先例が関わる  ある一般的
ある事実の言明 ルール
 │┌──────┘
 ↓↓
先例の決定a

(2)
どの事実が 通常の道徳的、社会的
重要か   諸要因を比較考量
 ↓       ↓
先例が関わる  ある一般的
ある事実の言明 ルール1
 │┌──────┘
 ││
 ↓↓
先例の決定a

 「過去の判例を一般的ルールの適用例であると考えるとしても、そこに含まれている演繹法の適用の反対を指示するために「帰納法」という言葉を用いることは、誤解を招く恐れがあるだろう。というのは、その言葉は、諸科学において、すでに観察された個々の事実から一般的な事実命題とか観察されていない個々の事実についての言明が推理されたり、確証されたりする時に用いられている蓋然的推理の様式との実際以上の類似性を示唆しているからである。「帰納法」という言葉はまた、完全な帰納法として知られている演繹的推理の形式あるいは直感的帰納法として言及されることのある一般命題発見の方法――本当の、あるいはそのようにいわれている方法――との混同を招くことにもなるであろう。
 けれども、先例の使用に含まれている演繹法の適用の反対もまた科学的手続の重要な一部であることは事実であり、それは仮説的推理ないし仮説――演繹法推理として知られている。したがって、反対事例による反証を回避するために行なわれる科学的仮説の漸進的精密化の作業のなかに見られる観察と理論の相互作用と、裁判所が、一般的ルールを、それが広範囲のさまざまな判例と矛盾しないようにするために、また正義に反した、あるいは望ましくない結果を生むその定式化を避けるために精密化していく仕方との間には、一定の興味深い類似性がある。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,p.118,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:仮説-演繹法推理,法,仮説的推理,判例,一般的ルール)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
ハーバート・ハートの関連書籍(amazon)
検索(ハーバート・ハート)

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2