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2019年7月30日火曜日

19道徳基準の強制力の源泉は、是認したり非難したりする良心の感情である。それは、純粋な義務の観念と結びついており、物質的、精神的な賞罰による強制や、快と苦痛による利害による強制とは、別のものである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良心の感情

【道徳基準の強制力の源泉は、是認したり非難したりする良心の感情である。それは、純粋な義務の観念と結びついており、物質的、精神的な賞罰による強制や、快と苦痛による利害による強制とは、別のものである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追加。


(1)道徳の基準の強制力は何であるのか。義務の源泉は、何なのか。
 (1.1)それ自体が、義務的なものであるという感情を心に呼びおこす基準がある。例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないという基準を考えてみよう。
 (1.2)では、感情が義務の源泉なのか。感情が呼び起こされなければ、それは義務ではないのか。義務である。すなわち、感情が義務の源泉なのではない。
 参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.3)そこで例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺を、「全体の幸福を増進しなければならない」という一般原理によって基礎づけてみよう。これは、強制力を持ちうるだろうか。なぜ、全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

(2)道徳の基準に関して、実際に生じている事実。
 (2.1)人間の情念や感情は、個別の道徳の基準を直接に把握することができる。しかし、それは正しいこともあれば、誤っていることもある。なぜなら、情念や感情は慣習、教育、世論により形作られるからである。
 (2.2)何が正しく、何が誤っているのか。それは、道徳の基準が何らかの一般原理から、首尾一貫した論理により基礎づけられるかどうかにかかっている。
 参照: 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (2.3)一般原理そのものが、強い情念や感情を呼び起こさない場合もあるかもしれない。しかしこれも、慣習、教育、世論による制約を受けているという事実を、知らなければならない。もし、その一般原理が真実を捉えているのならば、いつしか、教育が進歩し慣習と世論が変わっていくことによって、情念と感情が直接に原理を把握できるようになるに違いない。

◆説明図◆

経験や理論に基づく理性による判断……(a)
(道徳論:例えば、全体の幸福の増進)
 ↓
ある道徳の基準……(b)
(例:泥棒、殺人、裏切り、詐欺の禁止)
┌─────┐
│統治体制 │
│教育、慣習│
│世論   │
└──┬──┘
   ↓影響
┌────────────────────┐
│特定の個人               │
│(a)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?│
│(b)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?│
└────────────────────┘

(3)良心の感情:是認したり非難したりする感情
 (3.1)良心の感情は、純粋な義務の観念と結びついており、あらゆる道徳の究極的な強制力である。
 (3.2)良心の感情は、義務に反した際に起きてくる強い苦痛、自責の念を伴う。
 (3.3)現実に存在するような複雑な状況下にあっては、他の様々な感情や連想によって覆いつくされることもあって、これらが良心の感情に、ある種の神秘的な性格を与えていると考えられやすい。しかし、良心の感情の本質を見誤ってはならない。
  (3.3.1)良心の感情は、内的な強制力であり、賞罰による外的な強制力によるものではない。
   例えば、ベンサムの主張するような、次のような強制力によるものとは異なる。
   参照:ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (b)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
   (c)民衆的強制力(道徳的強制力)
    有害なものを避け、幸福を願う欲求によって作用する。
    (c.1)自然な満足感、嫌悪感
     自分たちの幸福(快)を生み出す傾向性がある行為が促され、不幸(苦痛)を生み出す傾向性がある行為は減らす方向に促される。
    (c.2)好意、感謝、憤慨、怒りの感情
     他者の行為が、自分たちの幸福(快)を生み出す傾向性があると認識されると、「好意」や「感謝」の感情が生じ、不幸(苦痛)を生み出す傾向性があると認識されると、「憤慨」や「怒り」の感情が生じる。
    (c.3)好意、感謝、憤慨、怒りの感情の表出に対する、喜びの感情、苦痛の感情
     自らの行為によって他者が好意、感謝を表出するとき、喜びの感情が生じて当該行為は促される。逆に、自らの行為によって他者が憤慨、怒りの表出をするとき、苦痛の感情が生じて当該行為は、減らす方向に促される。

 「功利性の原理は他の道徳体系がもっているあらゆる強制力をもっているし、もっていないという理由はない。これらの強制力は外的なものか内的なものかのいずれかである。

外的強制力については長々と述べる必要はない。それらは、どのようなものであれ私たちが同胞に対してもっているであろう共感や愛情や、利己的な結果に関係なく神が望んでいることをおこなう気持ちにさせる神への愛と畏敬の念であり、さらに同胞や万物の支配者からよく思われたいという希望や彼らの不興を買うことを恐れる気持ちである。

義務にしたがうこれらの動機すべてが、他の道徳論に結びつけられているのと同じくらい完全に強く功利主義道徳論に結びつけられない理由はまったくない。

実際に、これらのうち同胞に対するものは、全般的に知性が向上するのに比例して、固く結びつけられるようになっている。というのは、全体の幸福以外の何らかの道徳的義務の根拠があろうとなかろうと、人々は現実に幸福を望んでいるからであり、自分自身の実践は不十分であるかもしれないが、人々は自分に関わる他者の行為については、自らの幸福を増進すると思われるようなあらゆる行為がなされることを望み推奨しているからである。

宗教的動機については、もし、多くの人が公言しているように、人々が神の善性を信じているとするならば、全体の幸福に資するということが善の要諦であると考えている人々、そして唯一の基準でさえあると考えている人々は、それは神によって承認されていることでもあると信じているに違いない。

それゆえ、身体的なものであろうと精神的なものであろうと、神からのものであろうと同胞からのものであろうと、外的な賞罰の全般的な力は、人間本性の能力が許容するかぎりでの神や同胞に対する私欲のない献身の全般的な力とともに、功利主義道徳論が認められるようになるのに比例して、その道徳を実践するために利用することができるようになる。

功利主義道徳論が影響力を増すにつれて、教育や一般教養のための制度がその目的にますます沿ったものとなる。

 外的強制力についてはここまでにしよう。義務の基準が何であったとしても、義務の内的強制力はただ一つのもの、つまり私たち自身の心のなかにある感情である。

それは義務に反した際に起きてくる、程度の差はあっても強い苦痛であり、徳性が適切に涵養されている人にとっては、より重大な事例の場合には、義務に反することを不可能なものとして躊躇させるようなものである。

この感情は、無私なものとなり、ある特定の義務の観念や単なる付随的な状況にではなく純粋な義務の観念に結びつけられるとき、良心の本質的要素となる。

現実に存在するような複雑な状況下にあっては、この単純な事実は、共感や愛情、さらには恐怖などに、あらゆる形態の宗教的感情に、少年期やあらゆる過去の生活の思い出に、そして自尊心や他者の評価を得たいという希望や、時には謙遜の気持ちにさえ由来する付帯的な連想によって一般にはまったく覆いつくされているとしてもである。

私が懸念しているのは、このような極端な複雑さが、他の多くの事例においてもみられるような人間精神の性向によって、ある種の神秘的な性格が道徳的義務の観念に帰せられやすいことの原因となっているということであり、このような神秘的な性格のせいで、想像上の神秘的な法則によってその観念を刺激するという私たちの現実の経験に見出されるようなこと以外には道徳的義務の観念を結びつけることができないと人々が信じるようになるということである。

しかし、道徳的義務の拘束力は、正義の基準を犯すためには打ち破らなければならず、それでいてその基準を実際に犯せば、後に自責の念という形で現れてくるに違いないような一群の感情が存在していることに起因している。

良心の性質や起源についての理論がどのようなものであっても、これが本質的に良心を構成しているのである。

 したがって、あらゆる道徳の究極的強制力は(外的動機を別にすれば)私たちの心のなかの主観的感情であるのだから、功利性を基準としている人々にとって、その基準の強制力は何であるのかという問題について何ら頭を悩ませるようなものはない。

私たちは他の道徳的基準と同じもの、つまり人類の良心という感情であると答えることができるだろう。

たしかに、この強制力はそれが訴えかける感情をもっていない人々を拘束する力をもっていない。しかし、そのような人々が功利主義的原理以外の道徳原理によりよく従うということはないだろう。そのような人々にとっては、外的強制力によらなければ、どのような道徳論も効果がない。

しかし、そのような感情は存在するし、それは人間本性に関する事実である。それが実在するということ、そして十分に涵養されてきた人にとってそれが大きな力を発揮できるということは、経験から明らかである。

この感情が功利主義的道徳規則と関連づけられたときには、他の道徳規則に関連づけられたときと同じようには大幅に涵養されないという理由はこれまで示されていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.292-295,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:良心の感情,道徳基準の強制力,義務の観念,賞罰による強制,利害による強制)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年7月19日金曜日

18.義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳の基準の強制力の源泉

【義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)道徳の基準の強制力は何であるのか。義務の源泉は、何なのか。
 (1.1)それ自体が、義務的なものであるという感情を心に呼びおこす基準がある。例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないという基準を考えてみよう。
 (1.2)では、感情が義務の源泉なのか。感情が呼び起こされなければ、それは義務ではないのか。義務である。すなわち、感情が義務の源泉なのではない。
 参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.3)そこで例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺を、「全体の幸福を増進しなければならない」という一般原理によって基礎づけてみよう。これは、強制力を持ちうるだろうか。なぜ、全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

(2)道徳の基準に関して、実際に生じている事実。
 (2.1)人間の情念や感情は、個別の道徳の基準を直接に把握することができる。しかし、それは正しいこともあれば、誤っていることもある。なぜなら、情念や感情は慣習、教育、世論により形作られるからである。
 (2.2)何が正しく、何が誤っているのか。それは、道徳の基準が何らかの一般原理から、首尾一貫した論理により基礎づけられるかどうかにかかっている。
 (2.3)一般原理そのものが、強い情念や感情を呼び起こさない場合もあるかもしれない。しかしこれも、慣習、教育、世論による制約を受けているという事実を、知らなければならない。もし、その一般原理が真実を捉えているのならば、いつしか、教育が進歩し慣習と世論が変わっていくことによって、情念と感情が直接に原理を把握できるようになるに違いない。

 「何らかの道徳の基準とみなされているものについては、次のような質問がしばしばなされるし、それは適切なことである。

その強制力は何であるか。それにしたがう動機は何か。よりはっきりと言えば、その義務の源泉は何か。どこからその拘束力をひきだすのか。

この問題にたいする答えを提示することは道徳哲学の必須の一部である。

これは、他の道徳論よりも功利主義道徳論にとりわけ当てはまるかのように、功利主義道徳論に対する反対論という形をしばしばとっているが、実際にはあらゆる基準について生じる問題である。

つまり、この問題は、人がある基準を《採用する》必要に迫られたり、習慣的に頼っていなかった何らかの根拠によって道徳論を論じるときにはいつでも生じている。

というのは、慣習的道徳論、つまり教育と世論が神聖なものとした道徳論のみが、《それ自体として》義務的なものであるという感情を心に呼びおこす唯一の道徳論だからである。

人がこの道徳論が慣習の後光のない何らかの一般原理からその義務力を《引き出している》ことを信じるように言われたとしても、このような主張は彼にとっては逆説的である。

もとの定理よりも、その系とされるものの方がより強い拘束力を持っているように思われ、土台とされるものがあるときよりもないときの方が上部構造がしっかりとしているように思われるのである。

人は次のように自問する。私は泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないと考えているが、どうして全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

 功利主義哲学が道徳感覚の性質について採用している見解が正しいとすれば、道徳的性格を作り上げてきた力が原理からの帰結を把握したのと同じように原理[自体]を把握するまで、つまり、教育の進歩によって、普通によく育てられた若者にとって悪事を恐れる気持ちがそうであるように、同胞との一体感が完全に本性の一部となるくらいまで私たちの性格に深く根を下ろし、そのように意識されるまで(キリストがそうすることを意図していたことは否定できない)、この難問はつねにおこってくるだろう。

しかし、そうするまでの間、この難問は功利性の理論にのみ特有のものではなく、道徳を分析しそれを原理に還元しようとするあらゆる試みに内在するものである。

原理がそれが応用されたものと同じくらいの神聖さをもって人の心に抱かれていないかぎり、この難問はつねに原理の神聖さをいくらかは損なうように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.291-292,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳の基準の強制力の源泉)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年5月3日金曜日

17.複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

究極的目的、第一原理の役割

【複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.4)(b.5)追加。

(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務や正・不正の起源と性質
  義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)義務や正・不正の感覚・感情論
  私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (b)義務や正・不正の理性論
  道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (b.1)道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (b.2)道徳問題は、議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.3)道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (i)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (ii)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (iii)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (iv)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓↑
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓↑
 行為が生み出す帰結:行為の価値


選択される。
  (b.4)究極的目的(第一原理)の役割
   (i)個々の二次的目的については、人々が合意することができても、特異な状況においては異なる複数の二次的目的どうしが、互いに対立する事例が生じる。これが、真の困難であり複雑な点である。
   (ii)二次的目的が対立し合うような状況で、もし、より上位の第一原理が存在しなければ、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張し合うことになり、これ以上は議論が進まないことになる。このような場合に、第一原理に訴える必要がある。
   (iii)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

  (b.5)人間事象の複雑性と、意思決定の困難さ。
   (i)行為の規則を、例外を必要としないような形で作ることができない。
   (ii)ある行為を為すべきか、非難されるべきか、決定することが困難な場合もある。
   (iii)特異な状況における意思決定には、ある程度の裁量の余地が残り、行為者の道徳的責任において選択される。

(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「お決まりの功利主義批判のうち残りの大部分は、人間本性のありふれた弱さや、誠実な人が人生において進むべき進路を決めるときに突き当たる一般的な困難を非難しているものである。

功利主義者は、自分の具体的事例を道徳規則の例外としがちであり、誘惑にかられたときには規則を守ることよりも破ることの方がより功利性があるとみなしがちであると言われる。

しかし、功利性は悪い行為をするときに口実を与えたり自らの良心をごまかす手段となったりする唯一の教義であろうか。

そのようなことは、道徳には相反する考慮が存在することを事実として認めているあらゆる理論のなかに多く見られるし、良識ある人々によって信奉されてきているあらゆる理論はこのようなものである。

行為の規則を例外を必要としないような形で作ることができないことや、ある行為をするべきものなのか非難されるべきものなのかをつねに問題なく決定することがほとんどできないことは、何らかの理論がもっている欠点ではなく、人間事象の複雑な性質からくる欠点である。

あらゆる倫理理論は、行為者の道徳的責任のもとで、特異な状況に対応するためにある程度の裁量の余地を与えることによって、その規則の厳格さを和らげている。

それゆえ、あらゆる理論において、このようにして作られた隙間から自己欺瞞やいい加減な決疑論が入り込む。あらゆる道徳体系において、義務が対立する明確な事例が生じる。これらの事例が、倫理理論にとっても個人の行為における良心の指針にとっても真の困難であり複雑な点である。

これらは実際には各個人の知性や徳次第で克服されうる。しかし、権利や義務が衝突するときに委ねることができる究極的な基準をもつことで、これらの困難な事例に取り組むのに適任でなくなると言うことはできない。

功利性が道徳的義務の究極的源泉であるとすれば、功利性はいくつかの義務が求めるものが両立しないときにどちらか一方に決めるために用いられるだろう。その基準を適用することは難しいことかもしれないが、何もないよりかはましである。

他の体系では、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張しており、それらに介入する資格をもつ共通の裁定者が存在していない。

したがって、ある規則が他の規則よりも優先されるという主張はこじつけとほとんど変わらないものに基づいているし、一般的にそうされているように功利性を考慮することの影響を暗黙的に受けることによって判断されないかぎり、個人的な欲求やえこひいきによる行為の余地がある。

第一原理に訴えるための要件を満たしているのは、このように二次原理の間で対立が生じている場合のみであることを忘れてはならない。何らかの二次原理を伴っていない道徳的義務の事例はない。[二次原理が]一つでもあれば、それはどれなのかについて[一次]原理自体を認識している人の心のなかで実際に疑問がもたれることはほとんどない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.289-290,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:究極的目的,二次的目的,第一原理,功利性の原理,最大幸福原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年5月1日水曜日

16.私たちは、行為者の資質や性格によって賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情を抱く。しかし、行為の正・不正についての道徳的判断は、資質・性格の評価とは別問題である。とはいえ、資質・性格は行為に影響力を持つ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為と行為者の性格、資質との関係

【私たちは、行為者の資質や性格によって賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情を抱く。しかし、行為の正・不正についての道徳的判断は、資質・性格の評価とは別問題である。とはいえ、資質・性格は行為に影響力を持つ。(く)】

(3.1.5)追記。

(3)ミルの考え
 (3.1)人間の行為は、3つの側面から評価される。行為の道徳的側面は最も重要であるが、他の側面と混同したり、他の側面を無視することは誤っている。
   行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (3.1.1)行為の道徳的側面
  《観点》ある行為の予見可能な帰結が、私たちにとって望ましいかどうかの「理性」による判断。
  《引き起こされる感情》是認したり、否認したりする。
  《行為に付与される属性》行為の正・不正。
  (3.1.2)行為の審美的側面
  《観点》ある行為が、望ましい動機や性格の徴候を示しているという「想像力」による判断。
  《引き起こされる感情》賞賛したり、侮蔑したする。
  《行為に付与される属性》行為の美しさ・醜さ。
   (a)有徳、勇気、慈悲深さ、気立ての良さなど。
   (b)ストア派は、徳のみを望ましい資質であり、価値があると考えた。
  (3.1.3)行為の共感的側面
  《観点》ある行為が、共感できる動機や性格の徴候を示しているという「同胞感情」による判断。
  《引き起こされる感情》愛したり、憐れんだり、嫌悪したりする。
  《行為に付与される属性》行為の愛らしさ・行為への憎しみ。

  (3.1.4)引き起こされる感情と、行為者の性格、資質との関係
    ベンサムによる異論は次のとおりである。
   (a)ある行為によって、賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情が引き起こされたとしても、その行為がその人の望ましい動機や性格、あるいは悪い動機や性格の徴候であると推測することはできない。
   (b)従って、利益や危害をもたらさない行為によって、その人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは、不正義であり偏見である。
   (c)「良い趣味」や「悪い趣味」という言いかたで趣味について賞賛したり非難したりすることは、一個人による無礼な独断論である。人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではない。

  (3.1.5)行為と行為者の性格、資質との関係
   (a)行為の正・不正についての判断は、行為者の資質や性格についての評価とは別問題である。
   (b)正しい行為が、必ずしも有徳な性格を意味してはいない。
   (c)しかし、長い目で見れば、善い性格を最もよく証明するものは、善い行為である。
   (d)非難されるべき行為が、賞賛に値する資質からしばしばなされる。
   (e)しかし、悪い行為を生み出す傾向が強い道徳的性向は、悪い資質である。

 「このように考えることで、道徳の基準の目的や正・不正という言葉の意味そのものについてさらにひどい誤解をしていることに起因する、功利性の理論に対するもうひとつの別の非難にも対処することができる。

功利主義者は人間を冷酷で非情にするとか、他者に対する道徳感情をくじくとか、行為を生じさせた資質を道徳的に評価することなく行為の帰結だけを無味乾燥に評価させるということがしばしば主張される。

この主張が、行為の正・不正についての判断が行為者の資質についての見解によって左右されてはならないということを意味しているならば、これは功利主義に対するものではなく、なんらかの道徳の基準をもつこと自体に対する申し立てである。

というのは、既知の倫理に関する基準のうち、善人がしたか悪人がしたかによって行為の善悪を決めているようなものはたしかにないし、まして気立てのいい人や勇気のある人や慈悲深いい人、あるいはこれらと反対の人がしたかによって行為の善悪を決めているようなものはないからである。

これらを考慮することは、行為ではなく人物を評価するときに意味のあることである。

そして、功利主義理論は、人間には行為の正・不正の他にも私たちが関心をもつものがあるという事実と不整合なものではない。

たしかにストア派は論法の一環として言葉を逆説的に乱用し、そうすることによって徳以外のことから超然としていようと努めていたが、徳をもつものはすべてをもっており、そのような人が、そしてそのような人だけが富める人であり、美しい人であり、王であるということを好んで語っていた。

しかし、功利主義理論は有徳な人についてこのように描き出すことはしない。

功利主義者は徳以外にも望ましいものや資質があるということや、それらすべてに完全に価値があるということをはっきりと認識している。

正しい行為が必ずしも有徳な性格を意味してはいないということや、非難されるべき行為が賞賛に値する資質からしばしばなされるということも認識している。個別の事例においてこのことが明白なときには、功利主義者の行為に対する評価が変わることはなくても、行為者に対する評価は変わるだろう。

とはいうものの、功利主義者は長い目で見れば善い性格をもっともよく証明するものは善い行為であるという見解をもっており、悪い行為を生み出す傾向が強いどのような道徳的性向も善いものとみなすことは断固として拒否するということを私は認めている。

このことのために功利主義者は多くの人に評判がよくないけれど、このような不評は、正・不正の区別を真剣に考えているすべての人が分ちあわなければならないものであり、誠実な功利主義者がいま反駁すべく心を悩ます必要はない。

 多くの功利主義者は功利主義的基準によって判定される行為の道徳性のみに過度に関心を向け、人間を愛すべき尊敬すべき存在にするようなその他の性格上の美点をあまり重視していないということ以上のことをこの反対論が意味していないならば、このことは認める余地があるだろう。
  
道徳感情は涵養してきたけれども、共感能力や芸術を理解する力を涵養してこなかった功利主義者はこの誤りに陥っているし、同じ状態にあるその他あらゆる道徳論者も同じことをしている。

他の道徳論者のためになされる弁明は功利主義者にとっても同じように有効である。つまり、誤りが避けられないなら、そのような方がましだという弁明である。

実際のところ、他の体系の擁護者の場合と同じように、功利主義者の間でも、基準を適用するときに厳格な人から緩やかな人まで考えられうるかぎり大きな幅がある。ピューリタンのように厳格な人もいれば、罪人や感傷的な人に望まれるくらい緩やかな人もいる。

しかし、全体的には、道徳律に背くような行為を抑止するという人類の利益に強い関心を向けている理論は他のどの理論にもまして、そのような侵害行為に世論による制裁を加えるだろう。

道徳律に背くとはどういうことなのかという問題は、道徳の基準について異なった見解をもっている人が折に触れて意見を異にする問題である。

しかし、道徳問題についての意見の相違は功利主義によって初めてこの世界にもちこまれたものではないし、いずれにしろこの理論は、必ずしも容易ではないとしても、そのような相違を解消するための具体的でわかりやすい方法を提示している。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.282-284,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:資質と性格,賞賛と侮蔑,好き嫌い,感情,道徳的判断)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月30日火曜日

15.私たちは、行為が及ぼす影響範囲を評価し、明らかに他者の権利を侵害したり、仮に皆が行えば社会に害が発生するような行為の場合には、道徳基準に従うことによって、あとは動機に任せて行為し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為の動機と道徳基準

【私たちは、行為が及ぼす影響範囲を評価し、明らかに他者の権利を侵害したり、仮に皆が行えば社会に害が発生するような行為の場合には、道徳基準に従うことによって、あとは動機に任せて行為し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追加。

(2)道徳基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
   人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。

(3)行為の動機と道徳基準
 (3.1)行為の動機
  (a)私たちは、ほとんどの場合、道徳基準に従って意識的に行為しているわけではない。
  (b)動機は、行為の道徳性とは無関係である。例えば、溺れている同胞を助ける人は、その動機が義務からであろうと、苦労に対する報酬への期待であろうと、状況に応ずる衝動からであろうと、道徳的には正しいことをしているのである。
  (c)私たちは、行為者の動機によって、行為者を賞賛したり侮蔑したりする。
   参照:行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)道徳基準の実践的な適用方法
  道徳基準は、一貫性のある論理体系として追究される人間行為の規則であり、行為の動機など人間の現実的な心理過程は、また別事象である。道徳基準の実践的な適用方法は、以下の通りである。
  (a)行為が及ぼす影響範囲を考えよ。
   (a.1)普通は、関係する特定の人々の利害を考えればよい。
   (a.2)しかし、ある行為が社会一般に影響するような能力を持っているような人は、より広い範囲の人々の幸せを考慮する必要がある。
  (b)明らかに有害であることは自制すること。
   (b.1)関係者以外の人々の合法的で正当な期待を侵害することにならないかを、確認すること。
   (b.2)帰結が有益と思われても、もしその行為が一般に行われれば、広く害を及ぼすような種類のものであるとき、その行為は差し控えること。

 「反功利主義者はいつも誹謗するような仕方で功利主義を描き出していることで非難されるわけではない。

それどころか、功利主義が公平性をもっているという正しい考えを受け入れている人のなかには、功利主義の基準は人類にとって高すぎるとして批判する人もいる。

彼らは、つねに社会全体の利益を促進することを動機として行動するように人々に求めることは厳しすぎると述べている。

しかし、これは道徳の基準の正しい意味を誤解し、行為の規則と行為の動機を混同しているのである。

倫理学の役割は私たちの義務は何であるかやどのような試金石によってそれらを知ることができるかを示すことであるが、あらゆる行為の唯一の動機は義務の感情でなければならないとするような倫理学の体系はない。

それどころか、私たちの百のうち九十九の行為が他の動機からなされており、義務の規則がそれをとがめないならば、それは正しくなされていることになる。

功利主義道徳論者は、動機は行為者の価値には大いに関係するけれども行為の道徳性には無関係であるということを他のほとんどすべての道徳論者よりも強く主張していたのだから、このような誤解が反功利主義の根拠になっているというのは功利主義にとっていっそう不当なことである。

溺れている同胞を助ける人は、その動機が義務であろうと苦労に対する報酬への期待であろうと、道徳的には正しいことをしているのである。信頼してくれている友人を裏切る人は、その目的がより大きい恩義を受けている他の人のためであったとしても、罪を犯しているのである。

 しかし、義務という動機からなされた行為にかぎって、そして原理に直接的に従っているかぎりで言うならば、世界や社会全体にわたるくらいに広範囲に気をかけることを人々に求めていると考えるのは功利主義的思考法に対する誤解である。

善い行為の大部分は世界の利益になることを意図したものではなく、世界の善を構成している個々人の利益になることを意図されたものである。

このような場合には、大部分の有徳な人は、関係者の利益を図るときに他の誰かの権利――つまり、合法的で正当な期待――を自らが侵害していないことを確かめる必要があるときを例外とすれば、関係する特定の人々以外のことを考える必要はない。

功利主義的倫理にしたがえば、幸福を増大させることが徳の目的である。しかし、(千人のうち一人くらいを別にすれば)誰かが広範にわたって幸福を増大させる能力をもっている、言い換えれば、公共の役に立つ人であるという場合は滅多にない。

このような場合にだけ公共の功利を考慮することが求められ、他のあらゆる場合には個人の功利、つまりごく少数の人の利益や幸福だけに関心を向けていればよい。

自らの行為が社会一般に影響するような人だけがこういう広い対象に習慣的に関心を向ける必要がある。

ある特定の場合には帰結が有益かもしれなくても道徳的配慮から人々が差し控えるようなことを実際に自制するという事例について言えば、その行為が一般に行われれば広く害を及ぼすような種類のものであるということや、このことがこの行為を控える義務の根拠となっているということを意識的に考えることがないというのでは、知性ある人に値しないだろう。

ここで公共の利益に対する配慮の程度はあらゆる道徳体系が求めているものと変わらない。

というのは、それらはいずれも社会にとって明らかに有害なものは何であっても控えるように求めているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.280-282,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:動機,道徳基準,行為の道徳性,行為が及ぼす影響範囲)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年4月29日月曜日

14.人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

法や社会制度、教育と世論の重要性

【人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3) 追記。

《目次》
(1)人間の行為の究極的目的
 (1.1)苦痛と快楽
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
 (1.3)幸福とは何か
 (1.4)平穏と興奮
 (1.5)人類全体への愛情
 (1.6)精神的涵養
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則


(1)人間の行為の究極的目的
 (a)行為の人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)苦痛と快楽
  できる限り苦痛を免れ、できる限り快楽を豊かに享受する。
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
  苦痛と快楽は、量と質の両方が考慮される。
 (1.3)幸福とは何か
  幸福とは何か。それは、到達できない目的なのではないか。
  (a)幸福が強い快楽による興奮状態の継続であるとすれば、それは達成不可能である。
  (b)仮にそうだとしても、不幸を避けたり軽減したりすることができる。
  (c)幸福とは、苦痛があっても一時的なものであり、快楽が多く様々にあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、現に生きられている人生以上のものを、もはや期待しないような状態である。

 (1.4)平穏と興奮
  平穏と興奮は、より控えめな幸福の要素の一つである。
  (a)平穏に恵まれていれば、大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。
  (b)多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。
  (c)そして、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激される。
  (d)怠惰が高じて悪習となっている人、また逆に、病的に興奮を求めるようになってしまっている人も、存在はするだろう。

 (1.5)人類全体への愛情
  自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
   この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
   (b.1)この世界には、さらに是正し改善すべきものが多くある。
    (b.1.1)貧困、病気など、避け難く、未然に防ぐこともできず、緩和することもできないと思われるような、様々な肉体的・精神的苦悩の源泉が存在する。
   (b.2)運命の変転や自分の境遇について失望してしまう原因。
    (b.2.1)甚だしく慎慮が欠けていること。
    (b.2.2)欲が大き過ぎること。
    (b.2.3)悪い、不完全な社会制度のために、自由が認められていないこと。
   (b.3)改善への希望。
    (b.3.1)これら苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろう。
    (b.3.2)貧困は、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって、完全に絶つことができるだろう。
    (b.3.3)病気は、科学の進歩と優れた肉体的・道徳的教育によって、有害な影響を限りなく縮小できるだろう。
   (b.4)自己犠牲とは何か。
    (b.4.1)なぜ、自らの幸福を犠牲にし得るのか。それは、他者の幸福や、世界の幸福の総量を増大、あるいは幸福の何らかの手段への献身だと信じるからである。
    (b.4.2)「目的は、幸福ではなく徳である」は、正しいだろうか。しかし、自らの犠牲によって、他の人々も同じような犠牲を免れ得ると信じていなかったとしたら、その犠牲は払われたであろうか。
    (b.4.3)誰かが、自らの幸福を完全に犠牲にすることによってしか、他の人々の幸福に貢献できないというのは、世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけである。

 (1.6)精神的涵養
  精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
  (a)意識的に、幸福なしにやっていくことが、到達可能な幸福を実現することについての、最良の見通しを与えてくれる場合がある。「目的は、幸福ではなく徳である」。
  (b)それは、宿命や運命が最悪であっても、それが人を屈服させる力を持っていないと感じさせてくれる。
  (c)その結果、人は人生における災難について、過剰に不安を抱くことがなくなる。
  (d)また、手の届くところにある満足の源泉を、平穏のうちに涵養することができるようになる。
  (e)それは、死をも超越する。

(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。


 「功利主義を攻撃する人がめったに正しく認めようとしてくれないことを私は再び繰り返して言っておくが、何が正しい行為なのかを決める功利主義的基準を構成している幸福とは、行為者自身の幸福ではなく関係者すべての幸福である。

自分自身の幸福か他の人々の幸福かを選ぶときには、功利主義は利害関係にない善意ある観察者のように厳密に公平であることを当事者に要求している。

ナザレのイエスの黄金律に、私たちは功利性の倫理の完全な精神を読み取る。人にしてもらいたいと思うことを人にしなさいというのと、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいというのは、功利主義道徳の理想的極致である。

その理想にもっとも早く近づく手段として功利性は次のことを求めるだろう。

第一に、法や社会制度があらゆる個人の幸福や(あるいは実際的に言えば)利害をできるかぎり全体の利害と一致させるようなものであること、

第二に、人間の性格にたいして大きな力をもっている教育や世論が、自らの幸福と全体の善の間には、とりわけ全体の幸福が求めるような行為を消極的にでも積極的にでも実行することと自らの幸福の間には切ることのできない結びつきがあるということを各人の心に抱かせるためにその力をもちいることである。

そうすれば、全体の善に反するような行為を押し通して自らの幸福を得ようと考えることはできなくなるだけでなく、全体の善を増進するという直接的な衝動があらゆる個人にとって行為の習慣的な動機のひとつとなり、それに伴う感情が各人の感情のなかで大きく重要な位置を占めるようになるだろう。

功利主義道徳論を非難する人がこのような正しい特徴によってそれを心に思い描くならば、彼らが支持するであろう他の道徳論がもっている長所のうち功利主義道徳論に欠けているものが何なのか、他の倫理体系が促すと考えられている、より美しくより賞賛すべき形での人間本性の発展というのはどのようなものなのか、そして、その体系は功利主義者が利用できないどのような行為の動機にもとづいて指令を実行させるのか、私には分からない。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.279-280,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:法,社会制度,教育,世論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月28日日曜日

13.この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

人類全体への愛

【この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.1)~(b.4)追記。
(1.8)追記。

 (1.6)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
   (b.1)この世界には、さらに是正し改善すべきものが多くある。
    (b.1.1)貧困、病気など、避け難く、未然に防ぐこともできず、緩和することもできないと思われるような、様々な肉体的・精神的苦悩の源泉が存在する。
   (b.2)運命の変転や自分の境遇について失望してしまう原因。
    (b.2.1)甚だしく慎慮が欠けていること。
    (b.2.2)欲が大き過ぎること。
    (b.2.3)悪い、不完全な社会制度のために、自由が認められていないこと。
   (b.3)改善への希望。
    (b.3.1)これら苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろう。
    (b.3.2)貧困は、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって、完全に絶つことができるだろう。
    (b.3.3)病気は、科学の進歩と優れた肉体的・道徳的教育によって、有害な影響を限りなく縮小できるだろう。
   (b.4)自己犠牲とは何か。
    (b.4.1)なぜ、自らの幸福を犠牲にし得るのか。それは、他者の幸福や、世界の幸福の総量を増大、あるいは幸福の何らかの手段への献身だと信じるからである。
    (b.4.2)「目的は、幸福ではなく徳である」は、正しいだろうか。しかし、自らの犠牲によって、他の人々も同じような犠牲を免れ得ると信じていなかったとしたら、その犠牲は払われたであろうか。
    (b.4.3)誰かが、自らの幸福を完全に犠牲にすることによってしか、他の人々の幸福に貢献できないというのは、世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけである。

 (1.7)精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
 (1.8)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
  (a)意識的に、幸福なしにやっていくことが、到達可能な幸福を実現することについての、最良の見通しを与えてくれる場合がある。「目的は、幸福ではなく徳である」。
  (b)それは、宿命や運命が最悪であっても、それが人を屈服させる力を持っていないと感じさせてくれる。
  (c)その結果、人は人生における災難について、過剰に不安を抱くことがなくなる。
  (d)また、手の届くところにある満足の源泉を、平穏のうちに涵養することができるようになる。
  (e)それは、死をも超越する。

 「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。

同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。

これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。

純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。

関心をひくものが多くあり、楽しむべきものが多くあり、さらに是正し改善すべきものが多くあるような世界では、このような適度な道徳的・知的資質をそなえた人なら誰でも、羨望の的となるようなあり方でいることができる。

悪法のためか他人の意志に従属しているために手の届くところにある幸福の源泉を使う自由を認められていない人でなければ、貧困、病気、愛する人の不親切、不徳、早世といった多大な肉体的・精神的苦悩の源泉のような人生における明白な害悪を逃れれば、この羨むようなあり方を必ず見いだすだろう。

それゆえ、この問題に関して重要な点はこれらの苦難と戦うことにあり、これらの苦難をまったく逃れることは稀有な幸運であり、現状では未然に防ぐこともできないし、多くの場合に目に見える形で緩和することもできない。

多少でも聞くに値する意見をもつ人ならば誰も世界の大きな明白な害悪の大部分はそれ自体除去できるものであり、人間に関わるものごとが改善され続けていくならば、最終的には狭い範囲までとどめることができるだろうということを疑わないだろう。

貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。

人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。

そのような方向へ発展することによって、私たちは自分たちの寿命を縮めるような危険を取り除くことができるだけでなく、より重要なことに、私たちの幸福が託されている人々を奪い去ってしまう危険も取り除くことができるのである。

運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。

すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。

これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。

とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。

 これまでの議論によって、幸福なしにやっていくことを身に着けることの可能性と義務について反対論者が言っていることについて正しく評価することができるようになる。

たしかに、幸福なしにやっていくことは可能である。20人のうち19人が意識せずにそうしているし、現在の世界でもっとも野蛮の程度の低いところにいる人々でさえそうである。英雄や殉教者は自らの幸福よりも大切にするもののためにしばしば自発的にそうしている。

しかし、この大切なものが他者の幸福や幸福の何らかの要件でないとしたら、それは何なのだろうか。自分の幸福やそれを得る機会をまったく放棄することができるというのは気高いことであるが、この自己犠牲は結局のところ何らかの目的のためのものであるに違いない。

それはそれ自身が目的ではないし、もしその目的は幸福ではなく徳であり、それは幸福よりも良いものであるといわれたとしたら、英雄や殉教者が他の人々が同じような犠牲を免れうると信じていなかったら、その犠牲は払われただろうかと私は問うだろう。

自らの幸福を放棄することが同胞に何の恩恵をもたらさず、同胞の運命を自らのものと同じものにし、彼らをも幸福を放棄した人と同じ状態に置くことになると考えていたら、その犠牲は払われただろうか。

人生における個人的な楽しみを放棄することによって世界の幸福の総量を増大させることができるときに、楽しみを自ら放棄することのできる人々は本当に賞賛されるべき人々である。

しかし、何らかの他の目的のためにそうしていたり、他の目的のためにそうしていると公言したりしている人は、自分が念頭においているような禁欲主義者と同じ程度にしか賞賛に値しない。その人は人間が何が《できるか》についてのすばらしい証拠となるかもしれないが、人間が何を《すべきか》ということの実例には間違いなくならない。

 誰かが自らの幸福を完全に犠牲にすることによって他の人々の幸福にもっとも貢献できるというのは世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけであるが、世界が不完全な状態にあるかぎり、そのような犠牲をすすんで払う気持ちをもっていることは人間にとって最高の徳であるということを私は十分に認めている。

私はさらに、このような状態の世界では、逆説的な主張かもしれないが、意識的に幸福なしにやっていくことができるということが、到達可能な幸福を実現することについての最良の見通しを与えてくれると認めている。

というのは、このような意識以外には、宿命や運命が最悪であっても人を屈服させる力はもっていないと感じさせることで、人生のめぐりあわせから人を超然とさせるようなものはないからである。

ひとたびこのように感じれば、人は人生における災難について過剰に不安を抱くことがなくなり、ローマ帝国の最悪の時期に居合わせた多くのストア主義者のように、手の届くところにある満足の源泉を平穏のうちに涵養することができるようになり、それが不可避的に終焉をむかえるということだけでなく、いつまで続くかという不確実さについても気をもむことがなくなる。

 ところで、功利主義者は献身という道徳が自分たちのものでもあるということを、ストア派や先験論者と同じくらい正当な権利をもって主張しつづけねばならない。

功利主義道徳論は他の人々の善のために自らの最大善を犠牲にする力が人間にはあるということを認めている。それはその犠牲それ自体が善であることを認めることを拒んでいるだけである。幸福の総量を増やさないか増やす傾向をもたない犠牲を無駄だとみなす。

それが称える唯一の自己放棄は、他の人々の幸福や幸福の何らかの手段への献身であり、ここでいう他の人々とは人類全体であったり人類の全体的利害によって限定される範囲内にいる個々人であったりする。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-279,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:人類全体への愛,貧困,病気,改善への希望,自己犠牲)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年4月26日金曜日

12.人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福とは何か

【人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間の行為の究極的目的
 (1.1)できる限り苦痛を免れ、できる限り快楽を豊かに享受する。
 (1.2)苦痛と快楽は、量と質の両方が考慮される。
 (1.3)幸福とは何か。それは、到達できない目的なのではないか。
  (a)幸福が強い快楽による興奮状態の継続であるとすれば、それは達成不可能である。
  (b)仮にそうだとしても、不幸を避けたり軽減したりすることができる。
 (1.4)幸福とは、苦痛があっても一時的なものであり、快楽が多く様々にあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、現に生きられている人生以上のものを、もはや期待しないような状態である。
 (1.5)平穏と興奮は、より控えめな幸福の要素の一つである。
  (a)平穏に恵まれていれば、大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。
  (b)多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。
  (c)そして、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激される。
  (d)怠惰が高じて悪習となっている人、また逆に、病的に興奮を求めるようになってしまっている人も、存在はするだろう。
 (1.6)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
 (1.7)精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。

 「最大幸福原理にしたがえば、上述のように、究極的目的は、(考慮しているのが自分自身の善であろうと他の人の善であろうと)その他のあらゆる望ましいものに準拠したりそれらを目的としたりしながら、量と質の両方に関してできるかぎり苦痛を免れできるかぎり快楽を豊かに享受するというあり方である。

もし自分を意識したり自分を振り返ったりする習慣があり、両方を経験する機会をもっていた人々によって選ばれているとしたら、質を判断する基準や質と量を比較するための規則は彼らが比較検討する方法にもっともよく示されていることになる。

功利主義的な見解にしたがえば、これが人間の行為の目的であるならば、必然的に道徳の基準でもあるということになる。

それゆえ、道徳の基準は、遵守することによって、最大限可能なかぎり人類すべてに、さらに人類だけでなく事物の本性が許すかぎり感覚をもった生物すべてに、これまで述べてきたようなあり方を保証することができるようになるような、人間の行為の規則や準則と定義することができるだろう。

 しかし、このような理論に対しては別の種類の反対論者がおり、彼らが言うには、幸福はそもそも達成不可能なのだから、どのような形であっても人間の生や行為の合理的な目的となることはできない。

そして、彼らはさげすむような仕方で「そなたに幸福になる権利があるのか」と問いかける。

カーライル氏は、「ほんの少し前まで、そなたは今こうしている権利さえもっていたのか」と付け加えることによってこの問いかけに輪をかける。

さらに、反対論者は、人間は幸福がなくてもやっていけるし、高貴な人間はこのように感じており、[ドイツ語の]エントザーゲン(Entsagen)つまり自制という教訓を学んだからこそ高貴になれたのであると述べる。

そして、この教訓を完全に学んで受け入れることがあらゆる徳の始まりであり必要条件であると断言する。

 反対論のうち第一のものは、十分な論拠があるものならば、問題の本質をついているだろう。というのは、もし人間が幸福というものをまったくもてないとするならば、それを達成することは道徳や何らかの合理的な行為の目的とはなりえないからである。

とはいえ、その場合でも功利主義理論を擁護する余地はまだある。なぜなら、功利性には幸福を追求することだけではなく、不幸を避けたり軽減したりすることも含まれているからである。

幸福を追求することが空想的なものだとしても、人類が生きる方がよいと考え、彼らがノヴァーリスが勧めたようなある特定の状況下でも一斉自殺行為に逃避したりしないかぎりは、不幸を避けたり軽減することがいっそう広い範囲で絶対的に必要になる。

しかし、人生が幸福であることは不可能であると強く主張されると、この主張は言いがかりとはいわないまでも、少なくとも言いすぎである。

幸福が強い快楽による興奮状態が継続していることを意味しているならば、幸福であることが不可能なのは明らかである。高揚した快い状態はほんのわずかしか続かないか、ある場合には断続的に数時間か数日続くだけであるし、この状態は時折現れるきらめく閃光のような快楽であって、永遠不変の炎ではない。

幸福が人生の目的であると教えていた哲学者たちは、彼らをあざ笑っていた人々と同じように、このことをよく承知していた。

彼らのいう幸福は歓喜に満ちた人生ではなかった。それは、苦痛がわずかで一時的なものであり、快楽が多くさまざまにあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、全体的な原則として人生がもたらしうる以上のものを期待しないようなあり方であった。

幸運にもそのような人生を手にすることのできた人にとって、それはいつでも幸福の名に値するものであったように思われる。

このようなあり方は今や数多く存在し、彼らの人生のうちのかなりの部分をしめている。ほとんどすべての人にとって、現在のひどい教育やひどい社会制度こそがこのようなあり方に到達するのを妨げている真の障害である。

 反対論者は、幸福を人生の目的と考えるように教えられたとしても、人間がそのような控えめな幸福を分ちあうことに満足するか疑問に思うかもしれない。

しかし、人類の大多数はより控えめなものに満足してきた。満ち足りた人生を構成するのは主に二つのことであり、いずれもそれだけで満ち足りた人生という目的にとっては十分である。

つまり、平穏と興奮である。平穏に恵まれていれば大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。

人類の大部分にとってこの二つを結びつけることは本質的に不可能であるということはありえない。というのは、この二つは両立しないどころか自然に結びついているものであり、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激されるからである。

平穏が続いた後に興奮を望まないのは怠惰が高じて悪習となっている人だけであり、興奮の後にくる平穏をそれに先立った興奮に直接的に比例して得られていた快楽と違って退屈で味気のないもののように感じるのは、病的に興奮を求めるようになってしまっている人だけである。

それなりに幸運な境遇に恵まれている人が人生を価値あるものにするほど十分な快楽を見出していないとすれば、それは一般には彼らが自分のことしか気にしていないからである。

公私にわたって愛情を欠いている人にとって、人生の興奮はきわめて抑制され、どのような場合でも、死によってあらゆる利己的な関心が終止符を打たれることになる時が近づくにつれて興奮することの価値は減っていく。

一方で、死後に個人的愛情を注ぐ対象となるものを残すような人、とりわけ人類全体に対する関心をもちながら同胞の感情も陶冶してきた人は、死の間際でも、若さと健康にあふれて活力あったときと同じように、人生に対して生き生きとした関心を抱き続けている。

利己心に次いで、人生を満足のいかないものにする重要な要因は、精神的涵養が不足していることである。

涵養された精神は――私は哲学者の精神のことを言っているのではなく、知識の泉が開かれていて、ある程度まではその能力を行使することを学んでいるようなあらゆる精神について言っている――自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出す。

たしかに、これらのすべてに無関心になること、しかもそのうちの千分の一も知ることなく無関心になることもありうるだろう。しかし、そのようなことは、人が最初からこれらの事物に対してまったく道徳的あるいは人間的関心をもっておらず、好奇心を満たすためだけにしかそれらを求めていなかったときだけである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.272-275,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:幸福,苦痛と快楽,平穏と興奮,自分の死後も存続する対象への愛情,人類全体への愛情,精神的涵養)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月25日木曜日

11.人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

人間以外の動物たちへの配慮

【人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

(2.3)追記

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
  人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
    (i.1)快と苦が生み出す諸感情
     (i.1.1)自然な満足感、嫌悪感
     《観点》ある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.2)自己是認、自己非難
     《観点》自分のある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.3)好意と反感
     《観点》他者のある行為が、自分たちの幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
    (i.2)民衆的強制力は、同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
     (i.2.1)行為者Aの行為a
     (i.2.2)行為者B:行為者Aの行為aに対する、好意と反感。
     (i.2.3)行為者Aは、行為者Bの好意に快を感じ、反感に苦痛を感じることができる度合いに応じて、行為者Bの幸福(快)を生み出し、不幸(苦)を減らす方向に促す。

   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「ベンサムによれば、人間の快苦に配慮することと同じように人間以外の動物の快苦に配慮することも道徳的義務である。

ヒューウェル博士はベンサムから引用し、誰もがそれを逆説的な不合理の極みと見なすだろうというきわめて素朴な考えを示しているが、私たちはその賞賛に値するベンサムの文章を引用せざるをえない。

 『ヒンドゥー教やイスラム教においては、人間以外の動物の利益もある程度配慮されているようである。

なぜ動物たちの利益は、感受性の違いを考慮に入れた上で、人間の利益と同じくらいの配慮を普遍的には受けてこなかったのだろうか。

既存の法律は人間相互の恐怖心の産物であり、理性能力で劣る動物は、人間のように恐怖心という感情を活用する手段を持ち合わせていなかったからである。

なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対してはいかなる理由も見いだすことはできない。

人間以外の動物が、暴君の手による以外には彼らから奪うことのできなかった権利を獲得する日がいつかくるだろう。いつの日か、足の本数、皮膚の毛深さ、あるいは仙骨の先端[尻尾の有無]が、感覚をもっている存在を虐待者の気まぐれに任せる根拠としては不十分であると認められることだろう。

何かほかに越えがたい一線を引くようなものがあるだろうか。

それは理性能力なのか、あるいはひょっとすると会話能力なのか。しかし、成長した馬や犬は、生後1日や生後1週間、さらには生後1ヵ月の乳児よりも比べものにならないほど理性的で意思疎通のできる動物である。

しかし、仮にその正反対のことが事実であったとしても、その事実が何の役に立つのだろうか。

問題は理性を働かせることができるかでも、話すことができるかでもなく、苦痛を感じることができるかということなのである。』

 約50年後に成立した動物虐待を禁止する法律ではじめて現れたより優れた道徳を1780年の時点でみごとに予期していたこの文章は、ヒューウェル博士の目には、幸福に基づく道徳論が不合理であることを決定的に証明するものとして映っているのである。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ヒューウェルの道徳哲学』,集録本:『功利主義論集』,pp.217-219,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:人間以外の動物たちへの配慮)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月24日水曜日

10.ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサムの道徳的強制力

【ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.4.1)追記。

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    (i.1)快と苦が生み出す諸感情
     (i.1.1)自然な満足感、嫌悪感
     《観点》ある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.2)自己是認、自己非難
     《観点》自分のある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.3)好意と反感
     《観点》他者のある行為が、自分たちの幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
    (i.2)民衆的強制力は、同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
     (i.2.1)行為者Aの行為a
     (i.2.2)行為者B:行為者Aの行為aに対する、好意と反感。
     (i.2.3)行為者Aは、行為者Bの好意に快を感じ、反感に苦痛を感じることができる度合いに応じて、行為者Bの幸福(快)を生み出し、不幸(苦)を減らす方向に促す。

   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。

 「道徳的観念を前提としている同胞による是認は道徳の基礎にはなりえないというヒューウェル博士の見解は、ベンサムにも功利性の原理にも当てはまらない。

ただし、こうした是認が前提にしている道徳的観念は功利性の観念や有害性の観念にほかならないということは的を射ているかもしれない。

人類は幸福あるいは不幸を生み出す行為の傾向性を認識する程度に応じて、前者を好み推奨したり後者を忌避し非難したりすると想定することは、仮説を過度に拡大解釈しているわけではない。

行為に向けられたこれらの自然な満足感と自然な不安感や嫌悪感が、どのようにして《道徳》感情と呼ばれているものに見られる特殊な性質を帯びるようになったのかは、倫理学の問題ではなく形而上学の問題であり、それにふさわしい場所で論じられるべき問題である。

ベンサムはこの問題には関心を持たなかった。彼はそれを他の思想家の手に委ねた。ベンサムにとっては、行為が人間の幸福に与える知覚可能な影響が、理由としても事実としても、ある行為を好んだり別の行為を嫌ったりする強い感情の十分な原因であるということで十分だった。

行為者の想像力や自己意識のなかでこれらの感情が共鳴反応することから、自己是認や自己非難のようなより複雑な感情が自然に生じてくる。

あるいは、争点となっている問題すべてを避けるために、そのような私たち自身への満足感と不満感が生じてくるとだけ述べておこう。それ以外のすべてのことが否定されるとしても、この点だけは認められるに違いない。

最大幸福が道徳の原理であってもそうでなくても、現に人々は自分自身の幸福を望んでおり、したがって自分たちの幸福を増進してくれる他者の行為を好み、自分たちの幸福を明らかに脅かすような行為を嫌悪する。ベンサムが置いたのはこのことだけである。

これが認められれば、次はベンサムの言う民衆的強制力と、それに対する行為者の精神の側での反応についてであり、これら二つの作用は、人類が啓発されている度合いに応じて、各人の行為を全体の幸福を増進するような方向に沿わせていく傾向にある。

ベンサムは、これ以外には真の道徳はないし、いわゆる道徳感情はその起源や構成要素がどのようなものであったとしても、このような方向のみに作用するように訓練されるべきだと考えていた。

よって、ヒューウェル博士はこの理論のなかに非論理的あるいは非整合的な箇所を見出そうとしたが、彼がこの理論を未だ理解していないことを明らかにしただけである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ヒューウェルの道徳哲学』,集録本:『功利主義論集』,pp.215-217,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳的強制力,自己是認,自己非難,好意,反感)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月21日日曜日

9.行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為の道徳的評価、審美的評価、共感的評価

【行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.1)追記。

(3)ミルの考え
 (3.1)人間の行為は、3つの側面から評価される。行為の道徳的側面は最も重要であるが、他の側面と混同したり、他の側面を無視することは誤っている。
  (3.1.1)行為の道徳的側面
  《観点》ある行為の予見可能な帰結が、私たちにとって望ましいかどうかの「理性」による判断。
  《引き起こされる感情》是認したり、否認したりする。
  《行為に付与される属性》行為の正・不正。
  (3.1.2)行為の審美的側面
  《観点》ある行為が、望ましい動機や性格の徴候を示しているという「想像力」による判断。
  《引き起こされる感情》賞賛したり、侮蔑したする。
  《行為に付与される属性》行為の美しさ・醜さ。
  (3.1.3)行為の共感的側面
  《観点》ある行為が、共感できる動機や性格の徴候を示しているという「同胞感情」による判断。
  《引き起こされる感情》愛したり、憐れんだり、嫌悪したりする。
  《行為に付与される属性》行為の愛らしさ・行為への憎しみ。
  (3.1.4)ベンサムによる異論は次のとおりであるが、誤りである。
   (i)ある行為によって、賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情が引き起こされたとしても、その行為がその人の望ましい動機や性格、あるいは悪い動機や性格の徴候であると推測することはできない。
   (ii)従って、利益や危害をもたらさない行為によって、その人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは、不正義であり偏見である。
   (iii)「良い趣味」や「悪い趣味」という言いかたで趣味について賞賛したり非難したりすることは、一個人による無礼な独断論である。人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではない。

 (3.2)何が望ましいのかに関する理性による判断:道徳は2つの部分から構成されている。
  有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素となっている。
   (i)人間の外面的な行為の規制に関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の世俗的利益に対してどのような影響を及ぼすか。
    参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (ii)自己教育:人間が自分で自分の感情や意志を鍛練することに関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の感情や欲求に対してどのような影響を及ぼすか。
    参照:(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機。
   (i)自己涵養への願望のようなもの。
   (ii)自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情。
   (再掲)
    (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
    (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
    (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
    (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
    (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
    (b.11)運動や活動、行為への愛

 「彼は見過ごすことのできない別の誤りも犯している。

というのは、これほど、彼を人類に共通する感情に反対する立場に追いやりがちで、ベンサム主義者に対して一般に抱かれている考えを特徴づけている非情で機械的で不愛想な雰囲気を彼の哲学に与えがちなものはないからである。

この誤謬、というより一面性は、功利主義者としての彼に属しているものではなく、専門的道徳論者としての彼に属しているものであり、宗教的であっても哲学的であっても、ほとんど道徳論者を公称しているすべての人々に共通しているものである。

それは、行為や性格を《道徳的》観点から観察することはそれらを観察する第一のもっとも重要な仕方であることは間違いないけれども、あたかもそれが《唯一の》仕方であるかのようにみなすという誤りである。

ところが、それは3つの仕方の1つにすぎず、人間に対する私たちの感情はそれら3つのすべてによって大いに影響されるだろうし、影響されるに違いないし、私たちの本性が抑えこまれないかぎりは影響されざるを得ないのである。

人間のあらゆる行為は3つの側面をもっている。《道徳的》側面、すなわち行為の《正・不正》に関わる側面と、《審美的》側面、すなわち行為の《美しさ》に関わる側面と、《共感的》側面、すなわち行為の《愛らしさ》に関わる側面である。

第一のものは私たちの理性や良心に関わり、第二のものは私たちの想像力に関わり、第三のものは私たちの同胞感情に関わる。

私たちは第一のものに照らして是認したり否認したりし、第二のものに照らして賞賛したり侮蔑したりし、第三のものに照らして愛したり憐れんだり嫌悪したりする。

行為の《道徳性》はその予見可能な帰結に左右され、行為の美しさや愛らしさ、またはその逆は、行為がその徴候を示している性質に左右される。

こうして、嘘をつくことが《不正》なのは、その結果が人を惑わすということだからであり、人間同士の信頼を損なう傾向があるからである。それが《卑劣》でもあるのは、それが臆病だからであり――というのは、それは真実を話すことによる結果に向き合おうとしないことから起きているからである――あるいは、せいぜいよくても、活力や知性に欠陥のないあらゆる人が当然もっていると思われるような正攻法によって目的を達成する《力》が欠けていることの証拠だからである。

自分の息子たちを罰したブルトゥスの行為は、罪を犯したことが明白な人に対して祖国の自由にとって不可欠な法律を執行したのだから、《正しいもの》であった。それは類まれな愛国心、勇気および自制心の強さを示しており、《賞賛すべきもの》であった。しかし、そこには何ら《愛すべきもの》はなかった。それは愛すべき資質があったと推定しうる根拠を示しておらず、そのような資質が欠けていたと推定しうる根拠を示している。

もし息子たちの一人が兄弟に対する愛情から陰謀に加担していたとしたら、《彼の》行為は道徳的でも賞賛すべきものでもなかったかもしれないが、愛すべきものではあっただろう。

行為を観察するためのこれら3つの仕方を混同することは、どのような詭弁を弄してもできないことである。しかし、それらのうちひとつだけに固執して残りのものを見失うことはきわめてありうることである。

感情論は3つのうち後の2つを最初のものよりも上位に置くものであり、一般の道徳論者やベンサムの誤りは、後の2つを完全に無視することである。このことはベンサムにとりわけ顕著である。

彼は、あたかも道徳的基準がもっとも重要でなければならないだけでなく(それはそうであるが)、唯一のものでなければならないかのように、そして利益や危害をもたらさない行為や抱かれた感情に比例するだけの利益や危害をもたらされない行為によって人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは不正義であり偏見であるかのように書いたり考えたりしていた。

彼はこのことに関しては実に徹底していたために、このような根拠のない好き嫌いと彼が考えていたものを表現しているものであるとして、自分がいるところでそれについて話されるのを耳にすることが我慢ならないいくつかの成句があった。

それらのなかには、《良い趣味》や《悪い趣味》という成句があった。彼は、趣味について賞賛したり非難したりすることは一個人による無礼な独断論であると考えていた。

それ自体は善くも悪くもないものに対する人々の好き嫌いは、人々の性格のあらゆる点に関してもっとも重要な推測を含んでいるわけではないし、人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではないかのように考えていた。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.154-156,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:行為の道徳的評価,行為の審美的評価,行為の共感的評価)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月20日土曜日

8.理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

究極的目的と二次的目的

【理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b)追記。


(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (b)道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (b.1)道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (b.2)道徳問題は議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.3)道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (i)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (ii)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (iii)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (iv)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓
 行為が生み出す帰結:行為の価値

  (b.4)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「可能な範囲でベンサムの哲学の概要を述べてきたが、他の何にもまして彼の名前と同一視されている彼の哲学の第一原理、すなわち「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」についてほとんど述べてこなかったことに読者は驚かれたかもしれない。

もし紙幅があれば、あるいはベンサムについて正しい評価を下すために本当に必要ならば、この主題について論じられるべきことが多くある。

道徳の形而上学について論じるのにより適当な機会に、あるいはこのような抽象的な主題についての見解を分かりやすくするのに必要な説明をうまくおこなうことができるような機会に、この主題について私たちが考えていることを述べることにしよう。

ここで私たちが述べておきたいのは、その原理についてはベンサムとほとんど同意見であるが、彼がその原理に対して与えた重要性の度合についてはそうではないということだけである。

功利性、あるいは幸福はあまりにも複雑で漠然としすぎており、さまざまな二次的目的を媒介にすることなしには追求することができない目的であると私たちは考えている。

そして、これらの二次的目的に関しては、究極的基準については意見を異にしている人々の間でも合意することがありうるし、しばしば合意している。

また、これらの目的については、思想家の間に、道徳形而上学の重要な問題についてまったく相容れない見解の相違がみられることから想定されるよりもはるかに多くの意見の一致が実際に広く見られる。

人類は自分たちの本性について一つの見解をもつことよりも、一つの本性をもっているということの方がはるかにありうるから、中間原理、すなわち真の媒介原理(vera illa et media axiomata)とベーコンが呼んだものについて、第一原理についてよりも容易に一致するようになる。

そして、中間的目的と照らし合わせることよりもむしろ、究極的目的に照らし合わせることによって行為の意味を明らかにしたり、人間の幸福に直接照らし合わせることによって行為の価値を評価したりする試みは、一般的には、本当に重要な結果ではなく、もっとも簡単に指摘できたり個別に特定できたりする結果をもっとも重視することに終わる。

功利性を基準として採用している人々は、二次原理を媒介としないかぎりは、それを正しく適用することはめったにできないし、それを拒否している人々は、一般的には二次原理を第一原理へ昇格させているだけである。

 したがって、私たちは功利主義に関する議論を実践上の問題というよりも配列と論理的従属についての問題であり、倫理に関する哲学としての体系的統一性と一貫性のために、主として純粋に科学的見地から重要なものと考えている。

この主題についての私たち自身の見解がどのようなものであっても、私たちが倫理理論においてなされるに違いないと信じている重大な進歩を期待するのはこのようなものからではない。

しかし、ベンサムが成し遂げたあらゆることは功利性の原理に負っていること、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理を見つけだすことが必要であったこと、彼にとって体系的統一性が自身の知性に対して確信をもつために不可欠な条件であったことなどは確かなことである。

さらに指摘しておくことがある。すなわち、幸福が道徳の目指すべき目的であってもなくても――道徳が何らかの《目的》を目指していること、道徳が漠然とした感情や説明不能な内的な確信のうちに放置されないこと、道徳が単なる感情の問題ではなく理性と計算の問題であることなどは、道徳哲学の観念そのものにとって本質的な要素であり、現実に道徳問題に関する議論や討議を可能にしているものなのである。

行為の道徳性はそれが生み出す傾向にある帰結によって左右されるという事は、あらゆる学派の理性的な人々によって認められている理論である。

そして、こうした帰結の善悪はもっぱら快楽と苦痛によって判定されるということは、功利性を支持する学派によって全面的に認められている理論であり、これはこの学派に特有のものである。

 ベンサムが功利性の原理を採用したことによって行為の道徳性を確定するために考慮するべきこととしてその《帰結》に注意を向けたという点に関するかぎり、少なくとも彼は正しい道を進んでいた。

とはいえ、迷うことなくこの道を進んでいくためには、性格形成や行為が行為者自身の精神構造に与える影響についてベンサムがもっていたよりもいっそう深い知識が必要であった。

彼にこのような種類の影響を評価する能力が欠如していたことは、この主題に関する人類の経験が具現化されている伝統的な考えや感情に当然払うべき(盲従とはまったく違う)適度な敬意が足りなかったこととあいまって、彼を実践倫理上の問題に関してまったく信頼のおけない案内役にしてしまっているように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.152-154,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳,目的,究極的目的,二次的目的,中間原理,媒介原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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