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2021年12月27日月曜日

仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の理論

仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.2.1)司法的自制の政治的懐疑主義の理論
 (a)司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利を有することを前提としている。
 (b)何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。
 (c)ところが、個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  

(5.3.2.2)司法的自制の司法的敬譲理論
 (a)実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有する。
 (b)しかし道徳的諸権利の性格と強さには議論の余地が ある。
 (c)従って、裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う。


「もしニクスンが法理論をもつとすれば、それは決定的に何らかの司法的自制の理論に依拠 すると思われるかもしれない。しかしながら、ここで我々は、二つの形態の司法的自制の間の 区別に注意しなければならない。というのは、司法的自制の政策には二つの相異なる、そして 実際上両立しがたい根拠が存在するからである。  第一は、政治的「懐疑主義」の理論であって、それは次のように記述することができよう。 司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利――たとえば、公教育の平等性や警察による公正な取り扱いに対 する道徳的権利――を有することを前提としている。何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。懐疑主義的理論は、積極主義をその根元において攻撃する。それ は、実際上個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない、と論ずる。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  自制の綱領のいま一つの根拠は、司法的「敬譲」の理論である。懐疑主義的理論と違ってこ の理論は、実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有することを前提とする。しかしそれは、これらの権利の性格と強さには議論の余地が あることを指摘し、かつ裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う、と論ずる。  これは一つの重要な区別である。たとえ憲法の文献が何ら明確にそのような区別をしていな いとしても、そうである。懐疑主義的理論と敬譲の理論は、それらが前提する正当化の種類 において、また、それらを奉ずると公言する人々が抱くより一般的な道徳理論に対してそれら の理論が有する含蓄において、劇的に異なる。これらの理論は非常に異なっており、したがっ て大多数のアメリカの政治家達が一貫して受け容れることができるのは、第一の懐疑主義的理 論ではなく、第二の敬譲の理論である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.179-180,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法積極主義と司法的自制

議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.1)司法積極主義 (judicial activism)の綱領
 裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ、 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。
(5.3.2)司法的自制(judicial restraint)の綱領
 たとえ他の統治部門の諸決定が、広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ。ただし、決定があまりにも 政治道徳に反しており、どのような解釈に基づいても憲法条項に違背するような場合は別である。

「更に、ひとたび問題がこの観点から語られるならば、我々は、「厳格解釈」の通念から生 じる混乱に陥ることなく、これらの競合する政策的主張を評価することができる。これらの目 的のために、私はいまや難解な、あるいは議論の余地ある憲法上の争点を裁判所はいかに決定 すべきかという問題に関する二つの非常に一般的な哲学を比較対照したいと思う。私はこれら 二つの哲学を、法学上の文献においてそれらに与えられている名前――「司法積極主義」 (judicial activism)と「司法的自制」(judicial restraint)の綱領――で呼ぶつも りである。もっとも、これらの名前が幾つかの点で誤解を招きやすいものであることは、やが て明らかになるであろうが。  司法積極主義の綱領は、私が言及した類いの競合する諸理由の存在にもかかわらず、裁判所 は、いわゆる漠然とした憲法条項の指示を、私が記述した精神において受け容れるべきだ、と 主張する。裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。(これは、司法積極主義の綱領をその最も強 い形態において表現するものである。実際にはこの綱領の支持者達は一般的に、若干の点にお いてその綱領を弱めているが、さしあたり私はこれらの点を無視しようと思う。)  これに反して司法的自制の綱領は、たとえ他の統治部門の諸決定が広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ、と主張する。ただし、これらの決定があまりにも 政治道徳に反しており、したがっていかなるもっともらしい解釈に基づいても当該条項に違背 するといわざるをえない場合、あるいは、ことによると反対の趣旨の判決が明瞭な先例によっ て要求されている場合は別である。(これもまた、司法的自制の綱領を純然たる形態において 表現したものである。この政策を信奉する者は、種々の点においてそれを緩和している。)」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.178-178,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


2021年12月26日日曜日

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、法律家によって異なり、個別の制度的倫理の判断に影響を及ぼす。難解な問題において、社会的に認められている判断を採用することは妥当な正当化ではなく、法律家は自ら判断すべきである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法律家の判断

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、法律家によって異なり、個別の制度的倫理の判断に影響を及ぼす。難解な問題において、社会的に認められている判断を採用することは妥当な正当化ではなく、法律家は自ら判断すべきである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


自らが属する社会の制度的倫理を、どのように明らかにするのか。
(i)まず、当該社会の大多数の成員が抱いている判断に従う方法がある。すなわち社会的に存在しているルールである。
 (a)批判:存在するかどうかが事実問題だとしても、それをどうやって知るのか。
 (b)批判:それが知られたとしても、なぜ、それが採用されなくてはならないのか。
(ii)次に、自己自身の判断に従う方法がある。
 (a)批判:仮説的に、個人の能力を超えるような法的、社会的、倫理的な洞察力を有する法学者なら、判断可能かもしれないが、現実的な裁判官の判断に関する理論としては、不適切ではないのか。


「我々が次のようにいうと仮定してみよう。ハーキュリーズは彼の属する社会の制度的倫理を明らかにするに際し、自己自身の判断に従うべきではなく、制度的倫理が何であるかに関し て当該社会の大多数の成員が抱いている判断に従わなければならない、と。この忠告に対して は二つの明白な反論が考えられる。第一に、ハーキュリーズは、何が大多数の成員の支持を受 けた判断であるかをどのようにして認識することができるのか、この点が明らかでない。通常 人が堕胎を承認せず、あるいは堕胎を犯罪とする立法を支持しているからといって、彼らが自 己の政治的立場を反省し、合衆国憲法により前提され、首尾一貫して適用されてきた尊厳の概 念により自己の立場が支持されるか否かを十分に考察してきたとは必ずしも言えないだろう。 それはある種の弁証法的な技術を要する非常に複雑な問題であり、この技術は、通常人が自己 の立場を自覚的に防禦する際には明らかに認められるものの、自覚的な反省なしに投票におい て示される彼の政治的選択がこの種の吟味を経てきたものであると、当然にみなされてよいこ とにはならない。  しかし、人間の尊厳は堕胎の権利を要請しないと通常人が判断したことにハーキュリーズが 納得したとしても、ハーキュリーズがなぜその争点に関し通常人の意見を決定的なものとして 受け容れなければならないか、という疑問が残る。ハーキュリーズが通常人は誤っていると考 えた場合、すなわち社会の概念が要請する内容に関して通常人の哲学的見解が誤っている、と 彼が考えた場合を想定してみよう。もしハーバートがその立場にあったとすれば、彼が通常人 の判断に従うことには十分な理由があるだろ。ハーバートは次のように考える。すなわち実定 法上の法準則が漠然としていたり、不確定な場合には、訴訟当事者はそもそも制度的権利を有 することはなく、それ故自分が到達した判決は一個の新たな立法である、と考えるだろう。彼 がどのような判決を下しても、当事者が現実に権利として有するものを彼が自らの手で奪うよ うなことはなく、したがって彼が立法行為をするときは自己を多数派の代理人とみなすべきで あるという論証は、少なくとも一応適切な論証と思われる。しかしながらハーキュリーズとし ては、この問題に関してかかる見解をとることはできない。彼は、自分が決定しなければなら ない問題が当事者の制度的権利に関する問題であることを了解している。彼が通常人の見解に ならって判決を下しても、もしこれが誤った判決である場合には、彼は当事者から彼らが権利 として有するものを奪うことになる、ということを了解している。ハーキュリーズもハーバー トも、通常の容易な法的問題を一般公衆の意見に付託するようなことはしないであろう。しか し、ハーキュリーズは、容易な事案においてのみならず難解な事案においても当事者は権利を 有していると考え、それ故、難解な事案の場合にも一般公衆の意見に付託することはしないで あろう。  もちろん、難解な事案における当事者の権利に関して裁判官の下す判決が、正しくない場合 があるだろう。そこで、最後のあがきとばかりに、この事実を盾にとり反論が試みられるかも しれない。この反論は、ハーキュリーズの用いるテクニックが、仮説上偉大な倫理的洞察力を 有するハーキュリーズ自身にとっては適切なものであることを「議論上は」認めながらも、同 じテクニックがそのような洞察力を有していない裁判官に対しても一般的に適切であることを 否定するであろう。しかしながら、我々としてはこのチャレンジを評価する際に、他に採りう る道を注意深く考慮に入れなければならない。裁判官が法的権利について過誤を犯した場合、 その過誤が原告に有利に作用したか被告に有利に作用したかを問わず、それ自体、これは不正 義の問題となる。上記の反論は、裁判官も誤りを免れず、いずれにせよしばしば意見を異にす るが故に、彼らが過誤を犯すことを指摘するのであるが、言うまでもなく我々も社会的批評家 として、過誤が犯されうることは承知している。ただ我々は、いつ過誤が犯されたかを知るこ とができない。我々もハーキュリーズではないからである。それ故我々としては、異なった役 割を担いうる人々それぞれがもつ相対的な能力を判断し、このような判断に基づいて、全体的 に過誤の数の減少が期待されるような、判決のテクニックを採り入れなければならないのであ る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,6 政治的反論,木鐸 社(2003),pp.163-164,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


社会倫理とは、法や社会の諸制度を前提とする政治的倫理を意味する。諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。このため、ある種の問題につき、社会一般の倫理との衝突が起こることを認めねば ならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会倫理

社会倫理とは、法や社会の諸制度を前提とする政治的倫理を意味する。諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。このため、ある種の問題につき、社会一般の倫理との衝突が起こることを認めねば ならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「もちろん、ハーキュリーズの技術は、しばしばある種の問題につき、社会一般の倫理に反する判決を要求することもあるだろう。たとえば過去の憲法判例の正当化のどれをとっても、 堕胎支持の判決を要求する程度に十分強力な自由主義原理が常に含まれており、判決の正当化 でこの原理を含まないようなものが全く存在しない場合を考えてみよう。このハーキュリーズ は、社会一般の倫理感がどれほど強く堕胎を非難していようと、堕胎支持の判決を下さなけれ ばならない。この場合、彼は社会の倫理的信念を排除して、彼自身の信念を強要しているわけ ではない。彼はむしろ社会の倫理が当該争点につき矛盾していると判断するのである。つま り裁判官により解釈された憲法規定の正当化として提示されるべき憲法倫理自体が、堕胎とい う一定の争点につき社会が抱くある特定の判断を拒否しているのである。この種の衝突は、個 人道徳の内部ではよく起こることである。そこで、もし我々が政治理論において社会倫理とい う概念を使用しようとするならば、この社会倫理内部にも同様の衝突が起こることを認めねば ならない。もちろん、この種の衝突がいかに解決されるべきかについては疑いの余地がない。 諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。 この制度的権利は、社会の憲法倫理により明確に示されており、それ故、ある見解がどれほど 広く受け容れられていようと、これが憲法倫理と一致しないかぎり、ハーキュリーズはこの見 解に対抗し、上記の制度的権利を擁護しなければならない。  これら仮説的に示された諸事例から明らかなごとく、ハーバートに対し意図された反論は、 ハーキュリーズへの反論としては的はずれなものとなる。ハーキュリーズの裁判理論のどの部 分をとっても、彼自身の政治的信念と、彼が社会全体の政治的信念と考えるものとの間の選択 が問題にされることはない。むしろ逆に、彼の理論は社会倫理についての含まれた一定の観念を法的問 題にとって決定的に重要なものとして、特定化するのである。すなわちこの観念によれば、社 会倫理とは、法や社会の諸制度が前提とする政治的倫理を意味する。もちろん彼は、この倫理 的原理の内実を把握するためには彼自身の判断に依拠しなければならない。しかし、この種の 依拠は、既に区別された第二のタイプの不可避的な依拠であり、彼は何らかの段階で不可避的 に自己の判断に依拠せざるを得ないのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,6 政治的反論,木鐸 社(2003),pp.158-159,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



憲法、制定法、あらゆる先例を整合 的に正当化し得る原理の体系に含まれる過誤の理論は、制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴える論証、あるいは法律家自らの論証による。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

過誤の理論

憲法、制定法、あらゆる先例を整合 的に正当化し得る原理の体系に含まれる過誤の理論は、制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴える論証、あるいは法律家自らの論証による。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.4.3.3)過誤とすることの正当性
 しかし、自らの理論と両立不可能な制度史のいかなる部分をも、自由に過誤 と解してよいわけではない。
(a)当該理論が、いかなる過誤をも認めない理論よりも、強い正当化であることを示すこと。
(b)当該理論が、他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、強い正当化であることを示すこと。
(c) 制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚
 制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、かつての決定を生み出す可能性のないことを示す。
(d)自らの論証による
 政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることとは関係なく、それ自体不正であることを示す。


「以上のことはかなり明快である。しかしハーキュリーズは過誤の理論の第二の論点につい てはもっと苦労しなければならない。彼は先例の一般的慣行に彼が結びつけた正当化によっ て、制定法及びコモン・ロー上の判決全体のために、原理体系の形をとった一層詳細な正当化 を組み立てるように要請される。しかし正当化されるべきものの一部を過誤とか名づけるような 正当化は、一見したところでは、そのようなことを行わない正当化よりも弱いものと思われ る。したがって彼の過誤の理論の第二部では、それにもかかわらず、いかなる過誤をも認め ず、あるいは他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、当の正当化の方が強い正当化である ことが示されねばならない。この証明は理論構成に関する単純な規則を単に演繹することでは ありえない。しかしハーキュリーズが、先例と公正との間に以前確立された関係を念頭に置く ならば、この関係は彼の過誤の理論に対し二つの指針を示唆するであろう。第一に、公正は、単なる歴史としての制度史ではなく、未来へと存続するものとして政府が提示した政治的プロ グラムとしての制度史に関わる。つまりそれは先例のもつ未来向きの意味を捉えているので あって、過去向きの意味を捉えているのではない。もし制定法であれ判決であれ、以前に下さ れた何らかの決定が、今や法曹その他関連分野の広範囲の人々により遺憾の念をもってみられ ていることをハーキュリーズが発見するならば、まさにこの事実によって当該決定は欠陥のあ るものとして他から識別されるのである。第二に彼は、首尾一貫性を要求するような公正の論 証のみが、一般的には公権力、そして特殊的には裁判官が応えねばならない唯一可能な構成の 論証ではない、ということを思いださなければならない。もし彼が首尾一貫性の論証とは全く 別に、特定の制定法あるいは判決が社会自体の公正観念からみて不正なるが故にこれを間違っ たものと信ずるならば、この信念の故に当の決定は、欠陥のあるものとして十分識別されうる のである。もちろん彼は、正当化全体の垂直的構造を顧慮しながら上記の指針を適用しなけれ ばならず、それ故低いレヴェルの決定は高いレヴェルの決定に比べ、より欠陥ありとされやす いことになる。
 したがってハーキュリーズは過誤の理論の第二部において、少なくとも二つの格率を適用す ることになるだろう。もし彼が、制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、立法府や裁判所がある法的決定を採用する際にかつては十分な説得力をも ちえた特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、そのような決定を生み出す可能性 のないことを示すことができるならば、当の原理を支持する公正の論証は根拠を失うことにな る。もし彼が政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることと は関係なく、それ自体不正であることを示しうるならば、当の原理を支持する公正の論証は覆 されたことになる。ハーキュリーズはこれらの区別が他の裁判官の実務においても広く認めら れていることを見出し、満足するであろう。彼の職務の法理論上の重要性は、難解な事案に関 して彼が今や創造した理論の新奇さに存するのではなく、それがまさに広く受け容れられてい る点に存するのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモ ン・ロー,木鐸社(2003),pp.153-154,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]





ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2020年5月30日土曜日

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、過誤の理論を含む。それは、ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、原理の体系の首尾一貫性から、その牽引力を否定する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

過誤の理論

【憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、過誤の理論を含む。それは、ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、原理の体系の首尾一貫性から、その牽引力を否定する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.4.3)追加。

 (3.4)憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系
  憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
  (3.4.1)垂直的な配列関係
   (a)憲法、最高裁判所やその他の裁判所の判決、種々の立法府の制定法といった配列関係である。
   (b)憲法理論は、政治哲学や道徳哲学に関する判断を含む。
   (c)憲法理論は、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断を要求する。
   (d)憲法理論は、裁判官によって不可避的に異なったものになる。
   (e)垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。
  (3.4.2)水平的な配列関係
   単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が、同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。

  (3.4.3)過誤の理論
   (3.4.3.1)以後の論証への影響
    (a)ある制度的出来事に認められる特定の権威と、その牽引力との区別
     (i)ある制度的出来事に認められる特定の権威
      制度的出来事が、特定の制度上の帰結を結果として惹き起こす力である。
     (ii)牽引力
      今後の論証において働く、原理としての力である。
    (b)過誤とは何か
     ある制度的出来事に認められる特定の権威は認めるが、牽引力は否定されること。
     (i)この牽引性を認めることは、自らの理論における首尾一貫性と矛盾することになる。
     (ii)填め込まれた過誤
      牽引力を失っているが、特定の権威が固定され生き残っている過誤である。
     (iii)訂正しうる過誤
      それに認められた特定の権威が、牽引力消失の後では存続しえないような仕方で牽引力に依存しているような過誤である。
   (3.4.3.2)しかし、自らの理論と両立不可能な制度史のいかなる部分をも、自由に過誤と解してよいわけではない。
    続く。

 「ハーキュリーズは自己の理論を拡張して、制度史の正当化はその歴史のある部分を過誤として指摘することがある、という考えをその中に取り入れなければならない。しかし彼はこの手段を無原則に利用することはできない。なぜならば、もし彼が自分の一般理論に何ら変更を加えることなしに両立不可能な制度史のいかなる部分をも自由に過誤と解して構わないのであれば、首尾一貫性の要請はそもそも真の要請とは言えなくなるからである。そこで、彼は制度上の過誤に関して何らかの理論を発展させなければならず、しかもこの過誤の理論は二つの部分を持たねばならない。第一にこの理論は、何らかの制度的出来事が過誤とされることから、その後の論証にとってどのような帰結が生じるかを示さねばならず、第二に、このようにして処理されうる出来事の数と性格を限定しなければならない。
 ハーキュリーズはこの過誤の理論の第一の部分を、二組の区別によって構成するであろう。彼はまず、ある制度的出来事に認められる特定の権威と、その牽引力とを区別するであろう。前者は、制度的出来事が制度的行為として有する力、すなわち、当の出来事により記述された特定の制度上の帰結を結果として惹き起こす力を意味する。さて、彼が何らかの出来事を過誤として分類する場合、彼はその出来事に認められる特定の権威を否定しているのではなく、その牽引力を否定しているのである。したがって彼は首尾一貫性に違背することなく他の論証においてこの牽引力に訴えることはできない。彼はまた制度の中に填め込まれた過誤と訂正しうる過誤とを区別するであろう。填め込まれた過誤とは、その過誤に認められる特定の権威が固定され、その結果それが牽引力を失った後でも生き残るような過誤である。これに対し訂正しうる過誤とは、それに認められた特定の権威が、牽引力消失の後では存続しえないような仕方で牽引力に依存しているような過誤である。
 彼の憲法的レヴェルでの理論において、どの過誤が填め込まれた過誤かが決定されるであろう。たとえば立法府の優位に関する彼の理論は、過誤として扱われる制定法がその牽引力は失っても特定の権威は失わないことを保証するだろう。たとえ彼が航空機事故責任制限法の牽引力を否定するとしても、その制定法はそれ故に廃止されるわけでない。この過誤は填め込まれた過誤であり、したがってそれに認められた特定の権威は生き残る。彼はこの制定法が賠償責任に対して課する制限を尊重し続けなければならないが、他の事案において、賠償請求権が弱い権利であることを主張するためにこの制定法を用いたりはしないであろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.151-152,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:過誤の理論,法の牽引力)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2020年5月7日木曜日

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

憲法理論

【憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.4)追加。

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
  裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (a)権利は、制定法により創出される。
  (b)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (a)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (b)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (a)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (b)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (c)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (d)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (e)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
    難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
   (i)裁判官たちは、以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。
   (ii)裁判官たちは、新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、次のような比喩で表現する。「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「裁判官は、法それ自体が純粋に作用するための機関である」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」。
  (f)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

立法趣旨  コモン・ロー……政治的権利
 │    の原理      │
 ↓      ↓      │
制定法   判例法上の    │
 │    実定的法準則   │
 ↓      ↓      ↓
個別の権利 個別の判決………法的権利

 (3.4)憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系
  憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。
  (3.4.1)垂直的な配列関係
   (a)憲法、最高裁判所やその他の裁判所の判決、種々の立法府の制定法といった配列関係である。
   (b)憲法理論は、政治哲学や道徳哲学に関する判断を含む。
   (c)憲法理論は、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断を要求する。
   (d)憲法理論は、裁判官によって不可避的に異なったものになる。
   (e)垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。
  (3.4.2)水平的な配列関係
   単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が、同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。

 「いまやなぜ私が、我々の裁判官をハーキュリーズと呼んだかがおわかりであろう。彼はあらゆるコモン・ロー上の先例に対して、そして原理により正当化されうるかぎりで憲法更には制定法上の規定に対しても整合的な正当化を提供する抽象的かつ具体的な原理の体系を構成しなければならない。我々はハーキュリーズが正当化しなければならない判例の膨大な資料の中で、垂直的な配列関係と水平的な配列関係を区別することによって、この企ての大きさを把握することができる。垂直的な配列関係は権限の上下関係、すなわち公的な決定が下級レヴェルでなされた決定に対し規制力を有すると考えられるような上下関係を区別することによって与えられる。アメリカ合衆国においては垂直的な配列関係の大雑把な性格を明白に把握することができる。憲法的構成が最も高いレヴェルを占め、次にはその構造を解釈する最高裁判所やおそらくその他の裁判所の判決、次には種々の立法府の制定法、そしてこの下にコモン・ローを発展させる様々な裁判所の判決がそれぞれ異なったレヴェルを占めることになる。ハーキュリーズはこれらのレヴェルの各々の段階で原理による正当化を組み立てねばならず、しかもこの場合、この正当化は、より高いレヴェルの正当化を与えると解される諸原理と矛盾しないものでなければならない。これに対し、水平的な配列関係は、単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。
 さて、ハーキュリーズが彼の卓越した技量を利用して、予めこの完全な原理の体系を構築することを意図し、もしある特定の判決を正当化するために必要とあれば、この法理論をもって訴訟当事者に立ち向かおうとしたと想定してみよう。彼は垂直的な配列関係に従って、先ず、それまでに彼が用いてきた憲法理論を提示し、それを更に詳述することから始めるであろう。その憲法理論は他の裁判官が展開する理論とは多かれ少なかれ異なっているかもしれない。というのも、憲法理論は政治哲学や道徳哲学に関する判断と同時に、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断をも要求し、したがってハーキュリーズの判断は不可避的に他の裁判官が行う判断とは異なったものになるからである。垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.145-146,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:憲法理論,憲法,先例,制定法,政治哲学,道徳哲学,争点,法理論)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2020年4月27日月曜日

司法過程における原理による論証は、先例を正当化し得る一般的な原理の組合せを抽出し、難解な事例に適用する公正の原理を基礎とする。原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合しなければならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法過程における原理による論証

【司法過程における原理による論証は、先例を正当化し得る一般的な原理の組合せを抽出し、難解な事例に適用する公正の原理を基礎とする。原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合しなければならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(5.4)追加。

(5)原理の問題
  裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 (5.1)政策の論証に優先する
  原理により論証される利益は、より効率的な利益配分を追求する政策の論証を無意味にする。すなわち原理により論証される権利は、政治的多数派の利益よりも優先する。
 (5.2)裁判官の地位について
  多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 (5.3)原理により論証される権利は、新たな法の創造ではない
  原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。
 (5.4)原理による論証
  (a)権利のテーゼ
   コモン・ローの基礎をなし、コモン・ローに埋め込まれている一定の原理という概念は、それ自体権利のテーゼの比喩的な表現である。
  (b)公正の原理
   (i)先例に関する実務を、一般的に正当化する根拠が、公正の原理である。
   (ii)先例を最もよく正当化する一般的な原理の組合せを抽出する。
   (iii)この一般的な原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合する必要がある。
   (iv)この一般的正当化が、特定の難解な事案における判断を導く。

 「判決は政策の論証ではなく原理の論証によって正当化されると考えるべきことが社会において明白に認められていなくても、これが一般的には了解されていることを、ハーキュリーズは前提としなければならない。ハーキュリーズは今や先例からの理由づけを説明するために裁判官が使用する周知の概念、すなわちコモン・ローの基礎をなし、あるいはコモン・ローに埋め込まれている一定の原理という概念が、それ自体権利のテーゼの比喩的な表現にすぎないことに気づくであろう。彼はこれからはコモン・ロー上の難解な事案の判決においてこの概念を用いることができる。この概念は、ゲームの性格に関するチェス審判員の概念及び立法趣旨に関する彼自身の概念と同様、この種の事案を判決するために必要な一般的判断基準を彼に与えてくれる。この概念は一つの問題――どのような原理の組み合わせが先例を最もよく正当化するかという問題――を提示し、この問題は、先例に関する実務を一般的に正当化する根拠――すなわち公正――とこの一般的正当化が特定の難解な事案において何を要求するかに関する彼自身の判断とを架橋することになる。
 いまやハーキュリーズは、関連する先例の各々にその先例の判決内容を正当化する原理の体系をあてがうことによって、コモン・ローの基礎をなす諸原理に関する彼の概念を発展させなければならない。彼は次に、この概念と彼が制定法の解釈で用いた立法趣旨の概念との間にみられる更に重要な差異に気づくであろう。ハーキュリーズは、制定法の場合には、問題になっている特定の制定法の立法趣旨に関して何らかの理論を選択する必要があり、その場合、当該制定法にほぼ同様によく適合する複数の理論の間での選別を容易にするかぎりにおいてのみ、立法府の他の法令にも目を向ける必要があると考えた。しかし先例の牽引力が、公正は権利の一貫した強制を要請するという考えに基づくとすれば、ハーキュリーズはある訴訟当事者が彼に注意を喚起するような特定の先例だけではなく、彼の一般的法域に属する他のあらゆる判決にも一致し、更には制定法――ただし、制定法が政策ではなく原理によって生じたと考えられるべきかぎりにおいて――とも適合する諸原理を発見しなければならない。ハーキュリーズが既に確立されたものとして援用する原理自体が、彼の裁判所が同様に支持しようとする他の判決と矛盾しているのであれば、自己の判決が既に確立された原理に一致し、それ故公正であることを示すべき彼の義務は、果たされていないことになる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.144-145,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:司法過程,原理による論証,先例,公正の原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2019年8月31日土曜日

難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法全体に内在する拘束力

【難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.3.5)追記。

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
  裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (3.1.1)権利は、制定法により創出される。
  (3.1.2)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (3.2.1)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (3.2.2)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (3.3.1)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (3.3.2)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (3.3.3)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (3.3.4)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (3.3.5)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
   (a)裁判官たちは、以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。
   (b)裁判官たちは、新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、次のような比喩で表現する。「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「裁判官は、法それ自体が純粋に作用するための機関である」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」。
  (3.3.6)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

 立法趣旨  コモン・ローの原理……政治的権利
  ↓      ↓          │
 制定法   判例法上の        │
  │    実定的法準則       │
  ↓      ↓          ↓
 個別の権利 個別の判決………………法的権利


 「裁判官達は、以前の判決が解釈以外の何らかの仕方で、論争の対象となる新たな法準則の定式化に寄与することを認める点では同意しているように思われる。彼らは以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。これに対し、ある問題に関してどのような投票を行うべきかを決定する際、立法者はきわめてしばしば背景的倫理や政策上の諸問題にしか関心を払わない。立法者は、その投票が議会の同僚議員のそれと、あるいは過去の議会のそれと矛盾しないことを示す必要はない。しかし裁判官が、このような独立的な性格をもつことは非常に稀である。裁判官は、自己の法創造的判決に対して自ら与える正当化を他の裁判官や公務担当者が過去において下した判決と関連づけようと努めるのが常である。
 事実、有能な裁判官は、彼らの職務を一般的な方法で説明しようとする場合、彼らが新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、そして彼らが立法者であれば適切ではないような拘束を表現するために、何らかの比喩的表現を探そうとする。たとえば彼らは、法全体に内在する新たな法準則を見出したと述べてみたり、政治よりは哲学に属するような方法を通じて、法の内在的論理に拘束力をもたせるとか、裁判官は法それ自体が純粋に作用するための機関であるとか、あるいはたとえ法の生命は論理よりは経験に属するものであっても、法にはそれ固有のある種の生命が認められるなどと述べたりする。ハーキュリーズは、これら周知の比喩や擬人的表現に満足してはならないが、同時にこれらの表現に含まれた最良の法律家へと訴えかける含蓄ある内容を無視するようないかなる司法過程の記述にも満足してはならない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.139-140,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法全体に内在する拘束力,法に固有の生命)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2019年8月25日日曜日

裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的権利と法的権利

【裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3)追加。

(1)法準則と先例
 (1.1)法準則
  法準則は、権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。
 (1.2)先例
  裁判官は、特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し、将来の事案に対する先例として確立する。
(2)法準則と先例を支持する諸原理
  そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。そして、これらの諸原理は、法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。
 (2.1)当該特定の法準則を肯定的に支持する諸原理
  これらの諸原理は、当該法準則の変更を支持するかもしれない他の諸原理よりも、重要であることを意味している。
 (2.2)既に確立された法理論からの離反に対抗する、幾つかの重要な諸原理
  (2.2.1)立法権の優位の理論
   裁判所は、立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると主張する諸原理
  (2.2.2)先例の理論
   判決の一貫性が、衡平に適い、実効性のあることを主張する諸原理

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (a)権利は、制定法により創出される。
  (b)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (a)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (b)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (a)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (b)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (c)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (d)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (e)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
  (f)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

 立法趣旨  コモン・ローの原理……政治的権利
  ↓      ↓          │
 制定法   判例法上の        │
  │    実定的法準則       │
  ↓      ↓          ↓
 個別の権利 個別の判決………………法的権利

(4)諸原理
 (4.1)諸原理は、ハートが言うように「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示できるような、承認のルールを持っているわけではない。また、重要性の等級づけについても、単純な定式化が存在するわけではない。
 (4.2)諸原理は、相互に支えあって連結しており、これら諸原理の内在的意味により、当該原理を擁護しなければならない。
   原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
  (4.2.1)原理の制度的な支え
   (a)当該原理を具体的に表現していると思われる制定法
   (b)当該原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案
   (c)当該原理を引用している制定法の序文
   (d)当該原理を引用している委員会報告、その他の立法関係書類など
  (4.2.2)推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準の総体
   (a)制度的責任
   (b)法令解釈の一定の技術
   (c)各種判例の特定の理論と、その説得力
   (d)これらの慣行を支えている、何らかの一般的諸原理
   (e)これらすべての問題と、現在の道徳的慣行との関連性
  (4.2.3)一般市民が適正と感じ、公正と思うような、何らかの役割を演じている道徳的慣行



 「難解な事例における法的論証は、その意味内容に関し複数の解釈が可能な諸概念をめぐって展開されるが、この概念の性質及び機能はゲームの性格を示す概念にきわめて類似している。これらの概念には契約や財産といった法的陳述の構成要素となる幾つかの実体的概念が含まれるが、これには更に我々の当面の論証にとってはるかに関連性をもつ二つの概念が含まれている。第一の概念は、ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」という概念であり、この概念の機能は、権利は制定法により創出されるという一般的見解の政治的正当化と、特定の制定法により如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案とを架橋する点にある。第二の概念は、判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理という概念であり、この概念の機能は同様の事例は同様に判決されるべしとする法理の政治的正当化と、この一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案とを架橋する点にある。これら二つの概念が結合されることにより、法的権利は政治的権利のある種の函数――きわめて特殊な函数ではあるが――として定義されることになる。ある裁判官が法体系において既に確立された慣行を受容すれば――たとえば法体系の明確な構成的及び規制的法準則が彼に認めている自律性を彼が受容すれば――彼は、政治的責任の原則の要請に従い、この種の慣行を正当化する一定の一般的政治理論を受容しなければならない。立法趣旨及びコモン・ロー上の諸原理という概念は、法的権利につき争いのある争点に対し、このような一般的政治理論を適用するための装置なのである。
 さて、ここである哲人裁判官を想定し、然るべき事案において、立法趣旨及びコモン・ローの原理が具体的に何を要請するかにつき彼がいかなる諸理論を展開するかを検討してみるのがよいだろう。このとき、我々は哲人審判員がゲームの性格を理論構成するのと同じやり方で、彼がこれらの理論を展開することに気づくだろう。この目的のために私は超人的な技能、学識、忍耐、洞察力をもつ法律家を想定し、彼をハーキュリーズと呼ぶことにする。更にこのハーキュリーズはアメリカの代表的なある法域(jurisdiction)に属する裁判官であり、彼の法域で明白に効力を有する主要な構成的及び規制的法準則を受容しているとしよう。すなわち彼は、制定法が法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有することを認め、当該裁判所や上位裁判所の先例――法律家が先例の判決理由を呼ぶものが当該事案を拘束するのであるが――に裁判官が従う義務が一般的に存在することを認めているとしよう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,A 立法,木鐸社(2003),pp.130-131,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:立法趣旨,コモン・ローの原理,政治的権利,法的権利)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2019年4月4日木曜日

政策の問題は、諸個人の利益や選好の比較衡量、調整を伴う政治的判断であり、民主的に選挙された代表者が行なう。司法判断は、新たな法の創造ではなく原理の問題であり、論証された権利は、多数派の利益に優越する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政策の問題、原理の問題

【政策の問題は、諸個人の利益や選好の比較衡量、調整を伴う政治的判断であり、民主的に選挙された代表者が行なう。司法判断は、新たな法の創造ではなく原理の問題であり、論証された権利は、多数派の利益に優越する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(4)、(5)追記。

 法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準
  法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準には、法準則の他に、法準則とは異なった仕方で作用する正義や公正などの諸原理と、経済的、政治的、社会的目標と結びついた政策などの諸規準がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1)法準則
(2)法準則とは異なった仕方で作用する諸規準(広義の「原理」)
 (2.1)(狭義の)原理
  正義や公正その他の道徳的要因が、これを要請するが故に遵守さるべき規準。
 (2.2)政策
  一定の到達目標の促進を提示する規準。
  (a)目標:好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況。
  (b)消極的目標:現在存在するある特徴が、逆方向への変化から保護されるべきことを規定する目標。
 (2.3)その他のタイプの規準
(3)原理と政策を区別する理由
 広義の「原理」、広義の「政策」により理論を構成することもできるが、原理と政策を狭義に限定して使用することが、ある特定の問題の解明にとって有益である。
 (3.1)諸原理が統一的に実現されている経済的、政治的、社会的状況を実現されるべき「目標」として理論を構成すれば、目標を提示しているという意味で広義の「政策」である。
 (3.2)特定の原理を、政策として記述することができる。例えば、本質的には正義の諸原理を、「最大多数の最大幸福を保障する」というような目標として記述することができる。
 (3.3)逆に、政策に含まれている目標も、それが実現されるべきものと考えられているという意味では「価値のあるもの」であり、経済的、政治的、社会的状況として記述されてはいるが、広義の「原理」である。
(4)立法府は、政策の論証を追求し、立法措置を採択する権限を有する。
 政策の問題:社会全体の福祉を追求しつつ、個人の目標や目的を調整する問題。
 (4.1)この調整は、個々人の利益や選好を相互に比較衡量することにより客観的になされるが、この種の比較衡量が、原理の問題として理論的に実行可能かどうかは大いに疑問である。
 (4.2)むしろ、考慮さるべき様々な利害関係を正確に表現することを目的とする何らかの政治過程の作用を通じてなされねばならない。
 (4.3)社会の統治は、大多数の人々により選挙され彼らに対し責任を負う代表者によって遂行されるべきである。裁判官は多くの場合、選挙によらず任命され、立法者のように選挙人に対し事実上責任を負わない。
 (4.4)ある裁判官が新たな法を創造し当面の事案にこれを遡及的に適用すれば、敗訴者は、彼が既に負っていた義務に違背したからではなく、訴訟の後に創られた新たな義務に違背したが故に処罰されることになる。これは、不正である。
(5) 裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 原理の問題:原理の論証は、論証で述べられた権利を主張する者に認められる一定の利益に着目する。
 (5.1)原理により論証される利益は、より効率的な利益配分を追求する政策の論証を無意味にする。すなわち原理により論証される権利は、政治的多数派の利益よりも優先する。
 (5.2)多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 (5.3)原理により論証される権利は、新たな法の創造ではない。
  原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。

 「司法は立法に服するべきである、という人口に膾炙した考え方は、司法の法創造性を否定する二つの反論により与えられている。第一の反論は、社会の統治は大多数の人々により選挙され彼らに対し責任を負う代表者によって遂行されるべきことを主張する。裁判官は多くの場合、選挙によらず任命され、立法者のように選挙人に対し事実上責任を負わないが故に、裁判官が法を創造することは上記の主張に違背することになる。更に第二の反論は次のように主張する。すなわち、ある裁判官が新たな法を創造し当面の事案にこれを遡及的に適用すれば、敗訴者は、彼が既に負っていた義務に違背したからではなく、訴訟の後に創られた新たな義務に違背したが故に処罰されることになる、と。
 これら二つの反論は相俟って、司法は可能なかぎり法創造的機能をもつべきでない、という伝統的な理念を支持することになる。しかし、これらは確かに政策から生ずる判決に対しては有力な反論と言えても、原理から生ずる判決に対してはそれほどの効力を持ち得ない。第一の反論、すなわち法は選挙により選出され選挙人に対し責任を負う公的な代表者により創られるべきであるとする反論は、法を政策の問題、つまり社会全体の福祉を追求しつつ個人の目標や目的を調整する問題として捉えるかぎり、全く異論の余地のないものと思われる。この調整は、個々人の利益や選好を相互に比較衡量することにより客観的になされうるであろうが、この種の比較衡量が理論上でさえ意味をもちうるかどうかは、甚だ疑問である。しかしいずれにしても、この点に関し正確な計算などは現実に不可能である。したがって政策的な決定は、考慮さるべき様々な利害関係を正確に表現することを目的とする何らかの政治過程の作用を通じてなされねばならない。代表民主制の政治体制は様々な利害関係に対しただ中立的に作用するが、選挙によらず選出され、郵便袋やロビイストや圧力団体を有していない裁判官が、裁判官室で相競合する様々な利害を調整することを認める体制よりは、この種の代表民主制の方がより良い結果を生むであろう。
 第二の反論が説得力をもつのも、政策から生じた決定に対してである。訴訟の後に創出される何らかの義務の名のもとに無実の人間の権利が犠牲にされることを、われわれは不正と考えている。」(中略)「裁判所が原理につき判断を下すかぎり、第一の反論はそれほど当を得たものとはいえなくなる。とういのも、原理の論証は、相互に異なる様々な要求や関心がいかなる性格を有し、どの程度の強さで社会全体に分散しているかに関する想定には依拠しないことが多いからである。逆に原理の論証は、論証で述べられた権利を主張する者に認められる一定の利益に着目する。そしてこの利益は、政策の論証によりこの利益を否定して、より効率的な利益配分を追求すること自体を無意味にするようなものとして捉えられている。それ故、政治的多数派の利益よりも権利が優位する場合、このような多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 司法が法創造的機能を有することに対する第二の反論は、原理の論証に対しいかなる効力をももちえない。原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,2 権利のテーゼ,B 原理と民主制,木鐸社(2003),pp.101-103,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:政策の問題,原理の問題)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年11月22日木曜日

裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

原理の論証と政策の論証

【裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(4)、(5)追加記載。

 法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準
(1)法準則
(2)法準則とは異なった仕方で作用する諸規準(広義の「原理」)
 (2.1)原理
  正義や公正その他の道徳的要因が、これを要請するが故に遵守さるべき規準。
 (2.2)政策
  一定の到達目標の促進を提示する規準。
  (a)目標:好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況。
  (b)消極的目標:現在存在するある特徴が、逆方向への変化から保護されるべきことを規定する目標。
 (2.3)その他のタイプの規準
(3)広義の「原理」、広義の「政策」により理論を構成することもできるが、原理と政策を狭義に限定して使用することが、ある特定の問題の解明にとって有益である。
 (3.1)諸原理が統一的に実現されている経済的、政治的、社会的状況を実現されるべき「目標」として理論を構成すれば、目標を提示しているという意味で広義の「政策」である。
 (3.2)特定の原理を、政策として記述することができる。例えば、本質的には正義の諸原理を、「最大多数の最大幸福を保障する」というような目標として記述することができる。
 (3.3)逆に、政策に含まれている目標も、それが実現されるべきものと考えられているという意味では「価値のあるもの」であり、経済的、政治的、社会的状況として記述されてはいるが、広義の「原理」である。
(4)立法府は、政策の論証を追求し、立法措置を採択する権限を有する。
(5)裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。

 「政策の論証は、政治的決定を、これが社会全体のある種の集団的目標を促進し保護することを立証することにより、正当化する。飛行機製造会社への補助金助成措置が、補助金により国防が促進されることを理由に正当化される場合、これは、政策の論証である。これに対し原理の論証は、ある政治的決定が個人や集団の権利を尊重し保証することを示すことにより、当の決定を正当化しようとする。たとえば、人種差別禁止の法律を正当化するために、少数派にも平等の尊重及び配慮を受ける権利が存在すると主張することは、原理の論証である。政治的論証は、これら二種類の論証に尽きるわけではない。たとえば、盲人に所得税の特別控除を認める決定のごとく、政治的決定は政策や原理を根拠とするよりはむしろ公的な寛大さや徳の行為として擁護されることもある。しかし、原理と政策が政治的正当化の主要な根拠であることは確かである。
 複雑な立法措置は、これら二種類の論証による正当化を必要とするのが通例である。」(中略)
 「立法府が政策の論証を追求し、この種の論証から生まれた立法措置を採択する権限を有することは、明らかである。もし裁判所が代理立法府であれば、裁判所も同様の権限をもつと考えなければならない。これに対し、判決が法創造的な機能をもたず、明らかに有効な法令の明確な文言を単に適用するだけの場合は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。」(中略)
 「しかし、当該事例が難解な事案であり、既成の法準則からはいかなる判決を下すべきかが不明確な場合には、適切な判決は政策から生じることも、原理から生じることもありうるであろう。」(中略)
 「しかし、それにもかかわらず、私はスパータン・スティール事件のような難解な事案においてすら、民事事件の判決は政策ではなく原理によりなされることを特徴とし、また現にそうあるべきことを主張したい。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,2 権利のテーゼ,A 原理と政策,木鐸社(2003),pp.99-100,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理の論証,政策の論証)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年11月19日月曜日

互いに抵触しあう諸原理が並立し得るのに対して、例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法準則と原理

【互いに抵触しあう諸原理が並立し得るのに対して、例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(2.2)追記

 参照: 見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1)原理には、重みとか重要性といった特性がみられ、それを有意味に問題にし得る。
 (1.1)複数の原理が抵触しあうとき、相対的な重みを考慮に入れる必要がある。
 (1.2)ただし重みには、精確な測定などあり得ず、特定の原理や政策が他より重要であるという判断は、しばしば議論の余地あるものとなる。
(2)これに対して、二つの法準則が抵触することはあり得ない。
 (2.1)見掛け上抵触する場合にも、法体系にはこの種の抵触を規律する別種のルールが存在する。
  (a)高次の権威が制定した法準則の優先
  (b)後に確立された法準則の優先
  (c)あるいは、より特殊な法準則の優先
  (d)その他の類いの法準則の優先
  (e)法体系によっては、より重要な原理に支持された法準則を優先
 (2.2)例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。法準則が、ある例外的事案と抵触しあっているように見えるとき、例外的準則を含まない法準則は、不完全なのである。

 「私の主張は、ある法準則の「完全な」陳述には当該準則に対する例外的準則も含まれるということ、そしてこのような例外的準則を無視した法準則の陳述は「不完全」である、ということであった。もし私がラズの反論に予め気づいていれば、このようなかたちで私の見解を提示することはなかっただろう。すなわち私は、例外的法準則は本来の法準則を修正したかたちで提示されることも、また自己防衛に関する法準則のように別個の法準則として提示されることもありうると、明言していただろう。しかしたとえそうだとしても、同時に私は両者の相違が主として記述の問題にすぎないことをも明言したはずである。したがって法準則と原理の区別は損なわれることなく維持されることになる。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,5 法準則は本当に原理とは別のものか,木鐸社(2003),pp.90-91,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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