2018年6月7日木曜日

表象も表象に依存しているものも、機械的な理由によっては説明できない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

心身問題、風車小屋の喩え

【表象も表象に依存しているものも、機械的な理由によっては説明できない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 「それはそうと、言っておかなければならないのは、表象も表象に依存しているものも機械的な理由によっては説明できない、すなわち形と運動からは説明できない、ということである。いま仮に、考えたり感じたり表象をもったりできる仕組みをもった機械があるとしよう。その機械が同じ釣合いを保ちながら大きくなり、風車小屋にはいるようにそこにはいれるようになった、と考えてみよう。そこでそう仮定して、その中にはいってみたとき、見えるものといってはいろんな部分がお互いに動かし合っていることだけで、表象を説明するに足りるものは決して見出せないだろう。そこで、表象を求むべきところは単純実体の中であって、複合的なものや機械の中ではない。さらに、単純実体の中に見出すことができるのは、それのみすなわち表象とその変化のみである。また、それのみが単純実体の内的作用のすべてなのである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『モナドロジー』一七、ライプニッツ著作集9、pp.210-211、[西谷裕作・1989])
(索引:心身問題、風車小屋の喩え)

ライプニッツ著作集 (9)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)
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自由のいろいろな意味:(a)精神の不完全性からの自由、(b)必然に対立する精神の自由、(c)権利上の自由、(d)事実上の自由、(e)身体の自由(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

自由の意味

【自由のいろいろな意味:(a)精神の不完全性からの自由、(b)必然に対立する精神の自由、(c)権利上の自由、(d)事実上の自由、(e)身体の自由(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a) 精神の不完全性からの自由(情念への隷属からの自由)
(a.1) 強烈な情念に囚われているときには、必要とされる熟考をもって意志することができない。すなわち、情念に隷属しており、ある種の内的な強要と強制がある。
(a.2) 情念を超えて、知性による熟考と意志を働かせることができるとき、その程度に応じて情念から自由である。
(b) 必然に対立する精神の自由(自由意志)
(b.1) 知性が提示する、確実で間違いない最も強い諸理由に対してさえも、意志が偶然的であるのを妨げない。すなわち、知性は絶対的で言わば形而上学的な必然性を意志の働きに与えるわけではない。
(b.2) 知性は「確実で間違いのない仕方であっても、強いずに傾ける」。そして、意志が選択する。
 他にも、次のような自由の概念がある。
(c) 権利上の自由
 政治制度において、為すことが許されているという意味での自由。
(d) 事実上の自由
 権利上の自由の有無とは別に、意志する事柄を実際に為す力能があるという意味での自由。一般的に言えば、より多くの手段をもつ者が、意志する事柄をより自由に為す。
(e) 身体の自由
 身体が拘束されていたり、病気になったりしておらず、意志どおりに動かすことができるという意味での自由。
 「自由という名辞は甚だ曖昧です。権利上の自由もあれば事実上の自由もあります。権利上の見地からすれば、奴隷は自由ではないし、臣下が全面的に自由であるわけではないけれども、貧しき者も富める者と同程度に自由ではあるのです。事実上の自由は、意志する[欲する]事柄を為す力能ないし然るべく意志する[欲する]力能に存します。あなたが語っているのは為す自由で、それには程度と多様性があります。一般的に言えば、より多くの手段をもつ者が、意志する[欲する]事柄をより自由に為すのです。しかし自由は個別的には、私たちの思うままにできるのが常であるような諸事物の使用、特に私たちの身体の使用について理解されています。ですから、牢獄や病気は、私たちが意志して通常与えうる運動を身体や四肢に与えるのを妨げ、私たちの自由を奪い取るのです。そういうわけで、囚人は自由でないし、麻痺患者は自分の四肢を自由に使用できないのです。意志する自由はさらに二つの異なった意味に解されています。ひとつは、精神の不完全性ないし隷属に対立させる場合の自由。この不完全性ないし隷属は強要とか強制ではあるけれども、情念に由来するものがそうであるように内的なものです。もうひとつの意味は、自由を必然に対立させる場合に生じます。第一の意味では、ストア派の人々は賢者のみが自由だと言っていました。それに実際、強烈な情念にとらわれているときには、人は自由な精神をもっていません。そういうときは、然るべく意志すること、つまり必要とされる熟考をもって意志することができないからです。かくて、神のみが完全に自由であり、被造的精神は情念を超えている程度に応じて自由であるにすぎません。したがって、この自由はまさしく私たちの知性に関わっているのです。しかし、必然に対立する精神の自由は、知性と区別される限りでの裸の意志に関わっています。これが自由意志と呼ばれ、次のことに存します。すなわち、知性が意志に提示する最も強い諸理由ないし刻印でさえ意志の働きが偶然的であるのを妨げず、絶対的でいわば形而上学的な必然性を意志の働きに与えるわけではないと認めることです。確実で間違いのない仕方であっても、強いずに傾けるという仕方で、表象と理由が優位を占めるに応じて、知性は意志を決定しうる、と私が日頃から言っているのも、今述べたような意味においてです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第二一章[八]、ライプニッツ著作集4、pp.199-201、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:自由の意味)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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7.時代が要求し、尊重されるような力量や資質を知ること。そして、自分の性格を知ること。もし、これら条件どおりに自分を変えることが可能なら、運命に翻弄されることも少なくなろう。しかし、これは難しい。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

力量、性格、運命

【時代が要求し、尊重されるような力量や資質を知ること。そして、自分の性格を知ること。もし、これら条件どおりに自分を変えることが可能なら、運命に翻弄されることも少なくなろう。しかし、これは難しい。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
(a) 君が生きている時代が要求し、その時代において尊重される力量や資質を知ること。
(b) そして、自分の力量や資質、性格を理解すること。
(c) さて、もし君が自分の性格を、時代が要求する条件どおりに変えることができ、必要な力量と資質を得ることが可能なら、運命に支配されるということも、ずいぶん少なくなるであろう。
(d) ところが、これはとても難しい。恐らく不可能であろう。これが、運命の力が猛威をふるう理由である。もし君が、自分の自負する力量や資質が尊重されるような時代に、たまたま生を享けているのなら、それは君の幸運である。

 「たとえ君が、すべてのことがらを慎重と力量に帰して、できるだけ運命の力を排除しようと考えようとしても、君は少なくとも以下のことはみとめなければならない。

つまり君の自負する力量や資質が尊重されるような時代に、たまたま出くわして生を享けているという事実のおかげを大いにこうむっていることを知っておかなければなるまい。

この点については、ファビウス・マキシムスの実例を見るがよい。彼はその優柔不断の性格が幸いして大へんな名声を博した人物である。その彼は、気が早いと失敗し、反対にぐずぐず手間どっていると有利に事が運んでいくような戦いを指揮したからである。

これとは別の時期には、以上とは正反対の現象がおこりえたはずだ。だからファビウスが幸運であったのは、その時代が彼がそなえているような性格を必要としたからなのである。

もし人間が自分の性格を、時代が要求する条件どおりに変えることができるのなら、(これはとてもむずかしい、おそらく不可能ではあろうが)運命に支配されるということはずいぶん少なくなるであろう。」


(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、31 時代に合うこと、p.67、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:力量、性格、運命)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)




フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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何事が君に起ろうとも、それは永遠の昔から君に用意されていたことなのだ。そしてもろもろの原因の交錯は永遠の昔から君の存在とその出来事とを結び合わせていたのだ。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

私という存在

【何事が君に起ろうとも、それは永遠の昔から君に用意されていたことなのだ。そしてもろもろの原因の交錯は永遠の昔から君の存在とその出来事とを結び合わせていたのだ。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「何事が君に起ろうとも、それは永遠の昔から君に用意されていたことなのだ。そしてもろもろの原因の交錯は永遠の昔から君の存在とその出来事とを結び合わせていたのだ。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第一〇巻、五、p.189、[神谷美恵子・2007])
(索引:私という存在)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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人君としての災害は、人を信用することから起こる。なぜなら、臣下は愛情からではなく権勢に縛られてやむを得ず仕えており、いつでも隙を狙っている。仮に信用し、依存するなら、どうなるか。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

人を信ずるということ

【人君としての災害は、人を信用することから起こる。なぜなら、臣下は愛情からではなく権勢に縛られてやむを得ず仕えており、いつでも隙を狙っている。仮に信用し、依存するなら、どうなるか。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
 人君としての災害は、人を信用することから起こる。なぜか。
(a) 人を信用すると、その人に事を委任するようになって、このことで制約されることになる。
(b) また、臣下はその主君に対して、肉親の愛情を持っているわけではなく、権勢に縛られてやむを得ず仕えているのである。
(c) しかも、人の臣下というものは、その君の心を探ろうとしてしばらくも休まないでいる。
(d) 一方、君主の方は何もせずに怠けて、臣下の頭の上で威張っているとしたら、どうだろう。君主が脅かされるのは、当然ではないか。
 「人君としての災害は、人を信用することから起こる。人を信用すると〔事を委任するようになって〕その人物に制約されることになる。臣下はその主君に対して肉親の愛情を持っているわけではなく、権勢にしばられてやむをえず仕えているのである。だから、人の臣下というものは、その君の心をさぐろうとしてしばらくも休まないでいるものだが、君主の方は何もせずに怠けて臣下の頭の上で威張っている。それこそ、世間で君主を脅かしたり殺したりする事件が起こる理由である。」(後略)
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』備内 第十七、(第1冊)pp.312-313、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:人を信ずるということ)
(原文:17.備内韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)




(出典:twwiki
韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非(B.C.280頃-B.C.233)
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2018年6月6日水曜日

6.どんな相手に対しても、丁寧な仕草や耳触りのいい言葉など、社交上の儀礼には十分に注意せよ。誰でも自分自身をそれなりの人物だと思っているものなので、その誇りを傷つけ怒らせないこと。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

誇り

【どんな相手に対しても、丁寧な仕草や耳触りのいい言葉など、社交上の儀礼には十分に注意せよ。誰でも自分自身をそれなりの人物だと思っているものなので、その誇りを傷つけ怒らせないこと。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
(1) どんな相手に対しても、丁寧な仕草や耳触りのいい言葉など、社交上の儀礼には十分に注意せよ。
(2) もちろん本来ならば、ものごとの実体や真実を重んずるように心掛けねばならない。
(3) しかし現実には、誰でも、丁寧なしぐさや耳ざわりにいい言葉に惑わされてしまう。
(4) なぜ、このようなことが起こるのか。それは、すべての人々は自分は高く評価されるに足る存在だと考えているので、自分が当然受けるべきだと思い込んでいるような取り扱いを相手が気にも留めていないと感じると憤激するものなのである。


 「人間は社交上の儀礼よりは、ものごとの実体や真実を重んずるように心掛けねばならない。にもかかわらず人間が、だれかれの区別なく丁寧なしぐさや耳ざわりにいい言葉にまどわされてしまうのは、信じられないくらいである。このことは以下のことに由来する。すなわち、すべての人々は自分は高く評価されるに足る存在だと考えているので、自分が当然受けるべきだと思いこんでいるような取りあつかいを相手が気にもとめていないと感じると憤激するものなのである。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、26 外見で惑わされる、pp.63-64、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:誇り)

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フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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自己の軍備に基礎を置かない政体は、不確か不安定で、運命に翻弄されるだろう。特に強大な外国の軍備に頼ることは危険である。そこには謀略が組み込まれており、常に他者の命令に屈することとなる。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))

自らの軍備の必要性

【自己の軍備に基礎を置かない政体は、不確か不安定で、運命に翻弄されるだろう。特に強大な外国の軍備に頼ることは危険である。そこには謀略が組み込まれており、常に他者の命令に屈することとなる。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))】
(1) 自己の軍備を持たなければ、いかなる政体も安泰ではない。それどころか、逆境のさいに自信をもってこれを防衛する力量を持たない以上、すべては運命に委ねることになってしまう。「自己の戦力に基礎を置かない権力の名声ほど不確かで不安定なものはない」。
(2) では、どのような軍備が最善か。賢明な君主はつねに外国の軍備に頼ることを避けて自軍に頼ってきた。そして、他者の力で勝利するよりはむしろ自己の力で敗北することを望み、他者の軍備によって獲得した勝利などは真のものではないと判断していた。
(3) なぜか。それは、自国の防衛のために、強大な勢力を持つ外国の軍備を呼び入れた者には、ほとんどつねに害をもたらすからである。外国の軍備に頼ることは、傭兵軍よりもはるかに危険である。
(3.1) なぜならば、彼らが敗北すれば、自分も滅亡してしまう。
(3.2) 彼らが勝利すれば、自分は彼らの虜になってしまう。すなわち、「この軍備のなかには謀略が組み込まれている」ものであり、「いついかなるときにも他者の命令に屈している」ものだから。
 「援軍というのは、役に立たない別の軍備であって、それは強大な勢力が軍備によってあなたを援助に来て防衛するように呼び入れられたときのものである。たとえば、ごく最近では、教皇ユリウスがそれをしたごとくに。教皇は、フェッラーラ攻略のさいに、傭兵軍がはかばかしい成果をあげないのを見て取るや、援軍の方策へ転じて、スペイン王フェッランドと同盟を結び、その麾下と軍隊によって援助してくれるように要請した。この種の軍備は、それ自体としては、役に立ち秀れたものであるが、これを呼び入れた者には、ほとんどつねに害をもたらす。なぜならば、彼らが敗北すれば、自分も滅亡してしまうし、勝利すれば、自分は彼らの虜になってしまうから。」(中略)
 「したがって、勝てないことを望む者は、この種の軍備を役立ててみるがよい。なぜならばこれは傭兵軍よりもはるかに危険なものであるから。なぜならばこの軍備のなかには謀略が組み込まれているので、それらは一体化していて、いついかなるときにも他者の命令に屈しているから。」(中略)「要するに、傭兵軍において最も危険なのは無気力であり、援軍においてはそれが力量である。それゆえ賢明な君主はつねにこの軍備を避けて自軍に頼ってきた。そして他者の力で勝利するよりはむしろ自己の力で敗北することを望み、他者の軍備によって獲得した勝利などは真のものではないと判断していた。」(中略)
 「したがって、私の結論を述べるならば、自己の軍備を持たなければ、いかなる君主政体も安泰ではない。それどころか、逆境のさいに自信をもってこれを防衛する力量を持たない以上、すべては運命に委ねることになってしまう。そして賢明な人間の抱く見解にして金言はつねに同じであった。すなわち「自己の戦力に基礎を置かない権力の名声ほど不確かで不安定なものはない」。そして自軍とは、臣民か市民かあなたの養成者たちから構成され、それ以外のすべては傭兵軍か援軍である。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第13章 援軍、混成軍、および自軍について、pp.101,202-203,106-107、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))
(索引:)

君主論 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「私の意図は一貫して、耳を傾ける者には役立ちそうな事態を書き記すことであったから、事態をめぐる想像よりも、その実際の真実に則して書き進めてゆくほうが、より適切であろうと私には思われた。そして多数の人びとがいままでに見た例もなく真に存在すると知っていたわけでもない共和政体や君主政体のことを、想像して論じてきた。なぜならば、いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、みずからの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての面において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。そこで必要なのは、君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第15章 人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて、pp.115-116、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))

ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)
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現存するものを見た者は、なべて永遠の昔から存在したものを見たのであり、また永遠に存在するであろうものを見たのである。なぜならば万物は同じ起源を持ち、同じ外観を呈しているのである。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

現存するもの

【現存するものを見た者は、なべて永遠の昔から存在したものを見たのであり、また永遠に存在するであろうものを見たのである。なぜならば万物は同じ起源を持ち、同じ外観を呈しているのである。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「現存するものを見た者は、なべて永遠の昔から存在したものを見たのであり、また永遠に存在するであろうものを見たのである。なぜならば万物は同じ起源を持ち、同じ外観を呈しているのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第六巻、三七、p.107、[神谷美恵子・2007])
(索引:現存するもの)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

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2018年6月5日火曜日

行動の傾向性や慣習、情念は、必ずしも意識されない微小表象に由来し、それは意志決定においても「強いずに傾ける」。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

微小表象

【行動の傾向性や慣習、情念は、必ずしも意識されない微小表象に由来し、それは意志決定においても「強いずに傾ける」。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(a) 熟慮を経ないで、私が、一方の行動よりも他方へ傾くとき、それは必ずしも意識されているとは限らない微小表象の連鎖と協働の結果である。
(b) 私たちの熟慮において、多くの感応力を与える慣習や情念でさえ、必ずしも意識されているとは限らない微小な刻印の連鎖に由来している。
(c) 自由意志論における「ビュリダンのロバ」の非決定は、これら必ずしも感じとれない微小表象の刻印を忘れている結果である。しかし、これらの刻印は、「強いずに傾ける」のである。
 「あらゆる刻印が結果をもっていますが、すべての結果が常に目立つとはかぎりません。私が一方よりも他方を向くとき、それはしばしば微小な刻印の連鎖によるのです。そうした微小な刻印を、私は意識しているわけではありませんが、これらの刻印はひとつの運動を他の運動より少しだけ起りにくくするのです。熟慮を経ない私たちの行動はすべて、微小表象の協働の結果です。私たちの熟慮において多くの感応力を与える慣習や情念でさえ、それに由来しています。というのも、こうした習慣は少しずつ生まれるものですし、したがって微小表象なくして、私たちはそういう目立つ態勢に到ることはないからです。すでに指摘したように、そうした微小表象のもたらす結果を道徳において否定する者は、自然学において、感じとれない微粒子を否定するようなひどい教育を受けた人々の轍を踏むことになります。しかしながら、自由について語る人々のなかには、均衡を破りうるこれら感じとれない刻印に注意を払わず、道徳的行為におけるまったき非決定を思い描く人を見かけます。これではまるで、二つの牧草地の真中に置かれた「ビュリダンのロバ」の非決定と同じです。これについては後にもっと詳しく話し合いましょう。でもこれらの刻印が、強いずに傾けるものであることは認めておきます。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第二部・第一章[一五]、ライプニッツ著作集4、p.120、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:微小表象)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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