意志についての知覚
【意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚は、知覚ということからは精神の受動であるが、精神から見れば能動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】「知覚にも二種類ある。精神を原因とするものと、身体を原因とするものだ。精神を原因とする知覚は、意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚である。事実、わたしたちが何かを意志するとき、まさにそのことによって同時に、それを意志していることを知覚せざるをえないのは確かだ。そして、何かを意志するのは精神から見れば能動であるが、精神が意志していると知覚するのは精神における受動ともいえる。だが、この知覚とこの意志は実は同じ一つのものにほかならないから、命名はつねに優れたほうによってなされ、したがって通例、これを受動とはよばずに、ただ能動とよぶ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 一九、p.21、[谷川多佳子・2008])
(索引:意志の知覚)
(出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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