2018年10月20日土曜日

4.「すべきである」と「責務を負っている」は、共に社会的ルールの存在を前提とするが、ルールの重要さ、逸脱の重大さ、社会的圧力の強さの点で本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

「すべきである」と「責務を負っている」

【「すべきである」と「責務を負っている」は、共に社会的ルールの存在を前提とするが、ルールの重要さ、逸脱の重大さ、社会的圧力の強さの点で本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

「すべきである」と「責務を負っている」は、共に社会的ルールの存在を示している点では同じであるが、異なる社会的状況を表している。その違いは、何か。
(1)「すべきである」
 例:エチケットや正しい話し方のルール
(2)「責務を負っている」
 (2.1)ルールに従うことが重要なことであり、一般に強く求められている。
 (2.2)ルールから逸脱し、または逸脱しようとすることは重大なことであり、社会的圧力が大きい。
  (2.2.1)もとはまったく習慣的なものであったであろう。
  (2.2.2)恥、自責の念、罪の意識という感情の働きによって支えられている場合もあるだろう。
  (2.2.3)分散している敵対的、批判的な社会的反作用によって、支えられている場合もあるだろう。
  (2.2.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もあるだろう。
(3)社会的圧力の種類によって、「道徳的責務」や「法」の始原的形態を分類、区別したくなるかもしれない。しかし、同一の社会的ルールの背後には、異なるタイプの社会的圧力が並存することもあるだろう。より重要な分類は、「すべきである」と「責務を負っている」の区別なのである。


 「ある人が責務を負っているとか、責務の下にあると言う陳述は、なるほどルールの存在を意味している。

しかし、ルールがあるからといって、ルールの要求する行為の基準が責務の観点から考えられるとはかぎらないのである。

「彼はすべきであった」と「彼はする責務を負っていた」という表現は、現存の行為の基準を暗黙に引き合いに出している点では同じであり、そして、両方とも一般的ルールから個々の場合での結論を出すのに用いられているが、必ずしも交換可能なものではない。

エチケットや正しい話し方のルールは、たしかにルールではある。それらは、習慣が同じ方向に向かう場合や、行為が規則化される場合以上のものである。それらは教えられ、維持するための努力がなされるのである。それらは特徴ある規範的な言葉で、自己や他人の行動を批判するのに使われる。たとえば、「あなたは帽子を取るべきである」とは「you was と言うのは誤っている」とかがそうである。

しかし、この種のルールに関連して「責務」とか「義務」という言葉を使うなら、人を誤解させるであろうし、単に語法上おかしいだけではないだろう。それは社会的状況を誤ってのべていることになるであろう。

というのは、責務のルールを他のルールから区別する線はいろいろな点で曖昧であるが、区別の主な根拠はかなりはっきりしている。

 ルールに従うことが一般に強く求められており、そしてルールから逸脱しまたは逸脱しようとする人に対する社会的圧力が大きいとき、ルールが責務を課していると考えられ語られるのである。

そのようなルールは、もとはまったく習慣的なものであったであろうし、ルール違反に対して中央に組織された刑罰の体系がないかもしれない。また、社会的圧力は物理的制裁に至らないような一般に分散している敵対的または批判的な反作用という形しかとらないかもしれない。それは口先で非難したり、人々に対して破られたルールを尊重するように訴えるという言葉だけでの表明にかぎられる場合もあろう。それは主として、恥、自責の念、罪の意識という感情の働きによっている場合もあるだろう。

社会的圧力が今のべたようなものであるときには、われわれはそのルールを社会集団の道徳の部分として分類し、そのルールの下での責務を道徳的責務として分類したくなるだろう。

反対に、いろいろな圧力のうちで物理的制裁が顕著なものであり、かつ普通である場合には、たとえこの制裁が公機関によって詳細に定められておらず、執行もされず、一般に社会に委ねられていても、われわれはそのルールを法の始原的ないしは初期的形態として分類したくなるだろう。

もちろん、これら二つの重要な社会的圧力のタイプは、ともに明らかに同一の行為のルールの背後にあるかもしれない。

そして、このような場合、そのうちの一方を主要なものとして他方を副次的なものとしてうまく区別できない場合がときどき起こりうるだろう。この場合われわれは、道徳的ルールに、それとも初期的な法のルールに直面しているのかという問題には答えられないだろう。しかし、さしあたり、法と道徳との区別は可能かどうかに立ち入るには及ばない。

ルールの背後にある社会的圧力の重要さ、ないし《重大さ》への求めこそ責務を生み出すものとしてルールを考えるさいの決め手になること、これがここで重要なことである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.95-96,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:すべきである,責務を負っている)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月19日金曜日

抽象的な目のデザイン、または目の写真があるだけで、社会的規制の効果があることを示す実験の事例がある。監視の目と、善悪の関する噂話や評判が、社会的規制に大きな影響力を持っている。(ジョシュア・グリーン(19xx-))

監視の目

【抽象的な目のデザイン、または目の写真があるだけで、社会的規制の効果があることを示す実験の事例がある。監視の目と、善悪の関する噂話や評判が、社会的規制に大きな影響力を持っている。(ジョシュア・グリーン(19xx-))】

 「ケヴィン・ヘイリーとダニエル・フェスラーは次のような実験を行った。実験に参加してくれた被験者の半分に10ドルを渡した。お金を受け取った幸運な被験者は、彼らほど幸運ではなかった被験者に、10ドルの一部か全部を与える、もしくはまったく与えないという選択をする。これは、選択する側がお金の分配を完全に支配するため「独裁者ゲーム」と呼ばれている。実験は最初から最後まで匿名で、ネットワークでつながったコンピュータを通して行われるため、被験者たちには、誰が誰にいくら渡したかはわからない。この実験では、鍵となる操作はじつにさりげなく行われる。半数の独裁者が利用するコンピュータのモニターの「壁紙」には、図2-3に示すような一対の目が表示されている。もう半数の独裁者は対象条件群で、研究室のロゴが記された標準的な壁紙を見たのだった。
 標準的な壁紙を見た人のうち、お金を分けたのは約半数(55パーセント)に留まった。一方、目を見た人は、圧倒的多数(88パーセント)がお金を分けた。これに続くフィールド実験では、購買者が適当と思われる金額を箱に入れて飲み物を買っていく無人販売所を利用した。目の写真があると、牛乳に対して支払われるお金は二倍以上になった。
 誰もが知るように、人間は見られていると思うと、つまり《自意識》を感じると行いがよくなる。ここで驚きなのは、目の写真という、意味のない、低レベルの合図が、人に最善の行動をとらせうることだ。「意味がない」というのは、この合図を見て意識的に反応しようと思う人はいないはずだからだ。「人の目の絵が貼ってあるから、牛乳代を払うことにしよう」という人はいない。むしろこれは自動化されたプログラム、すなわち効率的な道徳マシンの一部の仕業なのだ。
 監視の目が私たちに大きな影響力をもつとしたら、それは、監視の目がほぼ間違いなく、おしゃべりな口とつながっているからだろう。人類学者のロビン・ダンバーによれば、人間の会話時間の約65パーセントは他者のよい行いや悪い行いに関するもの、要するに《ゴシップ》に費やされているのだそうだ。ダンバーいわく、私たちが膨大な時間をゴシップに費やすのは、人類にとってゴシップは、社会的規制を行う、すなわち協力を強化する、重要なメカニズムだからだそうだ。実際、あなたが何をしでかしたかを「みんな」が知るという見通しは、よからぬ行動を思いとどませる強力な動機になる。さらに、人は噂話が《できる》だけではない。噂話は《自動的に》発生するらしい。多くの人にとって、噂話を《しない》でいるにはたいへんな努力が必要なのだ。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),pp.59-60,竹田円(訳))
(索引:監視の目)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

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03.見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

論証における原理の作用の特徴

【見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(1)原理には、重みとか重要性といった特性がみられ、それを有意味に問題にし得る。
 (1.1)複数の原理が抵触しあうとき、相対的な重みを考慮に入れる必要がある。
 (1.2)ただし重みには、精確な測定などあり得ず、特定の原理や政策が他より重要であるという判断は、しばしば議論の余地あるものとなる。
(2)これに対して、二つの法準則が抵触することはあり得ない。見掛け上抵触する場合にも、法体系にはこの種の抵触を規律する別種のルールが存在する。例として、
 (2.1)高次の権威が制定した法準則の優先
 (2.2)後に確立された法準則の優先
 (2.3)あるいは、より特殊な法準則の優先
 (2.4)その他の類いの法準則の優先
 (2.5)法体系によっては、より重要な原理に支持された法準則を優先

 「法準則と原理の以上の相違には次のような別の相違が含まれている。原理には法準則にはない特性、つまり重みとか重要性といった特性がみられる。複数の原理が抵触しあうとき(たとえば、自動車の消費者を保護する政策と契約自由の原理が相互に抵触するとき)、この抵触を解決すべき者は両者の相対的な重みを考慮に入れる必要がある。もちろん、これは精確な測定などありえず、特定の原理や政策が他より重要であるという判断は、しばしば議論の余地あるものである。しかしそれにもかかわらず、重みという特性をもつことや、重要性や重みの度合を有意味に問題にしうることは、原理概念の本質的要素なのである。
 ルール一般には、この特性がない。我々はルールについて、それが「機能的」に重要か否かを問題にすることはできる。(三振はアウトであるという野球のルールは、ボークのとき走者は塁を進めることができるというルールより重要である。後者のルールを変えるより前者のルールを変えた場合の法が、ゲーム自体に大幅な変化が生ずるからである。)この意味でならば、あるルールは他のルールよりも行動を規律する点でより重大かつ重要な役割を有し、したがってそれ自体より重要な法準則と言えるだろう。しかし同一のルール体系の内部で、あるルールが他のルールより重要であり、したがって二つのルールが抵触するとき、一方がより重要であるという理由で他方のルールにとって替わる、というようなことはあり得ない。
 二つの法準則(法的ルール)が抵触すれば、どちらか一方は妥当する法準則ではありえない。どちらが妥当しどちらが放棄ないし修正さるべきかの決定は、法準則自体を超えた考慮へと訴えることによりなされなければならない。法体系にはこの種の抵触を規律する別種のルールが存在することがあり、このルールによって高次の権威が制定した法準則や後に確立された法準則、あるいはより特殊な法準則その他これに似た類いの法準則に優位が認められ、また法体系によっては、より重要な原理に支持された法準則を優先させる場合もあるだろう(我々の法体系はこれら両者の技術を利用している)。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,3 法準則・原理・政策,木鐸社(2003),pp.20-21,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:論証における原理の作用の特徴)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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3.「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

「せざるを得ない」と「責務を負っている」

【「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)「せざるを得ない」
 (1.1)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
 (1.2)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
 (1.3)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
(2)「責務を負っている」
 (2.1)信念や動機についての事実は、必要ではない。
 (2.2)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
 (2.3)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。

 「人があることを《せざるをえなかった》'was obliged to'という主張と、彼はそれをなす《責務を負っていた》'had an obligation'という主張には、なお説明されるべき違いがある。

前者はしばしば行動を行なうさいの信念や動機についての陳述である。Bは金を渡さざるをえなかったということは、拳銃強盗の場合のように、もし彼はそうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果がふりかかるだろうと信じ、これらの結果を避けるためそうしたということを意味するにすぎないだろう。このような場合、行為者が従わなければ自分に何が起こるかという予測から、事情が別であれば彼がやってしまおうと思っていたであろうこと(金を保持しておくこと)もできなくなる。

 あることをせざるをえないという観念の解明は、さらに二つの要素が加わることによって少し複雑にされている。

威嚇された害悪が、常識によれば、命令に従った場合にBまたは他人がこうむる不利益や重大な結果に比べて些細な場合には、Bは金を渡さざるをえないと考えるべきではないのは明らかであろう。

たとえば、単にAがBをつねるぞとおどす場合にはそれにあたるだろう。また、Aが比較的重大な害悪をもたらす威嚇をたぶん実現できるし、また実現するだろうと考えるにたる十分な根拠がない場合も、Bはせざるをえなかったとおそらく言うべきでない。

しかし、この観念は、害悪の比較についての常識や蓋然性についての十分な評価に言及しているけれども、人はある人に従わざるをえなかったという陳述は、主として行動がなされた場合の信念や動機についての心理的な陳述である。

しかし、ある人があることをする《責務を負っていた》という陳述は、それと非常に違ったタイプのものであり、そしてこの差異は多くのことで示されている。

たとえば、拳銃強盗の場合におけるBの行動、信念と動機についての事実は、Bは彼の財布を渡さざるをえなかったという陳述が真実であるためには十分であるが、彼はそうする責務を負っていたという陳述が真実であるためには《十分ではない》という場合がこれにあたる。

さらに、この種の事実、つまり信念や動機についての事実は、人があることをする責務を負っていたという陳述が真実であるためには《必要でない》ということもまたそうである。

このように、人がたとえば、真実を告げるか、兵役につく責務を負っていたという陳述は、たとえ彼が見つけ出されないと(十分な根拠をもってまたは根拠なしに)信じ、そして不服従からくる恐怖を何らもっていなかったとしても、その陳述は真実であることにかわりない。

その上、彼はこの責務を負っていたという陳述は、彼が実際に兵役についたかどうかの問題とはまったく無関係であるが、他方ある人はあることをせざるをえなかったという陳述は、普通彼は現実にそうしたという含みをもっている。」

 「拳銃強盗の場合には、あることをせざるをえないという、より単純な観念はそこにある諸要素でうまく定義されるだろうが、そこでは責務を見つけることはとうていできない。

責務の法的形態の理解に不可欠な前提である責務の一般的観念の理解のために、われわれは拳銃強盗の場合と異なって、社会的ルールの存在を含んでいる社会的状況を調べなければならない。

というのは、この状況が次の二つの点で人が責務を負っているという陳述の意味を明らかにするのに助けとなるからである。

第一に、あるタイプの行動を基準とするようなルールの存在は、責務を負うという陳述に対するそれと明言されてはいないが、通常の背景ないし適切な前後関係となっている。

第二に、そのような陳述に特有な機能は、特定の個人の場合がこの一般的ルールに当てはまっているという事実に注意を促すことによってその人にそのルールを適用することである。

すでに第4章で見たように、何らかの社会的ルールが存在するところには、規則的な行為と、その行為を基準とする特有な態度の結合がみられる。

われわれは、また、社会的ルールが社会的習慣と主にどのようなところで違っているか、そして、どのようにしてさまざまな規範的な言葉(「するのが当然である」'ought'「しなければならない」'must'「すべきである」'should')が、基準やそれからの逸脱に注意を促したり、基準にもとづいているだろう要求、批判、認容をなすために用いられているかを見てきた。

この規範的な言葉の部類のなかで、「責務」「義務」という言葉は重要な下位の部類となっており、それは他には普通みられない、ある含みをもっているのである。

したがって、社会的ルールを単なる習慣から一般に区別する要素を把握することは、責務または義務の概念の理解には、たしかに欠くことができないけれども、それだけでは十分ではないのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),
『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.92-95,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:せざるを得ない,責務を負っている)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月18日木曜日

「囚人のジレンマ」ゲームの多様な戦略を実装したコンピュータプログラムの総当たり戦で、最も成績が良かったのは、協力する相手に対しては協力し、裏切られたら裏切るという「しっぺ返し」戦略であった。(ロバート・アクセルロッド(1943-))

「しっぺ返し」戦略

【「囚人のジレンマ」ゲームの多様な戦略を実装したコンピュータプログラムの総当たり戦で、最も成績が良かったのは、協力する相手に対しては協力し、裏切られたら裏切るという「しっぺ返し」戦略であった。(ロバート・アクセルロッド(1943-))】

「囚人のジレンマ」ゲームの多様な戦略を実装したコンピュータプログラムの総当たり戦で、最も成績が良かったのは、「しっぺ返し」と呼ばれる次のアルゴリズムである。
(1)まず協力する(すなわち、黙秘する)。
(2)相手が前回に行なったことを、そのまま繰り返す。すなわち、
 (2.1)前回相手が協力していれば、今回も協力する(黙秘する)。
 (2.2)前回相手が裏切れば、今回は裏切る(自白する)。

(出典:personal.umich.edu
ロバート・アクセルロッド(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロバート・アクセルロッド(1943-)
検索(ロバート・アクセルロッド)
 「1980年代初頭、政治学者のロバート・アクセルロッドと進化生物学者のウィリアム・ハミルトンは、「囚人のジレンマ」の総当たり戦の結果を報告する、古典的な論文を発表した。参加者は人間ではなくアルゴリズム、すなわち「囚人のジレンマ」ゲームの多様な戦略を実装したコンピュータプログラムだった。もっとも単純な二つの戦略は、つねに協力する(つねに黙秘する)か、けっして協力しない(つねに自白する)というものだ。(非協力はふつう「裏切り」と呼ばれる。)アクセルロッドとハミルトンは、研究者たちに、総当たり戦に参加するプログラムの提出を呼びかけた。多くのプログラムは非常に複雑だったが、優勝したのはアナトール・ラパポートが提出した、「つねに協力する」と「けっして協力しない」と同じくらい単純な戦略を採用したプログラムだった。「しっぺ返し」と呼ばれるこのプログラムは、まず協力し(黙秘する)、その後、相手が前回に行なったことをそのままくり返す。相手が前回協力すれば協力する。協力しなかったら協力しない。だから「しっぺ返し」なのだ。近年「しっぺ返し」に辛勝するプログラムも出てきたが、これらもすべて「しっぺ返し」を変形したものだ。互恵性は非常にうまくいく。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),pp.42-43,竹田円(訳))
(索引:「しっぺ返し」戦略)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

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02.論証における原理の作用の特徴:(a)特定の決定を必然的に導くことはない、(b)論証を一定方向へ導く根拠を提供する、(c)互いに逆方向の論証へと導くような諸原理が、相互に作用しあう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

論証における原理の作用の特徴

【論証における原理の作用の特徴:(a)特定の決定を必然的に導くことはない、(b)論証を一定方向へ導く根拠を提供する、(c)互いに逆方向の論証へと導くような諸原理が、相互に作用しあう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 特定の原理が、我々の法に内在する原理であるとは、公務担当者が何らかの方向へと結論を導く際、当の原理を顧慮しなければならないことを意味する。
 そして、論証における原理の作用の特徴は、
(a)原理は、特定の決定を必然的に生みだすようなことはない。すなわち、特定の前提的諸条件があれば、必然的に原理が適用されるというような前提条件が提示できるわけではない。
(b)原理は、論証を一定方向へと導く根拠を提供する。
(c)ある原理とは異なる方向へと論証を導く、他の原理もあるが、法的論証においては、これら諸原理が相互に作用しあいながら決定へと導く。

 「いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、といった原理は、この原理の適用を必然的に要求するような前提的諸条件を提示することさえない。むしろこれは、論証を一定方向へと導く根拠を提供するのであり、特定の決定を必然的に生みだすようなことはない。もしある人間がある財を保持し得るか否かを決定する際に法が考慮する一つの根拠となる。この原理とは異なる方向へと論証を導く他の原理や政策もあるだろう。――たとえば、法的権限を保障しようとする政策や、立法府が定めた事項に刑罰を限定する原理などがそうである。もしそうであれば、我々の原理が無視されても、だからといってこの原理が我々の法体系の原理ではないということは意味しない。後の事例においてこの原理と抵触する他の考慮事項が不在ないしは重きをなさず、当該原理が決定的となることもありうるからである。特定の原理が我々の法に内在する原理である、と言われるとき、その意味するところは、もしそれが当該事案に関連するのであれば、公務担当者は何らかの方向へと結論を導く考察対象として当の原理を顧慮しなければならない、ということに尽きるのである。
 法準則と法的原理の論理的区別は、法準則とは少しも類似していない原理を考察すれば更に明瞭なものになる。ヘニングセン事件の判決意見の抜粋(d)に記された命題、つまり「製造業者は自動車の製造、宣伝、販売に関し特別な義務の下におかれている」という命題を考えてみよう。この命題には、この種の特別な義務にはどのような具体的義務が含まれるかを明確にしたり、自動車の消費者がこの結果どのような権利を取得するかを提示しようとする趣旨さえ認められない。この命題はただ――そしてこれがヘニングセン事件の論証の本質的な連結点なのだが――自動車製造業者は他の製造業者よりも高度に厳格な規準に服さなければならず、契約の自由という競合的原理を盾にとることが相対的に認められにくいことを示すのみである。これは、彼らが契約自由の原理を決して援用し得ないとか、裁判所は任意に自動車売買契約を修正しうるといったことを意味するのではない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,3 法準則・原理・政策,木鐸社(2003),pp.19-20,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法的論証における原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2.社会的ルールには、義務を要求する第1次的ルールと、ある行為や発話によって第1次的ルールを創設したり変動させたりする第2次的ルールがある。(ハーバート・ハート(1907-1992))

第1次的ルールと第2次的ルール

【社会的ルールには、義務を要求する第1次的ルールと、ある行為や発話によって第1次的ルールを創設したり変動させたりする第2次的ルールがある。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)第1次的ルール(基本的ルール)
 (1.1)ルールは、義務を課する。人々はある行為を為したり、差し控えることを要求される。
 (1.2)ルールは、物理的動きや変化を含む行動に関係する。
(2)第2次的ルール
 (2.1)人々がある事を行なったり述べることによって、第1次的タイプの新しいルールを導入し、古いルールを廃棄、あるいは修正したり、様々なやり方でその範囲を決定したり、それらの作用を統制することができるように定める。
 (2.2)ルールは、公的または私的な権能を付与する。
 (2.3)物理的動きや変化だけでなく、義務や責務の創設や変動のきっかけとなる作用を用意する。

 「失敗の根本原因は、理論の構成要素、すなわち命令、服従、習慣、そして威嚇という観念がルールの観念を含まず、またそれらをよせ集めたところでルールの観念を生み出しえないところにある。それなのに、このルールの観念なしには法のもっとも原初的な形態でさえ説明しえないのである。

たしかにルールという観念は、決して単純な観念ではない。もし法体系の複雑性に対して正当な取り扱いをしようとするなら、二つの関係しているが異なったルールのタイプを区別する必要があることは、すでに第3章で見たとおりである。

一つのタイプのルールは基本的または第1次的なタイプとして考えてよいであろうが、これによって人々は望むと否とにかかわらずある行為をなしたりあるいは差し控えることを要求される。

他のタイプのルールはある意味では第1のタイプに寄生し、あるいはそれに対して2次的である。というのは、それらのルールは、人々がある事を行なったりのべることによって、第1次的タイプの新しいルールを導入し、古いルールを廃棄、あるいは修正したり、さまざまなやり方でその範囲を決定したり、それらの作用を統制することができるように定めるからである。

第1のタイプのルールは義務を課する。第2のタイプのルールは公的または私的な権能を付与する。第1のタイプのルールは物理的動きや変化を含む行動に関係する。第2のタイプのルールは物理的動きや変化だけでなく義務や責務の創設や変動のきっかけとなる作用を用意する。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第1節 新たな出発,p.90,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:第1次的ルール,第2次的ルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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